イザヤ書11章10節~16節 「再び集められる主」

きょうはイザヤ書11章の後半部分から学びたいと思います。タイトルは、「再び集められる主」です。11章の前半部分では、エッサイの根株から出る新芽がどのような方であるのか語られていました。一言で言うなら、それは主の霊、聖霊に満たされた方であるということでした。主の霊に満たされた方として完全な王国をもたらしてくださいます。

きょうのところには、主の再臨の時に起こるもう一つの大きな出来事が預言されています。それは、イスラエルのエルサレム帰還です。全世界に散らされたいるユダヤ人がエルサレムに集められるということです。そういうことが起こります。そういうことが起これば、世の終わりが近いことがわかります。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.全世界の王キリスト(10)

まず10節をご覧ください。ここには、「その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。」とあります。

「その日」というのはイザヤの時代のことと、はるか先の世の終わりの時の両方を指しています。その日どんなことが起こるのでしょうか。エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝きます。「エッサイの根」とは、1節にも出てきましたがメシヤの称号のことで、イエス・キリストのことです。その日、イエス・キリストは国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝くようになるのです。どういうことでしょうか。実は、この箇所をパウロは引用しています。ローマ人への手紙15章12節です。

「さらにまた、イザヤがこう言っています。『エッサイの根が起こる。異邦人を治めるために立ち上がる方である。異邦人はこの方に望みをかける。』」

ここには、「異邦人を治めるために立ち上がる」とあります。パウロはここで異邦人の救いについて言及しているのです。ユダヤ人だけではありません。異邦人も、神のあわれみのゆえに、救われるようになり、ユダヤ人とともに心を一つにして、声をあわせて、イエス・キリストの父なる神をほめたたえるようになります。つまり、やがて来られるメシヤは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めた全世界の救い主となられるということです。全世界の王となられるのです。それが「国々の民の旗として立ち」という意味です。「その日」にはこういうことが起こります。この世の終わりの最後の七年間にわたる患難時代を経て、キリストがこの地上に降り立つ時、王の王、主の主として、千年間にわたる王国を治めるようになるのです。ここでは、その王国は「いこいの場所」と呼ばれています。キリストはユダヤ人ばかりでなく、全世界の民にとっていこいの場所なのです。全世界の人々が、キリストを避け所、いこいの場所、栄光とするのです。

あなたにとってのいこいの場所はどこですか?あなたは何を栄光としていますか?何に希望を置いていますか?この方がいこいの場所です。この方が栄光、希望なのです。あなたが求めるべきお方は、国々の民の旗として立たれるメシヤ、キリスト、救い主なのだということを覚えておきたいと思います。

Ⅱ.再び集められる主(11-13)

次に11節から12節までを見ていきましょう。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」

ここにも「その日」という言葉が出ています。これは先ほども申し上げたように、イザヤが生きていた時代と世の終わりの両方のことを指しています。その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られます。ここには「再び」とあります。これは以前にもそのようなことがあったということです。それは何でしょうか?それは出エジプトの出来事です。かつてイスラエルは430年もの間エジプトで奴隷の状態で捕らえられていましたが、主は力強い御手を伸ばし、そこから救い出されました。それと同じように、捕らわれているイスラエルを買い取ってくださるというのです。救い出してくださるというのです。

これはイザヤの時代においてはどんなことを指していたのかというと、バビロン捕囚のことです。イザヤの時代、アッシリヤという国が脅威でした。アッシリヤが攻めてくるのでどうするか、というのが最大のテーマでした。そして北イスラエルは神に頼らないでアラムの王レツィンと組んでこれに対抗しようとしたので、アッシリヤに滅ぼされてしまいました。B.C.722年のことです。しかし、南ユダ王国はどうだったかというと、ユダの王ヒゼキヤはイザヤの助言を受けてただ神に信頼して祈ったので、その危機を乗り越えることができました。主はヒゼキヤの祈りに答えて奇跡を起こし、一晩で十八万五千人ものアッシリヤの兵士を打ったのです。しかし、その後に興ったバビロニヤ帝国によって滅ぼされてしまいます。バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムにやって来てエルサレムの神殿を完全に破壊しました。B.C.586年のことです。そしてユダの民を捕囚としてバビロンに連れて行ったわけです。イザヤはそのことを預言しているのです。その時に散らされたのが、ここにある「アッシリヤ、エジプト、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々」です。けれども主は70年の捕囚の後にユダをあわれみ、彼らを再び祖国エルサレムへ戻されます。

