今日は、サムエル記第一29章から学びたいと思います。
Ⅰ.このへブル人たちは、いったい何なのか(1-3)
まず、1-3節をご覧ください。「ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続いた。ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」」
話は再び、ダビデに戻ります。この箇所は、28:2に続くものです。ペリシテ人は全軍をアフェクに終結し、イスラエル人はイズレエルにあるほとりに陣を敷きました。「アフェク」とは、シュネムとイズレエルの間に位置していたと思われる町です。28:4には、ペリシテ人は集まって、シュネムに来て陣を敷いたとありますから、ペリシテ人が自分たちの支配地からイスラエルの地にかなり入ったところまで軍を前進させていたことがわかります。また、イスラエルもイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いたとありますから、それまで陣を敷いていたギルボアよりも軍を前進させていたことがわかります。
ペリシテ人の領主たちは、百人隊、千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュと一緒にその後に続きました。ペリシテ人の軍勢は、5大都市国家の連合軍から成っていました。各軍には首長(王)がいて、その首長たちによって率いられていましたが、アキシュはその一人で、ガテの王でした。ダビデとその部下は、そのアキシュと一緒にその軍の後に続きました。
すると、それを見た他の首長たちが、「このヘブル人たちは、いったい何なのですか。」と言いました。「ヘブル人」という言い方は、異邦人がイスラエル人を指して言う場合によく使われた呼び方です。これからそのイスラエル人と戦おうとしているのに、どうしてそのイスラエル人が一緒にいるのかといぶかしがったわけです。当然と言えば当然です。途中で寝がえりをされることも考えられるわけですから。
それに対してアキシュは、ペリシテの主張たちに言いました。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいる。私のところに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」
ダビデはサウルの手から逃れるためにアキシュのところで仕えましたが、王と同じところにいるのは畏れ多いと別の町を与えてくれるように願うと、アキシュは彼にツィケラグという町を与えたので、そこに住みました。そこでダビデは、アマレク人やゲゼル人などの町を襲っては、男も女も殺し、その略奪品の一部をアキシュに献納していたので、アキシュはダビデをすっかり信用していました。実際にはダビデが襲った町々はユダの町々ではなく他の町々でしたが、ダビデはアキシュの信頼を勝ち取るために、そのように虚偽の報告をしていたのです。その間、1年4か月です。ここでアキシュは他の首長たちに、「この1,2年、私のところにいる」と言っていますが、それはアキシュが説得力を増すために誇張して言ったことでした。また、「私のところかに落ちのびて来てから今日まで、私は彼に何の過ちも見出していない。」と言っていることばからも、彼がどれだけダビデを信頼していたかがわかります。
Ⅱ.ペリシテの首長たちの反対 (4-5)
次に、4-5節前半をご覧ください。「ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてほしい。あなたが指定した場所に帰し、私たちと一緒に戦いに行かせないでほしい。戦いの最中に、われわれに敵対する者となってはいけない。この男は、どのようにして自分の主君の好意を得るだろうか。ここにいる人たちの首を使わないだろうか。この男は、皆が踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌っていたダビデではないか。」
しかし、他の4人の首長たちは、アキシュのことばを聞いて、腹を立てました。いくらアキシュに何の過ちを犯していないと言っても、戦いの最中に寝がえりしないとも限りません。自分の主君の好意を得るために、自分たちの首を使うことだって考えられます。何と言っても、この男は、皆が踊りながら、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と歌っていたあのダビデですから、油断は禁物です。そう釘を刺したのです。どういうことでしょうか。
確かに、ダビデはイスラエル人と戦うつもりはありませんでした。むしろ、この状況からどのように脱出できるかと思案していたことでしょう。ですから、この出来事の背後には、主の御手があったのです。主はこのような方法でダビデが罪を犯すことがないように守ってくださったのです。ダビデは約束の地から離れてしまったために、このような危険な状況を招いてしまいましたが、主はそんな彼を苦しみから解放してくださるために、このペリシテの首長たちの怒りを用いられたのです。これはまさに主が導いたというか、主が引き起こしたことだったのです。
