きょうは、イザヤ書7章の10節から25節までのみことばから学びたいと思います。タイトルは「インマヌエルの神」、共におられる主です。14節に、「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」とあります。「インマヌエル」というのは「私たちと共におられる神」、または「神われらと共にいます」という意味です。これはキリスト教においてとても大切な用語です。私たちの信じる神は、神社や仏閣に行かなければいない神なのではなく、いつも私たちと共におられる神です。今日は、このインマヌエルの神について三つのポイントでお話しししたいと思います。
Ⅰ.しるしを求めよ(10-12) まず、10節から12節までをご覧ください。「主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」
ここに、「主は再び、アハズに告げて仰せられた」とあります。再びということは、その前にも一度語られたということです。どんなことを語られたのでしょうか?1節には、「ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めた」とあります。これは前745年ことです。イザヤが預言者として召されてから5年後のことです。ユダの王がアハズになったとき、アラムとイスラエル、これは北イスラエルのことですが、連合してユダを攻めてきたのです。その知らせがアハズに告げられたとき、彼の心は揺れに揺れました。2節には、「林の木々が風で揺らぐように動揺した」とあります。そのとき預言者イザヤをとおして主が語られました。4節です。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」と告げました。そして10節、「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。」それに対してアハズは何と答えたでしょうか?何とも答えていません。答えられなかったのです。なぜなら、彼の中には主に信頼するよりもアッシリヤという大きな国に助けをを求め、彼らによってその危機を打破しようという思いがあったからです。ですから、ここには深い沈黙があるのです。それは人間の不信が作り出した神との間の深淵です。
そこで主は再び、アハズに告げて言われました。「しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」と。「しるし」とは何でしょうか?しるしとは聖なる神のオン前に出ることです。主に信頼するなら守られるというしるしのことです。聖書を見ると、このようなしるしを求めることはあまり好ましいことではありません。申命記6章16節には、「あなたの神、主を試みてはならない」とあります。また、主イエスは弟子であるトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。見ずに信じることが大切なのです。それが信仰です。しるしを求めて主を試みるようなことは、信仰者にとってふさわしいことではありません。なのになぜ主はここで「しるしを求めよ」と言われたのでしょうか?
それはこのアハズのためです。なかなか神を信じることができない彼のために、しるしを求めるようにと言われたのです。もし彼がわずかながらも神を経験することができれば、もっと神に信頼することができるようになるでしょう。ですから、それは神のあわれみだったのです。
この後でヒゼキヤという王様が出てきます。ヒゼキヤはこのアハズの子ですが、とても信仰的な王様でした。彼は「しるしを求めなさい」と神から言われたとき、それに従い大胆にしるしを求めました。彼が病気になって死にかかった時、大声で泣きながら祈りました。「主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行って来たことを。」(38:3)そして「その祈りが本当に答えられるというしるしを見せてください」と祈ったのです。すると主はその祈りに答えてくださり、彼の寿命を15年伸ばしてくださいました。その時のしるしが、日時計の陰を十度戻すということでした。(38:8)そしてそのとおりに日時計の陰が十度戻ったのです。それはヒゼキヤにとってどれほど大きな励ましになったことでしょう。神に祈ったことが答えられるという経験は、私たちの信仰にとって大きな励ましになるのです。
「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ15:24)
それに対してアハズは何と答えましたか?12節、「私は求めません。主を試みません。」これはいかにも信仰的なようですが、実は全く逆です。従順のない信仰は本当の信仰ではないからです。神様が「求めなさい」と言われたら求めることが信仰の態度なのです。なのにいろいろな理屈や言い訳をとして従わないとしたらそれは信仰的なようで、実は不信仰なのです。アハズの中には神を求めてもムダだという思いがありました。このような危機的な状況を打破するには、もっと具体的な対策が必要だと思ったのです。このような思いは私たちにもよくあります。口では神様に信頼していると言いながらも、実際には自分の考えによって解決しようとします。アハズも「主を試みません」と言いながら、実は自分の考えで対処しようと思っていたのです。
Ⅱ.神からのしるし(13-17)
そこで、主はアハズに何と言われたでしょうか?13節から17節までをご覧ください。「そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」
アハズの答えは預言者イザヤのみならず、神をも煩わすものでした。それゆえに、主みずから、彼らに一つのしるしを与えられました。つまり、アハズがあくまでも自分の考えに従って行動としていたので、神の方から一方的にそのしるしを与えられるというのです。そのしるしとは何でしょうか?それは、処女が身ごもって、男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づけられるということです。どういうことでしょうか?
