Ⅱ列王記6章

 

 今回は、Ⅱ列王記6章から学びます。

 Ⅰ.浮かんだ斧の頭(1-7)

まず、1~7をご覧ください。「1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作りましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」

エリシャの奇跡の物語が続きます。1節には、預言者の仲間たちがエリシャに、一緒に住んでいる場所が狭くなったので、ヨルダン川から各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに住む場所を作りましょう、と提案しました。おそらくここはエリコだったと思われます。というのは、エリコには預言者の学校があったからです。エリコからヨルダン川まではすぐ近くです。約10㎞くらいです。ですから、預言者の仲間は、その宿舎が手狭(てぜま)になったので、ヨルダン川から木を切り出して宿舎を建てようと提案したわけです。

エリシャが「行きなさい」と言うとその中の一人が、自分たちと一緒に来てくださいと言ったので、エリシャは彼らと一緒に行くことにしました。彼らはヨルダン川に着いて木を切り倒し始めると、一人が使っていた斧の頭が水の中に落ちてしまいました。オ、ノー!です。小さな出来事ですが、当事者にとっては大変なことでした。なぜなら、それは借り物だったからです。

それでエリシャは「どこに落ちたのか」と言うと、彼がその場所を示したので、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込みその斧の頭を浮かばせたのです。エリシャが「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして取り上げました。

斧の頭を取り戻したその人は、どれほど安堵したことでしょうか。この人が預言者の仲間たちであったことに注目してください。すなわち、預言者学校の生徒たちです。バアル礼拝がはびこっていた当時のイスラエルにあって、彼らは真の神に仕えていました。それがどれほど容易なことではなかったことは想像できます。しかし、そうした中にあって彼らは、この奇跡によって主が生きておられることを体験的に学んだのです。私たちの神は、どんな小さなことにも目を留めてくださり、その必要に応えてくださるお方なのです。

Ⅱ.目をくらまされたアラムの軍勢(8-23)

次に、8~23節をご覧ください。14節までお読みします。「8 さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」10 イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11 このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」12 すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。14 そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

アラムの王とは、ベン・ハダド2世です。そのアラムの王がイスラエルと戦っていました。このイスラエルの王とはヨラム王です。5章では、アラムとイスラエルの関係は平和で、アラムの将軍ナアマンがツァラアトに冒された時、アラムの王ベン・ハダドがイスラエルの王ヨラムに宛てて手紙を書き送ったほどです。しかし、ここでは両国が対立し戦っています。アラムとイスラエルの間には、戦争の時と平和の時が交互に訪れていたのです。この時は戦争の時でした。

その時、アラムの王が家来たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言うと、神の人エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」と警告していました。それは一度や二度ではありません。何度も、です。いわゆる筒抜けの状態だったのです。それでアラムの王は激しく動揺して、自分たちのうちにだれかイスラエルの王と通じている者がいるのではないかと疑いました。

すると一人の家来が、イスラエルにいる預言者エリシャの存在を告げます。彼がアラムの王が寝室で語っていることばまでもイスラエルの王に告げていると。すごいですね、寝室というのは最もプライベートな領域です。そこで語られることはそこにいる人しか知らないことです。そのことまで知っているということは、何でも知っているということです。そうです、イスラエルの神、主は何でもご存知であられる方です。寝室で語っていることでさえ知っておられるお方なのです。

そこでアラムの王は、エリシャの居場所を突き止めて彼を捕らえようとしました。そして彼がドタンにいるという知らせを受けたとき、そこに馬と戦車と大軍を送り、夜のうちに来て、その町を包囲しました。

15~23節をご覧ください。「15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」

エリシャの召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車と軍勢がその町を包囲していました。それで慌ててエリシャにそのことを告げると、エリシャはこう言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」

すばらしいですね。これは真実です。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。それを信仰によってしっかりと見なければなりません。今、エリシャのところで仕えている若者は、アラムの大軍しか目に見えていません。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。

それで、エリシャは主がその若者の目を開いて、見えるようにしてくださいと祈ると、彼の目が開かれました。彼が見ると、なんと、火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。私たちの神は万軍の主です。エリシャを護衛するために、主の軍勢が町を取り巻いていたのです。

私たちもまた、霊の目が開かれるように祈るべきです。苦難の日には主の軍勢が私たちを取り囲み、敵の攻撃から守ってくださることをしっかりと見なければならないのです。

パウロは、エペソ人への手紙1章17~19節でこう祈っています。「17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

パウロはここで、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますようにと祈っています。そのためには、心の目がはっきり見えるようにならなければなりません。でからパウロは、主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるようにと祈ったのです。

そればかりではありません。アラムの軍勢がエリシャに向かって下って来たとき、エリシャは主に祈って言いました。彼らを打って目をくらましてくださいと。すると主はエリシャのことばの通り、彼らを打って目をくらませたので、彼らをイスラエルの首都であるサマリアへ連れて行きました。

サマリアに着くと、エリシャが彼らの目を開いて見えるようにしてくださいと祈ると、主が彼らの目を開けてくれたので、彼らは見えるようになりました。そして、なんと、彼らは自分たちがサマリアの真ん中にいることを知りました。

イスラエルの王ヨラムは彼らを見て、エリシャに「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」と言いました。これまでヨラムはエリシャの存在を毛嫌いしていたのに、ここでは「わが父よ」と呼びかけています。これまでの経緯を見て、ヨラムはエリシャに敬意を表するようになったのでしょう。

