伝道者の書1章1~18節「空の空 すべは空」

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今日からご一緒に伝道者の書を学びたいと思います。4月からNHKで放映されている「こころの時代、宗教・人生」という番組で、小友聡先生がこの「伝道者の書」からお話ししています。テレビで聖書の話を放映するのは珍しいと思って一度だけ観ましたが、そのタイトルがずっと心に残りました。「それでも生きる」です。ちょうど今、社会はコロナウイルスの問題で生きづらい状況にあるのではないかと思いますが、神が「それでも生きよ」と呼びかけておられるのではないかと思いました。これからしばらの間この伝道者の書からご一緒に学んでいきたいと思います。

Ⅰ.空の空 すべては空 (1-3)

まず、1~3節までをご覧ください。「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

「エルサレムでの王、ダビデの子」と言えば、ソロモンですから、これはソロモンのことばと考えて良いでしょう。しかし、この「伝道者」という語はへブル語では「コヘレト」と言いますが、これは集会を主催する人、あるいは説教者という意味があることから、この書の著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて「知恵」を語っていた人ではないか、その人がソロモンの名を借りて語ったのではないかと考える人もいます。それで新共同訳ではこの伝道者という語の原語である「コヘレト」から、これを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。また英語の聖書では、「伝道者のことば」を「The words of the Preacher」と訳しています。

では、伝道者は何を伝えたかったのでしょうか。伝道者はその基本的なメッセージを最初と最後にまとめています。2節をご覧ください。ここには「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「空」と訳されたことばは、へブル語で「ヘベル」です。これは「蒸気」とか「煙」のことを表しています。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、このことばを38回も使っています。つまり、人生とは煙のようにつかの間ではかなく消えていくものであり、掴みようがないものであるとうことです。皆さん、煙を掴んだことがありますか。煙は、確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。たとえば、この世には美しいもの、良いものがたくさんありますが、それを楽しんでいる最中に悲劇が起こり、すべてが吹き飛んでしまうことがあります。また、人は正義を信じていますが、往々にして善良な人に悪いことが起こることがあります。旧約聖書に登場するヨブの人生はまさにそうでしょう。そのように人生とは予想がつかず、安定せず、伝道者のことばを借りれば風を追うようなもの、つまり、「へベル」なのです。この「空の空」という言い方は、「主の主、王の王」という言い方と同じで、「空の中の空」という意味です。つまり、最も強い空しさを表しています。「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」ということです。「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」これが、伝道者が伝えたかったことです。何とも気がめいってしまうような話です。しかし、伝道者はそれだけで終わっていません。ずっと「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」と語りながら、最後にこう言うのです。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

これが伝道者の言いたかったことです。この世のすべては空しいのだから、どこに希望を置いて生きるのか、何を見て生きるのか、どのように生きるべきなのか、そうです、結局はこれなのです。神を恐れること、神の命令を守ること、これが人間にとってすべてなのです。伝道者は、このことが言いたくて、この世がどれだけ空しいものなのかを、これでもか、これでもかと、たたみかけるように語るのです。

それにしても、なぜ伝道者はこのように言ったのでしょうか。聖書と言えばキリスト教の正典であり、だれもが心に響く言葉が書かれているものだと思っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と聞くと、そうだ、こんなことでつぶやいていちゃだめだ。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなきゃいけない。さすが、聖書の教えは違うな。神の教えだ、と思うでしょう。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)と聞けば、そうだな、なんで明日のことをそんなに心配しているんだろう。明日のことは明日が心配するんだから、神様にすべてをゆだねよう。感謝!となるのですが、「空の空。すべては空。」とあると、何だか生きる気力が削がれてしまうような気がします。それはこれを書いた伝道者が物事を斜に構えて見ていたからではありません。むしろ、こうした現実を突きつけることによって、ある一つの真実を強く訴えたかったからです。それは何でしょうか。それは、神を抜きにしての人生がいかに無意味であるかということです。一般に人々は、究極的には意味のないどうでもいいことに多くの時間とエネルギーを費やしては一喜一憂しているわけですが、果たしてそのことにどれだけの価値を見出すことができるでしょうか。そのことを伝えるために彼は、逆説的に「ヘベル。ヘベル。すべてはヘベル。」「空の空。すべては空。」「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」と最上級の表現を用いて、そうではないと、神を信じて生きることの重要さを訴えているのです。

