きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」
主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。
それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。
Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)
まず、11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」
「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは既に7:16にもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権であるらです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」
神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。
「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分の言うことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。
「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」
神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにもちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神様との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話の線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。
ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。
12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」
これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「それで」とか、「そこで」という接続詞があります。
「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」
つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、それらは、決して彼らを救わないということです。「犠牲を供えている神々」とは、偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。
私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまであちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけのことです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決はあなたが罪を悔い改めて、真の神に立ち返ることです。あなた自身が変えられることです。そのことを忘れないでください。
13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」
彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。ヨシヤ王の宗教改革はB.C.621年でした。その時ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後(B.C.609)、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていました。元の状態に戻ってしまったのです。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。
これは私たちにも言えることです。信仰が単なるパフォーマンスになってしまうことがあります。信仰が私たちの生活の中に根差し、私たちの生活を変えるところまでいかないことがあるのです。私たちも考えなければなりません。私たちの中には、町の数のほどの偶像はないかということを。私たちの中心に主イエスがおられ、主イエスを死者の中からよみがえらせてくださった神の御霊が、私たちの心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださるように祈りましょう。
Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)
次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」
これは、とりなしの祈りの禁止令です。ここで主はエレミヤに、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。
15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的にはいけにえをささげるために来ていましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかというのです。彼らの神殿で行う宗教的儀式というは彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。
16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」
「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。主はかつて彼らの名を「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれました。ところが、その美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。具体的には、バビロンによって滅ぼされるということです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。
オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。
「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」
折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。それは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。こうしてイスラエルはみな救われます。神の賜物と召命は変わることがないからです。すごいですね、神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。
にもかかわらず、その「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主が」とありますが、彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル神を礼拝して、主の怒りを引き起こしてしまったのです。
このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が接ぎ木してくださったからであり、一方的な神の恵みによるのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうことがあるということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことをすっかり忘れてしまいます。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満といったものが消え去り、感謝が満ち溢れるようになるのではないでしょうか。
Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)
最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」
「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。それを計画していたのは何と、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。彼らはエレミヤの語る主のことばを聞いて「ウザい!」と思っていました。そして彼を殺そうとしていたのです。エレミヤ当初その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださいました。
主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、そのような時に限って、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。
いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。
- 経済的理由。彼の偶像礼拝に対する非難は、偶像を造る者たちの商売に損失を与えたから。
- 宗教的理由。破滅と闇のメッセージは、人々を憂うつにさせ、罪悪感を起こさせた。
- 政治的理由。彼は公に偽善的な政治を非難した。
- 個人的理由。民は自分たちが間違っていると指摘されたので、彼を嫌った。
皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま
す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。
問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」
これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。
その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それが21~23節にあることです。それは、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。
あなたはどうですか?不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。一難去ってまた一難です。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。