使徒の働き25章13~27節 「イエスは生きている」

 きょうは「イエスは生きている」というタイトルでお話をしたいと思います。きょうのところは、ユダヤの王アグリッパとその妹であるベルニケが、ローマの総督フェストを表敬訪問した時の話です。アグリッパというのは名前は「リッパ」ですが、全然そういうことはありません。この人物は、カイザリヤの隣接地で、当時ローマ皇帝ネロの保護国であったカルプスの王でした。イエス・キリストが馬小屋でお生まれになった時、二歳以下の男の子が皆殺しにされたという有名な話がありますが、それは彼の曽祖父(そうそふ:ひいおじいさん)のヘロデ大王によって為されたことでした。また、バプテスマのヨハネの首を切ったのは彼の叔父に当たるヘロデ・アンテパスです。そして、使徒の働き12章に出てくるヤコブを剣で殺したのは彼の父ヘロデ・アグリッパ1世でした。彼の父は神に栄光を帰することをしなかったので、虫にかまれて死にました。ですからこのアグリッパ王とはヘロデ・アグリッパ2世のことですが、キリスト教とは切っても切り離せない人物でした。そのアグリッパがフェストのところにやって来たのです。その内容はこれまで記されてきたことの繰り返しのようですが、ルカはなぜかこの話を事細かに記しました。いったい彼はなぜこの話をここに記したのでしょうか。それは19節に表されていることを伝えたからではないかと思います。

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」

 つまり「死んでしまったイエス」を、パウロが「そのイエスが生きている」と主張していたということを伝えたかったのではないかと思います。なぜなら、それは福音の中心的なメッセージだからです。いやそれは単なるメッセージだけでなく、それを信じて生きているクリスチャンにとっては喜ばしい希望であり、その人の人生を根本的に変革する力になるからです。

 きょうはこの「イエスは生きている」ということについて三つのことをお話したいと思います。第一のことは、イエスは復活し今も生きておられるということです。第二のことは、このメッセージは私たちの生き方を根本的に変えるということです。ですから第三のことは、この復活の信仰に生きましょうということです。

 Ⅰ.イエスは生きている(13-19)

 まず第一に、イエスは生きておられるということを見ていきましょう。13~19節までのところをご覧ください。アグリッパ王とベルニケがフェストを表敬訪問すると、フェストは自分のもとに捕らえられて長く獄中生活をしたいたパウロの一件を持ち出して次のように言いました。14節からのところです。

「ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がおります。私がエルサレムに行ったとき、祭司たちとユダヤ人の長老たちとが、その男のことを私に訴え出て、罪に定めるように要求しました。そのとき私は、『被告が、彼を訴えた者の面前で訴えに対して弁明する機会を与えられないで、そのまま引き渡されるということはローマの慣例ではない』と答えておきました。そういうわけで、訴える者たちがここに集まったとき、私は時を移さず、その翌日、裁判の席に着いて、その男を出廷させました。訴えた者たちは立ち上がりましたが、私が予期していたような犯罪についての訴えは何一つ申し立てませんでした。ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」

 囚人パウロについてフェストがアグリッパ王に対して語る事情説明は、これまで23章から25章にかけて見てきた様子の繰り返しとも言えるものですが、この中でフェストは、前任者ペリクスがパウロの裁判を延期してやる気のない態度を見せたのに対して、自分はそうではないと強調します。着任早々時を移さずこの問題の処理にあたってきたからです。しかし、ここで彼らが訴えていたことはフェストが予期していたようなことではなく彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロが主張していることでした。

 私たちはこれまで、たとえば、23章6節や24章15節のところなどで、「死者の復活という望み」についての論争を見てきましたが、それは何のことだったのかというと、イエスの復活のことを指していたのです。つまり、イエスは復活して今も生きているということを念頭にパウロはずっと語っていたのです。なぜこのことが重要だったのかというと、もしそれが事実であればパウロが主張していたことが真実であり、イエスが神の子、救い主であるという決定的な証拠となるからです。死んで終わりならそれまでのことです。しかし、死んで復活したということなると、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったということであり、それは旧約聖書に預言されていたとおりのことになるのですから、イエスこそメシヤであることの決定的な裏付けにもなるわけです。それだけでなく、それは私たちの生き方にも大きな影響を及ぼすことになるのです。

