きょうは、アンテオケに誕生した最初の異邦人教会からご一緒に学びたいと思います。まず第一のことは、このアンテオケ教会の誕生に大きく貢献したキプロス人とクレネ人の信仰についてです。第二のことは、イエス・キリストを信じる弟子たちがここで初めてキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったことについて、そして三つ目のことは、この教会が行った愛のわざについてです。
Ⅰ.独創的なキプロス人とクレネ人
まず第一に、このアンテオケ教会が誕生していった経緯の中で、キプロス人とクレネ人が果たした貢献について見たいと思います。19~21節までをご覧ください。
「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。」
ルカは、これまで異邦人コルネリオの救いについて記してきましたが、ここで一転して、教会による福音宣教がどのように前進していったのかという様子を描きます。それがこの「さて」という言葉に表されているわけです。この箇所の背景にあるのは8章1節と4節のみことばです。
「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」
「他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」
ステパノの殉教の死をきっかけとして起こった迫害によって散らされた人々は、みことばを宣べながら巡り歩きました。その結果がピリポのサマリヤでの伝道であり、カイザリヤにいた異邦人コルネリオの救いでありました。そのようにステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、サマリヤ、カイザリヤだけでなく、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまで進んで行きました。エルサレムからこのアンテオケまでは直線距離にして約500キロ、ここから大阪くらい離れていた所ですが、そんなところにまで福音が伝えられていったことに、福音の広がりと散らされながらも福音を語った人たちの信仰のすばらしさを見ます。しかし、そのように福音が広がっていっても、彼らはユダヤ人以外の人たちには、だれにもみことばを語りませんでした。それはユダヤ人以外に福音を語ることが禁じられていたからではありません。これまで持っていた古い固定概念からなかなか抜け出すことができず、異邦人が救われるというようなことをだれも考えることができなかったからです。
しかし、アンテオケに来てからはギリシャ人にも、すなわち異邦人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えました。そこにキプロス人とクレネ人がいたからです。キプロスというのは地中海北東部にある島で、クレネとは、北アフリカの西方にある町です。このような所からアンテオケに来ていた人たちは、ユダヤ人だけという枠を取り払って、ギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えました。これはさりげない記述ですが、当時としては画期的な出来事でした。これまでもピリポによってサマリヤでの伝道とエチオピア人の回心が、またペテロによって異邦人コルネリオとその一家が回心するといった出来事がありましたが、ここでの出来事は今までのそれとは比較にならないほど質と規模において違うからです。確かにピリポはサマリヤで伝道しましたが、サマリヤというのは半分ユダヤ人であって、全くの異邦人ではありませんでしたし、あのエチオピア人も異邦人ではありましたがユダヤ教の改宗者でした。また、ローマの百人隊長コルネリオにしても「神を恐れかしこむ敬虔な者」と言われていた人たちで、いわば求道者のような存在だったわけです。ところが、このアンテオケにいたギリシャ人たちは、ユダヤ教とは全く無縁な人たちで、そういう人たちが集団で信じたのです。まさに異邦人伝道の幕開け、本格的な異邦人伝道の夜明けが訪れたのです。
そして、このような本格的な異邦人伝道がどのようにして行われたのかというと、あのキプロスやクレネといった無名の信徒たちによってです。いやそういう人たちだったからこそ、このような思い切った伝道ができたのかもしれません。これがもしある程度の立場にある人だったらどうだったでしょう。どうしてもまわりの状況が気になり、常識的になって、この世のしがらみやメンツから抜けきれず、こうした斬新なアイディアや独創的な発想は生まれなかったかもしれません。神は伝道の新しい道を開くためにこうした名もない信徒たちを、世界宣教のパイオニヤとしてお用いになられたのです。