このようなことは私たちの生活の中にもよくあるのではないでしょうか。本当はあそに行く予定だったのに何らの出来事によって行くことができなかったけれども、そのことによって危険から救われたとか、あの時こうしたいと思っていたけども、こういう問題が起こってできなくなってしまったが、そのお陰でこうなったというようなことです。
先週「赦しのちから」という映画を観ました。とてもすばらしい映画です。福音が余すところなく自然に語られています。この映画は、クロスカントリー競技の一人の高校生の少女ハンナのストーリーです。彼女が通う高校はバスケットボール部が強く、州の決勝にも出場するほどの実力がありました。しかし、その町の工場が閉鎖されたことで、その高校に通う多くの生徒が他の地域へ引っ越すことが余儀なくされました。せっかく来年は州で優勝しようと思っていた矢先に部の存続さえ危うくなってしまいました。結局、バスケットボール部は廃部となりコーチのジョンはクロスカントリー競技のコーチになるのですが、部員はたった1人で、喘息持ちの少女でした。それがハンナでした。しかし、彼女もパッとしませんでした。どの大会に出場してもあまり良い成績ではなかったのです。
そんな時、彼が通う教会のメンバーのお見舞いに病院に行った際、隣の部屋に入院していた一人の男性と知り合いました。彼はかつてクロスカントリーで州で3位になったことがある人で、しかし、アルコールやドラッグで人生を台無しにしてしまったこと、今は糖尿病などの合併症で両目の視力を失い、死を待つだけの状態だが、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、すべての罪が赦され、神の子とされて、新しい人生を始めることができたことを聞きました。それでジョンは、彼からクロスカントリーのコーチのやり方を教わるのですが、その時彼は15年前に一人の娘を捨てたことを告げるのです。それが、ハンナでした。ハンナは、祖母から両親は死んだと聞いていたので、そのことを聞いたときとても驚きますが、自分を捨てた父親を赦すことができませんでした。
しかし、ある日彼女は校長先生から、自分がどれほど神に愛された者であるか、そのために神は御子イエス・キリストを与えてくださったことを聞いて、イエス様を信じて心に受け入れたのです。そして、校長のアドバイスにしたがいエペソ書1,2章を読みながら、自分が何者であるかを知るのです。すなわち、自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャンであるということです。彼女は罪が赦されたことを思うと、父を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っている状態でしたが、それを告げたのです。
そして、クロスカントリーの州大会で、ジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それで彼女は州大会で、何と優勝することができたのです。
この映画は、赦しのちからがどれほどの力であるかということを描いていますが、同時に、バスケットボールの廃部によってクロスカントリーという別の道が開かれ、もっとすばらしい神の栄光にあずかることができたジョンの人生をも描いていると思いました。
私が福島に住んでいたとき、家のオーブンが壊れてしまったことがありました。オーブンといっても家のオーブンは小さなものではなく米国製の大きなものでした。家内の料理はオーブンを使うのがほとんどで、オーブンがないととても不便なのです。どこが悪いかとガス屋さんに点検してもらったら、どうもオーブンの裏の配管がネズミにかじられていたようでした。オーブンの裏には断熱材もあるので心地よかったんでしょうね。でもそのお陰でこちらは大変でした。交換するにしてもすぐには手に入らないし、お金もかかります。悪いことにというか、いつもですが、どこにもお金がありませんでした。でもそれがないと仕事になりません。神様、助けてくださいと祈ってもお金が降ってくるわけではないし、八方塞がりでした。しょうがないので生命保険の掛け金から借り入れようとしましたが利子が取られるので、あまり平安がありませんでした。結局、家内を説得して保険会社から借りようと申込書を投函したのですが、いつになっても連絡が来ませんでした。どうしたのかと電話をしても、先方では申込書が届いていないというのです。「おかしいな、ちゃんと送ったのにどうしたんだろう。早くしてください」とお願いしたのですが、それでも手続きが一向に進みませんでした。
