イザヤ書3章16節~4章6節 「聖めてくださる神」

きょうは3章16節から4章全体のところから、「聖めてくださる神」というタイトルでお話したいと思います。イスラエルが鼻で息をする人間をたよりにした結果、主は彼らがたよりとしていたものを除かれました。すべてのパン、すべての水、勇士や戦士、さばきつかさと預言者、こういったものが除かれたのです。その結果、ユダは混乱し、荒廃するようになりました。しかし、それで終わりではありません。神はそのようなイスラエルから汚れを取り除き、彼らを聖めてくださいます。きょうのところには、そのエルサレムの回復が語られています。

きょうは、この聖めてくださる神について三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは主はうわべではなく心を見られるということです。第二のことは、主は高ぶりを取り除かれます。第三のことは、主はそのような汚れを聖めてくださるということです。

Ⅰ.内面を美しく(3:16-23)

まず第一に、主は私たちの内面をご覧になられるということについて見ていきましょう。16節から23節までをご覧ください。16節には「主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」

どういうことでしょうか。ここで神は、エルサレムを一人の娘にたとえています。1章のところでは妻にたとえられていましたが、ここでは娘です。この娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴をならしながら小またで歩いていました。首をのばして歩くというのは気取って歩くということでしょう。色目を使って歩くとは、男性の関心を引こうとこびを使って歩くということです。足に鈴を鳴らしながら小またで歩いていう表現には、男性の関心を引こうとしていた姿がよく描かれています。もちろん、数々の宝石を身を飾り、厚化粧をしてのことです。17節を見ると、「それゆえ、主はシオンの娘たちの頭のいただきをかさぶただらけにし、主はその額を向きだしにされる。」とあります。そうした数々の装飾品をはぎ取り、べっとりと塗った厚化粧をはがされるのです。

18節から23節までのところには、そうした装飾品の数々がリストアップされています。全部で21もあります。足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、頭飾り、くるぶしの飾り、飾り帯、香の入れ物、お守り札、指輪、鼻輪、礼服、羽織、外套、財布、手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物、などです。ずいぶんありますね。これだけの装飾品を身に着けていたのです。

いったい何が問題だったのでしょうか。美しさを求めることが問題だったのではありません。美しさを求めることは与えられた人間の本能であり、創造の秩序です。最初の人間アダムとエバが罪に陥り、自分たちが裸であることを知って恥ずかしいと思ったとき、彼らはいちじくの葉をつづり合わせたもので腰の覆いを作りましたが、神は彼らのために自ら皮の衣を作って着せてやりました。(創世記3:21)。また、アブラハムは約束の子イサクの嫁リベカのために、金の飾り輪と金の腕輪を与え、さらに、銀や金の品物や衣装を贈っています。(創世記24:22,53)。また、ルツ記を見ると、ナオミは世継ぎを得るために、嫁のルツをボアズのところへ遣わす時、香水と晴着をまとわせました(ルツ3:3)。ですから装飾品や飾り物自体は悪ではなく、それらを身に着けることも罪ではありません。こうしたものは正しく用いるならば、祝福と喜びと感謝のために役立てられるのです。

ではいった何が問題だったのでしょうか?それは、そのように外側に表れる姿と内側に隠されている姿が不均衡であったことです。シオンの娘たちは、神のみこころにかなうことよりも、人々によく見られるために身を飾ることに神経を使い、贅沢に暮らしていたのです。それが問題でした。そして、そうした彼らの根本的な問題はどこにあったのかというと、16節に「シオンの娘たちは高ぶり」とあるように、彼らが高ぶっていたことです。彼らは高慢で、その関心はただ自分のことだけに向けられていたのです。彼らは神の民でありながら神のことよりも、この世のことで一杯だったのです。

イザヤは、この高ぶりが悪の根源であることを見抜いていました。それは虚栄心といった方がよいかもしれません。人間の高ぶりは過度の性的欲望とぜいたくな生活態度に現れてきます。「色目を使う」とか「小またで歩く」、「髪の輪飾り」「腕輪」ということばは、旧約聖書の中でここにしか使われていない独特のことですが、イザヤは、彼らがいかに高慢で虚栄を張っていたのかを、こうしたことばを使って表現しようとしていたのだと思います。

しかし、神様はシオンがこうした装飾品で身を飾り虚栄心を満足させるのではなく、心砕かれて、神と人を愛するようになることを願っておられました。ペテロ第一の手紙3章3,4節には、「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちないことのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」とあります。心の中のオシャレこそ、私たちが求めていかなければならないものなのです。

皆さんの美しさの基準は何でしょうか。人はうわべを見るが、主は心を見られます。私たちは主に喜ばれる心を求めていかなければなりません。柔和で穏やかな霊といった、心の中の隠れた人がらを飾りにしなければならないのです。

Ⅱ.高ぶりは砕かれる(3:24-4:1)

第二のことは、そのような高ぶりは砕かれるということです。3章24節から4章1節までをご覧ください。「こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「わたしたちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」

