イザヤ書43章1~13節 「たとえ火の中、水の中」

きょうはイザヤ書43章から、「たとえ火の中、水の中」というタイトルでお話をしたいと思います。2節に、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」とあります。まさに「たとえ火の中、水の中」です。どんなことがあっても神はあなたを守られます。

Ⅰ.たとえ火の中、水の中(1-4)

まず1節から4節までのところに注目してみましょう。1節には、「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」とあります。

ここに「だが、今、ヤコブよ。」とあります。これは、これまで語られてきたことを受けての「だが・・」です。これまでどんなことが語られていたのかというと、前の章を見るとわかりますが、イスラエルがいかに霊的盲目なのかが語られてきました。42章19節には、「わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳の聞こえない者が、ほかにいようか。」と、イスラエルの霊的盲目に対して、主は驚きを隠せませんでした。主はそのような彼らを奪い取る者、かすめ奪う者に渡されました。これはバビロンのことです。どんなに言っても言うことを聞かないので、燃える怒りを注がれたのです。それは前回も言いましたように、彼らをさばくためではなく彼らを立ち上がらせるためです。イスラエルの神はあわれみ深く、恵み深い方で、どこまでも良い神さまです。ですから、彼らを救い、彼らが立ち返るために、神はそのような怒りを彼らに注いだのです。それがこの「だが、今、ヤコブよ。」なのです。 「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

そんなかたくななイスラエル、ヤコブではあるが、「恐れるな」と言うのです。なぜなら、主が彼らを贖ってくださったからです。主が彼らの名を呼ばれました。彼らは主のものなのです。この「贖う」と言葉は、「代価を払って買い取る」という意味です。主は代価を払って買い取られたので、彼らは主のものなのです。ですから、どんなことがあっても見離さず、見捨てることはなさいません。たとえ彼らが神に背き、罪のどん底に落ちようとも、主は彼らを見捨てるようなことは絶対にされないのです。

3節を見てください。ここには、その代価がどのようなものであったかが記されてあります。「わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。」  その身代金はエジプトであり、クシュでした。また、セバでした。クシュとはエチオピヤのことであり、また「セバ」とはエチオピヤからさらに南方にある地域のことです。主はそうした国々を彼らの身代金として支払い、彼らをバビロンから救ってくださいました。つまりイスラエルを救うために、代わりにこうした国々をペルシャ帝国に差し出したというか、治めることができるようにしたということです。

これは、究極的には私たちの罪の贖いとなって十字架にかかってくださったイエス・キリストのことを指しています。神はイスラエルを救うためにエジプトやクシュを身代金としたように、この全人類を罪から救うために、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。御子を身代金として差し出すことによって、全人類を罪から救ってくださったのです。十字架につけてくださることによって・・。あなたがこの事実を受け入れ、この神の救いを信じて受け入れるなら、あなたも救われます。あなたの罪も赦され、この罪の支配から解放されるのです。神はあなたを罪から救うために、尊いひとり子のいのちを与えてくださったのです。それほどにあなたを愛されたのです。ヨハネの福音書3章16節を開いてみましょう。ここには、

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

とあります。私たちは、神の目から見ると罪深い者です。すぐに嘘をついたり、怒ったり、人を傷つけたり、心に悪い思いを抱いてしまいます。そればかりでなく、主から多くのことを教えられても心に留めず、聞こうとしません。いわゆる霊的盲人であり、霊的聾唖者です。ですから、そのままでは滅ぼされても致し方ない存在なのです。にもかかわらず神はひとり子のイエスをあなたのために遣わし、あなたの罪の身代わりとして十字架にかかって死んでくださいました。それはひとりも滅びないで、永遠のいのちを持つためです。この「ひとりも滅びることなく」の中には、あなたも含まれているのです。それが「だが、今、ヤコブよ」なのです。この「ヤコブ」のところに自分の名前を入れ替えて読んでみてください。「だが、今、とみおよ。」「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」主イエスを救い主として信じて、主のものとされた者は、どんなことがあっても見捨てられることはありません。

4節を見てください。ここには、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」とあります。ここでははっきりと神の宣言として「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語られています。

