イザヤ書53章7~12節 「成し遂げられた救いのみわざ」

 きょうはイザヤ書53章後半の箇所から、「成し遂げられた救いのみわざ」というタイトルでお話します。この箇所は52章13節から始まる第四のしもべの歌の最後の部分です。52章13~15節までのところには、主のしもべの受けた苦しみ、受難について語られました。そして、この53章前半のところでは、その受難の意味が語られます。それは、私たちのそむきの罪のため、私たちの咎のためであったということです。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。そして、この53章後半にはその結果が語られます。つまり、主のしもべは、その激しい苦しみのあとを見て、満足するということです。主のみこころは彼によって成し遂げられました。救いのみわざは、十字架と復活によって成し遂げられたのです。

 Ⅰ.取り去られたしもべ(7-9)

 それではまず、7節から9節までをご覧ください。7節には、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあります。

 彼とは、もちろんイエス・キリストのことです。キリストは痛めつけられました。キリストは苦しめられましたが、口を開きませんでした。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、口を開きませんでした。なぜなら、もしイエス様が口を開いたら、一瞬にして全世界の人々が滅ぼされてしまうからです。イエス様にも言いたいことがあったでしょう。でも、彼は口を開きませんでした。Ⅰペテロ2章22~24節にはを開いてみましょう。ここには、こうあります。

「22キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

 キリストは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷によって、私たちは、いやされたのです。キリストがそのように口を開かなかったのは、私たちのためだったのです。

 逆に、罪人はやたらと口を開きます。言わなくてもいいような言い訳じみたことを言うのです。「あのときは仕方がなかったんです。」「悪いのは私じゃありません。あの人です。あの人が悪いのです。」「あの人のせいでこうなったんです。」しかし、イエス様は黙っていました。口を開きませんでした。どんなに不利な証言をされても、正しくさばかれる方にお任せにならたのです。ユダヤの総督ピラトの前に立たされた時も、「あなたはユダヤ人の王ですか」と尋ねられた時、ただ「そのとおりです。」と答えただけで、あとは何もお答えになりませんでした(マタイ27:11~14)。それが神のみこころであるとを知っていたからです。どんなに言いたかったことでしょう。でも、そんなことをしたら全人類を救うという神のみこころが成し遂げられないので、じっと黙っておられたのです。

 8節をご覧ください。ここには、「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。」とあります。

 「取り去られた」とは「断たれた」ということです。新共同訳聖書では、「命を取られた」と訳しています。また創造主訳聖書では、「殺された」と訳されています。彼は捕らえられ、さばきを受けて、殺されました。およそ33歳ぐらいの時に、まさに人生これからという時でした。そういう時に殺されました。なぜでしょうか?ここに「彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ」とあるように、それは私たちの罪のためでした。彼の時代の者で、いったいだれがそんなことを思うことができたでしょう。誰もできませんでした。

 ところで、この7節と8節のみことばは、使徒の働き8章32節に引用されています。ちょっと開いてみましょう。これは、エチオピアの王室に仕えていた高官が礼拝のためにエルサレムに上り、その帰る途中に、馬車に乗ってこの箇所を読んでいて、これはいったいどういう意味だろうと思い巡らしていた時に、伝道者ピリポが彼のところへ遣わされた時の事です。ピリポが馬車に近寄り、「今、あなたが読んでいることが、わかりますか」と言うと、「いいえ、わかりません。教えてくれる人がいなければどうしてわかるでしょうか。」と言うので、「これは、あのナザレのイエス様の預言だったんです。」と言って教えてあげたのです。するとエチオピアの高官は、イエス様が自分のために十字架にかかって死んでくださったということがわかり、心がうれしくなりました。そしてイエスさまを信じて、バプテスマを受けたのです。

 皆さん、水のあるところならどこでもバプテスマを受けられます。もし、あなたがイエスさまを信じるなら、あなたもバプテスマを受けることができます。イエスさまがあなたの罪のすべてを負って十字架で死んでくださったということがわかると、あなたは、うれしくてうれしくてしょうがなくなるでしょう。彼らが水から上がると、主の霊がピリポを連れ去られたので見えなくなりましたが、彼は喜びながら帰って行くことができました。イエス様を信じる人にはこのような喜びがあるのです。

