出エジプト記35章を開いてください。金の子牛の事件によって神との契約を取り消されたイスラエルでしたが、モーセのとりなしによって神の赦しを得て、再び神との契約を結ぶことができました。モーセは40日40夜、シナイ山で主とともにいました。彼が山から降りて来ると、彼の顔が輝きを放っていました。それでモーセはイスラエルの民と話し終えると、顔に覆いを掛けました。その輝きを失わないためです。そして主と語るために主のもとに行く時は、その覆いを外していました。それは、律法の限界を示していました。確かに、律法にはそれなりの輝きがありますが、それによって救われることはありません。けれども、人が主に向くならその覆いは取り除かれます。そして鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行くのです。それが御霊の輝きです。その輝きは律法のように一時的なものではなく永続した輝きです。
そして35章に入ります。ここには、モーセがシナイ山で受けた幕屋と祭司の事柄について記されてあります。幕屋は神の臨在が現われる場所です。モーセは、その幕屋を建設するにあたり、主が行えと命じられたとおりに行っていきます。これは25~31章で語られた内容の繰り返しです。このように繰り返して記されてあるということは、それだけ重要であるということです。ここから私たちは、どのようにして主の働きをしていったら良いかを学びたいと思います。
Ⅰ.安息日の規定(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「モーセはイスラエルの全会衆を集めて、彼らに言った。「これは、【主】が行えと命じられたことである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は、 あなたがたにとって【主】の聖なる全き安息である。この日に仕事をする者は、だれでも殺されなければならない。 安息日には、あなたがたの住まいのどこであっても、火をたいてはならない。」」
これから幕屋の材料を集めること、幕屋を造る作業を開始させるのですが、その初めに安息日についての規定について語られました。それは、彼らが本当に大切なもの、第一にすべきものを見失わないようにするためです。本当に大切なものとは何でしょうか。主を礼拝することです。言い換えると、主ご自身を求めることです。以前にもお話ししましたが、主のための働きは主を礼拝するという行為があってこその働きです。主を礼拝することこそ本質的なことであって、それに伴う作業はその次のことなのです。
クリスチャン生活と教会、諸活動の中心は、主を礼拝することです。信仰生活の他の点でどんなに成長していても礼拝の生活が確立されていなかったら、あるいはまた、教会のどの活動に力を入れても、礼拝がその中心に据えられていなかったら、すべては空回りしてしまいます。礼拝こそ信仰の中心であり、礼拝によって強められ、励まされ、燃やされ、一週間の生活に遣わされていきたいと思います。
Ⅱ.進んでささげるささげ物(4-19)
次に、4~9節をご覧ください。まず、9節までをお読みします。「モーセはイスラエルの全会衆に告げた。「これは【主】が命じられたことである。あなたがたの中から【主】への奉納物を受け取りなさい。すべて、進んで献げる心のある人に、【主】への奉納物を持って来させなさい。すなわち、金、銀、青銅、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。」
モーセはイスラエルの全会衆に、主への奉納物を持ってくるように命じました、これらは25:4~7にもあった15種類の材料です。ここでは、そのささげものを献げるにあたっての心構えが記されてあります。それは、「すべて、進んで献げる心のある人に、主への奉納物を持って来させなさい」ということです。義理とか、義務感からではなく、心から、喜んでささげる者から受け取るようにということです。Ⅱコリント9:6~7でパウロは、このように言っています。「私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」
これが献金についての原則です。献金について聖書の中で貫かれている原則は、自分自身のもの、特に自分にとって尊いものを主に献げるということと同時に、それらが自分の意思で、主体的に、喜んで献げるということです。他の人が献げているからとか、牧師にそのように言われたからとかではなく、自分の心で決めたとおりに、喜んで献げるということです。神は喜んで献げる人を愛してくださいます。実際、スラエルの民は、心から進んで献げました(35:21,22,29)。その結果、あり余るほどのささげものが献げられたのです(36:5-7)。
次に、10~19節をご覧ください。「あなたがたのうち、心に知恵ある者はみな来て、【主】が命じられたものをすべて造らなければならない。幕屋と、その天幕、覆い、留め金、板、横木、柱、台座、 箱と、その棒、 『宥めの蓋』、仕切りの垂れ幕、机と、その棒とそのすべての備品、臨在のパン、ともしびのための燭台と、その器具、ともしび皿、ともしび用の油、香の祭壇と、その棒、注ぎの油、香り高い香、そして幕屋の入り口に付ける入り口の垂れ幕、全焼のささげ物の祭壇と、それに付属する青銅の格子、その棒とそのすべての用具、洗盤とその台、庭の掛け幕と、その柱、その台座、庭の門の垂れ幕、幕屋の杭、庭の杭、そのひも、聖所で務めを行うための式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。」」
ここには、ささげられた材料を使って幕屋やその中にあるもの、あるいは祭司の装束を造るようにと言われています。誰にそのことが命じられているかというと、「心に知恵のある者」です。心に知恵のある者はみな来て、主が命じられたものをすべて造らなければなりませんでした。心に知恵のある者とはどういう人でしょうか。それは人間的な言い方をすれば職人さんたちのことでしょう。ただの職人さんではありません。これは神の知恵、神の霊に満たされた、御霊の賜物が与えられていた人たちです。このようなものを巧みに造ることができる特別な能力を神から与えられている人がいます。そのような人たちに命じられているのです。30~31節には、「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。」とあります。また、「ダン部族のアヒサマクの子オホリアブ」にもそのようにされました。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神から与えられた仕事を成し遂げるためです。
