使徒の働き1章15~26節 「ヨセフか、それともマッテヤか」

 きょうは、「ヨセフか、それともマッテヤか」というタイトルでお話したいと思います。23節を見ますと、「そこで彼らは、バルサバと呼ばれる別名をユストというヨセフと、マッテヤとのふたりを立てた」とあります。イスカリオテのユダに代わる新しい使徒としてだれが、どのようにして選ばれていったのかということです。イエス様が昇天し、聖霊が降臨するまでの十日間の間に、教会がしなければならない第一のことは祈りに専念することでした。父が約束してくだった聖霊を待ち望むために、彼らは心を合わせて祈ったのです。しかし、それだけではありませんでした。ここにはその間に彼らはもう一つのことをしたことが記録されています。それが使徒を補充するということでした。

 このルカの福音書では6:12からのところで、イエス様は12人の使徒たちを選ばれたことが書かれてあります。「使徒」とはギリシャ語で「アポストロス」い言いますが、意味は「遣わされる者」とか、「使節」、「大使」という意味があります。エペソ2:20をみると、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスがその礎石です。」とあります。イエス様はこの12人の使徒たちによって新しいイスラエルであるご自身の教会を建て上げようとされました。ですから、これらの使徒たちが選ばれるということは極めて重要なことでした。そのためにイエス様は夜を徹して祈られたほどです。そのようにして選ばれた12人の使徒たちのうち、イスカリオテのユダが脱落してしまった。なぜなのかわかりません。イエス様の選択が間違っていたからではありません。ただ言えることは、それが神様のみこころであったということです。ユダが裏切ったことによってイエス様が十字架につけられ、全人類のための救いの道が開かれていったのですから。しかし、今申し上げたように、この12人の使徒たちは新しいイスラエルである教会の土台となる人たちです。ですから、これらの中から1一でもかけるようなことがあると大変なことになるのです。そこで、新しい使徒が選ばれる必要がありました。いったい彼らはどのようにして新しい使徒を選んでいったのでしょうか。

 きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一に、その理由です。なぜ新しい使徒が選ばれなければならなかったのでしょうか。第二のことは、その資格です。どのような人が使徒としてふさわしい人だったのでしょうか。第三に、その方法です。ではその人はどのようにして選ばれていったのかということについてです。

 Ⅰ.使徒補充の理由

まず第一に、なぜ新しい使徒が選ばれなければならなかったのかということについて見たいと思います。15~20節までをご覧ください。15節には、「そのころ、120名ほどの兄弟たちが集まっていた」とあります。この「そのころ」というのは、6:1や11:27にも出てくる言葉で、使徒の働きの中では大きな区切りを示す言葉になっています。ですから、この出来事は14節までの祈祷会のときの出来事とは別の出来事を記しているわけです。とは言っても、イエス様が天に昇って行かれ、もう間もなく約束の聖霊様が降られる間の10日間の出来事であったのは間違いありません。その間に教会は、大切なもう一つのことをしておかなければなりませんでした。それは、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダに代わる新しい使徒を選ぶということでした。ルカは、14節までの祈祷会とは別に、教会がわざわざ新しい使徒を選んで教会の組織を充実していこうとしていたことを記しています。いったいなぜ弟子たちはこんなことをしたのでしょうか。別に1人くらい欠けたっていいじゃすか。ユダがいなくなったとしても残りの11人で何とかなったのではないですか。なぜわざわざこんなことをする必要があったのでしょうか。それはペテロの次の言葉から明らかとなります。16節です。

 「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊が
 ダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかっ
 たのです。」

