イザヤ書7書1~9節 「神の前に静まる」

きょうは、イザヤ書7章に入ります。ここは昨年のアドベントで取り上げた箇所ですが、1章から学んで来る流れの中で、もう一度この箇所を取り上げてみたいと思いました。そして、そのようにして見てきますと、全く新しい光が与えられます。きょうはこの箇所から、「神の前に静まる」というタイトルでお話したいと思います。

Ⅰ.アハズ王の動揺(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。1節には「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンとイスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」とあります。

イザヤはウジヤ王が死んだ年に預言者として召されましたが、それからすぐにその子ヨタムも死に、その子アハズが王として即位しました。これは大体前735年のことです。その頃に一つの大きな事件が起こりました。アラムとイスラエル(北イスラエル)が、エルサレムに上って来てこれを攻めたのです。アラムとはシリヤのことですが、隣国北イスラエルのさらに北にある大国です。ユダは全体でも日本の四国くらいしかない小さな国ですから、こんな国に攻められたらひとたまりもありません。がしかし、このところを見ると、「戦いに勝てなかった」とあります。

どういうことかというと、この箇所の背景が歴代誌第二28章に記されてあるのですが、そこを見ると、アラムとイスラエルはユダを攻め大損害を与え多くの捕虜を引き連れて帰って行ったのですが、イスラエルがサマリヤに帰ったとき、そこにオデデという預言者が現れてこう言ったのです。28章9節から11節です。「見よ。あなたがたの父祖の神、主がユダに対して憤られたため、主はあなたがたの手に彼らを渡された。ところが、あなたがたは天に達するほどの激しい怒りをもって彼らを殺した。今、あなたがたはユダとエルサレムの人々を従えて自分たちの男女の奴隷にしようとしている。しかし、実はあなたがた自身にも、あなたがたの神、主に対して罪過があるのではないか。今、私に聞きなさい。あなたがたが自分の同胞をとりこにしたそのとりこを帰しなさい。主の燃える怒りがあなたがたに臨むからです。」(Ⅱ歴代誌28:9-11)    つまり、兄弟を奴隷にするとはどういうことか、ということです。イスラエルはもともと一つの国でしたが、前931年に北イスラエルと南ユダに分裂していました。その国を攻めるなどあり得ない。あなたがた自身にも罪過があるではないか。そんなことをしていたら、主の怒りがあなたがたに臨むぞ。帰しなさい。自分の同胞をユダに帰しなさい。それで、イスラエルはユダを帰したのです。それが「戦いに勝てなかった」ということです。

ところが2節を見るとこうあります。「ところが、「エフライムにアラムがとどまった」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」

ところが、その知らせがアハズ王とユダの民に告げられると、王の心も民の心も、激しく動揺しました。林の木々というのは、風がない時には静かに立っていますが、少し風が吹きますと、一本一本の枝が風に揺られてざわざわとなります。だんだん風が強くなってきますと、その音も大きくなってきます。アハズ王とユダの民たちの心は、この林の木々が風に揺れるように動揺したのです。それは、私たちが人生の困難や、まさかと思うようなことが起こってきた時の動揺に似ています。このような困難に直面するとき、私たちの心もまた激しく動揺するのです。そしてその動揺を抑えようとあれこれするのですが、なかなか抑えることができず、混乱に陥るのです。アハズもそうでした。彼もまたそうした動揺を抑えようとアッシリヤという国に助けを求めてこの問題を打開しようとしたのです。

これが人間の考えることです。人は何か問題が起こると、その場しのぎの解決や対策を講じようとします。ちょうどコンビニでインスタント食品を買うように、その場しのぎの神々を手に入れようとするのです。しかし、それは一時的な解決をもたらしてくれるかもしれませんが、ほんとうの解決にはなりません。ユダはアッシリヤに助けを求めることでその場の危機をしのぐことができたかもしれませんが、後でほんとうの危機がやって来ることになるのです。「昨日の友が今日の敵」というようなことが起こります。何とそのアッシリヤによって脅かされることになるわけです。アハズはアッシリヤと同盟を結ぶことで、確かにつじつまは合ったかのように見えましたが、そのつけは30年後に大きく膨らんで返ってくることになるのです。

Ⅱ.静かにしていなさい(3-4a)

ではどうしたらいいのでしょうか?3節4節をご覧ください。「そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、そこで彼に言え。気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」

