使徒の働き2章1~13節 「聖霊が臨まれるとき」

 きょうは「聖霊が臨まれるとき」というタイトルでお話します。イエス様から地の果てにまでわたしの証人となるという使命が与えられた弟子たちは、その使命を果たすためイエス様がお命じになられたように、父が約束してくださった聖霊を待ち望んで心を合わせて祈りに専念していました。そればかりではありません。先週見たように、彼らは外的に準備をすることも怠りませんでした。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダの代わりに新しい使徒を補充して組織を整えることも忘れませんでした。この二つのことは、彼らがキリストの証人としての使命を果たしていくために、彼らがどうしてもしておかなければならないことでした。こうして彼らは、上から与えられる聖霊の降臨を待ち望んでいたのです。

 そしてきょうのところには、その聖霊が降臨された出来事が記録されてあります。彼らの働きのためには、どうしてもこの聖霊を受けなければなりませんでした。その聖霊が下られたのです。この聖霊を受けてから、彼らの宣教の働きは目覚ましい進展を遂げて行きます。この出来事がなかったら、福音がこれだけ世界中に広がっていくことはなかったでしょう。それほどにこの聖霊降臨の出来事は重要な出来事だったのです。

 19世紀のアメリカの偉大な伝道者D・L・ムーディは、彼の働きを回想して、その働きのすべては聖霊の力強い力によるものであったと言っています。同じ説教、同じ方法でみことばを伝えたにもかかわらず、聖霊充満の体験をする前とその後とでは結果が明らかに違ったからです。以前は何人かの人々が関心を示すぐらいでしたが、聖霊に満たされるという体験をしてからは、人々が群れをなして集まるようになりました。何が違ったのでしょうか。ただ聖霊なる神が、ムーディーに臨まれたのです。聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力をうけます。ムーディーはその聖霊の力を受けたのです。

これこそ私たちが求めていかなければならないものです。きょうはこの聖霊が臨まれた出来事から三つのことをお話したいと思います。第一のことは、聖霊が臨まれた時です。聖霊はどんな時に臨まれたのでしょうか。第二のことは、その意味です。聖霊が臨まれるとはどういうことだったのでしょうか。そして第三のことは、その結果です。聖霊が臨まれたことによってどのような影響がもたらされていったのかについてです。

 Ⅰ.聖霊が臨まれたとき

 まず第一のことは、聖霊はどのようなときに臨まれたのかについて見たいと思います。1節をご覧ください。

 「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」

聖霊が降臨したのは五旬節の日のことでした。「五旬節」とはペンテコステとも呼ばれますが、五十日目の祭りという意味です。何から数えて五十日目かというと過ぎ越しの祭りからです。過ぎ越しの祭りから数えて七週目のことでしたので、この日は「七週の祭り」とも言われていました。そしてこの日は小麦の初穂をささげる感謝の日でもありました。1節を見ると、この五旬節の日に、みなが一つ所に集まっていたときに、聖霊がひとりひとりの上にとどまったとあります。いったいなぜこの五旬節の日に聖霊が下ったのでしょうか。二つの理由があったと思います。第一の理由は、この日に多くの人たちが集まっていたからです。七週の祭りは過越の祭りと仮庵の祭りと合わせてユダヤ教の三大祭りの一つでした。この日には、ユダヤ人の男子は、みなエルサレムの宮で礼拝をしなければなりませんでした。ですから、この日には当時のローマ世界の至るところから大勢の人たちが集まっていました。しかもそこに集まっていた人たちというのはそうしたユダヤ教の決まりをちゃんと守っていた人たちでしたからとても敬虔な人たちであったと言えます。そういう時に聖霊が下られたのです。

 そればかりではありません。ここには「みなが一つ所に集まっていた」とあります。この「一つ所」がどこであったのかははっきりはわかりません。1:13にある「屋上の間」であったのかもしれませんし、あるいは、ルカ53:24にある「宮」であったのかもしれません。しかし、それがどこであったのかはともかく、彼らが一つになって集まってたいとき聖霊が下ったのです。もちろん、彼らが一つのところに集まっていたのは祈るためでした。心を合わせて祈っていました。そういう時に聖霊は下ったのです。