 9節をご覧ください。ここには、「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。」とあります。

 「彼の墓は悪者どもとともに設けられ」とは、十字架につけられた他の二人の囚人とともに死なれたことを指しています。また、「富む者とともに葬られた」とは、金持ちの墓に葬られたということです。イエス様のからだはアリマタヤのヨセフという議員の墓に葬られました。マタイ27章57節によると、彼は金持ちであったとあります。まさにイエス様は私たちのそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれた主のしもべ、メシヤ、救い主であられたのです。そのメシヤがあなたのために十字架で死んでくださいました。そのことがわかり、このイエスを主と信じて受け入れるなら、あなたにもこの喜びがもたらされるのです。

 Ⅱ.主のみこころが成し遂げられるために(10~11a)

次に10節から11節前半のところまでを見たいと思います。10節をご覧ください。「しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」

 ここに、ものすごい真理があります。それは、そのようにしもべを砕いて、痛めることが主のみこころであったということです。なぜこれが主のみこころであったと言えるのでしょうか?なぜなら、もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができるようになるからです。どういうことでしょうか?多くの場合、苦労して働いても死んでしまえばそれまでです。しかし、主のしもべは苦難のわざの成果を見るようになります。11節にあるように、彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足するのです。十字架の贖いによってもたらされた多くの実を見て、満足する。

 ヘブル12章2節にはこうあります。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の前に着座されました。」この「ご自分の前に置かれた喜び」というのがこれです。つまり、イエス様が十字架にかかることで、その贖いを信じた人々にもたらされる永遠のいのちを、末長く見るようになるということです。これがしもべにとっての喜びでした。その喜びのゆえに、イエス様ははずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのです。

 それは、母親の陣痛のようなものです。母親は出産の激しい痛みや苦しみがあっても我慢することができるのは、この喜びがあるからです。そこから新しいいのちが生まれる。この新しいいのちを見て満足するのです。この痛みは骨折り損ではなかった。この苦しみはくたびれもうけなどではなかった。かわいい赤ちゃんが生まれてくるのです。そんなに苦しい思いをしてまで子どもを産むのは、それ以上の価値が生まれるからなのです。それが得られるとき、それまで経験したすべての苦しみ、すべての痛み、すべての辛さが忘れ去られます。新しいいのちには、それだけの喜びがあるのです。その激しい苦しみのあとを見て、満足します。あなたが救われたなら、イエス様はどれほど喜ばれることでしょう。どんなに激しく苦しんでも、あなたが救われるのを見たら、イエス様はそれで満足されるのです。

 しかし、それはそんなに易しいことではありません。イエス様にとっても、それは苦しいことだったので、あのゲッセマネの園で夜を徹していのられました。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)

 イエス様は、この杯をわたしから取りのけてください、と祈られました。なぜなら、それは父なる神と断絶することを意味していたからです。人々の罪のためとはいえ神に打たれ、神との関係が断たれることは、イエス様にとって最も恐ろしいことでした。なぜなら、三位一体の神は、永遠の昔から一瞬たりとも離れたことがなかったからです。その神から離れ、神との関係を失うことが、イエス様にとって最も恐ろしいことだったのです。

 それは私たちにとっても同じです。あなたにとって一番恐ろしいことは何ですか?お金を失うことですか。健康を失うことですか。あるいは家族を失うことでしょうか。ペットを失うことですか。いいえ、神との関係を失うこと、それが私たちにとって最も恐ろしいことです。なぜなら、それは地獄を意味することだからです。しかし、イエス様を信じるなら神はあなたの罪を赦してくださり、いつまでもあなたとともにいてくださいます。これが永遠のいのちです。これがあるなら、私たちは何も恐れることはありません。神がともにいること、神の臨在こそ、私たちにとって最も大きな喜びであり、祝福なのです。

 その神との関係が断たれることは、イエスさまにとって本当に苦しいことでした。ですからイエス様は、その杯を取りのけてほしいと何度も祈られました。汗が血のしずくのように落ちるほど、苦しみ、もだえられました。しかし、最後にはその杯を飲み干されました。なぜなら、それが主のみこころだったからです。そして彼は末長く、子孫を見ることができる。それは喜びではないでしょうか。その喜びのゆえに、イエスははずかしめをもろともせず、十字架を忍ことができたのです。あなたはどうですか。その喜びのゆえに、喜んで目の前の十字架を負っているでしょうか。イエスはこのように言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)

 死ねば、実を結ぶのです。やがてあなたも末長く、子孫を見ることができます。その時には、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足するようになるでしょう。問題はあなたがどこを見ているか、何を見ているかです。目の前に置かれた苦しみを見るのではなく、その先にある栄光を見ましょう。そうすれば、主のみこころはあなたによっても成し遂げられるのです。

 Ⅲ.とりなしておられるしもべ(11b~12)

 最後に11節後半から12節を見て終わりたいと思います。「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」

