イザヤ書12章1節~6節 「救いの泉」

きょうは、イザヤ書12章から学びたいと思います。タイトルは「救いの泉」です。イザヤは、2節で救われた者の賛美を次のように語っています。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」神は私の救いです。  きょうは、この賛美から三つのことをお話したいと思います。第一のことは、神は私たちの救いであるということ、第二に、救われた者の喜びです。そして第三のことは、そのように救われた者は、その救いを全世界に語り告げるようになるということです。

Ⅰ.神は私の救い(1-2)

まず第一に1節と2節をご覧ください。「その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

このところも「その日」ということばで語られています。「その日」とはイザヤ書におけるキーワードの一つであるということは、何度もお話していることです。それはイザヤの時代に起こることと同時に、終末の時代に起こることの両方のことが預言されてあるわけです。「その日」どんなことが起こるのでしょうか。ここには、「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」とあります。

これは神への賛美です。主は彼らを怒られたのに、その怒り去って、彼らを慰めてくださいました。これはイザヤの時代においてはバビロン捕囚のことが預言されています。イスラエルは神に背き自分勝手な道に歩んだので、神はバビロンという国を送り彼らを滅ぼしました。前586年ことです。イザヤがこれを預言したのは前720年の頃ですから、その後約150年後にこれが実際に起こることになります。神のみことばは真理なので、その通りに実現します。既に北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされていました。前722年のことです。このイザヤの時代に北イスラエルは滅ぼされましたが南ユダ王国は比較的に良い王様がいたので、もう少し長く生きながらえました。しかし、その南王国も高ぶって神に背いたので、遂には滅んで行くことになったのです。しかし、それはイスラエルを懲らしめるための神のさばきでした。その中で彼らが悔い改め、神に立ち返るようにとの神の愛のムチであったわけです。ヘブル人への手紙12章7節と8節には、「訓練と思って堪え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とありますが、それはイスラエルを愛するがための神からの懲らしめだったのです。ですから、彼らがその苦しみの中で悔い改めて神に立ち返ったとき、神は彼らを慰めてくださいました。捕囚となってから70年後に、ペルシャの王クロスによってエルサレムへの帰還を果たすことができたのです。神の怒りが去って、慰めを与えてくださいました。

それは遠い未来のことで言うなら、終末のことで言うなら、患難時代の出来事を預言しています。イスラエルはなかなか悔い改めず、神の救いを受け入れなかったので、神は反キリストとその勢力によって彼らを苦しめられます。いわゆる患難時代のことです。それはかつてなかったような苦しみで、それがあまりにもひどい苦しみなので、自分の死を願うほどでした。その中で多くの者が滅んでいきますが、残される者もいます。「残りの民」です。彼らはその苦しみの中でイエスをメシヤとして、救い主として受け入れるのです。こうして、イスラエルはみな救われるという聖書のみことばが実現するわけです。イスラエルが慰められる時がやって来るのです。神が怒られたのは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを救うためでした。神は彼らをねたむほど愛しておられたので、彼らを救うために怒られましたが、その怒りが去り、慰められるのです。第二コリント人への手紙7章9節から10節を開いてみましょう。

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

パウロはコリントの人たちが悔い改めるようにと、少々きつい言葉で手紙を書きました。その手紙を読んだコリントの人たちはとても悲しみましたが、そのことによって彼らが悔い改めに導かれたので、今はそれを喜んでいると言ったのです。神のみこころに添った悲しみは、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみはそうではありません。世の悲しみは死をもたらすのです。皆さん、悲しみには二種類の悲しみがあります。神のみこころにそった悲しみと、世の悲しみです。神のみこころにそった悲しみは悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。イザヤ書で語られている慰めは、この神のみこころに添った悲しみです。そこから生じた慰めなのです。神は神に背いていたイスラエルを悲しまれ、彼らを懲らしめるために懲らしめを送られましたが、その怒りが去り、彼らを慰めてくださったのです。

神はあなたをも慰めてくださいます。神のみこころに従おうとせず、自分の思いや自分の考えをどこまでも通そうとすることで痛い目にあったり、悲しい思いをすることがありますが、そのことによって悔い改めが生じ、真の慰めを受けるようになるのです。

