イザヤ書52章1~12節 「救いの良い知らせ」

きょうはイザヤ書52章から、「救いの良い知らせ」というタイトルでお話します。きょうのところにも神の慰めのことばが続きます。前の章では、「わたし、このわたしが、あなたを慰める。」(51:12)と力強く語られましたが、ここでも、主がその民を慰めてくださいます。主はあの手この手で彼らを慰め、主に贖われた者の受ける恵みがどれほど大きいものなのかを伝えようとしておられるのです。

Ⅰ.ただ恵みによって(1-6)     まず1節から6節までをご覧ください。1節には、「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中に入って来ることはない。」とあります。

「さめよ。さめよ。」というのは51:9と51:17にも出てきましたが、ここに再び出てきています。51:9では、イスラエルの民が神に対して「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と叫びましたが、51:17のところでは、神がイスラエルに向かって語られました。目をさまさなければならないのはあなたの方なんですよ・・と。今、自分たちがどのような状況に置かれているのかを目を覚ましてよく見なさい、と言われたのです。ここでも同じです。神はイスラエルに、「さめよ。さめよ。力をまとえシオン。あなたの美しい衣を着よ。」と言って、彼らに自分たちの姿をよく見るように、と語っています。

なぜでしょうか?なぜなら、あなたはもうすでに救われたからです。捕囚から解放され、失われたすべてのものが回復しました。もう無割礼の汚れた者が入ってくることはありません。これはバビロンのことを指して言われていますが、バビロンは完全に滅ぼされました。だからもう何の心配もいらないのです。

だから2節にはこうあるのです。「ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。」   「ちりを払い落として立ち上がり」とか、「あなたの首からかせをほどけ」というのは、いつまでも捕囚されているような格好をしていてはいけないということです。「ちり」と「かせ」は奴隷の姿を表しています。彼らはバビロンに捕らえられ、ちりと泥にまみえながら働かなければなりませんでした。また鉄や木でできたかせで手や足、首などがはめられて、からだを自由に動かすことができませんでした。しかし今は、そのような状態から解放されました。ですから、ちりを払い落とさなければなりません。かせをふりほどかなければならないのです。

それは私たちも同じです。私たちもかつては罪の泥やちりにまみえ、罪のかせをはめられていました。けれども、神の恵みによってイエス・キリストの十字架の贖いによって救われました。もう罪の奴隷ではありません。そこから解放されたのです。ですから、罪の奴隷であった時のちりを払い落とし、かせをふりほどかなければなりません。いつまでも罪の奴隷であるかのように歩んでいてはいけないのです。罪の奴隷であるかのようにいつまでもクヨクヨしたり、ちょっとしたことで悲しんだり、つぶやいたり、嘆いたりして、異邦人がむなしい心で歩んではならないのです。

このことをパウロも、エペソ人への手紙の中で言っています。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(エペソ4:1)あなたがたは心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を着るべきであって、人を欺く情欲によって滅びていく古い人を脱ぎ捨てるように、と勧めたのです。(同4:22~23)

そのためには自分がどのような者になったのかをちゃんと見なければなりません。目を覚まして、自分が置かれている状況をよく見なければならないのです。イエス・キリストを信じて全く新しい人にされたこと、永遠の滅びから解放されたことを見て、古いちりを払い落とし、首からかせをふりほどかなければならないのです。

3節をご覧ください。「まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」    どういうことでしょうか?普通、物を売ったり買ったりする時には、そこにお金のやり取りが生じますが、ここには、イスラエルがバビロンから解放されるにあたってはそうしたお金のやり取りがないというのです。イスラエルはただで買い戻されるというのです。なぜなら、彼らはただで売られたからです。どういうことでしょうか?4節と5節をご覧ください。

「まことに神である主がこう仰せられる。「わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。5 さあ、今、ここでわたしは何をしよう。―主の御告げ―わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。―主の御告げ―また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。」(4,5)