新改訳には訳されていませんが口語訳を見ると、24節には「・・に代わって」ということばが五回も繰り返して用いられています。すなわち、「芳香は代わって、悪臭となり、帯は代わって、なわとなり、よく編んだ髪は代わって、かぶろとなり、はなやかな衣は代わって、荒布の衣となり、美しい顔は代わって、焼き印された顔となる。」とあります。これは、今の状況に比べてどれほど悲惨的な状態になるかが表現されているのです。シオンの娘たちは、見た目の美しさや華やかさだけに心が奪われ神に信頼することをしなかったので、神はシオンの娘たちの頭のいただきをかさぶただらけにし、もろもろの飾りを取り除かれるので、見るも悲惨な姿になってしまうというわけです。

これはその後約100年後にバビロンによって捕らえ移されることで実現しました。その時ユダの女たちは身を飾る宝石など、すべての貴重品が没収されました。香水をつけていた人も何日も風呂に入れなかったので、腐った臭いになりました。身につけていた帯は彼らを縛るなわになり、そのなわに縛られてバビロンへと連れて行かれたのです。そして美しい髪も切られてはげ頭になり、晴れ着も悲しみを表す荒布になりました。その美しさは失せ果ててしまいました。

そればかりではありません。25,26節には、「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。」とあります。自分たちが頼っていた男たちが戦闘で倒れてその多くが死んで行くようになるというのです。「その門」の「門」とは行政を司るところですね、いわゆる役所のことです。そこに戦死者の情報がどんどん入ってくるので、そこで人々は嘆き悲しみ、深い悲しみが町全体を覆うようになるというのです。こうしてシオンはさびれ果てて地に座します。シオンは完全に荒廃するのです。

4章1節をご覧ください。「その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。『私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにしてください。わたしたちへのそしりを除いてください。』」と。どういうことでしょうか?戦いで多くの勇士が倒れてしまうため、少数の男性しか残らなくなるということです。その比率は女性7に対して男性が1です。そうなると女性たちが焦ってこう言うのです。「どんな男でもいいから結婚してほしい・・・。」そして、もし結婚できるなら生活のことは心配しないでください。生活のことは自分で何とかしますから。ただ何とか結婚してください。なぜそこまでして結婚したいのでしょうか?ここに、「私たちへのそしりを除いてください。」とありますが、そのようにして何とか面目を保ちたいからです。

結婚だけが人生のすべてではないのに、この娘たちにとってはそれがすべてでした。そこにしか希望を見いだすことができませんでした。旧約時代には結婚とか出産は神の祝福のしるしとみなされていたので、これがなかったら他の人に遅れを取ってしまうのではないかと思っていたからです。何とか体裁だけでも整えたかったのです。このような姿からも、彼らが外見だけを取り繕ろうとしていたことがわかります。

このように、彼らが誇っていたものはすべて身にまとうもので、内面を飾るには何の役にも立たないものばかりでした。そうしたものを誇りとして生きていたのです。そのようなものを誇りとしていると神は彼らをさばかれ、そのようなものを取り除かれるのです。そして、荒廃と嘆きがもたらされるのです。私たちはこうしたむなしい生き方から立ち返り、私たちにいのちを与え、豊かな恵みをもって守っておられる神の前に心砕かれ、へりくだって生きるものでありたいと願います。

Ⅲ.聖と呼ばれるようになる(4:2-6)

ところで神は、不信仰、不従順、偶像礼拝で汚れたエルサレムをさばかれるだけでなく、これを贖い、聖めることによって、神の都にふさわしくされます。それが4章2節から6節までのところに書かれてあることです。

「その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、イオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」

「その日」とは、世の終わりに、主が再臨されるときのことです。「主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。」ここには、神の救いの計画が「主の若枝」として表現されています。この「若枝」ということばは、メシヤの呼び名です。クリスマスに学びましたが、11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とありました。また、エレミヤ書23章5節にも、「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。」とありますが、これらはやがて来られる主イエス・キリストのことです。その日、すべての人の高ぶりは打ち砕かれ、絶望的な荒廃が地を覆いますが、神が送られたメシヤなる主の若枝(キリスト)は、麗しく、栄光に輝き、イスラエルののがれた者は、その恵みによって、地の産物を豊かにいただくようになるのです。

ここにまた出てきました。「のがれた者」ということばです。これは3節の「残された者」と同じです。この「残りの者」の思想はイザヤ書を一貫している重要なテーマで、何回も何回も繰り返して出てきます。(1:8-9、4:2-3、6:13、10:20-22、11:11,16、28:5,、37:31-32、46:3、49:6)それは彼が結婚して生まれた長男に「シュアル・ヤシュブ」という名前を付けたことからもわかります(イザヤ7:3-4)。シュアル・ヤシュブという名前の意味は、「残った者は帰ってくる」です。イスラエルは神の民でありながら、神を忘れ、神に反逆したことで、そのさばきを免れることはありません。戦争やききん、天災といったことによって神のさばきを受けるのです。けれども、それで終わりではありません。神様はあわれみのゆえに「残る者」を残し、捕囚の地から帰され、真の神の民が絶えることがないように、神様の守りのうちに神の民としてその道に歩み続けることができるようにしてくださるというのです。

