使徒の働き26章1~23節 「天からの啓示にそむかず」

 きょうは「天からの啓示にそむかず」というタイトルでお話したいと思います。今読んでいただいた箇所は、アグリッパ王の前におけるパウロの弁明が記されてあるところです。アグリッパ王とその妹のベルニケがローマの総督フェストを訪れた時フェストがパウロの話を持ち出すと、アグリッパ王が是非ともパウロの話を聞きたいと申し出たので、彼の前にパウロが連れて来られたのです。この弁明の中でパウロが言いたかったことは何だったのでしょうか。19,20節をご覧ください。

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。」

 パウロが言いたかったことは、このことではなかったかと思うのです。それは、パウロがなぜ彼がキリストの福音を宣べ伝えてきたのかということです。それは天からの啓示だったからです。ですからパウロはこの天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめ、ユダヤ地方にいる人々にも、さらには、異邦人に至るまで、すべての人に悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきたのです。

 きょうは、この「天からの啓示にそむかず」ということについて、三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、とげのついた棒をけることは痛いことであるということです。第二のことは、ではパウロが受けた天からの啓示とはどんなものだったのでしょうか。第三のことは、だからこの天からの啓示にそむかずにということです。

 Ⅰ.とげのついた棒をけることは痛い(1-14)

 まず第一に、とげのたいた棒をけることは痛いことだということについて見ていきたいと思います。1節から14節までのところに注目していただきたいと思います。まず1節から3節のまでをご覧ください。

「すると、アグリッパがパウロに、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい」と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。」

 まずパウロはアグリッパ王に対して、自分がユダヤ人に訴えられていることについて弁明できることを幸いに存じます、と礼儀正しく、丁寧に語り出します。それは彼の中に、このことが福音をあかしできる絶好の機会であるという思いがあったからでしょう。使徒9章15節には、パウロがダマスコ途上で回心した時に、主がアナニヤを通して語られたことがが記されてあります。

「しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。」

 このことばのとおりに、今やパウロは、アグリッパ王の前でキリストをあかしする機会が与えられたのです。それは主がアナニヤを通して語られた預言の通りでした。鎖につながれた囚人であろうが、興味本位からの尋問であろうが、それが福音を語る機会になるのであれば、パウロにとって「幸い」なことだったのです。それはパウロだけのことではありません。私たちも同じです。私たちも時としてつまらぬ誤解や中傷を受けたり迫害にあったりすることがありますが、それがどんなことであれ福音を宣べ伝える機会としてとらえることができたら、どんなに幸いなことかと思うのです。

 さて、このような感謝を述べた後で、パウロが語った弁明とはどんなものだったのでしょうか。4節から11節までのところです。

「では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若いときからの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。
彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。そして今、神が私たちの父祖たちに約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。」

 パウロがまずアグリッパ王に申し上げたかったことは、自分が、王もよく承知しているユダヤ教の党派の中でも最も厳格だと言われているパリサイ派に属し、その教えに従って生活してきたという事実です。それはすべてのユダヤ人が知っていることです。ところが、妙なことに、パウロがこのパリサイ派の教えに従い、先祖たちが得たいと望んでいた約束のもののことで訴えられているのです。その約束のものとは何でしょうか。それはイスラエルの12部族が、夜も昼も熱心に神に仕えながら得たいと望んでいたもので、死者の復活のことです。8節をご覧ください。

「神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」

 それは確かにユダヤ人であるなら、サドカイ人たちのような一部の人たちを除いてみな望んでいたものでした。にもかかわらず、あのナザレ人イエスが復活したという知らせの前には、たちまちつまずいてしまったのです。
不思議ですね。死者の復活という希望を待ち望んでいた彼らが、いざイエスが復活したとなると受け入れられなかっただけでなく、そのように主張する人たちに激しく敵対したというのですから。

 それはパウロ自身も同じでした。9節、彼も「以前は、ナザレのイエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。」いや考えただけではありません。10節、「それをエルサレムで実行しました。」どんなふうに?「祭司長たちから権限を授けられたパウロは、多くの聖徒たちを牢に入れ、その人たちが殺される時には、それに賛成の票を投じました。」それだけではありませんよ。11節、「また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行」ったのです。

