イザヤ書5章1~7節 「ぶどう畑の歌」

きょうはイザヤ書5章のみことばから、「ぶどう畑の歌」というタイトルでお話をしたいと思います。1節の前半のところに、「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。」とあります。イザヤは預言者として主のことばを伝えましたが、ここではイスラエルの霊的な状況をぶどう畑のたとえを用いて語っています。しかも、ただ語っているのではなく、愛の歌によって語っているのです。きょうはこの愛の歌を通して、神様がどれほどイスラエルを愛しておられたのかを三つのポイントで見ていきたいと思います。まず第一に、イスラエルに対する神様のご期待を見たいと思います。第二のことは、そのような期待にイスラエルがどのように応答したかについてです。そして第三のことは、私たちが良い実を結ぶにはどうしたらいいのかについてです。

Ⅰ.神のご期待(1-2a)

まず最初に、イスラエルに対する神様のご期待から見ていきたいと思います。1節と2節の前半のところをご覧ください。「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。」

ここはそのまま読んでよくわかる内容です。ここにぶどう畑を持っている主人がおり、彼は一生懸命にそこを耕して、良いぶどうの苗を植えました。しかもそれを保護するために柵を巡らし、収穫したときに良い酒を作るための一切の用意を調えて、ぶどうを栽培しました。この「よく肥えた山腹」という表現は、この土地の豊かさを表しています。パレスチナは、テラロッサと呼ばれるよく肥えた良質の土地で、ぶどうの栽培にはとても適していた所でした。しかし、それはその土地がそのまま良い畑であったという意味ではありません。良い畑であるためには、それなりに手入れをしなければならないからです。そこでこのぶどう園の主人はそこを掘り起こし、石を取り除いて、そこに良い品種のぶどうの苗を植えました。そしてその中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいたのです。

これは並々ならぬ労苦です。ゴロゴロとした岩や石を取り除くのは容易なことではありません。また、その取り除いた石で石垣を張り巡らし、残った石で見張りやぐらを立て、監視するということも大変な仕事だったでしょう。特に大切な収穫の時期には24時間体制で監視しなければなりませんでした。また、酒ぶねまで掘ったのです。酒ぶねとは収穫物を貯蔵しておくための桶のことですが、ずっと長く使えるように、岩を掘って造られていたのです。まさに至れり尽せりです。酒ぶねまでもの「までも」ということばの中に、その手のかけようがよく表れているのではないかと思います。これほどまでに手をかけてくださったのです。

ここに出てくるぶどう畑とはイスラエルのこと、そしてそのぶどう畑にこれほどまで手をかけてくださるのは神様のことです。神様はこれほどまでにイスラエルを愛してくださったのです。よく旧約聖書は怖い神で新約聖書は優しい愛の神だということを聞くことがありますが、そうではありません。聖書の神は一貫して愛の神です。ここに表れている神の姿を見るとそれがよく表されています。神様を怖い存在だと思っているのはその人が勝手にそのように思い込んでいるだけで、実際はそうではないのです。神様はどこまでも愛であって、イスラエルのためにはこんなにも手をかけ、足をかけて養っておられたのです。

いったいなぜ神様はこんなにもイスラエルを愛されたのでしょうか?それはこのぶどう畑に収穫を期待していたからです。甘くて美味しいぶどうがなるのを楽しみに、楽しみにずっと待っていたからなのです。2節後半にある「甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた」という言葉には、そんな主人の心がよく表れているのではないかと思います。

どこか忘れましたが、私は以前高級和牛が食べられるというレストランに行ったことがあります。するとそのレストランの入口におもしろい張り紙がしてあるのを見付けました。「この店で使用している和牛は高級黒毛和牛で、毎日クラシック音楽を聴かせ、マッサージをして育てた特産和牛です。」何とその店で使われていた和牛は、毎日クラシック音楽を聴かせて育てた牛なのです。しかもマッサージ付きですよ。ちょっと贅沢じゃありませんか。するとその下に説明が書いてありました。「クラシック音楽を聴いて育てられた牛肉は良質のとても軟らかい肉になります。」私はその説明書を見たとき本当かなと思いましたが、それよりもこの店のオーナーの心意気というか、やる気を感じました。そこまでして良い肉を生産して提供したいと思っていたのです。それほど期待していたわけですね。