ここでペテロが言ってることは、あのユダがイエス様を裏切ったことは決して偶然のことではなく、聖霊がダビデの口を通してあらかじめ預言されていたことであって、それが成就したのだということです。その預言とは20節に書いてあ詩篇の言葉です。一つは詩篇69:25の「彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営にはだれも住む者がないようにしてください。」という言葉であり、もう一つは、詩篇109:8の「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り」という言葉です。この二つの言葉はともに、ダビデが身内の者に裏切られ敵をのろったことばでしたが、それが、ダビデの子であられるイエス・キリストの体験を預言的に歌っていたとペテロは考えたのです。事実、この二つの言葉は他の福音書にも引用されていて、イエス・キリストの受難の歌として初代教会では衆知のものでした。復活の主イエス様は、「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」(ルカ24:44)と言われましたが、その詩篇の中にこの二つのみことばもまた含まれていたわけです。それがこのような形で成就したのです。そして、特に詩篇109篇の方では「その職は、ほかの人に取らせよ」とありますから、ここにユダに代わる新しい使徒を立てる必要があったのです。
 つまり、初代教会がここでユダの代わりにわざわざ新しい使徒を立てたのは、ペテロの個人的な考えや意見ではなく、あるいは、教会の便宜的な都合からではなく、旧約聖書のみことばに照らし合わせて判断した結果から出たことだったのです。

 このことは現代の私たちにとっても重要なことではないでしょうか。大切なことは私たちがどう思うかではなく、聖書は何と言っているかです。そして、私たちのすべての行動と決定はこれを基準にして求めていくべきです。なぜなら、聖書は、いつまでも変わることのない神のことばだからです。いつの時代においても、私たちが取るべき基本的な態度は、この変わることがない聖書は何と言ってるかであり、そこに記されてあることは必ず実現すると信じて従っていくことなのです。

 Ⅱ.使徒の資格

では、いったいどのような人が使徒としてふさわしい人なのでしょうか。次に、使徒としてふさわしい人の条件、あるいは資格です。21,22節をご覧ください。

 「ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハ
 ネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天にあげられた日までの間、
 いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとと
 もにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

 ペテロは、ユダに代わる新しい使徒が選ばれるにあたり、ここで二つの条件をあげています。一つは、イエス様がこの地上で生活をしておられた時、いつも自分たちと一緒に行動をともにした人であるということ、そしてもう一つのことは、イエスの復活の目撃者であるということです。それは、使徒としての務めがどういうものであるかがわかれば当然のことだと言えるでしょう。ここには「イエスの復活の証人とならなければなりません」とあります。「証人」とは事実を証明する人のことです。そのためには、イエス様がこの地上におられた時からイエス様と行動をともにし、その教えとみわざというものにつぶさに触れながらイエス様と親しく交わり、その恵みを知っている人でなければなりませんでした。また、それはイエスの復活の証人ですから、イエス様の復活を目撃して、自分の体験として知っている人でなければなりませんでした。使徒としてふさわしい人とはそういう人でした。

 イエス様は、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤ、および地の果てまで、わたしの証人となります。」と言われました。私たちにはみな、キリストの証人としての使命が与えられています。いったいどうしたらその使命を果たしていくことができるのでしょうか。聖霊に満たされ、聖霊の力を受けることによってです。そのためには、日々、イエス様と共にいてイエス様と交わり、イエス様と共に歩まなければなりません。そして、イエス様が十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえることによって、その名を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちが与えられているということを確信しなければなりません。いわゆる、救いの確信です。私たちがイエス様によって救いを確信しているなら、聖霊に満たされ、大胆にキリストの証人となることができるのです。

 ここに出てきた二人の候補者をはじめ、イエス様によって先に選ばれた弟子たちのリストをみると、そのだれもが必ずしもこの世的にみて立派な人たちではありませんでした。彼らは無学の普通の人でした。しかし、ただ一つの点だけでは共通しいました。それは何でしょうか。4:13を見てください。

 「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な普通の人である
 のを知って驚いていたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということが
 わかって来た。」 

彼らがイエスとともにいたということです。彼らは無学で普通の人ででした。特別な身分や能力、賜物があったわけではなかったのです。そんな彼らが用いられていったのは、それはイエスとともにいたからだったのです。

