イザヤ書44章に入ります。きょうのタイトルは、「わたしのほかに神はいない」です。神は十戒の最初の命令の中で、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト20:3)と命じられました。主なる神だけが本当の神であって、この方以外に神はありません。いったいこの方はどのような方なのでしょうか。
Ⅰ.あなたを形造り、あなたを助ける主(1-5)
まず第一に1節から5節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。「1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」
ここに「エシュルン」という言葉が出てきますが、これはイスラエルの別名です。意味は「まっすぐな者」、「正しい者」、「心の直ぐな者」という意味です。ここには「ヤコブ」、「イスラエル」、「エシュルン」という名前が全部出ています。ヤコブとは「かかとをつかむ者」「押しのける者」「ずる賢い者」という意味です。そんなヤコブがイスラエルに改名されました。イスラエルの意味は「神に支配された者」です。何度も、何度も神に背き、神のみこころに歩まなかった彼らは「イスラエル」という名前にはふさわしくない者でしたが、神が彼らを選び、彼らを贖ってくださったので、そんな彼らでも「エシュルン」と呼ばれるのです。
そして、このところには彼らがどのように選ばれていたのかがわかります。ここには、彼らが母の胎内にいる時から形造って、とあります。何と彼らが生まれる時から、いや生まれる前からまだ母の胎内に形造られた時からともにおられ、彼らを支えておられたというのです。イスラエルはその時から既に、神の御手に守られていたのです。有名なエペソ人への手紙によると、世界の基の置かれる前から、神に選ばれていた、とあります(エペソ1:4)
であれば、いったい何を恐れる必要があるでしょうか。あなたの背後にはこの大きな神の御手があるのです。神があなたを造られたのだから、神があなたを助けて、今日まで生かしてくださったのだから、神があなたを支えているのだから、あなたは何も恐れることはないのです。あなたはこの大きな神の守りと支えを感じておられるでしょうか。それとも、自分の無力さにさいなまれてはいないでしょうか。あなたにとって必要なのは、神があなたとともにいて、あなたを守っておられることを信じることです。いったいどうしたらそのようにできるのでしょうか?
3節から5節までをご一緒に読みましょう。「3わたしは潤いのない地に水を注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」
これはただ単に荒野に水を注いで潤してくださるということだけでなく、神の御霊が注がれるという約束です。「わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう」とあるからです。ちょうど水が人間の肉体に命と潤いを与えるように、神の御霊は私たちに霊的ないのちと力を与えてくださいます。
ヨエル書2章28-29節を開いてみましょう。ここには、「28 その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りや夢を見、若い男は幻を見る。29その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」とあります。ここにも、世の終わりになると神が選ばれたイスラエルのり上に、神の御霊が注がれるとことが預言されています。これは、具体的には世の終わりの最後の患難時代に起こることです。その時神がイスラエルに神の霊、聖霊を注がれます。すると彼らの目が開かれ、イエスをこそメシヤ、救い主であることを知り、信じるようになります。そしてこぞって救われるのです。こうしてローマ人への手紙11章26節にある「イスラエルはみな救われる」というみことばが成就するのです。
しかし、このヨエル書の預言は、使徒の働きの中にも引用されています。使徒の働き2章16節から18節です。「16これは、預言者ヨエルによって語られた事です。17『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。18その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」
これはどういうことかというと、今から二千年前に起こったペンテコステにおいても成就したということです。イエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられて救いの御業を成し遂げられました。そのイエスさまは、私たちのために場所を備えるために天に昇って行かれました。場所を備えたら、また来て、私たちを迎えてくださいます。イエスさまがいなくなって寂しくなる弟子たちに、助け主である聖霊を送ると約束されました。この方が来るとき、この方がイエスさまについて証してくださいます。その聖霊が天からくだったのです。
それはあのヨエルが預言したことがペンテコステにおいて成就したということです。それは世の終わりにおいて完全に成就しますが、ペンテコステにおいて始まったのです。そういう意味では、今はまさに世の終わりの時代を迎えていると言えるのです。その世の終わりの日に、神はすべての人に聖霊を注いでくださいました。ユダヤ人だけでなくユダヤ人以外の異邦人も含めてのすべての人にです。 この聖霊が注がれるとどうなるでしょうか。この霊を注がれると、息子や娘は預言し、青年は幻を見ます。そして老人は夢を見るのです。夢見る老人。わたしはいつも夢を見ています。そういう夢ではありません。主のビジョン、幻です。こんな年寄りだけれども、自分にも何かできる。神様のお役に立ちたいという思いが与えられる。もうヨボヨボだけれど、人生これから、残りの生涯を主にささげます、という思いが芽生えるようになるのです。何とすばらしいことでしょう。 それは神の霊が注がれているからです。