 そうです、聖霊はそれを待ち望む人たちに注がれるのです。イエス様はルカ11:9~13のところで、次のように言われました。

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかり
 ます。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は
 受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・してみると、
 あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えること
 を知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、
 どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9,10,13)

求めるなら、与えられます。この時の弟子たちのように神を慕い求め、敬虔な思いで一つの所に集まり、心を合わせて祈り求めるなら、神は約束の聖霊を注いでくださるのです。そしてそれは今で言うなら礼拝の時ではないでしょうか。いったいなぜ私たちは毎週日曜日に集まって主を礼拝しているのでしょうか。聖書にそう書いてあるからです。安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ・・・と。安息日とは土曜日ですが、私たちはこの安息がイエス・キリストによってもたらされると信じています。なぜなら、人の子は安息日の主だからです。ですから、私たちはどこまでもイエス様中心です。であれば、旧約聖書の律法では土曜日が安息日でしたが、イエス様が復活された日曜日こそ私たちが真の安息をいただける日として神を礼拝する日としてふさわしい日です。そこで教会は日曜日に礼拝をささげるようになりました。いずれにせよ、このように聖書の定めに従って主を礼拝しようと集まっている人たちに、しかも心を一つにして祈り求めている人たちに聖霊が注がれるのは当然のことでしょう。私たちはますます主のみこころにかなう者として、また、主のご臨在を求めて祈るために、この日の礼拝を大切にしたいものです。そういう人に聖霊が豊かに注がれるのです。

 Ⅱ.聖霊が臨まれるとは

 では聖霊が注がれるとはどういうことなのでしょうか。第二に、聖霊が臨まれるとはどういうことなのかについて考えてみたいと思います。あまりにも多くの人が聖霊のバプテスマについて語りますが、その意味を正しく理解している人は多くありません。そのため聖霊のバプテスマについて少し混乱しているケースも少なくありません。このことについて聖書を正しく理解することは重要だと思います。2~4節をご覧ください。

 「すると突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのい
 た家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひと
 りの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくだ
 さるとおりに、他国のことばで話し出した。」

 このところを見ると、聖霊が下られたときに、次の二つのしるしが伴ったこということをルカは記しています。一つは、天から、激しい風が吹いてくるような響きです。もう一つは、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまったということです。これはいったいどういうことでしょうか。これは聖霊が下られたことのしるしであって、このこと自体が聖霊だったのではありません。これは聖霊が下られたことに伴うしるしです。なぜ天からの激しい風のような音であったり、炎のような分かれた舌のようなものだったのかというと、それは一つには耳に聞こえるものであり、もう一つは、目に見えるものだったからです。このようなことを通して、聖霊が確かに下られたということを示したかったのだと思います。

 そしてもう一つのことは、このように聖霊がくだることによってどんなことが起こったのかということに焦点を当てて生きたかったのだと思います。その焦点とは4節に書いてあることです。

 「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国
 のことばで話し出した。」

なるほど、天からの激しい風の響きといい、火のような舌といい、いかにもこれから後に起こるであろう出来事にふさわしいしるしであったと言えます。その出来事とは、みなが聖霊に満たされ、御霊が話せてくださるとおりに、他国のことばで話し出したということです。いったいこれはどういう意味でしょうか。