エペソ人への手紙1章3~6節を見ると、次のようにあります。「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

パウロはここで、神はキリストにあって、天にある霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました、と言っています。何と世界の基の置かれる前から救われるようにと選んでいてくださったのです。いったい何のためでしょうか?それは、私たちに与えてくださった神の恵みの栄光がほめたたえられるためです。私たちを通して神様の栄光がほめたたえられるために、生まれる前から、いやこの世界の基の置かれる前から、私たちは救われるようにと選ばれていたというのです。神様の御思いというものがひしひしと伝わってくるようです。いったい私たちはどれだけそんな神様の思いを意識しているでしょうか?こうして救われたことを、あるいは、毎週教会に来て礼拝できることを当たり前であるかのように思ってしまい、そうした神様のご期待に応えられないでいることはないでしょうか。

おそらくこのエペソのクリスチャンはそういう状況にあったのだと思います。そこにはアルテミス神殿があり、魔術が盛んなその異教の偶像の町で、せいぜい信仰を失わないようにするのが精一杯だったかもしれませんが、実は神様はこのエペソの町に大きな期待を寄せていたのです。それゆえに、神はパウロやテモテやヨハネといった、名だたる牧会者を次々とこの教会に送り込まれたのではないでしょうか。黙示録に登場する七つの教会の多くは、このエペソ教会の伝道によって生まれたのではないかと言われていますが、この教会には、単に地元での伝道や教会形成にとどまらない、大きな期待が寄せられていたのです。同じように神様は、私たちにも期待しておられるのです。私たちを見たら、ガリラヤのような田舎者で、いったい何ができるかと思えるようなちっぽけな存在なのかもしれませんが、けれども神様はこんなガリラヤの田舎の教会が世界宣教を担うような大きな、神の使命に応えるような、そういう存在になってほしいと願っておられるのです。

かつてプロ野球中日ドラゴンズの選手であった中村選手は、まだ日の目を見ない頃に、当時の監督であった星野仙一さんから「おれはおまえを日本一の選手にしてやる」と言われたそうです。当時の彼の、どこにどれだけの可能性を見いだしたのかはわかりませんが、とにかく彼はそのことばで燃えました。  仮にも、日本一の捕手にしてやると監督が言ってくれた。監督は、そこまで自分に期待してくれている。そう思うとうれしくて、彼はどの選手よりも早くグランドに行き、どの選手よりも遅くまで練習しました。今では、その熱心さと、どんな怪我からでも這い上がってくる闘志は有名です。

だれからも期待されていないと思えば、やる気をなくすのは当然ですが、大きく期待されていると知ったら、奮闘せずにはいられないのもうなずけます。神様は私たちのうちに可能性を見いだし、熱く期待しておられます。神様の祝福を受け取って立ち上がりたいものです。

Ⅱ.神の失望(2b-4)

ではこの神の期待に対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。2節後半から4節までのところをご覧ください。「ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

神様の熱い期待とは裏腹に、何と酸いぶどうができてしまいました。この「酸いぶどう」と訳された言葉は、口語訳では「野ぶどう」と訳されています。これは「臭くて食べ物にならない実」です。ぶどうによく似ているのですが、もっと小さくて特殊な臭いがして食べ物にならないものです。箴言13章5節にも同じ言葉が使われていますが、そこでは「悪臭を放つ」と訳されています。うまく熟さず、腐って悪臭を放つようなぶどうができてしまったのです。あれほど手塩にかけて育て、甘いぶどうがなるように期待していたのに、悪臭を放つような腐ったぶどうができてしまったのです。このときの主人の気持ちといったら、いったいどんなものだったでしょうか。「酸いぶどうができてしまった」という言葉の中に、この主人の残念さ、無念さがにじみ出ています。

そこで主は今、エルサレムの住民とユダの人にそのジャッジを求めます。「そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」

これは、これ以上手を加える必要はないといわれるほど手を加えたのに、全く食べ物にならないような腐ったぶどうが出来てしまったのはどうしてなのか、自分に何過落ち度があったのか、足りないことがあったか、あったなら教えてほしい、とジャッジを求めているのです。もちろん答えはNoです。ありません。神様のイスラエルに対する取り扱いは完璧でした。それは至れり尽せりで、足りないことなど何一つなかったのです。ではなぜ、酸いぶどうができてしまったのでしょうか。答えは7節にあります。

