イザヤ書53章1~6節 「最高の愛」

きょうは、イザヤ書53章前半の箇所から、「最高の愛」というタイトルでお話したいと思います。今読んだ箇所は、イザヤ書52章13節から始まった第四のしもべの歌の一部です。ここには、主のしもべはなぜ苦難を受けなければならなかったのか、その理由が記されてあります。それは、私たちの罪のためであったということです。つまり、それは身代わりの死であったということです。

イエス・キリストが働きを始められてから今日まで、多くの人が十字架について誤解しています。イエスがメシヤであるならどうして十字架にかかって死ななければならなかったのか、というのです。それはユダヤ人にとってはつまずきであり、ギリシャ人にとっては愚かなことかもしれませんが、しかし、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)それは最高の愛だったのです。

きょうは、この最高の愛について、いつものように三つのポイントでお話します。まず第一のことは、だれが主の御業を信じたかということです。だれも信じませんでした。第二にその理由です。なぜ彼らは信じなかったのか。なぜなら、彼らが想像していたメシヤとは全く違っていたからです。第三のことは、なぜメシヤはこれほどまでにさげすまれなければならなかったのか。それは私たちの罪の身代わりとなるためでした。

Ⅰ.だれが信じたか(1)

まず1節をご覧ください。「1私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。」

「私たちが聞いたこと」とは、神の救いに関する良い知らせのことです。このこのすばらしい救いの知らせを、いったいだれが信じたでしょうか。だれも信じませんでした。なぜでしょうか?イエスの姿が、彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。彼らが信じていたメシヤとは、イスラエルを政治的にも、軍事的にも復興してくれる方でした。ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれる政治的メシヤを待ち望んでいたのです。それなのに、イエスはそうではありませんでした。イエスは、そうした問題の根本的な原因である罪から救うために来られたのです。ですから、彼らはイエスをメシヤとして受け入れることができなかったのです。

この1節のみことばは、ヨハネ12:38とローマ10:16にも引用されていますが、ヨハネ12:38には、「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。」とあるのです。なぜなら、この時からイエスは、ご自分が死なれることを語り始めたからです。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはそのままです。しかし、死ねば実を結びます。」死なれる、弱々しい者がメシヤであるはずがないと言って、イエスから離れて行ったのです。だれも信じようとはしませんでした。

それはどの時代も同じです。どんなに福音を語っても、人々は信じようとしません。人々が求めているのはいやし、力、栄光、祝福、成功、繁栄といったものだからです。そのような話には魚が餌に飛びつくように飛びつきます。この近くにもそんな新興宗教団体があります。私は行ったことがありませんが、家の工事をしてくれた人がその施設の外構工事か何かをしたらしくて行ったのですが、「まあ、たまげた」と言ってました。全部、金!どうしたらあんなふうになれるのか・・・と。最近は学校まで作って、教育しているということですが、そのような富、栄光、繁栄、成功、といったものには関心があっても、見るかぎりみすぼらしいように見えるものには見向きもしません。みんな去っていきます。

しかし、それでも私たちは語ることをやめてはならない。なぜなら、神の国はそのようなものだからです。救い主イエスが生まれた時もそうでした。この天地を創造された救い主が、何と馬小屋で生まれたのです。飼い葉桶に寝かせられました。一見、救い主とは全く関係ないと思われるようなところでお生まれになりました。それは、神の救いというのは、私たちが考えているようなものとは全く違うものだからです。また、私たち自身が信じる者に変えられたからです。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

皆さん、信仰は聞くことから始まるのです。キリストについてのみことばを聞くことです。ですから、信じてほしいと願うなら、キリストについての良い知らせを聞かせなければなりません。聞かせなければ信じることはできないからです。「こんな人に聞かせたって無駄だ。聞く耳をもってないし・・・。」「聖書になんて全く興味はないし、信じるつもりなんてない」と思うかもしれませんが、それでも聞かせなければならないのです。これほどすばらしい知らせはないのですから。そうすれば、だれも信じないと思えるような中にあっても、神は必ず信じる人を起こしてくださるのです。

Ⅱ.さげすまれたしもべ(2-3)

では、いったいなぜ彼らは信じなかったのでしょうか。さきほども申し上げたように、それはイエスが彼らが想像していたメシヤ像とはあまりにもかけ離れていたからです。2節と3節をご覧ください。2節には、「2彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」とあります。

11:1にも「若枝」という言葉が出てきましたが、この「若枝」と11:1に出てくる「若枝」は違う言葉です。この「若枝」は「吸枝」(きゅうし)と呼ばれるもので、植物の根から最初に出る枝のことです。その枝は地面の下に根のように伸びます。この「吸枝」という言葉は「吸う」という言葉から派生した言葉で、赤ちゃんがおっぱいを吸うイメージです。ですから、「若枝のように芽ばえ」とは、赤ちゃんのように全く力がなく、他の何かに頼らなければ生きていくことができないような、弱々しい姿で生まれたという意味です。