そうこうしているうちに、アメリカの教会から連絡がありました。私たちのために献金を送ったので生活のために使ってほしいという内容でした。私たちはそのことをだれにもお話ししていなかったし、その頃はほとんどアメリカの教会からは献金はなかったので不思議に思いましたが、それがちょうど借り入れようとしていた金額と同じだったのです。
それですぐに保険会社に電話をして、借り入れが不要になった旨を伝えました。先方では申込書が届いていたのですが担当者のミスで見落としていたということでしたが、実はそうではなく、私たちが借り入れをしなくてもいいように、神が手続きを遅らせておられたのです。手続きがスムーズに進んでいたら手数料が取られていたでしょし、それを解約するにも手間がかかったことでしょう。しかし、そういうことがないように、担当者の方が見落としてくれるように導いてくださったのです。
日々の生活の中で、このように主の御手を見ることができる人は幸いです。私たちはどうしようもない時でも主に祈り、主がその中に働いていてくださることを信じて、主の解決、主の助け、主の導きを待ち望みたいと思います。
Ⅲ.ダビデの演技(6-11)
最後に、6-11節をご覧ください。「そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは真っ直ぐな人だ。あなたには陣営で、私と行動をともにしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、あなたには何の悪いところも見つけなかったからだ。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちが気に入らないことはしないでくれ。」ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのですか。あなたに仕えた日から今日まで、しもべに何か過ちでも見出されたのですか。わが君、王様の敵と戦うために私が出陣できないとは。」アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということをよく知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが『彼はわれわれと一緒に戦いに行ってはならない』と言ったのだ。さあ、一緒に来た自分の主君の家来たちと、明日の朝早く起きなさい。朝早く、明るくなり次第出発しなさい。」ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」
そこでアキシュは、ダビデを呼んで事情を説明します。なぜ彼を戦いに連れていかないのかを。まず彼は、ダビデがどれほど真実な者であるのかを認め、自分と一緒に戦いに来てほしかった思いを伝えます。ここで彼は、「主は生きておられます」と、ダビデの神の名、イスラエルの神の名を呼んでいます。それはアキシュが誠実に事態を伝えようとしていたからです。
しかし、ペリシテの他の領主たちがダビデのことを快く思いませんでした。自分がどんなに彼を連れて行きたくても、彼らがそのように思わない以上、ダビデを連れていくことはできません。したがって、このまま穏やかにツィケラグに帰ってほしいということでした。ツィケラグは、アキシュによって与えられた町でした。「穏やかに」とは、他の領主たちを起こらせないでということです。気持ちはわかるが、ここであれやこれやと言って波風を立てるようなことをしないでほしい。このまま静かに帰ってほしいということです。
それに対してダビデはどうしましたか。ダビデは、「私が何をしたというので、王の敵と戦うために出陣できないのか」(8)と、食ってかかります。内心は「ああ、助かった」とほっとしたはずですが、アキシュに対しては、いっしょに行けないのは心外であると答えたのです。ものすごい演技力ですね。彼は、おそらく最高の役者にも慣れたのではかと思うくらい、良いしもべを演じきりました。
それを聞いたアキシュはどうしたでしょうか。彼は、ダビデの演技が偽りであることにも気付かず、彼の忠誠心がどれほど正しいものであるかをよく知っていると勘違いして、でも、ペリシテの首長たちが反対している以上、連れて行くわけにはいかないので、自分の家来たちと、翌朝早く、明るくなり次第出発するように命じました。かくしてダビデは、自分で努力することなく、板挟みから解放されました。ペリシテ人たちの異議申し立てによって、ダビデはそこから解放されたのです。彼を戦いから解放することは主のみこころだったのです。それは神のあわれみによるものでした。
私たちの人生においても、主は同じように働いてくださいます。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)あなたの人生にも脱出の道も備えていてくださると信じて、ますます主に信頼しましょう。