イザヤ書48章1~11節 「練られる神」

きょうは、「練られる神」というタイトルでお話します。この箇所にはバビロンに捕らえられていたイスラエルが解放される預言が記されてあります。イザヤはそれが起こる150年も前にそのことを預言していたわけです。それにしても、イスラエルがバビロンに滅ぼされ捕囚の民として連れて行かれるようになったのはどうしてでしょうか。それは彼らがかたくなだったからです。彼らは神の民であるにもかかわらず神に背き、自分勝手な道に歩みました。そして、こともあろうに偶像を造りそれを拝んでいたのです。それで神はバビロンによって彼らを懲らしめたのです。神がイスラエルを懲らしめたのは彼らが嫌だからでも、憎かったからでもありません。むしろ神は彼らを愛していたので、彼らを練られたのです。きょうは、神がどのようにイスラエルを練られたのかをご一緒に見ていきましょう。

Ⅰ.形式的な信仰のイスラエル(1-5)

まず1節から5節までをご覧ください。1節には、「これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。」とあります。

ここに「ヤコブの家」とか「イスラエルの名」、「ユダの源」とありますが、これはみな同じ人たちを指しています。ヤコブとはずる賢い者とか、かかとをつかむ者という意味です。それはヤコブの肉的な性質を表しています。そんなヤコブが神と格闘して砕かれ、イスラエルと呼ばれました。意味は「神に支配された者」です。そんなイスラエルが「ユダの源から出て」と言われています。ユダとはヤコブの四男で「賛美する者」という意味があります。このユダ部族からダビデ王が生まれ、このダビデの子孫からやがてメシヤ、救い主が生まれます。それがイエス・キリストです。ですから、ここで彼らのことが「ヤコブの家よ。」とか、「イスラエルの名で呼ばれ」、「ユダの源から出て」と言われているのは、彼らが正統なユダヤ人であるということを表しているのです。少なくとも彼らはそのように自負していました。表向きは、自分たちがユダの源から出た、主の御名を呼び求める、主に選ばれた民であると思っていたのです。  しかし肝心なところが抜けていました。それは何かというと、誠実さや正義に欠けていたことです。彼らは「主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってし」ませんでした。「誠実」とは、変わることなく、神に信頼する心のことであり、「正義」とは、神の道にかなった正しい歩みのことです。つまり、彼らは他の神々ではない、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求める者たちであったのに、その信仰には中身が伴っていなかったのです。口先だけの信仰だったのです。

いったい彼らはどのようになってしまったのでしょうか。3節から5節までのところをご覧ください。 「3先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行い、それは成就した。4 あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか、あなたが言わないためだ。」

「先に起こった事」とは何でしょうか?それはイスラエルの歴史に起こった一連の神様の御業のことです。特にここでは出エジプトの出来事を指しています。それは前から神が告げておられたことでした。そしてそれがある日突然、にわかに起こりました。以前から主が告げておられたように成就したのです。なぜそのように告げておられたのかというと、そうでないと彼らは、「私の偶像がこれをした」とか、「私の彫像や鋳た像がこれを命じた」などと言いかねないからです。彼らはそれほどかたくなでした。彼らはイスラエルの神を信じているといいながら、このように偶像も信じていたのです。真の神を信じているといいながら、同時に偶像も持ち合わせていたのです。そんなことがあるのでしょうか。あるのです。神を信じていると言いながらも、同時に自分の能力に頼っていたり、自分の知識、経験、財力を信じていれば、それは同時に偶像を拝んでいることになります。まさに彼らはそうだったのです。

たとえば、彼らは、主の圧倒的な力によってエジプトから救い出されましたが、その後導かれて荒野でいったい何をしたでしょう。モーセが十戒を受けるためにシナイ山の上って行くと、彼がなかなか山から下りて来ないことにしびれをきたし、自分たちをエジプトから連れ上ったモーセはどうなったかわからないからと、アロンに頼んで、「私たちに先立って行く神を、造ってください。」(出エジプト32:1)金の子牛を造りました。彼らは神によって贖われた神の民であるにもかかわらず、同時に金の子牛を造って礼拝したのです。それは彼らだけのことではありません。ややもすると私たちクリスチャンも同じ過ちを犯す危険性があります。真の神を信じているといいながら、同時に自分の神を造るということが起こるのです。