しかし、ここで言われていることは、それだけではありません。世の終わりにおいても同じようなことが起こるのです。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を集め、ユダの追い散らされた者を地の隅から集められます。それまで世界中に離散していたユダヤ人が集められ、エルサレムに戻ってくるということが起こるのです。図らずも、それがこの私たちが生きているこの時代に起こりました。1948年にイスラエル共和国が樹立したのです。A.D.70年にローマ帝国によってエルサレムは破壊されると、そこに住んでいたユダヤ人は全世界に散らされましたが、神はこの預言の通りに地の四隅から彼らを集め、エルサレムに戻されました。いわゆるシオニズム運動です。全世界に住んでいたユダヤ人がパレスチナに戻るという運きが起こったのです。それで誕生したのがイスラエル共和国です。1948年5月14日、それが正式に国連で承認されて独立宣言をしました。1900年もの間、国を失い流浪していた民が再び集められることがあるでしょうか?考えられないことです。しかし、そのように考えられないことが実際に起こったのです。そのきっかけになったのが、第二次世界大戦でナチスドイツが600万人にものぼるユダヤ人を虐殺したという事件だと言われています。それで世界中からの同情を得たイスラエルは、国として独立することかできたのです。でもそれはここに書いてあるように、聖書の預言がそのとおりになったからなのです。神が語られたことは必ず実現するのです。私たちはこうした現実を見るとき、神のみことばである聖書は確かだなぁということがわかります。主イエスは言われました。

「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせないかぎり、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

天地が滅んでも、神の言葉は決して滅びることはありません。全部が成就します。私たちが本当に信頼できるのは、いつまでも変わることがなく必ず実現する神の言葉である聖書だということを覚えましょう。あなたは何に信頼を置いていますか。どんなにすばらしい人の言葉でも、どんなに魅力的な考えであっても、それは変わります。草はしおれ、花は散るのです。しかし、主の言葉はとこしえに変わることはありません。私たちが本当に信頼を置くことができるのは、神とこの真理の御言葉だけなのです。

ところで、この12節の「地の四隅から集められる」ということばですが、これはマタイの福音書24章31節で主イエスが引用しておられる言葉です。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」これは、世の終わりの前兆について、主イエスが言われたことです。世の終わりにはどのようなことが起こるのでしょうか。どのようなしるしがあるのでしょうか。世の終わりには、天の果てから果てまで、四方から選びの民が集められるのです。この「選びの民」のことをクリスチャンのことだ、教会のことだと解釈する人がいますが、そうではありません。それはユダヤ人のことを指しています。イスラエルの散らされた者たちのことです。それはここに「イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる」とあるからです。世の終わりには、イスラエルの散らされた者たちが地の隅から集められるのです。

ということは、これは既に成就したということなのでしょうか?先ほどイスラエルの散らされた者たちが世界中から集められ、1948年にイスラエル共和国ができたということをお話しましたが、そのことによって実現したのでしょうか?そうではありません。確かにそのことによってこの預言の成就が始まったと言えますが、まだ完全に実現してはいません。この完全な成就は、世の終わりまで待たなければならないのです。その日になると、世界中に散らされていたユダヤ人が再び集められるようになります。今も多くのユダヤ人がエルサレムに帰還していますが、同時にまた散らされてもいるのも事実です。中東情勢が不安定なのでせっかく祖国に戻って来ても、また逆戻りしていくというケースも少なくありません。しかしその時になると、世界中に散らされているユダヤ人が再び集められます。そのときにはもっと広大な土地を所有するようになるでしょう。なぜなら、神が約束された地はもっと広い土地だからです。それはまだ完成していません。けれども、既にそれが始まっています。その日が近いということを私たちは知ることができるのです。

主イエスは、いちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかると言われました。(マタイ24:32)かつて私が住んでいた家の駐車場にいちじくの木が植えてあって、車を駐車するのに邪魔なので何度か抜こうとしましたが抜けませんでした。根がかなり張っていたので、そう簡単には抜けなかったのです。しょうがないのでそのいちじくの木を何回か切りましたが、夏が近くなると枝が伸びて、葉が茂のです。主イエスが言われた通りです。今まさに枝が柔らかくなっている時期なのです。葉が出てきています。もう夏は近いのです。主が来られる日が本当に近いのです。あなたはその準備が出来ていますか?主がいつ来られてもいいように準備が整っているでしょうか。