また、ここには「砂漠の地から出る根のようだ」ともあります。皆さんは、「砂漠の地から出る根」を見たことがあるでしょうか?それはカラカラに干からびています。もう死んだような状態になっています。そんな砂漠から出た根のように主のしもべは育ったのです。

ですから、「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」のです。「彼」とはもちろんイエス・キリストのことです。イエス・キリストには、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもありませんでした。私たちが慕うような見ばえもなかったのです。私たちの中にはどこか、髪が長く、すべすべした肌で、掘の深い青い目をしていて、かなりのイケメンであるのに加え、真っ白い衣には後光が差しているといったイメージがありますが、このイザヤ書の描写を見ると違うことがわかります。私たちがそのように想像するのは、中世の絵画やキリストの映画等を見ているからであって、実際には違うわけです。実際には、彼には見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした。

福音書を見ると、ローマの兵隊がイエスを捕らえに来た時、だれがイエスなのかわからなかった、とあります。それで、わかるようにと、ユダがその人に口づけしました。その人がイエスであるという合図のためです。イエスは口づけしなければわからなかったほど他の人たちと全く変わらない、ごく普通の人だったのです。その内側には神の栄光の輝きがありました。麗しさと優しさに満ち溢れていましたが、見た目には見とれるような姿も、輝きも、私たちが慕うような見ばえもなかったのです。

3節をご覧ください。ここには、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあります。

イエスはさげすまれるようなことは何一つしなかったのに、何一つ悪いことなどしなかったのに、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていました。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。それどころか、彼は自分を捨て、他の人の幸福のために心から仕えました。病人をいやし、悪霊を追い出し、疲れた人、苦しんでいる人を慰めました。イエスは食する暇も忘れ、寝る間も惜しんで、人々のために身を粉にして仕えたのです。なのに人々は彼をのけ者にし、「十字架につけろ」と叫び続んだのです。    彼は、悲しみの人で病を知っていました。「悲しみ」とは肉体的な痛みだけでなく、すべての種類の悲しみを表すもので、「死に至るほどの深刻な損傷」を指します。「病を知っていた」というのは、病に慣れていたとか、常に病を抱えて歩んでいたという意味です。人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊びませんでした。

なぜでしょうか?なぜなら、イエスが彼らが望んでいるようなメシヤではなかったからです。彼らが求めていたのはあくまでもイスラエルをローマの支配から解放し、この地上に神の国をもたらしてくれるメシヤだったからです。しかし、彼はそうではなかった。何とも弱々しく、干からびたような状態で、見た目には何の輝きもなく、魅力もない、パッとしないメシヤだったからです。一言で言えば、それは「期待はずれ」だったのです。

しかし、主の御腕は、だれに現れたでしょうか?なんと、主の御腕はこのようなしもべに現れました。見た目にはパッとせず、何とも弱々しく、干からびたようなそんなしもべに現れたのです。

ですから、見た目で人の善し悪しを判断してはいけません。たとえ弱々しいから、たとえ干からびているようでも、のけ者にしてはいけないのです。私たちが見とれるような輝きがないから、私たちが慕うような見ばえがないからと言って、さげすんではならないのです。

Ⅲ.私たちの罪を負われたしもべ(4-6)    いったいなぜ主のしもべはそれほどまでにさげすまれたのでしょうか?4節をご覧ください。「4まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」

いったいなぜ彼はそのような病を負い、痛みをになったのでしょうか?私たちはてっきり、それは神に罰せられ、神に打たれ、神に苦しめられたからだと思っていましたが、それは間違っていました。このしもべの罪や咎に対する神の懲らしめだと思っていたのに、実はそうではなかったのです。それは、私たちのためでした。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」のです。

5節をご覧ください。ここには、「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。

しべが刺し通され、しもべが砕かれたのは、私たちの罪のためであり、私たちの咎のためだったのです。ここには、「刺し通す」とか「砕く」という言葉がありますが、これはまさに主のしもべであるイエス・キリストが受けた十字架の苦しみを表しています。

この預言はキリスト生まれる七百年も前に告げられたものですから、十字架を見て預言したわけではありません。しかし、さながら十字架のもとにたたずんで、十字架を見た人が語ったような描写です。ある人たちは、このしもべとはペルシャの王クロスのことではないかとか、イスラエル民族のことではないかと言う人がいますが、この描写を見たらそうではないということがはっきりとわかります。これはイエスさまが十字架で刺し通され、砕かれたということを見事に表しているからです。