 それは私たちも同じです。私たちも何の取り柄も力もない普通の人です。いや、普通以下かもしれない。しかし、私たちがどのような者であるかなんて全然関係ないのです。大切なのは、このちっぽけな私が誰といっしょにいるか、誰と歩んでいるかということです。イエスとともにいて、イエスと交わり、イエスの恵みにあずかっていたら、私たちは何も恐れる必要はありません。主が用いてくださる人とはそういう人たちなのです。

 Ⅲ.使徒補充の方法

 最後に、ではどのようにして使徒が選ばれていったかを見たいと思います。使徒になるべき条件にかなう人物としてあげられたのはバルサバと呼ばれる別名をユストというヨセフと、マッテヤのふたりだけでしたが、このふたりの中から最終的にどちらかを選ぶに当たり、彼らはいったい何をしたのでしょうか。彼らは、そこで協議をしたり、選挙をしたりはしませんでした。彼らがしたことは二つのことです。一つは祈ることであり、もう一つはくじです。24節をご覧ください。

 「そしてこう祈った。すべての人の心を知っておられる主よ。この務めと使
 徒職の地位を継がせるために、このふたりのうちにどちらをお選びになる
 か、お示しください。ユダは自分のところへ行くために脱落して行きました
 から。」

彼らはいつでも、ここ一番という時には祈りました。そうでなくても事あるごとに、主の導きと助けを求めて祈っているのです。なぜでしょうか。なぜなら、主はすべての人の心を知っておられ、最善に導いてくださる方であると信じていたからです。ですから、そのように祈ったのです。

私たちは多くの点で失敗をしてしまうものですが、その主な原因は三つあります。一つは道がわからないということ、もう一つは真理がわからないこと。そして三つ目がいのちがないことです。形はあっても中身がなかったり、姿はあってもいのちがないのです。祈らないからです。ただ形だけで進んでしまう。何とも無味乾燥な歩みをしてしまうのです。いったいどこに向かって、何ためにやっているかも考えないで、ただ走り続けているのです。ある人は、「道を見失っている時に限って猛烈なスピードで突き進んでしまうのが、人間の悲しい性分である」と言いました。

 第二次世界大戦中のことです。ひとりのパイロットが太平洋上空に飛び立ちました。彼が無線で連絡を入れると、管制官がこう尋ねました。「いったい君はどこを飛んでいるんだ?」。するとパイロットは答えました。「わかりません。けれども、最高速度の記録を塗り替えました!」。多くの人々がこれと同じようなことをしています。行き先がわからないまま、猛烈なスピードで人生を駆け抜けようとしているのです。しかし、神様はこのように言われます。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10)。私たちは、イエス様がそうであられたように、毎朝神様の前に静まることから一日を始め、事あるごとに立ち止まって祈り、神様のみこころを求めていくことが大切です。

 このように祈っていくと、どのようなことが起こるでしょうか。26節をご覧ください。「そしてふたりのためにくじを引くと、くじはマッテヤに当たったので、彼は11人の使徒たちに加えられた。」とあります。おもしろいですね。彼らは主のみこころを求めて祈ったかと思ったら、くじを引いて、どっちがふさわしいかを決めているのです。この重大な務めにふさわしい人を選ぶのをくじ引きで決めるなんて、今日的に見たらずいぶんずさんなやり方のように思われないこともありません。しかし、この時はこれしかなかったのです。というのは、イエス様が地上におられ、イエス様に直接聞くことができたなら、その言葉によって正しく判断することもできたでしょうし、また、イエス様の代わりに約束の聖霊が来られたならば、その聖霊の導きにより頼んで、選ぶということもできでしょう。けれども、この時はイエス様が昇天し、聖霊もまだ降っていなかった十日間の出来事でした。ですから、彼らがみこころを知る方法はただ一つ、旧約時代から行われていたくじ引きで決めるということしかなかったのです。箴言16章33節に「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」というみことばがありますが、彼らはその信仰によって、くじをひいたのです。しかし、キリスト教会でくじ引きが行われたという聖書の記録はここだけです。聖霊が降ってからはくじをひいて決める必要はなくなりました。神様が与えてくださった聖書を基準に、聖霊によって祈るとき、神様は確かな保証として深い平安を与えてくださり、何がみこころなのかを悟ることができるようになったからです。しかし、この時は特別の時でした。このような方法によっても主は答えてくださり、ご自身のみこころを示してくださったのです。