イスラエルは、そのような罪によってバビロンに滅ぼされ捕囚の民としてバビロンに連れて行かれましたが、今度はそこでバビロンの偶像を拝むようになりました。ですから神は、彼らをそこから解放すると前もって告げられたのです。そうでなかったら、それは偶像のおかげだとか、たまたまそうなったんだと言いかねないからです。彼らはそれほどまでにかたくなだったからです。そんな彼らのかたくなさを4節ではこのように表現されています。「首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、」すごいですね。首筋は鉄の腱です。顔は青銅にように堅いのです。これはイスラエルのかたくなさ、頑固さがどれほどのものであったのかを表したものです。いくら神の預言が成就しても、それを神が成し遂げられたことに疑いを持ち、偶像がしたと勘違いするほどでした。

彼らはそれほどまでにかたくなでした。彼らはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めていたのに、中身がありませんでした。誠実をもってせず、また正義をもってしなかったのです。

これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。イエス様を信じて救われて、もうこの世の人たちのような偶像を礼拝したりはしていないかもしれませんが、けれども、心がそこから離れている場合があります。救われたということに甘んじて、いつの間にか形だけの信仰生活に陥っていることがあるのです。この世の楽しみという偶像に、自分の肉の欲といった偶像に、自分で造った神に引かれていく危険があるのです。

マタイの福音書7章を開いてください。23節には、「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか。」という人たちに対して、主は、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」(マタイ7:23)と言われます。なぜでしょう。主に向かって、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国に入るわけではないからです。ただキリストのことばを聞いて、それを行う者だけが天の御国に入ることができるのです。それゆえイエス様はこう言われました。

「24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)と言われました。

どんな嵐が襲ってきてもびくともしない岩の上に家を建てる人とは、主のことばを聞いてそれを行う人です。神は、私たちがどれだけのことをやったのかを見られるのではありません。神が見られるのは、私たちが神の前にどれだけ誠実であったかです。そして、神のみこころに歩んだのかどうかということなのです。ミカ書6章8節をご一緒に読みましょう。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」

神の前に誠実に歩むというのは、何一つ過ちのない完璧な人生を歩むということではありません。たとえ人生に過ちがあっても、神の恵みの中で悔い改め、神の恵みに支えられ、神に従う生き方を守っていくことです。人の目から見れば、失敗した人生はあくまでも失敗である、と思われるものでしょう。しかし、神の目から見ればそうではありません。だから過去を振り返って私の人生など価値がない、と思うことがあっても、示されることがあればそのたびに悔改め、へりくだって神とともに歩むことです。神の前に誠実に歩み、また、神のみこころに歩むことを求めることを、私たちの願いとさせていただきましょう。

Ⅱ.新しい創造(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。「6あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。7 それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』とあなたが言わないためだ。8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時から、そむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。」

イスラエルはこれらすべてを見ました。これらすべてとは、これまでのイスラエルの歴史において、神が語られたことがことごとく成就したことです。彼らはそれを見てきました。ですから、彼らにとって必要なことは、それを告げ知らせることでした。

そして神は彼らに「新しいこと」、彼らが知らない秘め事を告げられると言われました。それは何でしょうか?7節を見ると、それは今、創造された、とあります。新しい創造です。それは直接的にはバビロンからイスラエルを救い出されるという一連の神の救いの御業のことで。彼らはいくら神のことばを聞いても悟らない不信仰で頑固な者でしたが、主はそんな彼らを滅ぼされないで救おうとされました。そして神はそれをペルシャの王クロスという異教徒を用いて成し遂げようとされたのです。それは神が創造された新しい方法でした。

