使徒の働き16章1~5節 「すべては福音のために」

 きょうは「すべては福音のために」というタイトルでお話したいと思います。1節には、「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。」とあります。「それから」というのは、エルサレム会議の後で、第二回目の伝道旅行にマルコを連れて行くかどうかでパウロとバルナバとの間に反目が生じ、結局、バルナバはマルコを連れてキプロスに、パウロはシラスを連れてシリヤ、キリキヤに向けて出発することになりましたが、「それから」ということです。それからパウロはデルベに行き、次いでルステラに行きました。「使徒の働き」の記述はこれ以降、バルナバの働きは姿を消し、もっぱらパウロの働きが中心に描かれていきます。それは、この使徒の働きを書いたルカがパウロの弟子であり、実際、彼と一緒に伝道旅行に同行していたからであって、バルナバが間違っていたからではありません。もしルカがバルナバと一緒に行動を共にしていたら、きっとバルナバが中心に描かれていたこでしょう。しかし、彼はパウロと一緒でした。ですから、パウロを中心に描いているわけです。そのパウロがデルベ、ルステラに行ったとき何があったのでしょうか。そこでテモテという青年に出会い、彼を伝道旅行に連れていくようになるわけですが、そこで一つの出来事が起こりました。このテモテに割礼を受けさせたのです。救われるためには割礼などの旧約聖書の律法は必要ないとあれほど主張していたパウロが、いったいどうして割礼を受けさせたのでしょうか。

 きょうは、このことについて三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、テモテの人となりです。彼はとても評判の良い人でした。第二のことは、パウロはなぜこのテモテに割礼を受けさせたのかについてです。そして第三のことはその結果です。すなわち、福音のために生きる時、そこに大いなる神の御業が現れるということです。

 Ⅰ.評判の良い人(1-2)

まず第一に、1,2節をご覧ください。

「それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。」

 二回目の伝道旅行に出かけたパウロは、故郷タルソのあるキリキヤ地方を通り、諸教会を力づけると、そこからタウルス山脈を越えて、デルベに向かいました。そこから第一回目の時に行ったピシデヤのアンテオケ、イコニオム、ルステラの町々を、今度は逆にたどって行ったのです。すなわち、デルベからあの石で打ち殺されそうになった思い出の地ルステラへとです。すると、そこにテモテという弟子がいました。彼は先の伝道旅行の時、母や祖母とともにイエス様を信じてクリスチャンになっていたのでしょう。パウロが二回目に訪れたこの時には、りっぱに成長していました。

 このところには、テモテは「信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシャ人を父としていた」とあります。すなわち、彼はギリシャ人の父親とユダヤ人の母親の間に生まれた子どもでした。ユダヤ人の婦人が異邦人のギリシャ人と結婚することは、当時は考えられないことでした。ユダヤ人は純血を重んじていたからです。あの異邦人と結婚したサマリヤのユダヤ人は、「サマリヤ人」としてユダヤ人と区別され、蔑視され、異邦人同様に扱われていたのはそのためです。ですからユダヤ人が異邦人と結婚することはほとんどありませんでしたが、パレスチナから少し離れた小アジアでは、パレスチナほどは厳しくなかったのでしょう。もちろん律法に忠実なユダヤ人たちは、異邦人と結婚することはしませんでしたが、小アジアのフルギヤという地方では、ユダヤ人の婦人がかなり、当地の有力な家柄の人と結婚していたようです。このテモテの母がどのようないきさつでギリシャ人と結婚するようになったかはわかりませんが、ある意味での妥協であり、決して純粋な信仰だったとは言いがたいものがあります。それでも彼女は後にパウロの伝道によってイエス・キリストを信じ、クリスチャンになりました。

 パウロがこのテモテを今回の伝道旅行に連れて行きたかったのは、このように彼がユダヤ人と異邦人の間に生まれた子どもで、両方の影響を受けていたからでしょう。異邦人伝道にとって大いに役立つ者と思われたのです。しかし、パウロがテモテを連れて行きたかったのはそれだけの理由ではありませんでした。2節には、パウロが連れて行きたかったことの、もっと深い理由が記されてあります。それは、彼が「ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった」からです。

 この「評判が良い」ということは、クリスチャンにとってとても大事なことです。エルサレム教会で最初に選ばれた役員たちは、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人」でした(使徒6:3)。また、Iテモテ3:7にも、「教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません」と、監督の職につきたいと思う人に求められていた条件の一つに挙げられていました。それは「評判が良い」ということが、クリスチャンの良いあかしの結果でもあったからです。こうした評判は人間的なものでいくらでもごまかすことができるのだから、そんなに重要ではないと考える人もいます。確かに、人間の目は神の目とは違って絶対的なものではありませんから、時としてごまかされることもあるかもしれませんが、それだけ信仰に歩んでいることの一つの目安と見ることができると思います。

 たとえば、「高齢者の希望の星」と言われている聖路加国際病院理事長の日野原先生は、信仰をベースにした積極的な生き方で良い証しをしておられます。98歳を超えた今でも、スケジュールは2,3,年先まで一杯だと言われているほどの多忙な生活を送っておられます。その生き方は、ご自身の著書『生きかた上手』に紹介されておりますが、1992年に新病棟を建設した際に広大なロビーや礼拝堂施設を備えたことで有名です。日野原先生は、東京大空襲の際に満足な医療が出来なかったという経験を教訓に、大災害や戦争の際などに大量の被災者が発生しても機能出来る病棟としてそのような施設を備えようとしましたが、それが「過剰投資ではないか」と批判されました。しかし、1995年に起きた地下鉄サリン事件の際にはそれが遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたそのロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能し、犠牲者を最低限に抑えることにつながったのです。そうした日野原先生の判断や生き方のベースには聖書のことばが中心となった信仰が生きて働いていたからだということが紹介され、良いあかしとなりました。

 具体的にテモテがどのような生き方をしていたかはわかりませんが、彼の生き方はルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判が良かったのです。どうして彼は、そんなに評判の良い生き方ができたのでしょうか。パウロが晩年にテモテに書き送った手紙の中に、次のようなことばがあります。

「私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。」(Ⅱテモテ1:5)

 そうしたテモテの純粋な信仰は、幼い頃から母ユニケと祖母ロイスから受け継いだものだったのでょう。「ホワイトハウスを祈りの家にした大統領リンカーン」(ジョン・クゥアン著)もまた、母親から受け継いだ信仰の影響が大きかったと言われています。母親のナンシーは、彼がまだ幼く、文字も読めないころから、毎日聖書を読んで、彼のために祈ってくれました。たとえ貧しい環境の中でも決して希望を失わないように、聖書の中に出てくる信仰の人の話をよくしてくれたと言います。その母親ナンシーは風土病でこの世を去る間際に、まだ9歳だったリンカーンにこのように言ったと言われています。

「愛するエイブ(リンカーンの愛称)!この聖書は私の両親からいただいたものです。私が何度も読んで随分古くなったけれど、私たちの家の勝ちある宝物よ。私はおまえに百エーカー(約12万2千坪)の土地を残すより、この一冊の聖書をあげることができて心からえれしく思うわ。エイブ!おまえは聖書をよく読み、聖書のみことば通りに、神を愛し、隣人を愛する人になりなさい。これが私の最後のお願いよ。約束できるわね?)」(P28)

 リンカーンはまだ幼かったですが、この母の遺言を心の奥深くに刻み、母との約束を堅く誓いました。リンカーンのすべてのものは、この天使のような母から受け継いだものだったのです。みことばを中心とした信仰の教育が、その人の人生にもたらす影響がどれほど大きいものかがわかります。世の中の他のことが何もわからなくても、聖書を通して神様の道がわかればそれで十分なのです。そのような人はみことばによって神様の知恵が与えられ、その人格的が整えられて、評判の良い人になることができます。そして、テモテがパウロの伝道の働きに用いられたように、神様の働きに用いられる人になるのです。

 Ⅱ.すべては福音のために(3-4)

 さて、このように評判の良かったテモテを連れて行こうとしたパウロは、奇異と思われるような行動を取ります。パウロは、このテモテを連れて行くにあたり、彼に割礼を受けさせたのです。3節をご覧ください。

「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。」

 これまでパウロは、ユダヤ人が神の民のしるしとして信じていた割礼を受けなくても、イエス・キリストを救い主として信じるならそれだけで救われると、割礼を強要するユダヤ主義クリスチャンに対して、昂然と戦ってきたはずです。それなのに、ここでテモテに割礼を受けさせたのはどうしてだったのでしょうか。ある人はパウロのこうした態度に彼が二重人格者だったのではないかと考えたり、首尾一貫性に欠けるとまで非難しました。しかし、はたしてそうなのでしょうか。そうではありません。そのように考える人たちは、パウロを正しく理解していなかったり、彼を故意に陥れようとしているのです。確かに彼は、救われるためには割礼は必要ないと言いました。つまり救いはただ神の恵みによって、イエス・キリスト信じる信仰によるのであって、律法の行いによるのではないということを説き続けてきました。そして、そのために彼はいのちがけで闘って来たのです。それは4節にもあるように、今回の伝道旅行において、彼らが町々を巡回して、エルサレム会議で決まった内容を伝えていることからもわかります。それなのに、どうして彼はテモテに割礼を受けさせたのでしょうか。それは「その地方にいるユダヤ人の手前」です。彼の父がギリシャ人であることを、みなが知っていたからです。つまり、彼の父親がギリシャ人であることがよく知られているうえ割礼を受けていないということになると、ユダヤ人の間で問題になるからです。ユダヤ教の会堂では無割礼の者は説教することが許されませんでしたから、
どんなにテモテが彼らに伝道しようとしても彼は異邦人扱いされて、伝道できなかったでしょう。これでは福音の宣教もままなりません。パウロにとっては、割礼を受ける受けないは大事なことではありませんでしたが(ガラテヤ5:6)、そこにいたユダヤ人にも福音を聞いてもらうために割礼を受けさせた方がよいと判断したのです。もとよりパウロが、救われるためには割礼が必要であるなどと考えるはずもありません。そうした律法を強いるのろわれるべき律法主義に対しては福音の大敵であることは百も承知していましたし、絶対に譲歩するようなことはしませんでしたが、それがユダヤ人に福音を伝えるための有効な手段であるならば、割礼をあえて拒む必要はないと考えていたのです。すなわち、パウロがテモテに割礼を受けさせたのは、ユダヤ人を獲得するため、まさにこの一事のためだったのです。これはパウロがユダヤ人伝道において、ユダヤの文化と伝道、そして民族感情を福音伝達の経路として尊重していた姿でした。これがパウロの行動原理、基準だったのです。すなわち、ユダヤ人が救われるためにはユダヤ人のように、ギリシャ人が救われるためにはギリシャ人のようになるということです。そのことについて彼は、Iコリント9:13~23で次のように言っています。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」

 パウロはだれに対しても自由でしたが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となったのです。ユダヤ人にはユダヤ人のように、ギリシャ人にはギリシャ人のようにです。弱い人には弱い人のようにです。それは何とかして幾人かでも救うためです。彼はすべてのことをこの福音のために行ったのです。テモテに割礼を受けさせたのもその理由からでした。救われるためには割礼やその他いっさいの律法を行わなければならないといった条件は何もありませんが、そこにいたユダヤ人が幾人かでも救われるために、彼らの手前、そのようにしたのです。

 このことはパウロやテモテに限らず、私たちクリスチャンが抱く行動の原理、原則でもあります。私たちは尊いキリストの十字架の贖いによって救われた者として、幾人かでも救われるために、そのような原則の下に生きる者でなければならないのです。

 奥山先生が書かれた「宣教師入門」という本の中に、インドネシアの文化について紹介されてありますが、それによると、インドネシアでは、決して左手では物を渡さないそうです。それは軽蔑や侮辱の意味になるのだそうです。ですから物を渡す時には必ず右手を使います。大事な物をあげるとき、左手で渡したら相手は怒ってしまいます。なぜそうなのかはわかりませんが、仕方ありません。文化とはそのようなものだからです。大切なのは、その文化を変えようとすることではなく、その文化を尊重し、その文化に生きる者となることです。

 それはアラブの世界もそうです。こちらが善意だと思ってすることでも、必ずしも受け入れられるかというとそうではありません。東京外語大の牧野信也さんというアラブ語の先生が、若い頃アラブ語の勉強とアラブ世界の研究のために、アラブ諸国を旅行していたときに、そこでアラブ世界に関する貴重な資料のはいったかばんを盗まれて困ったことがありました。そこへひとりのアラブ人がやって来て、「何でそんなにがっかりしているのですか」と言うので、事情を説明すると、その方は親切に自宅へ招き、盛大なご馳走で歓迎してくれ、その家の一番立派な部屋に泊めてくれたというのです。
 感激した牧野氏は、翌朝、知っている限りのアラビヤ語で感謝を表すと、内ポケットから現金をつかみ出し、「これは感謝のしるしです」と言って彼に渡すと、そのとたんに、それまでニコニコしていたアラブ人の笑顔が消えて、顔がけいれんし、それから頭を押さえてうめき声を上げました。「なんという侮辱だ!」と。
 そのアラブ人は部屋に走り去ると、そのまま出てきなかったと言います。感謝のしるしにしたことでも、アラブ人にとってはもっともひどい侮辱の表現になることがあるのです。

 大切なのは、その文化を理解し、尊重し、それを受け入れることです。そのためには自分にしがみついていてはいけないのです。パウロのように、幾人かでも救うために、すべての人のようになるという姿勢が必要なのです。

 カルビン・ミラーという人が「空っぽの手」という本の中で、まさにイエス様がそうだったと言っています。イエス様は、私たちが最も大切にしている生命を差し出されることによって、この世を救ってくださいました。イエス様はご自分のいのちに対する執着を捨てることによって、渡したちにいのちをもたらしてくださったのです。神様は、イエスの空っぽの手にこの世を救うという賞をお与えになったのだと言うのです。だから、「手放しでつかみなさい」と。
 この声を聞いたダミアン神父は、皆が恐れていたハワイのモルカイ島へ行き、ハンセン病患者に仕えるため、自分の健康を放棄しました。
 「手放してつかみなさい」という声を聞いたウイリアム・ケアリは、イギリスの靴屋を離れ、インドに行って聖書翻訳の働きに従事し、40カ語のインド語の聖書を翻訳することができました。
 「手放してつかみなさい」という声を聞いたマザー・テレサは、アルバニアを放棄してカルカッタを与えられました。
 「手放してつかみなさい」という声を聞いたヒルトン大学の卒業生ジム・エリオットは、エクアドルに行き、いのちを投げ出して殉教者の栄光を受けました。 私たちも自分の手にあるものを放棄するとき、すばらしい祝福が与えられるのです。それがパウロの生き方だったのです。

 Ⅲ.こうして諸教会は・・(5)

 では、そのようなパウロの福音に対する姿勢によって、教会はどのようになったでしょうか。5節をご覧ください。

「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」

 「使徒の働き」は、これまで、聖霊の大きなみわざがあった後に、必ずそこに教会の増加と伸展を記してきました。たとえば、聖霊がペンテコステの日に下られ、教会が説教を始めたとき、「主も毎日救われて人々を仲間に加えてくださ」いました。(2:47)また、聖霊が、御霊と知恵に満ちた七人の役員を立てたときも、「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはい」りました。(6:7)大迫害者サウロがキリストの幻に打たれて盲目となり、聖霊に満たされて新しく働き出したときも、「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行」きました。(9:31)すなわち、このようなパウロの生き方の結果、教会は、その信仰が強められ、日ごとに成長していったのです。私たちの人生も同じです。私たちが自分の手にあるものを放棄し、すべてのことを福音のためにするなら、ともに福音の恵みを受けるようになるのです。