それは今の時代でも同じです。神は今の時代でも、このような人たちを備えておられるのではないでしょうか。それはもしかすると私たち一人一人かもしれません。しかし、それがだれであっても、そういう人には共通した特徴があります。それは21節にあるように、「主の御手がともにある」ということです。主の御手がともにあるというのは、主の御手がその人の上に置かれていて、主の御霊のご支配のもとに、主に用いられる器になるということです。私たちがみことばを語るとき、私たちは、この世にあって有名な者でも、また有能な者でもなく、まことに無力な者にすぎませんが、そのような小さなものでも、神の御手の中にすべてをゆだねるとき、神はその人を用いて、驚くべきことをしてくださるのです。
たとえば、アウグスティヌスは立派な学者でしたが、最初からそうであったわけではありません。若かった頃は放蕩に身を持ちくずした人間になりさがっていました。しかし、ひとたび神の御手の中に入れられると、彼は中世の歴史を動かす大指導者になったのです。また、マルチン・ルターが腐敗しきったローマ・カトリックに向かって宗教改革の火ぶたを切った時には、彼がまだかよわい一青年にすぎなかった時でした。しかし、神の御手に握られた時、彼はついに歴史の流れを変えたのです。あるいは、近くはアメリカに有名なD.L.ムーディーという伝道者がいましたが、彼は全く無学な人でした。小学校も3年生までしか行ったことがありませんでしたが、ひとたび神の御手の中にすべてをささげたとき、彼は全く変えられてしまいました。彼は大学はおろか、聖書学校も神学校も行ったことがありませんでしたが、神の御手の中にすべてをささげて自分で勉強した結果、偉大な伝道者になることができました。このように神の御手のもとに生きた人々は、神がその人々を通して大いなることを成し遂げてくださるのです。
最初の異邦人教会もこのようにして誕生していきました。ほんとうに名もないキプロス人やクレネ人を用い、彼らが神の御手の中にすべてをゆだねてみことばを語った結果、大勢の人が信じて主に立ち返り、最初の異邦人の教会、アンテオケ教会が誕生したのです。
Ⅱ.キリスト者と呼ばれるようになった人たち
次に、キリストの弟子たちがここで初めてキリスト者、クリスチャンと呼ばれるようになったことについてです。22~26節までをご覧ください。
「この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。」
アンテオケにも教会が生まれたという知らせがエルサレム教会に届くと、彼らはバルナバをこの教会に遣わしました。それは、そのようにして出来た教会がどのような状態にあるのかを調べ、彼らが信仰に堅く立ち続けることができるように励ますためでした。そのために用いられたのがバルナバです。このバルナバについては、これまでも何度か記録されています。4:32には、彼は「キプロス生まれのレビ人」であったとあります。この新しい運動を始めたキプロス人とクレネ人でありましたから、このバルナバはそうした人たちと話し合うのにもっともふさわしい人だったのでしょう。そればかりではありません。4:36,37には、彼は自分の畑を売って、その代金を教会の必要のためにささげたという信仰に満ちたりっぱな人でした。この世では、このような人がとかく陥りやすい欠点は、お金は出すけど口も出すということになりがちですが、彼はそういう人ではなく、お金は出しても口はださないタイプの、陰に隠れて奉仕をするような人でした。それは彼の名前が「バルナバ」であったことからもわかります。それは「慰めの子」を意味しております。彼は、その名が示すように、愛の人でした。決して表に出て人々を引きつけ、グイグイと引っ張っていくような強引さはなかったかもしれませんが、隠れて、コツコツと良いわざを行っていくタイプの人間だったのです。ですからこの時も、異邦人たちの上に注がれた神の恵みを見たとき、心から喜ぶことができたのです。そして、生まれたばかりのアンテオケの兄弟姉妹に対して、「心を堅く保って、常に主にとどまっているように」と励ますことができました。彼はまさに的を得た励ましをしました。というのは、信仰生活において最も大切なことは一時的な感激やムードに酔うことではなく、常に主にとどまっていることだからです。そのような的を得たバルナバの励ましと指導があったからこそ、この教会には大ぜいの人が信仰に導かれたのです。
アンテオケ教会に遣わされたバルナバがしたもう一つのことは、サウロを捜しにタルソに行ったことです。この「捜す」と訳された言葉は「アナゼーテーサイ」というギリシャ語ですが、これは、「苦労して人を捜す」場合に使われた言葉です。いったいなぜバルナバは、そこまでしてサウロを捜し出そうとしたのでしょうか。一つには、信じる者がどんどん増えてくる中でその人たちを励まし、教え導くためにはどうしてももっと多くの働き人を必要としていたからでしょうし、サウロこそその働きにもっともふさわしい人物であると思ったからです。おそらくバルナバは、自分の中にはサウロのような強力なリーダーシップがないことを認め、サウロこそそうした欠けを補うことができる人物であると認めていたのでしょう。ですからかつてサウロがダマスコで救われ、伝道者としてみことばを語り始めたとき、エルサレムの使徒たちは彼を弟子としてなかなか受け入れることができないでいたときにもわざわざその仲介役を買って出て、エルサレムの兄弟たちに紹介したのです。
もう一つの理由は、サウロに与えられていた使命を彼はよく知っていたからでしょう。その使命とは、キリストの御名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶということでした。(9:15)クリスチャンになったことで同胞のユダヤ教とから裏切り者の烙印を押され命までねらわれたかと思うと、エルサレムの教会にもなかなかとけ込めず、寂しくエルサレムを去って故郷のタルソに戻り、不遇な生活をしていたサウロこそ、異邦人伝道にもっともふさわしい器であると判断したバルナバは、彼を伝道の最前線へと引き出したのです。
このバルナバの判断は正しいものでした。バルナバはサウロをアンテオケに連れて来ると、そこで一年間みことばの宣教に励みましたが、そこで多くの実を結ぶことができました。このことは、これ以後の伝道にとって大きな意味を持つことになります。すなわち、ユダヤ人伝道を中心としたエルサレム教会から、異邦人伝道を中心とするアンテオケ教会へと、宣教の中心が大きく移行していくからです。そして、その中心人物こそサウロであり、13章からいよいよこのサウロによる世界宣教へと舞台が移っていくわけです。その大切な橋渡しをしたのがバルナバだったのです。
ところで、そのようにバルナバとサウロという二人の指導のもとに、大きく成長していったアンテオケ教会は、周囲の異邦人社会からも一目置かれるというか、注目を集める存在となっていきました。26節後半をみると、ここに「弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」とあります。これは2000年のキリスト教の歴史の中で、きわめて重要な証言です。すなわち、主イエス・キリストを信じる者たちが、ここに至って初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったということです。この「キリスト者」と訳されている言葉は、今日私たちが用いている「クリスチャン」という言葉の語源となったものです。「クリスチャン」とはもともと、キリスト党員を表すあだ名、ニックネームでした。ヘロデを支持するヘロデ党員のことを「ヘロディアン」、カイザルを支持するカイザル党員を「カイザリアン」と呼ぶように、キリスト党員を支持するキリスト党員を「クリスチャン」と呼んだのです。もともとキリスト教はユダヤ教の一派であるかのように見られていましたが、このアンテオケにおいては、そうではなかったのです。このアンテオケにおいては、単なるユダヤ教の一派を超えて、キリストを合い言葉にし、その名を宣伝し、その名によって行動していた人たちが相当数いたのです。アンテオケは当時、ローマとアレキサンドリヤに次ぐ世界第三の都市で、人口は80万人くらいいたと言われていますが、その内の20万人、主な教会の会員だけでも10万人はいたであろうと言われています。実にこの町の25%くらいが教会と何らかのつながりを持っていた。クリスチャンが町全体の5%になればかなりの影響が生じると言われている中で、25%もの人たちがクリスチャンであったとしたら、町全体にどれほどの影響を与えていたかわかりません。ここには「キリスト者と呼ばれるようになった」と受け身で記されてあるのも、そうした影響の現れかと思います。
この当時、アンテオケの町には、アルテミス神殿やアポロ礼拝という異教が盛んでした。この種の異教はきわめて不道徳なもので、その神殿には娼婦がいて、売春行為をお祭りとして行われていたと言われています。ですから、このような町における行事の多くは、こうした異教とも結びついていました。一見何でもないように見えるスポーツや劇場での催し物でさえ、こうした異教と無関係ではありませんでした。ですから、もしまじめにキリストを信じようと思えば、こうしたことに関わらなければなりませんでした。アンテオケのクリスチャンたちは、こうした行事に誘われるたびごとに、それを断り、それよりもむしろ愛をもって彼らに仕えようと試みました。そこで人々は、「ああ、クリスティアノスね。あの連中は誘っても無理だよ。絶対妥協しないから。気持ちは優しくて、いい人たちなんだけどね」と言っては、彼らを呼んだのです。それほどにアンテオケのクリスチャンは、「キリストの御名」を口にし、キリストの御名によって行動していたのです。
「クリスチアノス」、「キリスト党員」「キリストの奴隷」「クリスチャン」、この世の人たちはまことに名誉ある名前を、つけてくれたものです。それはまことに私たちのことをよく表している言葉ではないでしょうか。私たちはキリストによって罪贖われ、キリストによって買い取られたキリストの奴隷です。私たちの主人は、もはや自分自身ではなく、キリストです。そのキリストのご意志のままに考え、語り、動くのがクリスチャンです。それこそ私たちの喜びであり、私たちの良心のほんとうの自由がそこにあり、真の安らぎを受けることができるのです。
アンテオケのクリスチャンたちは、エルサレムからの指示によって動いていたわけではありません。彼らが動いていたのは、彼らが伝道していたのは、ただキリストの指令によったのです。これがクリスチャンです。それは彼らがエルサレム教会からの指導を拒否したということではありません。エルサレム教会とアンテオケ教会の主は、同じだからです。バルナバはバルナバで、異邦人たちの上に注がれた神の恵みを見て喜びました。また彼は、自分よりももっとふさわしい器を求めてタルソにサウロを捜しに行きました。そして、サウロを連れて来て、自分の足りない面での指導をもらいました。このように、キリストのみわざが進められ、キリストに人々が導かれるとき、キリストの御名があがめられ、キリストに栄光を帰するようになるのです。そういう人こそクリスチャンです。アンテオケの教会には、そのようにキリストによってとらえられ、キリストによって導かれ、キリストによって生きていた人たちが大ぜいいたのです。自ら名乗ることさえしなければ、誰も自分をクリスチャンだとは気づかない。そんなことが当然のように思ってしまっている私たちにとって、このアンテオケのクリスチャンたちの存在は大きなチャレンジとなるのではないでしょうか。
Ⅲ.愛のわざ
最後に、このアンテオケ教会の愛のわざについて見て終わりたいと思います。27~30節までをご覧ください。
「そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」
そのころのことです。何人かの預言者がエルサレムからやって来て、世界中に大ききんが起こると預言しました。「預言者」とは「言葉」を「預かる」と書きますが、神のみことばを預かっている人、つまり神のみことばを語る人のことです。新約聖書をみると、これは神からの賜物であり、神の直接的な働きかけによって行われるものでした。ですからここには、「御霊によって預言した」とあるわけです。聖書がまだ完結していなかった当時、神のみこころはこうした預言者によって示されていたのです。
ところで、その預言者の中にアガポという人がいて、彼はこのアンテオケ教会にやって来ると、世界中に大ききんが起こると預言しましたが、果たしてそれがクラウデオの治世に起こりました。クラウデオ帝は、紀元41~54年までローマ帝国の皇帝でしたが、この間に何度もききんや凶作があったこが、多くの資料によって伝えられていますが、その中でも特に大きなききんがユダヤ全土で起こったのです。問題は、そのときこのアンテオケ教会はどのような態度をとったかです。29節をみると、このときアンテオケ教会がとった態度が次のように記録されています。
「そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。」
彼らは自発的に、またそれぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物質を送ったのです。ここに彼らの信仰がいかに生き生きとしたものであったかが表されていると思います。本物の信仰とは、このように学んだ聖書の知識が自分の身についていくことであり、教えられたことが、現実に実を結んでいくことにほかなりません。彼らは、「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)という主イエスのことばを学び、このような対外的な援助や献金を自ら進んで行ったのです。