 あれほど死者の復活を信じ、その希望を待ち望んでいたパウロでしたが、ほんとうにイエスが復活したと聞くと、その事実を否定しただけでなく、そうした教えにつまずき、激しく反発したのです。彼は頭ではそう信じていましたが、いざそれがほんとうに起こったということを聞くと、納得することができなかったのです。なぜでしょうか?それは彼の中にある一つの思いこみがあったからです。すそれは十字架です。十字架につけられて死んだイエスがメシヤであるはずがないという思いこみです。というのは、旧約聖書には、「木にかけられる者はのろわれたものである」(申命記21:23,ガラテヤ3:13)と書かれてあるからです。神にのろわれて死んだはずのイエスが復活したということを、どうやって信じろというのか。確かに旧約聖書には、そのようなことが預言されていました(イザヤ53章4~6節など)が、まさかメシヤに限ってそんなことがあるはずがないと思い込んでいたのです。

 皆さん、ここにキリストのつまずきがあります。しかしここにこそ、キリストの福音もあるのです。なぜなら、苦しみとのろいを受けて私たちの身代わりとなり、そしていのちへとよみがえってくださったからこそ、死者の復活がほんとうの希望に変わるからです。これは不条理なことのようですが、しかし、このキリストの不条理を信じなければ、私たちのような者が希望を持つということは、それこそ成り立たないものなのです。

 デンマークに、キルケゴールという哲学者がいましたが、彼は、こんな言葉を残しています。
「キリスト教には大きなつまずき(十字架と復活のこと)がある。もしも、キリスト教が十字架と復活を言わなかったならば、良い教えだと人は集まって来るかもしれない。けれども、そこには救いはない。キリスト教の救いというのは、このつまずきの前に人間が粉々にされて、謙虚になって、そのつまずきを信じることによって乗り越えさせていただくものだからである。分かることによって乗り越えるのではない。粉々に打ち砕かれて、自分とは何と無知な者であるかということが分かって、このつまずきは乗り越えられるのだ。」

 ある意味で理解できないことや、私たちの頭で説明できないことは、とてもいらいらすることですが、神のことばがそう言っている以上、私たちは幼子のようにへりくだって自分のプライドを捨てて、主の前にひざまずいて信じること、それ以外に救いの道はないのです。

 そんなパウロが砕かれる出来事が起こります。彼がダマスコに向かっていた途中、その復活の主イエスに出会ったのです。12節から14節です。

「このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、その途中、正午ごろ、王よ。私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』」

 ダマスコ途上でのパウロの回心物語の記述は、9章、22章に続いてこれで3回目です。しかし、それぞれそれが語られたときの対象や背景が違うので、その内容も微妙に違っていることに気づきます。その一つがこのところには、復活の主イエスがヘブル語でパウロに語りかけたことばが記されてあることです。これは今までの回心物語には記されていなかったことでした。それは、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」ということばです。これはいったいどういう意味でしょうか。

 この表現は、牛を仕事に追いやる時に使ったとげのあるむちのことです。農夫は牛に鋤(すき)を付け畑を耕しますが、その時農夫は、牛のうしろから左手で操縦して歩かせます。その際に右手には、2,3メートルもあるこの「とげのついた棒」を持ちました。そして牛が立ち止まったり脱線したりするとこの棒でたたいたのです。牛がが生意気に反抗して、「なんだ!この棒は!」なんて言って(言いませんが・・)その棒を蹴ると、「あ、痛い~」ということになるわけです。しょせん牛は、農夫の意のままに歩かせられることになります。この時、イエス様がサウロに、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」と言われたのは、どんなにパウロがいきり立って神に反抗し、キリスト教を迫害しても、それは結局、とげのついた棒をけることと同じだというのです。痛い傷を受けるばかりで、罪に沈むばかりだというのです。

 それはまさにパウロが19節のところで言っている「天からの啓示にそむく」ことなのです。とげのついた棒をけることは、あなたにとって痛いことなのです。私たちはこれまで何度かそのような経験があるのではないでしょうか。「とげのついた棒」をけってでも、「我が道を行く」と、自分のやりたいように、進みたいようにと進んだということが・・。その結果はどうだったでしょうか。傷いたり、痛んだりと、かえって不幸になったりしたのではないでしょうか。とげのつい棒をけることは痛いことなのです。そうしたことはほんとうに自分を幸福にはしません。神様には神様のみこころがあり、私たちを歩ませたい道があるのだということを覚え、その道を歩むことが人間にとっての本来の姿であり、一番自然で、一番幸福なことなのです。では、その道とはどんな道なのでしょうか。