 なぜそれが神様のみこころであったと言えるのかというと、ここでだれが選ばれているのかをみるとわかります。選ばれたのはマッテヤでした。この結果をみると、中には「ちょっとマッテヤ」と思われる方もいるかもしれません。というのは、ヨセフと比べたらこのマッテヤの方はあまり人気がなかったように見えるからです。23節を見ると、ヨセフにはいろいろな肩書きが付いています。まず「バルサバ」です。彼には「バルサバ」というあだなが付いていました。「バルサバ」とは「安息の子」という意味です。彼はよほどきちょうめんに安息日の礼拝と律法の教えを守っていたのでしょう。あるいは「誓いの子」という意味もあるそうですが、それほどに義理堅い人物だったに違いありません。また、彼は別名を「ユスト」と言われていました。これは「正直者」とか「正義感の強い人」という意味です。それだけ人々からの人望も厚かったと言えるでしょう。ところが、すべての人の心を知っておられる主のくじは、マッテヤに落とされたのです。ヨセフにしても、マッテヤにしても、甲乙つけがたい人物だったに違いありません。いっそのこと二人とも使徒にして、使徒を13人にした方がよかったかもしれません。しかし、それは主のみこころではありませんでした。どちらか一方だけが使徒として選ばれるのにふさわしい人物だったのです。そして間的に見たらヨセフのほうがはるかにそれにふさわしい人物であるかのように見えたでしょうが、神様のみこころはマッテヤだったのです。最初のうちはどうしてマッテヤなのかと思った人も多かったでしょう。しかし、次第に「ああ、やっぱりマッテヤだったんだ」という確信がもたらされていったことでしょう。このように、すべての人の心を知っておられる主の前に祈るとき、主は、最善に導いてくださるのです。私たちの教会も別に役員を選ぶという時だけでなく、事あるごとに「すべての人の心を知っておられる主」の前に祈ることが大切です。そのとき主は、私たちの思いをはるかに超えて、みこころにかなった道を示してくださるのです。

 ある人は、ここでマッテヤが選ばれたのは誤りであったという人がいます。その後彼のことが聖書には全く出てこないからです。確かにマッテヤの名前はその後全然出て来ませんが、出てこないからといってそれが誤りであったということにはなりません。というのは、マッテヤだけでなく、他の使徒たちについてもほとんど出て来ていないからです。だいたいルカは、はじめから12使徒すべての働きをここに記そうしたのではなく、使徒1:8のみことばに従って福音がどのように全世界に広がって行ったのかを中心に書き記そうとしていたのです。ですから、どうしてもペテロやパウロにスポットが当てられる形で描いているのです。だからといってマッテヤが何もしなかったとか、彼が選ばれたのは誤りであった考えることは、正しいことではありません。マッテヤは主のみこころによって選ばれ、使徒として立てられ、その働きを十分にしていったはずです。何よりも、彼がすべての人の心を知っておられる主のみ前に、選ばれていったということが何よりも大きなしるしではないでしょうか。

 要するに、誰がどのように選ばれるのかとか、何をどのようにしていくのかということよりも、その心がどこにあるのかが問われていたのです。すなわち、すべての人の心を知っておられる主の前に、私たちの心がどうなのかということです。もし、私たちの心が神様の前にひざまずき、神様のみこころを求めて祈っていくのなら、神様は私たちが進むべき正しい道を示してくださるのです。神様はかつてイスラエルを荒野で導かれたときに昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれましたが、現代において神様は約束のみことばである聖書と聖霊を通して導いておられるのです。私たちはそのような尊い神様の導きを確信するために祈らなければなりません。そのとき神様は私たちの心に深い平安を与えてくださるでしょう。それが神様の導かれる方法なのです。私たちは神様が示してくださった方法によってみこころを求め、それに従いながら、一歩一歩前進していきたいと思います。