イザヤ書43章14~28節 「わたしは新しい事をする」

Ⅰ.救ってくださる神(14-17)

きょうは、「わたしは新しい事をする」というタイトルでお話したいと思います。まず14節と15節をご覧ください。「14あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。15わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

これは、主がイスラエルのためにバビロンを打ち破るという宣告です。主がバビロンに送る使いとはペルシャの王クロスのことです。主はクロス王を送ってバビロンを倒し、そこに捕らわれていたイスラエルを解放するというのです。「横木」とは町の門のかんぬきのことです。主は、バビロンの町の門のかんぬきを突き落として軽々と倒してしまいます。また、カルデヤ人というのはバビロン人のことですが、勝利に酔いしれていたバビロン人を、主はその喜びの船から突き落とすのです。難攻不落と言われたバビロンも、必ず倒れます。なぜなら、主はイスラエルの聖なる方だからです。イスラエルの創造者、彼らの王であられるからです。ここには「イスラエルの聖なる方」という表現が何度も使われています。これは「分離された者」という意味です。主はこの天地を創造された全能者であって、この世とは完全に分離された方なのです。その方がイニシアチブをとってこのことをしてくださるので、必ずなるわけです。

16節と17節をご覧ください。「16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、17 戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。」

これは出エジプトの出来事が背景にあります。イスラエルがエジプトから救い出された時、執拗に追ってくるエジプト軍を背に絶体絶命に陥ったことがありました。目の前には紅海が広がっていて、もう先に進むことができませんでした。その時主は紅海を真っ二つに分けそこに乾いた道を設け彼らを救い出されました。海の中に道を、激しく流れる水の中に通りを設け、エジプトの戦車や馬をそこで倒されました。その出来事です。その時と同じように主はバビロンを倒して起き上がれないようにし、イスラエルを救われるのです。いわばこれは第二の出エジプトなのです。敵(バビロン)がどんな強大でも、神はその力強い御業をもって彼らを助け出されるのです。

ヘブル人への手紙13章5節には、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」とあります。エジプトに捕らわれていたイスラエルを救い出された主は、バビロンに捕らえられていたイスラエルをも救ってくださいます。そして、その主は今も生きて同じような御業をなさってくださいます。罪に苦しむ人類を救うために御子イエス・キリストを送り、罪から解放してくださいました。この罪の赦しはいつでもあなたに備えられているのです。神は今もご自身の御業をなさっておられるのです。

数年前に天国に帰られた韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンジュ先生は、「Acts29」というビジョンを打ち立てました。それは使徒の働き29章を書いていくことです。「使徒の働き」は全部で28章ですが、その使徒の働きはまだ終わっていません。主の命令に従ってすべての民族に福音を伝えていかなければなりません。その「使徒の働き」の使命を引き継いでいく教会、それがオンヌリ教会だというのです。そして、「2000/10000ビジョン」を持つようになられました。これは2010年までに二千人の宣教師を派遣し、一万人の働き人を立てるということです。このビジョンを宣言したら、ある長老がハ先生のところにやって来てこう尋ねました。  「先生、本当にそのビジョンは神様が与えてくださったものですか」  とても不可能に思えることでした。しかし、その後その長老は宣教師を送る働きをするようになりました。そして彼はこのように話しました。  「先生、本当にそのようになって行きますね」

誰もができることなら、神様は必要ありません。そのまま人間が一生懸命に努力し、最善を尽くせばできることです。不可能なことですが、神ご自身が行われること、それが神のビジョンです。神は今にいたるまで働いておられます。イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。神はイエス・キリストによって救いの御業を成してくださいました。そして今も生きて働いておられます。あなたはこの神を見て、この神に信頼しなければなりません。

Ⅱ.新しい事をされる神(18-21)

次に18節から21節までを見ていきたいと思います。18節と19節の前半をご覧ください。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」

「先の事ども」とか「昔の事ども」とは何でしょうか。それは過去の歴史においてイスラエルが経験した神の救いの御業のことです。特に16節と17節では出エジプトの出来事が記されてありますので、そのことを指していると思われます。そうした先の事ども、昔の事どもを思い出すな、考えるな、というのです。なぜでしょうか?なぜなら、主は新しいことをするからです。それは彼らがこれまで経験したこととは全く比べものにならないほどスケールの大きなことです。今、それが起ころうとしています。それを見よ、というのです。それは何でしょうか?19節後半から20節にかけてこうあります。

「あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

これはどういうことかというと、イスラエルをバビロンから解放するということです。イスラエルがバビロンから解放され祖国エルサレムに帰還する際には、荒野を通らなければなりませんでした。荒地を通らなければならなかったのです。道のない荒野を進むことがどんなに困難なことであり、水のない荒地を進むことがどんなに危険なことであるかは、行ったことのない人でなければわからないことかもしれませんが、それはとても危険で苛酷なことでした。しかし、主はそんな荒野に道を造り、荒地に川を設けて、彼らが安全に、安心して帰還できるようにしてくだというのです。たとえそこに道がないようでも、主が道を造られるというのです。