しかし、これは究極的には全人類を罪から救われる神の救いの御業のことです。それは今、創造された、新しい創造です。神は私たちを罪から救うために全く考えられない方法を用いられました。それが十字架です。神は罪のないひとり子をが私たちと同じような人間の姿で生まれさせ、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれ、三日目によみがえらせました。このような方法をいったい誰が考えることができたでしょう。このような方法は神以外には思いつかない方法です。人間の誰も想像することができない神の知恵です。

パウロは、この神の知恵についてコリント第一の手紙1章18節から25節のところでこのように言っています。  「18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」

皆さん、十字架のことばは、滅びる人にとっては愚かであっても、救いを受ける私たちにとっては、神の力です。これはこの世の知恵で理解できることではありません。十字架のことばばが救いだなんて、いったい誰が考えることができたでしょう。この世の人にとって十字架は愚かでしょうが、召された私たちにとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。私たちの知恵によっては全く考えられない方法で、神は私たちを救おうとされたのです。それが唯一、私たちが罪から救われるために神の計画だったのです。

南アフリカにグースという動物がいます。名前はグースですが、なかなかすばやい動物です。この動物は鹿を少し小さくしたような動物ですが、普通の家畜が生きていけないような環境でも、どんどん広がっていく、生命力の強い動物です。  しかし、ある時、このグースが大量に死んでしまいました。その原因を調べたところ、彼らがいつも食べている、ある特殊な草が、胃の中で異常にタンニンという物質を発生させていたのです。  実は、彼らがいつも食べている植物にはおもしろい特性がありまして、動物が来て、食べ始めて二分くらい過ぎると、強力なタンニンという物質を作り出すのです。もうそれ以上、食べられないように植物自身が自分を守っているんですね。ですから、グースは二分くらい食べたら、次の草の所へ行き、また二分くらい食べるとまた別の所に行きと、あちこちで二分くらいずつ食べるのです。ですから、広範囲にわたり、大量の植物が必要となるのです。  ところが、ある時、動物愛護団体がグースを密漁から守ろうと、彼らの生息地にぐるっと柵を作ってしまいました。それでグースの行動範囲が制限されてしまいました。彼らはあちこちで少しずつ食べることができなくなってしまったのです。それでどうしたかというと、仕方なく、このタンニンを発生している草を二分以上食べ続けることになったのです。そしてタンニンがグースの体の中にたまって死んでしまったのです。  人間はグースを守ろうと柵を作ったばかりに、結果的にグースを滅ぼしてしまうことになりました。もし柵を作らなければ、動物と植物は共存共栄していけたはずなのです。ここに人間の知恵の限界があります。良かれと思ってやったことすら、時には相手の命を脅かすことになってしまいます。

けれども、神の知恵は違います。神の知恵は完全です。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。十字架のことばは滅びに至る人々には愚かでも、救いを受ける私たちには神の力です。神は私たちを救うために、私たちが全く想像もつかないような方法を考えられました。それが十字架と復活だったのです。これこそ新しい創造なのです。

ガラテヤ人への手紙6章14節と15節には、「14しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。15割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。」とあります。    何ですか、「新しい創造」とは?それはこのことなんです。これは神が造られた新しい方法と言ってもいいのです。人間が想像もつかないような全く新しい方法。大どんでん返しのような救いの方法。それが十字架です。これこそ私たちにとって大事なことであって、割礼を受けているかいないかといったことはどうでもいいことなのです。神は私たちが救われるために主イエス・キリストの十字架と復活という方法を計画されました。私たちにとって大事なのは、この基準に従って生きていくことです。

皆さんはどうでしょうか。この基準に従って歩んでおられるでしょうか?イエス・キリストの十字架以外のものを誇りとしているということはないでしょうか?しかし、大事なのは新しい創造です。イエス・キリストの十字架を誇りとしましょう。そしてこの基準に従って歩んでいきましょう。それがクリスチャンなのです。