3節をご覧ください。「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」この「日の下で」ということばも、この書のキーワードの一つです。全体で29回、「地上」ということばと合わせると35回も使われています。これは地上の目に見える世界のことを表しています。それは神を忘れた人間の世界であり、神を抜きにした人生のことを意味しています。その日の下でどんなに労苦しても、いったいそれが人に何の益になるでしょうか。なりません。

人間は常により良い世界、より住みやすい世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、どれだけ人の幸福につながってきたでしょうか。確かにインターネットは驚くべき発展を遂げ、社会はとても便利になりました。しかしそのことでかえって世の中が忙しくなり、みんな疲れ果てているのではないでしょうか。技術の進歩が競争を世界的なレベルまで引き上げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。まさに、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」です。適度な労働は神が人間に与えてくださった祝福ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人間が神から離れてしまったことでその労働の真の意味が色あせてしまい、空しいものになってしまったのです。

Ⅱ.日の下には新しいものが一つもない(4-11)

次に、4節から11節までをご覧ください。日の下で、つまりこの世の人生には何の益もないということを述べるにあたり、伝道者はここでその理由を3つの角度から語ります。まず、4節です。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」

人生の空しさの第一の理由は、人生はうつろいやすいということです。地はいつまでも変わりませんが、人は過ぎ去って行く存在にすぎません。新共同訳聖書ではこう訳されています。「一世代過ぎればまた一世代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」しかし、その大地でさえ消え去ると聖書は言っています (Ⅱペテロ3:10)。こうやって見ますと、変わらないものは何もないということになります。人生はそのようにはかないものなのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。」

次に伝道者が上げている理由は、自然現象の繰り返しです。自然界は同じ動きを繰り返しているだけで、何か益になるものを作り出しているわけではありません。たとえば、日は上り、日は沈みます。そしてまた、元の昇るところへと戻って行きます。また風は南に吹いたかと思うと、巡って北に吹きます。つまり、ぐるぐると巡り巡って吹いているだけなのです。これは科学的にも証明されています。伝道者はそれを、今から三千年も前に知っていました。川はどうでしょうか。7節、川はみな海に流れ込みますが、それで海が満ちるかというとそうではありません。なぜ?水は蒸発して元の場所に戻って行くからです。どの川も同じ行程を繰り返しているだけなのです。これが水の循環システムです。私たちにとっては当たり前のことですが、このことは近代まで証明させていませんでした。ですから、日が昇ったり、風が吹いたり、雨が降ったりしても、実質的には昔から何も変わっていないことになります。それらは単調な、延々とした繰り返しで、何の変化もありません。

では、私たちの人生はどうでしょう。同じです。8節から11節までをご覧ください。「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」

どういうことでしょうか。人生も同じで、満たされることはないということです。もっと、もっとと、何かあると思ってその満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。人間の労苦も同じことで、過去にあったものの繰り返しです。新しいものは何一つありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、それも昔からあったものにすぎません。たとえば、ファッションはどうでしょう。新しいファッションは、実は昔あったものと同じものであることが多いのです。考え方にしてもそうです。何か奇抜なアイデアのようなものでも、ずっと昔に既に考えられていたものです。日の下には新しいものは何一つないのです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものは何一つありません。

しかし、日の上は違います。日の上には新しい創造があります。Ⅱコリント5:17には、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。だれでも、キリストのうちにある者は、新しく造られた者です。イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく造られます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。それは、今までになかったものです。ですから、聖書にはイエス・キリストを信じた人は新しい人と呼ばれているのです。それに対して古い人もいます。考え方が古いというのではありません。イエス・キリストによって新しく生まれ変わっていない人のことです。イエス・キリストを信じるなら、だれでも新しく造られるのです。ですから、日の下にあって、単調な日々の繰り返しのようであっても、主イエス・キリストを信じて新しく造られ、神とともに生き生きとした創造的な人生を生きていただきたいと思うのです。