そのときあなたはこう言うでしょう。2節、「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」

「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。」この「私の救い」はヘブル語で「ヨシュア」(イェホーシュア)です。意味は「ヤハウェは救い」になります。そしてこのギリシャ語がイエスなのです。ですから、イエス・キリストのイエスは「ヤハウェは救い」という意味です。イエスが救いです。イエスは主です。メシヤです。キリストです。「わたしはあるというものである」とご自身を現された創造主なる神なのです。救いはこのイエスに信頼することから生まれます。主に信頼するので恐れることはありません。心配もいりません。不安もありません。不平、不満もありません。イエスが救いとなられたからです。イエスが救いとなって、ただ地獄の底に滅びなければならなかった者を十字架にかかって贖い出してくださったので、この方に信頼するなら、何も恐れることはないのです。

「信頼する」とはヘブル語で「バタハー」と言います。意味は「大の字になってゴロンと横になる」です。信頼するというのは、大の字になってゴロンと横になることです。日本的に言えば、「まな板の鯉になる」ということでしょうか。完全に神の御手にゆだねることです。煮ても、焼いても、何をしてもいいです。あなたの好きなようにしてくださいと、自分のすべてをあなたに明け渡すことです。それが「信頼する」ということなのです。そしてこの信頼があれば、何も恐れることはありません。あなたには、この主への信頼があるでしょうか。  F・B・マイヤーは「信仰はバケツだ」と言いました。信仰がバケツのようにイエスの泉から水を汲み取ってくれるのです。救いの泉から信仰というバケツをもって汲み取るので、もう何も恐れることがありません。

「ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。」「ヤハ」とは、あいさつではありません。「やあ」・・・。これは「ヤハウェ」の省略形です。もっと短い表現では、ただの「ヤ」と表現する時もあります。これは神への賛美です。主の怒りが去り、慰めてくださったので、主が救いとなってくださったので、私は主をほめたたえますという歓喜が溢れているのです。

皆さん、イエスは私の救い、あなたの救いとなられました。罪のためにもう滅びるしかなかった私の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。この十字架の死によって、罪の贖いを成し遂げてくださったのです。十字架の贖いによって神の怒りは去り、私たちを慰めてくださいました。信じる者を赦してくださったのです。イエスが救いです。私たちの救いの源は、十字架にかかって死なれたイエスにあるのです。そのイエスの救いを受けた者は恐れることはありません。賛美と感謝に溢れるようになるのです。あなたが主なる神にすべてを明け渡し、信頼するなら、主はあなたの救いにもなられるのです。

Ⅱ.救いの泉(3)

次に、救われた者の喜びを見ていきたいと思います。3節をご覧ください。ここに、「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」とあります。この神の救いを体験すると、そこに喜びが溢れるのです。

このみことばは、ユダヤ教の三大祭りの一つである仮庵の祭で歌われました。仮庵の祭りは、イスラエルの民が出エジプトをしてから荒野を旅していていた間、天幕を張っていた時、神の守りと恵みがあったことを思い出し、その感謝を表すもので、イスラエルの民はみなエルサレムに上り、これをお祝いしました。右手にルーラーブと呼ばれる木の枝の束を持ち、左手にはモスログと呼ばれる収穫を表すものを持って、エルサレムにやって来るのです。そこでゼカリヤ書14章8節のみことばが朗読されると、巡礼者の行列はシロアムの池に向かいました。そこでひとりの祭司がその水を汲み、その水を神殿の祭壇に注ぐのですが、その神殿に向かう間人々は、このイザヤ書のみことばを合唱したのです。ただ合唱したのではありません。跳んだり、跳ねたりして喜びを体一杯に表しながら合唱したのです。

よくキャンプのフォークダンスで踊る「マイム・マイム」は、この時の踊りです。マイム・マイムの歌詞は、このイザヤ書12章3節のことばそのものです。「マイム・マイム・マイム・マイム・ベッサソン」「マイム」とは「水」のことです。「さばくの まん中 ふしぎなはなし みんなが集まる 命の水だ」と歌っているのですが、それは荒野を旅していたイスラエルが、その砂漠で水をみつけた嬉しさを歌った歌なのです。日本的に言えば、「ヒャッハー!水だぁー!」「新鮮な水だー!」。といった歓喜の歌です。それを日本ではキャンプファイヤーで踊るわけです。水ではなく火を囲みながら、「水、水、水、新鮮な水」と踊るのです。おもしろいですね。

