きょうは、「高ぶる者は退けられる」というタイトルでお話します。今読んでいただいたところには、バビロンに対するさばきの預言が書かれてあります。いったいバビロンはなぜ滅んだのでしょうか。それは一言で言えば高慢だったからです。ヤコブ書4章6節に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」とあります。高ぶる者は退けられます。バビロンは高ぶったので滅んだのです。いったい彼らはどのように高ぶったのでしょうか。きょうはそのことについて三つのポイントお話したいと思います。
Ⅰ.私だけは特別だ(8-9)
まず第一に、バビロンは「私だけは特別だ」と言って誇りました。8節と9節をご覧ください。 「8 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう』と言う者よ。9 子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行っても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。」
「楽しみにふけり、安心して住んでいる女」とはバビロンのことです。彼らは快楽にふけり、安逸をむさぼっていました。やもめになったり子を失ったりするというのは、バビロンが滅ぼされるという預言です。やがてペルシャの王クロスがやって来て彼らを滅ぼします。難攻不落と言われたバビロンが一日にして滅びてしまうのです。にもかかわらず彼らは、この高くそびえ立つ城壁を崩せる者などだれもいないと安心しきって酒を飲み、楽しみにふけっていました。いったい何が問題だったのでしょうか。ここに「心の中で、『私だけは特別だ』」とあります。彼らは自分だけは特別だと思っていました。実際はそうでないのにそうだと思い込んでいたわけです。
この「私だけは特別だ」という言葉ですが、ここには※がついていて、下の説明を見ると、直訳では「私だけで、ほかにはいない」です。どこかで聞いたことのあるセリフじゃないですか。46章9節を見てください。ここには、「わたしが神である。ほかにはいない。」とあります。これは神の宣言です。つまり、これは神のセリフなんです。この神のセリフをここでバビロンがそのまま使っているわけです。つまり彼らは自分こそ神だと言っているのです。
このバビロンの背後にはサタンの存在がありました。先週も見ましたがイザヤ書14章を見ると、サタンは「いと高き方のようになろう」と言って堕落しました。彼はもともと最も輝いていた天使でした。明けの明星、ラテン語でルシファーでした。その明けの明星ルシファーが落ちたのは、「私は天に上ろう。私は神の星々のはか上に王座を上げ、私は北の果てにある会合の山にすわろう。私は密雲の頂に上り、私はいと高き方のようになろう」と言ったからです。彼は「自分」を強調しました。だから落ちたのです。
同じ「わたし」を神も強調しています。46章4節には、「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだから。なお、わたしは背負って、救い出そう。」とあります。ここでは神が「わたし」を強調しているのです。あなたを救い出すのはわたしだ。このわたしがあなたを背負うと。その箇所を英語で読むとよくわかりますが、ここには「I am he.」が強調されています。「わたしがそれだ」という意味です。サタンはそれと同じセリフをしているのです。つまり、サタンは自分が神と同等の存在であるかのように、神にとって変わろうとしたのです。「私だけでほかにはいない」「私だけは特別だ」と言いました。神中心ではなく自己中心だったのです。
自己中心とは自分を絶対化することです。「私だけは特別だ」というのは、実は無神論者のセリフなんです。無神論者はこう言います。「神なんていない。神なんて信じない」信じられるのは自分だけでほかにはいない、そう豪語します。しかし、このように言えるのは神以外にはいません。神だけがまさに自存の神であって、他の何にも依存することなく、自分だけで存在することができる方です。「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)と言われました。私たちはとてもそんなことは言えません。息をするのも、自分の心臓を動かすことも、自分ですることはできません。太陽も水も食料もすべて自分以外のものに頼らなければ生きていけない存在なのです。しかし、神は自分だけで存在することができます。自分だけで永遠に生きることができるのです。だから神は神中心でいいのです。神だけが唯一、「わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない」と言うことができる方なのに、バビロンはそのセリフそのまま盗んで言いました。それが問題でした。何という傲慢でしょう。そのような傲慢な者には突然、災難が見舞うことになるのです。あなたがどんなに多くの呪術を行っても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞うのです。
これはアメリカ南北戦争の時のことです。アラバマ21連帯所属の南軍兵士が、初めて開発された防弾服を着て意気揚々と敵軍の前に立ちました。「この防弾服さえあれば、俺は絶対に死なない。」このように彼は、敵に向かって叫びました。その時です。どこからか銃弾が飛んで来て、兵士はその場に倒れてしまいました。敵軍は防弾服を着ている彼の胸ではなく、彼の頭を狙ったのでした。一カ箇所だけを覆ってすべて安全だと信じた兵士は、残念なことですが、自分の愚かさのために命を失ってしまいました。 「私には足りないものはない。だから、神に求めるものはない」というのは高慢なことであり、愚かなことです。聖書は、いつも神を認めなさいと語っています。一歩一歩私たちの知恵や能力に頼るのではなく、神の導きを求めなければなりません。神の導きを求めるということは、神の下にへりくだり、神の導きにしっかりと従っていくことを意味します。詩篇には、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)とあります。それは結局、人々が認めようが、認めまいが、神がすべてのことを治めておられ、神が助けてくださらなければ無意味であるという意味です。人間がいくら努力しても、神が退けられるならば何の意味もありません。神の力強い御手の下にへりくだりましょう。そうすれば、ちょうど良い時に神が、私たちを高くしてくださるからす。
