きょうはイザヤ書41章14節から20節までのみことばを通して、「恐れるな、虫けらのヤコブ」というタイトルでお話をしたいと思います。先週のところから、主こそ神であるということが語られていますが、その証拠は何かというと、主は「ひとりの人」を起こし、行く先々で勝利を収めさせるいうことでした。この人こそクロス王であり、またクロス王が指し示していた来るべきメシヤイエス・キリストです。この方はどんなことがあっても、あなたを強め、助け、守ってくださいます。なぜなら、あなたは神によって選ばれた神のしもべだからです。ですから、どんなことがあってもあなたを見捨てるようなことはなさいません。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
そして、きょうのところには神はどのように助け、守ってくださるのかが語られます。
Ⅰ.恐れるな。虫けらのヤコブ(14)
まず14節をご覧ください。「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。―主の御告げ―あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。」
ここで神はイスラエルを虫けらのヤコブと呼んでいます。イスラエルはもともと「ヤコブ」という名前でした。意味は「かかとをつかむ者」、「押しのける者」です。それがイスラエル、神に支配された者という名前に改名されました。今ではこれが国の名前にもなっています。しかし、もともとはヤコブなんです。かかとをつかむ者、押しのける者、ずる賢いような者であったわけです。まさに虫けらのような何の価値もない、踏みつけられて終わるような者、いてもいなくてもいいような者、そんな小さく、弱い者に対して神は、「恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。」と語られたのです。
ヘブル語をギリシャ語に訳した聖書に七十人訳聖書(Septuaginta)がありますが、この七十人訳聖書ではこのところを、「恐れるな。ヤコブ、わずかなイスラエル」と訳しています。つまり、イスラエルが少数民族であること、また軽微であることを示しています。周辺諸国に比べたら本当に小さく、わずかな数のイスラエルではありますが、恐れることはない、そう言われたのであります。なぜなら、わたしはあなたを助けるからです。あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者なので、あなたは何も恐れることはないのです。43章1節から3節までをご覧ください。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。」(43:1b-3:a)
「贖う」とは「代価を払って買い取る」という意味です。エジプトで奴隷の状態であったイスラエルを贖い出されたように(出エジプト15:13)、主は神の民イスラエルを罪の束縛から贖い出してくださるのです。「虫けら」のように、他から軽蔑されているようなイスラエルも、主は彼らを贖ってくださったので、救い主となってくださったので、主が彼らを助け、守ってくださいます。それゆえに恐れてはならないのです。
それは私たちクリスチャンにも言えることであります。教会に集められる人々は、ほんの一握りかもしれません。聖書の神、イスラエルの聖なる方を知っている人は、ほんとうにごくわずかです。しかし、恐れてはなりません。なぜなら、神はあなたを贖ってくださったからです。イエス・キリストという神のひとり子の尊い血をもって買い取ってくださいました。それゆえに私たちは神の目にとって高価で、尊い存在なのです。たとえあなたが水の中を過ぎるようなことがあっても、あるいは、川を渡るようなときがあっても、あなたは決して押し流されることはありません。火の中を歩いても、焼かれることはないのです。イスラエルの聖なる方が、あなたの救い主であられるからです。ややもすると私たちはそうした小さな自分の存在に絶望しがちになりますが、そんな私たちに対して主が、「恐れるな。わたしはあなたを助ける。」と言って励ましておられることを覚え、その御声を聞き続けていかなければならないのです。
茨城県下館市にある小さな教会で、一昨年の10月、その教会の中心的な働きを担っておられた信徒さんが倒れました。一命はとりとめたものの、からだの半身が動かないという後遺症が残りました。半年以上にわたる病院でのリハビリを終え、ご自宅に戻ってこられました。杖をついて少しずつ歩くこともできるようになりましたが、一つの問題があることに気づきました。それは障害者用のトイレがないとどこにも出かけて行くことができないということでた。手すりがついた洋式のトイレが必要なのです。それがないと用をたすことができません。それは教会にもありませんでした。それでせっかく歩けるようになったのに教会に来ることができませんでした。 さてどうしたものか・・、せめて教会に来れるようにできないものかと思案しているうちに、だれからともなく「トイレを直そう」という声が上がりました。しかしお金がありません。教区に納める分担金すら支払えない小さな教会で、どうやって改修工事ができるのかと思っていたところ、とにかく工事を始めようと計画が進められ、6月半ばにもちあがった話が7月末には完成しました。傾斜のあった床を平らにし、洋式のトイレと手すりを取り付けることができたのです。そして不思議なことに「トイレ改修のための献金」が集まったのでした。
