イザヤ書5章8節~30節 「主が忌みきらわれること」

きょうは「主が忌みきらわれること」というタイトルでお話したいと思います。前回のところでイザヤは、ぶどう園の歌を歌いました。そのぶどう畑の主人は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていて、そこを掘り起こしたり、石を取り除いたりして、良いぶどうを植えましたが、なんと酸っぱいぶどうができてしまいました。公正を待ち望んでいたのに流血が、正義を待ち望んでいたのに、泣き叫びが起こったのです。これは見た目ではよく似ていましたが、中味が全然違っていました。きょうのところには、その酸っぱいぶどうの実がどのようなものであったのかが詳しく述べられています。イザヤはそれを「ああ」という言葉を6回繰り返して語っているのです。

この「ああ」という言葉は、「忌まわしいもの」とか、「わざわいなるかな」と訳される言葉です。マタイの福音書の中に、イエス様がパリサイ人や律法学者に語るとき、「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人」(23章)と言っていますが、それと同じ言葉です。この言葉は旧約聖書の中で50回用いられていますが、その中でイザヤは21回も用いています。これはさばきや懲らしめの警告などに用いて、心の悲しみのうめきを表すことが多いのですが、そういう意味でイザヤは「うめきの預言者」であったとも言えます。イスラエルの罪を見て悲しまれる神の嘆きを「ああ」「ああ」と嘆いたのです。

いったい主はイスラエルのどんなことに心痛められたのでしょうか。きょうはそのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.天にあるものを求めて(8-17)

まず第一に8節から17 節までをご覧ください。ここには六つの「ああ」のうちの最初の二つが出てきます。一つ目は8節から10節です。「ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。私の耳に万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。十ツェメドのぶどう畑が一パテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」

これはどういうことでしょうか?これは、イスラエルの貪欲に対する嘆きです。レビ記25章23節を見ると、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに寄留している異国人である。」とあります。神はイスラエルの社会で土地の売買を禁じられました。なぜならそれは本来神のものであって、神から与えられたものだからです。しかし、貪欲な金持ちは神の掟を破り、土地と家を買い、富を蓄えました。これに対して神様は、彼らの買った家を荒れ廃らせ、そこにだれも住まなくなると言われたのです。農夫がどれだけ汗を流しても労苦しても、地は作物を生み出すことができなくなります。何と十ツェメドのぶどう畑が一バテしか産することができず、一ホメルの田畑も一エパしか産することができないというのです。広い土地もちょっとしか収穫できず、多くの種を植えても、ちょっとしか収穫できないのです。なぜ?貪欲だからです。コロサイ3章5節には、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とありますが、それは神が忌み嫌われることであり、罪なのです。人間がどれだけ欲張っても、神が許されなければ何も手にすることはできません。

ここに「余地も残さす」という言葉がありますが、これは日本人が得意としていることです。日本では土地が狭いので、その狭い土地を出来るだけ有効利用しようと、少しも無駄にしないように余地を残しません。ですから家を建てる時などは建坪率ギリギリに建てるので、隣家との間はほとんどありません。そのように余地を残さないということはすばらしいことではありますが、時には大雑把であることも必要なのです。聖書を見ると、イスラエルが小麦を収穫する時には大雑把に刈り取るようにと勧めています。なぜでしょうか?それによって貧しい人たちが食べることができるからです。ルツはその落ち穂を拾い集めることができたので、十分に食べることができました。もしボアズがケチケチしていたら、全く余地を残さないですべて刈り取っていたら、そうした貧しい人たちは食べられなかったでしょう。大雑把というといい加減というイメージを持ちやすいですが、時には大雑把に、おおらかでであることが大切です。

イエス様は「受けるよりも、与える方が幸いである」と言われました。私たちは、時には無駄になると思えるようなことでも、惜しみなく施す心を持って、余地を残すことが大切なのです。

二つ目に神が嘆いておられることは、11節と12節にあります。ここには、「ああ。朝早くから強い酒を求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。」とあります。