けれども、その苦しみはいったい何のためだったのでしょうか。キリストはなぜ十字架で死ななければならなかったのでしょうか?それは「私たちのため」です。それは私たちの罪のため、私たちの咎のためだったのです。「私たちのため」というのは英語では「for us」ですが、この「for」という言葉は「代わりに」と訳すこともできます。ですから、「私たちのために」ということは「私たちの代わりに」ということでもあるのです。彼が刺し通され、砕かれたのは、彼がそれほどの苦しみを受けられたのは、私たちの身代わりのためだったのです。彼への懲らしめによって、私たちはいやされ、彼の打ち傷によって、私たちはいやされたのです。

6節には、「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」とあります。神は全人類の罪を彼の上に置かれました。全人類の罪ですよ。私1人の罪だけではありません。全人類の罪のためです。私1人でもかなり重いのに、全世界の人の罪といったらどれほど重かったことでしょう。

現在、世界には約71億4500万人の人がいます。1分間に137人、1日で20万人、1年で7千万人、増えているそうです。私が中学校の時に勉強した時には確か43億人でしたから、その時よりもかなり増えていることがわかります。これだけの人の罪を負われたのです。いや、それは現在の人だけではなく、有史以来、この地上に生きたすべての人の罪も含まれます。最初の人アダムが造られた時から今日に至るまでのすべての人の罪です。そのすべての咎を負われたのです。

「この方こそ、私たちの罪のための-私たちの罪だけでなく、全世界のための-なだめの供え物です。」(Ⅰヨハネ2:2)

イエスは全世界のための、なだめの供え物となって、十字架で死んでくださったのです。それは私たちの罪のため、私たちの罪の身代わりのためでした。それは、この方にあって、私たちが神の義となるためです。Ⅱコリント5章21節も開いてください。ご一緒に読みましょう。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」

イスラエルでは、多くの人の罪が赦されるために、小羊が代わりに殺されました。その血が注がれることによって人々の罪が赦され、その肉が食されることによって、人々の肉体のいのちが保たれたのです。つまり小羊は救いの力、あがないの力を現す動物だったのです。そして、イエス・キリストはその神の小羊となって死なれたのです。

ご承知のように、イスラエルがエジプトの奴隷から解放される時、小羊が殺されて家の玄関のかもいにその血が塗られました。それによってイスラエルの人々は、神の滅びから守られてエジプトから出ることができました。実に出エジプトという出来事は、過ぎ越しの小羊の血によって実現したのです。イエスこそその過ぎ越しの小羊だったのです。その血によって罪の奴隷として捕らえられている人を、そこから解放してくださるのです。ですから、バプテスマのヨハネがイエスを見た時こう言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。あの過ぎ越しの小羊のようにこの方がほふられることによって、全世界の罪が取り除かれる時が来た、とヨハネは言ったのです。このようにして身代わりという事実がなされたのです。福音書に出てくるイエスの十字架は私のためであり、またあなたのためであり、全世界の身代わりのためだったのです。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって歩んでいました。聖書ではこれを罪と言います。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティヤ」と言いますが、それは「的外れ」という意味です。そんな私たちの罪を赦すために、神はその罪の刑罰のすべてをこのしもべに負わせ、このしもべが身代わりに受けることによって、私たちのすべての罪を赦そうとされたのです。