 二つの意味があると思います。一つは、あのバベルの塔の事件以来、人類にもたらされていた混乱が取り除かれたということです。バベルの塔の事件とは創世記11章に記されてありますが、それまで一つのことばであった人類のことばが混乱し、互いに通じなくなってしまったという事件です。シヌアルという所にやって来た人たちはそこでれんがを作ったかと思うと、その頂が天まで届くような塔を建て、名を上げようとしましたが、そのことに心を痛められた主は、ことばを混乱させることによって彼らが町を建てることができないようにしました。ことばが通じないようになった人類は分裂し、混乱してしまいました。その時以来、今日に至るまで、そま混乱は続いています。それでま人類は、何度もこの問題に対する解決を考えて取り組んできましたが、その混乱は解決されないまま、今日に至っているのです。しかし、このペンテコステの時に、聖霊に満たされた弟子たちが、他国のことばで話し出したことによって、それまで混乱していたことばが理解できるようになり、それぞれが一致できるようになったのです。まことに、分裂した人類を、社会を一つにするのは、この聖霊以外にはあり得ないということです。パウロはエペソ人への手紙の中で、ユダヤ人と異邦人が一つになることができるのは、キリストによって、両者がともに一つの御霊においてであると言っています(2:18)。たとえ人間的に仲良くしましょうと言ったところで、肉に支配された人間に残されているのは敵意であり、争いでしかありません。ただキリストによって、同じ御霊が与えられることによってのみ、敵意が廃棄され、真の平和がもたらされるのです。ペンテコステの日に彼らが他国のことばで話し出したのは、その一致の始まりがここにあることを示すためだったのです。

 もう一つのことは、彼らが他国のことばで話し出したのは、この霊は証の霊であったことを表しています。この後でみますが、5節からのところを見ますと、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来ていました。あらゆる国から来ていたということは、いろいろなことばがあったということです。ところが、聖霊に満たされた彼らはそれぞれの国のことばで話したので、それを聞いた人たちは理解することができたのです。つまり、彼らが聖霊に満たされて、御霊が話させてくださるとおりに他国のことばで話し出したというのは、教会に与えられた使命を再確認させるためだったのです。教会には、地の果てにまで、キリストの証人になるという使命が与えられています。(使徒1:8)。いったいどのようにしてその使命を果たしていくことができるのでしょうか。聖霊に満たされることによってです。聖霊に満たされると私たちは力を受けるのです。このときに彼らが他国のことばで話し出したように、それぞれの民族に理解できるように伝えていくことができるのです。それは単にことばだけのことではありません。生活や文化も含めて、その民族の体質に合った形で福音が宣べ伝えられていくということです。

 パット先生が宣教師として来日したのは今からちょうど30年前のことです。当時、日本の宣教を祈っていた彼女は母教会の熱心な祈りによって日本に送られてきました。それが、奇しくも私が住んでいた町の高校の英語教師としての仕事でした。来日してすぐに私と出会い、私を救いに導いてくれました。ですから、私はパット先生の働きの実の最初であり、最後なのです。あとはどうなったかというと、皆さんがよくおわかりになることです。私が救われて間もない頃、家内は私にこういうことを言ったことがあります。「私は日本語があまり上手じゃないので、あなたが話してください。あなたはアロンです。私はあの口べたなモーセのように、あなたのために祈ります」簡単に言うと、あなたがお話しなさいということです。あなたはよくしゃべるし、話が止まらないから、神様の福音を語る人になってくださいということでした。賢いと思いました。自分に出来ないことをできる人を通して行っていけば、何倍もの働きができると思ったのでしょう。どのようにして行うかは別として、大切なのは聖霊を受け、聖霊に満たされることです。そうすれば、聖霊が知恵を与えてくださいます。何とかして、すべての人に福音を伝えていく力を与えてくださるのです。

 ですから、ペンテコステの日に起こった出来事を、今日の私たちがただまねるということは全く意味がないことです。大切なことはまねることではなく、その意味を正しく学ぶことです。そして、その意味とは、この聖霊を受け、聖霊に満たされることによって、キリストの証人として証をしていく力が与えられるということです。それがペンテコステの出来事だったのです。

 ところで、このことは彼らが「みなが聖霊に満たされた」結果のことでしたが、聖霊に満たされるとはどういうことを言うのでしょうか。1章5節のところには、「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」とありますので、これは聖霊のバプテスマのことだったのでしょうか。答えはイエスであり、ノーです。イエスというのは、確かにこの時彼らは聖霊を受けたということは確かであるという点でイエスです。この聖霊は旧約時代にある特定の人が、特別な働きをする時にだけ受けていたような限定的なものではなく、すべての人に注がれました。そういう意味でこの時聖霊による新しい時代が始まったのです。それを求めるすべての人が受けることができるようになったのです。