トイレが出来たからといって大したことではないかもしれませんが、これが神のなさることなのです。神は私たちが考えも及ばない不思議な方法で、ご自分のみ業を行ってくださいます。だから小さいからといって卑屈なる必要はありません。何もできないといってがっかりしなくてもいいのです。私たちとともにおられる方は私たちを罪から贖ってくださったイスラエルの聖なる方なのです。この世の何にも優って偉大な方です。この方があなたを助けてくださいます。あなたにとって必要なことは自分の弱さや足りなさを見て絶望することではなく、この神を信じ、この神を見上げることです。そうすれば、主が助けてくださいます。 イエスはこのように言われました。 「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32) たとえあなたがどんなに小さく、虫けらのようなものであっても、あなたの神は喜んで、あなたに御国を与えてくださいます。あなたがどんなに小さなものであっても、あなたは恐れることはないのです。
Ⅱ.新しいもろ刃の打穀機とする(15-16)
次に15節と16節をご覧ください。「見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。」
ここで神はイスラエルを、鋭い、新しいもろ刃の打穀機とすると言われました。新しいもろ刃の打穀機とするとはどういうことでしょうか?アレック・モティア(Alec Motyer)という聖書学者が書いた注解書によると、この「もろ刃の打穀機とは、下に鋭い刃が付いた重い木の台であった」、と説明されてあります。それは石の刃でした。それを引くことによってその穂から粒をとったのです。ですから、使い古してきますと、刃が丸くなって穀物がよく落ちなくなります。しかし、それに新しい石の刃が付け替えられますと、シャープになった石の刃によって、収穫がたくさんできたのです。神はイスラエルを、その鋭い、新しいもろ刃の打穀機にすると言われました。もう虫けらに等しいと思われたヤコブを、何の価値もない、踏みつけられて死んでしまうような彼らを、新しいもろ刃の打穀機にするというのです。何という変わりようでしょうか。変身するとショッカーたちを次々とやっつける改造人間に変わる仮面ライダーどころじゃありません。新しいもろ刃の打穀機とになって、山々を踏みつけて粉々に砕き、丘をもみがらのようにするのです。私たちには山を崩すようなことはできません。人生には何と山の多いことでしょうか。目の前に山が立ちふさがって、前進することができないことがあります。しかし、神は虫けらのヤコブを新しいもろ刃の打穀機のように変え、もろもろの山を、丘を、粉々に踏み砕くようにしてくださるのです。これが神のなさることなのです。
昨年、私はアメリカに行って、その教会のスケールの大きさに驚いて帰ってきました。五千人くらいの人々が一同に会して礼拝をささげていました。あれだけの人が礼拝をするために、いったいどれほどの人たちが奉仕しているのだろうと、ざっと回りを見わたしただけで、相当数の人たちが奉仕をしていました。ある人たちは次から次に会場に入ってくる人たちを席まで案内したり、献金を集めたり、賛美の奉仕をしたり、本当にすごいの一語に尽きます。そのような人たちはほとんど全く普通の人たちだと思うのですが、喜んで仕えていました。 いったいどうしてそのようなことができるのでしょうか。そのような人たちはみな教会の有給スタッフではないはずです。それぞれが自分の仕事を持ち、月曜日から金曜日まで、あるいは土曜日まで、自分の仕事を一生懸命やっているはずです。中には会社の重役という人もいるでしょう。自分のことで忙しく走り回っている人もいるはずです。なのにみんに喜んで仕えているのはどうしてなのでしょうか。主がその人を変えてくださったからです。虫けらのヤコブのようなものを、鋭い、新しいもろ刃の脱穀機にしてくださったからです。上からの新しくされる恵みと力に満たされていたからです。この力に満たされていたので、喜んで奉仕することができたのでしょう。それは教会の奉仕だけではありません。生きることが喜びとなります。感謝になります。だから何もしないではいられないのです。そのような人生に変えてくださった主への感謝のゆえに、喜んで自分をささげたいと思ったのです。それが奉仕として現れていたにすぎません。だからそのような奉仕がどうのこうのということではなく、そのような人へと変えてくださった主の恵みの大きさを、どれほど感じているかなのです。これは信仰を律法的にとらえていては決して生まれてこないものです。上から新しくされる神の恵みの力、聖霊の力に満たされることです。そうでないと、ちょっとのことでも苦痛になります。「疲れた」とか、「大変だ」とか、「どうして私ばかりやらなければならないんだ」と、いつしか不平不満が出てきます。これでは本末転倒でしょう。本当にへりくだって、「主よ、あなたは私の主です。わたしはあなたのしもべです。用いてください。」と言って自分をささげていくとき、神はこの新しい力、新しい恵みに満たしてくださいます。あなたも鋭い、新しいもろ刃の打穀機になることができるのです。