 日本のように神道、仏教、儒教といった異教と密接に結びついた文化や歴史の中で、これを適用していこうとすれば、いろいろな問題が起こってくるのは確かです。そこには妥協や迎合といったことに陥りやすいという危険もあるからです。福音に生きるとは、状況によっては、その真理を貫くために、文化や伝統、そして地域社会を後回しにしてでも、少しも妥協しないで戦っていかなければならないという一面があります。しかし、福音の根本的な原理にかかわる時には一歩も引かないといった態度を取りながらも、その置かれている文化や社会の中にあって、不必要な反発と抵抗を最大限に避けながら、福音を受け入れやすいように配慮することは重要なことであり、この日本の文化に生かされている私たちにも求められていることなのです。

 「リビングライフ」5月号に、キリスト者学生会の主事をしておられる大嶋さんが、「若者と生きる教会」というテーマで提言しておられます。現代において若者に最も関心のある宗教は何かと問うとキリスト教がトップに来るのに、なぜ彼らは教会を訪れないのかという問題意識中で、その一番大きな原因はクリスチャンの若者が自分の友人を教会に誘おうと思わないからだと言います。誘ってもその友人が教会に居心地の悪さを感じたり、あるいは礼拝中に退屈そうにしているのを見ると心が痛むのです。そして、「教会はもういいよ」なんて言われると、自分の存在まで否定されたかのように感じて、友達を教会に誘うことをしなくなるのです。
 では、どうしたらいいのか?大嶋さんは、若者を自分と同じような兄弟、つまり大人として扱うことが大事だと言っています。若者はその途上で大人になるべく信仰を得ていくために、教会の交わりの中で大人として認められることが必要だと、ご自分の経験を紹介しておられます。
 それは、大嶋さんが高校生の頃のことです。教会で牧師が辞任するという事態が起こったとき、その教会の役員で、日曜学校の教師をしていたご老人が、「しげちゃん、教会のために祈ってくれへんか」と言われました。「俺もな、良かれと思っていろいろやってきたんやけど、でも間違っていたこともいっぱいあると思う。俺のためにも祈って欲しいんや」と声をかけてきてくれたのです。そこで大嶋さんは拙い言葉でしたが、精一杯祈りました。祈った後で、その人がこう言ってくれました。
「ありがとう。しげちゃんは俺の友達やからな。」
 大嶋さんからしたら、友達だなんてとても言えないような存在です。むしろ、自分の信仰を育ててくれた人です。その人が自分を「友達」だと呼んでくれ、自分の祈りが教会の役に立っていることを味わせてくれました。そして、自分の友達を「この人なら安心して紹介できると」と、友達への伝道が始まったのです。
 だから、大切なのは若者に敬意を払い、尊敬の念を持っていることだと言います。「現代の若者は、ぱっとしない」と大人たちが言わないで、自分好みの若者クリスチャン像を押しつけるのでもなく、今すでに与えられている若者たちの存在を感謝し、彼らが教会が大好きになれるように関わることが大切です。要するに、彼らが友人を連れて来たくなるような存在に、私たち自身が「なる」ことが大切なのです。信仰の成功談は必要ではなく、必要なのは、失敗に満ちても尚、主のあわれみによって「何とかやっていける」クリスチャンをさらけ出してくれる存在です。そういう存在こそが、若者たちの傍らで大きな励ましとなるというのです。

 私は、この文章を読んで本当にチャレンジを受けました。若者だけに限らず、私たちが教会の伝道を考えるとき、このことが最も重要なのではないでしょうか。何か効果的なイベントに頼るのではなく、私たち自身がそのような存在であること。それが求められているのです。

 パウロは、幾人かでも救うためにすべての人のようになったと言いました。そ
れは今、私たちにも求められているのです。私たちも、だれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人のようになっていかなければなりません。そのとき、大いなる神様の御業が現されるのです。