使徒の働き16章6~10節 「聖霊に導かれて」

 きょうは「聖霊に導かれて」というテーマでお話をしたいと思います。マルコを連れて行くかどうかで激しく対立したパウロとバルナバは、結局、互いに別行動を取るようになりました。バルナバはマルコを連れてキプロスへ、パウロはシラスを伴ってシリヤおよびキリキヤを通ってデルベに向かいました。第二回伝道旅行の始まりです。使徒の働きは、ここからパウロの姿が中心に描かれていきます。このようにしてデルベに向かったパウロは、次いでルステラに、さらにはイコニオム、ピシデヤのアンテオケと進んで行きましたが、そこからさらにアジアにも行ってみことばを語ろうとしたところ、聖霊によって禁じられるという経験をしました。仕方なくフルギヤ・ガラテヤ地方を通ってムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤの方に行こうと思いましたら、今度はイエスの御霊によってその道が閉ざされてしまいました。それで彼はトロアスという港町に下ったのですが、そこで一つの幻を見ました。それはひとりのマケドニヤ人が「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するものでした。そこでパウロはただちにマケドニヤに出かけていくことにしました。こうして福音が、アジアから海を渡ってヨーロッパへと進んで行きました。近代に至るまでのキリスト教の中心舞台がこのヨーロッパであったことを思うとき、この出来事は歴史上画期的なことだった言えます。そのような出来事がどのようにして起こったのでしょうか。それは神の特別な導きによるものでした。

 きょうはこの特別な神の導きについて三つの点から学びたいと思います。第一のことは、神は私たちの人生に計画を持っておられるということです。第二のことは、その神の計画は今はわからなくても、あとでわかるようになるということです。ですから第三のことは、聖霊に導かれて進みましょうということです。

 Ⅰ.神は私たちの人生に計画を持っておられる(6-9)

 まず第一に、神様は私たちの人生に計画を持っておられということを見たいと思います。6-9節をご覧ください。

「それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。それでムシヤを通って、トロアスに下った。」

 パウロはシラスとともに、まずデルベ、次いでルステラに行き、そこでテモテを道連れにしてイコニオムへと進みました。おそらく次に、ピシデヤのアンテオケにも行ったでしょう。4節には、「さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた」とありますから。これらの町々は、第一回目の伝道旅行の時に彼らが訪れた所でした。そうした町々を訪れて先の伝道で救われた人たちがどうしているかを見ながら、先のエルサレム会議で決まったことを伝えて、彼らを励まそうと思ったのです。これらの町々は、ローマ帝国の政治的区域名で、ガラテヤ州に属する町々でした。巻末の地図をご覧いただくとわかりますが、そのまま西に進んで行きますとアジア州と呼ばれる州があり、そこにはコロサイ、ラオデキヤなどの町々に加え、この州の州都であったエペソという大きな町がありました。このエペソはアンテオケによく似た町で、多くのユダヤ人が住んでいたギリシャ風の大都市でした。ですから、この町がパウロを引きつけなかったはずはないのです。おそらくパウロはそのエペソに行って伝道したいと思ったのでしょう。ところが、そのアジアでみことばを語ろうとしたら聖霊によって禁じられたのです。聖霊によって禁じられるとはどういうことなのでしょうか。このことを理解するために、もう少し先に進んでいきましょう。そのように聖霊によって禁じられた彼らは、フルギヤ・ガラテヤの地方を通ってムシヤに面した所にやってきました。フルギヤ・ガラテヤ地方を通ってムシヤに面した所にやってきたというのは、ピシデヤのアンテオケから西にではなく北に向かって進んだということです。そのムシヤに面したところに来たとき、彼らはさらに北上してビデ二ヤという地方に行こうとしましたが、、今度はイエスの御霊がこれをお許しにならなかったのです。何でしょうか?「イエスの御霊」とは?6節にある「聖霊」とは「イエスの御霊」のことですから、「聖霊がそれをお許しにならなかった」と言ってもよかったのに、ルカはここで「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」と言いました。「イエスの御霊」とは「聖霊」と同じ御霊のことです。なのにルカがこのようにわざわざ言い方を変えたのは、御霊の啓示の方法が異なっていたからではないかと思います。通常は「聖霊によって導かれた」というところをこのように「イエスの御霊によって導かれた」というとき、それは、昇天されたイエス様との関係で語られるという面が強いのだと思います。Iコリント15:45には、

「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」

とありますが、この場合の「最後のアダム」とはイエス様のことを指しているのは明らかですから、この「生かす御霊」とは「イエスの御霊」のことを表しています。このように「聖霊」と「イエスの御霊」というのは言い方は違っても同じ御霊のことです。

 ところで、パウロはそのようにムシヤに面したところに来たとき、ビデ二ヤのほうに行こうとしたら、イエスの御霊によって禁じられたので、仕方なく北の方向ではなく西の方向に向かって進むことになり、結局、エーゲ海の港町トロアスに下ることになったのです。それにしても、あっちに行こうとしたら聖霊によって禁じられたり、こっちに行こうとしたらイエスの御霊によって禁じられたりというのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 一つの可能性として考えられるのは、聖霊が直接、超自然的にパウロに語られたということです。この時代にはまだ聖書が完結していませんでしたから、神がご自身のみこころを示される時には、聖霊が直接語られることがありました。たとえば、10章に出てきたコルネリオの回心の出来事では、聖霊が御使いを通してペテロとコルネリオに直接語られました。そのように、聖霊が直接語られることがあったのです。それから、聖書がまだ完結していなかったこの時代、神は預言者を通してご自身のみこころを示されることがありました。たとえば、使徒13:2のところには、預言者を通して聖霊が、「パウロとバルナバをわたしのために聖別し、わたしが召した任務につかせなさい」と語られましたが、そのようにです。そのように、この時も聖霊が直接パウロに語りかけ、超自然的に告げられたのかもしれません。

 しかし、ここではそのような聖霊の具体的なことばは何も記されておらず、パウロたちがしようとすることに対してただ「こうするな」と禁じる否定的な不許可ばかりであることから考えると、聖霊が直接的にことばをかけたというよりも、何らかの事情で、そうせざるを得なかったとか、それが神のみこころではないということが示されたと考えた方がいいと思います。このように聖霊は、ことばだけでなく、ある事件や事情によって、パウロの計画を禁じたり、妨げたりされたのです。

 その事情とは何だったのでしょうか。はっきりはわかりません。しかし、10節のところに「私たち」ということばが記されてあるのはとても興味深いことです。というのは、ここからこの「使徒の働き」を書いたルカが同行していることがわかるからです。ご存知のようにルカは医者でした。そのルカがトロアスでパウロの一行に加わったということは、パウロかほかのだれかが病気にかかっていて医者であったルカの手当を必要としていたのかもしれないのです。事実、後に書いたガラテヤ人への手紙の中でパウロは、次のように言っています。

「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」(4:13~14)

 これはどのようにしてパウロがガラテヤに行って福音を伝えるようになったかということの理由ですが、この中でパウロは、それは「私の肉体が弱かったためでした」と言っています。これが最初の旅行の時なのか、この時のことなのかはわかりません。パウロ自身はあっちに行って、こっちに行って伝道しようと思っていたのですが、最終的に医者の手当てが必要だということで、トロアスにいたルカのもとに行かなければならなかったのではないかと思います。病気のために旅行の日程を変えなければならないということはよく起こることです。パウロにとっては「どうしてそのようなことが起こるのか」と随分思い悩んだことでしょう。それはサタンの妨げではないかと疑いがなかったわけではありません。しかし、後で振り返ってみたとき、そのことでかえって新しい道が開かれていったことを思うとき、それは確かに聖霊の導きであると結論付けることができたのです。なぜなら、このことによって、何と福音がヨーロッパにまでもたらされていくことになったのですから・・・。

 このようなことは、私たちの人生にもよくあることではないでしょうか。こっちに行こうとしていたのに急にその道が閉ざされたり、時には方向転換を余儀なくされるような事が起こります。そのようなとき私たちは「どうしてこんなことが起こるの」と思って悩んでしまいます。とりわけ主のためにと思ってやっているのに、その道が阻まれたりするような時はなおさら思うものです。そのようなとき私たちは、自分の思いはみこころと違うのではないかとか、自分の判断は間違っていたのではないか、サタンが自分の道を妨げているのではないか、時には自分は呪われているのではないかとさえ思い悩んでしまいます。しかし、聖書は「御霊によって禁じられたので」「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」というのです。時に足止めを食らったり、まわり道をさせられたり、試行錯誤を繰り返したりといったすべてのことが、御霊の導きの中で行われていくのです。
それは神は私たちの人生に計画を持っておられるからなのであって、そのことを通して新たな道へと導いておられるからなのです。であれば、私たちはそのことで思い悩まず、たとえ神のご計画の全貌がわからなくとも、この神にすべてをゆだねて進んでいかなければなりません。

 このあとで、パウロがピリピの町で占いの霊につかれた若い女性からイエスの御名によって霊を追い出すと、もうける望みがなくなった彼女の主人たちから訴えられ、牢に入れられるという出来事が起こります。キリストの御名によって悪霊を追い出し、その御名による救いを宣べ伝えていたパウロにとっては、どうしてそのようなことになったののかと思ったことでしょう。それでも彼らが牢の中で祈りと賛美をささげていると、突然、大地震が起こって、獄舎のとびらが全部開いてしまいました。それを見た看守はもうだめだと思って自害しようとしたとき、パウロが「自害してはいけない。私たちはみんなここにいる」と言いました。そこで看守が、「先生がた。救われるためにはどうしたらいいか」と尋ねると、パウロは言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。すると看守はそのことばを受け入れ、その夜、彼と家族の者全部がバプテスマを受けたのです。パウロにとっては「どうして」と思うような出来事でしたが、そのことがむしろ、福音を受け入れるのが最も難しいとされていたローマの親衛隊が救われるという神の御業につながって行ったのです。それが神の計画だったのです。

 韓国サミル教会の牧師ジョン・ビョンウク師が書いた「パワー・ローマ書」という著書の中にこんな話が出てきます。ある漁村から沖へ出た漁船が、折りからの大風の中、真夜中になっても戻ってきませんでした。遭難したのです。いつ戻ってくるのかと心配した家族は、その家に集まって気をもみながら待っていました。ところが、そのように待っている間に、何と子供たちが遊んでいてろうそくを倒してしまい、その家が火事になってしまったのです。何という災難でしょうか。夫は遭難して行方不明、家は火事でまる焼けになってしまうとは・・・。
 ところが、一夜明けた翌朝、遭難したはずの船が戻って来たのです。船乗りたちの話では、大風で船が方向を失ったとき、突然、陸地の方から火の手が上がるのを見て、それで航路を定めて戻ることができたということでした。
 あの火事は災いだったのでしょうか。そうではありません。あの火事があったからこそ船は戻ることができたのです。それが神の計画だったのです。

 私たちの人生には「どうしてこんなことが・・・」と思うようなことがよく起こりますが、神を愛し、神のご計画に従って召された人にとってはそれは災いではありません。なぜなら、神がすべてのことを働かせて益としてくださるからです。大切なのは、神は私たち一人一人の人生に計画を持っておられることを知り、そのご計画に従って生きることです。

 Ⅱ.あとでわかるようになる(9-10)
 
第二のことは、あとでわかるようになるということです。9,10節をご覧ください。

「ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。」

 アジアでみことばを語ることを禁じられ、ビテニヤに進もうと思ったら、今度はイエスの御霊によって禁じられ、仕方なくトロアスまで下って来たのは良いものの、パウロは伝道に対するある種の行き詰まりのようなものを感じ、一時的に失望していたことでしょう。そんな時、そのトロアスに滞在していたある夜、彼は一つの幻を見ました。それは、ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願しているものでした。

 この幻が何であったのかはわかりません。ある学者は、トロアスで一緒になったルカから対岸のマケドニヤの霊的貧困の状態をつぶさに聞かされたパウロが、それに刺激されて見た夢ではないかと考えていますが、その幻がどのようなものであれ一つだけ確かなことは、この幻がこれまでパウロが進もうとしていた道を聖霊によって禁じられ進路変更を余儀なくされたことの理由を明らかにするものであったということです。というのは10節のところでパウロは、その幻を見たとき、ただちにマケドニヤへ出かけていくことにしたからです。それは、神が彼らを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからです。

 この「確信する」と訳されたことばは、「いっしょに結び合わせる」という意味のギリシャ語で、いろいろな証拠から一つの結論を導き出すときに使われることばです。この時パウロは、これまでの事の成り行きに困惑していたことでしょう。アジアで伝道しようとしても、ビテニヤに行こうとしても、いろいろな理由でそれが妨げられて進んでいくことができなかったので、いったいこれはどういうことなのか?どうしたらいいのか?と思い悩んでいたに違いありません。そんな時、対岸マケドニヤ人の霊的貧困の話を聞き、伝道の必要性を痛感していたら、今度は夢の中でマケドニヤ人が「来て、助けてください」と叫んでいるのを見るのです。そうした一つ一つの出来事を結び合わせてみたら、そこに確かな一本の糸が見えてきたのです。それは、神が彼らをマケドニヤに招き、彼らに福音を宣べさせようとしておられたということでした。それで彼らはただちに出かけて行くことにしたのです。トロアスから船に乗ってマケドニヤのネアポリスまで。このようにしてイエス・キリストの福音が海を渡って初めてヨーロッパに伝えられていくことになったのです。聖霊によって道が閉ざされ、回り道をさせられたという出来事は、このためだったのです。パウロはそのことがはっきりわかりました。

 このように、私たちの人生に起こる様々な出来事は、神の国全体のご計画の中に組み込まれるとき、その一つ一つの出来事が大きな意味を持つようになるのです。それはちょうど巨大な壁画を飾るパズルのようです。最初はそれがどのような絵なのかはわかりませんが、一つ一つのパズルのピースが組み込まれていくとき、「ああ、こういうことだったのか」ということがあとで明らかになってくるのです。

 旧約聖書に出てくるエステルという女性もそんな経験をした人の一人です。舞台はペルシャという異国の地です。そこで美人コンテストが行われて見事に優勝。ペルシャの王アハシュエロスの妃になりました。それはエステルが望んでいたことではありませんでした。よりによってどうして異国の王妃にならなければならないのか、彼女にはさっぱりわかりませんでした。そのような境遇をどんなに呪ったことでしょう。
 そんなとき一つの事件が起こるのです。何とユダヤ人で彼女のおじさんのモルデカイが、王に仕えていたハマンという人物を拝まなかったことからユダヤ人を皆殺しにするということになってしまったのです。ユダヤ人絶滅の危機です。そのような絶滅の危機から救ったのがこのエステルでした。彼女はモルデカイからそのことを聞くも、王の許可がなければ王の前に出ることが許されていない中、自分がこのように王妃となったのはこのためだったのかもしれないと、命をかけて王の前に出て、ユダヤ人を救ってくれるようにと懇願するのです。そのエステルの願いは聞かれ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われ、逆にユダヤ人を皆殺しにしようとしたハマンは木に掛けられて殺されました。
 エステルははじめ、自分がなぜペルシャの王妃にならなければならないのかがさっぱりわからなかったでしょう。しかし、そうした一つ一つの出来事を神の国のご計画の中で組み込んで見たとき、その意味がはっきりわかったのです。

 ルツもそうでした。ルツはモアブの女性でしたが、ききんのためユダヤのベツレヘムからやってきたナオミの子と結婚して一緒に暮らしていました。ところが、その夫が死んでしまいました。失意の中でユダの地に戻ろうとしていたナオミはルツに、自分の家に帰るように勧めましたが聞く耳を持たず、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言って、ユダの地について来ました。姑ナオミといっしょにユダに地にやって来たルツは、そこで落ち穂を拾ってナオミを助け、生計を保っていました。「15,16,17と私の人生暗かった」という歌がありますが、ルツの人生はお先真っ暗という感じの生活が続きました。なんのために生きているのかさえもわからなかったでしょう。しかし、やがて一つの転機が訪れました。落ち穂を拾っていた畑の主人ボアズと出会ったのです。やがて二人は結婚して子供が生まれました。それがダビデの父エッサイの父のオベデでした。やがてこのダビデから救い主が誕生してくるのです。マタイの福音書1章を見ると、あのキリストの系図の中にこの異邦人ルツの名前がちゃっかりと連ねているのがわかります。彼女も、自分がなぜナオミの息子と結婚しユダの地までやって来て彼女を養わなければならなかったのかさっぱりわからなかったでしょう。しかし、ボアズと出会って結婚したとき、「ああ、こういうことだったのか」ということがわかったのです。もっとはっきりわかったのは、おそらく死んで天国に行ってからのことでしょう。今ごろエステルも、ルツも、神様がなされた御業を見て、「神様ってすごいわね」と語り合っているのではないかと思います。