「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」

ここに、「主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とあります。この「公正と流血」、「正義と叫び」という言葉は必ずしも相対する反対語ではありません。これは日本語ではよく表せませんが、ヘブル語では一つの音の遊びというか、語呂合わせであることがわかるんです。「公正」というのは、ヘブル語で「ミシュパート」と言いますが、「流血」というのは「ミシュパーハ」なんです。ミシュパートに対してミシュパーハです。また、「正義」というのはヘブル語で「ツァデーク」といいますが、「叫び」というのは「サデーカー」といいます。音はよく似ていますが、意味は全く違います。つまり、見かけは神様の期待にそっくりでも、中味は全く違っていたということなのです。これが問題だったのです。実際はそうでないのにそうであるかのよえに見せかけること、それが問題だったのです。

私もよく存じ上げている方で丸屋真也という先生がおられます。この先生は「健全な信仰とは何か」という本を書いておられますが、この本の中でなぜこのようなことが起こってくるのかについて次のように述べています。先生はそれを「霊的化」という言葉を使って説明しているわけですが、本当は霊的ではないのにあたかも自分が霊的であるかのように思い込んで、振る舞ってしまうというのです。霊的というのは神のみこころにかなっているということです。神のみこころにかなっていないのに、実際のところは神のみこころからかけ離れたところにいるのに、「霊的とはこのようなことだ」という先入観やイメージがあるので、霊的だと誤解してしまうのです。そして、こうした霊的化が習慣化すると無意識のうちにですが、福音を自分流に理解して信仰生活を送るようになってしまうというのです。これでは霊的に成熟することは困難であり、逆に、霊的な衰退に陥らないとも限りません。まさに表面的には甘いぶどうのようであっても、中味は酸っぱいというのはこうした状態のことなのです。

イスラエルは、そのように良い実を結ぶことができないものになってしまいました。神から恵みをいただいているのだからと、恵みのエリート意識の中に閉じこもってしまい、恵みを受けながらもその歩みを捨ててしまいました。そして、酸っぱいぶどうしか結ぶことができなくなってしまったのです。自分の力でどんなに努力しても、神様のご期待にそえるような公正も、正義も結ぶことができないものになったのです。

ぶどう園の主人が期待したのはそんな実ではありません。甘いぶどうです。甘いぶどうの実がなるのを待ち望んでいたのです。それがぶどう畑に期待されていたことであり、そこにぶどう畑が存在していることの意義なのです。

Ⅲ.まことのぶどうの木(5-6)    ではどうしたらいいのでしょうか?どうしたら甘いぶどうの実を結ぶことができるのでしょうか?5,6節をご覧ください。ここには、「さあ、今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを、その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」とあります。

ここには、ぶどう畑の主人の結論が述べられています。「さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。」自分がしてきたことで何か落ち度がありましたか?なかったですね。じゃ、今度は私がやることを知らせましょう、というのです。「その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。」これは外敵が来るということです。自分たちが守られているのは神様の守りがあったからです。なのにそのことを認めないで、逆に神様を否定するようなことを行っているとしたら、全く意味がありません。それで神様はその垣を除いて、荒れすたれるに任せ、石垣をくずして、踏みつけるままにするのです。そして、それを滅びるままにしておかれます。刈り取りもなさいません。もうボーボーです。そこに足を踏み入れることもできません。神様が刈り込みをしてくださるので私たちは安心して生活ができるのに、もうそれもありません。極めつけは「わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」ということです。雨はいのちの象徴です。太陽が昇り、雨が降るからこそ、私たちは潤いを感じることができわけです。雨が降らなかったら植物も育たないし、生きることもできません。その雨も降らせないというのです。このような神様のさばきが臨むというのです。

