きょうは「イエスは主です」というタイトルでお話をしたいと思います。ペンテコステの日に聖霊に満たされた弟子たちが、突然、外国語で神様の力あるみわざについて語り始めますと、それを聞いていた人たちは、彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだとあざけりました。それに対してペテロは、彼らが外国語で話しているのは酔っぱらっているからではなく、旧約聖書に書かれてある預言者ヨエルの言葉が成就したからだと言いました。すなわち、終わりの日に、神の霊がすべての人に注がれると、青年は幻を見、老人は夢を見るということです。その終わりの時代が始まったのだ・・・・と。きょうのところには、それに続いてこの聖霊が注がれるとはどういうことなのかをイエス様との関係から語っています。いわゆるペテロの説教の本論にあたる部分です。彼はこのところで、イエスとはいったい誰なのかということを、これまでの主イエスの歩みから順を追って説明したのです。
イエスはだれなのかは、私たちの信仰の中心的なことであり、とても重要なことです。そして、イエスこそ主であるというのが私たちの信仰の確信なのです。いったいなぜそのように言えるのか。ペテロはその理由について三つの点から論じています。第一のことは、このイエスが神であるということは彼の生前の生き方によってあかしされており明らかであったにもかかわらず、彼らはこのイエスを十字架につけて殺してしまったからです。第二のことは、しかし、イエスは死人の中から復活されました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。そして第三のことは、復活されたイエスは天に昇られ、神の右の座に着かれました。なぜ?御父から聖霊を受けて、その聖霊をお注ぎになるためです。すなわち、このイエスこそ主であられるということです。そのイエスを彼らは十字架で殺してしまったのです。
Ⅰ.十字架につけられて殺されたイエス
まず第一に、このイエスは神であるということは、彼の生前の生き方を見ればわかります。22節と23節をご覧ください。
「イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエス
によって、あなたがたの間で力ある不思議なしるしを行われました。それら
のことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これ
は、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と
神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架に
つけて殺しました。」
イエスが神から遣わされたメシヤであることは、イエスがこの地上で生きておられた時になされた力あるわざや不思議なしるしを見ればわかります。イエスは中風をわずらっている人をいやしたり、12年も長血を煩っていた女の人をいされました。また、病気で死んでしまったヤイロの娘やマルタとマリやの弟らラザロも生き返らせました。また、男だけで五千人もの人たちの空腹を五つのパンと二匹の魚で満たされました。イエスのことばには権威があって、すべての悪霊も追い出すことができました。その口から発せられることばは実に恵みのことばで、みんな神様をあがめたほどです。イエスが神であるということは、彼の地上でのこのような力あるわざと不思議なしるしをみればわかります。しかもこれらのことは、彼らの間で行われたことであり、だれよりも彼ら自身がよく知っていたことでした。ところが、彼らはこのイエスをどうたかというと、不法者の手に渡し十字架につけられて殺してしまいました。彼らは、イエスの目を見張るような奇跡や力あるわざを見ても、そこに神のあかしを認めようとせず、むしろ、それを拒絶したのです。
しかし、それは決して偶然の出来事でも、神の番狂わせの出来事でもありませんでした。ここには、これらのことは神の定めた計画と神の予知とによるものだったと書いてあります。当時、イエスを十字架につけた人たちにとっては、してやったりと思えたに違いありません。人間はしばしば、自分が主導権を握ってすべてを思い通りに動かしているかのように思い込みがちですが、実はそうではありません。そうした人間の思い上がりを越えたところに、この世界を支配しておられる神がおられ、ご自分の永遠の目的と計画を着々と進めておられるのです。まさに十字架はその現れでありました。だれがこの十字架から救いのみわざがなされるなんて考えることができたでしょうか。十字架はローマの処刑方法の一つであり、人間の敗北の極みであるかのようなものですから、この十字架から神の救いのみわざが成し遂げられるなんて、だれも想像することができなかったでしょう。しかし、イエスが十字架につけられて殺されることは、永遠の昔から神が定めておられた計画だったのです。