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエ
 スを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救わ
 れるからです。」(ローマ10:9)

 もしあなたが、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです。簡単にいうと、私たちのために十字架で死んでくだり、三日目によみがえってくださったイエス様を信じて心に受け入れるなら救われるということです。その救いの保証として聖霊が与えられるのです。ですから、イエス様を信じるすべての人に、この聖霊が注がれるようになったのです。私たちはこの聖霊によって救われているという確信を持つことができるのです。すばらしいことではないでしょうか。これがペンテコステの出来事だったのです。

 しかし私が、イエスであり、ノーだというノーという意味は、この聖霊のバプテスマと聖霊の満たしは違うということです。聖霊のバプテスマとは一回限りの出来事であるのに対して、聖霊に満たされるとは、何度も何度も繰り返して行われる経験だからです。ですからパウロは、Iコリント11:13のところでこのように言っているのです。

 「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一
 つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてす
 べての者が一つの御霊を飲むものとされたからです。」

 パウロはここで、すべての者が一つの御霊を飲むものとされたと言っていますが、これが聖霊のバプテスマのこどす。私たちはみな、イエス様を信じるとき、一つの御霊を飲む者とされるのです。つまり、聖霊のバプテスマを受けるのです。
しかし、聖霊のバプテスマを受けたからてといっても、必ずしも聖霊に満たされているとは限りません。エペソ4:30には、「神の聖霊を悲しませてはなりません」とあります。聖霊が悲しまれることがあるのです。また、Iテサロニケ5:19には「御霊を消してはなりません」という表現もありますが、御霊が消されるということもあるのです。もちろん、この御霊を消すというのは消えて無くなってしまうという意味ではなく制限してしまうということです。御霊の働きを制限してしまうことがあるというのです。ではどういう時に聖霊は悲しんだり、制限されたりするのでしょうか。そこには、「悪いことばをいっさい口に出してはいけません」(エペソ4:29)とか、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(同4:31)とあります。私たちがこのような状態になりますと、神の聖霊が悲しんだり、消されたりするのです。
 ですから、御霊によって歩まなければなりません。そうすれば、決して肉の欲求を満足させることはないからです。もし、私たちの中にそうした思いがあるとしたら、悔い改めなければなりません。悔い改めて、どこで道を踏み外したのかを思い起こし、主に立ち返らなければならないのです。そうすれば、主は赦してくださり、その瞬間から聖霊に満たしてくださるのです。

 ですから、聖霊のバプテスマを受けることと、聖霊に満たされることは違うのです。もちろん、イエス様を信じて聖霊のバプテスマを受けるときは、聖霊に満たされますから、この時は同時に起こります。この時の弟子たちはそうでした。彼らは聖霊バプテスマを受けたとき、同時に、聖霊に満たされました。そして、その聖霊の力で大胆に福音を語っていったのです。

 Ⅲ.聖霊が臨まれると

 では聖霊が臨むとどうなるのでしょうか。最後に、聖霊が臨んだときに彼らがどうなったかについて見て終わりたいと思います。5節からのところに注目してみましょう。聖霊が臨まれ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだすと、そこにはそれが確かに外国のことばであることをあかしする証人たちがいました。天下のあらゆる国から祭りのためにエルサレムに集まっていた人たちは、自分たちの国のことばで弟子たちが語るのを聞いて、驚きました。ルカは、彼らがいかに驚いたのかを、いろいろなことばを使って表現しています。6節では「驚きあきれてしまった」、7節では「驚き怪しんで」、12節では「驚き惑って」と言っています。これらのことばは、それを聞いた人たちが、いかにもとまどっていた様子を表しているものです。彼らには、何事が起こっているのかがさっぱりわかりませんでした。しかし、この驚きこそ、実はこの後でなされるペテロの説教を聞くための心の準備となっていったのです。このことはとても重要なことです。