ところで、このぶどう畑のたとえは、イエス様がユダヤ人の指導者に語られたものです。マタイの福音書21章33~44節を開いてみましょう。ユダヤ人の指導者たちがこのたとえを聞いたとき、「あっ、これはあのイザヤ書5章にあるたとえだな」とすぐにピーンと来たはずです。彼らは宗教指導者ですから、旧約聖書の内容はよくわかっていたのです。そしてここに出てくる農夫たちが自分たちのことであり、しもべたちというのが預言者たちのことであることもちゃんと知っていたのです。それで主人が農夫たちのところへしもべを遣わすと農夫たちはそのしもべたちを袋だたきにして殺したというんでしょ。それを聞いていた指導者たちの雲行きはたせんだんと怪しくなってくるわけです。そして37-39節のところで主人が送った息子を、農夫たちが殺して、財産を自分たちのものにしてしまうというわけですから、その話を聞いていた彼らはいてもたってもいられないような気分だったのではないかと思います。

ところで、そういうことになったらこのぶどう園の主人はいったいどうするでしょう。41節を見ると、「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を治める農夫たちに貸すに違いありません。」とあります。  それが、今ここで言われていることです。そして、どうするのかというと、43節に書いてあるのです。

「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」

もし神様のご期待にそえず酸っぱいぶどうの実を結ぶようなことがあると、神の国は彼らから取り去られて、神の国の実を結ぶ国民に与えられるのです。この国民とはだれのことでしょうか?そうです、異邦人のことなんです。ユダヤ人がなかなか信じようとしなかったので、神様はその恵みを取り上げて異邦人に与えると言われたのです。その結果、神の国が今、私たちのところにももたらされるようになったわけです。ということは、私たちが神のご期待にそえるような実を結ぶには、神の御子であられるイエス・キリストを信じて、受け入れて、そのみことばに従って歩まなければならないということです。

ヨハネの福音書15章5節のところでイエス様は次のように言われました。 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

皆さん、イエス様がぶどうの木なのです。私たちは枝です。枝は木にとどまっていなければ実を結ぶことができないように、私たちも木であるイエス様にとどまっていなければ実を結ぶことはできません。自分でどんなに努力してみても、神が喜ばれるようなことはできないし、反対にやってはいけないと分かっていても、やってしまうということがたくさんあるのです。ところが、そういう私たちのためにぶどうの木であるイエス様が十字架にかかって死んでくださいました。ぶどうの木であるイエス様が切られてしまったわけです。そしてその幹であるイエス様の切り口と私たちの切り口がつぎ合わされて、イエス様のいのちが流れるようになりました。そのいのちによって、私たちも多くの実を結ぶことができるようになったのです。すなわち、このイエス様との生ける交わりを通してのみ、私たちは実を結ぶことができるということです。

何とすばらしい約束でしょうか。私たちの力では酸っぱくて腐ったような実しかできないのに、イエス様と交わり、イエス様のいのちによって、甘いぶどうの実ができるのです。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」といった実を結ぶことができるのです。

アブラハム・リンカーンは、成人して間もなく、ひどいノイローゼにかかったと言われていますが、彼が自分以外の大きなものに仕えるように自分の生活を軌道修正することによって、ついに神のために、また人のために尽くすようになったと言われています。この自分以外の大きなものこそ、イエス・キリストでした。また、キューリー夫人もその夫の悲劇的な死の後、その生涯を神にささげ、科学的研究に身を投じてラジウムを発見し、世界の科学界に大いなる貢献をしました。 救世軍のウィリアム・ブースも全盲になりまたが、その魂に対する情熱は冷めることなく、奉仕の決意をますます不動なものとしていきました。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」私たちもイエス様にとどまって、見せかけでない本物の実を結ぶ者になりましょう。

少し前に見たテレビの園芸番組の中で、園芸の専門家が、「植物に話しかけることで、植物の成長を促すことができる。」と言っていました。その植物はクリーピング・チャーリーという観葉植物の一種ですが、その解説者はこう言っていました。「この葉に優しく声をかけたり、撫でたり、話しかけたりすることによって、その植物の自尊心をはぐくむことができる」  私たちはクリーピング・チャーリーです。神様が私たちにいつも語りかけておられます。「いい木だね。今日も、とてもきれいだ。すばらしいよ。」とか「痛いだろう。でも、あなたがもっと実を結ぶためにこうやって剪定しているんだよ。後になれば分かるから。」私たちはいつもそうした神の励ましの声を聞いて、神の期待を感じながら、神のことばに深く根を下ろして、生ける神と交わることによって、豊かな実を結ぶ者でありたいと思います。