きょうは「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」というタイトルでお話をしたいと思います。14節をみると「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。」とあります。「そこで」というのは、ペンテコステといってユダヤ教の三大祭りの一つである七週の祭りの日に、聖霊に満たされた弟子たちが、外国のことばで神様の力あるみわざについて語り出すと、それを聞いていた人たちが驚き「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのではないか」と言ってあざけっていたので、ということです。そこでペテロは十二人の弟子たちを代表して、それがどういうことなのかを説明しました。このペテロの説明は、14節から36節まで続きます。まず14~21節までのところには、彼らをあざけった人たちに対してそれがどういうことなのかということの説明が、この説教全体の序論として語られ、それから22~35節までのところで、どうしてこのようなことが起こったのかということが本論として展開されていき、最後の36節のところでその結論が語られているという構成になっています。
きょうはさきほど読んでいただいたこの箇所から、「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」ということについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、主の御名を呼ぶようになるためにそこに妨げがあるとしたら、それを取り除いていこうという配慮が求められるということです。第二のことは、主の御名を呼び求めるためには、それがどういうことなのかが正しく説明されなければなりません。そして第三のことは、その結論です。すなわち、主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるということです。
Ⅰ.この人たちは酔っているのではありません
まず第一に、主の御名を呼ぶ者になるためには、それなりの配慮が求められるということについて見たいと思います。聖霊に満たされて神の力あるみわざについて語った弟子たちに対して、「いったいこれはどういうことか」と驚き惑ったり、「彼らは甘い酒に酔っているのだ」とあざける人たちに対して、弟子たちはそれを黙って聞いていたわけではありませんでした。ペテロは他の十一人の弟子とともに立って、それがどういうことなのかを、はっきりと説明したのです。もちろん、売られたけんかは買わなきゃならないといって、けんかを受けて買ったというわけではありません。彼らの戸惑いに対して、正しく答えようという弁証が試みられたということです。これは、キリスト教に対するある種の誤解や先入観を持っている人々が、正しい信仰に入るためには配慮が求められるということです。今起こっていることがどういうことなのかがわからないために、キリスト教に対していろいろな誤解と偏見を持っている人が少なくありません。そういう人たちがキリスト教信仰を持つために、そうした誤解や偏見を取り除いていこうとすることは大切なことです。ペテロは、今目の前で起こっていることがどういうことなのかがわからなくて戸惑ったり、誤解している人たちが正しい理解を持つために、声を張り上げて、このように言いました。14,15節です。
「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知
っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してくださ
い。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔
っているのではありません。」
ペテロは、人々が「彼らが酒に酔っているのだ」とあざけっていたのに対して、そうではない、今は朝の九時だから、あなたがたが思っているようにこの人たちは酒に酔っているのではないと言いました。朝の九時だと、どうして酒に酔っているのではないと言えるのでしょうか。日本で一番の飲兵衛はおそらく「小原庄助さん」でしょう。この人については実在した人物なのかどうかもわかりませんが、この人についてこんな歌があります。「小原庄助さん、なんで身上つぶした?朝寝朝酒朝湯が大好きで、それで身上つぶしたあ、あ~もっともだ、もっともだ」これは民謡「会津磐梯山」に出てくる歌詞ですが、この歌詞によると小原庄助さんは朝から避けを飲むのが好きで、それで身上をつぶしたようです。ですから、彼のように朝から酒を飲むのが好きな人もいるのです。なのにペテロは、今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではないと言っているのはどうしてなのでしょうか。それはユダヤ人の祈りの時間と関係がありました。ユダヤ人は一日に三度祈ることになっていましたが、そのうちの一度はこの祈りの時間でした。祈ってからでないと食事を取らないというのが習慣になっていたユダヤ人たちが、朝食前から酒を飲んでいるということなどあり得ないというわけです。ですから、あの人たちは酒に酔っているのだと批判する人たちに対しては、そうではない「今は朝の九時ですから」と指摘するだけで十分だったのです。