11節には、「前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあります。過去のことは忘れられてしまいます。これは老人になって記憶が衰えてしまうということではありません。どれほど偉大なことをしてもそれはその時のことだけで、後の時代の人々がずっと覚えていることはないということです。先週、新しい総理大臣が誕生しました。菅義偉さんです。しかし、その前の総理大臣がだれだったか覚えていますか。あの小渕官房長官が「平成」と書いて始まった時の総理大臣はだれですか。覚えている方は少ないでしょう。竹下登総理大臣です。今話題にしていることや注目していることも、少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまうのです。そのような一時的なもののために自分の人生のすべてを費やしているとしたら、それは本当に空しいことではないでしょうか。そのように語る伝道者のことばは、実に私たちの人生の空しさを的確に言い当てています。

映画やテレビの脚本を数多く手がけた脚本家の田中澄江さんは、23歳のとき東京にある聖心女子学院の教師になりました。そのとき、彼女は英国人のマザー・ラムから公教要理の講義を受けましたが、その時マザー・ラムが発したことばに衝撃を受けます。「人は何のために生まれましたか。神を知るためですね。」
これは彼女に取って衝撃的なことばでした。「『神を知るためだ』と言われたとき、大粒の涙が机の上にこぼれ落ちて、『そうだ、ほんとうにそうだ、神を知るために生まれたのだ」と全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。』」と言いました。

あなたはいったい何のために生きていますか。私たちももし神を知らなかったら、どんなに有名人になったとしても、決して心の飢え渇きを満たすことはできません。それは、神を知り、救い主イエス・キリストを信じることによってもたらされる恵みです。イエス・キリストを信じたことで永遠の命が与えられ、永遠の命に至る食物のために働く者とされたことを感謝しましょう。

Ⅲ.知的探求の空しさ(12-18)

第三に、12節から18節までをご覧ください。しかし、伝道者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見いだそうといくつかのことを試みました。12-13節をお読みします。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。」

ここで伝道者は、改めて自分の立場を書き記します。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。」つまり、彼はエルサレムでイスラエルの王であり、富も地位も力も持っていたということです。彼は天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。つまり、知的探求によって人生の意味を見いだそうとしたのです。しかしそれは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事でした。つまり、人は「何のために生きるのだろう」「この人生の苦しみに意味があるのだろうか」などと思い巡らしているうちに、そのこと自体に疲れ果ててしまったのです。「人間は考える葦である」(パンセ347)と言ったのはパスカルです。確かに人が他の被造物に勝っているのは考えるという能力ですが、しかし、どんなに考えても究極的な答えを見出すことができなません。結局のところ、伝道者が見出した結論は次のことでした。14-15節です。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」

伝道者は、日の下で行われるすべてのわざを見ました。彼は最高の教育を受け、科学、哲学、歴史、芸術、文化、宗教などあらゆる分野において豊かな知識を得ました。しかし、彼が経験したすべてのことは空しく、風を追うようなものでした。「風を追うようなもの」とは、あの「ヘベル」、「空」であるということです。「ヘベル」とは、蒸気とか、煙のことだと申し上げましたが、煙のように確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。風も同じです。確かに吹いているのに、どんなに掴もうとしても掴むことができません。つまり、風を追うように、空しく、空虚で、無意味であるということです。

曲げられたものをまっすぐにすることはできません。欠けているものを、教えることはできません。これは、この世には不可解なものがたくさんありますが、それを人間の知恵で理解したり、修正したりすることはできないということです。ではどうすれば良いのでしょうか。どうすれば曲げられたものをまっすぐにすることができるのでしょうか。どうすれば、欠けているものを、数えることができるのでしょうか。

伝道者は、続いてこう述べています。16-18節です。「私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

彼は、自分はエルサレムにいただれよりも豊富な知恵と知識を増し加えたと言っています。そればかりではありません。知恵と知識とともに、狂気と愚かさも知ろうとしました。念のために、両極端を試してみたというわけです。その結果わかったことはどんなことでしたか。それもまた、風を追うようなものであるということです。知恵と知識だけでなく、反対の狂気と愚かさも試してみて、それもまた、風を追うようなものであったというのは、何をやってもダメだということです。風を追うようなもの、ヘベルです。すべては空なのです。それどころか、彼は重要な真理を見出しました。それは何ですか。18節です。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」 知恵が多くなればなるほど悩みも多くなり、知識を増せば増すほど苛立ちも増します。このことがわかっただけでも大したものです。なぜなら、人は、知的探求の道に限界を感じる時、神を見上げるようになるからです。