主はイザヤに、息子の「シェアル・ヤシュブ」を連れてアハズに会いに行くようにと言われました。「シェアル・ヤシュブ」とは、「残りの者は帰る」という意味です。これはユダに対するしるしです。そうした激しい危機の中にもユダは守られるというしるしでした。その子を連れて、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会うようにと言うのです。なぜなら、アハズはそこにいたからです。

この「上の池の水道」というのは、エルサレムの城壁の外にある「ギホンの泉」からエルサレムへと流れている水道のことです。なぜそこにアハズがいたのかというと、エフライムとアラムが攻めてくるという報告を聞いて、そしたらまず水路をつぶしに来るだろうと、彼はこの水道を見に来ていたのです。ここにも彼の動揺ぶりが表れていますね。心配になってあれこれと動き回っていたのです。そこでイザヤが告げたことはこういうことです。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはいけません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」と。

「気をつける」とは「注意する」ということです。これは敵の攻撃に注意するようにということではなく、そのような行動に対して自らがどうあるべきなのか、どのように対処すべきなのかを注意するようにということです。また、「静かにする」とは、そのような敵の攻撃に対して自らが何か行動を起こすということではなく、主が成してくださることを静かに待ち望みなさいということです。また、「恐れてはならない」とは、心配しないで、しっかりと立っているようにということです。アハズの心の中には北の勢力から身を守るためにアッシリヤと手を結ぶことで、賢い政治家であるかのように振る舞おうとしましたが、イザヤにはそのようには見えませんでした。それは虎のしっぽをつかむようなものです。ここで問題ははっきりしていました。救いは信仰によるのか、それともわざによるのかということです。主を信頼して救われるのか、それとも抜け目ない政治的な賭けによるのかです。イザヤは主に信頼して救われるようにと言ったのです。

ところで、このところをよく見ると、ここで言われていることの中心は、「静かにしていなさい」でるということがわかります。つまり、主に信頼するということは、静かにしているということなのです。ところが、これがなかなかできないのです。周りがざわついている時にみんなと一緒にざわめくことは簡単ですが、それに反して静まるということは難しいことなのです。しかし、神に信頼するということはそういう時に静かにすることなのです。そのためには、本当の意味で見るべきものが見えていなければなりません。目の前には困難な状況が見えているわけですから、それ以上のものが見えていなければ静まることはなどできないからです。

この「静まる」という言葉ですが、これはヘブル語で「シャカトー」で、もともとの意味は「身を沈める」という意味です。水とか、何かの中に身を沈めてしまうことが静まることだというのです。その何かというのが神なのです。困難なことを見たり、聞いたりすることがあるでしょう。あるいは、そうしたことに巻き込まれたりすることもあるでしょう。しかし、そうしたことに身を沈めてしまうのではなく神の中に身を沈めること、それが静まることなのです。いろいろなことが目の前を通り過ぎ、いろいろなことが耳を通過していくとき、そうしたことに関心を向けるのではなく、神にのみ関心を向けるのです。日光の東照宮には賢いお猿さんがいますね。その猿は「見ざる、言わざる、聞かざる」といって、目と口と耳を両手で塞いでいます。成長期には自分を誘惑するものがたくさんあるので、そうしたものからシャットアウトするために、あえて見ないようするという説明でした。私たちも、周りの状況に身を沈めると不安や動揺に襲われますが神の中に身を沈めるなら、それを克服することができるのてす。このようにすることは私たちの理性では難しいことですが、時にはその理性をも否定するかのようにして神に信頼することが必要なのです。

私たちは疲れた時とか、大変な時に温泉に入るとほんとうに気持ちがいいですね。佐久山温泉、五峰の湯、あおき温泉、いいろあります。温泉の中でじっと身を沈めると、ほんとうに心が温まります。ちょうど胎児がお母さんの胎内の羊水の中で泳いでいるように、気持ちがいいものです。ある学者は、あれが人間の安らかさの原形であろうと言っていますが、しかし、人間のやすらかさは温泉では間に合いません。神の中に身を沈めて、どういうことが起こってもこの方が必ず守ってくださるという確信を持つことが、まことの平安につながるのです。アハズ王は、エフライムとアラムが攻めてくるという困難に対して、遠くのアッシリヤと手を組めば助けられるだろうと考えましたが、そうではなく、もっと遠くの、目に見えるものではなく、目に見えないお方に身を沈めることが必要だったのです。

Ⅲ.神はわれらの力(4b-9)