何気ないことのようですが、人々が信仰に入るためにはこのようなちょっとした配慮が必要ではないでしょうか。人は多かれ少なかれ、キリスト教に対して誤解や偏見、あるいはある種の先入観といったものを持っています。そういう人たちに対して「今は朝の九時ですから」とさりげなくもはっきりと、大胆に語ることによって、それを取り除いていこうとする努力が求められるのです。人々とイエス様について話していると、聖書ついて全く知らないという人が少なくありません。あるテレビで「あなたはイエス・キリストを知っていますか」というインタビューに対して、ほとんどの人が知らないとか、聞いたことがないと答えているのです。そうした異教の国で福音を伝えていこうとする時には、こうした理解できるような配慮が求められるのです。
先日、ケイリーンのお父さんが来られてお話していたら、ある文章を手渡され、「これは日本人にとってどうか」と尋ねられました。そこにはなぜイエス・キリストなのかということがわかりやすく説明されていました。しかし、聖書のバックボーンが全くない日本人にはなかなかわかりにくいものでした。良かったのは何かというと、字が大きかったということと、意外と短いものであったということでした。そこで日本で出版されている星野富広さんのトラクトを紹介して、全く聖書のことがわからない日本人にはこういう馴染みやすいものから入った方がいいと思うとアドバイスをしました。それから少しずつなぜイエス様なのかといった説明に入った方がいい・・・・と。それは決して福音を曲げることではないのです。むしろ人々が福音をもっと理解できるように、提示してあげることなのです。それにしても、そうしたトラクトをいつも持ち歩きながら、機械があったら福音を伝えたいという姿に感動しました。
ペテロは信仰の妨げになるかもしれない現象に対して「今は朝の九時ですから、この人たちは酒に酔っているのではありません」と言ってから説明を試みましたが、そうした配慮というのは私たちにも求められているのではないでしょうか。
Ⅱ.終わりの日に
では、もしこの人たちが酒に酔っているのではないとしたら、いったいこれはどういうことなのでしょうか。ペテロは次のところで、その説明を試みようとしています。16~21節です。 ここでペテロは、今起こっている現象が、旧約聖書のヨエル書に記されてある預言の成就だと説明しました。「ヨエル」というんだから、やっぱり酔ってるんじゃないかという人もいますが、そうではありません。これは旧約の預言者が預言したことの成就であるということです。その預言とは、17節からのところに記されてある内容です。
「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、
あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、
わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預
言する。」
これは、旧約聖書ヨエル書2:28~32までの引用です。ヨエルは、紀元前800年頃にエルサレムで活躍した預言者ですが、この時代にパレスチナを襲ってあらゆるものを破壊してしまったいなごの災害を見て、これはどういうことなのかを預言しました。そしてそれは、イスラエルが真の神を捨て、偶像礼拝に走った罪のゆえであるということ、それゆえに神様は、イスラエルをさばかれたのだということでした。しかし、そのいなごの災害は、そればかりではなく、遠い将来に起こるであろう出来事をも象徴していたのでした。それがこの「終わりの日」に起こることでした。終わりの日に、すべての人に聖霊が注がれるということです。この「終わりの日」とは、イエス・キリストがこの世に来られてから、再びこの世に来られるまでの時代を指します。それは旧約時代とは違った時代に突入したことを示すものです。旧約時代には、特定の神の人にだけが聖霊に満たされましたが、この「終わりの時代」には「すべての人」に注がれます。ここに「息子」、「娘」、「青年」「老人」とあるように、老若男女(ろうにゃくなんにょ)の区別なく、すべての人にです。また、「わたしのしもべ」「はしため」にもとあるように、身分や国籍のいかんを問わずすべての人にです。すべての人に聖霊が注がれる。それが旧約時代と違う点です。ヨエルはそういう時代がやって来ると言ったのです。それがこの時でした。この出来事だったのです。この時からこれまでとは違った新しい時代が始まりました。すべての人に神の霊、聖霊が注がれたのです。
さて、そのように聖霊が注がれるとどのようなことが起こるのでしょうか。ここには「すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」とあります。聖霊が注がれると、青年は幻を見、老人は夢を見るのです。老人は夢を見るなんて、素敵じゃないですか。夢見る老人・・・・・。そんなご老人になりたいです。ところで、この青年は幻を見、老人は夢を見るとはどういうことなのでしょうか。旧約時代にはよくそのようなことがありました。たとえば、ヨセフは夢見る青年でした。彼は17歳の時に一つの夢を見ました。それは彼が畑で束をたばねていると、彼の束が立ち上がり、兄弟たちの束が回りに来て、おじぎをしているというものでした。また、太陽と月と十一の星が彼を伏し拝んでいるというものでした。それは後に彼の両親と兄弟が彼を拝むようになるという夢でしたが、果たせるかな、それが実現する時がやってきます。彼がエジプトでパロに次ぐ第二の地位に着いた時、ききんでイスラエルからエジプトに下ってきた彼の家族が彼の元に来てひれ伏して拝むのです。それは彼が30歳になった時でした。彼が夢を見て13年後にそれが実現したのです。このように旧約時代にはよくこのような夢とか幻によって神のみこころが示されることがありました。