そうです、神のさばきの目的はイスラエルを滅ぼすことではなく、彼らを回復することです。そのようなさばきによって彼らの汚れを洗い、聖めてくださるわけです。しかし、その中にも少数の者を残しておられる。3節をご覧ください。「シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。」

ここには「聖と呼ばれるようになる」とありますが、これはすごいことなんです。「聖と呼ばれるようになる」とは「聖なる者」、つまり、完全に聖い者として御国を受け継ぐ者になるということです。ですからここに、「いのちの書に名がしるされた者である」とあるのです。これはものすごい約束です。

イエス様は、悪霊を追い出したり、数々の奇跡を行って意気揚々と帰って来た弟子たちに次のように言われました。「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがた名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:19-20)

このいのちの書に自分の名前が書き記されているかどうかが重要なことなのです。それは悪霊を追い出すとか、病気が癒されるといったことよりも重要なことです。なぜなら、どんなに悪霊が出て行き、病が癒されたとしても、それが永遠のいのちにつながらなかったら何の意味もないからです。このいのちの書に名前がしるされているかどうかということが、私たちの人生にとって最も重要なことなのです。

クロロホルムという麻酔薬を発見して一番最初に臨床に用いたのは、イギリス人の医師ジェームズ・シンプソンという人です。彼は1947年に、外科の手術にこれを最初に使用しました。それによって手術を受ける際の痛みと苦しみから人々を解放したのです。そのジェームズ・シンプソンに、ある人が尋ねました。「あなたにとっての最大の発見は何ですか。」当然その人は、「クロロホルムの発見です」と答えると思っていたらその予想に反して、シンプソンは次のように答えました。「私の最大の発見は、イエス・キリストを自分の救い主として見いだしたことです」イエス・キリストを自分の救い主として見いだせたことは、彼の人生にとって最大の喜びであったというのです。

私たちの人生にはいろいろな喜びがあります。病気が治った、就職が決まった、いい人と結婚できた、受験に合格した、問題が解決した、自分の願いが叶ったなどです。しかし、私たちの人生における最大の喜びは、イエス・キリストを見いだし、このいのちの書に名が書き記されているかどうかであって、これに優る喜びはありません。

主の若枝はこのことをしてくださいます。その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、すべての人の高ぶりを打ち砕かれます。しかし、そこに残りの者を残してくださり、聖と呼ばれるようにしてくださる。それが、このいのちの書に名がしるされた者たちなのです。

そして主は、そのような残された者たちを、完全に守ってくださいます。6,7節をご覧ください。 「主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」

終末に起こる大患難時代に、神はシオンから汚れを取り除くために激しくさばかれますが、その中で悔い改め、主に立ち返る者たちを残されます。そうした残りの者たちは、神の激しいさばきの中にあっても、決して滅ぼされることはありません。なぜなら、主ご自身がイスラエルののがれた者の威光と飾りになられるからです。主はそこに昼は雲を、夜は煙と燃える火の輝きを創造されます。そして、昼は灼熱の太陽の日差しから彼ら守り、夜は火の柱となって彼らを寒さから守ってくださるのです。また、おおいとなって、仮庵となって、彼らを守られます。この「おおい」というのは、地球を紫外線から守るオゾン層のように、害になるものをすべて遮断し、その中にあるものを守るものです。神様は彼らのおおいとなって、また仮庵となってくださるので、さまざまな害から彼らを守ってくださるのです。91篇をお開きください。

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。」(1節)

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大楯であり、とりでである。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。」(4,5節)

「それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。」(9節)

「私の隠れ家」という本を書いたコーリー・テンブーンは、第二次世界大戦中政治犯としてドイツの強制収容所に連行されましたが、文字どおり主が彼女の隠れ家となってくださったことを経験しました。人知では測れない奇跡のみわざの数々によって、そこから救い出されたのです。彼女は本来極めて臆病な性格で、一匹の毛虫が目の前にぶら下がっても、キャッーと悲鳴をあげるほどの人ですが、主が避け所になってくださったので、死を前にしても、大きな平安に包まれることができたのです。

主が避け所、隠れ家になってくれるので、私たちはどんな困難の中にあっても、主にすべてをゆだね、主の平安の中に安息を得ることができます。思いがけない病気や事故や、あるいは試練に襲われるとき、絶望に陥って神につぶやいてはいないでしょうか?それがどんなに激しい試練でも、父が子どもを永遠に捨てることがないように、神様も子である私たちを決して見放したり、見捨てたりはなさいません。むしろその中で守り、大きな希望と慰めを与えてくださるのです。ですから、私たちの人生にも大なり小なりの試練がありますが、どのような試練に遭ってもこのみことばの約束を握りしめて、いつも主に信頼してこの信仰の道を歩み続けて行く者でありたいと思います。やがて、あなたも聖と呼ばれるようになるのです。