神に信頼することがどうして真の解決をもたらすのでしょうか?第三に、その理由を見たいと思います。4節後半から9節までをご覧ください。第一の理由は、私たちの神は全能者であられるからです。4節の後半をご覧ください。「あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。」

イザヤがアハズに、気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならないと語ると、アハズが恐れていたこれら二つの国がどのようなものなのかを示しました。それは、木切れの煙る燃えさしにすぎないということです。ゴ-ゴ-と勢いよく燃えている火ではなく、燃えているのかいないのかわからないくらい力のない燃えさしです。人間の目にそれがどれだけ強大に見えるものであっても、神の前には何の力もない燃えさしにすぎないのです。

私たちが問題に直面する時の本当の問題は、その問題を見てしまうことです。そこに身を置いてしまうことなのです。そうすると、その問題の大きさに圧倒されて打ちのめされてしまうのです。車いすの大統領、フランクリン・ルーズベルトは、「恐れなければならないものはただ一つ、恐怖そのものである」と言った言葉は有名です。私たちが恐れなければならないのは、この恐怖なのです。問題そのものを見れば恐怖になりますが、神を見て、神に身を置くなら、問題は小さく見えるのです。なぜなら、神は全能であって、神の目を通してみれば、それは燃えさしにすぎないからです。

アメリカの映画に、『シンデレラマン』(原題: Cinderella Man)という映画があります。これは、1929年の大恐慌時代のアメリカで、絶望的な貧困の中で家族のために必死にチャンスをつかもうとした伝説のプロボクサー〈ジェームス・J・ブラドック〉の実話を基に描いた人間ドラマです。彼は連戦の疲労から怪我もあり、一時ボクシングライセンスを剥奪されてしまいます。そして、ボクサーの仕事を失ったジムは、港湾労働者として日雇いの仕事をしながら妻や子供たちと暮らしていましたが、生活は貧しく、食べ物を買うことさえもやっとでした。やがて、消化試合のために、たった一回のボクシングの試合を戦うチャンスを得るわけですが、そこから這い上がって、世界ヘビー級選手権のタイトルマッチの挑戦権を得るまでになります。しかし相手はかつて試合で二人の選手を殺しているマックス・ベアです。だれもが足をすくむ相手ですが、彼はどんなに打たれても倒れずに15ラウンドを戦い抜くのです。そして判定で勝利しました。それは彼が熊のように大きな相手を見ていたからではないのです。妻が試合前に彼に語ったことばを握りしめていたからです。「自分が何ものなのか忘れないで。あなたはニュージャージー州の誇り、人々の希望の星よ。子どもたちのヒーロー、そしてあなたは私の心のチャンピオンよ。ジェームズ・J・ブラドック、必ず帰って来てね。」そう告げるんです。ブラドックは熊のような相手を見ていたのではなく、そうした妻の、人々の声援を胸にして戦っていたのです。

神が私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです。私たちがこの全能の神に身を置くことができれば、神が戦ってくださいます。そしてみことばの約束のとおりにしてくださるのです。ですから、この方に身を置いて、この方のみことばの約束を握りしめ、この方によって困難に立ち向かっていかなければならないのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう』と。神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。」

「そのこと」とは、アラムとエフライムの悪事のことです。彼らはアハズを王位から引きずり下ろし、自分たちのいいなりになる王を代わりに王にしようとしました。タベアルの子です。しかし、そのことは起こらないし、ありえません。むしろ、8節に書いてあるようなことが起こるというのです。「実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。―六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。―」

これはどういうことかというと、そのように高ぶっているアラムとエフライムは粉砕されるというのです。なんと65年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなるのです。果たせるかな、これが実際に起こるのです。イザヤがこれを預言したのは前735年から734年頃にかけてですが、その数年後にアッシリヤがアラムに、そしてさらにその10年後にエフライム、すなわち北イスラエルにやって来てこれを滅ぼします。そして多くの住人をアッシリヤへ移住させる代わりに、外国人をサマリヤに移住させました。これがサマリヤ人の起源です。新約聖書にはサマリヤの女とか、良きサマリヤ人など、サマリヤ人に関する記述がたくさん出てきますが、そのサマリヤ人というのは、この時アッシリヤから移住してきた人たちによって生まれた人たちのことなのです。エズラ記4章10節を見ると、アッシリヤの王オスナパルという人物がやって来て、多くの外国人をこのサマリヤに移住させたことがわかります。これがイザヤが預言した時から65年後の前669年のことなのです。このようにして、エフライムは粉砕されて、「もう民ではなくな」ったのです。