イザヤ書の文脈で言うならば、これは「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽ばえる。5 ある者は『私は主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」ということです。本当に無力で、ちっぽけな存在であっても、聖霊によっていのちと力を受け、「私は主のもの」と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に「主のもの」としるして、イスラエルの名を名のるようになるのです。これはまさに御霊なる主の働き以外の何ものでもありません。(Iコリント12:3)
イエスさまの弟子たちのことを考えてみてください。彼らは、イエスさまが十字架につけられた後、当局者たちに捕まるのではないかと恐れて逃げ隠れしていましたが、この神の霊、聖霊が注がれ、聖霊に満たされると一変しました。まるで人が変わったかのように、全く死を恐れず、大胆に、公の場で、「イエスは主である」と告白するようになりました。イエスさまが言われたとおりになったのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
聖霊があなたに臨むと、あなたは力を受けます。渇いた心に聖霊が臨むと、その心は完全に潤されます。愛とか、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった御霊の実を結ぶようになります。神の霊が注がれるとき、あなたの中から恐れが消え去り、大胆に神を証する力が与えられるのです。私たちもそうありたいと願います。いったいどうしたらいいのでしょうか。
ここに「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ」とあります。もしあなたが神の霊に満たされたいと願うなら、まず神の霊に飢え渇かなければなりません。ちようど水が高いところから低いところに流れるように、神の霊も飢え渇いた人に注がれるのです。渇いていなければ、だれも満たされることはありません。あなたが神の霊に満たされたいと願うなら、あなたは神に飢え渇かなければならないのです。
マタイ5章6節をご覧ください。ここには「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」とあります。どのような人が満ち足りるのでしょうか?飢え渇いている人です。義に飢え渇く者は幸いです。なぜなら、そのような人が満ち足りるようになるからです。
ルカの福音書11章11節から13節までのところも開いてみましょう。ここには、「11あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。12卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。13してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」とあります。 すばらしい約束ですね。肉の父親は、子どもが魚を下さいというときに、魚の代わりに蛇を与えるようなことはしません。最近温かくなってそこかしこに蛇を見ますが、蛇がいっぱいいるからといって蛇をあげよう、なんていうことは言いません。良いものを与えてくれます。同じように天の父は、求める人たちに聖霊を注いでくださいます。もっと聖書を勉強して、クリスチャンとして成熟したら聖霊に満たされるといいなぁと言っていたら、いつまでたっても満たされることはありません。今、この瞬間にでも、聖霊を求めてください。そうすれば、主はあなたに聖霊を与えてくださいます。「主よ。わたしは本当に弱い者です。あのことで、このことで心配しています。わたしはあなたが必要です。私のたましいを満たすことができるのはただあなただけです。あなたの御霊だけです。どうかあなたの御霊で満たしてください。そしてあなたの力を与えてください。」そう祈っていただきたいのです。
もう一箇所開きたいと思います。ヨハネの福音書7章37節から39節までのところです。「37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
ここにもすばらしい約束が記されてあります。だれでも、渇いているなら、わたしのもとに来て、飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。これはイエスを信じる者たちが後になってから受ける聖霊のことを言われたのでありますが、この「流れ出るようになる」というのは、ほとばしり出るという意味です。石清水のようにチョロチョロと流れるのではありません。爆発的に流れ出るようになるということです。まさにデュナミスです。ダイナマイトのような爆発的な流れ、力を受けるのです。そして、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生えるようになるのです。その葉は枯れることなく、常に生き生きとして、キラキラとして、喜びがあるのです。私たちもそうありたいです。愛に満たされ、愛に溢れ、自分がどんなひどい仕打ちを受けても心から赦せる人になりたいです。そのためには聖霊に満たされる必要があります。それはあなたの内にあるものを絞り出すようにしても出てきません。私たちの内側には善いものなどないからです。私たちに必要なのは人知をはるかに超えた神の愛です。聖霊の満たしです。主はこの霊を満たしてくださると約束してくださいました。あなたが恐れから全く解放されるには、この神の霊を受けなければならないのです。
Ⅱ.わたしのほかに神はない(6)