これはどういうことでしょうか?これは享楽のことです。彼らは朝から強い酒を飲んでいました。普通お酒って夜飲むんでしょ。一日の仕事を終えてゆっくりと休み、その日の疲れが取れるようにと飲むわけです。しかし、彼らは朝早くから飲んでいました。そればかりか、ここに「彼らの酒宴には、竪琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある」とあります。享楽にふけっていたのです。 彼らは神が注がれた恵みを覚えるような生活ではなく、一日中お酒を飲み、どんちゃん騒ぎをしていたのです。そうした刺激的なものを求めることによって、神様の恵みとかすばらしさといったことを考えることができなくなっていたのです。

そのような人たちに神様はどうされるのでしょうか?13節と14節にこうあります。「それゆえ、わが民は無知のために捕らえ移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。」

それゆえ、捕らえ移され、それゆえ、干からびるのです。ここにはその理由が「わが民は無知のために」、「その群衆は、渇きで」とあります。これはどういうことかというと、神の知識がないためにということです。神様のことばを聞いても酒に興じて霊的に判断することができないと、霊的に枯渇し、ついには奴隷状態になってしまうのです。これは文字通り、バビロンという国に捕らえ移されることを示していますが、なぜそのようなことが起こるのかというと、神を信じないからです。神を神としてあがめることをしないために起こるのです。神を神としないで人間を神としているからなのです。

しかし、このことがわからないのです。なかなか気づきません。お酒を飲んで、享楽にふけっているからです。そのような感覚的なもの、刺激的なものばかりを求め、神に対して無知だからです。私たちは、どちらかというと、こうした感覚的なものをもとめがちなのです。ですから、私たちの周りにはそうしたもので溢れています。テレビや宣伝や広告などもそうですが、何も考えなくてもいいように流れています。しかし、みことばの学びは頭を使います。忍耐を要します。苦労します。このイザヤ書からの説教も1章からここまで学ぶのに二ヶ月くらいかかっています。祈祷会では創世記を学んでいてもうすぐ終わりますが、1年以上かかっています。本当に時間がかかります。しかしこれを避けて通ることはできません。どんなに大変でもこれに向き合って少しずつ学んでいくことによって、堅い食物を食べることができるようになるからです。そうでないと干からびてしまいます。霊的な枯渇状態に陥ることになるのです。教会も感覚的なものばかりを求めてこの作業を怠ると、霊的に枯渇してしまうことになります。聞こえがいい話ばかりでなく、聖書全体から神のみこころをじっくりと聞き、それを自分の生活に適用していくことによって、私たちは霊的に十分養われることができるのです。

この二つの忌まわしいものに共通していることは、霊的に鈍感であったということです。神様ではなく地上のものを求めていたことです。しかし、大切なことは神を恐れること、神の命令を守ることです。以前、生け花をやっている方から 聞いた話ですが、生け花をするときにはまず天を定めるのだそうです。天を定めてから下に、左右対称に生けてくると全体のバランスがとれるらしいのです。それは私たちの信仰生活も同じです。まず天を定めること、そこから下に、左右対称にバランスを保つことによって、その人生が真に潤いのあるものになるのです。

Ⅱ.主のみことばを大切に(18-24)

次に、残りの四つの「ああ」、忌まわしいもについて見ていきたいと思います。まず18,19節をご覧ください。ここには、「ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、罪を引き寄せている者たち。彼らは言う。「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ」と。」とあります。

これはどういうことでしょうか?これは、神を侮辱しているのです。「神がさばくというのなら、どうぞさばいてくださいよ。何も起こってないじゃないですか。アッ、ハッ、ハッ。」というわけです。Ⅱペテロ3章3節と4節には、「終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」とありますが、まさにこのことです。彼らはあえて神の悪いことを言い、神に挑戦するのです。

皆さん、この18節のみことばを見て何か思い出しませんか?そうです、よく日本のお祭りでこのような光景を見ます。大勢の人たちがみこしを担ぎ、だしなどを引いている様は、まさにこれと同じです。彼らはそうやって咎を引き寄せ、罪を引き寄せているのです。「これこそ自分たちを守ってくれる神だ。祭りだ、祭りだ」と言って・・。それは神への冒涜以外の何ものでもありません。

そして四つ目に出てくる忌まわしいものは、20節です。「ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」