しかし、これはもともとイスラエルが荒野を旅してる間、水がなくなった時に、岩を裂いて水をあえたくださった神の奇跡を歌った歌なのです。荒野での旅路において水がどれほど貴重なものであったかは、だれもが用意に想像することができると思います。神さまはその水を与えてくださったのです。それは彼らにとってどれほどの救い、助け、喜びであったことでしょう。そのことを表しているのです。シロアムの池に行って水を汲み、それを互いに讃美しながら神殿に持って行き、そこで祭壇の周りを一巡してそれを注ぎました。七日目には、かつてエリコの城を七回巡ったとと同じように、祭壇の周りを七回繰り、「ホサナ」と歌いながら注ぎました。それは歓喜の歌だったのです。詩篇78篇15節と16節には、「荒野では岩を割り、深い水からのように豊かに飲ませられた。また、岩から数々の流れを出し、水を川のように流された。」とあります。それは彼らにとって決して忘れてはならない、いや忘れられない大いなる恵みだったのです。それで、彼らはこの歌を歌いながら、喜び踊りながら、シロアムの池から水を汲んで主の祭壇に注いだのです。

ところで、ここには「救いの泉から水を汲む」とあります。この「救い」というのは先ほども申し上げたように「イェホーシュア」です。「ヨシュア」、つまり、イエスのことです。イエスは救いの泉です。彼らはイエスの泉から水を汲んだのです。私たちはイエスから、救いの水を汲むことができるのです。

そのことを表しているのがヨハネの福音書7章37節~39節にあるイエスのことばです。開いてみましょう。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

この祭りとは、先ほど言ったように仮庵の祭りのことです。その祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、お声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と。 この祭の終わりの大いなる日というのがいつなのかははっきりわかりません。七日目なのか、八日目なのか、学者によって意見が分かれているからです。七日目であるとすると、金曜日の最後の日ということになりますが、八日目だとすると、その祭りの最終日が安息日と重なることになります。おそらく八日目のことでしょう。レビ記23章34節をみると、八日目も聖なる会合を開かなければならないとあるからです。その日が安息日と重なったので「大いなる日」と呼ばれていたのです。その日に、イエスは立って、大声でそのように言われました。立って、大声で言われたというのは、それがそれほどに重要な内容であったからです。それがこのことばでした。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

この祭りの大いなる日、八日目の安息日にはシロアムの池から水を汲むことはしませんでした。空のままで神殿に行き、そこでいけにえをささげたのです。なぜなら、もうその必要がなくなったからです。荒野での旅を終えたイスラエルは、神が約束してくださった地カナンに入りました。荒野での旅路が終わったので、 超自然的な水の供給を受けなくてもよくなったのです。約束の地には水がふんだんにあるので水の供給は必要なくなりました。イエス・キリストこそ真の安息なのです。荒野にいたとき神が岩を裂き超自然的な方法で水を与えてくださったのは、このイエス・キリストのことを指し示していたのです。Iコリントにそのように書いてあります。10章4節です。「みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」その岩とはキリストのことだったのです。しかし、約束の地に入ってからは、その岩は必要なくなりました。真の岩なるキリストが直接与えてくださるようになったからです。そのキリストが与えてくださる水がこれなのです。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

この水は、生ける水です。Living Waterです。それは心の奥底から流れ出る水の川です。それは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことです。この水を飲む者は決して渇くことはありません。この水は単にのどの渇きや肉体の渇きを癒すだけでなく、私たちの心の渇きをも癒し潤してくださるからです。私たちはイエスの泉から水を汲むことによって、真の癒しと満たしを受けることができるのです。それはメシヤにしかできないことでした。そのメシヤが到来され私たちの心の渇きも何もかもいやしてくださる。そのメシヤこそイエスだったのです。

イエスは私たちの渇きをいやされる方です。かつてサマリヤの女に対してイエスは、このように言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲むものはだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)

物質世界は常に私たちに渇きをもたらします。いろいろな宣伝広告をして購買意欲を駆り立てて、そして商品を買わせます。しかし、どんなに買っても心は満たされません。一時的な満足は与えてくれても、またすぐに渇くのです。多くの人は欲望が満たされれば、それで幸福になれる考えていますが、そうではありません。お金にしても、物にしても、地位や名誉にしても、そうしたものを手に入れ、欲望が一応満たされることによって、私たちの心が本当に満たされるかというとそうではありません。欲望が満たされても、魂が飢え渇いていることを感じるのです。