ここには、かつてイスラエルがエジプトに下って行ってそこに寄留したこと、そして、アッシリヤ人が理由もなく彼らを苦しめたことが語られています。それは今も同じです。今もバビロンの捕囚の民として苦しめられています。イスラエルの歴史を見ると、彼らはずっと苦しめられてきたのです。  しかし、よく考えてみてください。このイスラエルは誰のものなのでしょうか?51:16のところで、主は「あなたはわたしの民だ」とイスラエルに言われたように、彼らは神のもの、神の民なのです。その神の民を彼らに売り渡した覚えなどありません。確かにイスラエルは自分の罪のために神から離れ、その罰を受けました。アッシリヤとかバビロンによって苦難を受ける結果となりました。しかし、それはあくまでも彼らを懲らしめるためであって、彼らを売り渡したわけではないのです。なのに彼らは何を誤解したのか、自分たちの所有物であるかのように勝手に危害を加えました。そんなことがいったい許されるのでしょうか。そのことで一番侮られているのは神ご自身です。主の御名が辱められているのです。

たとえば、モーセがイスラエルの民を行かせるようにとエジプトの王パロに言ったとき、パロは何と言いましたか?「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせたりはしない。」(出エジプト5:2)と言いました。  また、ヒゼキヤがイスラエルを救い出してくださると言って民を励ましたとき、アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、「だれか自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。・・・主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」(イザヤ36:18-20)」と言いました。彼らはそう言ってイスラエルの神を侮ってきたのです。

それゆえ、主は彼らにこのようにされます。6節です。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」     神の名が侮られているわけですから、そのまま見過ごすわけにはいきません。神はご自分の御名のゆえに立ち上がられ、彼らを救い出されるのです。そうして、イスラエルは主の名を知るようになるのです。ここで明らかなことは、このように神が動かれるのは私たちのためではないということです。それはあくまでも神ご自身の御名のためであり、神ご自身が侮られることがないためです。すなわち、彼らが救われたのは、神様の一方的な神の恵みによるものであったということです。

皆さん、いったい私たちはなぜ救われたのでしょうか。わかりません。私たちが優れていたからとか、頭がいいから、上品だから、いい人だから、真面目だから・・ではありません。私たちが救われたのは、ただ神が私たちを愛してくださったからです。ただ神がそのようにしたかったからなのです。私たちのゆえではありません。神の御名のためです。神の御名があがめられるために、神に栄光が帰せられるために、神がそのようにしてくださったのです。

エペソ人への手紙2章には、次のように書かれてあります。 「1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ 支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、 肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを 受けるべき子らでした。4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが 救われたのは、ただ恵みによるのです―6 キリスト・イエスにあって、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:1-9)

皆さん、私たちが救われたのは、ただ神の恵みによるのです。私たちは罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中にしたがって、歩んでいました。死んでいたのですから、ウンともツンとも言わないわけです。自分では何もすることができません。そんな者が救われるとはいったいどうしてなのでしょうか?それは、そのように死んでいた私たちを神が生かしてくださったからなのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:16)

神はそのために神のひとり子であられたイエス・キリストを私たちに賜りました。賜るというのはプレゼントとして与えてくださるということです。それは、神からの一方的なプレゼントだったのです。もうすぐクリスマスですが、クリスマスにはたくさんのプレゼントをします。その最大のプレゼントは、神が私私たちに与えてくださった御子イエス・キリストだったのです。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためでした。それは一方的な神の恵みによるものだったのです。

恵みによる救いを意味するこんな物語があります。ある人が深い穴に落ちてしまいました。とても深くて、自分では、はい上がることはできません。そこへ釈迦がやってきました。「ああ、あなたの業がそうさせたのですね。残念です」と悲しい顔をしながら去って行きました。次に孔子がやってきました。「ああ、私の教えを守っていればそんなことにならなかったのに」と悔しそうに去って行きました。その後、一人の人が来ました。だまって、ロープを降ろし、穴の中に降りて行きました。そして、彼を抱え、引きあげてくれました。その方こそ、イエス・キリストです。