実に神は「わたしはあなたを助ける。あなたを選んで離さない。」と言われました。「あなたの敵を踏みつけて粉々に砕く」と言われました。どんなに小さな虫けらのような者であっても、どんなに落ちぶれているような者であっても、神は新しくして、助けてくださるのです。
Ⅲ.荒野に水が流れる(17-20)
最後に17節から20節までを見て終わりたいと思います。まず17節をお読みします。「悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。」
ここでは外敵からの救いだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださるという約束が語られています。バビロンの捕囚となっていたイスラエルはあわれな身分でした。水を捜し求めても得ることができず、舌が干からびるほどの、のどの渇きに苦しめられていました。しかし、神が彼らに答えられ、その渇きを潤してくださいました。どんなに悩んでいる者、貧しい者が水を求めてもその渇きがいやされることはなく、その舌は干からびてしまいますが、主がともにおられるなら、主が彼らに答え、その渇きを完全にいやしてくださるのです。イスラエルの神は、決して彼らを見捨てたりはなさらないからです。
そればかりではありません。18節と19節をご覧ください。ここには、「わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、檜も共に植える。」とあります。
これはバビロン捕囚によって希望のない苦しみの中にいるイスラエルを回復してくださるという預言です。神がともにおられる人生は、恵みの雨によって潤される人生です。裸の丘に川が開かれ、平地に泉がわきます。荒野が水のある沢となり、砂漠の地が水の源となるのです。そして、その荒野に杉やアカシヤ、ミルトス、オリーブといったさまざまな木が植えられるようになります。それはまさに新しい創造です。それは世の終わりにおいて成就することでしょう。やがてもたらされる千年王国において、神はこの新しい創造を文字通りもたらしてくださいます。がしかし、驚くべきことにそれが今少しずつ成就しているのを見ることができます。今、イスラエルでこうした現象を見ることが出来るのです。荒野に水が流れ、多くの木が植えられています。
今から二千年前に、イスラエルはローマ帝国の迫害によって世界中に離散しました。長らく祖国を失っていたのです。第一次世界大戦の頃までイスラエルは約400年間もオスマントルコ帝国の支配下にありました。オスマントルコはパレスチナに入植していたアラブ人たちから税金を受ける際、木材で収めてもいいとしたので、税金を払いたくなかったアラブ人たちは自分たちの土地でないイスラエルの地から木を伐採して税金として収めました。そのために地は荒廃し、完全に荒地となり、砂漠化していきました。何の価値もない荒れ放題の土地になってしまったのです。 第一次世界大戦でイギリスがオスマントルコに勝利すると、ユダヤ人はイギリスの統治下、イスラエルに入植していきました。そしてパレスチナから法外な価格で土地を買い、緑地化していったのです。 第二次世界大戦の時、ナチスのホロコーストによって世界中のユダヤ人の1/3が虐殺されると、世界中の同情がユダヤ人に寄せられるようになりました。そして1900年も祖国を失っていた彼らに国家を与えようではないかということになって、国連も動いて、1948年5月14日にイスラエル共和国として独立を果たすことができたのです。1900年間も流浪の民であったイスラエルが、国の再建を果たすという人間的には全く考えられないことが実現したのです。これは現代の奇跡とまで言われたことですが、それが実際に起こりました。 しかし、周辺のアラブ諸国はそれを嫌って認めないと戦争を起こしました。それが中東戦争の始まりです。けれどもイスラエルは度重なる戦争に勝利して、国としての体制を確かなものとしていきました。と同時に、その間イスラエルは荒地の状態だった土地を緑地化していきました。ハイテク農業を駆使し、農業大国となりました。食料自給率は90%以上にのぼります。今ではたくさんのくだものや花などを世界中に輸出するようになりました。イスラエルは四国ほどの面積しか持たない小さな国ですが、農業大国になったのです。この100年間に植林された木は2億2万本にのぼります。あれほど荒地となっていた土地の緑地化に成功したのです。
