使徒の働き1章1~14節 「キリストの証人となるために」

 いよいよ今日から那須での第一回目の礼拝が始まりました。きょうはその記念すべき最初の礼拝ですが、この使徒の働きから「キリストの証人となるために」というタイトルでお話をしたいと思います。今読んでいただいた使徒の働き1章には、教会が誕生するにあたってどのような準備がなされていたのかが記されてあります。2章にはペンテコステの出来事が記されてありまして、聖霊が降ることによって教会が誕生するわけですが、その前のこの1章を見ると、そのためにどんな準備がなされていたのかを知ることができます。

 何事をするにも準備は大切です。大きな働きをしようとする場合はなおさらです。今日から始まったこの那須での働きのためにも、1年以上にわたる準備の時がありました。どこでやるのか、どういうふうに進めていくのか、そのために何が必要なのかを話し合うために、毎月、那須準備祈祷会という祈り会をもって進めてきました。そして、この6月からスタートすることが決まると、今度はその準備に着手しました。その中でTBCの方々の協力もあって、チラシを作成していただき、また、昨日のゴスペルコンサートも開いていただきました。本当に感謝です。それにしても、このためにどれだけの準備が必要であったかと思います。まして今から二千年ほど前の紀元30年の当時、この地上に最初の教会を生み出し、ましてや世界に向けての福音宣教の火ぶたが切られようという歴史的な瞬間の時には、どれほどの準備が必要であったかと思うのです。よく段取り八分と言われますが、それだけの大事業のために、神様はどのような準備をされたのでしょうか。その最大の準備は、その福音を宣教していく人を整えることでした。キリストの証人とするために、彼らを聖霊で満たし、聖霊の力を与えることでした。

 きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、待つということです。彼らは宣教に遣わされる前に、父が約束してくださった聖霊に満たされるのを待たなければなりませんでした。第二のことは、その理由です。なぜ聖霊に満たされるのを待たなければならなかったのでしょうか。なぜなら、キリストの証人としてその働きを担っていくためには力が必要だったからです。そして、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたき力を受けるのです。ですから第三のことは、祈りなさいということです。どうしたら聖霊に満たされるのでしょうか。祈りによってです。心を合わせ、一つになって祈るとき、神様は聖霊を注いでくださいます。その聖霊に満たされるとき私たちは力を受け、キリストの証人としての使命を果たしていくことができるのです。

 Ⅰ.父の約束を待ちなさい

 まず第一のことは、父の約束を待ちなさいということについて見てみましょう。1節と2節を見てください。

 「テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべての
 ことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天
 に上げられた日のことにまで及びました。」

この使徒の働きは、「テオピロよ」という書き出しで始まっています。「テオピロ」というのは「神に愛された者」とか、「神の友」という意味ですが、その名のごとく、ローマの役人でありながらキリストの教えを求めてきた求道者の一人でした。そのテオピロに宛ててこの書が書かれたのです。書いたのは誰でしょうか。ここには「私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き」とあります。前にテオピロに書いた人といったらルカです。ルカの福音書1章1~4節のところを見るとわかりますが、ルカはイエス様がなされた行いや教えられたことについて、それまでも多くの人が記事にまとめていましたが、あくまでもそれらがユダヤ人に向けて書かれたものだったので、異邦人であったテオピロが理解するためにはもう少し順序よく説明する必要があると思って、ルカの福音書を書いたのです。一人の人のためにわざわざ書くのも大変だったかと思いますが、そんな彼の労苦が報われてこのテオピロはクリスチャンになりました。そのルカがテオピロに宛ててもう一冊の本を書いて贈呈したのです。それがこの使徒の働きです。つまりこの使徒の働きはルカの福音書の続編である
わけです。いったいルカはなぜ前の書の続編であるこの使徒の働きを書いたのでしょうか。二つの理由があったと思います。

 一つのことは、ここに「イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました」とありますが、じゃ、その後どうなったのか、その後のことについてルカは伝えたかったのです。すなわち、イエス様のみわざはそれで完結したのではなく、なおも継続していることを示したかったということです。ルカが書いた前の書は、イエス様の行いと教えの「始まり」にすぎず、それはこの後もさらに継続し発展しているのです。そのことを伝えたかったのです。