かつてアーサー・ホーランドという巡回伝道者の証を三回聞いたことがあります。その中で先生は、この世のありとあらゆる遊びを経験したけれども、決して満たされることはなかったと言いました。一時的な満足は得られても、また渇くことになった・・・と。それはこの世のいかなるものをもってしても満たされることはできません。ただ神にかたどって造られた魂が、その造り主であられる神のみもとに帰ることによってのみ、満たされるのです。

あなたがいま渇いているなら、イエスのもとに来ることです。イエスは二度と渇くことのない生ける水を与えてくださいます。もう渇きたくないならば、いつも不平不満ばっかり言っている、そんな人生から解放されたいと思っているなら、イエスのところに来て飲まなければなりません。キリストのもとに来るとは、キリストを単純に信頼することです。キリストにあなたの魂を投げ出せばよいのです。だれか他の人に、他のものを代わりにすることではなく、キリストのところに来て、キリストにすべてを任せればいいのです。そうすればあなたの心にも、聖書が言っているとおりに、生ける水の川が流れ出るようになるのです。そればかりではありません。主の救いの泉から水を汲む人は、その渇きが癒されるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉にもなるのです。それがその次に記されてあることです。

Ⅲ.そのみわざを語り告げよ(4-6)

4節から6節までをご覧ください。「その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」

「その日」ということばがここでも使われています。「その日、あなたがたは言う。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。」と。1節では「その日、あなたは言おう」と個人の賛美でしたが、ここでは「あなたがたは言う」と集団の賛美へと展開しています。個人の賛美では「主よ。私は感謝します」となるのですが、集団の賛美では「主に感謝せよ」となります。あなたがたは感謝せよ、あなたがたは呼び求めよ、あなたがたは知らせよ、あなたがたは語り告げよ、となるわけです。

主に感謝する人は、必ずそれを他の人に伝えずにはいられなくなります。国々の民の中に知らせるようになるわけです。教会に行ってただ賛美歌を歌って「ハレルヤ、主を賛美します」というだけが賛美ではありません。歌は主をほめたたえるための一つの手段にすぎません。歌を歌えないときでも賛美することができるわけです。言葉にならない時でも賛美できます。歌によって主をほめたたえることはすばらしいことですが、あなたのふるまいによっても主をほめたたえることができます。時には無言のふるまいによっても主をほめたたえることができます。祈りによって主をほめたたえることができます。証すること、伝道することによっても主をほめたたえることができます。教会に集って礼拝のプログラムに参加することだけが賛美ではありません。感謝することも、その御名を呼び求めることも、国々の民に知らせることも、主をほめたたえることなのです。

私たちは実際に宣教地に行って伝道することはできないかもしれませんが、そのために祈り、捧げることによって世界宣教の恵みに預かれることができます。直接的に伝道はできないかもしれませんが、その人たちのために祈り、ささげることによって同じ恵みに預かることができるのです。私たちはいろいろな方法で賛美することができます。感謝を表すことができます。ここではその賛美を、全世界に知らせることによって表すようにと勧められているのです。

皆さん、主をほめたたえる者は黙ってはいられません。そのすばらしさを一人でも多くの人に伝たいと思うようになるのです。ハレルヤ、あなたがたは主を賛美せよ、と言いたくなるのです。主の救いの泉から水を汲む人は、その渇きが癒されるだけでなく、ほかの人を潤す祝福の泉にもなるのです。主はすばらしい方、主はあなたのためにどんなにすばらしいことをしてくださったのか、それを国々の民の中に知らせよ。そうすれば、あなたは私とともに主をほめたたえる者になります。それがここで言われていることです。

その日が必ずやってきます。今はその気はありません。今は賛美する気にならないのですという人も、その日が来ると賛美したくなります。全ての口がイエスを主と告白し、ひざをかかめてほめたたえる日がやって来ます。その日は世の終わりのことを預言していると言いましたが、それが遠い未来のこととは私には思えません。その日がもうそこまで来ているように感じます。イエス・キリストはいつ戻って来ても不思議ではありません。私たちはそういう時代に生きているのです。それは今晩かもしれません。明日かもしれません。今年中にそれがあるかもしれません。それはそう遠くはありません。あなたにはその準備が出来ていますか?あなたは、このように言うことができますか。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に告げ知らせよ。御名があがめられるていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる。大いなる方。」「ハレルヤ」と。

主はあなたの救いとなられました。あなたは喜びながら救いの泉から水を汲みました。このすばらしい方をほめうたい、国々の民の中で語り告げましょう。