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

何と感謝なことでしょうか。この世の人たちは十字架は愚かなことだったとか、失敗だったとかと言いますが、それは神の私たちに対する最高の愛の現れだったのです。

皆さんは、「山本忠一」という人の名前を聞いたことがあるでしょうか。昭和の初期のことです。和歌山県南部(みなべ)という町に労祷学園(ろうとうがくえん)がありますが、枡崎外彦という牧師がこの学園を指導されていた時、彼はこの学校にやって来ました。やって来たというよりも、拾われて来たと言った方がいいかと思います。しかし、彼は知恵遅れの少年だったので、彼がこの学園に加えられた時、誰かが門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことから、この学園は「アホ学園」と呼ばれるようになり、南部名物とまで言われるようになりました。彼は幼い頃、脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに親族も愛想をつかし、捨てられ乞食をしている所を、枡崎牧師が世話をすることにして、連れ帰ってきたのです。  忠やん。と呼ばれるようになった知恵遅れの少年には、だれにも真似の出来ない特技がありました。飛んでいるハエを素手で取るのです。ハエを目にするや、忠やんの目は輝き、ハエを見つめながら、左手左足で調子をとりながら、右手の指先でバッと捕まえるのです。それは百発百中の神技でした。  その時、升崎牧師の下で、7人の若者が学んでいましたが、彼らが牧師につめよりました。 「忠やんが、労祷学園に出入りしないようにして下さい。」  「もし忠やんが学園に加わるのであれば、自分たちが出て行きます。」   升崎牧師は悩み苦しみましたが、  『もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、  その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。』(マタイの福音書 18章12節)  才能のある7人と1人の知恵遅れの少年どちらを選ぶべきか?イエス様は、1人の世話を必要としている人を見捨てることはない。7人の青年達は去っていきました。  ところが、それからしばらくして、忠やんも外出したまま帰ってこなくなりました。八方手を尽くしましたが、消息はつかめませんでした。  忠やんがいなくなってから数年たった昭和14年のある日、1人の紳士が升崎牧師を訪ねて来ました。 「あなたは何年か前に山本忠一君をお世話して下さった牧師さんですか?」  「おお、あなたは忠やんの消息をごぞんじですか?元気にしてますか?」  「実はその忠一君は、立派な働きをして死にました。」  「これが彼の形見です。」  紳士はそう言って、船の舵輪を差し出しました。 紳士は話し始めました。  「ある日、海辺に1人で立っている忠やんを見つけ、あれこれ訪ねたが、何も判らない、行くとこもないようなので、私の船で働くか?と聞くと、うん。と言うので、船に乗せ、働いてもらっていました。  ある日、荷物を満載して紀州尾鷲港を出航しましたが、出航後間もなく海がしけ、新宮沖にさしかかるころには、思う方向に船を進めることも出来なくなり、ついに暗礁に船底をぶつけてしまいました。  船底に穴が開き、水が激しく浸水してきて、いくら排水しても間に合わなくなり、一同観念した時、船底から、『親方!親方!船を!船を!』と手を振り叫んでいる者がいます。  忠やんでした。忠やんは、自分の足を穴に突っ込み浸水を止めていたのです。  船員一同必死に排水と操船をし、陸に近づけ、助かったのです。 忠ちゃん助かったよ!  と彼のもとに行った時には、忠ちゃんの右太ももはもぎ取られ、出血多量ですでに息を引き取っていました。  この舵輪はその時の幸十丸のものです。」  升崎牧師は労祷学園で、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年の事を話した事がありました。  その話を聞いた時、忠やんは、  「俺はハンスだ!ハンスだ!」  と叫んでいました。 人から“アホ忠”、“アホ忠”と呼ばれ、“アホ忠”が自分の名前と思っていた山本忠一君でした。  彼は升崎牧師の愛と教えを受け、自分の身を持って、愛を実践したのです。   「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。」(ヨハネ福音書15:13)

これは忠一君が覚えた、たった一つの聖書の言葉です。山本君は普段自分をアホ忠と呼んでバカにし、なぐったり蹴ったりした船員たちの命を救うために、自分の命を犠牲にしました。    これは私たち人類を救うために十字架の上でご自身の命を犠牲にしてくださったキリストの愛です。このキリストの愛を受けていたので山本君は自分をばかにしていじめていた人たちをも許し、愛して、救うことができたのです。

キリストは、あなたの病を負い、あなたの痛みをになってくださいました。あなたのそむきの罪のために刺し通され、あなたの咎のために砕かれました。しかし、彼への懲らしめがあなたに平安をもたらし、彼の打ち傷のゆえに、あなたはいやされました。

ですから、もしあなたが病を負っているなら、どうか、この十字架につけられたイエス・キリストを見上げてください。あなたが人にも言えないような苦しみを抱えているなら、どうか、十字架のキリストを見てください。基督はあなたの病やあなたの苦しみの一切を代わりに受けて死んでくださったのですから。もちろん、クリスチャンでもこの世の人と同じように不治の病にかかることがあります。イエスを信じているからと言って、がんにかからないわけではありません。しかし、死ぬときにも、恨まず、死を受け入れることができます。すべてが願いどおりになるわけではありませんが、しかし、願い通りにならなくても感謝することができるのです。なぜ?神があなたを救ってくださったからです。キリストがあなたの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださり、その身代わりの死を信じて受け入れたので、あなたの罪のすべてが赦されたからです。これが、この世の人とクリスチャンが決定的に違う点なのです。そして、それは本当に大きな違いではないでしょうか。罪が赦され、永遠のいのちが与えられている。神が私とともにいてくださる。これは本当に何よりも大きな恵みです。私たちにはこの救いが与えられているのです。十字架につけられたイエスを信じることによって。ですから、私たちが求めなければならないのは、この十字架のイエス・キリストであって、この世の華やかさではありません。どうか、このイエスから目を離すことがありませんように。この方を信じることが、あなたのいやしと救いなのです。