 第二の理由は、そのようにイエス様によって行い始め、教え始められた福音の進展にあたって、その基礎となっているのは何なのかということを、彼はもう一度ここで書き留めておきたかったのではないかということです。つまり、それはイエス・キリストの十字架と復活、そして昇天といった神がすでに成し遂げてくださったことであるということです。それが土台となってこの宣教が成されているという事実です。それは3節のところに、「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを使徒たちに示された。」と繰り返して記されてあることからもわかります。これは何のことかというと、十字架と復活のことです。ルカがこの書の書き出しのところでこのことに言及したのは、これがなかったら何も始まらないということを知っていたからです。ということはどういうことかと言いますと、私たちの宣教における最大の準備は、すでに神様の方でしてくださったということです。私たちは、ただそれを伝えて行くだけにすぎないのです。

 では、私たちは何もしなくてもいいのでしょうか。そうではありません。物事にはいつも二面性があります。たとえば、私たちの救いについて考えてもわかりますが、私たちの救いは一方的な神様の恵みなのです。行いによるのではありません。ただ神様がイエス・キリストをこの世に送り、私たちの代わりに罪として十字架にかかって死んでくださることによって成し遂げてくださいました。しかし、それだけでは救われないのです。その神様の恵みに対して、信仰をもって応答する、すなわち、それを受け入れるということによって自分のものになるわけです。私たちにゆだねられた福音宣教も同じです。そのわざは神様がすでにイエス様によって成し遂げてくださいました。しかし、私たちはそのみわざに対して応答していくということが求められます。どのように応答していったらいいのでしょうか。4節と5節をご覧ください。

 「彼らはいっしょにいるとき、イエスは彼らにこう言われた。『エルサレム
 を離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプ
 テスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける
 からです。』」

イエス様はかつて、十字架にかかられる前の晩に弟子たちに次のように言われました。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。その方は真理の御霊です。」(ヨハネ14:6,7)この「もうひとりの助け主」こそ、このところで言われている「わたしから聞いた父の約束」のことです。昇天していなくなられるイエス様の代わりに、いつまでも私たちとともにいてくださる聖霊のことです。そして、彼が前の書で書いたことはイエスの行いと教えの「始まり」にすぎませんでしたが、そのようにして始められたみわざは、この「もうひとりの助け主」であられる聖霊に満たされた人によって成し遂げられていくです。そのためにはイエス様の昇天を待たなければなりませんでした。そして、聖霊が臨まれるのを待たなければならなかったのです。

 聖霊の臨むということについては、聖書全体を見ますと、これまでもなかったわけではありません。たとえば、復活されたイエス様は、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハネ20:22)。また、旧約聖書を見ても、聖霊が人に臨んだという記事がいくつか見られます。たとえば、士師記3章10節には、「主の霊が彼(オテニエル)の上にあった」とありますし、同じ士師記6章34節にも「主の霊がギデオンをおおった」とあります。ですから、これまでも聖霊が人々に臨むということはあったのです。にもかかわらず、イエス様がここで「父の約束を待ちなさい」と言われたのは、そうした特殊な人物に対する特殊なケースとして一時的にもたらされるような聖霊の働きとは違った意味での聖霊の臨在のことでした。つまり、それは待ち望むすべての人に与えられるものであり、しかもそれは一時的なものではなく、ずっととどまり続け、働き続けてくださるところの神の力としての聖霊のことだったのです。そのような人が集められた群れが「教会」です。神様は、かつてイエス様によって行い始め、教え始められたみわざを、この聖霊に満たされた人々の集まりであり、キリストのからだである「教会」を通して成し遂げようとしておられたのです。

 その記録がこの「使徒の働き」です。ですから、ある人はこれは「使徒の働き」ではなく「聖霊の働き」なんだから、「聖霊行伝」にした方がいいのではないかという人もいます。キャンベル・モルガンという有名な註解者は、「これは、生けるキリストが、そのからだなる教会を通し、聖霊によって継続される行いと教えの書」と題すべきだと主張しましたが、それではちょっと長いのではないかと思います。やはり「聖霊の働き」というのがその内容に一番ピッタリくるのではないかと思います。

