Ⅰペテロ2章18~25節 「主人に従う」

 きょうのテーマは「主人に従う」です。「主人」と言ってもその「主人」とは主イエスのことのことではなく、この世の主人ことです。これを現代風に当てはめるなら、会社の社長や職場の上司に従いなさい、ということになるでしょう。しかも善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいというのです。冗談じゃない!やさしい上司になら従うことができるかもしれませんが、ガミガミ言うような横暴な上司に従うことなんてできません。しかし、ここではそのような主人にも尊敬の心を込めて従いなさい、というのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

Ⅰ.不当な苦しみに耐える(18-21)

 まず18節から21節までをご覧ください。18節をご一緒にお読みしましょう。
「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」

ペテロは、ローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンを励ますために、この手紙を書きました。その中で最も重要なことは、彼らはどのような者であるか、ということです。そこでペテロは2章9節、10節で、このように言いました。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」

この事実に基づいてペテロは、具体的な勧めを語るのです。それは12節にあるように、この「異邦人の中にあっても、りっぱにふるまいなさい」(12)ということです。「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、そのりっぱな行いを見て、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになります。」そうか、それじゃ頑張ろうと、この異教社会の中にあっても、主の証になるようにりっぱにふるまおうと思った次の瞬間、「えっ」と思うようなことばが続くのです。13節です。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行うように王から遣わされた総督であっても、」
とても無理です。当時はローマ帝国が支配していましたから、当時の主権者といったらローマの皇帝です。しかし、そもそも彼らが各地に散らされ肩身の狭い思いで生きなければならないのは、そのローマのせいです。そんな人たちに従うなんてできるはずがありません。しかし、そのように善を行って、愚かな人々の口を封じることは、神のみこころなのです。もちろん、それが神のみこころと違うことを命じるのであればあくまでも神に従うことが優先されますが、そうでない限り、人の立てたすべての制度に従わなければなりません。そのようにしてすべての人を敬い、兄弟たちを愛し、主権者を敬うことが神のみこころなのです。

その流れの中で今回の言葉が続くのです。「しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と。

今から約2千年前のローマの社会では、奴隷制が敷かれていました。もともとギリシャもローマも戦勝国でしたから、植民地から大量の奴隷を連れて来たのです。借金で我が身を売った者たちもいました。中には生まれながらに奴隷という境遇の人もいました。いろいろな事情で奴隷として生きなければならない人たちが相当数いたのです。歴史の記述を見ると、当時ローマ帝国全体には6千万人の奴隷がいたと言われています。奴隷というと、鎖で数珠つなぎにされ、鞭でたたかれ、集団できつい労働に酷使されているようなイメージがありますが、実際は少し違っていたようです。中には家の管理を任せられたり、家庭教師や医者である奴隷もいました。当時、こうした労働や実業といったことは奴隷が担い、主人は政治に携わるか、もっぱら趣味や娯楽に興じていたのです。ですから、ここにある「しもべ」というのは、どちらかというと「その家に属する者」というニュアンスがありました。けれども、奴隷であることには変わりはありません。奴隷は主人の所有物であり、もし主人に従わなければ殺されることもありました。奴隷の人権などというものは全く認められていなかったのです。そうしたしもべたちに対してペテロは、奴隷の状態から解放されるように祈りなさいとは言わないで、むしろ、「尊敬の心を込めて主人に服従しなさい」と勧めたのです。それは善良でやさしい主人に対してだけでありません。横暴な主人に対してもそうしなさいというのです。

冗談じゃない!と私たちなら思うかもしれません。否、当時のしもべたちも、そのように思ったことでしょう。奴隷だから、制度だから従うのは仕方がないけれども、尊敬の心を込めて従うなんてできない。善良でやさしい主人になら従ってもいいけど、横暴な主人に従うなんてとんでもないと思ったとしても不思議ではありません。いったいなぜそのように主人に従わなければならないのでしょうか。ペテロはその理由を次のように語っています。19節と20節をご覧ください。
「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。」