これこそ「深いい!」でしょう。先日、横浜にある教会の牧師からこんなお話を聞きました。その教会はかつてダイヤモンドの研磨工場だったところを購入して教会にしていますが、門扉が古くてさびているのでどうしようかと思い、もし新しくしたらどのくらいかかるのか見積もったそうです。そしたら門扉を交換するだけで300万円もかかると言われたそうです。門扉で300万出すのはもったいないと祈っていたましたら、教会で登山を計画しておりまして、ある70歳の男性がそれに参加されました。ところが、登山の後というのは足の感覚が狂うのか、教会から車で帰ろうとしたとき誤ってアクセルを思い切り踏んでしまったのです。それで、その門扉にぶつかってしまったのです。しまった!と、今度はギヤをバッグに入れてアクセルを踏んだら、気が動転していたのもあったのでしょう。また思い切り踏んでしまったのです。それで後ろも別の門扉にぶつかってしまい、車は前と後ろがぴっちゃんこにつぶれてしまいました。車内を見たらエアバッグが出てたので、もう死んだのではないかとだれもが思いましたが、幸い左手の中指をちょっとけがした程度で助かったのです。そればかりではなく、その車にかけていた対物保険で、その門扉が全く新しいものに交換できてしまったのです。
そればかりでなく、その左手の中指のところは、その方は詩吟をやってるらしく、詩吟ではそれは奥様を愛していないという意味があるそうで、それで、悔い改めて奥さんをも愛するようになったというのです。
不思議ですね。神様は不思議なことをされます。天が地から遠く離れているように、私たちの思いと神様の思いも遠く離れています。そして神様は、私たちの思いをはるかに超えたすばらしいことをなさるのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知ってい
ます。」(ローマ8:28)
すばらしい約束ではないでしょうか。私たちの思いをはるかに超えたところですべてを支配しておられる神様が、すべてのことを働かせて益としてくだるように働いておられるのです。ですから大切なことは、私たちがどう思うかではなく、聖書に何と書かれてあるかです。私たちは聖書を見れば、イエスがどんなことをされたのかがわかります。それは神の証です。その証を受け入れ、そこにある神の真理を見い出し、それを素直に受け入れることです。そうすれば、イエスが神であることがわかるようになるのです。
Ⅱ.死から復活したイエス
第二のことは、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせたということです。なぜでしょうか。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。この方は死にも勝利することができる神だからです。人間はこの死の前に何の成すす術もありません。医学がどんなに進歩しても、この死を克服することはできません。ポップ界のスーパースターであったマイケル・ジャクソンの死も止めることはできませんでした。人類の医学がどんなに進歩しても、人は100%死ぬのです。しかし、この方はその死からよみがえられました。24節を見るとペテロは、「この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」と言っています。ここに神は人間の判断というものを逆転させたことがわかります。人間はイエスがあくまでも死刑に当たると判断して十字架につけて殺しましたが、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせることによって、この方が正しいお方であるとしてくださっただけでなく、この方こそメシヤであるとの太鼓判を押されたのです。ペテロはこのことを裏付けようと、旧約聖書の詩篇に出てくるダビデのことばを引用しました。25~28節です。
これは、詩篇16章8~11節の引用ですが、ここでダビデは「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」と言ってますが、これはいったいだれについて言ってたのでしょうか。イエスです。ダビデは主イエスについて預言してこう言ったのです。なぜなら、29~31節を見るとわかりますが、彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあるからです。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていて、それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのでした。つまり、これはメシヤ預言だったんですね。ダビデは紀元前1,000年頃のイスラエルの偉大な王様でしたが、同時に、預言者でもありましたから、やがて来るであろうメシヤが復活することを知っていてそう言ったのです。つまり、死んで復活する方こそ、メシヤであるということです。そして、そのとおりに神はこのイエスをよみがえらせました。彼らはみなそのことの証人です。死からよみがえられたイエスこそ旧約聖書で預言されていたメシヤであり、救い主、神ご自身なのです。