Ⅱ.私を見る者はない(10-11)
次に、10節と11節をご覧ください。バビロンは「私を見る者はない」と言って、自分の悪に拠り頼みました。 「10 あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はいない』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』11しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。」
バビロンは自分の悪に拠り頼み、「私を見る者はない」と言っていました。バビロンがそんなにも高慢になったのはなぜでしょうか。それは神への恐れがなかったからです。神への恐れがないのに知恵と知識だけは増えていきました。これが彼らを迷わせたのです。箴言には、主を恐れることが知恵や知識の初めであると教えられています。彼らは主を恐れることがなかったので、そうした知恵や知識がかえって彼らを迷わせることになったのです。
皆さん、私たちはなぜ悪いことわするのでしょうか。だれも見ていないと思うからです。だれも見ていないと思うからごまかしたり、盗んだりするのです。もしだれかが見ていたらそのようなことはできません。だれも見ていないと思うので数々の罪を犯すのです。バビロンはだれも見ていないと思ったのでやりたい放題でした。彼らには神への恐れが全くなかったのです。
しかし、神はすべてを見ておられます。目に見えない神は、あなたのことをすべて見ておられるのです。あなたの心の中までも見透かされています。人はうわべを見るが、主は心を見ます。その心の思いまでもすべて知っておられるのです。詩篇94篇7節から11節までを開いてみましょう。ここに次のようにあります。 「7こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかない。」8気づけ。民のうちのまぬけ者ども。愚か者ども。おまえらは、いつになったら、わかるのか。9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。10国々を戒める方が、お責めにならないだろうか。人に知識を教えるその方が。11主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。」
「私だけでほかにはいない」と思ったら大間違いです。主は全てを見ておられます。すべてをお見通しなのです。確かにあなたの目には見えていないかもしれませんが、神はあなたの全て見ておられるのです。加えて言うなら、あなたは生まれる前からずっと見られていました。だから、神の前には何のごまかしも効きません。ですから私たちは神を恐れなければならないのです。常に神を恐れ、神を意識し、神を敬わなければなりません。「私だけは特別だ」というのはいかに傲慢なことであり、愚かなことなのです。このことを知らないと、11節にあるように、わざわいがあなたを襲うことになります。
しかし反対に、神を恐れる者はわざわいを受けることはありません。詩篇121篇5節から8節にこうあります。 「5 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。7 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。8 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」 この「あなた」とはイスラエルのことです。彼らは神に贖われた神の民なので、わざわいを受けることはありません。そして、これは神によって贖われた私たちクリスチャンに対する約束でもあります。イエスを信じる者はわざわいを受けることはありません。なぜなら、イエスが代わりにそのわざわさを受けてくださったからです。
「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16-18)
ですから、御子を信じる者はさばかれることはないのです。これは幸いなことではないでしょうか。しかし、たとえクリスチャンであっても、心の中で「私だけは特別だ。」と言うなら、わざわいがあなたを見舞うことになります。。この場合のわざわいとは罪の刈り取りのことです。人は種を蒔けば、その刈り取りもしなければならないのです。ガラスのコップを床に落とすとどうなりますか?ガラスは割れ、中に入っていたものは飛び散り、ジュータンは汚れるでしょう。それと同じようにクリスチャンが罪を犯すとその影響を受けるようになるのです。それは家族を失うことかもしれませんし、健康を失うことであるかもかもしれません。あるいは名誉を失うことや信頼を失うことかもしれません。そのように私たちの罪はいろいろなものを私たちから奪っていくのです。ですから、罪を犯して一番辛い思いをするのは、だれよりも罪を犯したその人本人なのです。だから神は警告してくださっているのです。イエス様を信じている人はわざわいを受けることはありませんが、その刈り取りはしなければならないのです。