 タイトルや題はともかく、この神様のみわざが聖霊を受け、聖霊に満たされた人によって成し遂げられていくものであるとしたら、それを担っていこうとしている人たちに求められていることはどんなことなのでしょうか。そうです。この聖霊に満たされることを待ち望むことです。イエス様がここで命じられたように、「エルサレムも離れないで、わたしから聞いた父の約束を待」たなければならないのです。待つということは、ある時が来るまでじっとしていることです。それは楽なようですが、意外と大変なことです。私のように体育系の人間にとっては、待つことは苦手で、それよりは動き回っていた方がたやすいことがあります。たとえば、誰かと待ち合わせをしていて時間になっても来なかったりすると、私はイライラしてだめなのです。待つということは簡単なようですが、意外と難しいことなのです。それはこの時の弟子たちも同じだったでしょう。復活したイエス様に出会った彼らとしては、とてもじっとなどしていられなかったでしょう。できるだけ早く伝えたかったと思います。しかし、イエス様はそんなはやる気持ちを抑えながら、ご自身のみわざを継続していくための母体とも言える教会の誕生のために、待つようにと言われたのです。むしろ動いてはいけないのです。なぜなら、聖霊を受けずして働く人間の力は当てにならないし、また決して長続きはしないからです。

 たとえば、ペテロのことを考えてもそうでしょう。彼は、最後の晩餐の席で、「たとい、ご一緒に死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決してもうしません」と豪語したにもかかわらず、その舌の根が乾かないうちに、ものの見事にイエス様を裏切ってしまいました。鶏の鳴く声を耳にした彼は「出て行って、激しく泣いた」のです。それは彼にとっても心外なことであったでしょうし、自分が信じられなかったと思います。しかし、人間の力や勢いというものはそんなものなのです。そのような経験を通して彼は、人間的なものがいかに頼りないものであるかということを、いやというほど知らされました。だからこそ主は、そのような失敗を二度と繰り返さないために、そして宣教の使命を果たすためにも、エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい、と言われたのです。

 Ⅱ.聖霊があなたがたの上に臨まれるとき

 第二のことは、その理由です。なぜ聖霊を待たなければならなかったのでしょうか。それは今申し上げたとおり、この福音宣教のわざは人間によって成し遂げられるものではなく、聖霊によって成し遂げられていくものだからです。8節をご覧ください。

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けま
 す。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、および地の果てにまで、わた
 しの証人となります。」

 これが聖霊によって成し遂げられていくものだから、父が約束してくだった聖霊を待ちなさいというと、弟子たちはイエス様にこう尋ねました。6節です。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」どういうことでしょう。彼らは、イエス様が言ってることを正しく理解することができませんでした。イエス様がこの地上に神の国を再興してくれるものと思ったのです。というのは、当時、彼らはローマ帝国に支配されていましたから、彼らが考えていたメシヤというのは、その支配から解放し、メシヤを中心とする新しい国を樹立してくださる方だと思っていたからです。そんな彼らに対してイエス様は、彼らが考えていることの是非を論じたりしないで、彼らが進むべき新しい方向を示されたのです。それが、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、および地の果てにまで、わたしの証人となります」ということでした。

 イエス様はここで弟子たちに、「あなたがたは、わたしの証人となります」と言われました。皆さん、「証人」とは何でしょうか。証人とは事実を証言する人のことです。この事実ほど説得力のあるものはありません。たとえば、この後4章のところで、ペテロとヨハネが「美しの門」と呼ばれるところで生まれつきの足なえをいやしたことでユダヤ教の指導者たちから尋問を受けている様子が記されてありますが、ペテロは、大胆にも民の長老たちに「この人が直って、あなたがたの目の前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせてくださったナザレ人イエス・キリストの御名によるのです」(4:10)と言いました。無学な、普通の人であったペテロとヨハネがこんなにも大胆になれたのはどうしてでしょうか。それは彼らが、イエス・キリストの十字架と復活の目撃者だったからです。それを体験した証人だったのです。しかし、彼らはただの目撃者、体験者ではありませんでした。彼らは聖霊に満たされた証人でした。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。この「力」という言葉は、ダイナマイトの語源になった「デュナミス」という言葉です。周りにあるものを粉々に破壊するほどの力です。かつてイエス様の弟子たちは、イエス様が十字架につけられた後、いつ当局者たちに捕まるかと脅えてはびくびく震えていましたが、この後に登場する彼らはそうではありませんでした。本当に大胆でした。なぜですか?聖霊が彼らの上に臨んだからです。あのペンテコステにおいて聖霊が臨んだので、力を受けたのです。もともとは無学で、普通の人であった彼らが、神の器に変えられたのです。

