きょうは、イザヤ書47章の前半の箇所からお話します。ここにはバビロンの滅亡について記されてあります。難攻不落と言われたバビロンが滅びたのはいったいどうしてだったのでしょうか。きょうはその原因について三つのポイントでお話したいと思います。
Ⅰ.わたしは復讐する(1-4)
まず1節から4節までをご覧ください。1節には、「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。」とあります。
ここではバビロンのことが、「おとめバビロンの娘」と呼ばれています。バビロンがこのようにおとめ、すなわち処女であると言われているのは、まだ一度も外敵に侵略されたことがなかったからです。高さ90m、厚さ24mの城壁は、一辺が24㎞に及び、周囲が96㎞もありました。また、城壁には100の門と250の見張り塔が備えられていました。このような城壁を崩せる者など誰もいませんでした。バビロンは難攻不落の都市、まさに「おとめ」でありました。
しかし、そんなバビロンに対して主はこう言われます。「下って、ちりの上にすわれ。」ちりの上にすわるとは、しばしば嘆きを表わす時に使われる表現ですが、それは低くされることを表しています。これまで一度も攻められたことのないバビロンが攻められ、ちりの上にすわるほど低くされるのです。
また、「カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。」と言われます。カルデヤ人の娘とはバビロンの娘のことです。バビロンの別名がカルデヤでしたるそのカルデヤに主は、王座のない地に座れと言うのです。これは、長らく王座で統治しいていたバビロンが、卑しい座に移されることを意味しています。
なぜでしょうか?「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないから」です。 優しい上品な女とは、バビロンの優雅さを表しています。バビロンは高くそびえ立つ城壁に囲まれ、その真ん中にはユーフラテス川が流れていました。そして町の中心にはエ・テメン・アン・キと呼ばれる塔が立っていました。また、その隣にはバビロンの神マルドュクを祭った立派な神殿がありました。そして、あの世界七不思議の一つにも数えられているバビロンの空中庭園もありました。それだけではありません。皆さんはイシユタルの門という門のことを聞いたことがありますか。その美しさは言語を超えていたと言われています。まさに上品な女です。そんな優雅なバビロンが、もはや上品な女とは呼ばれなくなります。なぜなら、最も卑しい女奴隷になりさがるからです。2節と3節をご覧ください。
「ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。3あなたの裸は現れ、あなたの恥もあらわになる。」
ひき臼を取って粉をひく仕事は、当時女奴隷の仕事でした。顔おおいとは、貴族の女たちが顔を覆うために使う布のことですが、そのような布はもはや必要なくなります。そんなのがあったら臼をひく仕事の邪魔になってしまうからです。 「すそをまくって、すねを出し、川を渡れ」というのは、バビロンがクロス王によって滅ぼされ、征服され、敵国に連行されていく姿を表したものです。すそをまくって、すねを出すことは恥です。このように、華やかさと贅沢を楽しんでいた女王のバビロンが、卑しい女奴隷に転落するのです。
いったいなぜこのようなことになるのでしょうか。3節後半をご覧ください。ここには、「わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」とあります。神がバビロンに対してさばきを下されるからです。神の民であるイスラエルを苦しめたバビロンに対して、神ご自身が復讐されるのです。
私たちの神は復讐をする神です。詩篇94篇をご覧ください。1節から7節までと、22節、23節をお読みします。
「1 復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。 2 地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。 3 主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは、勝ち誇るのでしょう。 4 彼らは放言し、横柄に語り、不法を行う者はみな自慢します。 5 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのものである民を悩まします。 6 彼らは、やもめや在留異国人を殺し、みなしごたちを打ち殺します。 7こうして彼らは言っています。「主は見ることはない。ヤコブの神は気づかな い。」 22 しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。 23主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。 われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。」
主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされるのです。神がバビロンにこのようにされるのは、彼らの悪のゆえなのです。彼らが高ぶって自らが神であるかのようにイスラエルを苦しめたので、その悪に対して神が復讐されるのです。
皆さん、復讐は神がされることであって、私たちがすることではありません。私たちはすべてのことを正しく知っているわけではありませんので、物事を正しく判断することができないからです。けれども神は正しい方であって、そのすべてのことにおいて正しくさばくことがおできになられます。ですから、さばきは神にゆだねなければなりません。
しかし、これは私たちに害をもたらす人たち、すなわち、私たちに不利益をもたらし、怒りを煽る(あおる)ような人たちに対してだけに言われていることではありません。確かに神はあなたに害をもたらす人たちに復讐されますが、それは彼らだけのことではなく、私たち自身にもあてはまることなのです。神はあなたにも復讐されるのです。あなたに対しても容赦しません。他の人のことは置いておいて、私たちが考えなければならないことは、自分自身はどうかということです。もしあなたが神に対して罪を犯しているなら、神はその罪に対しても正しく復讐されるのです。神はそれを大目に見られることはありません。そんなことをしたら、神の正義が歪め(ゆがめ)られてしまうからです。あなただけを大目に見て、あなたの罪を見ないようにして、他の人の罪だけをとがめるようなことはなさいません。なぜなら、神にはえこひいはないからです。あの人をさばけば、この人もさばきます。この人をさばけば、あの人もさばきます。神にはえこひいきがないからです。
