きょうは、イザヤ書3章のみことばからご一緒に学んでいきたいと思います。タイトルは「取り除かれる神」です。2章の最後のところでイザヤは、「鼻で息をする人間をたよりとにするな。」と警告しましたが、きょうのところには、そうした人間にたよることがどんなに値うちがなことなのかを示すために、彼らがささえとし、たよりとしていたものが取り除かれるのです。
きょうはこの「取り除かれる神」について、三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神はささえとたよりを除かれるということです。第二のことはその結果です。信頼の対象を間違えた結果、国全体に悲劇と混乱が臨みます。第三のことは、しかしそのような中にあっても、悔い改める者は神のあわれみを受けるということです。
Ⅰ.取り除かれる神(1-3)
まず1節から3節までをご覧ください。「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。-すべて頼みのパン、すべて頼みの水、勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。」 まず神様が取り除かれるのは何でしょうか?ここに「すべての頼みのパン、すべての頼みの水」とあります。「すべての頼みのパン、すべての頼みの水」とは、私たちの生活に欠かせないものです。私たちは毎日当たり前のように食べ、当たり前のように水を飲んでいますが、実はこうした食べ物や飲み水は神様によって与えられているものなのです。にもかかわらず、それがあたかも自分の力で得ることができると考え、神様なしでも生きられると思っている彼らから、神はすべての食料を取り除かれるのです。
それだけではありません。2節には、「勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老」とあります。「勇士と戦士」とは軍事的指導者や兵士たちを指します。日本にも自衛隊がありますが、そのような人たちによって私たちは回りの国々の攻撃から守られているわけです。それから「さばきつかさと預言者」です。これは政治家であり、これからの方向性を示していく人たちです。ここに書かれてある預言者とはどういう意味なのかははっきりわかりません。イスラエルが神ではなく人間をたよるようになった結果預言者が必要なくなったので取り除かれるのか、あるいは、預言者自身が堕落したため取り除かれるということなのか、はっきりわかりません。おそらくここではさばきつかさとの関係で挙げられているので、ここでは国の方向性を指し示す存在としての預言者ということでしょう。そういう人たちも取り除かれるのです。国にとっても、教会にとってもそうですが、こうしたリーダーが取り除かれるということは全体の統一が損なわれるということであって、憂慮すべきことです。しかし、このような人たちも除かれるのです。
それからここには「占い師と長老」とあります。占い師と長老が一つの組になって出てくるのはおもしろいですね。占い師と長老にどんな共通点があるのでしょう。この両者に共通していることは、安心感を与えるということです。人間はだれとも不安を持っているわけです。その不安を聞き、方向性を指し示してくれるのが占いしであり、長老なわけです。実際に若い女性などは、まあ男性もそうですけれども、自分が将来どうなるかがすごく不安なわけですよね。どんな仕事に就いたらいいのか、恋愛はどうなるのか、結婚はどうしたらいいのか、そのような不安を抱えているわけですが、それに答えてくれるのが占い師であり、長老なわけです。「はい、あなたはこういう運命線がありますね。だからこの年にこういう人と会いますよ。その人と結婚しなさい。そうしないとねあなたは二度と婚期はやってきません。次に来るのは75のま時です・・・」なんて。長老は占い師とは立場は違いますが、とても尊敬できる人なので、自分の悩みなどとを相談するわけです。そういう人を取り除かれるのです。
それから「五十人隊の長と高官」です。五十人隊の長というのは警官みたいな人たち、高官とは役所に勤めているような人たちです。こういう人たちがいるので、私たちは安心て生活することができるわけですが、このような人たちも除かれるというのです。
そして、「議官と賢い細工人」ですね。これは技術者たちのことです。建築、土木関係、工業関係の技術者たちです。現代ならば、さしづめ科学者たちというところでしょう。日本は特に技術立国でしょ。こういう技術で世界と戦ってきたわけです。このような技術が取り除かれたら何もなくなってしまいます。そういう技術者たちも除かれるのです。
それから、「巧みにまじないをかける者」も除かれます。これは偶像を造っている人たち、また呪いをかける人たちのことです。
こうした一つ一つを主は取り除かれると言われるのです。これはやがてバビロンの王ネブカデネザルによって成就します。Ⅱ列王記24章14節をご覧ください。
「彼はエルサレムのすべて、つまり、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。」
とあります。バビロンの王ネブカデネザルが捕囚としてエルサレムからバビロンにこうした人々を捕らえ移したことで実現するのです。B.C.605年のことです。けれどもこれはバビロンによる捕囚だけでなく、この世の終わりの時代にもたらされる預言でもあるのです。大患難時代と呼ばれる時が来ると、こうしたものが取り除かれるのです。 いったいなぜこのようなことが起こるのでしょうか?神にたよらないで人間にたよるからです。目に見えるものにたよるからです。ユダの過ちは、偽装された「ささえとたより」に依存したことでした。イザヤは前の章のところで、「鼻で息をする人間をたよりにするな」と警告しましたが、そこに問題があったのです。人は、神が与えてくださったものと神をを混同し、いつしか神よりもそうした物に信頼し、神を蔑ろにするようになったのです。神に信頼すべき時に、人間的なものに頼るようになってしまいました。私たちは本来の神との関係を見失ってはならないのです。
Ⅱ.信頼の対象を間違えた結果(4-7)
では、そのようなささえとたよりが除かれると、どんなことが起こるのでしょうか。次にその結果を見ていきたいと思います。4節から7節までをご覧ください。ここには、「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」とあります。
ユダの民が頼りとするすべてのものが除かれた結果、ユダに悲劇的なことが起こります。ユダを治めていた指導者が変わり、経験のない未熟な指導者が立てられます。若い者たちが彼らのつかさとなり、気まぐれな者が彼らを治めるようになるのです。これは若い人を誹謗しているのではありません。この若さというのは年齢的な若さのことよりも、経験がないこと、未熟であること、能力や資質がないことを表しています。気まぐれで、自分のことにしか関心がない無情な者たちが国を治めるので、国は混乱に陥るのです。
そのため、仲間同士で相しいたげるようになり、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶります。尊敬や信頼が無くなり、争いが絶えなくなるのです。そして6節にあるように、誰でもいいからこの乱れた世の中をちゃんと治めてくれ、と叫ぶようになるのです。ここには、「そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」とあります。「着る物」とは、ごく一般の洋服のことです。トライアルとか、しまむらとか、ユニクロとか、別に宣伝しているわけではありませんが、そうしたお店で買えるような衣服のことです。そうした衣服を持っているというだけで、その人に自分たちの首領になってくれと頼むようになるわけです。頼まれた方も頼まれた方で、自分たちにはそんな力量も志しないのにできるわけがないでしょと言って、逃げ出してしまう始末です。「その日、彼は声を張り上げて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」と。何が起こってもだれも責任を取りません。神様よりも人に、世の中にたよったことによって、国は混乱し、悲惨な結果を招くことになったのです。
Ⅲ.義人は幸いである(8-15)
ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、悔い改めて、主に立ち返ろうということです。8-15節をご覧ください。
「これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。彼らの顔つきが、そのことを表している。彼らは罪を、ソドムのように現して、隠そうともしなかった。ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座に入る。「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。―万軍の神、主の御告げ―」
ここに社会が乱れ、人々の心が不安になり、町全体が荒廃する原因が示されています。それは、彼らが主に逆らったからです。彼らの舌と行いとが主にそむき、主のご威光に逆らったからなのです。箴言14章34節に、「正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」とありますが、まさにそのとおりです。人々は神に背いて自分勝手に生きるようになってしまいました。それが問題なのです。傲慢な人間はこれを自由と呼びますが、それは自由どころか錨のない船であり、糸の切れた凧のような不安定なものなのです。そして、その時から人生の漂流が始まるのです。
そのような人たちは、9節にあるように、罪を恥じることもありません。創世記19章に出てくるソドムの人たちのように、罪を隠そうともしません。創世記19章に出てくるソドムの人たちは、ロトのところにやって来た二人の神の使いを連れ出せとロトに言いました。自分たちは彼らをよく知りたいのだ・・・と。この「知りたい」というのは性的に知りたいということです。男が男を知りたいというのは男色、ホモセクシャルのことですが、彼らはそういう口に出すことも恥ずかしいことを、堂々と言ったのです。
しかし、そのようなイスラエルに対して、神は慰めのことばを語ります。それが10節と11節のことばです。ご一緒に読んでみましょう。
「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。」
