きょうは、イザヤ書52章の後半部分から「驚くばかりの恵み」というタイトルでお話したいと思います。
まずはじめに、この箇所がどういう箇所なのかについてお話したいと思います。この箇所は、いわゆる第四の主のしもべの歌です。イザヤ書には主のしもべであるイエス・キリストについて言及されている箇所が四箇所あります。第一のしもべの歌は42章1~4節のところでした。そこでは主のしもべの召命(Calling)について語られていました。それから第二のしもべの歌は49章1~6節のところですが、そこには主のしもべの使命(Mission)、すなわち、主のしもべはいったい何のために来られたのかということが記されてありました。それから第三のしもべの歌は50章4~9節のところにありました。そこには主のしもべはその使命をどのように成し遂げられるのか、それは受難(Passion)を通してであるということが語られました。きょうの箇所は第四のしもべの歌です。これが53章の終わりまで続きます。ここには主のしもべはどうして苦しみを受けなければならなかったのか、その理由が記されてあります。つまり、それは代償の死であったということです。先週はクリスマス礼拝で、イエス・キリストの誕生についてお話しまたが、今週は死です。早いですね。イエス様の生涯は・・。私たちはこのイエスの十字架の死についての預言を三回に分けて学んでいきたいと思います。
第一回目のきょうは、主イエスの驚くばかりの恵みについて三つのことをお話します。すなわち、第一に主のしもべは非常に高められたということ、第二のことはその理由です。なぜ彼はそれほど高いところまで上げられたのでしょうか?それは彼が最も低いところに下られたからでです。第三のことは、そのような主のしもべに対して、私たちはどのように応答すべきなのでしょうか。それは、彼の前で口をつぐむということです。
Ⅰ.高められた主のしもべ(13)
まず13節をご覧ください。「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」
「わたしのしもべ」とは、もちろんイエス・キリストのことです。ここには、「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」とあります。なぜでしょうか?「わたしのしもべは栄える」からです。この「栄える」という言葉は、下の欄外にある説明を見てもわかるように「賢い」とか「思慮深い」という意味の言葉です。主のしもべは非常に賢く、思慮深いので、その結果、高められ、上げられ、非常に高くなるのです。どういうことてしょうか?彼は単なる思いつきや考えに基づいて行動したのではなく、神の永遠の知恵に基づいた深い計画によって行動したので、高められたということです。
ここには、「高められ」「上げられ」「非常に高くなる」と繰り返して表現されています。それは、彼が他の誰も到達できないほどの高さまで上げられたということを示しています。彼は神の深い知恵によって自分のいのちをささげられたので、神は他のだれも到達できないほどの高さまで上げられたのです。この主のしもべを見よと言うのです。それがどのくらいの高さなのか、パウロは次のように語っています。
ピリピ人への手紙2章6~11節を見てください。ここにも高く上げられたイエス・キリストの姿が描かれています。「6キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」
神はキリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それはイエスの御名によって、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるもののすべてが、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神をほめたたえるためなのです。キリストは、すべての名にまさる名が与えられ、他の何ものよりも高いところに、いや、ヘブル1章3節やⅠペテロ3章22節を見ると、神の右の座に着かれたとありますが、それほど高いところまで上げられたのです。神のしもべイエス・キリストはそのようなお方なのです。私たちはこの主イエスを見なければなりません。
このようなことを申し上げると、中にはこのしもべはイエス・キリストのことではないと言う人たちもいます。ユダヤ人たちは今でもそのように考えています。たとえば13世紀のユダヤ人聖書学者のR・メイル・ベン・シモンという人は、この主のしもべはイエスのことではないと主張しました。もしこれがナザレのイエスのことを預言していのなら、どうして「しもべ」などと呼ばれているのか・・・。もしイエスが神の子であり、神ご自身であり、神と一つであるなら、しもべなどと呼ばれるはずがないし、高く上げられる必要もないというのです。このような理由から、ユダヤ人は旧約聖書を神のことばとして信じていながらも、今日までずっと、かたくなに、この預言がイエス・キリストにおいて成就したことを拒否してきたのです。
しかし、ここでははっきりと、「わたしのしもべは栄える」とあります。「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」のです。それは他の何ものも及ばないほどの高さであり、神の右の座にまで上げられることを示しています。主のしもべであるイエス・キリストはそのような方なのです。私たちはこの方を見なければならないのです。
Ⅱ.低められた主のしもべ(14-15a)
いったいどうして彼はそれほどまでに高められたのでしょうか?14節から15節の最初の行までのところをお読みします。「14多くの者があなたを見て驚いたように、―その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―15そのように、彼は多くの国々を驚かす。」
ここには、主のしもべが高く上げられるための十分な計画をもった行動が記されてあります。それは何かというと、受難です。ここには、「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」とあります。主のしもべはそれほどの苦しみを受けられたのです。
マルコの福音書15章16~24節までを開いてみましょう。
「16兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、18それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。19また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。20彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。21そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。22そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。24それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。」
これはまさに神のしもべイエス・キリストが受けられた苦難でした。その預言だったわけです。キリストは全く罪のないお方でしたが、その方がたたかれたり、殴られたり、裸にされてむち打たれたりしてボコボコにされました。また紫の衣を着せられ、頭にはいばら冠をかぶせられ、つばきをかけられたり、「ユダヤ人の王様ばんざい」などと叫ばれてバカにされました。そしてあげくの果てに十字架の上に釘付けにされたのです。その顔だちは、もはや人間のようではありませんでした。その姿はもう人間とは違っていたのです。
皆さんはメル・ギブソンの「パッション」という映画をご覧になられましたか?この映画にはあまりにも血まみれになられたイエスの姿が出てくるので、あまりにも凄惨すぎて見ていられない、という人もたくさんいました。それくらい凄惨なシーンが出てくるのです。しかし、それは決して誇大表現ではありません。ここに、その顔だちは、そこなわれて人のようではないとか、その姿も人の子らとは違っていたとあるように、主のしもべイエス・キリストは、そこまで苦しめられたのです。
それは多くの者があなたを見て驚いたようにです。これはどういうことでしょうか。実はこの「あなた」とは主のしもべのことではありません。これはイスラエルのことです。ここではイスラエルがバビロンで受けた苦難と、主のしもべが受けた苦難とが重なって描かれているのです。すなわち、イスラエルがバビロンに捕えられそこで激しい苦しみを受けたのを見て多くの人が驚いたように、主のしもべも激しい苦難を受けたということです。イスラエルが受けた苦しみと主のしもべが受けた苦しみはその原因も、程度も全く違いますが、もしその苦しみをたとえるとしたら、まさにそのようであったというわけです。いったいその苦しみは何のためだったのでしょうか。
15章の最初の行を見てください。ここには「そのように、彼は多くの国々を驚かす。」とあります。これはイエスがそのようにされたことで多くの人たちを驚かしたということではありません。この「驚く」という日本語の訳は間違っています。聖書のどこにもこの言葉を「驚かす」と訳しているところはありません。これは「ふりかかる」と訳さなければならないことばです。たとえば、イザヤ書63章3節にも同じ言葉が使われていますが、そこではちゃんと「ふりかかった」と訳しています。「それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。」
そして、この言葉が聖書の中で一番最初に出てくるのは出エジプト記29章21節ですが、そこでも「ふりかける」と訳されています。そこでは祭司の任職式のことが書かれてあるのですが、彼らが祭司として任職される時には注ぎの油と呼ばれる油を彼らに振りかけなければなりませんでした。
ですから、この言葉はもともと「ふりかける」という訳さなければならないのです。なぜこのように訳したのかはわかりませんが、おそらく前後の文脈との関係でそのように意訳したのだと思います。でもこれは「振りかける」と訳さなければなりません。問題は何を振りかけるのかということです。
「振りかける」という言葉を聞くと、私たちはピンときます。この文脈では、しもべが罪を負って十字架にかかって死なれるということが預言されているのですから、これはその時に流される血のことです。ヘブル人への手紙9章22節には、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。イエス・キリストの血が多くの人に注ぎかけられることによって罪が赦されるのです。主のしもべであるイエス・キリストは、このようにして多くの人の罪が赦されるための御業を成し遂げてくださいました。だから彼は高められるのです。上げられ、非常に高くなるのです。先程のピリピ人への2章もそうでしたね。イエス・キリストは神の御姿であられる方なのに、神であるという考えに固執しないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに、神は彼を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのです。キリストが高くされたのは、彼が低くなられたからなのです。どこまでも低くなって、十字架にまで従われたからなのです。そのようにして多くの人に血の注ぎかけによる罪の清めの業を成し遂げられたからなのです。
先週はクリスマスでしたが、いつものように語られるクリスマスストーリーの中に、キリストは家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かせられたという話があります。この天地の造り主であられる神が、家畜小屋に生まれるなんて信じられないことです。バースハウスじゃないですよ。stableです。牛舎です。そんなところで生まれてくださいました。そこまで低くなられたのです。いったい何のためでしょう。それは罪に汚れた私たちを救うためでした。そのために、主のしもべはそこまで低くなってくださいました。
Ⅲ.賛美される主のしもべ(15)
ですから結論は何かというと、「口をつぐんで」ということです。15節の2行目からお読みします。「王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」
主のしもべは、多くの国々のために、ご自分の血を注ぎ、血を振りかけて、救いの御業を成し遂げられます。その主のしもべであるイエスを前にして、口をつぐみます。口をつぐむというのは黙すということです。新共同訳では「口を閉ざす」と訳しています。」NIVでも「shut」(閉じる)と訳しています。Kings will shut their mouths because of him. 主のしもべのゆえに、王たちは口を閉じるのです。口を閉じるほかないんです。ひれ伏す以外にないのです。その御業があまりにもすばらしいがゆえに。
いったい口をつぐむとはどういうことでしょうか?黙示録5章6~14節までを開いてください。 「6 さらに私は、御座―そこには、四つの生き物がいる―と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。 9彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」 11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にありますように。」 14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。」
これは天における情景です。6節を見ると、ここに「ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」とあります。これはイエス・キリストのことですね。イエス・キリストは、神の小羊としてほふられて十字架につけられました。その後、復活して天に昇られ、神の右の座につかれましたが、まだその手と足には釘の跡が残っていたのでしょう。「ほふられたと見える小羊」が立っていたと記されてあるのです。そのほふられたと見える小羊を前に、四つの生き物と二十四人の長老、これは贖われた聖徒たちと言ってもいいと思いますが、ひれ伏して賛美をささげました。
「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(9-10)
彼らは口をつぐんではいませんが、小羊に向かって、大声で賛美をささげました。なぜなら、彼はその血により、あらゆる人々を贖い、王とし、祭司とし、この地上を治めるようにしてくださったからです。この十字架の御業を前にして、もう何の言葉もありません。あるのはただこの方への賛美だけです。これが口をつぐむということです。
このことが、私たちにも求められています。私たちはこの方を前にしてもう何の言葉ありません。あるのはただただこの方への賛美と感謝だけです。私のためにそこまでしてくださったほふられた小羊に対して、自分の全存在をもって賛美をささげる以外にないのです。「ほふられた小羊、あなたは、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、光栄と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と賛美するしかないのです。それがやがて私たちが天ですることでもあります。
しかし、それは天においてばかりでなく、今、この地上においても同じことが言えます。私たちは今、この地上にいながらも、私たちのためにほふられ、十字架にかかってくださり、罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストの前に口をつぐみ、ただひれ伏して、賛美をささげることができるのです。ことばにできない思いを、賛美と感謝をもって現すことができるのです。
こんな私のために、こんなに醜い、罪深い私のために、全く罪のない方がその顔だちがそこなわれもはや人のようではないくらいに殴られ、つばきをかけられ、裸にされてむち打たれ、あげくの果てに十字架にまでかかって死んでくださったのです。何という恵みでしょうか。本当に驚くばかりの恵みです・・・と。
あの有名な賛美歌「アメージング・クレース」を書いたジョン・ニュートンは、この驚くばかりの恵みに触れて、この賛美歌を書きました。彼は奴隷船の船長としてアフリカからイングランドに黒人奴隷を輸送していたある日(1748年5月10日)、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのです。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈りました。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったといいます。しかし、神は彼の祈りに答えてくださり、船は運よく難を逃れました。 彼はこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになり、やがて牧師になっていくわけですが、過去のあの出来事を思い返し、黒人奴隷の貿易という人間として最低のような自分を救ってくれた神の恵みは何と大きいものかと、この「アメージング・グレース」を書いたのです。それは彼があの遭難にあってから24年後の1772年のことでした。
私たちはジョン・ニュートンではありませんが、でも、私たちもこの主のしもべイエス・キリストの十字架の御業を前にして、口をつぐむ(閉じる)べきです。口を閉じて、だだこの方の前にひれ伏して、感謝と賛美をささげるべきなのです。不平不満を言うべきではありません。自分のことを責めたり、他の人のことを非難したりするのは止めるべきです。ただこの方の前に口を閉ざし、感謝と賛美をささげる以外にはありません。なぜなら、この方は私の罪も、また他の人の罪も全部背負って十字架で死んでくださったからです。自分がどんなに哀れで、かわいそうかといった自己憐憫はやめるべきです。あれがない、これがないといった不平不満、あの人が悪い、この人が悪いといった非難もやめるべきです。文句ばかり言って、自分が悲劇のヒロインであるかのようにふるまうことも必要ありません。ただ口をつぐむだけです。
もしあなたがイエス・キリストの十字架の足下にいたら、きっと何も言えなくなるでしょう。そういう賛美歌がありますね。「君もそこにいたのか」(新聖歌113番)です。 「きみもそこにいたのか 主が十字架に付くとき ああなんだか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか
きみも聞いていたのか 釘を打ち込む音を ああ何だか心が震える 震える 震える 君も聞いていたのか
きみも眺めてたのか 血潮が流れるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も眺めていたのか
君も気がついたのか 突然日がかげるのを ああ何だか心が震える 震える 震える 君も気がついたのか 君も墓に行ったのか 主をば葬るために ああ何だか心が震える 震える 震える 君も墓に行ったのか。」
もしあなたが十字架の下にいたなら、ただ心が震えるだけです。それが自分のためであったとわかったなら、自分のことも、人のことも、何も言えなくなります。ただ黙ってひれ伏すしかありません。言葉に言い尽くせぬ感謝を、驚くべき恵みを、ただただ圧倒されながら、ひれ伏すしかないのです。「主よ。私は本当にわかっていませんでした。あなたの前に自分がどのような者であったのかを。あなたの前にはただの罪人でしかなかったことがわかりました。そんな私をあなたは赦してくださいました。」そう悔い改めた上で、その感謝と喜びを、全身全霊をもって言い表したいと思うようになるのです。すべてを知っておられる神の前に、自らの心を注ぎだして、心からの賛美をささげるようになるのです。それが本当の礼拝です。
15節の最後のところを見てください。ここには、「彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。」とあります。「こんな話は聞いたこともなかった」「そんなしもべの姿なんて見たこともなかった」「もう何年も教会に来ているけども、全然わからなかった」「それがわかった」と言うようになるということです。
ヨハネ3章16節はとても有名なみことばで、聖書の中心的なみことばです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
神は愛です。神は罪のないひとり子を、自分のいのちよりも大切なたった一人のひとり子を、この私たちのために与えてくださいました。それほど私たちを愛してくださいました。その神の愛がわからなかった。確かに何回も聞いていました。知っていると思っていました。でも全然わからなかった。全然理解していませんでした。それが今やっとわかった。それは単なる口先だけの愛ではなくこの歴史の中で実証された愛であったということを。十字架でそのひとり子を与える愛だということがはっきりわかった、ということです。そういう人はみな口をつぐむようになります。ただ黙ってこの方の前に伏し拝み、ひれ伏すようになるのです。
皆さんはどうですか。私たちも何度も聞いていたことかもしれません。しかし、頭で分かっていても心でわかっていないこともあります。この方はあなたのために死んでくださいました。十字架で死んで、あなたの罪を贖ってくださったのです。ボコボコにされて、もはやその顔だちは人でないかと思われるくらいに苦難を受けられました。しかし、それはあなたのためであり、私のためだったのです。それほどまでに愛してくださいました。私たちはこの方の前に口をつぐんで、ただ黙って伏し拝みましょう。そして、私たちのために成し遂げられたその十字架の御業に感謝し、心からの賛美と礼拝をささげるものでありたいと思います。それが高く上げられた主のしもべにふさわしい応答なのです。