私たちの周りにはいろいろな目がありますが、一番重要な目はこの目です。それは「わたしの目には」と言われる神の目です。この神の目であなたは高価で尊いのです。この神の目こそ絶対的な基準ではないでしょうか。だれが何と言おうと、あなたが自分で自分のことをどう思おうと、あるいはほかの人があなたことをどう見ようが、そんなのは関係ないのです。神があなたをどう見られるかが重要なことであって、その神の目であなたは高価で尊いのです。神はどれだけあなたを愛しておられるのでしょうか?それはご自分のひとり子を十字架におかけになるほどです。それほどまでに愛しておられます。本来、私たちは愛されるに値するような者ではありません。何の価値もない、裁かれても致し方ないような者です。しかし、神はこのような者をも愛してくださったので、十字架にまでかかって愛してくださったので、どこまでも愛してくださいます。たとえこの地球上にあなた1人しかいなかったとしても、イエスはあなた1人のために来て、十字架でご自分のいのちを投げ打ってくださったでしょう。だからここにはもう「あなたがた」といった複数形ではなく「あなた」とあるのです。神の愛は十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)ではなく、一人一人に向けて差し出されているのです。あなたにとって必要なことは、あなたに差し出されているこの愛をありがたく受け入れることです。

韓国の牧師でイ・ミンソプという方が神学生の時に「きみは愛されるため生まれた」という賛美歌を作りました。

きみは愛されるため生まれた   きみの生涯は 愛で満ちている   きみは愛されるため生まれた   きみの生涯は 愛で満ちている

永遠の神の愛は 我らの出会いの中で実を結ぶ   きみの存在が私には どれほど大きな喜びでしょう

きみは愛されるため生まれた    今もその愛 受けている   きみは愛されるため生まれた   今もその愛 受けている

子どもの事件が起こったある県の小学校で、教会に行っている女の子が、この賛美歌を口ずさんでいたそうです。するとそれを聞いた担任の先生が、この歌の意味を子どもたちに知ってほしいと思い、この女の子にCDがあるかどうかを聞いたことから、この賛美歌が日本でCD化されたそうです。この賛美歌は、そのクラスで歌われ、学校で歌われ、今では全国で歌われています。それだけ「愛されている」という実感が持てないのでしょう。  けれども、この歌はされている実感を持つための歌ではありません。あなたがありのままで愛されているということを強調するために作られたものではないのです。あなたがどれほど尊い人間なのかという自分のイメージ、セルフイメージを持つための歌ではありません。これはあなたを愛してやまない神様が、あなたのためにひとり子イエス・キリストを送ってくださり、この方があなたの身代わりとなって十字架で死んでくださいました。この神の愛を信じて受け入れた者が、神の目にどれほど尊い存在なのかを歌った歌なのです。すなわち、あなたがどんなに落ちようとも、この神の救いイエス・キリストを信じて神のものとせられたのならば、神はあなたを見捨てることはせずに、あなたを助け、守ってくださいます。それほどまでに神はあなたを愛しておられるのてす。

それが2節のみことばに表されていると思います。2節をご一緒に読みます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」

「たとえ火の中、水の中」ということばがありますが、たとえ水の中を過ぎることがあっても、主はあなたとともにおり、たとえ川を渡るようなことがあっても、押し流されることはありません。たとえ火の中を歩くようなことがあっても、炎はあなたに燃えつくことはないのです。なぜなら、あなたの神、主、イスラエルの聖なる方が、あなたの救い主であられるからです。

水の中を過ぎるとは、おそらくイスラエルの出エジプトのことを指していると思われます。彼らはエジプトを出るとき紅海の水の中を通って救われました。また、川を渡るときというのは、約束の地に入る時に渡ったヨルダン川のことでしょう。また火の中を歩くとは、バビロンの地でシャデラク、メシャク、アベデネゴの三人の少年がネブカデネザル王の命令に背いて金の像を拝まなかったために燃える炉の中に投げ込まれたことを指していると思われます。彼らは燃える炉の中に、しかも通常の何倍もの熱い火の中に入れられましたが、まったく無傷でした。神が彼らとともにおられたからです。よく見ると、その炉の中には彼らのほかに神々の子のような方がもうひとりいたとあります。そうです、それは受肉前のイエス・キリストでした。主が彼らとともにいたので、彼らは何一つ傷を受けることはなかったのです。神が私たちの味方であるなら、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。何も恐れる心配はありません。

神はあなたを贖ってくださいました。あなたは神の尊い代価によって買い取られたのです。あなたは神のものとなりました。ですから、神の目にあなたは高価で尊いのです。神はあなたを愛しておられます。あなたがどんなに罪に落ちても、あなたを愛してやまない主は、あなたをどこまでも救ってくださいます。どこまでに愛しておられます。それがあなたの神なのです。神があなたを贖ってくださったので、あなたは特別な神の関心と守りの対象となりました。神はどんなことがあってもあなたを守ってくださいます。それはあなたが神に贖われた神の民であり、神にとって高価で尊い存在だからなのです。