どういうことでしょうか?それでもなお、主なる神に従う人は幸いであるということです。なぜなら、彼らは主の御前にあって、罪を悔い改めることの行いの報い、つまり神の憐れみを受けることができるからです。ところが、主なる神に逆らう悪人は、神の前にあって大きな災いを受けることになるでしょう。なぜなら、善人がその行いにおいて報いを受けるように、悪人もその行う悪によって、相応の神の裁きを受けるからです。
皆さん、神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(ローマ2:6-8)
ではどうしたらいいのでしょうか。罪(神に背いていた状態)を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として、また主として信じなければなりません。そして、人にではなく神に信頼しなければならないのです。それが義人という意味です。そのような人は、その行いの実を食べるのです。なぜなら、ローマ人への手紙3章23、24節に、次のように約束されてあるからです。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
すべての人は罪人であって、自分の力や努力によってはだれも義と認められることはできません。義と認められるには、神のひとり子であられるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちがどんなに努力しても、どんなに善いことをしても、自分の罪を償うことはできないのです。ただ十字架にかかって死なれ、私たちの罪の贖いとなってくださったイエス・キリストを信じることによってのみ、私たちの罪は赦され、義と認められるのです。この神の救いを受け入れなければなりません。
私たちの本当の問題は、問題が起こるとそれを自分自身で解決しようとすることです。自分の力で問題を解決しようとしているかどうかは、皆さんがいつも疲れているかどうかでわかります。自分の力で問題を解決しようとすると、イライラして疲れてしまいます。喜びに溢れて生きるより、敗北感を抱き、落ち込み、落胆するようになります。平安を保つよりも、緊張し、プレッシャーを感じてしまいます。忍耐を働かせるよりも、欲求不満になり、イライラしていろんな物や人にあたるようになるのです。人に親切にするよりも、すべてを自分のために行ってしまいます。良い模範になるよりも、自分には何の良いところもないと感じています。心優しく振る舞うよりも、怒りや不満を相手にぶつけてしまいます。それは、自分で解決しようとするからです。しかし、神様は私たちが問題を自分で何とかしようとすることをやめて、神に信頼するようにと願っておられるのです。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)
目の前の状況がどんなに悪くても、神様はその状況を一変させることがおできになります。人生がどんなに望みがないように見えても、神は希望をもたらすことができるのです。イエス・キリストを死からよみがえらせた力によって、神は問題の中に沈んでいる私たちを引き上げ、その問題を解決してくださるのです。
「信仰の人」と称されたジョージ・ミューラーは、一生の間に9,975人もの孤児を養いました。その間に、お金や食料が足りなくなったことが何千回もあったそうです。けれども、本当に必要に迫られたとき、彼はその必要をだれにも告げずにただ祈りました。すると神はいつも必ず必要なものを与えてくださいました。 1864年5月から翌年の5月までのことです。この孤児の家には、15の大貯水槽がありましたが、日照りのためにどの貯水槽にも水がなくなってしまいました。300人の子どもたちのために毎日、10キロリットルもの水が必要なのに、九つの深い井戸もかれて、そのうえ、今まで一度も枯れたことのない泉からも、ほとんど水が出なくなってしまったのです。 ジョージ・ミューラーは、職員や子どもたちと一緒にみんなで心を合わせて祈りました。天候も支配される神様に、「どうか雨を降らしてください」と祈りました。するとどうでしょう。彼らの必死の祈りとは裏腹に全く雨が降りませんでした。けれども神様は、雨を降らせてくださる代わりに、何人かの人の心を動かして、必要な水を与えてくださいました。まず、大きな井戸を持っている農家が協力してくれました。その農家の水が足りなくなると、今度は別の農家の人が、自分の畑のなかを流れる小川を分けてくれました。その人たちは、何も頼まなかったのに、進んで協力してくれたのです。雨が降って貯水槽に水がたまるまで、一日も欠かすことなく、必要な水が与えられました。
あなたの重荷も主にゆだねましょう。主に信頼しましょう。自分の努力に頼ることをやめて、人生を完全に主にゆだねましょう。そうすれば、主が私たちの内側にその実を結ばせてくださるのです。
「義人は幸いだと言え。彼らは、その行いの実を食べる。」のです。イエス様を信じて、神に信頼して生きる人は何と幸いでしょう。そういう人はその行いの実を食べるようになるのです
問題は、それをいつするかです。先送りしていると、いつか命取りになることがあります。「いつか歯医者に行こう。いつか手術しよう。いつか家族と過ごす時間を十分に取ろう。いつかもっと真剣なクリスチンになろう。いつか教会の働きに積極的に関わろう。いつか・・・」と思っているうちに、そのいつかがやって来ない時が来るのです。 大切なのは今です。今、主を信じ、今、すべてを主にゆだねると決心することです。そうすれば、今、この瞬間に、主の救いの恵みが始まるのです。