どういうことでしょうか?ペテロはここで善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従わなければならないのは、それが神に喜ばれることだからであると言っています。しもべがもし罪を犯したために打ちたたかれそれを耐え忍んだからといっても何の誉れにもなりませんが、もし善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることだというのです。しもべが罪を犯すというのは、たとえば、主人の言いつけを守らなかったとか、言われたのにやりたくなかったからやらなかった、ということでしょうか。つまり、しもべとしての務めを果たさなかったとか、その務めに怠慢であった、明らかに違反していたということでしょう。そうしたことで主人に打ちたたかれたとしてもそれはある意味当然のことであって、それを耐え忍んだからといっても、何の誉めるべきことではありません。しかし、正しいことを行って打ちたたかれるようなことがあるとしたら、しかもその苦しみを耐えるとしたら、それは神に喜ばれることなのです。

なぜでしょうか?21節をご覧ください。ここには、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」とあります。「そのため」とは何のためでしょうか?不当な苦しみに耐えることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。なぜなら、私たちの主イエスも、私たちのために苦しみを受けられ、その足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。

この「模範」という言葉は、習字の時に先生が書いた筆に沿って書くような様を表しています。つまり、キリストが不当な苦しみを受けられたのは、私たちが同じように不当な苦しみを受けても、その足跡に従うための模範となるためであったということです。私たちはそのために召されたのです。

キリストが担われた十字架の苦しみは、まさに不当な苦しみであり、全く理不尽なことでした。それは当時のユダヤ教の宗教指導者のねたみのゆえに引き起こされたことであり、ローマの極刑という厳しい刑罰、恥と苦しみに耐えるというものでした。それはご自身の罪のためではなく、私たちの身代わりのためでした。けれども、キリストはその不当な十字架の苦しみによって、私たちの罪のさばきを負ってくださったのです。それゆえ神は、キリストを高くあげられ、神の右の座に着座させました。そのキリストに、あなたがたも召されているというのです。

この召されていることに気付くことは、私たちの生涯において極めて重要なことではだと思います。私はよく「牧師にとって一番重要なことは何ですか」と尋ねられることがありますが、その時には迷わずこう答えます。「それは神に召されているという確信です」。神に召されているという確信がなければ続けていくことはできないし、逆に召されているという確信があれば、どんな困難でも乗り越えることができると思います。ですから召されているということを知ること、気付くことはとても重要なことなのです。

それは牧師に限らずすべてのことに言えるのではないでしょうか。クリスチャン生活においてもそうです。神様が私を呼んでおられることに気付いた時に、私たちのクリスチャン生活が始まります。イエス・キリストに召していただいた、イエス・キリストが私に目を留め、私の名を呼び、私を召してくださったので、この方についていくのです。それがわからなかったらついて行くなんてできません。嫌なこと、苦しいことがあったらすぐにポイッと投げ捨ててしまうことでしょう。私たちは私たちの人生の様々な局面で「わたしに従ってきなさい」という主の御声を聞くことによって、「そうだ、私は主に召されているんだ。だから主に従っていこう」ということになるのです。

ここでペテロは、「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。」と言っています。しもべとしての歩みの中で、どこかで不当な扱いを受け、どこかで人のいいようにされていると感じる時に、謙虚にへりくだった姿勢で、私たちを召してくださった方のことを考えてみなさい、というのです。

キリストは、最後まで苦しみを忍ばれただけでなく、自分を十字架につけた人々さえも赦してくださいました。自分を不当に扱う人間を、その不当な扱いに耐えるのみならず、赦されたのです。だから私たちも、不当な苦しみを与える人に対してそれに耐えるだけでなく、その人を愛し赦さなければなりません。なぜなら、キリストはその足跡に従うようにと、私たちに模範を残されたからです。私たちはそのように召されているからです。ですから、しもべとして主人に従うことができるかどうかという、ただ表面的に従うというのではなく、尊敬の心を込めて従うことができるかどうか、しかも、善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従うことができるかどうかは、私たちがこの方に召されているということにどれだけ気付いているかにかかっているのです。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。そのことにあなたは気付いておられるでしょうか。そのことをどのように受け止めているでしょうか。

Ⅱ.キリストの模範(22~24)

第二のことは、そのキリストの模範とはどのようなものであったのかということです。
22節から24節までをご覧ください。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