しかし、これはイスラエルをバビロンから解放するということばかりではなく、もっと大きな神の御業の預言でもありました。それはやがてメシヤ、救い主をこの世に送り、全人類を罪の縄目から解放してくださるということです。最初の人アダムによって全人類にもたらされた罪ののろいを断ち切るために、神はそのひとり子をこの世に送り、私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださり、私たちを全人類から救い出してくださいました。その預言です。それは神にしかできない御業でした。イスラエルがエジプトから救い出されたことやバビロンから救い出されたこともものすごい奇跡ですが、もっと大きなそして最大の奇跡は、私たちの罪を赦すために神がそのひとり子をお与えになったということです。いや、イスラエルがエジプトから救い出されたことやバビロンから好き出されたという出来事は、全人類が罪から救い出すためになされた神の御業のひな形だったのです。模型ですね。実体はキリストです。キリストによって全人類が罪から救われることの型だったのです。これが新しい事です。かつてイスラエルをバビロンから救い出すために荒野に道を、荒地に川を設けてくださった神は、私たちを罪から救い出すために御子イエスを備えてくださったのです。

また20節を見ると、ここには野の獣、ジャッカルやだちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」とありますが、これはまさに千年王国の光景です。神は荒野や砂漠を潤った園とし、ご自身の民をそこで楽しませてくださいます。ですから、これは世の終わりの千年王国の預言でもあるのです。

主はイスラエルの歴史の中にこうした新しいことをしてくださったように、あなたの人生にも新しいことをしてくださいます。今、それが起ころうとしているのです。信じますか?

アメリカのゴスペルシンガーにドン・モーエン(Don Moen)という方がおられます。彼はこの箇所から「主は道を造られる」(God will make a way)という歌を作りました。 「主は、道を造られる。何もないと思えるようなところにも。 主は、私たちが見えない方法で働かれ 私のために道を作ってくださる。 主は、私の導き手であり、私をご自身のふところに抱いて、 愛と力を 日々新しく与えてくださり、道を造ってくださる。 主は道を造られる。 主が荒野の道に私を導かれることがあっても、 私は砂漠の中に川を見ることができる。 やがて、この天と地は滅び失せる。しかし、神のみことばは永遠に残る。 主は、今日も、何か新しいみわざをなしてくださる。」

実は彼がこの歌を作ったのは、彼が絶望の知らせを受けた時だったんです。ドン・モーエンは、ある夜、妻の母から電話を受けました。妻の妹とその夫が、恐ろしい交通事故に会い、九歳になる長男ジェレミーが命を失い、他の三人の子どもも重症を負ったとのことでした。彼は無力感に圧倒され、心に浮かぶどんなみことばも慰めにならないと思えました。そのとき、彼らのために祈る中で、神は一つの歌を与えてくださり、それを書き留めたのです。それがこの歌です。「主は道を造られる。何もないように思えるところにも。主は、私たちが見えない方法で働かれる」  それこそ、彼が妹夫婦に伝えたいことでした。神は、絶望の中に希望を生み出すことができる方です。あなたにも、「神は私をお忘れになった!」と思えるようなときがあるかもしれません。全く先が見えず、これから先、どのように進んで行ったらいいのかわからないかもしれません。しかし、神は私たちを決してお忘れにはなりません。それは、「あなたは、わたしのしもべ・・あなたは忘れられることがない」(44:21)と言われているとおりです。神はあなたを救ってくださいました。神はあなたを見捨てず、見離しません。人生が順調なときには、「これは私が成し遂げた・・」という気持ちになりがちなものです。しかし、「もう道がない・・・」と思えるときこそ、主が道を開いてくださるという恵みが見られるチャンスなのです。そのことを忘れないでください。私たちは、そのような時こそ主を見なければならないのです。

Ⅲ.罪を赦し、思い出さない神(22-28)

にもかかわらず、イスラエルはどうしたでしょうか?22節をご覧ください。ここには、「しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。」とあります。

主が新しい事をしてくださるというのに、イスラエルはそれに応答して主に助けを求めませんでした。「あなたはわたしのために労苦しなかった」というのは、23節にあるように、ささげ物を持って礼拝しに来なかった、ということです。もちろん、主が求めておられたのは、ささげ物ではなく、砕かれたたましい、悔いた心です。にもかかわらず、彼らは主を求めることをせず、かえって罪によって、主を煩わせました。

しかし、ここにすばらしい約束があります。そのように神の約束に目を留めず、神を呼び求めようともせず、自分勝手に生きていた彼らですが、主はそんな彼らの罪をぬぐい去り、もう二度と思い出さないというのです。25節をご一緒に読みましょう。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

「ぬぐい去る」という言葉は「赦す」という言葉と同じ言葉です。ただ赦すというのではありません。あなたの罪をもう思い出さないというのです。創造主訳聖書では「心に思い留めない」と訳しています。神の赦しは、一切心に思い留めません。これが人間の赦しと違う点です。人間の赦しは、確かに赦しますが忘れることまでは含まれていないのです。ですから、時間が経つとまた過去のことが思い出されるのです。いつのまにかまた苦々しい思いが蒸し返してきます。赦したはずなのにまだ心のどこかに憤りが残っていたり、過去の記憶がフラッシュバックしてよみがえっては、いらついたりするのです。