 Ⅱ.天からの啓示(15-18)

 第二のことは、パウロに与えられた天からの啓示、神の道について見ていきたいと思います。15節から18節までをご覧ください。まず15節をご覧ください。

「私が、『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

 パウロが、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、主はこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と。これはいったいどういうことでしょうか。パウロにとってナザレのイエスが神の子だの、救い主(キリスト)だのと言うことは神を冒涜することであり、絶対に許せないことでした。だからこそ彼はダマスコにまでやって来て、イエスをそのように主張する者たちを縛り上げ、処罰しようと思ったのです。なのに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言うのです。これは彼が理解していたことが決定的に誤りであったことを示すものでした。ナザレのイエスが神の子、キリストであるはずがないと思っていたのに、そのイエスが実は神の子であったというのです。それは彼がどのように考えても理解できることではありませんでした。それは天からの啓示だったのです。

 「啓示」とは、カーテンを開いて隠れていた物を示すことです。自分の探求ではどうしてものぞき込めない神秘を、神からの一方的な恵みによって示していただくことです。人の考えでも、超自然的な哲学によっても、あるいはパリサイ派の神学によってもわからなかったことが、この「天からの啓示」によって、わからせていただいたのです。パウロにとってはこれまで、イエスが神の子であるということを理解することができませんでした。彼の頭でどんなに考えても、そうした理解は生まれてこなかったし、福音の本質についても的外れの理解しか得られませんでした。そうした彼の理解を決定的に変えたのは何か。そう「天からの啓示」だったのです。その主がこのように言われたのです。16節から18節です。

「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らの罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」

 ここには9章や22節にはなかった主イエスのことばが記録されています。それは復活の主がパウロに現れた理由と、さらにはその目的です。復活の主イエスがパウロに現れなさったのはいったいどうしてだったのでしょうか。それは彼のメシヤについての理解を正すということだけではありませんでした。そのようにメシヤについての理解を正すと同時に、彼が見たこと、経験したこと、あるいは、これから主が彼に示そうとしていることについての証人として、人々のところに遣わすためだったのです。それは何のためでしょうか?それは、彼らの目が開かれ、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らの罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためです。

 これがパウロに示された天からの啓示でした。ですから、パウロの正しい福音の理解と伝道に対する情熱というのは、決して人間的な熱心さによってもたらされたものではないのです。それは一方的な天からの啓示によって示されたものなのです。

 このことは、私たちの救いや伝道についても言えることではないでしょうか。私たちが自分の頭でどんなにあがいてみても、正しい福音の理解は得られません。正しい福音の理解は、天からの光に突然出会い、地に倒される時から始まるのです。それまで生きるよりどころとしてきた古い考えや思想、自我にまみれた古い生活習慣というものが、この天からの啓示によって一瞬のうちに倒されることによってもたらされるのです。聖書ではそのことを何というかというと「砕かれる経験」と言います。

 かつてヤコブは神の祝福をいただくために、この経験をしなければなりませんでした。それは創世記32章に記されてあります。兄エサウが出迎えるという知らせを聞いて不安で不安で眠れぬ夜を過ごすのです。その時彼は一晩中神との格闘を経験しました。彼はもものつがいを打たれ足を引きずらなければならなくなりましたが、その経験が彼を真の意味で神の器に変えたのです。このように、神の祝福を新しく体験するためには、自分自身が自己破産し砕かれなければならないのです。

 イエス様はニコデモに対して、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見る」ことはできないのです。この「新しく」ということばは「上から」という意味です。人は「上から」生まれなければ神の国を見ることはできないのです。

 パウロは「上から」、つまり「天から」の圧倒的な力と啓示によって生まれ変わり、そして新しく生きる方向を見いだしたのです。また、彼の伝道に対するあれほどの熱心さも同じです。私たちも上からの恵みと力によって生まれるのでなければ、新しく生まれることはできません。上から示されたものでなければ熱心に伝道することができないのです。

  Ⅲ.天からの啓示にそむかず(19-23)

ですから第三のことは、天からの啓示にそむかないでということです。19節から23節までをご覧ください。

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。そのために、ユダヤ人たちは私を宮の中で捕らえ、殺そうとしたのです。こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中から復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」