 それこそルカがこの使徒の働きの中で言いたかったことなのでしないでしょうか。私たちはこれまでこの使徒の働きの中でペテロやパウロのメッセージを見てきましたが、その中心は何だったのかというと、キリストはよみがえられ、生きておられるということです。「キリストはよみがえられて、また死なれた」というのではなく、「よみかせえられて、この二千年間、ずっと生きておられる」ということです。
 たとえば、2章31節のところにはペンテコステの日のペテロの説教が記されてありますが、その時ペテロは何といったかというとこうです。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」
 また、3章にはペテロとヨハネが「美しの門」のところで生まれながら足のきかない人をいやされた話があります。ペテロとヨハネが宮に入ろうとするとその男は施しを求めたので、彼らはその男を見つめてこう言いました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストによって、歩きなさい。」(3:6)そして彼の右手を取って立たせると、たちまちのうちに足とくるぶしが強くなって、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行きました。いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。主イエスが生きておられるからです。主イエスは私たちの罪のために十字架にかかって死なれましたが、三日目によみがえられました。その主イエスの御名がこの人をいやし、強くし、立たせてくださったのです。ですから、使徒たちは、このようにあかししました。4章33節です。

「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」

 十字架につけられたあのイエスは、よみがえって今ここにおられる。キリストはよみがえられたのだ」というのが、使徒たちのメッセージの中心だったのです。そして、それはパウロも主張していたことであり、現代の私たちが伝えるべきメッセージの中心でもあるのです。イエス・キリストを信じる信仰、それは、二千年前の出来事をただ研究することではなく、よみがえって今もここにおられるキリストと人格的な交わりをすること、そのイエスを経験することにあるのです。

 皆さんは、「偉大な生涯の物語」という映画をご覧になられたことがあるでしょうか。長い4時間くらいの映画です。この映画には、すごい俳優さんたちがたくさん出てきます。たとえば、ジョン・ウェインという西部劇の大スターやパット・ブーンという大スターです。パット・ブーンは、復活の墓の所にいる天使の役で、台詞はたった一言、「あなたがたはなぜ生きている方を死人の中で探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」と言うだけです。彼は名前のごとく、パッと出て来て、パッと終わるのです。私の家内もパットです。しかし、彼は後で、「自分は今までいろいろな映画に出て、いろんなことを台詞でしゃべったが、あの台詞ほどすばらしいものはなかった」と言ったそうです。「あなたがたはなぜ生きている方を死人の中から探すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。よみがえられて今も生きておられるのです。」まさにクリスチャンとして、これほどすばらしい台詞はありません。パウロが主張したのは、この復活の主イエスだったのです。

 Ⅱ.復活の信仰は人生を変える(20-21)

 第二のことは、この信仰は私たちの生き方を変えるということです。20~21節をご覧ください。イエスは復活して生きていると主張するパウロに対して、フェストはどのような態度を取ったでしょうか。

「このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいのか』と尋ねたところが、パウロは、皇帝の判決を受けるまで保護してほしいと願い出たので、彼をカイザルのもとに送る時まで守っておくように、命じておきました。」

 イエスは生きているというパウロの主張に対して、フェストはこう言いました。「このような問題をどう調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に「エルサレムに上り、そこで、この事件について裁判を受けたいか」と尋ねました。」しかしこれは嘘です。これは25章9節のことですが、あの時フェストがパウロにエルサレムに上り、そこでこの事件について裁判を受けることを願うかと尋ねたのは、それはこの問題をどうしたらよいかわからなかったからではなく、ある一つの魂胆があったからです。それはユダヤ人の歓心を買うということです。すなわち、フェストは、ユダヤ人との関係が悪化することを恐れ、彼らの歓心を買おうとしてこのような提案をしたのです。ユダヤ人たちとの関係が悪化したら、自分の立場が危うくなると思ったのでしょう。パウロをエルサレムに連れて行き、そこで裁判を受けさせることによって、ユダヤ人たちの好意を得られると考えたのです。しかしパウロがそれを断り、カイザルに上訴すると、今度はそのために書き送る書類作成に大あわてです。26,27節をご覧ください。

「ところが、彼について、わが君に書き送るべき確かな事がらが一つもないのです。それで皆さんの前に、わけてもアグリッパ王よ、あなたの前に、彼を連れてまいりました。取り調べをしてみたら、何か書き送るべきことが得られましょう。
囚人を送るのに、その訴えの個条を示さないのは、理に合わないと思うのです。」

 この「わが君」というのはカイザルのことです。フェストはカイザルのことを「わが君」と呼んでいます。これは私たちが「主イエス・キリスト」というときの「主」と呼ぶのと同じことばです。これはかつてローマ皇帝アウグストやテベリオらが、これは神の称号だから自分が使うのは辞退すると言ったほどのことばで、宗教的称号でした。つまりフェストにとってカイザルは神だったのです。カイザルを神のように恐れていたのでした。いつの時代でもこの世においては同じです。人との関係が悪化することを恐れ、そうした人たちの歓心を買おうと躍起になったり、自分の立場を守ろうと働いたりするのです。