同じように神様は、私たち一人一人を召し、主から与えられた仕事を成し遂げるために、御霊の賜物を与えてくださいました。Iコリント12章には、「奉仕にはいろいろな種類があり、働きにはいろいろな種類がありますが、主は同じ主です。みなの益になるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」(12:4-7)とあります。神から与えられている賜物は、それぞれみな違います。ちょうど人間のからだは一つでも、そこに多くの器官があるように、キリストのからだにもいろいろな種類の賜物が与えられた人たちがいるのです。それぞれに与えられた賜物を通して、主のからだである教会が建て上げられていくのです。それはどういうことかというと、第一に、私たちはそれぞれを必要としているということです(12:21)。それぞれ互いに補い合ってこそ、教会はしっかりと建て上げられていくのです。第二のことは、比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものであるということです。私たちはからだの中で比較的に尊いとみなす器官をことさらに尊ぶ傾向がありますが、神は違います。劣ったところをさらに尊んで調和させてくださいます。そうやってキリストのからだが立て上げられていくのです。
Ⅲ.心を動かされた者、霊に促しを受けた者(20-35)
それに対して、民はどのように応答したでしょうか。20~29節をご覧ください。「イスラエルの全会衆はモーセの前から立ち去った。心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、【主】への奉納物を持って来た。進んで献げる心のある者はみな、男も女も、飾り輪、耳輪、指輪、首飾り、すべての金の飾り物を持って来た。金の奉献物を【主】に献げる者はみな、そのようにした。また、青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮を持っている者はみな、それを持って来た。銀や青銅の奉納物を献げる者はみな、それを【主】への奉納物として持って来た。アカシヤ材を持っている者はみな、奉仕のあらゆる仕事のためにそれを持って来た。また、心に知恵ある女もみな、自分の手で紡ぎ、その紡いだ青、紫、緋色の撚り糸、それに亜麻布を持って来た。心を動かされ、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。部族の長たちは、エポデと胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石を持って来た。また、ともしび、注ぎの油のため、また香りの高い香のために、香料と油を持って来た。イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」 モーセの前から立ち去った民はどのように応答したでしょうか。「心を動かされた者、霊に促しを受けた者はみな、会見の天幕の仕事のため、そのあらゆる奉仕のため、また聖なる装束のために、主への奉納物を持ってきた。」(21)
ここで繰り返して記されていることは、「心を動かされた者」、「霊に促しを受けた者」です。つまり、彼らは自分のものをささげるときに、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、自分でささげたいと思って、それを心から喜んでしたということです。そこには聖霊による感動がありました。それは、金の子牛の事件の罪が赦されたという感動でもありました。さらに、主の栄光が再び宿るという恵みへの感動でした。
29節をご覧ください。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな、【主】がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして【主】に持って来た。」とあります。ここには、「イスラエルの子らは男も女もみな」とあります。金の子牛を作るためにアロンが指定したのは金だけでした。金を持っていない人たちはそれに参加することができませんでした。しかし、幕屋の建設は違います。幕屋の建設のためには15種類のものが必要とされました。つまり、誰でも参加することができたのです。事実、民は主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、あり余るほどのささげものを献げました。神の事業には、全員が参加するのです。
それは、神の教会も同じです。教会は牧師だけの働きによって成し遂げられるものではありません。信者全員が参加することによって建て上げられていくものです。まさに全員野球です。そのことを覚え、喜んで主の働きに参与させていただきましょう。
最後に、30~35節をご覧ください。「モーセはイスラエルの子らに言った。「見よ。【主】は、ユダ部族の、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たされた。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、意匠を凝らす仕事をするためである。また、彼の心に人を教える力をお与えになった。彼と、ダン部族のアヒサマクの子オホリアブに、そのようにされた。主は彼らをすぐれた知恵で満たされた。それは彼らが、あらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、彫刻する者、設計する者、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で刺?する者、また機織りをする者の仕事を成し遂げるためである。」
祭具や祭司の彫刻において細工が必要ですが、そのために主はベツァルエルを名指しで召されました。そして、彼が幕屋のあらゆる仕事を成し遂げるために、彼に知恵と英知と知識を与えました。神の霊で彼を満たされたのです。神は、ご自身の働きのために召してくださった人にこのように神の霊を与えてくださるのです。教会において、神の働きにおいて必要なのは能力がある人ではなく、神の霊に満たされた人です。神の霊、知恵と英知と知識なのです。
もうひとりはオホリアブという人物です。彼はベツァルエルの補助者となりました。彼はダン部族の出身でした。最大のユダ部族からベツァルエルが召され、最小のダン部族からオホリアブが召されました。ここから、神はイスラエル12部族のすべてを用いようとしておられたことがわかります。主は彼らをすぐれた知恵で満たされました。それは彼らがあらゆる仕事と巧みな設計をなす者として、神の幕屋を制作するという仕事を成し遂げるためです。これは主が名指しで召したとあるように、神の主権によって成されたことでした。
この原則は、新約の時代の教会にも言えることです。エペソ4:11~13節には、「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」とあります。
主は、キリストのからだを建て上げるために、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある日外たちを牧師また教師としてお立てになりました。名指しで召されたのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きを指せ、キリストのからだを建て上げるためです。ですから、他の兄姉に与えられた賜物をねたんだり、うらやましがったりする必要はありません。互いの賜物を認め合い、キリストが建て上げられていくことを求めて、自分に与えられた賜物を喜んで主に用いていただきましょう。