 クライスト・フォー・オール・ネーションズの創設者で、代表のライハルト・ボンケは、アフリカの宣教師として仕えた方ですが、かつてはいつもブルブル震えていたような少年だったそうです。5人兄弟の5番目として生まれてきた彼は、学校の成績も最低でした。そんな彼が10歳の時にイエス様に出会い、11歳の時に、突然聖霊から「あなたは、いつかアフリカで福音を語るようになる」と語られたので、それを伝道者であった父親に報告したところ、父親は何と言ったと思いますか。父親は「それはマーチンだ。マーチンは頭もよく成績もいいから、彼が私の後継者だ」と言いました。ところが、その兄のマーチンは今でも救われていないのです。神様が引き出されたのは、この出来の悪いボンケでした。彼は全く何もできない少年でしたが、イエス様が呼んでくださったとき、自分から前に来ました。そして「あなたはわたしの証人である」と言われたのです。彼の価値がゼロであっても、神様は彼に聖霊を注がれて価値あるものとし、尊い器として用いられたのです。
 そんな彼が神学校を卒業して遣わされたのが、アフリカのレソトという人口100万人ほどの小さな国でした。彼はそこで説教し、説教し、説教するのですが全然救われないのです。これでは5千年かかってもアフリカ中に福音を語ることはできないと失望していたとき、一つの夢を見ました。そこにはアフリカ大陸があり、その全土がイエス様の血によって洗われているのです。そして「アフリカが救われる」という声を聞くのです。すばらしい夢でしたが、現実を考えたら、それは不可能なことでした。しかし、あわれみ深い神様は、同じ夢を3日も見せてくださいました。それで彼はその国を出て、クルセードを始めました。
 彼は今まで一度もスタジアムで説教したことがなかったのに、大きなスタジアムを借りました。もう膝ががくがくしていました。しかし、100人くらいしか集まりませんでした。ところが、最初に来られた100人の方に聖霊が下りました。足が動かなかった人が動くようになり、目の見えない人が見えるようになったのです。そのため次の日からスタジアムが満員になりました。そして、彼は生まれて始めて体験したのです。何千人もの人たちが、救いを求めて、泣きながら前に走ってくるのを。また、神様が同時に、何千、何万という人々に聖霊を注がれるのを見たのです。
 神様は、終わりの日にすべての人にわたしの霊を注ぐと言われました。これが神様の処方箋です。それは、彼が特別な器だからではないのです。彼が聖霊に満たされたので変えられたのです。力ある神の器に変えられたのです。

 ところで、聖霊が臨むことによって与えられる力とは、どのような力なのでしょうか。それは言うまでもなく、キリストの証人となるための力です。パウロは「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Iコリント12:10)と言っています。「イエスは主です」と証させてくださるのが聖霊なのです。また、イエス様は「御霊はわたしの栄光を現します」(ヨハネ14:6)と言われました。聖霊による証は主の栄光のみを現すのです。ですから、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を説き明かす力などといった御霊の賜物が与えられているとしても、それはその人自身の力を誇示するためのものではなく、あくまでも主の栄光を現し、イエス様の証人としての任務を全うするものでなければならないのです。して、聖霊は必ずそれを成し遂げてくださいます。福音宣教の原動力は聖霊様ご自身だからです。私ちに必要なのは、この聖霊の力を受けることです。聖霊が私たちの上に臨まれるとき、私たちは力を受け、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、および地の果てまだキリストの証人となることができるのです。

 Ⅲ.祈りに専念していた

 ではどのようにして聖霊を待ち望んだらいいのでしょうか。最後に、それは祈りによってであるということをお話して終わりたいと思います。12-14節までをご覧下さい。

 「そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエル
 サレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入
 ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤ
 コブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤ
 コブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たち
 やイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、
 祈りに専念していた。」

イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」と言われると、彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられました。すると、白い衣を着た人がふたり彼らのそばに立って、このイエス様は、いまあなたがたが見たときと同じ有様で戻ってくると言いました。このことは、これから世界宣教に遣わされていく彼らにとってどれほど大きな励ましであったことでしょう。宣教には激しい戦いや困難が予測されるからです。その戦いに出で立つ時を目前にして、このイエスが再び帰って来られるという約束は、彼らにとっては希望となり、その働きの原動力になったに違いありません。

 そこで彼らはどうしたかというと、オリーブ山からエルサレムに戻り、泊まっていた屋上の間に上がりました。この屋上の間がどこであったのかはわかりませんが、原語にはこれに定冠詞がついていることから、おそらく、イエス様が弟子たちと最後の食事をされた所で、それ以来そこによく集まっていたのではないかと考えられています。それよりもおもしろいと思うことは、そこに集まっていた人たちです。そこにはユダを除いた11人の弟子たちの他に、ガリラヤからずっとつき従ってきた女たち、そしてイエス様の母マリヤもいました。そして注目すべきことは、イエス様の兄弟たちもいたことです。彼らは、イエス様が生きておられた時にはイエス様を主と信じてはいませんでした。父親は別として本当の兄弟なのに・・・。単なる兄貴くらいにしか考えていなかったのです。しかし今ではその弟たちも、イエス様を信じてここに集まっている。その中のヤコブなどは、後に手紙の中で自分のことを、主イエスの弟とは呼ばず、わざわざ「主イエス・キリストのしもべヤコブ」と呼んでいます。よっぽど自分たちの罪深さを自覚していたのでしょう。ルカはそうしたことをここに書いているというのは、あのイエス様の弟たちもイエス様を信じる者に変えられていたという事実をここに伝えたかったのでしょう。

 ところで、こうした人々は、いったい何のためにこの屋上の間に集まっていたのでしょうか。14節をみると、「この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあります。祈るために集まっていたのです。彼らは、そこで、今後の自分たちの身の振り方について協議したり、これからどうするかということについて話し合うために集まっていたのではありません。祈るために集まっていたのです。みな心を合わせて、祈りに専念していたのです。

 まず、それは信仰の祈りでした。11節を見ると、彼らは「ガリラヤの人たち」であったことがわかります。しかし、12節を見ると、彼らが帰ったのはガリラヤではありませんでした。エルサレムでした。本来なら、帰ると言ったらガリラヤへ帰るのが本当なはずです。なのに彼らが帰ったのはガリラヤではなくエルサレムでした。なぜでしょうか。なぜなら、主イエス様から「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われていたからです。彼らはその命令に従って、自分たちが帰るところはガリラヤではなく、エルサレムであることをわきまえていたのです。
 そこで彼らは、主が命じられたとおりに、父が約束を待ちました。待つということがどういうことなのかをも、彼らはちゃんと知っていました。「果報は寝て待て」ということわざがありますが、それ式にただ寝て待っていたのではありません。祈って待ち望んでいたのです。その祈りとは、もう間もなく、約束の聖霊が与えられるということを信じて待つ祈りでした。

 それから彼らの祈りは、一致した祈りでした。ここに「心を合わせ」とあります。心を合わせとは、みな同じ思い、同じ気持ちになることです。このことばは新約聖書では全部で11回遣われていますが、そのうちローマ15:6を除くと、ほかのすべてはこの使徒の働きにおいてしか使われていない言葉です。初代教会がどれほど心を合わせて祈っていたかがわかります。そして、このような祈りの後には、きまって教会が大きく発展しているのがわかります。