それに対してエリシャは何と言いましたか。22節です。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」

なんとエリシャは全く逆のことを言いました。打ち殺すどころか、彼らにパンと水を与えて、彼らの主君のもとに送り返しなさいというのです。捕虜の扱いとしては前代未聞です。そこでヨラムは大宴会を催しました。彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを家に帰したのです。するとどういうことになったでしょうか?するとそれ以来、アラムは二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。

多くの犠牲を払っても達成できなかった平和を、主は平和的に行われたのです。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言われました。神は平和の神です。私たちは争いではなく平和をつくる者でなければなりません。そこに平和の神が臨在してくださるからです。

Ⅲ.サマリアに起こった大飢饉(24-33)

最後に、24~33節をご覧ください。「24 この後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲した。25 サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んだ。「わが主、王よ。お救いください。」27 王は言った。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちは今日、それを食べて、明日は私の子どもを食べましょう』と言ったのです。29 それで私たちは、私の子どもを煮て食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の衣を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は衣の下に粗布を着ていた。31 彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」

32 エリシャは自分の家に座っていて、長老たちも彼と一緒に座っていた。王は一人の者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのを知っていますか。気をつけなさい。使者が来たら戸を閉め、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」」

その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲しました。ちょっと待ってくださいよ。23節には、アラムの略奪隊は二度とイスラエルに侵入しなかったとあるのに、24節にはそのアラムの王ベン・ハダドが全軍を召集してサマリアに上って来て、これを包囲したとあります。これはどういうことでしょうか。

この23節と24節の間には、どれくらいの期間があったのかはわかりませんが、おそらく何年もの時間が経過していたのでしょう。その間に彼らは、超自然的に盲目とされ、最後は盛大なもてなしを受けて本国に戻されたことを、すっかり忘れてしまったのです。感謝の記憶が薄れることは、危険なことですね。

そして、私たちにもそのようなことがよくあります。神様はイエス・キリストを通して一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのに、その恵みを忘れて、自分勝手に行動し、神の愛から離れてしまうことがあるのです。詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の欲してくださったことを何一つわすれるな。」とあります。主が良くしてくださったことを忘れないで、いつも主に感謝と賛美をささげなければなりません。

さて、アラムの王ベン・ハダドがサマリアに上って来てこれを包囲したとき、サマリアはどうなったでしょうか。25節を見ると、サマリアには大飢饉が起こっていました。この飢饉は自然環境によってもたらされたものではありません。これはアラムがサマリアを包囲したことによってもたらされたものです。つまり、アラムがとった戦法は包囲戦で、いわゆる兵糧攻めにしたということです。その結果、サマリアに大飢饉が起こったのです。

それは想像を絶するほどひどいものでした。ろばの頭一つが銀80シェケルで売られ、鳩の糞一カブの4分の1が銀5シェケルで売られるようになっていました。ろばの頭は、不浄の動物の頭なので、平時であれば食べる人などいません。それが80シェケルで売られていたのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1g80円だとすると912円となります。ですから、ろばの頭が72,960円ということになります。普通はたべないろばの頭が72960円もするのです。鳩の糞とは、通常は家畜の餌になるものでしたが、その一カブの4分の1が4,500円もしたのです。かなりのハイパーインフレです。

そんな時、イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んで言いました。「わが主、王よ。お救いください。」

すると彼はこう言いました。27節です。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」つまり、自分は王であっても、何もあげるものはないよと言うことです。それほど飢饉がひどい状態であったということです。どれほどひどい状態であったかは、この女の訴えを聞くとわかります。ヨラムが彼女に「どうしたのか」と尋ねると、彼女は答えました。知り合いの女の提案で、今日は自分の子どもを煮て食べ、明日は彼女の子どもを煮て食べることになっていましたが、彼女の番になったとき、彼女はその子を隠してしまったというのです。こんな悲惨なことが起こるほどに、サマリアの町の飢饉は激しかったのです。

それを聞くと王は、衣の下に荒布を来ていましたが、「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」と言いました。荒布は、悔い改めを表現するために着用するものですが、彼は主に立ち返るどころかそれをエリシャのせいにして、イスラエルの罪を指摘するエリシャに腹を立て、彼を殺そうとしたのです。彼は、主がなされた数々の奇跡を目撃しながら、悔い改めようとしませんでした。今回の試練は、主がイスラエルの民を悔い改めるために与えたものです。私たちも、試練に会ったとき、神が何を語っておられるのか、そこから神の御声を汲み取らなければなりません。

エリシャはそのことを知っていました。彼は自分の家に座っていて、長老たちと一緒にいました。そして、長老たちに、イスラエルの王ヨラムが自分の首をはねに人を遣わしたことを告げ、使者が来ても、だれも中に入れないように、戸を閉めておくようにと言いました。案の定、エリシャが話していると、イスラエルの王の使いがやって来ました。その使いはエリシャのところに来ると、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」と言いました。どういうことでしょうか。

ヨラム王は、エリシャから今回の事は主からの裁きであると聞いていたのでしょう。だから、主が解決してくださるのを待つようにと助言されていたのです。けれどもヨラムは待ちきれなくなり、悔い改めるよりも自分で問題を解決しようとしたのです。エリシャを殺せば、彼が語った呪いの言葉が効力を失うと思ったのです。

ヨラムはどこまでも身勝手な人間でした。自分の身に起こるわざわいを自分以外の者は環境のせいにして、その本質を見ることができませんでした。その本質とは神との関係です。神との関係が崩れることで、私たちの人生にさまざまな問題が起こりますが、その最大の解決は悔い改めて神との関係を回復することなのです。それ無しには何も解決することはありません。それ無しに人間的に動いても、それはかえって逆の結果をもたらすことになります。静まって神を待ち望み、神の御前に悔い改めて神にすべてをゆだねること、それが、私たちが苦難の時に生きる道なのです。