Ⅱ.神の栄光のために(5-7)

次に5節から7節までをご覧ください。5,6節をお読みします。「5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。」

主はここでイスラエルに対して再び「恐れるな」と語られます。それだけイスラエルの民は恐れていたのでしょう。彼らが恐れていたことはどんなことだったのでしょうか?バビロンに捕らえられその圧制に苦しむ中で、自分はこれからどのようになってしまうのだろうかという恐れがあったのではないでしょうか。そのような彼らに対して主は、「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。」と語られました。主は彼らとともにいて何をしてくださるのでしょうか?主は東から、彼らの子孫を来させ、西から、彼らを集めます。また、北に向かって、「引き渡せ」と言い、南に向かって、「引き止めるな」と言います。そのようにして、神の民を遠くから来らせ、地の果てから集めてくださいます。彼らはバビロンによって捕らえ移されていただけでなく、アッシリヤによって他の地域に捕らえ移されていたので、各地に離散していました。そういう彼らを遠くから集め、祖国エルサレムに帰還できるようにされるというのです。

これはペルシャの王クロスによってバビロンが滅ぼされたことによって成就しました。バビロンによって捕らえ移されていたユダヤ人は、70年の後に祖国エルサレムに帰還することができました。しかし、これは同時に世の終わりの預言でもあります。世の終わりには世界中に散らばっているユダヤ人が、地の果てから集められます。マタイの福音書24章31節をご覧ください。

「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

イエスさまは世の終わりに、ご自分が戻って来られる時、このようなことが起こると言われました。主が御使いたちを遣わすと、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めるのです。世の終わりには、再びイスラエルが復興するのです。果たせるかな、これが1948年5月14日に実現します。イスラエル共和国が国として建てられたのです。A.D.70年にローマ帝国の迫害によって世界中に離散していたユダヤ人たちが集められ、国を再興したのです。考えられないことです。考えられないことですが現実に起こりました。これは現代の奇跡と呼ばれています。なぜこのようなことが起こったのでしょうか?それはそうなるとあらかじめ聖書が告げていたからです。その預言のとおりに世界中に散らばっていたユダヤ人が集められ、祖国に帰還を果たしたのです。

ここには「北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって、『引き止めるな』と言う。」とあります。おそらくこの北とは東ヨーロッパや旧ソ連のことでしょう。第二次世界大戦後、こうした国々は鉄のカーテンで仕切られていました。東ヨーロッパや旧ソ連などの共産主義国家ではユダヤ人たちが「我が民を去らせよ」と要求しデモなども行いましたが、なかなか実現しませんでした。そうした国々のブレインになっていたのはユダヤ人たちだったので、彼らがいなくなったら国として成り立たなくなってしまうからです。しかし1986年にあのチェルノブイリの事故が起こると旧ソ連がガタガタしてきて、少しずつ鉄のカーテンが開き始めました。そしてついに1990年代に入ると民主化の波が一気に押し寄せ、ベルリンの壁は崩壊し共産国政府が転覆したのです。そして北から多くのユダヤ人が帰還をはたしました。

また、「南」というのはエチオピヤのことを指しているのではないかと思います。このエチオピヤも、かつてマルクス主義による共産主義国家でした。その共産主義国家が転覆し、1984年から1991年までに2万2千人以上のユダヤ人がイスラエルに移住することができました。1948年にイスラエルが建国された時には人口が60万人だったのが、2011年には717万人に増えました。世界中からありとあらゆる障害を克服して、ユダヤ人が祖国イスラエルに帰還しているのです。これは世の終わりの兆候でもありますが、それが少しずつ成就しているのです。神はここで約束していおられるように、世界中に離散したユダヤ人を再び集めてくださるのです。ですから、恐れる必要はありません。

私たちも神を信じていると言いながら将来のことで恐れがありますが、恐れることはありません。主なる神が私たちとともにおられるからです。年をとったらどうしょうか。自分たちの年金は大丈夫だろうか。最近からだのあちこちが動かなくなってきているが、大きな病気になったらどうしょう。そういった不安が頭をよぎることがあります。しかし、恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。神がともにいてくださるのだから、恐れてはならないのです。神はイスラエルを東から、西から、北から、南から集めると言われ、その通りにされたように、私たちの将来にも確かな御業を行ってくださるのです。