これは有名なインマヌエル預言です。マタイはこの箇所を引用して、イエスが処女マリヤから生まれたという事実を書き記すことで、この方がまことのメシヤであると語りました。マタイの福音書1章22節と23節です。「このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」 しかし、いったいなぜこれがしるしだというのでしょうか。先程も申し上げたように、このしるしというのは神に信頼するなら守られるというしるしです。敵であるエフライムとアラムの連合軍を神様が打ち破ってくださるというしるしなはずです。それが処女がみごもって男の子を産み、その名を「インマヌエル」と呼ばれるようになる、とうのはどういことなのかがわかりません。
昔からこの箇所は非常に難解な箇所だと言われてきました。英国の有名な説教家であるチャールズ・スポルジョンは、この箇所は聖書の中でもっとも難解な箇所の一つだと言いました。それほど解釈が難しい箇所なのです。何がそんなに難しいのかというと、ここに出てくる処女とはだれのことなのか、男の子とはだれのことなのかがはっきりわからないことです。それもそのはずです。処女がみごもるというようなことなど考えられないことだからです。この人類の歴史上、そのようなことは一度もありませんでしたし、あり得ないことなのです。ですから、これがしるしだと言われてもピンときません。
普通、預言というのは何重にも重なり合っている山のように、近くの山と遠くの山が重なって見えているのです。これがイエス様によって成就したことはわかりますが、それがこのアハズの出来事といったいどういう関係があるというのでしょうか?
これが本当の救いであるということです。そのことを伝えたかったのです。おそらく、アハズの時代におけるこの処女とは、8章3節に出てくる女預言者のことでしょう。預言者イザヤの妻です。彼女はイエスの母マリヤのような意味での処女ではありませんでしたが、若い女性という意味でこの処女という言葉で表されていたのだと思います。そして、その女預言者から生まれる男の子の「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」が、この処女から生まれる男の子を指しているものと考えられます。なぜなら、15節から17節には、「この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」とあるからです。その子が、悪を退け、善を選ぶことを知るころまでというのは2~3歳くらいのことでしょう。その頃までに、アハズが恐れていた二人の王、アラムとイスラエルの王は、捨てられることになるからです。誰によって?アッシリヤによってです。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」という名前は、そのことを意味していました。意味は、「急げ」「獲物を」「奪え」「早く」という意味です。「略奪者はすみやかに来る」という意味です。その通りに、アラムとイスラエルがユダを攻めて来た2年後の前732年にアラムが、また、前722年にはイスラエルが、このアッシリヤによって滅ぼされることになるのです。 ですから、これは女預言者と彼女から生まれる男の子「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」のことなのです。
しかし、ここにはそのことをボヤッと示すだけで、むしろこの時から700年後に生まれるキリストのことがはっきりと示されているのです。なぜでしょうか?これが本当の救いだからです。アハズにとっては、確かにエフライムとアラムの連合軍が攻めてくるということは脅威だったでしょう。何とかしてそこから救われるようにと考えて、北の大国アッシリヤに助けを求めました。それでアラムとイスラエルは滅ぼされ、問題は解決したかのように見えたかもしれませんが、それは本当の解決ではありませんでした。本当の危機はその後でやって来ることになるからです。昨日の友は今日の敵というようなことが起こるわけです。何と今度はそのアッシリヤに攻められ苦しむようになるのです。ですから、それは本当の解決ではありませんでした。本当の解決はイエス・キリストにあるのです。それがこの神が与えてくださったしるしだったのです。
箴言29章25節に、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかるのです。表面的には勝利したかのようでも、次の瞬間にはそれが原因でもっと自分をがんじがらめにしてしまうことになるのです。本当の解決は人にではなく主にあるのです。肉にではなく御霊にあるのです。人となってお生まれになられた「インマヌエル」の神にあるのです。それがこのしるしがこれだったのです。
Ⅲ.その名はインマヌエル(18-25)
では、なぜこれが本当の解決だと言えるのでしょうか?18節から25節までをご覧ください。ここには、アハズが神ではなくアッシリヤに頼ってしまった結果が記されてあります。まず、18節と19節です。
「その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。」
ここではアッシリヤだけでなく、エジプトも視野に入れて預言されています。これまでユダと北イスラエルの戦争の歴史は、周辺の小国とのいわば小競り合いにすぎませんでしたが、今度の戦いはそういうレベルではありません。南からはエジプト、北からはアッシリヤといった超大国が相手なのです。エジプトいう「はえ」が、また、アッシリヤという「蜂」がユダに襲いかかってくるのです。