 そして彼らの祈りは真剣な祈りでした。ここには「祈りに専念していた」とあります。これは直訳すると、「祈りに打ち込んでいた」とか、「祈りに忙しかった」という意味です。祈りに忙しいなんて、何とすばらしいことでしょう。現代は忙しい時代です。牧師も信徒もみんな忙しく走り回っています。祈る暇がないほど忙しいのです。しかし、よく考えてみると、私たちがどんなに忙しく走り回ったとしても、だからといって多くの実を結ぶのかというとそうではないのです。本当に重要なことは、祈ることに打ち込む、祈りに専念することなのです。なぜ彼らはそれほどに祈りに専念することができたのでしょうか。それは、祈りこそ突破口を開く鍵であると信じていたからです。しかし、そのためにはかなりの忍耐も強いられました。「もう間もなく」とは言うものの、四、五日経っても何事も起こらない。一週間経っても別段代わったことがなければ、途中で止めてしまいたくもなったでしょう。しかし、それでも彼らは祈りに打ち込み、祈りに専念しました。そして祈り始めて十日後に、ついに約束の実現を見たのです。彼らが集まっていたところに、突然、激しい風が響きわたるかのように、聖霊が降られたのです。

 皆さん、聖霊が私たちの上に臨むとき、私たちは力を受け、キリストの証人としての使命を果たしていくことができます。いったいどのように私たちはこの聖霊を待ち望んだらいいのでしょうか。祈りによってです。心を合わせ、真剣に、また、信仰をもって祈るとき、神様がその祈りに答えてくださいます。これが教会の真の姿です。教会はみんながいいと思うことを、みんなの総意で行っていく団体ではありません。そうではなく、祈りによって神のみこころが何であるのかを知り、それを行っていく群れなのです。教会がどのように進み、今何が必要で、何をしなければならないのかを知るためには、祈らなければなりません。祈りが欠けた教会は、教会という名前は持っていたとしても、それは教会ではなく、単なるサークルにすぎなくなってしまいます。教会は、本来、神様のものであり、その神様のみこころを行っていくために、常に心を合わせて、祈ることが求められているのです。そのとき主は聖霊で満たしてくだり、キリストの証人としての務めを果たしていく力を与えてくださるのです。

 これから始まっていくこの那須のぞみ教会に神様が期待しておられることは、このことではないでしょうか。自分たちにできることといったらそんなに多はありません。大きなこともできないでしょう。しかし、祈ることはできるのです。

 デイビット・ジェレマイアーの書いた「生命力のあるクリスチャンの歩み」という本の中にこんな話があります。
 1829年2月26日、ブッテンハイムのバイエルンという小さな村に、レープ・シュトラウス(Loeb Strauss)という男の子が生まれました。青年になったレープは、リーヴァイ・ストラウスという名前に改名し、カリフォルニアに渡り、サンフランシスコで紡績会社を営みました。
 そんなある日、彼のもとに金を掘る仕事をしていた労働者がやって来て、自分のはいているズボンを見せながら「ちょっとこれ見てくれよ」と言いました。6か月前にこの店で買ったんだけど、今は穴だらけでまともな部分がないというのです。「ちょっと見せて」とよく見てみると本当にズボンは穴だらけでした。「どうしてこんなふうになったのかな」と尋ねると、その労働者はこう答えました「俺たちは一日中膝をついて座って仕事をしているからね。」するとリーバァイは、「じゃもっと丈夫な素材で作ってみたらどうだろう」と、テントで使うキャンバ地を切ってきて、それで即席でズボンを一つ作りました。それがリーバイス・ジーンズの始まりです。しばらくして西部全域の鉱夫たちは、みんなリーバイスジーンズをはくようになりました。
 このことからジェレマイアーは、今日のクリスチャンたちも当時の鉱夫たちのように、すり減ったジーンズをはくべきではないかと言いました。膝がすり減るほどに祈ることが必要だというのです。なぜなら、神の国の働きは、膝をついてする働きがほとんどだからです。

 ヘルマン・ホイベルズの「人生の秋に」という本の中に「最上のわざ」という題の詩がありますが、彼はその詩の中でこんなことを言っています。この世における最上のわざとは何か。それは祈ることではないか・・・と。年を老い、何もできないと思えるような人生の最期に、神様はいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだというのです。愛するすべての人のために、神の恵みを求めて祈ることができる。それこそ私たちの人生における最上のわざではないかと。
なぜなら、神はその祈りに答えてすばらしいことをしてくださるからです。

 私たちはこのことを神様からのおことばであると受けとめ、きょうから始まった那須での新しい働きのために心を合わせ、志を一つにして祈るものでありと思います。そして聖霊に満たされながら、キリストの証人としての使命を全うしていきたいと思います。