それにしてもペテロはすごいですね。キリストが誰なのかということについて旧約聖書から引用しながら力強く証言しています。以前の彼はそうではありませんでした。約3年間主イエスと一緒に生活していたのに、真の意味でイエスがどういう方なのかがわかりませんでした。イエスが十字架と復活について度々語られたのに、その意味を理解することができなかったのです。なのに今は違います。今は旧約聖書から自由にみことばを引用して力強く証ししています。いったいどうして彼はそんなに大胆にキリストを証しすることができたのでしょうか。聖霊を受け、聖霊に満たされたからです。
「しかし、その方、すなわち、真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての
真理に導き入れます。」(ヨハネ16:13)
彼らは、聖霊によって目が開かれていったのです。25節のところでペテロは、ダビデのことばを引用して、「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた」と言っていますが、それは同時に彼の信仰告白そのものでした。聖霊によって彼は、イエスを主であると確信し、いつも自分の目の前に主を置いて歩めるようになったのです。皆さんはいかがですか。いつも自分の前に主を見ているでしょうか。それとも、この世の様々なものを見ているでしょうか。聖霊だけが、私たちに主を鮮やかに見させてくださいます。ですから、聖霊を受け、聖霊に満たされ、聖霊と共に歩んでいきましょう。そのとき、主イエスの復活を信じることができるようになり、大胆にキリストの証人になることができるのです。
Ⅲ.昇天して神の右の座に着かれたイエス
第三のことは、今彼らが見聞きしている聖霊は、このイエスが御父から受けてお注ぎになられたということです。33節をご覧ください。
「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受け
て、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」
これは、このペテロの説教の結論であり、一番たいせつなところです。すなわち、今、起こっているペンテコステの出来事はどういうことなのかについて答えているのです。そしてそれは、死からよみがえり、天に昇られ、神の右に上げられたこのイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、お注ぎになられたということです。聖霊が注がれることについては先ほども見たように旧約の預言者によって預言されていたことであり、イエス自らがかねてから約束していたことでした(ヨハネの福音書14~16章)。また、使徒の働き1章4節のところに、「父の約束を待ちなさい」とあるように、それは父なる神の約束でもありました。しかし、そのことについていろいろなことが記されてあっても、ある一つのことが起こらなければ実現しませんでした。何でしょうか。主イエスの昇天です。聖霊は、イエスが昇天し、父なる神の右の座に着かれて、御父から聖霊を受けて、その聖霊を注いでくださることによって実現したのです。それがなかったら実現しなかったのです。
これまでも天に昇った人がいなかったわけではありません。たとえば、エノクやエリヤは、死を経験せずに天に挙げられました。(創世記5:24,Ⅱ列王記2:11)また、これまで死んでその霊魂が神のみもとに召されている信仰の先祖たちは無数にいます。なのになぜ約束の聖霊はそうした死人や聖人の取り次ぎでは降られなかったのでしょうか。なぜなら、それらの人々は、ずっと昔から神が約束しておられた救い主、メシヤではなかったからです。ただこの方が天に昇られ、神の右の座に着かれることによってのみ、実現することができたのです。というのは、この方は神であり、いにしえの昔から聖書の中で預言されていたメシヤだからです。
ですからペテロは34節と35節のところで、ダビデのことばを引用してこう言っているのです。「ダビデは天に上ったわけではありません・・・・」ダビデが言った「私の主」とは誰のことでしょうか。イエスのことです。なぜなら、ダビデは天に上ったわけではないからです。この「私の主」こそ、十日ほど前に人々の目の前で天に挙げられたイエスのことでした。イエスは神の右の座に着くために天に上げられたのです。それこそ彼がメシヤであることのもう一つの強力な証拠だというのです。
ですから、イエスこそ主であり、キリストなのです。イエスこそ神であり、救い主です。このイエスが天に上げられて、約束の聖霊をお注ぎになったのです。