 しかし、クリスチャンは違います。イエスが復活して今も生きておられると証言するクリスチャンは、そのように人々の関心を買おうとしたり、次々と代わる総督や大祭司、皇帝を恐れたりはしません。それが神のみこころだと確信したなら、何年かかっても一貫して、前進していくことを願い、一歩もたじろぐことなく、不動の心でみこころに向かって進んでいくのです。ローマだったらローマへ、イスパニヤだったらイスパニヤへ、ただキリストのご用のために生きることを願うのです。なぜ?なぜなら、キリストは復活して、今も生きておられると信じているからです。イエスが復活したのであれば、やがて来る審判の時にも、主が正しくさばいてくださいます。私たちはその審判に備えて、神の前にも、人の前にも、責められるところのない良心を持って生きられたなら、それで十分なのです。その他の何も恐れる必要はありません。ですから、イエスが復活したと信じることは、私たちの信仰においても、生活においても、将来の見通しについても、根本的な大変革をもたらすのです。

 最近、とても感動的な証を聞きました。一人の元イスラム教徒の証です。彼女の名前はハワ・アシュメッドといいます。彼女は女学校の寮にいた時に、キリスト教の一枚のトラクトを見てクリスチャンになる決心をしました。イスラム教徒が他の宗教を信じるというのはかなり大変なことです。とりわけ彼女のお父さんはイスラム教の指導者でした。赦されるはずがありません。
 最初はむちで打ったり、なぐったりして信仰を捨てさせようとしましたが、彼女は頑として信仰を捨てませんでした。最後は、一族の恥だと言うことで仕方なく、彼女を殺すことになりました。電気いすに座らせ、コードを電源に差し込みました。ところが、電気が来ないのです。それで、コードを代えてまた差し込むのですが、また電気が来ないのです。結局、4回も試しましたが、電気はつながりませんでした。それで、お父さんとお兄さんは、あきらめて彼女を真っ裸にして、「二度と帰って来るな」と言って追い出したのです。近所の人々は、彼女が美しい真っ白な衣に覆われて、走って逃げて行ったと証言しています。彼女は、今EHCという団体の伝道者として働いています。

 キリストは十字架につけられて死なれましたが三日目によみがえられました。そして、今日も聖霊をとおして働いておられます。私たちの人生に、いつも共にいてくださるのです。
 
 Ⅲ.復活の信仰に生きる(23-24)
  
 ですから第三のことは、復活の信仰に生きましょうということです。23節をご覧ください。

「こういうわけで、翌日、アグリッパとベルニケは、大いに威儀を整えて到着し、千人隊長たちや市の首脳者たちにつき添われて講堂に入った。そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られた。」

 こういうわけで、その翌日、アグリッパとベルニケは、千人隊長たちや市の首脳者たちに付き添われて講堂に入りました。この時の彼らの装いに注目してください。ここには「大いに威儀を整えて」とあります。この「威儀」ということばは、ギリシャ語の「ファンタジー」ということばで、夢や幻のような華麗さを表す時に使われることばです。彼らは堂々たる行列を従えて、まさに大名行列のような華やかさで、講堂に入ったのです。

 それに対してパウロはどうだったでしょうか。「そのとき、フェストの命令によってパウロが連れて来られ」ましたが、それは見る影もない囚人の姿だったでしょう。けれども、このパウロこそがここでの主役でした。なぜなら、このことによってかつてイエス様が預言したことが成就することになったからです。

「 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」(ルカ21:12)

 主イエスは、この世の終わりの時、人々はあなたがたを捕らえて迫害すると言われました。キリストの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう、と言われました。その約束が今ここに成就したのです。言い換えるならそれは、復活して今も生きておられる主イエスが導いてくださった事であり、この福音をあかしする絶好の機会でもあったということです。鎖につながれた囚人としてであろうが、興味本位からの尋問であろうが、それが福音を語る機会となるのであれば、パウロにとってそれは幸いなことだったのです。すべてのことが主の御手の中にあり、復活の主イエスが導いておられることだと信じて、この復活の信仰に生きる者でありたいと思うのです。パウロはこのように言っています。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(Ⅱコリント4:8~10)

 イエスが生きておられるから、このような苦しみの続く日々においても窮することなく、行きづまることなく歩んでいくことができる。イエスが生きておられるから、見捨てられず、倒されず、滅びることなく生きていくことができる。ある方がこのところからクリスチャンはノックダウンされることはあってもノックアウトされることはないと言われましたが、まさにそうです。倒されても、滅びることはないのです。イエスのいのちに与った者たちは、このような生き方ができるのです。それは復活のイエスが、今も生きて私たちを支えていてくださるからです。まさにルカがこのところで伝えたかったことは、イエスは生きていると主張するパウロの姿ではなく、そのように主張するパウロを通してまさにイエスが今生きておられるという事実そのものだったのではないでしょう。この生きておられる主イエスに支えられながら、私たちはこの信仰に堅く立って歩んで行く者でありたいと思います。