しかし、私たちは何も恐れる必要はありません。なぜなら、私たちはもうさばかれる対象ではないからです。あなたが御子イエス・キリストを信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦されました。あなたの罪は神の御子イエス・キリストが十字架にかかってくださり、神のさばきを代わりに一身に受けてくださったので、すべて赦されたのです。あなたが罰せられることはもうありません。あなたは罪のない者とみなされたのです。そんなおいしい話があるのかと思うかもしれませんが、あるのです。それが福音です。福音はGood Newsと言いますが、これこそGood News、良い知らせです。ですから、私たちは、神は復讐すると言っても、だれひとり容赦しないと言ってもびくびくする必要はないのです。
イエス様の約束のことばを聞きましょう。ヨハネの福音書5章24節を開いてください。ここをご一緒に読みたいと思います。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)
もしあなたがイエスのことばを聞いて、イエスを遣わした方を信じるなら、あなたは永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。あなたはもうこの方を信じていますか?あなたのすべての罪を負ってあなたの代わりに十字架にかかって死んでくださったイエスを信じていますか?もしあなたが信じているなら、あなたは何も恐れる必要はありません。これはキリストを信じる前の人に語られている言葉です。キリストを知るまでは絶えずビクビクしながら生きていなければなりませんでした。たださばきを待つだけの死刑囚のようであったわけです。それがかつての私たちの姿です。しかし、イエス・キリストを信じた瞬間に、そうした恐怖から全く解放されました。もうさばかれることはありません。4節のことばをご一緒に読んでみましょう。
「私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。」
私たちの神は私たちを贖ってくださる方です。その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方です。あなたはこの方の名を知っているでしょうか?あなたの罪はこの方によって贖われているでしょうか?この方はあなたの聖なる方になっているでしょうか?もしまだ知らないというのなら、あなたを贖ってくださる方に身をゆだねてこう祈ってください。
「主よ。いまあなたのことを知りました。あなたは私の罪を贖ってくださる方です。どうか私の罪を赦してください。そして、すべての罪を取り除いて聖めてください。神のさばきの対象ではなく愛の対象になりたいのです。」
あなたがこのように祈るなら、神はあなたを贖い、ずっとあなたを運んでくださいます。46章3節と4節にあったように、あなたが年をとっても、あなたがしらがになっても、ずっと背負ってくださいます。イエス・キリストを自分の救い主として信じるなら、あなたは救われるのです。そしてもはやこの3節のことばは恐怖とはならず、このことばにビクビクする必要はなくなるのです。
Ⅱ.あくまでも道具にすぎない(5-6)
次に5節と6節をご覧ください。5節、「5カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみに入れ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。」
ここでバビロンに対して、「黙ってすわり、やみに入れ」と言われています。「やみに入れ」とは滅びとさばきの象徴です。つまり、バビロンが神にさばかれ、滅ぼされることを表しているのです。なぜなら、「あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないから」です。 これは1節で言われていることと同じです。1節では「もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ」とありましたが、ここでは「あなたはもう王国の女王と呼ばれることがないからだ」と言われています。女王といえばイギリスのエリザベス女王が有名ですが、それは絶対的な権力を持っている人を表しています。バビロンの王は女王ではありませんが、すべての国々を征服した絶対的な権力をもっていました。そんな女王が、ひき臼をひく女奴隷になりさがるのです。 いったい何が問題だったのでしょうか?その理由が6節にあります。ご一緒に読みましょう。「わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。」
どういうことでしょうか?「わたしの民」とはイスラエルのことです。神はご自分の民であるイスラエルが神に背いたので、彼らを懲らしめるために彼らをバビロンの手に渡したのに、バビロンは彼らをあわれむことをせず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせました。つまり、バビロンは神に背いたイスラエルを懲らしめるためのただの道具にすぎなかったのに、彼らはその自分たちの立場を逸脱して、傲慢にも、行きすぎたことをしてしまったのです。彼らは単なるスパンク棒のような存在にすぎなかったのに、その立場にとどまっていることをせず、それで彼らをめった打ちにしたのです。皆さん、スパンク棒ってご存じですか?尻叩き棒のことです。子供が悪いことをした時に、言っても言うことを聞かないと、それでお尻ペンペンするわけです。しかし、お尻ペンペンする役割を超えて、それでメッタ打ちにしてしまいました。虐待したのです。それで神は彼らをその地位からひきずり下ろし、ちりの上にすわるように、やみに入るようにされたのです。
それはバビロンだけのことではありません。私たちの中にもついいき過ぎたりすることがあります。自分の感情にまかせて、つい言い過ぎたり、やりすぎたり、度が過ぎたりすることがあるのです。傲慢になって、ついつい他人に対して厳しくなって、乱暴にふるまったりすることがあるのです。そしてあわれみに欠けることがあるのです。
