出エジプト記15章から学びます。
Ⅰ.モーセの歌(1-18)
まず1~18節までをご覧ください。1~3節をお読みします。
「 そのとき、モーセとイスラエルの子らは、主に向かってこの歌を歌った。彼らはこう言った。「主に向かって私は歌おう。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」
「そのとき」とは、主がイスラエルをエジプト人の手から救われたときです。主は圧倒的な御業で、
イスラエルをエジプト人の手から救われました。イスラエルは、主がエジプトに行われた、この大いなる御力を見て、主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。そのときです。
モーセとイスラエルの子らは、主に向かって歌いました。まずモーセは、「主に向かって歌おう」と、民に呼びかけています。それは、「主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた」からです。まことに、「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。」と。
モーセはここで、神がどのような方なのかを歌いました。主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、その名は「主」です。「主」とは、「わたしは、あるというものである」という意味でしたね。他の何ものにも依存しなくても存在することができる方、自存の神です。ここで重要なのは、この主は私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神であると言っていることです。つまり彼らは、神を体験したのです。その結果、父祖の神として認識していた方を、「わが神」として認識するようになりました。
この「神を知る」ということが重要です。単に、神がどのような方であるのかを頭で知るということ以上に、この方を自分の救い主として体験することです。パウロは、エペソ1:17~19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」
あなたは、神を知っているでしょうか。私たち神を信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができるように祈りましょう。
次に4-10節までをご覧ください。
「主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれた。選り抜きの補佐官たちは葦
の海に沈んだ。深淵が彼らをおおい、彼らは石のように深みに下った。主よ、あなたの右の手は力に輝き、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなるご威光によって、向かい立つ者たちを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それが彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。敵は言った。『追いかけ、追いつき、略奪したものを分けよう。わが欲望を彼らによって満たそう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈んだ。」
主はファラオの戦車とその軍勢を海の中に投げ込まれました。彼らが葦の海に沈んだのはどう
してでしょうか。それは、主が右の手で敵を打ち砕かれたからです。8節には、「あなたの鼻の息で水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった。」とあります。「鼻の息」とは、強い東風のことです。東風は自然現象ですが、それによって、「水は積み上げられ、流れは堰のようにまっすぐに立ち、大水は海の真ん中で固まった」というのは、超自然現象です。主がその風を吹かせると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大いなる水の中に沈みました。
次に11-18節をご覧ください。
「主よ、神々のうちに、だれかあなたのような方がいるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって輝き、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行う方がいるでしょうか。あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らを呑み込んだ。あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民も、もだえ苦しんだ。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者たちを震えが襲い、カナンの住民の心はみな溶け去った。恐怖と戦慄が彼らに臨み、あなたの偉大な御腕により、彼らは石のように黙った。主よ、あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られた民が通り過ぎるまで。あなたは彼らを導き、あなたのゆずりの山に植えられる。主よ、御住まいのために、あなたがお造りになった場所に。主よ、あなたの御手が堅く建てた聖所に。主はとこしえまでも統べ治められる。」」 主なる神と他の神々とを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通り過ぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしてもできません。そうです、主は全能者なのです。であれば、私たちはいったい何を怖がる必要があるでしょうか。神が、このように偉大な方であることを知るならば、何も怖がることなどありません。
そして、神はただ力ある方であるというだけでなく、13節には、この方は恵みをもって導き、御力をもって、あなたの聖なる住まいに伴われました。この「恵み」という語は、ヘブル語では「ヘセッド」という語ですが、これは非常に重要な概念を含んでいる語です。これはただ「恵み」というだけでなく、神の契約に基づく「恵み」のことです。神は、アブラハム契約をいつまでも覚えておられ、その約束を忠実に守ってくださるお方であるということです。モーセはここで、この「ヘセッド」を思い起こし、将来において大きな希望を見いだしているのです。そして、17節にあるように、主は彼らを導き、彼らをゆずりの山に植えられます。「ゆずりの山」とは「相続の山」のことで、約束の地のことを指しています。つまり、主は彼らを約束の地に導かれるということです。そして、そこで主は、とこしえまでも統べ治められるのです。
これはすべて主の恵みによるのです。そして、この恵みは、私たちにも注がれています。ローマ10:12には、「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。」とあるからです。この主を呼び求めましょう。そして、この主に感謝しましょう。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまでです(詩篇107:1)。
Ⅱ.ミリアムの歌(19-21)
次に、19-21節までをご覧ください。ここにはモーセの姉ミリアムの歌が記されてあります。 「ファラオの馬が戦車や騎兵とともに海の中に入ったとき、主は海の水を彼らの上に戻された。しかし、イスラエルの子らは海の真ん中で乾いた地面を歩いて行った。そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た。ミリアムは人々に応えて歌った。「主に向かって歌え。主はご威光を極みまで現され、馬と乗り手を海の中に投げ込まれた。」
出エジプトにおいて重要な役割を果たしたのはモーセとアロンですが、ミカ6:4を見ると、彼らだ
けでなく、彼らの姉ミリアムもまた指導的な役割を果たしていたことがわかります。彼女もまた、主がファラオの馬や戦車、騎兵を海の中に沈めたとき、そして、イスラエルが海の真ん中で乾いた地面を歩いて行ったとき、この歌を歌いました。彼女はただ歌ったのではなく、踊りながら賛美しました。ここには、アロンの姉、女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちもみなタンバリンを持ち、踊りながら彼女について出て来た、とあります。ミリアムは、このとき90歳を越えたおばあさんになっていましたが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえたのです。
21節のことばは、1節と同じ内容です。おそらくコーラスになっていたのでしょう。古代世界では、儀式的な踊りや歌は、男女別々に行いました。モーセは男たちの賛美の先頭に立ち、ミリアムは女たちの賛美の先頭に立ったのです。
ここでミリアムは、「アロンの姉、女預言者ミリアム」とあります。なぜ「モーセの姉」ではなく、「アロンの姉」と書かれているのでしょうか。恐らく、モーセは幼い頃から家を出てエジプトの王宮にいたために、ミリアムはアロンの姉としてイスラエルの民の間に知られていたのでしょう。「女預言者」という言葉は、ここで初めて出てきます。彼女は、そのような指導的な役割が与えられていたということです。。
いずれにせよ、モーセも、アロンも、ミリアムも、イスラエルの民を指導する立場にありましたが、彼らは主をほめたたえ、主を心から賛美しました。指導者にとって、特に、主をほめたたえることが重要です。主が自分の人生においてなしてくださった恵みのみわざを思い起こし、また、今、様々な困難な中にあっても、主が勝利を与えてくださることを信じて、主をほめたたえましょう。
Ⅲ.マラでの体験とエリムでの体験(22-27)
さて、このようにイスラエルの民は主の大いなる恵みによって葦の海から旅たちました。しかし、それはバラ色の世界ではなく、すぐに困難が彼らを襲いました。22-27をご覧ください。
「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。モーセが主に叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
イスラエルの民は、主の奇跡的なご介入によって、紅海を渡ることができました。そして、そのように勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌いました。さあ、いよいよ荒野の旅が始まります。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。しかし、その後彼らはすぐにつぶやくことになります。彼らには水が見つかりませんでした。3日間水を飲めないのは辛いということを越えて、命の危険が伴います。3日間という言葉は、生死にかかわる時によく使われる言葉でもあります。その3日間歩いても、水が見つからなかったのです。そして、「マラ」に来た時に水がありましたが、そこの水は苦くて飲めませんでした。その時、イスラエルの民はどうしたでしょうか。24節には、「民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。」とあります。3日前に喜び踊った民が、モーセに対してつぶやいたのです。彼らは、紅海の奇跡から教訓を学んだはずなのに、全然身についていませんでした。しかし、それはイスラエルの民だけではありません。それは私たちも同じです。調子がいい時は喜べますが、そうでないとすぐに不平をもらしてしまいます。それが習慣化しています。すぐに不平が出るのです。このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、神のさばきを招くことになります。私たちは、このイスラエルの民の失敗から教訓を学ぶ必要があります。
さて、その民のつぶやきに対して、モーセはどうしたでしょうか。モーセは、すぐに主に祈りました。すると主は一本の木を示されたので、モーセがそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなりました。その木に癒しの力があったというよりも、モーセの信仰が、超自然的な神の力を引き出したということです。このようなことが、これ以降のイスラエルの荒野の旅において何回も繰り返されることになります。それは、彼らがそのことによって、主が自分たちの必要を満たしてくださる方であるという教訓を学ぶためでした。しかし、のど元過ぎれば熱さ忘れるで、自分たちの必要が満たされるとすぐにその教訓を忘れてしまうということの繰り返しでした。
しかし、それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちも同じです。私たちも人生の荒野においてイスラエルの民のように苦しくなるとすぐにつぶやいてしまいます。その中で主が私たちの必要を満たしてくださるのに、すぐにその恵みを忘れ、つぶやきを繰り返してしまうのです。私たちは、この人生の荒野の中で、信仰の教訓を学びましょう。26節、「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
どんなに苦しくても、主の御声に聞き従いましょう。そのとき、主はエジプトで下したような病気は何一つ下しません。主は、私たちの癒し主であると信じて、この方に信頼し、その声に聞き従いたいと思います。
「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。」(27) こうして彼らはエリムに着きました。「エリム」とは、「なつめやし」という意味です。なつめやしのあるところに、水の泉があります。そこは砂漠のオアシス、完璧なやすらぎの場所です。そこには12の泉と70本のなつめやしの木がありました。12も70も完全数です。イスラエルは、その水のほとりに宿営することができたのです。これまでの荒野の旅の後に行き継いだオアシスですから、どれほど癒されたことかわかりません。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる恵みであり、私たちの信仰の歩みです。マラがありますが、その後でエリムがあります。ですから、マラでとどまるのではなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。そのとき、私たちも完全な癒しを体験することができるのです。