いったい何のために主はこのようなことをしてくださるのでしょうか、7節をご覧ください。ここには、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」とあります。 ここに主がユダヤ人を集められる目的が記されてあります。それは「わたしの栄光のために」です。イスラエルがいかに優れた民族であるのかを示すためではなく、神の栄光のためなのです。彼らは神の名で呼ばれた神の民なので、神の栄光のために存在しているのです。そのために神は彼らを通して現代の奇跡とも言われる偉大な御業をなされるのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。クリスチャンとはキリストに属する者という意味です。私たちが造られ、私たちがこの世に存在しているのは、キリストの栄光を現すためです。神の栄光を現すことができるなら、私たちは自分の存在目的を果たすことができるので、それまで味わったことのないような充足感を味わうことができます。

先日、久米小百合さんが賛美の奉仕に来られました。かつて「異邦人」という歌で大ヒットし、一世を風靡した方です。この方がなぜプロの歌手をやめて教会音楽家になったのかを証してくださいました。あの芸能界というのは何千万とか何億円といったことばが宙を舞っているような世界ですが、そのような中にいて彼女は自分の居場所がなかったと言います。世間から注目を浴びていても、何の喜びも感じられなかったとき、原点に戻ろうと思いました。自分の原点って何だろうと考えてみたら、小さい時日曜学校で歌っていたあの歌にあるのではないかと思いました。「主われを愛す」小さいとき「愛す」を「アイス」と間違えてフラフラと行ったところが教会でした。そこで歌っていた讃美歌が自分の原点だと思った彼女は、教会の扉を叩きました。そこでイエス・キリストと出会ったのです。それから芸能界を退いて教会で、神をほめたたえ、キリストを証するために歌うようになりました。なぜ「異邦人」を歌わないのだろうとも思いましたが、彼女が生きているのは主の栄光のためだからです。そんなの歌ってもちっとも栄光にならなければスパッと封印するというのはさすがです。今はかつてのような大金を手にすることはありませんが、それまで味わったことのない充足感を得ていると言われました。

私たちは歌い手ではありませんが、それが何であっても目的は同じです。私たちを通して主イエス・キリストの栄光がほめたたえられることです。神の栄光のために存在しているのです。あなたは歌い手ではないかもしれません。そんな大それたことなどできないと思っているかもしれませんが、あなたがどのような人であるかは全く関係ありません。あなたを通して働かれる神の力がどのように偉大であるのかを証すること、そのためにあなたは存在しているのです。

あなたは何のために生きていらっしゃいますか?そんなこと考えたことないかもしれません。とにかく生きるために生きてきたかもしれません。結構そういう人が多いんです。何のために生きていますか?生きるため・・・。全く答えになっていませんが、結構多いのです。それほどただ漠然と生きているということでしょう。何の目的もないまま、ただ自分の満足のために、自分の栄誉、自分の栄光、出世、富、快楽、夢の実現のために生きて来られたかもしれません。あるいは家族のため、社会のため、国家のためという人もおられるかもしれません。しかし、それは的外れです。あなたが存在しているのはそのためではありません。あなたが存在しているのは、あなたを造り、あなたを罪の中から贖いだしてくださった神の栄光のためなのです。

Ⅲ.わたしの証人(8-13)

最後に8節から13節を見て終わりたいと思います。8節と9節です。「8目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たちを連れ出せ。9 すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ』と言わせよ。」

「目があっても盲目の民、耳があっても聞こえない者たち」とは、ユダヤ人たちのことです。ここでは彼らを連れ出すようにと言われています。何のためでしょうか?すべての国々に、諸国の民たちに、この方こそまことの神であることを証言させるためです。ですから10節のところに、「あなたがたはわたしの証人」「わたしが選んだわたしのしもべ」とあるのです。これはユダヤ人のことであり、私たちクリスチャンのことです。

キリスト教の異端である「エホバの証人」という名前は、ここから取られました。「ものみの塔冊子協会」ですね。彼らはこれを自分たちに適用して、「これはわれわれのことである。だからわれわれはエホバなる神の証人、エホバの証人である。」と言いました。1931年のことです。エホバの証人はチャールズ・ラッセルという人によって始められ、本来は「ものみの塔冊子協会」と言いますが、この箇所から「エホバの証人」という名称を正式に採用するようになりました。しかし、これは彼らのことではありません。神の民イスラエルのことであり、また、神に選ばれた私たちクリスチャンのことです。

なぜなら、第一にここに「わたしが選んだわたしのしもべ」とあるからです。この証人は、このしもべは神に選ばれた者です。それが証人です。もっと言いますと証人とは自分でなりたくてなれる者ではないということです。選ばれた者だけが証人になることができます。イエスは、弟子たちに次のように言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