しかし、神は違います。神が赦すといったら、もうすべてを忘れてくださいます。あなたが神に「ごめんなさい。赦してください」と言うとき、神はご自分の記憶から消し去って、完全に忘れてくださるのです。

こんなジョークがあります。アレックスは、もう90歳になりました。彼は自宅で友人たちを食事に招き、いつものように妻のレイチェルの手料理でもてなしました。食事が終わって、レイチェルが後片付けに台所に戻った時に、友人のマイクがアレックスに感心して尋ねました。  「アレックス、あなたは何という愛妻家なんでしょう。奥さんのことをいつもダーリンとか、スゥィーティーとか、ハニーとか、ぼくのかわいい天使さんとか、かわいい小鳥ちゃん、ぼくのバラのつぼみとか呼んでるけど、その年になって、それほどまでに奥さんを愛している人はいないよ。すごいことでだね。もうボクは感動したよ。」  するとアレックスが言いました。「いやマイク、実は、この10年というもの物忘れがだいぶひどくなって、家内の名前を思い出せないんだよ。」

これはジョークですが主はジョークではなく、私たちの罪を思い出さないのです。「わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」

前にもお話したことがありますが、「私の頭の中の消しゴム」というタイトルの韓国映画があります。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫のお話ですが、この映画の中で、若い二人のカップルがすてきな新婚生活を送っていましたが、この美しい奥様がアルツハイマーにかかるのです。そして、順調で幸せいっぱいの生活の中で、美しくも若い奥様の記憶が失われていきました。「僕が代わりに、君の記憶になるから」というセリフがあるのですが、自分の夫のことも忘れてしまうのはどんなに辛いことかと思います。  するとこの妻がこう言います。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって」 それがこの映画のタイトルです。「私の頭の中の消しゴム」  ある映画評論家が、この映画の基調は「ゆるし」だと言っています。自分を捨てた母親を赦せないでいるご主人に、この若い妻が赦しのメッセージを語っているというのです。ちょうど自分の頭からすべての記憶が消えていくように、あなたの心からもお母さんに対する憎しみが消されるようにというのです。  よく観ると、この夫婦の家の壁には、玄関の戸を叩くイエスさまの絵が飾られています。これは、イエスさまが私たちの心の扉をノックしておられる絵です。私たちの心にあるなかなか消えない憎しみの記憶は、ただイエスさまを心の中に迎え、イエスさまを信じて罪を赦していただくことによってのみ受けられるものだというメッセージなのでしょう。ただイエスさまだけが、私たちの罪を赦すことができるのです。そして、もう二度と思い出すことはなさいません。これが神の赦しなのです。それはユダヤ人、イスラエルがどれだけ良い行いをしたかによってではなく、神の恵みによる一方的な赦しなのです。

いったいどうして神はこのようなことをされるのでしょうか。ここには「わたし、このわたしは、わたし自身のために・・」とあります。どういうことでしょうか?ただ神が、神ご自身のために、一方的にあわれんで罪をぬぐい去ってくださり、もうあなたの罪を思い出さないのです。それは、神があなたを選ばれたからです。神があなたの神となってくださいました。あなたが御子イエスさまを信じ、イエスさまがあなたの罪の身代わりとして死んでくださったと信じたので、あなたはこの神の子どもになりました。ですから、どんなことがあっても神はあなたを見捨てることも、見離すこともありません。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はいつでもあなたを赦し、その罪を忘れ、もう思い出すことはしないのです。

ですから、26節のところで、主はこのように語っておられるのです。「 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。」

あなたの中に何か罪が赦されるための根拠があるというのなら、それを述べたてよというのです。ありません。あなたの中には神の命令を行う力はないのです。あなたは神の律法をこれっぽっちも行うことができない弱い存在なのです。人間は神の律法を守ることができない存在なのです。だすからイエスさまが来てくださいました。律法とは別の、しかも律法と預言者によってあかしされていた神の義です。それが信仰です。

「23すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

私たちは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物なのです。ただ神が一方的にあなたをあわれんでくださいました。あなたが「イエスさま、あなたを私の罪からの救い主として信じます」と告白したその時から、神はあなたの神となってくださり、そのすべての罪を赦してくださっただけでなく、もう二度と思い出すことはしないのです。

これがあなたの神です。神はかつてイスラエルをバビロンから解放し、荒野に道を、荒地に川を設けられたように、あなたの人生にも新しい事をしてくださいます。神はあなたの罪を赦し、あなたを天国に入れてくださいます。あなたにはいつも罪の赦しが備えられているのです。さあ、あなたもイエスさまを信じて、神の子どもになってください。そして罪の赦し、永遠のいのちをいただいてください。神はあなたにも新しい事をしてくださいます。この神の新しい御業をワクワクしながら歩める人生はどんなに幸いなことでしょう。あなたもその中に招かれているのです。「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」イエスさまを通してなされた救いのみわざを信じて受け入れましょう。そして、主があなたの人生になさってくださる御業を期待して待ち望みましょう。主はあなたの人生にも新しいことをしてくださるのです。