 「わたしの正しいしもべ」とは、もちろんイエス様のことです。イエス様は、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎をにないました。「その知識」とは、イエス様を知る多識のことです。このイエス様が私たちの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれたという知識のことです。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされます。いったいこんなことをだれが想像することができたでしょうか。ただ神だけが、永遠の昔から定めておられた救いの計画でした。その知識によって多くの人を義としてくださるのです。

 それゆえ、神は、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとります。この「多くの人々」とか、「強者たち」とはだれのことを指しているのかというと、その知識によって義とされた人たち、すなわち、クリスチャンのことです。戦争に勝てば勝者が戦利品として奪い取るように、主のしもべは十字架と復活によってこの世界の暗やみを支配しているサタン、悪霊に勝利したので、そこに囚われていた人たちをその支配から解放してくださったのです。
ですから、ここには復活の預言も語られているのです。700年も前の預言者が、十字架と復活のことをこのように預言していたのです。すごいですね。いったいだれがこんなことを考えることができるでしょう。ただ神だけが告げることができることです。

 そればかりではありません。このしもべはそむいた人たちのためにとりなしをすね、とあります。あなたを贖い、あなたをご自分の所有としてそのまま放り投げておくのではなく、今も生きて、とりなしておられるのです。いつもあなたのために祈っていてくださるのです。

 ローマ8章34節には、こうあります。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」

 また、ヘブル7章25節にも、こうあります。「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」
 
 イエス様は十字架で死んだだけではありません。死からよみがえられました。よみがえられて天に上り、神の右の座に着座されました。あなたのためにとりなしてくださるためです。彼は今も生きていて、あなたのために祈っておられます。その信仰が無くならないように、様々な困難にも勝利できるように・・と。その主の御手にすべてをゆだねて歩めることは、何と心強いことでしょうか。私たちは今、この地上にあって多くの戦いがあり、時に心が折れてしまいそうになることがありますが、こんな私たちのためにキリストは十字架にかかってくださり、三日目によみがえってくださいました。そして、今も私たちのために祈っていてくださることを覚えるとき、本当に心に励ましが与えられるのではないでしょうか。

ノアという音楽グループの曲に、「聞こえてくる」という賛美があります。
 「あきらめない。いつまでも  イエス様の励まし 聞こえてくる
 試練の中でも 喜びがある  苦しみの中でも 光がある
  ああ主の御手の中で 砕かれてゆく  ああ、主の愛につつまれ 輝く」

 私たちはイエスさまの励ましがあるからこそ、とえ試練の中でも、たとえ苦しみの中で、あきらめずに進むことができるのです。

 私が福島で牧会していたときに救われた姉妹が結婚して、今東京で牧師婦人として仕えておられますが、彼女は二番目の子どもさんが1,260グラムの未熟児で生まれ、言語中枢に問題があってずっと話すことができませんでした。いったいなぜこんなことになってしまったのかと思い巡らしていたとき、一つのみことばが与えられました。それは、ヨハネの福音書9章3節の「神のわざがこの人に現れるためです。」というみことばでした。それは彼女にとって大きな慰めでした。自分が何か悪い事をしたからこうなったのかと落ち込んでいたのに、そうではなくそれは神の栄光が現されるためだったと知ったとき、彼女は神の栄光が現されるようにと祈りました。
 すると、昨年の夏休みが明けて幼稚園に行くと、急にその子がしゃべり始まったのです。もう幼稚園は大騒ぎです。「ヨシュア君がしゃべってる!」と。園長先生は涙を流して喜んでくれました。そして、療育センターで見てもらったら、ことばの教室のない小学校に行っても大丈夫です!と診断されました。

 ハレルヤ!本当に主はいつくしみ深く、憐れみ深い方です。主は、私たちのために死んでくださっただけでなく、三日目によみがえられました。そして、今生きて天でとりなしをしておられるのです。そのような力強い御手の中で生きられるということは何と幸いなことでしょうか。

 しかし、ここには「多くの人のため」とはありますが、「あらゆる人のため」とはありません。どんなに主がすべての人の咎を負って死なれ、そこから復活して、救いのみわざを成し遂げても、その贖いを信じなければ全く意味がないのです。この主のしもべの受難は私のためだったということを受け入れ、この方を信じるとき、初めて「多くの人のため」の中に私たちも入れていただくことができ、神の偉大なみわざにあずかることができるのです。どうか主のしもべイエスを通してなされた救いのみわざ、十字架の贖いを、あなたも信じて受け入れてください。あなたもこの救いの恵みの豊かさを受けることができ