イエスさまが私たちを選んでくださいました。証し人は志願するのではありません。自衛隊は志願することができますが、神の証し人は志願できません。それは神に選ばれた者、キリストに選ばれた者でなければならないのです。神のキリストを否定する者が、どうしてキリストを証することができるでしょうか?救われたクリスチャン以外には、この神の証人になることはできないのです。

もう一つのことは、神の証人、キリストの証人は「わたしのしもべ」とあるように、主人ではなくしもべでなければなりません。しもべとはどのような人でしょうか?主人の言うことを忠実に実行する者、それがしもべです。いつも自分が自分がと自分があがめられ、自分がちやほやされなければ我慢できないような人は、本当の証し人になることはできません。なぜなら、しもべとは仕える者だからです。

皆さん、イエスさまはどこまで私たちに仕えてくださったのでしょうか。イエスさまは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来られました。そして多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えられました。イエスさまはしもべになり切れたからこそ、「わたしを見たものは父を見た」と言うことができたのです。私たちも自分を捨て、自分の十字架を負って、イエスに従って行く者でないと、主の証し人になることはできません。「私は・・私は・・私は・・」といつも自分のことばかり話しているようですと、神の恵みの証し人になれないのです。    そしてもう一つのことは、主の証人は「神がどのような方であるか」を知っていなければならないということです。10節に「これはあなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。」とあります。「神は恵み深いお方だそうですね」ではなく、「神は恵み深いお方ですよ」と言わなければなりません。そのためには、神さまのことを知らなければならないのです。「知る」というのはヘブル語で「ヤーダ」と言いますが、そんなのヤーダなんて言わないでください。これは結婚生活を意味する言葉です。そういう意味で神を知るということです。そのためには神のおことばを信じて、この方にあなたの人生をおゆだねしなければなりません。そしたら、この方がどういう方かがすぐにわかります。別の言葉で言うと「ピ~ン」と来ます。それがこの「悟る」ということなのです。神を知って、神を信じて、神との間に親しい交わりを持ち、神に信頼して歩んでいると、ピ~ンとくるのです。証し人というのはそういう人のことなのです。

最後に証人のメッセージを見て終わりましょう。11節です。「わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。」これが神の証人が語るメッセージの内容です。「やぁ、私は病気だったけども、それが治りました。感謝でした。」これも証ですが、それよりも、それを直してくださった方を伝えなければなりません。主こそ神であるということ、そして、この方以外に私たちを救うことができる救い主はいないということです。この神が唯一の主であるということ、この神こそ救い主であるということ、この二点です。この二点が証し人のメッセージです。

その方とはだれでしょうか?そうです、この方こそ主イエス・キリストです。13節に、「これから後もわたしは神だ。」とあります。この神には※がついていて、下の説明を見ると、これは直訳「彼だ」です。ですからここは「これから後も彼だ」ということになります。英語で言うとHe is.です。かつて主がモーセに現れた時に言われた「わたしはあるというものである」という表現し同じ表現です。これはギリシャ語で「エゴー・エイミー」という言葉ですが、イエスさまはそれをご自分に対して使われました。「わたしは・・である」ということばを七回繰り返され、ご自分が神であり、ヤハウェであることを証されたのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

これが私たちが語るべきメッセージの内容なのです。かつて弟子たちがいのちがけで主こそ神であると宣言したように、私たちも神の恵みによって救われた者として、主こそ神であり、救い主であるということ、そしてこの方があなたの人生にどんなに大きなことをしてくださったのかを証しする者でありたいと思います。口をつぐんではなりません。あなたはそのために選ばれたのですから。

2011年の3.11.は、歴史を変えたと言われる大きな出来事でした。そしてそれ以来、なかなか復興が進まない中、また放射能汚染の影響が広がる中、人々は全く希望のない、悩みと暗黒に満ちた生活を送っています。みんな恐れを不安を抱えながら生きています。そんな中で私たちは救われました。私たちには確かな希望が与えられました。そんな私たちに与えられている使命がどれほど大きいかを感じます。私たちは人々の所に出て行って、「来て見てください。イエスさまを信じてごらんなさい。イエスさまはあなたを愛しておられます。あなたのために身代わりとなって十字架にかかってくださいました。それほどまでに愛しておられるのです。イエスさまはあなたの生涯も、私のように変えてくださるでしょう。」そういう証を立てていく者でありたいと思うのです。それが神の栄光を現す生き方です。あなたはそのために造られました。この神の愛と、神の救いを証する証人としての使命を全うできますように。