では、ここではそういう夢とか幻のことが言われているのでしょうか。確かに、夢とか幻とかといったこのような超自然的なしるしは、新約聖書が完成するまではありました。しかし、新約聖書が完成してからはそういう形でみこころが示されるということはなくなったのです。いや、あるかもしれません。しかしあったとしても、そのような夢や幻は聖書に記されてあることと必ず一致しなければ、それが本当に神からのむものであるとは言えないのです。なぜなら、聖書は神のみこころが示された啓示の書ですから、この聖書に書かれてあることと違うことが示されるというみとは絶対にないからです。ですから、神様のみこころを知りたいと思うなら、聖書を読まなければなりません。神様からの御声としての聖書からのメッセージを聞かなければならないのです。そうすれば、神様はご自身のみこころを示してくださるでしょう。この時代に夢や幻が示されたのは、まだ新約聖書ができあがっていなかった時代だからであって、新約聖書が完結すると同時にそうした夢や幻は必要がなくなったのです。では何が必要なのでしょうか。預言です。終わりの日に、聖霊が注がれると息子や娘は預言するとあります。また、18節の後半にも、「すると、彼らは預言する」とあります。この預言です。皆さん、「預言」とは何でしょうか。この漢字をよく見ていただきたいのです。これは言葉を預かると書きます。先のことを予見する予言とは違います。予言は先のことを語ることですが、預言とはそれも含めて神の言葉を神の言葉として預かることです。いわゆる聖書の言葉を神の言葉としてしっかりと受け止められるようになるということです。そのようにしてみことばをみことばとして受け入れられるようになるとどういうことが起こってくるのでしょうか。「青年は幻を見、老人は夢を見る」ようになるのです。ですから、このところの「夢」とか「幻」というのは、今日のいわゆる「ヴィジョン」とか「理想像」、「将来の夢」といったものを意味していると言えるでしょう。もしそうだとしたら、そうした夢や幻といったものは排斥すべきではなく、むしろ大いに語られるべきです。 箴言29:18には「幻がなければ、民はみなほしいままにふるまう」とあります。幻がなければ、民は自分勝手にふるまってしまいます。幻がなかったら、民はみな滅びるのです。夢や幻があるからこそ、そこにどんな障害があっても乗り越えていくことができるのです。その夢や幻はどのようにしてもたらされるのでしょうか。預言が与えられることによってです。みことばがみことばとしてはっきりとわかる。みことばを神の言葉として受け止めることができるとき、そのような夢や幻が与えられるのです。そしてそのような預言は、聖霊に満たされることによってもたらされるのです。そのような夢や幻はむしろ大いに語られるべきなのです。
かつてマルチン・ルター・キングは「I Have a Dream」(私には夢がある)と言って公民権運動を展開しその実現に至りましたが、私にも夢があります。それはこの日本中のすべての町々、村々に教会があって、そこで福音が宣べ教えられ、何千、何万という人たちが救われることです。私には夢があります。日本中どこに行っても教会があって、すべての国々の人たちがともに集まり、王の王、主の主であられる神様を共に礼拝するようになることです。先日、テレビを見ていたらコンビニの店舗は全国で40,889店舗あるそうです。どこに行ってもコンビニがあります。あのコンビニのように、日本中どこに行っても教会があったらいいですよ。そして、何とそのコンビニの数をしのぐものがあるのです。何だと思いますか。仏教の寺院の数です。仏教の寺院は全国に何と7万7千もあるそうです。コンビニの数をはるかに上回る数です。ですから、私は、当初はコンビニの数だけ教会があったらいいと思っていましたが、今は違います。今は仏教の寺院よりも多くの教会が建つことを願っています。そしてそこで福音が語られ、多くの人々が救われていったらすばらしいではありませんか。
私はこの夢を1994年に「福島から七つの教会を生み出す」というヴィジョンとして与えられました。先日、教会開設祝賀会でTBCのジョエル牧師が、ヨハネの福音書12:24から「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」というみことばを紹介してくださいましたが、この麦とは、イエス様のことを指しています。イエス様が十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたので、それを信じる人たちに罪の赦しと永遠のいのちがもたらされました。しかし、その麦とは同時に家内のことではないかと思いました。日本の宣教のために一粒の麦のようになって死んでいく姿を見て、死ねば実を結ぶと言われた神様に、それがどのようなことなのかを求めて祈りました。すると神様は、使徒1:8のみことばを示してくださいました。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」
神様は、かつて家内が日本に来て、その死によって福島に教会が生まれたように、そこで救われた私たちが、今度は地の果てまで出て行って福音を伝え、教会を生み出すことを願っておられるのではないかと思いました。それは今から15年前の私が34歳の時でした。ですから、65歳になる2025年までに、少なくても七つの教会を生み出すいう目標を掲げたのです。そして、それが神様から出たことならば、神様は必ずそれを実現させてくださると信じました。
先日は那須でもその働きがスタートしました。今年は2009年ですから、あと16年の間に最低でもあと四つの教会が生まれていることでしょう。そして、やがて日本の至るところに教会が出来て、そこで福音が宣べ伝えられ、こぞって教会にやって来ては何千、何万という民が救いに導かれることでしょう。そして、多くの民が共に主を礼拝するようになるのです。これが私の夢です。