皆さん、恵みとは何でしょうか。恵みとは、受けるに値しないものが受ける賜物(プレゼント)のことです。昔は「いさおし(手柄、功績)のない者に与えられる厚意」と言いました。恵みと相対するものが、報酬です。報酬とは自分が働いていただく賃金のことですね。これは、働いた者が得る当然の権利と言えるでしょう。しかし、救いは報酬ではありません。救いは神からの恵みなんです。もし、功績や行ないで救いが得られるとしたらどうなるでしょうか?天国では自慢大会になるでしょう。「私はこれだけのことをやったから救われたんです」。もう一人の人が来て、「あなたは、よくそれで救われましたね。私なんかこんなこともしたんですよ」と言うでしょう。でも、天国は謙遜なところです。「こんな罪深い者でも救われたんです。イエス様はすばらしい。アーメン」。もう一人の人が来て、「いやいや、私なんか箸にも棒にもかからない者でしたが、救われたんですよ。イエス様は素晴らしい。アーメン」。救いは恵みなので、だれも誇る人がいません。罪過と罪との中に死んでいた者たちの運命はどうだったでしょうか?生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。神のさばきを受けて、地獄に行くべき運命だったのです。滅びるのが当然でした。しかし、あわれみ豊かな神は、その大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのはただ恵みによるのです。これは、全人類が滅びの中にあるにもかかわらず、例外があったということです。それは、まるで死刑囚が特赦を受け、無罪放免になるようなものです。これはものすごいことであって、この上もない喜びなのです。

「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。」神の救いは神の一方的な恵みによるのであって、私たちの行いによるのではないということをしっかりと覚え、私たちの信仰生活がこの恵みによって貫かれていくものでありたいと思います。

Ⅱ.幸いな良い知らせ(7-10)

次に、7節から10節までをご覧ください。7節をお読みします。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。」

これまでイザヤは、イスラエルがバビロンから救われるということを預言しました。しかもそれは「それゆえ」の救いでした。彼らが何かをしたからではなく、何もしなくても、いや何もできなくても、神が彼らを一方的に救ってくださいます。これが福音です。グッド・ニュース、良い知らせです。ここでは、その「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。」と言われています。

パウロはこの箇所を引用して、福音宣教のすばらしさについてこのように言いました。ローマ人への手紙10章の13節から15節までをお読みします。 「13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」    ここでは「美しい」ではなく「りっぱでしょう」と言われています。皆さん、足と言ったら汚いイメージがあります。誇りや泥にまみえて汚かったり、汗臭いということもあるでしょう。水虫もあります。あまりきれいなイメージはありません。ですから、イエス様の時代でも足を洗うというのは奴隷の仕事でした。しかも一番ランクの低い奴隷の仕事だったわけです。しかしその足が、ここでは「美しい」と言われているのです。「りっぱでしょう」と言われてるのです。なぜでしょうか?良い知らせを伝えるからです。良い知らせを伝える者の足は美しいのです。決して美しくないものでも美しくなります。福音を宣べ伝える人は一番美しい。カッコイイのです。英語でいうと「COOL!」です。見た目がどうのこうのというのは関係ありません。見た目は汚くても、福音を伝える人は美しいのです。

なぜなら、それは平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせるからです。喜びの知らせを持ってそれを告げ知らせるわけですから、喜びに満ち溢れるのです。想像してみてください。皆さんが何かすばらしい知らせを持っていて、それをだれかに告げ知らせる役であったとしたら、皆さんはどんなにうれしいでしょう。私はよく家内に、あなたはちっとも黙っていられない、と言われるのですが、こんなにすばらしい知らせを持っていたとしたら、どうやって黙ってなどいられるでしょうか。話すなと言われても無理でしょう。それは希望に満ちた解放のメッセージなので、感動と喜びに満ち溢れるからです。

そのメッセージの内容は何かというと、「あなたの神が王となる」です。今までは自分が神でした。あの裸の王様のように、自分が人生の王様であるかのように振る舞っていました。そしてその結果はどうであったかというと破壊的であり、実にむなしいものでした。自分ほど頼れるものはないと思っていたのに、自分ほどいい加減なものはないということがわかりました。しかしそこに別の王様が来られ、廃墟となった私たちの人生を立て直してくださいました。それがあなたの神です。あなたの神が王となってくださったので、あなたは破壊的な人生から救われ、平和と喜びに満たされた人生を歩むことができるようになったのです。ですから、その知らせを伝える者の足は美しいのです。りっぱなのです。

ある人が書いた本の中に、なぜ今の教会は強くないのかということ書かれてありました。それによると第一の理由は、主イエスを救い主として受け入れた人たちが、キリストの弟子になっていないということです。イエス様を信じたけれども、イエス様に従う生活をしていない。まだ自分が裸の王様のようになっているというのです。第二のことは、イエスを救い主として信じた人たちがキリストの使徒になっていないということです。キリストの教えをいっぱい受けてはいるけれども、人々に福音を伝えるために出て行っていないというのです。

