イザヤ書41章1~13節 「恐れるな、たじろぐな」

きょうは、イザヤ書41章のみことばから、「恐れるな、たじろぐな」というタイトルでお話したいと思います。私たちの人生には常に恐れや不安がつきまといますが、そうした恐れが私たちを取り囲むとき、いったい私たちはどうしたらいいのでしょうか。きょうはこのことについて、力強い主の語りかけを通して学んでいきたいと思います。

Ⅰ.ひとりの者(1-7)

まず初めに1節から7節までをご覧ください。1節をお読みします。「島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。」

ここで主は、「島々よ」と語られます。島々とはだれのことでしょうか?イスラエルから見た島々、それは地中海の島々のことです。あるいは、世界中の島々のことと言ってもいいでしょう。日本も島国の一つですから、これは日本のことも含めて語られていると考えてよいかと思います。ですからこれはイスラエルに対して語られているのではなく、イスラエル以外の偶像を伏し拝む国々のことを指して言われているのです。どんなことが語られているのでしょうか?「わたしの前で静まれ」とか、「新しい力を得よ」ということです。これは良い意味で語られているのではなく、ある意味で皮肉っぽい意味で語られています。というのは、そのあとのところに「近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう」とあるからです。さばきの座というのは裁判のことです。ここでは裁判の法廷のシーンが背景に語られています。偶像を拝む諸国の民に対して、いったいどちらが本物の神なのか、どちらが信頼に値する力ある神なのかを論じ合おうではないか、というのです。そのために、どうぞ新しい力を得て来てください、と呼びかけているのです。

2節から4節までをご覧ください。ここではまず主なる神の力が語られています。「だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」

2節に記されてある「ひとりの者」ですが、これがだれなのかについては見解が分かれるとこです。一般的に多くの学者は、この「ひとりの者」とは後に起こるメディヤとペルシャの連合軍、メド・ペルシャ帝国の王であったクロスのことではないかと考えています。それはこのイザヤの時代よりも200年も後に出てくる王であります。このイザヤの時代、南ユダ王国はアッシリヤ帝国の攻撃を受け、まさに風前の灯火のような状況でした。まだメド・ペルシャ帝国は起こっていません。それが起こるのはそれから200年も後のことであります。実際にこのアッシリヤの後に起こるのがバビロニヤ帝国です。このバビロニヤ帝国によって南ユダ王国は滅ぼされ、バビロンへと捕らえ移されます。そこでバビロンの奴隷として70年の時を過ごすわけでありますが、そのバビロンを滅ぼしたのがこのメド・ペルシャ帝国です。その王様がクロス王なのです。それがこのイザヤ書の後半の背景になっていることですが、それは実にこのイザヤ時代から200年も後のことであって、そのことがここで預言されているわけです。「ひとりの者」が東から起こって、その行く先々で勝利を治めます。実際、前539年にメド・ペルシャ帝国の王クロス王はバビロンを滅ぼすと、その行く先々で勝利を収めました。そしてこのクロス王によってイスラエルはエルサレムへの帰還を果たします。そのことがここに預言されているわけです。ですから、この「ひとりの王」とはクロス王のことであるのは間違いありません。彼については44章28節と45章1節のところにも「油注がれた者クロス」と名指しで語られています。主はイザヤを通して、200年も後に起こることを、しかも実際に名前まで挙げて予め語ってくださったのです。それはまさに驚くべき事ですが、全知全能の神はこのようなこともおできになられる方なのです。

しかし4節を見ると、ここに「だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」とあります。このことを成し遂げたのは「わたし」だとあることから、この「ひとりの人」とはイエス・キリストのことを指しているのではないかと考える人もいます。特にここには「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。」とありますが、これはイエス・キリストが黙示録1章8節で語っておられることでもあるのです。「わたしはアルファであり、オメガである。」ですから、これはイエス・キリストのことでもあるわけです。ではいったいこれはどういうことなのでしょうか。

こういうことです。この「ひとりの人」とはペルシャの王クロスのことであり、また、その背後で彼を導いておられたイエス・キリストのことであったということです。この場合クロス王はキリストの陰、型として描かれていて、本体はキリストなのです。神はペルシャの王であったクロス王を起こし、神の民を勝利に導き、そこから解放してくださいましたが、それはやがて罪の奴隷の中にある人類を全く解放してくださる真の救い主イエス・キリストがおいでになられるということの預言でもあったのです。その救い主の模型のようにして、歴史的に見せてくれたのが、このクロス王であったというわけです。