次に6節をご覧ください。「イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」 ここで神はご自分がどのようなものであるかを述べられました。まず神はイスラエルの王である主です。この主という字は太字の主です。新改訳聖書でこのように太字になっている時は、これが主の個人名であることを表しています。すなわち「ヤーウェー」という名です。また、ここには「これを贖う方」とあります。神はイスラエルを贖ってくださった方です。イスラエルをエジプトから救い出したように、バビロンからも解放してくださる方なのです。そればかりではありません。ここには「万軍の主」とあります。これは神の絶対的な力と権威がこめられた表現です。つまり万軍の主がその全能の力をもってイスラエルを救ってくださるということです。また、主は「わたしは初めであり、わたしは終わりである」方です。この方は永遠に生きておられ、初めから、終わりまで、この歴史を支配しておられる方であるということです。この方以外に神はいません。この方だけが神です。この神とはだれのことでしょうか。エホバの証人は、この神とはエホバのことだと信じています。しかし、これはエホバのことではありません。これはエホバも含めた三位一体の神のことです。このエホバは同時にイエスのことだということを知ってほしいと思います。というのは、このエホバに使われている名が、イエスにも使われているからです。
たとえば、イエスがイスラエルの王であることについては、ヨハネの福音書1章49節に記されてあります。「ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 これはナタナエルという人の言葉です。信仰告白です。彼は、友人ピリポと一緒にヨルダン川のそばに来ておりました。ヨハネから洗礼を受けたかったのかも知れません。しかし、そこでイエスさまにお会いし、まずピリポが信じてイエスさまの弟子になりました。そして、ナタナエルに言います。「来て、そして、見なさい」「私たちは、モ-セが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」(45)ところがナタナエルは信じませんでした。その理由は、「ナザレから何の良いものが出ようか」と思っていたからです。彼は隣町カナの人(ヨハネ21:2)で、ナザレのことを良く知っていました。そこは小さな町でだれがどこの家の者かも周知のことでした。大工ヨセフの息子がメシヤであるはずがない、そう思いました。ナザレからいったいどんな良いものが出るというのか。あり得ない。ところが彼はイエスと出会い、 イエスが彼のことを言い当てたことで、彼のイエスに対する懐疑心はどこかに吹っ飛んでしまいました。イエスこそ神の子、メシヤ、イスラエル王であると告白したのです。
また、「贖う者」については何度もお話しているように、代価を払って買い取るという意味です。ヘブル語では「ガアール」と言います。旧約聖書ルツ記の中に出てくるボアズという人は、この「贖う人」です。それはイエスさまのひな型でした。このボアズとルツの子孫からイエスさまが生まれてきたのです。それはイエスさまが贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来られた方だからです。(マタイ20:28) イエスさまは、私たちの罪を贖って十字架で死んでくださいました。クリスチャンは、イエス様の十字架の血で贖われ、買い取られた者なのです。イエスさまは私たちの罪を贖ってくださったので、神様との道を開いてくださいました。私たちは日々罪を犯してしまう者ですが、イエスさまによって罪が贖われたので、悔い改め、神に立ち返る時にあらゆる回復が与えられるのです。イエスさまが私たちの贖い主です。
また「万軍の主」についても、ヨハネの福音書12章41節を見ると、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」とあります。ではイザヤが見たイエスの栄光とは何か?イザヤ書6章3節にはこうあります。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」ここに、「万軍の主」と言われています。イザヤがみたこの万軍の主とはイエスのこと、イエスの栄光のことだったのです。
そして、「わたしは初めであり、わたしは終わりである」ということについては、黙示録1章17節と18節にこうあります。「17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」 ここに「わたしは、最初であり、最後であり・・」とあります。このわたしとは誰のことかというと、イエスさまのことであります。なぜなら、その後のところに、「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」とあるからです。死んで、よみがえり、いつまでも生きておられる方とはだれのことでしょうか。そうです、イエス・キリストのことです。イエスこそ初めであり、終わりである方なのです。
このように、イザヤ書44章6節でエホバなる神、ヤーウェーなる神に使われている言葉はすべて、イエスさまご自身に対しても使われているのです。つまり、このエホバなる神は同時にイエスのことでもあるということです。その証拠に、「わたしのほかに神はいない」の神は複数形で書かれてあります。「エロヒーム」です。単数形では「エル」です。二つ以上の複数形になると「エラ」になります。そして三つ以上の複数形になると、このように「エロヒーム」になるのです。三位一体の神のことなのです。三位一体という言葉は聖書には出て来ませんが、その概念は聖書の至るところに出てきます。ですからこれはエホバなる神のことではなく、同時にイエスのことであり、聖霊のことでもあって、三位一体の神のことなのです。
そして、聖書はこの方以外に神はいないとはっきり言っておられます。イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主、初めてあり、終わりであられる方、三位一体の神こそまことの神であって、ほかに神はいないのです。
Ⅲ.未来のことを告げられる神(7-8) 最後に7節と8節をご覧ください。「7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」
ここで主は、わたしのほかに神がいるというなら、その証拠を見せてみよ、と言われます。神は、神としての証拠を見せることができることによってのみ、その正当性が認められるからです。その証拠として主が求めておられることは、これから起ころうとすること、未来のこと、来るべきことを告げてみよということでした。これは41章で言われていたことと同じです。未来のことを告げることができる神こそ本当の神です。この聖書の神、創造主なる神は、これから後に起こることを、未来のことをあらかじめ告げることができます。聖書にはそれを預言としてたくさん記されてあるということについては、以前にもお話したとおりです。実に聖書の1/3から1/4は、この預言で占められています。聖書が預言の書であると言われるゆえんはここにあります。これが、聖書がユニークな書物であることの一つの大きな理由でもあるわけです。聖書はこれから後に起ころうとすることを的確に(正確に)、より具体的にあらかじめ告げているのです。たとえば、この後45章1節には「主は、油注がれた者クロス」という名前が出てきますが、まだ生まれていないペルシャの王の名前までも告げているのです。それはこの神こそまことの神だからです。
このように告げることができる神こそまことの神であって、ほかに神はいません。イスラエルはこの神に選ばれ、救われ、守られ、支えられているのです。であれば、偶像を造ったり、それらを拝んだりするということは、全くむなしいことです。彼らにとって必要なことはこの神こそ本当の神であると確信し、この神のみことばの証人となることです。
それは私たちも同じです。私たちも聖書の神こそまことの神であって、この方のほかには神はいないということを確信し、この神の証人にならなければなりません。ペテロをはじめとする初代教会のクリスチャンたちが、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)と大胆に告白したように、私たちもイエスこそまことの神であり、救い主であって、この方以外には救いはないということを、そして、この方を信じるようにと証なければなりません。
主は十戒の一番初めに、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と言われました。この「わたしのほかに」しいうのは、「わたしの前に」という意味です。あなたにはわたしの前にほかの神々があってはならないのです。つまり、この神をあなたの人生において第一にしなければならないということです。神よりも仕事を、神よりも家庭を、神よりも教会を、神よりも趣味を、神よりも勉強を、神よりも友達を大切にするなら、この戒めを破っていることになります。もちろん、仕事も、家庭も、教会も、勉強も、すべて大切なものです。どうでもいいようなものは一つもありません。しかし、その中にあってどうしても第一にしなければならないものは神なのです。神を第一にして、こうした大切な一つ一つのことがらにバランスよく取り組むことによってこそ、生活全体が安定し、潤いのあるものになっていくのです。
私は、毎日「ディリーブレッド」という小冊子を読んでいますが、その中にDave Branonという人が書いたエッセイを読みました。彼は子どもの頃から野球で大好きで、中でもデトロイト・タイガースの大ファンでした。そして、チームが活躍しているとウキウキし、楽しくしているのですが、逆に負けて成績が奮わないような時は、随分イライラさせられました。これでは精神衛生上よくないと思って、タイガースを断ち切りました。四日間、全く関わらないようにしたのです。 その経験を通して彼が気づいたことは、タイガースを断ちをしている四日間というものがいかに長く、難しいものでるかということでした。そして、それはタイガースに限らず、私たちの生活のどの領域においても同じではないかということでした。どこかで制限しなければならないということがわかっていても、ついついのめり込んで振り回されていることがあります。仕事中毒になって仕事以外のことは何も考えられなくなっているということもあります。あるいは、神に喜ばれないような習慣やクセがあって、神の栄光を現す生き方をするためにはそれをきっぱりやめなければならないと分かっていても、それができないでいる場合もあります。しかし、自分の生活の中に、神との親しい関係を築くことを妨げるものがあるとしたら、それをきっぱりとやめるべきです。
イエスさまはこのように言われました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてすべてのものは備えられます。」(マタイ6:33)神の国とその義とをまず第一に求めるなら、それに加えて、すべてのものは必ず備えられます。主に助けを求めて祈るなら、主は必ず脱出の道を備えてくださいます。そう信じて、神のチャレンジに応答しましょう。そのときあなたは御霊にに満たされ、御霊に属することをひたすら考えるようになります。そして、神が不思議な方法であなたを導き、あなたを守ってくださいます。
わたしのほかに神はいない。胎内にいる時からあなたを選び、あなたを守り、あなたを支えてくださった主こそ神であり、この方のほかには神はいません。この方だけがあなたを助けることができる岩なるお方です。あなたの人生をこの方にかけてください。ゆだねてください。主は決してあなたを裏切ることはなさいません。