なるほど、どんなにキリストを信じてもキリストに従わなければ何の変化も起こりません。キリストを信じてもまだ罪の中にいるかのように振る舞ってしまうことになります。また、福音の恵みを受けるだけでそれを外に出さなければ、つまり、それを宣べ伝えようとしなければそこに喜びは生まれてはこないのです。良い知らせを伝える者の足は美しいのです。私たちは美しい足になりましょう。良い知らせを伝える足となって、美しく、健康的な、そして魅力的な、カッコイイ者になりましょう。

8節には「見張り人」が出てきます。見張り人とは城壁の見張り台に立っている人のことです。そこに立って、敵が来たら警鐘を鳴らしたり、伝令が来たらそれをいち早く見つけて聞き、すぐに伝達しました。その見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っているのです。なぜでしょうか?その後のところに理由が記されてあります。「彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。」

良い知らせを伝える者がやって来て、主がシオンに帰られるのを、まのあたりにするからです。主がシオンに帰られるとどのようなことが起こるのでしょうか。廃墟となったエルサレムが立て直されることになります。これは本当に慰めではないでしょうか。人にはできないことを神はしてくださいます。神はバビロンに捕らえられていたイスラエルを解放してくださるだけでなく、廃墟となったエルサレムを立て直してくださいます。主がその民を慰め、エルサレムを贖ってくださるのです。これは良い知らせではないでしょうか。そしてそれはエルサレムだけでなく、すべての国々に対しても同じです。主はイエス・キリストによって私たちを罪から救い出し、天の都、天のエルサレムを贖ってくださいました。主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現してくださいます。それによって、地の果てもみな、私たちの神の救いを見るようになるのです。これは、すでに教会が誕生したことによって、その霊的な側面は実現しました。エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの救いがもたらされました。地の果てのすべての者が、神の救いを見るようになったのです。

Ⅲ.去れよ。去れよ(11-12)

ですから結論は何かというと、去れよ。去れよ。そこを出よ。ということです。11節と12節にこうあります。ご一緒に読んでみましょう。「11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」

イスラエルは、神の一方的な恵みによって救われました。美しい衣を着せられたのです。また、その足には平和の福音の備えをはきました。良い知らせを伝えるために、平和の福音の備えをはいたのです。そんな彼らに求められていたことは何かというと、「去れよ。去れよ。そこを出よ。」ということでした。あなたはバビロンから救われて美しい衣を着せられました。バビロンから出たのだからちりを落とし、かせをふりほどかなければなりません。そして、そこを出て、汚れたものに触れてはならないのです。その中から出て、身をきよめなければなりません。

しかし、あわてる必要はありません。逃げるようにして去らなくてもいいのです。なぜなら、主があなたの前を進み、イスラエルの神が、あなたのしんがりとなられるからです。エジプトを出る時のように急ぐ必要はありません。もう追っ手が来ることはないからです。敵であるサタンがやって来てもう一度あなたをつかまえ、あなたを罪の滅びに至らせるようなことはありません。一度救われた人はその救いを失うようなことは決してないからです。あなたがどんなに主を忘れても、あなたがどんなに主から離れても、主はあなたを忘れることはありません。あなたをつかんで離すことはありません。

イエスは、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。主がいつもあなたとともにいて、あなたの前を進み、あなたのしんがりとなってくださいますから、慌てる必要はありません。ゆっくりと、しかし確実に、あなたはあなたを贖ってくださった主の恵みに感謝して、バビロンから去らなければなりません。いつまでも、罪の中にとどまっていてはいけません。美しい衣を着せられたのですから、良い知らせ、福音の備えをはいたのですから、バビロンから出て、身をきよめなければならないのです。過去のライフスタイルにしがみつくのはやめて、あなたを救ってくださった主に喜ばれる道を歩まなければなりません。

あなたのバビロンは何でしょうか。あなたがなかなか出られないで苦しんでいるものは何でしょうか。しかし、それがどんなものであっても、あなたは美しい衣を着ました。良い知らせを受けたのですから、あなたはそこから出なければなりません。ゆっくりと、しかし確実に、そこから出て、神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。罪から救われた者としていつまでも罪の中にとどまっているのを止めて、神にすべてをささげて歩む人生を、今から始めさせていただこうではありませんか。