それにしてもまだできたばかりで日が浅く、開拓途上にあったこのアンテオケ教会が、こんなにも早く、こんなにも積極的に、遠くのユダヤの諸教会のために献金することができたのはいったいどうしてなのでしょうか。アンテオケからエルサレムまではゆうに500キロは離れていました。発足してわずか1年足らずのアンテオケ教会が、見も知らぬ遠方の兄弟たちの消息を案じ、ひとりびとりが自発的にささげようとしたその熱心さには、すごいものがあります。しかも彼らはそのためにバルナバとサウロという自分たちの最高指導者にそれを託しました。
このことを考えると、アンテオケのクリスチャンが「キリスト者、クリスチャン」と呼ばれるようになった意味がわかるような気がします。彼らはただ単に「キリスト」という名を口にしていただけでなく、キリストの愛に生きていたのです。キリストを信じて生まれ変わるまでは、自己中心的な、きわめて利己的な考えで生活していたものが、キリストを信じ新しく生まれ変わることによって、自己中心から神中心へと変えられたのです。それまでは何でも自分のものにしたい、自分がだれかから何かをもらうことを喜びとしていたのが、キリストを信じてからは、神のためなら喜んでささげたいと思うようになる。なぜなら、神はそのようなお方だからです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(Ⅱコリント8:9)
神は、私たちを愛し、私たちのためにそのひとり子をお与えになりました。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。私たちはその神によって愛され、神の恵みを受けました。今、私たちがこの世に生きているのは、神の恵み以外の何ものでもありません。このことがわかると、私たちに属する一切の物は、それがお金であれ、才能であれ、時間であれ、すべてのものが神のものであることがわかり、その恵みのわざに加わりたいと思うようになるのです。
マザー・テレサが生きていた時、こんな話をしました。ある時、彼女の修道院に、一人の女の子が食べ物を少し分けてくださいと言って来たそうです。それでシスターがほんの一握りのお米を袋に入れて渡しました。そして、その女の子がどういうところに住んでいて、どういう生活をしているのか、もっと助けることがないかを見るために、その後をついて行きました。
すると、この女の子の家には父親がおらず、母親が一人で七人の子供を養っているのがわかりました。女の子は家に帰ると、もらってきたお米を母親に渡しました。それは八人家族の一食分にも足りない量でしたが、それを受け取った母親は、それを半分ずつにして二つの袋に分け、一つの袋を持ってどこかに出かけて行きました。しばらくしてこの母親は帰って来ましたが、その手にはもう袋はありませんでした。
それでシスターが母親に聞きました。「あなたはどこに行ってきたのですか」すると母親は、このように言いました。「実は、近所に私たちの家族のように、母親一人でたくさんの子供を抱えて生活している貧しい人がいるのです。その人のところに行って、いただいたお頃の半分を差し上げたのです」
その話をしたマザー・テレサは、次のように言いました。「ここは経済的には貧しいくても、なんと心の豊かな人たちが住んでいる町でしょう」と。
お金があるかないかが捧げる理由ではありません。心が豊かであるかどうかが問題です。私たちが捧げることができるのは、私たちの中に神の恵みが溢れているからなのです。その心の内側に神の豊かな恵みが溢れていれば、それが恵みのわざとして外側にも溢れてくるようになるのです。まさにアンテオケ教会には、この神の恵みが満ちあふれていました。彼らはその恵みに生かされていたのです。その具体的な表れがこのような愛のわざ、献金だったのです。
私たちの教会にできることは、ほんとうに小さなことかもしれません。しかし、大切なのはそれがどんなに大きいか小さいかということではなく、そこにキリストの愛によって生きて働く信仰があるかどうかです。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)という思いがあるかどうなのです。もしそこに神の恵みが溢れているなら、たとえそれがどんなに小さな物であっても、主はそれを用いてくださいます。それはさながら主イエスが五つのパンと二匹の魚を差し出した少年のようなものかもしれませんが、いつでも主のみこころに従う教会として、このアンテオケ教会のように主に喜ばれる群れとなることができるのです。そしてそのことによってこの町に住んでいる人々から「ほら、あそこにもクリスチャンがいる」「ここにもいるぞ」と名指しされるような、そんな存在感をもってこの地に仕えていく教会となることができるのです。私たちの教会もそんなアンテオケ教会のようになるために、みなが心を堅く保ち、常に主の恵みにとどまっている者でありたいと思います。