たとえば、先程言ったお尻ペンペンですが、お尻ペンペンのはずが子供を虐待しているということがあります。また、日本では商売において売る側と客の側では立場が違います。お客様を神様のようにもとなすことはすばらしいことですが、いつしかそれで客の心に慢心な思いが生じ、ついつい横柄な態度になってしまうことがあるではないでしょうか。 アメリカでは逆です。たとえばスーパーマーケットでレジに行くと、客の人が「Thank you」というのです。不思議だなぁと思って帰ってから家内に尋ねたら「当たり前でしょう」と言うのです。店の人は自分のために働いてくれてるんだから感謝するのは当然だ、というのです。 国が違うとこうも違うのかと思いましたが、よく考えてみるとそうなのです。店の人も客の人も同じ人間であって、どちらが上だとか、どちらが下だといった関係ではないはずです。しかし、そうした関係によって態度がコロコロ変わってしまうのは、そうした理解に欠けているからではないかと思うのです。それによって行きすぎた態度を取ってしまう傾向を生んでしまいます。
主は百デナリ借りのあるしもべをゆるさなかった主人に対して、「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(マタイ18:33)と言いました。私たちも主に罪を赦してもらわなければならない罪人にすぎないのです。ローマ人への手紙12章3節で、パウロが、「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と言っているように、自分の置かれている立場をわきまえて、慎み深い者でなければなりません。
Ⅲ.高慢は破滅に先立ち(7)
最後に7節を見て終わりたいと思います。ここには、「あなたは『いつまでも、私は女王でいよう』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。」とあります。
どういうことでしょうか?「あなた」とはバビロンのことです。バビロンは「いつまでも、私は女王でいよう」と考えました。これは完全な高慢です。バビロンは、自分たちの国は、自分たちの時代はいつまでも続くと考えていました。女王のように優雅で、気品に溢れた生活がいつまでも続くと思っていたのです。終わりのことを考えないで、自分たちの思うままに行っていました。こんなことをしたらどうなるかを考えたら、少しでも思いとどまることができたはずです。なのに彼らはそんなことは微塵も思わず、高慢になって、やりたい放題でした。あわれみに欠けて、行きすぎてもやり過ぎても全くお構いなしで、快楽にふけり、安逸をむさぼっていたのです。「これらのことに心を留めず、自分たちのことを思ってもみ」ませんでした。そのような高慢なバビロンを、神はさばかれました。彼女を女王の座から引きずり下ろし、ちりの上にすわるように、王座のない地に座るようにされたのです。
聖書に、「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」(ヤコブ4:6)とあります。また、「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:2)とあります。人生の中でたいせつなことは、高ぶらないことです。高ぶると祝福を失うことになります。高慢は滅びに先立つのです。
創世記16章に、アブラハムにあった出来事が記されてあります。アブラハムには長い間子どもがありませんでした。神様は彼に、「お前の末から祝福を与える」と約束されましたが、80才を過ぎても子どもが与えられませんでした。 妻のサライはとても美しい人でしたが、年になっても赤ちゃんができませんでした。そこで、サライは言いました。「神様は子どもをくださると言ったけれど、なかなかくださらない。だから、私のはしためハガルをあなたにあげるので結婚して赤ちゃんを作りなさい。」と。アブラハムは信仰の人でしたが、考えて「私も80才過ぎているので子どもができるわけがない。」と女奴隷ハガルをめとり、子どもができました。しかし、彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになったのです。 彼女は奴隷です。しかし彼女に赤ちゃんができたら、自分の女主人であるサライを見下げるようになりました。「私に赤ちゃんができた」と言って彼女は見下げるようになりました。 人間が高ぶる時は人を見下げる時です。ある人は、「頭の良さそうな人はいない。あの人はちょっとばかだ。私のほうが上だ。」と見下げます。人を見下げることは批判的なこと、高慢なことです。 アブラハムの奥さんになるようにハガルに勧めたのは、女主人のサライですが、サライのおかげで子どもができたのに見下げました。 ハガルがサライをばかにしたのでサライも怒りました。そして、「ハガルが高ぶって私を見下げているのはあなたのせいです。」と今度はアブラハムを責めました。仕方なくアブラハムは、「じゃ、あなたの好きなようにしなさい。」と言ったので、サライはハガルをいじめました。それでハガルはサライから逃げました。荒野を逃げ、非常に苦しみながら砂漠の近くに来た時、神はハガルに声をかけられました。それは、「ハガル。あなたはどこから来たのか。」という声でした。 神様は高ぶった人をも見捨てません。声をかけられました。神様は素晴らしい方です。人間は一度背いたら、「もう二度と家の敷居をまたいてはいけない。」と言うと思いますが、神は、「ハガル、あなたは何をしている。どこから来たのか。」と語りかけられました。彼女は、「はい。女主人にいじめられて逃げてきました。」と答えました。すると神様は、こう言われました。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」(創世記16:9)
これが神のみこころです。身を低くしたら祝福されのです。私たちの人生の中で、身を低くすることは大切なことです。高ぶってしまったらおしまいです。身を低くして、へりくだったら必ず祝福されます。私たちは神のしもべにすぎません。そのしもべとしての立場をわきまえて、思うべき限度を越えて思い上がることがないように注意しましょう。これからはもっともっと身を低くしていきましょう。 高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つからです。