ですから、やがて世界においでになられる救い主は、ペルシャのクロス王どころではないのです。真の解放者であられるイエス・キリストは、ほんとうに打ちひしがれた人たちを助けてくださる方なのです。そして、私たちはこのことが実際に成し遂げられたことを歴史を通して知っています。ペルシャの王クロス王は(ひとりの者)行く先々で勝利を収めバビロンを滅ぼすと、そこに捕らわれていたイスラエルを解放し、祖国エルサレムへと帰還させたように、それから約539年後にアダムが罪を犯して堕落して以来、人類をその罪の縄目から救い出してくださると旧約聖書の中でずっと預言されてきたメシヤ、救い主、キリストがユダのベツレヘムで生まれ、33年の罪なき生涯を送られたにもかかわらず十字架にかかって死なれ、三日目にその死の中から復活されたことによってその御業を信じる者に、全き解放をもたらしてくださいました。私たちはこのことを知っているのです。私たちの神はそのひとり子イエス・キリストによって、私たちを罪から解放してくださった救い主なる方なのです。

それに対して島々はどうでしょうか。5節から7節までをご覧ください。「島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ」と言う。鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。」

諸国の民は、クロス王のとどまるところを知らない快進撃を見て恐れます。そしてどうしたかというと、お互いに励まし合ってクロス王に対抗しようとするのです。ここに「兄弟」とあるのは、諸国の民がクロス王に対抗するために同盟を結んでいたことを示しています。主が起こした征服者クロス王に対抗して、すべての国々が互いに力を合わせます。そして、彼らは自分たちを守ってくれる偶像を、さらに揺るがない堅固なものにしようと、偶像をくぎで固定させ動かないようにするのです。そうした偶像は自分を造った人たちによって守ってもらうしかない、無力な存在にすぎないからです。この地上での戦いを見れば、誰が真の神なのかは一目瞭然です。どちらが本当の神なのでしょうか?誰が真の神ですか?その答えは、その行く先々で勝利を収めた神です。ペルシャの王クロスによって現された罪から解放してくださったイエス・キリストこそ真の神であって、私たちが信じるに値する方なのです。

Ⅱ.わたしはあなたを選んだ(8-9)

次に8節と9節をご覧ください。ここには、なぜ神はイスラエルを助けてくださるのか、その理由なり、根拠なりというものが記されてあります。それは、彼らは神のしもべであるからです。神の所有とされた民だからです。「しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」

ここで主はイスラエルのことを、「わたしのしもべ」と呼んでおられます。イスラエルは神によって特別に選ばれた民です。それだけではありません。ここには「わたしの友、アブラハムのすえよ」とも呼ばれています。主はイスラエルを国々の中から選び出してご自分の所有とされただけでなく、ご自分の友とされました。「しもべ」という言葉を聞くと私たちは否定的なイメージを抱きがちです。なんだか自由がなく、こき使われるといったイメージを抱きますが、実はしもべであるということはそうではなく、主人に守ってもらえる立場に置かれたということでもあるのです。イスラエルは主なる神によって選ばれた神のしもべです。ですから、どんなことがあっても神は彼らを守ってくださるのです。

ここには「わたしのしもべ」のあとに、「イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ」とありますね。ヤコブは神に選ばれました。彼には双子の兄弟で兄のエサウがいましたが、神が選ばれたのは弟のヤコブでした。二人とも同じ両親イサクとリベカの子どもで、しかもヤコブは弟でエサウはお兄さんでした。にもかかわらず、神はエサウを退けヤコブを選ばれました。どうしてでしょうか?多くの人たちは彼らにはもともとそういう素地があったからではないか考えています。つまり、エサウよりもヤコブの方が性格的にすぐれていたからだというのです。たとえば、あのレンズ豆の煮物の事件がそうです。エサウは長子の権利をあの一杯のレンズ豆の煮物と交換して渡してしまいました。エサウには神の祝福を軽んじる愚かさがあったと言うのです。しかし、そういう点で言うならば、ヤコブはもっとひどい人間でした。彼はその名前のごとく「かかとをつかむ者」「おしのける者」でした。その性格は生まれた時から表れていました。彼は生まれた時、お兄さんのかかとをつかんで出てきました。お兄さんが先に出ていこうとすると、「ちょっと待って。ボクの方が先に出るから。」と兄さんのかかとをつかんで離さなかったのです。それでもタッチの差で兄さんの方が先に出ると、その長子の権利をどうやったら奪えるかと考えました。「そうだ、兄貴は食べ物に弱いから、狩りをしてお腹を空かせて帰ってきた時に美味しい煮豆を用意していたら、きっとその権利を渡すに違いない」と、長子の権利も、家督の権利も、全部奪い取って逃げて行きました。彼はまさに自分勝手な者の代表的な人物のような者です。エサウもひどい人間でしたが、ヤコブはもっとひどい人間でした。しかし神様はそんなヤコブを選ばれたのです。なぜでしょうか?パウロはその驚くべき理由をこのように語っています。