ひとりのインテリ青年が牧師のところへきて、科学的、文学的にキリスト教に対して難解な質問をあびせかけ、牧師を困らせました。ついに牧師は答えに行き詰り、沈黙してしまいました。
すっかり得意になってしまった青年は、牧師に別れを告げて意気揚々と帰ろうとしました。その時、その牧師が静かに言いました。「もしもあなたに、謙遜があったなら」
このひとことが青年の胸を打ちました。彼は、自分はさまざまな知識を持ち、立派な人間だと思っていましたが、謙遜がなかったことに気がついたのです。そして心から悔い改め、その夜、彼は救われました。この青年こそ、後に伝道者になった河辺(かわべ)貞(てい)吉(きち)(1864~1953)という人です。彼は、日本自由メソジスト教会の創立者となり、説教者として活躍しました。

そうです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、本当に知るべきことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。本当の知恵は、イエス・キリストにあります。キリストは神の知恵、神の力と呼ばれました。ですから、この神の知恵であるキリストを知り、キリストを愛するなら、人生の生きる意味が教えられ、空しさから解放され、心満たされて生きることができるのです。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるというのでしょうか。何の益にもなりません。しかし、キリストを知り、キリストを愛するなら、すべてが益になります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)

日の下には、新しいものは一つもありませんが、しかし、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。どんなに知恵を求めても、どんなに知識を求めても、あるいは、その逆のことを求めても、日の下にはあなたの心を真に満たすものは何もありません。それらのことは、すべて空しく、風を追うようなものなのです。しかし、神の知恵であられるイエス・キリストを求めるなら、あなたの心は真の満たしを受けるでしょう。これが、伝道者が見出したことでした。

先ほどパスカルのことをお話ししましたが、彼は、「私の心の中には、本当の神以外にはとても満たすことができない、真空がある。」という有名なことばを残しています。彼は、ソロモン王のように様々な知識を探究しいろいろな発見もしましたが、それらのものが自分の中にある空洞を満たすことはできないことに気付いたとき、回心して、キリストを信じました。彼が23歳の時でした。

しかし、残念ながらその後彼は、数学や物理学の研究に熱中するあまり、生ける神から離れてしまいます。そして31歳になったとき、真の悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができました。その時の彼の祈りが記録されています。それは1654年のことでした。
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安。ああイエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となって下さったとは。キリストの神が私の神。私は、あなたを除くこの世のすべてと、その一切のものを忘れ去ります。福音書に示された神こそ真実の神です。私の心は大きく広がります。正しき父よ。世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。私はあなたから離れていのちの水の源を塞いでいましたが、わが神よ。あなたは私を捨てたりなさいませんでした。どうか私がこれより後、永久にあなたから離れませんように。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト、イエス・キリスト、私は、彼から離れて、彼を避け、彼を捨てて、彼を十字架につけました。しかし、これより後、私が彼から離れることが永遠にありませんように。福音書に記されたあなたこそ、まことの神です。ああ、全き心、心地よい自己放棄、イエス・キリストよ、私はあなたと、あなたのしもべたちに全く従います。私の地上の試練の1日は、永遠の歓喜となりました。私はあなたのみことばを永遠に忘れません。アーメン。」

この祈りには、彼の充実した思いが込められています。これまで知的に探究することで満たされるであろうと思っていた心の真空は満たされませんでしたが、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じたことによって与えられた神の霊によって、彼の心の空洞は完全に満たされたのです。

イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

あなたは、イエス様が与える水を飲みましたか。この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

あなたが探究しているものは何ですか。日の下で行われるものは、すべてヘベルです。空です。しかし、日の上から与えられるもの、主イエスが与えてくださるものは、あなたの心を完全に満たしてくださいます。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。もう信じている方は、パスカルのように、もう一度自分の心を点検しましょう。あなたの心がキリストから離れていないかどうかを。そして、もし離れているなら、悔い改めて、主に立ち返りましょう。そして、主が与えてくださる永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。イエス・キリストはあなたを満たしてくださいます。この方は、決してあなたを裏切ることはありません。ここに答えがあります。このキリストにすべてをゆだね、キリストに従い、あなたも真の満たしを受けてください。