ある歴史学の教授が何人かの大学生たちに「今年は1985年ですが、この数字は何を現していますか」と尋ねました。「人類の歴史を意味するHistoryとは、どういう意味ですか」と聞くと、誰も答える学生がいなかったそうです。
1985年という数字はイエス・キリストがお生まれになられてから1985年が経ったという意味ですね、B.C.はBefore Christ、主が来られる前という意味で、A.D.とはラテン語のAnno Domini、主が来られてからという意味です。
歴史を現すHistoryという言葉はもちろんギリシャ語のヒストリアから来ていますが、またこういうこともできるでしょう。His Story 彼、イエス・キリストの物語、つまり、一人の生涯を通してできあがった物語という意味です。
イエス・キリスト、このお方は歴史上で何をしたのでしょうか。彼はいったい誰であり、何をしたので、歴史は彼を中心としてA.D.とB.C.に分かれ、彼の一生の物語であるHistoryになったのでしょうか。
ペテロは、それは彼がこの地上で神としてのみわざをなし、神のご計画に従って十字架で死なれ、死なれただけでなく、三日目によみがえり、天に昇って行かれ、約束の聖霊をお祖ぞきになられたからであると言いました。イエス様は旧約聖書に書かれて通りに生きられました。この方こそ約束されていたメシヤ、救い主、キリスト、神であられたのです。ですから、この方を救い主として心に受け入れなければなりません。
なのに、彼らはどうしたでしょうか。彼らは主ともキリストともされたこの方を何と十字架につけて殺してしまったのです。しかし、それは彼らだけのことではありません。もし私たちがイエスを救い主として受け入れ、主として歩んでいなかったとしたら、たとえ直接的に手を下していないとしても、彼らと同じことをしていることになるのです。イエスを十字架につけていると同じです。イエスから救い主としての称号を奪っているのですから・・・。ではどうしたらいいのでしょうか。ペテロはこのように言いました。38節です。
「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・
キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖
霊を受けるでしょう。」
悔い改めるとは、これまでの自己中心的な生き方を止め神中心に生きることです。ダビデは「私はいつも、私の目の前に主を置いた」と行っておりますが、そのような生きることです。すなわち、信仰に生きるということです。
もう一つのことは、バプテスマを受けることです。バプテスマを受けるとは、イエスの死が自分のためであったことを知り、そのことを感謝し、今度はイエスを主として行きますということをこ形で表すことです。それはイエスが十字架で死なれたように自分に対して死に、また、イエスが死の中からよみがえったように、神に対して生きることの信仰の表明でもあります。
皆さんは罪を悔い改め、イエスをその罪からの救い主として信じ、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けておられますか。それは形だけで、まだ自分の我、自我に支配されているということはありませんか。ダビデが、「私はいつも、私の目の前に主を置いた」と告白したように、いつも自分の目の前に主を置いていますか。神に立ち返り、神の栄光があがめられることを求めていらっしゃいますか。悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるのです。
アメリカの南北戦争の時、有名な将軍で小説家でもあった、リュー・ウォレスは、キリスト教の神話を永遠になくそう本を書いて、人類をキリストの鎖から解放しようではないかと、もう一人の友人と堅く約束しました。
彼は中東、ヨーロッパ各地の図書館を回りながら、多くの資料を集め、深く研究し、イエス・キリストの物語や聖書の話が嘘であると証明する本を書きました。やっと、その本の第一章を書きましたが、第二章の第一ページを書き始めたところで、到底否定できない真実の前で、彼はひざまずきました。キリストの復活について調べれば調べるほど、それが真実であるということがわかったのです。彼は涙を流しながらイエス・キリストにこう叫びました。
「あなたはわが主、わが神です。」
彼はその事件の後、あの有名な歴史小説、イエス・キリストの物語、「ベン・ハー」を書いたのです。
私たちも自分に問うたらいいと思います。「イエス・キリスト、あなたはどなたですか」と。イエスこそ、ずっと昔から旧約聖書で約束されていたあの救い主、メシヤでした。それがペテロの証言だったのです。この証言に対して、あなたはどのように応答されますか。ベン・ハーのように、「イエス様、あなたはわが主、わが神です」と告白する人は幸いです。聖書はそのように証言しているのですから。