ですから、この預言の完全な成就はこれから後にもたらされる千年王国において実現しますが、現代においても少しずつ成就しつつあるのです。ということはどういうことかというと、この預言は必ず成就するということです。そしてそれはそんなに遠い日のことではないでしょう。もしかすると、私たちが生きている時代に起こるかもしれません。主イエスが再臨され、この地に千年王国を樹立される日も近いのです。それがいつかとは言いません。言ったら異端者になってしまいますから。けれども、それはそんなに遠いことではないように感じます。
と同時に、これはイエスを信じて生きている私たちクリスチャンのたましいにもたらされるいのちの水のことです。文字通りにはその完成を見てはいなくとも、神は私たちの心にこの新しい創造をもたらしてくれるのです。私たちの渇いた砂漠のような心に川を作り、平地に泉をわかせ、荒野を水のある沢とし、砂漠を水の源としてくださいます。そして、そこに杉や、アカシヤや、オリーブといったさまざまに木を植えるような豊かさで潤してくださるのです。
主イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38) イエスのもとに行くなら、心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。
私の妻は日本に来て34年になりますが、実はその前に1年間、大学生の時に日本に留学した経験があります。その時にホームステイした日本の家族は東京に住んでいますが、今でも日本のお父さんお母さんとしてずっと慕っています。結婚式の時にはアメリカから両親が来れなかったので、この方が一緒に手を組んでバージンロードを歩いてくださったほどです。 ところが、この方が昨年秋に尿毒症っていうんですか、尿が出なくなる病気で、それが頭に回ったのか意識を失ってしまいました。聖路加病院に二週間入院し、驚くほどの回復を見せ昨年末に自宅に戻ったということを聞いたので、二週間ほど前にお見舞いに行って来ました。 痴呆が進んでいるという家族の話とは裏腹に、昔のこともよく覚えていて、時には冗談をいいながら楽しい会話をしました。実は今回お邪魔したのはもう一つ理由がありました。それは何とかイエス様のことを信じてほしいという気持ちがあって、元気なうちに何とか伝えたかったのです。でもいざ話を出そうと思うと急に別の話になって、伝えられないでいました。 そうこうしているうちに変える時間になりました。私の心の中には残念な思いと情けない思いが入り交じっていましたが、その時お母さんがどこかの寺の住職さんが書いた色紙があると持って来てくれました。そしてそれを私たちにあげるというのです。思い出に。私が牧師だということを重々知っているのに、お坊さんが書いた色紙をあげるんですよ。そしてそれを見たら「愛」と書いてあるではありませんか。東南アジヤのどこかの国に行った時に記念に買って来た置物と一緒にそれをくれるというのです。そのときとっさに私のくちびるから、このようなことばが出ました。 「ああ、そうだ。私には何にも差し上げるものはありませんが、イエス様の愛をあげたいので祈りたいと思いますが、いいですか。」 するとお父さんが「ああ、お願いします」というので、何を祈ったか忘れましたが心を込めて祈ったのです。すると祈り終わってからお父さんが感慨深そうに言いました。「ああ、何よりのプレゼントだった」 村上のお父さんが求めていたのはこれだったんですね。この生ける水の川こそ真の意味で私たち人間のたましいを満たすことができるものなのです。
イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」イエスは、「だれでも渇いているなら、あそこに行けば満たされる」と言ったのではありません。「わたしのもとに来なさい。」と言われたのです。そのように言うことができるのは、イエスさましかいません。他のどんな人も、どんな教えも、「わたしのところに来なさい」とは言えないし、言いませんでした。彼らは、自分をいやしてくれるものや、満たしてくれたものを紹介する「道案内」にはなれましたが、そのものにはなれ得なかったのです。ただイエスだけが、「わたしのところに来て飲みなさい。」と言うことができたのです。それはイエスこそが私たちの心の渇きを潤すことができるからです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:5)
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい」(マタイ11:28)
あなたが渇いているなら、どうぞイエスのところに来てください。そして、イエスが与えてくださる水を飲んでください。イエスを信じる者には、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになるのです。そのときあなたは、イスラエルの聖なる方、主がこのことをしてくださったことを悟るようになるでしょう。荒野のように渇いた人生の中にも、ひび、渇くことのない主の恵みの泉に掘り、そこから溢れているいのちの水を飲み続けることができますように。