「その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。」(ローマ9:11-12)

ここでのポイントは、それは彼らがまだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに定められていたということです。すなわち、神様がヤコブを選ばれたのはヤコブが人間的にすぐれたいたとか、何か良いことを行ったとかということからではなく、神さまの一方的で自由な選びによるものであったということです。

人間の頭の中には因果律というものがあって、結果には必ずそれに至る原因があると考えます。たとえば、ある人が事業に成功すると、この人がどうして成功したのかを考えて、彼が一生懸命に努力したからだとか、タイミングが良かったから成功したんだと言うわけです。あるいは逆に失敗したりすると、「あの人は悪いことばっかりしているからだ」とか、「私たちの知らない大きな罪があったからあんなふうになったんだ」と考えるのです。多くの災難で苦しむヨブに、その友人たちが取った態度はまさにこうでした。しかし、聖書にはすべてがそういうわけではないと書かれています。特に救いに関して言うならば、私たちの性格が良いからだ、悪いからだといった、私たちの側に何らかの原因があるからではなく、それはただ神様の一方的な恵みでしかないというのです。人間的に見たらどうしてエサウが憎まれ、ヤコブが救われたのかわかりませんが、神様はずっと前からそのように選んでおられたのです。ご自身の民と定めておられました。ですから、どんなことがあってもヤコブを、イスラエルを捨てられることはないのです。

それは民族としてのイスラエルだけのことではなく、霊的イスラエルである私たちクリスチャンにも言えることです。エペソ人への手紙1章3節から5節までを開いてみましょう。ここには、「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:3-5)とあります。

クリスチャンもまたキリストにあって選ばれた者です。それは生まれる前から、いや世界の基の置かれる前からそのように定められていたのです。私たちがどんな人間であろうと、私たちがどんなことをしたかといったことと関係なく救われるようにと、世の始めから定められていたのです。多くの人はこの選びの教理を語ると、「最初から救われる人と救われない人がいるなんて不公平ではないか」といぶかり、この選びの教理を受け入れられないばかりか、こうしたみことばにつまずいてしまうことも少なくありませんが、聖書が言っている救いとはこういうことなのです。そして、救われてご自身の子どもとされたのならば、神のしもべ、イスラエルとされているならば、どんなことがあってもあなたが捨てられることはありません。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」(9b)とあるとおりです。

私たちは、時々、「神に捨てられたのではないか」と感じる時があります。祈っても祈っても暗い霧が晴れず、どんなにもがいても、どうにもならないという時がありますが、神は決してあなたを捨てたのではありません。「私は神に捨てられたのではないか」と思うそのとき、実は神はあなたの苦しみをともに担っておられるのです。そして、あなたを一歩一歩導いておられるのです。神はあなたが辛いと思うようなときにもあなたとともにいて、あなたを助けてくださいます。神は私たちを選んでくださったので、たとえ私たちが谷間の干からびた骨のような者であっても見捨てることはないのです。

何度か紹介したことがありますが、マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩をもう一度紹介したいと思います。家内に言わせると「またか」と言われるのですが、これは何度聞いてもいい詩です。

「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、 わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。 いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、 わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」    神は決してあなたを捨てたりはなさいません。ましてあなたが苦しんでいるような時に、あなたから離れるようなことはなさらないのです。あなたが苦しいときこそ、神はあなたの苦しみを共に担っていてくださるのです。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。

Ⅲ.恐れるな、たじろぐな(10-13)

ですから第三のことは、恐れないでください、たじろがないでくださいということです。10節から13節までのところをご覧ください。10節をご一緒に読んでみましょう。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

本当にすばらしいみことばですね。このみことばは、ぜひとも暗記しておきたいみことばの一つです。実際、このみことばによって支えられたという方も少なくないかと思います。これまで何千年もの間、苦難の中にあった多くの人たちを助け、支え、強めてきたみことばです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

これはイスラエルに限定されたことばではなく、私たちにも語られていることばです。人間だれでも恐れます。そのように恐れることが多いからこそ、主は何度も何度も、「恐れるな」と言って励ましてくださるのではないでしょうか。この中にも、何かのことで恐れているという方がおられるでしょうか?仕事を失うかもしれない、大きな病気になったらどうしよう、人から嫌われてしまうのではないか、これから家族はどうなってしまうのだろう・・・、そういった恐れがあるでしょうか?しかし、心配しないでください。あなたを愛し、あなたを罪から救い出し、あなたの神となってくださった主は、あなたがどのようになっても、あなたを守ってくださいます。

その根拠はどこにあるのでしょうか?第一に、「わたしはあなたとともにいる」です。この天地万物を造られた創造者なる神がともにいてくださいます。この神は人が造った、人にかたどり造られた神ではありません。金や銀、メッキをかぶせられた神ではなく、この全宇宙を造られた神なのです。この方があなたを守り、支えてくださるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。

第二、「わたしがあなたの神だから」です。神はただの神ではありません。あなたの神です。「アイ アム ユアゴッド」です。あなたと個人的に関わってくださる神なのです。かつて神はイスラエルと契約を結んでくださいました。「もしあなたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。」(出エジプト19:5)神はこの契約の絆を、実にイエス・キリストによって、私たちとの間に成立させてくださいました。これが新しい契約です。主イエス言われました。「これはわたしの血による新しい契約です。」イエスが十字架で流された血潮を信じて受け入れる者を、神は「あなたの神」と呼んでくださるのです。

第三に、「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」です。私たちは自分が主にしがみついているから大丈夫だと思っていますが、実は私たちが神をつかんでいるのではなく、神が私たちをつかんでいてくださるのです。その手は「義の右の手」です。「義の右の手」というのはヘブル語の「ツァデーカー」といいますが、これは「勝利」という意味です。ですからこの神の右の手は勝利の手であり、また救いの手のことです。この手をもって神は私たちをつかみ、守っていてくださいます。

であれば、いったい私たちは何を恐れる必要があるでしょうか。神は必ずあなたに勝利をもたらし、繁栄を与えてくだいます。もしあなたに向かっていきりたつ者があるとしたら、そのような者は必ず恥を見、はずかしめを受けるようになります。あなたと争うような者があれば、そのような者は、無い者のようになって滅びていきます。なぜなら、あなたの神である主が、その義の右の手であなたを守ってくださるからです。