 私たちがいくらイエス様を信じるようにと説得しても、人はそう容易に信仰に導き入れられることはありません。少なくとも人は皆それまで自分が生きてきた知識や経験、考え方といったものがあって、そうしたものを人生の哲学として持っているからです。そうした人生哲学なり人生観というものがたといチャチなようなものであっても、自分なりにそれがいいと思い込んでいるわけですから、そんなに簡単に他のものを受け入れることはできません。そのためには、それまで持っていた人生観といったものが崩され、新しい人生観が打ち立てられなければなりませんが、一度打ち立てられた人生観というものは、そんなに容易に崩されるものではないのです。ではどうしたら崩されるのでしょうか。そのためには、それまで自分が立っていた人生観というものが揺るがされるような出来事にぶつからなければならないのです。何年か前に未曾有の被害をもたらした阪神大震災は、まさにそうした経験をさせられる時でもありました。これまで安全だ、安心だと思っていたものが脆くも崩れ去るのを見たとき、それまで大丈夫だと思っていた自分の考えが間違っているのではないかと言うことに気付き始めるのです。このときに人々が驚いたり、戸惑ったりしたのは、そういう意味で重要な出来事でした。このように驚いたり、戸惑ったりしますと、そのまま歩んでいくことを許さないからです。今までの歩みのペースが乱されます。それは必ずしも心地よいことではありませんが、ほんとうのものをつかむためには、時としてこのような不快なことだと思えることでも必要なことがあるのです。このときの「驚き」とか、「戸惑い」というのは、そういう意味で重要なものでした。伝道の第一歩と申しますか、人の幸福の第一歩は、ここから始まっていくのです。

 こうしたことを十分ご存知であられた神は、弟子たちを聖霊に満たし、外国語を語らせることによって、そこに集まっていた人たちに驚きと戸惑いを抱かせました。しかし、彼らはただ単に驚いたり、戸惑ったりしたのではありません。11節をみると、ここに「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」とあります。彼らはただ外国語を話していたのではなく、その外国語で、神を証していました。その証にしるしが伴ったのです。これはペンテコステの時にだけ起こった特別な経験であって、今日、私たちが、同じようなことを試みる必要はありません。そこに記されてあることの意味というか、原則が大切だからです。そして、その原則というのは、聖霊に満たされると私たちは力をいただいて、現代の人々を驚かせ、当惑させるほどの不思議なことをされるということです。

 アメリカのカルバリー・チャペル牧師のチャック・スミスが、「収穫の時代」という本を書いています。それはその教会がどのように歩んで来たかがまとめられたものです。そてし、それをみると、神様が用いられた人というのは決して一流の大学を優秀な成績で卒業した人とか、博士課程に進むようなトップクラスの人たちだけではないことがわかります。ちょっと前までヒッピーのような生活をしていた人でも、救われて聖書を学び、神様に従って生きているような人を用いられるのです。そういうことがわかるとき、人は驚き惑います。

 たとえば、中にラウル・リースという人について紹介されています。この人は後で映画にもなったほど有名ですが、奥さんと喧嘩をして、銃で殺そうとした人です。怒って部屋中を荒らし回っていたとき、たまたまついていたテレビを観たら、そこでチャック・スミスが説教していました。何だろうと思って聞き入っているうちに、聖霊が彼をとらえました。彼は悔い改めて主イエス様を信じました。そして、聖書学んで牧師にもなりました。やがてウエストコビナと町にあるスーパーマーケットを購入して立派な教会を作りましたが、すぐに一杯になってまた新しい教会を作りました。これは驚きです。夫婦ゲンカして奥さんを殺そうとしていた人が牧師なって、こんなに大きな教会を作ったのです。それはまさに神業でしょう。聖霊の働き以外の何ものでもありません。