これはどういうことかというと、価値観を逆転しているのです。聖書の価値観を悪とし、人間の価値観を善としているのです。たとえば、アメリカでは今、大統領選挙の予備選が行われていますが、そこでいつも問題になっているのが同性愛の問題と妊娠中絶の問題です。どうして選挙でこういうことが問題にされているのかというと、その候補者がどういう価値観を持っているかなのです。アメリカの建国の精神は聖書が土台にありますから、今でもこの聖書の価値観に従って生きている方が多いのです。しかし、だんだんと自由主義的な考えが入ってきて、そうした価値観が揺るがされているのです。たとえば、同性愛についてはレビ記や申命記、あるいはローマ人への手紙を見ても明らかにそれが罪であって、罪の結果そうなったのだと教えていますが、そうした自由主義に立つ人たちは、「まあ、そんなに堅いこと言わさんな。」「そんなことを言うあなたは非寛容だ」と逆に罪に定められる始末です。「それは病気なんだからしょうがない」というわけです。「それは人間の権利なのであって、その権利を認めるべきだ」と言うのです。こうした価値観の転換が起こっているのです。これが現代の社会が混乱に陥っている大きな原因なのです。価値観を逆転させて、悪を善、善を悪にしているのです。

それから五つ目の「ああ」です。21節をご覧ください。ここには、「ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。」とあります。

これはどういうことかというと、そのように悪を正当化するために、それを理論武装する人たちのことです。たとえば、先程の同性愛について言えば、それは医学的な見地からすれば病気であるとか先天性のものであると言って、それを理論的に正当化するのです。その背後にあるのは何かというと高ぶりです。自分を知恵ある者と思い込んでいるのです。「おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りのある者と見せかけ」ているわけです。こういう人は救いようがありません。箴言26章12節に「自分を知恵のある者と思っている人を見ただろう。彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。」とあるからです。わからなければわからないで教えることもできるのですが、自分が正しいと思っている人には何を言っても通じません。そういう人よりは、愚か者のほうが、まだ望みがあるというのです。

それから最後の「ああ」です。22節と23節をご覧ください。「ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。」

日本では酒に強いのは男らしいと認める誤った風潮があります。「酒の一升やそこいら飲めなくては男ではないぞ」みたいなことを言ったりするわけです。また酒飲みを弁護する風潮もあります。イザヤの時代もそうでした。酒飲みはカッコイイと思われていたのです。しかも、そのように豪語していたのがどうも正義を旨とするはずの裁判官だったのです。彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っていました。まさに泥酔した者のように、正しい判断が失われていました。そのことがここで非難されているのです。わいろを受け取るのにためらいがなく、正義を曲げるのに良心の痛みがないとしたら、それは心がすっかり酔っぱらっているからにほかなりません。そのような人たちは神様の目にはとても忌まわしい者だというのです。

いったい何が問題なのでしょうか?イザヤは24節のところには、彼らがそのように道徳的に忌まわしく、公然と神を侮辱し、価値観を逆転させ、むしろ罪を理論武装させて正当化し、酒のために判断を曲げてしまう原因がどこにあるのかが述べています。「それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。」  それは彼らが主の教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからです。皆さん、なぜ日本では神を侮るようなことが起こるのでしょうか?それは、みことばをないがしろにしているからです。主の教えを侮っているからなのです。神のみことばをないがしろにするので、物質的なものに頼ったり、高ぶったり、自分の考えを正当化するようなことが起こってくるのです。これが問題です。考えて見てください。私たちの社会で、どれだけの人が主のみおしえを求めているでしょうか?私はみことばを準備して一日中座っていることがありますが、「聖書に何が書いてあるか知りたいのです」と求めてくるような人は皆無です。先日、学校とか病院で聖書を配布しているギデオン協会の方々が来られて話しを聞きましたが、聖書を配布しようとしても寒くて学生たちがポケットから手をださないので受け取らないというのです。それで寒い時期に配布するのを止めてもう少し温かくなってから配るようにしたとのことでしたが、それは寒いからではないのです。心が寒いからなのです。万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮っているからです。それゆえ火が刈り株を焼き尽くすように彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がるのです。もし私たちの住む社会を健全な秩序あるものにしていきたいと思うなら、ここから改めていかなければなりません。すなわち、自分の知恵を誇ることをやめて、主のみおしえに聞かなければならないということです。聖なる方のみことばを大切にしなければならないのです。