 娘がまだ小さい時、プラレールというおもちゃを買って遊んだことがあります。プラスチックのレールをいくつもつなげて大きなレールを作り、その上を新幹線を走らせるというものです。山あり、橋あり、トンネルありと、なかなかススリングなおもちゃでした。ずっと寝そべって見ているこどもは、トンネルから急に飛び出してくる新幹線に絶叫しました。そんな娘に私は、「いいかい。もうすぐ新幹線がトンネルから出てくるから見てて。3,2,1,ほら」というと、本当に新幹線が出てくるので、こどもたちがびっくりして「お父さん、すごい。どうしてわかったの?」と聞くのでした。調子に乗って、「いいかい。もう一回出てくるから見てて。3,2,1ほら。」というと、「なんだ。上から見てるからわかったのか・・・」とがっかりです。
 そうです。上から見ているのです。上から見てその全体像を見ている中で新幹線の動きを言っただけでした。

 神様も同じです。神様は私たちのような近視眼的な味方ではなく、神の国全体を見渡した中で最善の計画をもっておられるのです。それが今どのようなものなのかがわからなくても、やがてわかるようになります。パウロが「確信した」ように、私たちも「そういうことだったのか」と確信できる時がやってきます。ですから、たとえ今の時点ですべてのことがわからなくても、神様は最善に導いておられると信じて、神様が導いてくださるままに進んで行かなければなりません。

 Ⅲ.聖霊に導かれて(10)  

 最後に、このような聖霊の導きに対して私たちはどうあるべきなのかを見て終わりたいと思います。もう一度10節に注目してみましょう。マケドニヤに渡って来て、自分たちを助けてくださいと懇願する幻を見たパウロはどうしたでしょうか。ただちにマケドニヤへ出かけることにしました。パウロはこうした聖霊の導きにいつも敏感に従いました。それは彼がマケドニヤに出かけて行った時だけでなく、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた時も、あるいは、ビテニヤのほうに行こうとした時にイエスの御霊によってその道が閉ざされた時も同じでした。この時、もしパウロがアジアでの宣教にこだわっていたら、また、あくまでもビテニヤに行って伝道しようとしていたらどうだったでしょうか。ヨーロッパに福音がもたらされることはなかったでしょう。いや、もしかしたら別の方法でもたらされていったかもしれません。しかし、神が望んでおられた方法は、このようにパウロたちによって伝えられていくことだったのです。そのような聖霊の導きに対して、パウロは個人的な思いや人間的な感情にとらわれたりせず、絶えず神の御声に耳を傾け、その御声に従ったのです。その結果、福音が全世界に向かって前進して行ったのです。これがみこころに生きる者の姿です。

 アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツの監督であるトニー・ダンジーは、息子さんが亡くなったとき深い悲しみに沈みました。しかし、彼は葬儀場で慰めに来た人々にこう言いました。
「皆さんにお伝えしたいことがあります。師はここで涙を見せていますが、この涙は悲劇の中でなされるお祭りです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるからです。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中にその愛を現してくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられることと、そして変わらずに私を愛しておられること、そして私のためにご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と質問しながら歩んでいます。」
 
 みことばを注意深く聞くとはこういうことです。どのようなことであっても、その出来事の本当の目的に気づき、いつも真実な心でみことばを聞くことなのです。そうすれば、信仰の年を重ねるごとに、私たちの人生にさらに多くのものが与えられる恵みを味わうことができるのです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

 神が私たちに持っておられる計画は災いではなく、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。そう信じて、聖霊に導かれながら神様に示された道を一歩一歩踏みしめながら進んで行きたいと思います。