それから、20節には、「その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。」とあります。ここにはアッシリヤの王の残虐さが描かれています。彼らは生きたまま人の皮膚をそぎ落とすというようなことをしました。また、目をえぐり出したり、舌にかぎ針を通して捕らえ移すという残虐な行為をしました。
そして21節と22節には、「その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。」とあります。これは多くの民がとりこにされ、殺されるので、家畜や食料が余るということです。
そして23節から25節です。「その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。」これはどういうことかというと、全土がいばらとおどろになるため、いくら土地を耕しても農作物が採れないので、仕方なく猟に出かけて行くようになるということです。
これはユダが主なる神ではなく、人間の力により頼んだ結果です。私たちが目に見える肉の力に頼れば一時的には解決したかのように見えますが、しかしそれはやがて自分をがんじがらめにするような事態を招くようになるのです。自分を救ってくれるはずのものが、かえって自分を苦しめる結果になってしまうのです。ですから、それは本当の解決ではありません。ほんとうの解決は、「インマヌエル」神がともにおられることにあるのです。
なぜ神がともにおられることが本当の解決なのでしょうか?なぜなら、神はキリストにおいてアラムやエフライムの連合軍やアッシリヤによる攻撃といったことから救われるといったところではない、永遠の滅びに追いやろうとするサタンの攻撃、すべての悪の根源である罪から救ってくださるからです。このイエスが私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられることによって、神はこの救いのみわざを成し遂げてくださいました。永遠の滅びから神共にいましの永遠の救いの中に、私たちを導いてくださったのです。ですから、イエス様は私たちのどのような問題や苦しみからも救うことがおできになるのです。これが本当の解決であり、救いなのです。
けれども、全く聖い神が汚れた人間の中に住まわれる事など考えられません。光がやみと交わることがないように、聖い神が汚れた人間と交わることなどあり得ないからす。しかし、神はこれをイエス・キリストにおいて実現してくださいました。聖い神が人間の姿をとってこの地上に生まれてくださったのです。真の神と真の人とがナザレのイエスにおいて全く一つになられたのです。イエス様がインマヌエルとなってくださることによってこれが実現してくださったのです。そしてこのイエス様が、神共にいましを実現してくださったのです。
今、祈祷会で、ヨセフの生涯を学んでいます。兄弟の憎しみによってエジプトに売られたヨセフは、主が彼とともにおられたので、主人ポテファルの家で成功させてくださいました。 けれども、主人の妻からの誘いを断ったため、今度は監獄に入れられます。しかし、聖書はそこで驚くべき事実を示しています。「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(創世記39:21)誰からも見捨てられたと思われるようなその監獄の中にさえ主はともにおられたので、彼は監獄の長の心にかなうようにされ、そこでなされるすべてのことを管理するようになったのです。主がともにおられるなら、どのようなことがあっても主が守り、主が祝福してくださいます。これが人生の成功の秘訣です。
マタイの福音書を見ると、その最初の1章のところで、「神は私たちとともにおられる」(1:23)と約束してくださった主は、その最後においてもともにいてくださると約束していることがわかります。28章20節のところです。あの有名な大宣教命令の中で、イエス様は、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、わたしが命じておいたすべてのことを守るように彼らを教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と言われたのです。 しかし、それだけではないのです。その真ん中の18章19節20節にも出てくるのです。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 つまり、私たちを罪から救ってくださるインマヌエルは、私たちの祈りに答えてくださるインマヌエルとして、また、伝道において支え、励ましてくださるインマヌエルとして、いつも私たちとともにいてくださるのです。
であれば、私たちは何を恐れ、何を心配する必要があるでしょうか。罪からの救いにおいて、また祈りにおいて、そして伝道において、私たちとともにおられる神は、いつでも私たちとともにいて、守ってくださいます。これが本当の救いなのです。罪に悩んでいる方がおられますか?伝道の困難を覚えている方がおられますか。そういう方は祈りましょう。心を注いで祈りましょう。主はそこにもともにいて、その祈りに答えてくださいます。私たちのすべての問題に完全に答えてくださるのです。その名はインマヌエルと呼ばれるようになる。これが私たちに与えられたしるしなのです。