Ⅲ.神に導かれて(25-30)

最後に、このように地上のものだけを求め、神を侮る人たちに、どのような神のさばきが臨むのかを見て終わりたいと思います。25,26節をご覧ください。ここには、「このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。主が遠く離れた国に旗を掲げ、地の果てから来るように合図されると、見よ。それは急いで、すみやかに来るとあります。」とあります。

25節の「山々は震え」とは大地震のことです。イスラエルが神に逆らい、神を侮辱し、おのれを知恵ある者としたので、神の怒りが燃え上がり、御手を伸ばして彼らを打ったので、山々は震え、彼らのしかばねは、あくたのようになりました。しかばねとは死体のことです。それがあくたのようになりました。あくたというのはごみとか、ちりのことです。死体がごみのようにその辺にごろごろ散乱するようになりました。また、それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされ、主が遠く離れた国に合図をすると、その国が急いで、すみやかにやって来て、これを攻めるようにするのです。それは獅子のようにほえ、若獅子のようにうなって、獲物を捕らえます。救おうとしても救い出す者はいません。30節、「その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ、光さえ雨雲の中で暗くなる。」

これはバビロン捕囚のことです。バビロンの軍隊がやって来て獅子のように、若獅子のようにイスラエルに襲いかかるので、彼らは悲惨な状態になるというのです。また、これはこの世の終わりにもたらされる大患難時代のことでもあります。神に敵対し、おのれを神とする者に、神は獅子のように襲いかかり、激しくさばかれるのです。

ですから私たちは、この地上の瞬間的なものではなく、天にある永遠のものを思って生きなければなりません。へりくだって神のみおしえに聞き従う者でなければなりません。そうでないと、やがてこのような神のさばきが臨むのです。

ところで、ここまで読んで「あれっ」と思いませんか?これまでずっとイザヤ書を学んできましたが、そこには必ず回復の希望が語られていました。イスラエルの罪とそれに対する神のさばきの宣言とともに、その後に回復が語られていたのです。なのに、ここにはそれがありません。神のさばきで終わっているのです。いったいどうしてでしょうか?実は、イザヤが語りたかったことはこれだったんです。なかなか悔い改めようとしないユダに対して、怒っていたのです。「これだけ言ってるのにわからないのですか」「神様はこのように回復してくださるというのに、どうしてあなたがたは悔い改めないのですか」「そのように悔い改めないのならさばきです」「いいですか」そんな感じです。神のさばきを宣言することで、彼は終わりたかったのです。

しかし、預言を語るということはそういうことではありません。預言を語るということは自分が何を語りたいかと言うことではなく、主が語っておられることを語ることなのです。彼はそのことを6章に入ってから気がつくのです。そこで彼は預言者としての召命をいただき本格的な預言活動が始まっていくわけですが、そこで彼はある一つのことを示されるのです。それは、これまで「あなたがたはわざわざいだ」と語ってきた彼が、本当に汚れていたのは自分自身であったということです。そこで彼は祭壇の火が彼のくちびるに触れるという経験を通して聖められ、真の預言者として立ち上がっていくわけです。そしてもっとスケールの大きな預言者として用いられていくのです。ですからここが彼の預言者としての転換点でもあったと言えるのです。彼はここから、自分が語りたいことを語るのではなく、まさに主に引っ張られるようにして語るように変えられていくわけす。

それは私たちの信仰生活も同じです。私たちの信仰の歩みは、自分が語りたいことを語ったり、自分がしたいことするのではなく、主が語っておられることを悟り、主が願っているのかを行うことです。主の御手に引っ張られるようにして導かれていくことが私たちの信仰生活なのです。そのような価値観の転換が私たちにも求められているのです。イザヤの場合はここがその転換点だったのです。そういう意味では私たちも素直な心でみことばを聞きそれに従いながら、神に喜ばれる信仰者としてふさわしく整えられる者でありたいと思います。