それは必ず実現するのです。なぜなら、みことばによって示されたことであり、神様のみこころだからです。聖霊が注がれるとき、彼らは預言するとあります。聖霊が注がれると神様のみことばが神様のみことばとしてわかるようになり、そうした夢と幻を見、その実現に向けて大きく動き出すようになるのです。
最近、若い人たちの間に、このような夢や幻がないと言われています。どこか小市民的で、マイホーム主義の旗のもとにこじんまりしているというのですが、クリスチャンまでもその域を出ないとした残念なことです。なぜなら、クリスチャンにはみことばが与えられているからです。聖霊が注がれ、聖霊に満たされるなら、息子や娘は預言するようになるのです。そして、青年は幻を見、老人は夢を見るようになります。そうした力が神様から与えられているのです。すばらしいことではないでしょうか。私たちは、この終わりの時代に神の言葉である聖書に生き、神の言葉を預かることによって燃やされていく。そういう者でありたいと思います。
Ⅲ.主の御名を呼ぶ者はみな救われる
すべての人に聖霊が注がれる終わりの時代が来ると、息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見るようになります。しかし、それだけではありません。19,20節を見ると、もう一つのことが起こると預言されてあります。それは天変地異です。
「また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。
それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、
太陽はやみとなり、月は血に変わる。」
これは特に、主のご再臨の時に起こる超自然的な出来事を指して言われていると思われます。それはすでにルカが福音書の21章の中で語ってきたことです。終わりのときには聖霊が注がれ、息子や娘は預言するだけでなく、そのような恐ろしいしるしが天でも地でも起こるのです。太陽はやみとなり、月は血に変わるのです。しかし、ヨエルはそれだけを語って終わりませんでした。ヨエルは、そのような混乱した中にあっても救われる道があることを示しました。それは何かというと、主の御名を呼ぶことです。21節をご覧ください。
「しかし、主の御名を呼ぶ者は、みな救われる。」
すなわち、天地万物がその根底から揺り動かされるような時があっても、主イエス・キリストを信じて神により頼む者には救いがあるということです。今の時代は、本当に何が起こるかわからない時代です。しかし、どんなことが起こっても、私たちは何も恐れる必要がありません。イエス様を主と告白して救われている私たちには、その恐ろしいさばきから逃れる恵みが与えられているからです。
ベン・パターソンという人が「The Grand Essentials」という本の中で、マサチューセッツ州沿岸に沈んだ潜水艦について次のようなことを語っています。その潜水艦が沈んだとき、海軍の将兵が全員、その中に閉じこめられてしまいました。彼らを救出するためにあらゆる手を尽くしましたが、すべて無駄に終わりました。そうした中、深海にいたダイバーの耳に、沈んだ潜水艦の壁をたたく音が聞こえてきました。そこでそのダイバーは潜水艦の上に自分の耳を当て、中から打たれるモールス信号を読み取りましが、中にいた将兵たちが伝えてきたのは「希望はありますか」ということでした。救われる希望がありますか。もちろんですとも。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。ここに希望があります。そして、この希望は失望に終わることはないのです。
聖書に、姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性がイエス様のもとにつれて来られたときのことが記されてあります。罪のために生きる希望を失い、石で打たれて滅びるしかなかったその女に、イエス様はこのように言われました。
「あなたを罪に定める人はいなかったのですか。わたしもあなたを罪に定めなさい。行きなさい。今からは決して積みを犯してはなりません。」(ヨハネ8:10,11)絶望の中にあった彼女は希望を持つことができました。
会堂管理者ヤイロの娘が亡くなったとき、その死の前に絶望していた彼らに対してイエス様は、こうも言われました。
「恐れないで、ただ信じていなさい。そうすれば、娘は直ります。」(ルカ8:50)
主イエスを信じる人は、みな救われるのです。ここに真の希望があります。そして、この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
荒れ狂う大洪水の中でも、箱舟に入ったノアとその家族は救われました。彼らはその大洪水のゆえにとても生き残れないと思ったかもしれません。しかし、それがどんなに激しい嵐でも、主のみことばにしたがって箱舟に入った者はみな救われたのです。やがて、一羽の鳩が箱舟から放たれると、むしり取ったばかりのオリーブの若枝がそのくちばしにありました。それで、ノアは水が地から引いていったのを知りました。私たちにはその希望の若枝があるのです。終わりの日に、太陽がやみとなり、月が地に変わるような時がやって来ても、主の名を呼ぶ者はだれでも救われるのです。これがペンテコステに起こった出来事でした。私たちは、この終わりの日に生きています。一寸先は闇のような何が起こるかわからない時代に生きているのです。しかし、時代がどんなに暗く、不安な日々を歩んでいても、このような確かな希望が与えられているのです。この神様の恵みに感謝して、主の御名を呼び求め、主に信頼して歩んでまいりたいと思います。