このように、神の預言がことごとく成就したことを見ると、ほんとうに聖書はすごいなぁと改めて思いますが、と同時に、私たちの知らないところで全能の神が働いておられることがわかります。ですから、信じなければなりません。神の前に静まり、神に信頼するなら、神が立たせてくださるのです。

残念ながらアハズは神に信頼しませんでしたが、アハズの子ヒゼキヤはそうではありませんでした。彼はアハズとは違って心から主に信頼しました。前701年にアッシリヤの軍隊がセナケリブという将軍とラブシャケという大将に率いられてやって来たとき、もうエルサレムは風前の灯のように思われましが、このヒゼキヤは何をしたかというと、もちろん、砦を築いて懸命に武装したり、泉から水を引くための水道工事をしたりしましたけれども、何よりも神に信頼を置きました。神に信頼するということは、祈っていれば、信じていれば何もしなくてもいいということではありません。ベストを尽くしてその困難に立ち向かうべきです。けれども自分のベストだけでは戦えないのですから、根本的なところにおいて神に信頼する必要があるのです。その時の状況がこのイザヤ書36章と37章に記録されてありますが、その中心は文字通り神の前に静まるということでした。37章14節を開いてみましょう。

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。」

「おまえたちの国は、私に従わなかったから滅ぼされるのだ。どこの国でも、私たちの神は救うと言ったけれども、そんな国は一つもない。ヤーウェの神などいったい何になるか。降伏せよ。」という手紙を受け取ったヒゼキヤは、イザヤのところに使いを送って祈ってもらいました。そして自分でも、「それ敵が来た。槍を取れ。軍隊を整えよ」とは言わないで、まるで非武装であるかのように神の前に出たのです。敵から受け取った手紙を自分で読むかのようにして神の前に広げ、「神様、こう書いてあります。彼は高慢にもこのようなことを言っています。神様、あなたという存在がいても、あなたは助けることなどできないと書いてあります。そんなこと言わせていいのですか。神様助けてください」と祈りました。神に身を置くとはそういうことなのです。見えないからいないのではありません。見えませんが、さながらそこにおられるように、「神様、こんな手紙が来ましたが、どうしましょう。どうかあなたの栄光を現してください」祈ることです。たとえ自分が王様であったとしても、その王服も冠も投げ捨てて麻布を着て、灰をかぶって、「本当に私はちりやはいにすぎません」と言って神の前に出たのです。

神は、このヒゼキヤの祈りを聞かれました。アッシリヤの軍隊が攻めてきた翌朝に宮殿の上から周りを見わたすと、あちこちに死人の山が築かれていました。聖書を見ると、十八万五千人のアッシリヤ人が死骸となって横たわっていた、とあります。生きていた人々はセナケリブと共に逃げ帰り、やがてセナケリブは本国で自分の偶像の神に祈りをささげていたら、その息子たちに刺し殺されて死に、ついにアッシリヤという国が滅んでいくことになったのです。

これが神のなさることです。この十八万五千人が一晩で死んだのは、「天の使いがこれを打ったから」です。実際にどうやってこれだけの敵が倒れたのかわかりません。当時のユダヤ人の歴史家でヨセフスという人は、「一晩のうちに彼らは疫病で死んだのだろう」と書いています。それは食べた食あたりか、何か起こしたのだろうということですが、はっきりしたことはわかりません。しかし、それがどのようにしてであっても間違いないのは、神がそのようにしてくださったということなのです。それはただ運が悪かったからではなく、そうした困難の中で神に祈ったヒゼキヤの祈りが、神に身を沈めたヒゼキヤの祈りがあったからなのです。ヒゼキヤが、イザヤのメッセージにしたがって神に立ち返り、静かにして、自分を動揺させる一切のものを断ち切り、神の前に自分がどうなろうが、国がどうなろうが、「神様、あなたに信頼します」といったその信頼を、神が受け取ってくださったからなのです。私たちがそのように本気になって神の前に出ていく時に、神がどうして私たちの信頼に応えてくださらないことがあるでしょうか。神は必ずその信頼に応えてくださるのです。そう信じて私たちは、状況にとらわれて沈んでしまうのではなく、神の約束の中に自分を沈める者でありたいと思います。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)なのです。