 ですからパウロは、この天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらには異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきたのです。パウロの伝道の根拠は、この「天からの啓示」によるものだったのです。彼の生涯における転換は、熟慮に熟慮を重ねた結果もたらされたのではありません。それはただ天からの啓示によるものでした。また、彼がダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々にも、またユダヤの全地方に、さらには異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えてきたのは、それが天からの啓示だったからなのです。彼はその天からの啓示にそむくこともできまましたが、そむかないで、その道に従うことを選択したのです。

 皆さん、ここが重要です。この天からの啓示というのは、それに従うこともできれば、そむくこともできます。イエス様は、「とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」と言われましたが、「けることができない」とは言われませんでした。けったら痛いですが、けることもできるわけです。つまり、天からの啓示は、「そむかずに」信じて従うか、それとも「ける」かといった選択は、私たちにゆだねられているのです。パウロはそむかないで従いました。皆さんはどうでしょうか。もし傷ついたり、痛みを受けたりしたくなければけるのをやめて、この「天からの啓示にそむか」ないという決心をしなければなりません。信じて、罪の赦しをいただき、わがままな歩みではなく、御国の福音に生きる必要があります。それは一見、不自由なように見えるかもしれません。今までの自分なりの考え方を捨てたり、わがままな生き方ではなく、教会という交わりの中で生きるわけですから。しかし、その棒こそ、実は私たちを一番幸せにしてくれるものなのです。天からの啓示にそむかず、ただ神が示してくださる道を、ただひたすらに進む行く者でありたいと思います。

 最近、勝本正實(かつもと まさみ)という牧師が書かれた「病める社会の、病める教会」という本を読みました。これは深刻な問題を抱えやんでいる社会の闇の中で、主の群れである教会が輝くための秘訣を探るというものですが、「1%の壁を越えられない理由」という項目があり、とても考えさせられました。
「これは多くの教会が悩み、努力している課題である。江戸末期から今日まで、多くの人々の人生と財が注ぎ込まれ、祈りがささげられてきた。宣教師も牧師も信徒も、いいかげんな伝道をしてきたわけではない。にもかかわらず、日本のクリスチャン人口は1%の壁を越えることができない。信じる人が与えられても、去っていく人もいる。信仰を持つ人が少ない理由が問われると同時に、信仰から離れていく人が多い理由についても問われる必要がある。まず信仰を持つ人が少ない理由について考えてみよう。
①宗教に関心がない人が多いことが考えられる。
②世の中には楽しみや興味をそそるものが多くある。
③日本は仏教や神道が根を張っていて、キリスト教を必要としない。
④キリスト教の信仰内容である唯一神や道徳性の厳しさが避けられている。
⑤日本人は多重信仰であり、キリスト教のみの考え方を嫌う。
⑥教会の存在がまだ日本人には縁遠い所である。
⑦せっかく教会に来られても魅力に欠ける。
・・・(信仰から離れていく人が多い理由についてはカット)
 以上挙げた理由は、私たちが身近な人で見聞きしたことであり、本などで記されている理由である。
 いくつかの理由が重なって信仰に進めない、信仰から離れてしまうことが起こっているだろう。しかし私は、最も大きな理由は、私たちの外にではなく、私たち自身の内面にあるのではないかと思っている。それは「愛」の問題である。私たちの愛には打算がある。それは世の中の人も同様である。愛が際だつということは、それがキリストの愛、犠牲的な愛へと近づくことである。それがないと心に響かない。たとえ、信仰に入りにくい理由が種々あっても、私たちの愛、祈り、証がそれを上回るなら、人は信仰に価値を見いだし得るのではないか。
 また信仰から離れようとする人があっても、私たちが愛が深い者であれば、つまずかせたり、他人事のように知らないふりをしたりできないのではないか。これは私たち自身の内面を問われることである。だから、別の理由をつけて自分とは直接関係がないことのように考えてしまうのではないかと思える。
 クリスチャンの愛は、未信者の愛にまさっているのだろうか。愛することは犠牲の伴うことであるため、私たちにはしんどいことでもある。キリストは一人を追い求められるが、教会はその思いを受け止めきれないで、自分のことに心を向けているのが一番の理由ではないかと思える。」(p.105~108)

 1%の壁、それはまさにこの天からの啓示に従うかそむくかということにかかっているのではないでしょうか。愛することは犠牲が伴うことですし、しんどいことですが、私たちにはそのような使命が与えられているのです。この天からの啓示にそむかずにこれに従っていくときに、やがてこの壁が崩されていくのではないでしょうか。それは私たち一人一人の信仰の決断にかかっているのです。