これはアメリカで実際にあった話です。シャーマン・ジャクソンさんというクリスチャンが体験したあかしです。普段、遅れたことのないシャーマン・ジャクソンさんは、ある日の夕礼拝に遅刻してしまいました。しかしそれには、大きな訳があったのです。  シャーマンは教会へ行く途中、ガソリンスタンドに、7歳の娘も一緒でしたが立ち寄りました。しかし、給油を済ませてスタンドから出ようとした矢先、一人の男が車に近づいてきて言いました。「一寸お願いがあるのですが‥‥ 。私の車が置いてある所まで乗せていただけませんか。お金払いますから。」  シャーマンは一瞬迷いました。教会に遅れると思ったからです。しかし、目の前の困っている人を助けなければと、自分に言い聞かせて、その男を助手席に乗せ、娘を後部座席に座らせて走りだしました。走り出すと間もなく、男はポケットからピストルを出して、片手でシャーマンの肩を掴み、わき腹に銃を突き当て、「おい、手を上げろ。遊びじゃないぞ。金を全部出せ。撃つぞ」と言ったのです。  シャーマンはいまだかつてこれほど驚いたことはなかったのですが、「でも、今は運転中ですから、手を上げることは出来ません」と、ちょっと、なんだか変なことを言ってしまいました。すると男は、「あ、そうか、じゃいいからとにかく金を出せ」と言いました。  そうするうちに、このシャーマンは、娘を一緒に連れて来たことを後悔しました。 ポケットに手を入れ、「これで全部だよ。持って行けよ。」と有り金を全部出して言ったのですが、この男は信用せずに、「嘘をつくな。全部出せ!」と、益々強く銃をシャーマンのわき腹に突きつけて叫びました。  このシャーマンは、テキサス州ガーランドに住み、保険代理店を営む、ギデオン聖書協会の会員でした。彼は車に、いつもギデオンの聖書を積んでいて、各聖書には1ドル紙幣が挟んでありました。それはホームレスの人々にあげるためにそうしてあったのです。銃男は聖書のドル紙幣を見て、シャーマンに向かって大声をあげました。「この大嘘つきめ、ここに金があるじゃないか。」  その時、突然シャーマンに何かが起こりました。シャーマンは大きな声で祈り出しました。「天の父よ、私の叫びを聞いてください。今、目の前にいる悪魔から救ってください。」  不思議なことですが、こう祈っているうちに、彼は思いもしなかった平安を感じるようになったのです。その時、「心配や恐怖の意識はすべて消え去りました。なんだか肝が座つてしまったのです。」と、シャーマンは、後にこの時のことをあかしして言っています。  彼は車の速度を落とし、突然Uターンをし始めたのです。  「何をしやがる!」と男は叫びました。  「車を引き返す。お前の言うことには従わない。」と、シャーマンは答えたのです。  男は銃をシャーマンの胸につきつけて、「わからんのか。お前など虫けらさ。引き金を引くぞ!」と脅かしたのですが、今度は、シヤーマンは言い返しました。  「お前こそわかっていない。僕にとって世の中で一番大切なものは神様だ。キリストはお前の銃より強い方だ。」  銃男が引き金を引こうとするのがシャーマンには分かりました。「カチッ」という音ともに撃鉄が下ろされたのですが、シャーマンはひるみませんでした。  彼は、主がともにいてくださることの平安を強く心に感じていたので、静かに車を脇に寄せ、そして停車しました。  「イエス様のことを話そう。」と、彼は銃男に言いいました。  男は、一瞬たじろいだかと思うと銃を下ろし、頭を垂れて、次に顔を上げたときに泣いていました。  「済みませんでした。赦してください。本当に殺すつもりだった。」  「赦すよ!」とシヤーマンは言ました。そしてイエス様を信じて、新しく生まれ変わるように神に祈り求めるようにと語り聞かせたのです。  また、一緒に教会に行かないかと、奨めたのですが、男はこの近くに置いてある自分の車まで連れていってくれと頼みました。その途中、男は謙虚になっていろいろと話し出し、名前は「マイク」だと名乗り、握手を求めることさえしたのです。  シャーマンは運転しながら、神様を受け入れて新しい人生を始めるようにと言い続けました。車が男の言う店の近くに来たとき、シャーマンは「ところでマイク、僕の金を返してくれよ。」と、強盗になりかかっていた男は弱々しく金を返した。「代わりにこの聖書を持っていってくれ。これまで経験したことのないほどこれを読むようになるよ。マイク、君のために祈っているよ。神様が君の人生に介入してくださるようにとね。」  シャーマンが車を男の車の横に着けると、男は出て行きました。 「男は片手に銃を持ち、もう一方に聖書を持ち、目には涙を溜めていた。」とシャーマンは語っていました。そしてシャーマンは教会へと向かったのです。ちょっと遅刻してしまったのですが。(「The Gideon」2002年1月号より)    これは、2002年に、世界中に聖書を配布している国際ギデオン協会の会報に紹介されたものですが、大変おもしろいものです。普段こんな目にあったら、必ず何もしないでおとなしく相手のいうことを聴くのがよいと思います。しかし、どんな危険な状況にあっても、主が私たちの神であり、どんなときにもともにいて、守ってくださるという約束があることは、なんと幸いでしょうか!

皆さん、神は私たちともにおられます。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。神が私とともにおらるからです。職を失っても私たちは一人ではありません。苦難が訪れ苦しみのただ中にあっても、私たちは一人ではないのです。家族がみな背を向けても、神はそうされません。友人たちが裏切ったとしても、神は変わりません。荒野に一人立ちながら、深い孤独に震えているような時でも、私たちは一人ではなく、神はともにいてくださるのです。神がともにいてくださるなら、何を恐れる必要はないのです。

サンフランシスコにはゴールデンゲートブリッジというきれいな橋があります。1930年に建てられた、世界で最も高くて長い橋です。橋の両側に柱が立ち、真ん中は何もなくただ宙に浮いている状態です。その橋を建てるとき、数多くの危険要素のために、技術者たちはいつも不安を感じていました。結局、5人もの人が海の中に墜落するという事故が起こってしまいました。市当局は技術者たちの安全のためにいろいろな対策を試みました。その中の一つが工事現場の下に網を張るということでした。すると、その後その網の上に落ちる人はだれもいなかったそうです。なぜなら、墜落しても海の中には落ちないという安心感があったからです。不安な心が平安になり、足も震えなくなったからです。すなわち、彼らが安全網を信じたからなのです。

主こそ私たちの安全網です。主はその義の右の手は私たちを守ってくださいます。ですから、私たちの人生にどんな危険が迫ってきても、私たちは恐れたり、不安になったりしません。私たちの下に神の安全網があることを知り、神を信じる人は不安と恐れから解放されるのです。  主がともにおらられば、明日はこわくありません。明日の問題で心配することは全くいらないのです。「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。」(13) この確信があるとき、あなたも勇気をもって前進していくことができるのです。