 またマイク・マッキントッシュという人はピストルで自殺を図った人ですが、そのピストルの玉が、たまたま急所から外れて死ねませんでした。ところが脳がやられてしまったので、それから何年も精神病院に入れられていたのです。しかし、主のあわれみによって救われ、毎日チャック・スミスの語るメッセージを聞くようになりました。すると不思議なことに、変になったはずの脳が完全にいやされたのです。後に彼は牧師になりましたが、アメリカでも最も用いられる牧師になりました。サンディエゴにある最大の映画館を借り切って礼拝をしてたかと思ったらすぐに入りきれなくなり、公立の中学校をグランドごと借り切って礼拝するようになりました。
 驚きです。いったい何がこんなことをもたらしたのでしょうか。聖霊です。聖霊が彼らのうちに臨んだので、彼らを力を受けたのです。そして、大胆に福音を語ることができるようになりました。
 この教会の牧師であるチャック・スミスは、最初17人の小さな教会の牧師でした。あまりにも小さいので、もう牧師も辞めようかと思ったほどです。しかし、神様はそんな彼を用いて偉大な働きをしてくださいました。彼は、自分の働きを振り返って次のように言っています。
「100万年たっても、こんな大収穫が私に訪れることはないと思っていました。しかし、神様の方法は、私たちの方法とは違うことを感謝します。私たちが夢を見るよりもはるかにすごいことを、私たちを通して成し遂げることができるのです。」

 これが神様の御業です。聖霊が私たちの上に臨まれるとき、私たちは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てまにまで、キリストの証人となるのです。そのとき、私たちが想像している以上のすばらしいことを主はしてくださるのです。ヘンリー・ナーウェンは次のように言いました。

「キリストの聖霊が助けてくださるのでなければ私たちは祈ることはできません。キリストの聖霊が私たちにこの世のものでない平和と喜びを満たして下さるのでなければ、私たちは、平和と喜びを創りだすことはできません。私たちは、人種、性別や国々を分けている多くの障壁を打ち破ることは出来ません。キリストの聖霊のみがすべてを包み込む神の愛において、すべての民を一致へと導きたまいます。キリストの聖霊こそは、私たちの恐怖や不安を焼き払い、私たちを自由にして、行くべきところに送りたまいます。これこそがぺンテコステの偉大な解放なのです。」

 私たちが求めていかなければならないことはこれです。聖霊に満たされ、聖霊に助けられながら、この愛と平和と喜びの福音をこの世に伝えていくことです。そのとき聖霊が偉大なことを成し遂げてくださるでしょう。捕らわれている人が解放され、虐げられていた人々が自由にされ、病で苦しんでいた人にいやしがもたらされるのです。これがペンテコステの約束なのです。

 最後に一つのお話をして終わりたいと思います。テキサス州にエーツプールという有名な油田があります。1930年代、エーツという人が牧場を営んでいましたが、借金に追われていました。そしてついに借金を返せなくなり、牧場を手放さなければならないほどになりました。国からの生活保護を受けるようになり、どうにかその日暮らしをしていました。
 ところがある日、石油会社からの地質観測団が、どうやら彼の牧場に石油が埋まっているようだと調査を申し出ました。エーツは何もあてにせず、契約したのですが、驚くべきことが起こりました。何と石油が吹き出てきたのです。1日に8万バーベル、金額にすると250万ドル、約30億円ぐらいになります。一日にですよ。そして、石油会社の推定では、およそ30年間石油が出続けるだろうということでした。エーツはとてつもない大金持ちになりました。彼は石油の湖の上に住んでいながら、貧しく暮らしていたのです。彼の問題は、自分の土地の下に石油が埋まっていることを知らなかったことです。私たちクリスチャンも同じです。私たちの中にはとてつもない力を持っておられる聖霊がおられるのに、それを知らないために、毎日毎日、つらく苦しく生きているのです。しかし、私たちの中におられる御霊により頼むなら、勝利の日々を送ることができるのです。また、まだこの御霊を受けておられない方は、罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として心に信じて受け入れるなら、賜物として受けることができるのです。

 何というすばらしい約束でしょう。それがペンテコステにおいて現実のこととなったのです。私たちはこの御霊の満たしを求めて、御霊の力、神の力をいただき、キリストのすばらしい福音を宣べ伝えていきたいと思います。