Ⅲ.練られる神(9-11)

最後に9節から11節までをご覧ください。イスラエルは母の胎内にいる時からそむく者であり、頑固な者でしたが、主は彼らを断ち滅ぼしませんでした。9節には「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。」とあります。生まれながらそむく者であれば、すぐにでも滅ぼしてしまった方がいいのではないか、と思われるかもしれませんが、しかし、神はそのようにはされませんでした。神はご自分の恵みによって与えてくださった契約に従って、変わることなく、恵みを与えてくださいます。なぜなら、神は誠実な方だからです。どんなにイスラエルが神に背いてもそのそむきに耐えられ、さばきを遅らせ、軽い懲らしめを通して気づかせようとされるのです。

10節をご覧ください。ここには、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」とあります。主はイスラエルを聖めるために、「悩みの炉」を用いられました。「悩みの炉」とは何でしょうか?悩みの炉とは、文字通り、彼らが悩むことによって彼らのかたくなな思いを砕く炉のことです。ここではバビロンのことを指しています。神は彼らのかたくなな心を砕くためにバビロンを用い、バビロンでの捕囚の生活を通して、彼らが従順に神に従うようにされたのです。

申命記4章20節には、「鉄の炉エジプトから救い出された」とあります。悩みの炉ではなく、鉄の炉です。炉の種類は違いますが目的は同じです。400年にもわたるエジプトでの生活は、まさに鉄の炉で練られるようなものでした。しかし、彼らはその苦しみの中で神に叫び、神にすがりました。人はこのような苦しい経験や辛い経験をしないとなかなか神にすがろうとしないので、神はあえて彼らをエジプトの苦役に、鉄の炉の中に送られたのです。

今度は鉄の炉ではなく悩みの炉です。そうした悩みの中で彼らが神を呼び求め、神に従うようにされました。事実、この悩みの炉から救い出された後のイスラエルはどうなったでしょうか?クロス王によってエルサレムへの帰還を果たした彼らは、偶像を忌み嫌い、異教徒との結婚を徹底的に排除しました。それは神が最も忌み嫌われることだったからです。それはエズラ記やネヘミヤ記を読むとわかります。彼らはこの悩みの炉を通ったので、かたくなな心が砕かれ、従順に神に従う者に変えられたのです。

それは私たちも同じです。私たちもイスラエルのようにすぐに高ぶってしまうような、うなじのこわい民です。そんな私たちを聖めるために、神は私たちをこの悩みの炉の中に、鉄の炉の中に送られることがあります。しかし、それはあなたを滅ぼすためではなく懲らしめるためであって、それによってあなたを練り清めるためなのです。神は私たちを愛しておられるので、悩みの炉を用いて、私たちを練ってくださるのです。

ヘブル人の手紙に「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(12:5-6)とあります。  神はあなたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとしたら、私生児であって、ほんとうの子ではありません。私たちは神のほんとうの子なので、神は私たちを訓練するために懲らしめてくださいます。であれば私たちは、こうした悩みの炉に置かれるときに、あるいは鉄の炉に置かれる時に、それを神からの愛のムチだと思って感謝し、神が用意してくださった信仰のトレーニングだと思って忍耐すべきです。何よりも、生まれた時から神にそむき続けてきた私たちは、本来であれば神にさばかれても致し方ない者であるにもかかわず、神のあわれみと恵みの契約のゆえに忍耐してさばきを遅らせ、神に立ち返るように待っておられるその神の寛容に感謝すべきです。それは私たちの想像をはるかに越えた神の忍耐であり、寛容であります。

詩篇の作者はこのように告白しました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちもこのように告白をさせていただきましょう。苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました!あなたにとっての苦しみは何ですか?あなたにとっての悩みの炉はなんですか?それは神があなたを訓練するための愛のムチです。そう信じて、その悩みの中で主を見上げ、砕かれ、悔い改めて、主のみこころに歩ませていただきましょう。苦しみにあったことは、あなたにとって幸せなのです。