ですから、私たちはそういうことがないように、「私を見る者はだもいない」と言って悪事を企んだり、「私だけは特別だ」と言って誇ったりしないで、ただ神を恐れ、神を敬い、神に従わなければならないのです。
Ⅲ.あなたを救う者はひとりもいない(12-15)
最後に12節から15節までを見て終わりたいと思います。「12さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。おびえさせることができるかもしれない。13あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。14見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前にすわれる火でもない。15あなたが若い時から仕え、行き来してきた者たちは、このようになる。彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない。」
ここには神を恐れないで、あくまでも自分たちの知恵や知識、ノウハウ、解決法によって自分を救おうとしていたバビロンの姿が描かれています。「若い時からの使い古しの呪文」とは、昔からある呪文のことです。仏教のお経などもそうでしょう。いくら「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と唱えても、多少はざわめいていた心を落ち着かせることができても、根本的な問題を解決することはできません。
13節にある助言はどうでしょうか。たくさんの助言が私たちの回りにもあります。カウンセリング、テレビが言うこと、雑誌で言ってること、インターネット、あの人が言うこと、この専門家が言うこと等々、たくさんの助言がありますが、そうした助言があなたを助けてくれるでしょうか。残念ながらせっかく助言を聞いてもその言っていることがまちまちで、いったいどれを助けにしたらいいかわからず、かえって混乱してしまいます。「ナイナイアンサー」というテレビの番組があります。ある芸能人の悩みにお答えするという番組ですが、そこには各方面も専門家が20人くらいいて、それぞれ自分の視点からアドバイスをしてくれるものの、アドバイスが多すぎて何を信じたらいいかわかりません。中には正反対のことや矛盾するようなことを言ってることも少なくありません。そのような助言は本当の意味で助けになるどころか疲れの原因にもなりかねません。
では天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者たちはどうでしょうか。これはバビロンの占星術のことです。星占いはすべて古代バビロンが発祥地です。そこからギリシャやインド、中国へと渡っていきました。ホロスコープと呼ばれる西洋の星占いのルーツもここにあります。また、中国から日本に渡ってきた陰陽道(ONMYODO)なども、もともとはバビロンから渡ってきたものなのです。
現代でも多くの人々が、この使い古しの呪文に頼っています。きょうの運勢はどうだろうとか、きょうの占いをチェックしてみよう、ラジオやテレビ、新聞、雑誌などでついついチェックしてしまいます。血液型占い、動物占い、ラッキーカード、そのよううなものに頼っているのです。 先日、同盟の役員会があって仙台に行った電車の中でも、女子高生たちがこの占いのことで熱心に話し合っていました。あの占いはおもしろいくらいあたるからまた行ってみようと・とか。
でも、このようなものはあなたを救うことはできません。14節を見てください。
「見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前にすわれる火でもない。」 とあります。そうした若い時からの使い古しの呪文や多くの呪術、多くの助言、星占いは、決してあなたを救うことはできません。むしろ、そんなものに頼っていると必ず痛い目に会います。神は復讐する神であり、だれひとり容赦しない方だからです。
ではどうすればいいのでしょうか。伝道者の書の一番最後のところにこうあります。
「13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(伝道者の書12:13-14)
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってのすべてです。私だけが特別だとか、私を見る者はいないといって高ぶる者を、神は退けられます。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられるからです。私たちが恵みを受ける唯一の道は、ただへりくだることなのです。
第一コリント10章12節に、「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」とあります。時々私たちは神様が恵みを与えてくださっているのに、自分で立っているように思うことがあります。聖書には、神はすべての人に命を与え、養っているとありますが、何だか自分一人で生きてきたかのように錯覚していることがあるのです。皆さんはどうでしょうか。すべては神の恵みなのです。自分の力で立っていると思ってはいけません。クリスチャンはどんなに恵まれても、俺がやったというのではなく、もちろん、俺がやったこともありますが、俺がやったことは神の恵みによってそのようにさせていただいたものなのですから、自分で立っていると思ってはいけないのです。この箇所は文語体では、「さらば、自ら立てりと思ふ者は倒されぬように心せよ。」とあります。
ですから、私たちがどんなに成功しても、自分で立っていると思ってはいけません。すべてを神の恵みと受け止め、また、いろいろな人たちの支えがあったからだと感謝しましょう。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになられるのです。