イザヤ書51章12~23節 「このわたしが慰める」

きょうは51章後半の箇所から、「このわたしが慰める」というタイトルでお話します。ここには神の慰めのメッセージが続きます。神はどのようにイスラエルを慰めてくださるのでしょうか。1節には、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」とありました。まずあなたの過去をよく見なさい、というのです。あなたがどこから出て、どのように救われたのかを見るなら、あなたは感謝と喜びに溢れるようになるでしょう。

そればかりではありません。今度は彼らの目を未来に向けます。5節、「私の義は近い。わたしの救いはすでに出ている。」とあります。神の救いが来ます。主イエスが再び来られる時がやってきます。その時には、主がすべてを正しくさばいてくださいますから、この約束に目を留めるように、というのです。

そして、現実へと目を向けさせます。「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」(9節)けれども、主よ、現実を見てください、と言うあなたに、過去において偉大な御業をなされた主は、現実の問題にも必ず勝利をもたらしてくれると約束しているのです。ただ時があります。それは私たちの時とは違います。神のなさることは、すべて時にかなって美しい、とありますが、神はちょうど善い時に最善のことをしてくださいます。その主に頼り頼まなければなりません。

きょうのところでは、このようなことを前提に、私たちが慰めを受けるためにどうしても必要なことを取り上げています。それは「恐れ」です。主は私たちを恐れから解放してくださることによって慰めてくださるるのです。

Ⅰ.あなたはわたしの民だ(12-16)

まず第一に、12節から16節までを見ていきましょう。12節には、「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。」とあります。

ここでは「このわたし」が強調されています。真にあなたを慰めることができるのは「このわたし」であって、他にはいません。神だけがあなたを慰めることができるのです。なのに、なぜ死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れなければならないのでしょうか。

13節をご覧ください。「天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。」

私たちはすぐに忘れてしまいます。私たちの神がどのような方であるのかを。私たちの神は、天地万物を創造された創造主なる神です。また、あなたを造られた造り主です。この方が、どうしてあなたのことを忘れることがありましょうか。49章15節には「女が乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。」とあります。絶対に忘れることはないのです。忘れているのは私たちの方なのです。あなたを創られた主は決して忘れることなくいつもあなたを覚え、助けてくださいます。なのに私たちはそのことを忘れては、あなたをしいたげる者たちの怒りや憤りを恐れてしまうのです。

それはまるで滅びに定められている者であるかのようです。私たちは、滅びに定められているんですか?いいえ、.違います。私たちは、永遠の滅びから救われた者です。十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエスを信じたことで、罪の赦しと永遠のいのちをいただきました。もう地獄に行くことは絶対にありません。私たちは、永遠の滅びから救われたのです。であるなら、いったい何を恐れる必要があるというのでしょうか。何も恐れることなどありません。イエスは言われました。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

そればかりではありません。14節を見てください。ここには、「捕らわれ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。」とあります。

「捕らわれ人」とは、バビロンに捕らわれていたイスラエル人のことです。彼らはすぐにバビロンから解放されると、死んで穴に下る心配も、パンに事欠くこともありません。主が彼らの必要のすべてを満たしてくださるからです。同じように、罪に捕らわれていた人もイエスを信じ罪から解放されると、主がそのすべての必要を満たしてくださいますから、何も心配いらないのです。

「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)天の父がちゃんと養っていてくださいます。空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。種まきもせず、刈り入れもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。だから、明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に、十分あるのです。

皆さんが恐れているのは何でしょうかか?皆さんが心配しているのは何ですか?「また年金が減なった。これからどうしよう」とか、「体の調子が悪いな。このままだとどうなってしまうんだろう。」大丈夫です。天の父がちゃんと養っていてくださいますから。捕らわれ人は、すぐに解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠くことがないのです。あなたがこの約束に信頼するなら、何も心配する必要はないのです。

15節と16節を見てください。「15 わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。16 わたしは、あなたのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ」とシオンに言う。」

これはすごいことですね。主がわたしたちを「あなたはわたしの民だ」と言ってくださるのです。その方は「海をかき立て、波をとどろかせる方」です。「天を引き述べ、地の基を定めた方です。その名は万軍の主です。その方があなたを、「あなたはわたしの民だ」と言われるのですから。私たちは本当にちりのような者で、フッと吹けばどこかに飛んでいくようなものなのに、そのような者を「あなたは私の民だ」と言ってくださるのです。

皆さんは、自分をこれまでどのように見ておられたでしょうか。私はイエス・キリストによって贖われ、神のものとなった「神の民」であるという自覚していましたか。自分がどういうものなのかを「アイデンテティー」と言いますが、このアイデンテティーを正しく持っているかどうかは、クリスチャンにとってとても大きなことです。なぜなら、もしあなたがこうしたアイデンテティーを持っていたれば、何も恐れる必要などないからです。

それはちようど大富豪の奥さんのようです。大富豪の奥さんは生活のことでいろいろ思い悩んだりするでしょうか。「ああ、明日どうやって生きていこう。」「食べるお金がない。着る着物もない。家のローンをどうやって払っていったらいいでしょう」そういう悩みはありません。必要のすべては備えられているからです。それと同じように、私たちこの天地を創られ創造主なる神のものです。聖書ではクリスチャン、教会のことを「キリストの花嫁」とありますね。そうなんです、私たちはキリストの花嫁です。キリストによって贖われ、神の民となりました。ですから、もう何も思い悩む必要がないのです。神はあなたを「あなたはわたしの民だ」と言ってくださいます。これは本当に慰めではないでしょうか。あなたがどのような立場に置かれているのかを忘れないでください。あなたは神によって贖われた神の民なのです。そのことを覚えるなら、あなたに深い平安が与えられます。

Ⅱ.さめよ。さめよ。エルサレム(17-20)

次に17節から20節までをご覧ください。17節です。「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」

9節にも「さめよ。さめよ。」という言葉がありましたが、ここにも「さめよ。さめよ」という事がが出てきます。9節ではイスラエルが神に対して、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と言われていましたが、ここでは逆です。神がイスラエルに向かって語っています。「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」エルサレムよ。お前たちこそ目を覚ませ、というのです。なぜでしょうか。彼らは自分たちの置かれている状況をよく見ていなかったからです。

ある人がこんなことを言っています。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」これは含蓄のある言葉ではないでしょうか。「神の目を覚ます祈りは、私たちの目を覚ますものでなければならない。」神に目を覚ましてくださいと言うのなら、まず自分の目を覚まさなければならないというのです。目を覚まして、自分の置かれた現状がどうなのかをしっかりと見なければなりません。

では、彼らはどのような状況に置かれていたのでしょうか。「あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」

「憤りの杯」とか、「よろめかす大杯」とは、神のさばき、神の懲らしめのことを指しています。具体的にはバビロン捕囚のことです。彼らは神に背を向け、自分勝手な道に向かって進んで行ったので、神は彼らを懲らしめるためにバビロンという国を起こしたのです。19節に「滅亡と破滅、ききんと剣」とありますが、これら二つのことが彼らを見舞ったのです。それはまさに酒に酔っぱらってふらついているかのようでした。

なのに18節を見てください。「彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者がない。」のです。なぜなら、20節にあるように、彼らの子もまた網にかかった大かもしかのように気を失っていたからです。気を失って、すべての町かどに倒れ伏していました。

イスラエルはそのような状態だったのです。彼らは目を覚まして、この現実をしっかりと見なければなりませんでした。その現実を見て、悔い改め、神に立ち返らなければならなかったのです。それが「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。」ということだったのです。

皆さんはいかがですか。目を覚ましていらっしゃいますか。目を覚まして、自分の置かれている状況をちゃんと見ているでしょうか?自分たちに向けられている神の怒りの杯を見ているでしょうか。そして、それがどういうことなのかということを考えて、悔い改め、神に立ち返っているでしょうか。

ヘブル人への手紙12章5節から12節までを開いてください。ここには、神の懲らしめの目的が記されてあります。「5そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。6主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。8もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。9さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。10 ぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」

ここには、懲らしめの目的が書かれてあります。それは何かというと「訓練」のためです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。そのために懲らしめを与えるのです。もしあなたが本当に子どもを愛しているなら懲らしめを与えます。もしあなたがこどもに立派に成長してほしいと思うなら、ムチを控えることはしないでしょう。それと同じです。神は私たちを子として扱っておられるので、私たちを訓練するためにこうしたムチをあてられるのです。それは、平安な義の実を結ぶためです。何も神様は私たちのことが嫌いだからそうされるのではありません。私たちのことが嫌だからそうするのではないのです。そうではなく私たちを愛しておられるから、私たちが平安の義の実を結ぶために、あえてそのような苦難を与えておられるのです。

もちろん、彼らがバビロンの捕囚となったのは彼らの罪の結果でした。彼らがイスラエルの神を捨て、偶像に走ったからです。けれども、神はそんなイスラエルに「あなたはわたしのものだ」と言って、神の子として成長していけるように、いつも配慮をもって導いていてくださるのです。

これは韓国のクリスチャンの証です。だれも手を出さないほど傾いた工場を、ある人が買い取って、商品の開発をしたそうです。すると商品は飛ぶように売れ、彼はお金を稼ぐ楽しさに夢中になってしまいました。そして信仰生活がきちんと送れなくなってしまったのです。教会で大きな行事がある時は顔を出しても、会堂の後ろの方に座って、祝祷が終わる前に出て行きました。しかし、まさに事業を拡大していた最中に、通貨危機が襲って来たのです。融資は借金となり、商品を売る術もなくなってしまいました。  そうなってはじめて彼は、両手を上げて神の御前に出てひざまずき、祈り始めました。お金を失い、神を求めたのです。数日後、牧師に閉業礼拝をささげてほしいと頼みました。閉業礼拝が終わった後、彼は人々の前でこう告白しました。「私は無一文で始めて、無一文に戻りました。しかしこのことによって新しいいのちを得ることができました。万が一、事業がそのまま順調にいっていたら、私のたましいは永遠に神から離れていたことでしょう。きょうこの工場は閉めますが、信仰は新しくされました。どれほど感謝なことでしょうか。私の人生はここから始まります。」

すごいですね。このように言える人はそんなにいないと思います。彼は事業に失敗しましたが、このことによって神に出会い、人生の方向を正すことができたので感謝したのです。閉業の痛みよりも救いの喜びの方がもっと大きかったのでしょう。これは、人間の頭では理解することも、受け入れることもできないことです。まことに神に出会い、神の主権と驚くべき摂理を認める人たぢけができる告白なのです。目を覚ますというのはこういうことなのです。

Ⅲ.取り上げられた怒りの杯(21-23)    最後に21節から23節までを見て終わりたいと思います。21節と22節の前半の部分を読みます。「21 それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。22あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。」    22節には、「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神」とあります。神は私たちを弁護してくださる方です。Ⅰヨハネ2章1節にも、こうあります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。」

イエス・キリストは、私たちを弁護してくださる方です。しかも腕の立つ弁護士です。なぜなら、この方は神であって完全な弁護をしてくださるからです。その弁護者なる神がこう言われる。22節と23節です。「あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。23わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らはかつてあなたに、『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう』と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」

主はイスラエルに、彼らをよろめかす杯を彼らから取り上げ、もう二度と飲むことがないようにするということだけでなく、それを、彼らを悩ます者たちの手に渡す、と言われました。イスラエルを悩ます者たちとは誰のことでしょうか。それはバビロンのことです。彼らはかつてイスラエルに、「ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう」(23)と言いましたが、今度はそれと同じことをバビロンに下すというのです。かつてイスラエルが抱えていた悩みを、今度は彼らが追うようになります。だから、彼らを恐れてはいけません。神を知らない人たちは、神の懲らしめによってひとたまりもありませんが、神に愛された者たちは、神の民とされた者たちのためには、神が弁護者となって守ってくださるので、何も恐れることはないのです。これは本当に慰めではないでしょうか。

今、あなたが恐れていることは何でしょうか。アメリカの牧師のウォーレン・W ・ワーズビーは、次のように言いました。「私たちの人生に恐れを起こすものは何ですか。すべての事例を調べて恐れの根本となる原因を探してみると、鮮明に浮かび上がる真理があります。恐れの根本的原因は不信仰です。恐れと信仰は絶対に友人になることはできません。ですから、恐れを克復する第一歩は信仰によって神を見上げることです。神を礼拝し、その方の偉大さと栄光を見上げてください。今もその方が御座におられることを覚えてください。」  この神を見上げることが恐れに打ち勝ち、この地にあって勝利ある人生を歩む秘訣なのです。

アメリカアトランタである一つの大きな事件が起こりました。それは強姦と殺人の罪で収監されていたブライアン・ニコラスという容疑者が、裁判に出廷するために収監されていた刑務所から裁判所に移送され、囚人服から一般服に着替えていた時、彼を看守していた刑務官から拳銃を奪い、そこにいた二人の看守を射殺しただけでなく、法廷の中に入っていき裁判官と書記官を殺害して逃走したのです。  そしてあるアパートの駐車場で、アリュリー・スミスという当時26歳の女性を人質にとって彼女の部屋に立てこもったのです。アシュリーは両手両足をテープで縛られ浴槽の中に閉じ込められました。彼女は自分も殺されるかもしれないという恐怖の中でも、なぜか平安がありました。自分がこのように人質になったのも何か神の目的があるのかもしれないと思ったからです。そして、リック・ウォーレンという牧師が書いた「人生を導く5つの目的」という本を読み、自分が以前麻薬中毒にありながらもイエスによって救われたことを証したのです。  すると彼の心が不思議に穏やかになりました。そのとき、ちょうど子どもをお迎えに行きたいんだけどいいかしら?と聞くと、すなり許してくれました。そして、彼女が警察に通報して事件は終息したわけですが、警察が部屋の中に突入したときに、彼は全く抵抗しなかったそうです。彼女が読んだ本と証によって、彼にも人生には目的があるということを悟ったからでしょう。  それにしても、いったい彼女のどこからそんな勇気が湧いてきたのでしょうか。アシュリーは神を見上げました。自分が読んでいたその本にあるように、私たちの人生には目的があるということを神の視点から見たからだと思います。彼女はその恐ろしい瞬間にも神を見上げ、神は最善を成される方てあると信じたのでした。

このように信仰によって恐れに打ち勝った人々は、冷静に落ち着きを取り戻し、その置かれた情況の中でしっかりと対処することができるようになります。恐れという縄で私たちを縛ろうとするサタンの働きを無力なものにし、霊的勝利を経験することができるのです。神の民であるあなたにもこのような勝利が約束されているのです。それは本当に慰めではないでしょうか。それは「このわたしが、あなたを」慰める」と言われる主を、信仰によって見上げることから生まれます。ですから、この神を見上げ、この偉大な神の栄光を礼拝しましょう。そのときあなたも恐れに勝利し、神の慰めを受けることができます。「このわたしが、あなたを慰める」ということばを信頼し、信じる者に働かれる神の力がどれほど偉大なものなのかを、私たちも体験させていただきましょう。