マタイの福音書25章の中で、主イエスはこの再臨の主を待ち望む者のたとえとして、花婿を出迎える十人の娘の話をなさいました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢いでした。愚かな娘たちは、ともしびは持っていましたが、油を用意しておきませんでした。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていました。花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めました。その時です。夜中になって声がしました。「花婿だ。迎えに出よ。」娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えました。ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言いました。「油を少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘たちは言いました。「いえいえ、あなたがたに分けてあげだけはありません。それよりも店に行って、自分のをお買いになりなさい。」そこで、買い行くと、その間に花婿が来て、油の用意の出来ていた五人の娘たちと婚礼の祝宴に出かけて行った後で、もう戸が閉めらていました。  あなたは花婿であられるイエスを迎える準備が出来ていますか?ともしびとは信仰の光、油とは聖霊のことです。クリスチャンは、主イエスを救い主と信じる信仰とともに、この信仰を絶えず燃やし続ける聖霊の油を持ち、この聖霊に満たされていなければなりません。主の再臨を前に、すべてのクリスチャンは、聖霊を持ち、聖霊で満たされていなければならないのです。  花婿の到来はいつでしたか?夜中でした。主イエス・キリストの来臨も、クリスチャンが眠りこけているときかもしれません。サタンは必死に働いてクリスチャンを惑わそうとしています。教会は活気を失い、なまぬるくなるようにし向けます。「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)私たちも自覚して、ともしびとともに、聖霊の油を携えて、賢明に励みつつ、花婿なるキリストの来臨を待つべきです。

Ⅲ.大路が備えられる(13-16)

最後に13節から16節を見て終わりたいと思います。「エフライムのねたみは去り、ユダに敵対する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」

「エフライム」とは北イスラエルのことです。北イスラエルには12部族のうち10部族が属していましたが、そのうち一番大きな部族がエフライム部族でしたので、北イスラエルを指す言葉として「エフライム」を使っています。一方、「ユダ」とは南ユダ王国のことです。南ユダ王国には、ユダ部族の他にベニヤミン部族が属していましたが、その代表がユダ部族なので南ユダ王国のことを指して、「ユダ」と表しているのです。そのエフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られます。つまり、イスラエルの南北王国が統一されるということです。ソロモンの死後以来北と南に分裂していたイスラエルが、互いに敵対していた王国が、キリストが来られることによって統一されるのです。今、私たちが見ているイスラエルは、この預言の前ぶれです。世界中からユダヤ人がエルサレムに帰り、イスラエル共和国を作りました。その国は分裂していません。一つになった国です。しかし、その完全な実現はまだ見ていません。それはキリストが再臨された時に見るようになります。

彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪います。彼らはエドムともアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従います。ここに列挙された国々はかつてイスラエルを脅かした宿敵ですが、そうした国々が、ユダヤ人に従うようになるというのです。

今もイスラエルを脅かしている勢力があります。周辺にあるイスラムのアラブ諸国です。しかし、彼らもイスラエルに服し、イスラエルに協力するようになるのです。もはや誰もイスラエルの行く手を阻む者はありません。誰にも邪魔されることなく、エルサレムに戻ることができるのです。

15節と16節には、残りの民のエジプトとアッシリヤからの帰還が述べられています。15節「主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの水無し川とし、くつばきのままで歩けるようにする。」「エジプトの海の入江」とはエジプトの東の湿地帯のことです。エジプトはこれで守られていました。川はユーフラテス川です。メソポタミヤはこの川で守られましたが、その日、イスラエルの残りの民が帰還するとき、神は川であったユーフラテス川を七つの水無し川とし、くつばきのままで渡って来られるようにしてくださいます。

16節「残される御民の残りのもののためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルの地でエジプトのくにから上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。」イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、どんな道が備えられたでしょうか?主は紅海の水を真っ二つに分け、そこに乾いた道を作り、その道を通ららました。そうしてイスラエルは救い出されたのです。そのような道を備え、大路を備えられるのです。だれにも妨げられることなく戻ることができます。そのように主は道を備えてくださるのです。

問題は、あなたがその道を通るかどうかです。エジプトで奴隷であったイスラエルが、主の力強い御力によって解放されたように、再び、まことの救い主によって、罪の滅びの穴から救い出される者たちが集められます。私たちはエジプトを出なければなりません。罪の奴隷状態であるエジプトから解放されなくてはなりません。この大路を通らなければならないのです。まさに神の招きに応じて、一歩を踏み出さなくてはなりません。主が与えると言われる新しい秩序の御国の住人となるために、信仰の一歩を踏み出さなくてはならないのです。しかし、私たちをなかなか手放そうとしないこの世の秩序があるでしょう。古いしがらみがあり、古い誘惑があり、古い慣れ親しんだ罪の生活パターンが私たちを捕らえ離そうとしないことでしょう。

しかし、主は、「大路を備えられる。」(16節)。大切なのは、私たちの知らない祝福、今までこの世ではいかにしても与えられることもなく、しかし心のどこかで真に願い求めていた平和と平安の祝福を備えてくださる神を信じて、その大路を踏み出すかどうかにあるのです。主が備えられる大路を、あなたも信仰をもって踏み出してください。主があなたをも集めておられるからです。