ここに記されてあるほとんどのことは、イザヤ書53章からの引用です。イザヤ書53章は、旧約聖書の中で最も有名な箇所の一つで、キリストの受難を預言しています。ペテロはここでそれをそのまま引用しているのです。
22節の「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした」というのは、イザヤ書53章9節の「彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」という言葉の引用です。
 23節の「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」というのは、イザヤ書53章7節の「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かない」からの引用です。
 それから24節の「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」というのは、イザヤ書53章12節からの引用です。そこには、「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。
そして24節の最後の「それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」というのは、イザヤ書では53章5節の「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」という言葉の引用です。
 また、先ほどはお読みしませんでしたが、25節の「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが」というのは、イザヤ書53章6節の「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」の引用です。
 このようにペテロは、キリストの模範をイザヤ書53章のみことばから、そっくりそのまま引用しているのです。どうして彼はそのように旧約聖書から引用したのでしょうか。ペテロは主イエスと3年半もの間一緒に過ごし、そのお姿をつぶさに見、その語られる言葉を聞くことによって、旧約聖書以上にイエスのことを知っていたはずですから、そのイエスについて語るのに、わざわざ旧約聖書をから引用しなくてもよかったはずです。それなのに、イエスの苦しみを語るのに、彼はあえて神の言葉である聖書の言葉を引用したのです。

それは、そのように聖書の言葉を引用することが、自分が語る言葉よりもはるかに意味があると思ったからです。ペテロはキリストを自分の目でじっと見、自分の耳でじっと聞いてきました。しかし、いざキリストの十字架の苦しみとその忍耐を説明しようとした時に、そうだ、神の言葉を引用しよう、と思ったのです。所詮、自分が経験したどんなことも神の言葉にはかなわない、ということを悟ったのです。自分書くどんな言葉よりも、一つの神の言葉の方が真理を語ると思ったのです。それほどに、神の言葉には力があるのです。

ところで、そのようにしてペテロが見出したキリストの姿とはどのようなものだったのでしょうか。第一に、キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったということです。22節をご覧ください。「見出されなかった」とは、どんな風にあら探しをしても見つからなかった、という意味です。普通の人間ならば、「叩けば埃が出る」ものです。しかし、キリストはどこを叩いても、埃が出ませんでした。

第二に、彼はののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。23節です。十字架のそば近くにいたペテロは、真に主イエスの苦しみを目撃したものとして、毛を刈られる羊のように、黙って苦難を忍ばれる姿を印象的に覚えていました。兵士たちに拳でたたかれ、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられるという痛みと苦しみの中にあっても、その苦しみに黙々と耐えられました。ユダヤ教の裁判では、全く事実無根の罪名を着せられ、祭司たちからあざけられ、あらゆる屈辱を受けました。それでもキリストは黙って、それを静かに受けられました。イザヤ書53章7節にあるように、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、彼は口を開かな」かったのです。それは、すべてを知り、正しくさばかれる神にすべてをゆだね切っていたからです。これこそ、私たちが習うべき模範ではないでしょうか。

第三に、キリストは自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。24節です。なぜでしようか。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。そのキリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ペテロはここで「あなたがたは、いやされたのです」と言っています。打ち傷によっていやされたというのは不思議な表現ですが、それはある意味で、キリストの傷は私の傷との交換であったということです。それは心に受けた傷もあるでしょうし、あるいは身体に受けた傷もあるでしょう。もしかすると人生そのものに刻んでしまった傷というのもあるかもしれない。しかし主は、それらの傷のすべてを十字架の上で、私に代わって負ってくださったのです。

ところで、ペテロのそもそもの話は何だったかというと、しもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に従いなさいということでした。善良でやさしい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさいということでした。それなのに、いつの間にか、そういう話ではなく、イエス様の十字架の打ち傷によって私たちの罪は赦され、その傷はいやされて、平安をいただいたという話にポイントが移っていることがわかります。いったいなぜポイントがズレてきてるのでしょうか。それは、これこそ最も重要なポイントであるからです。このことがわかれば全ての問題が解決するからです。十字架がわかるということが、私たちの人生におけるすべての不条理なことや苦しみの解決なのです。

私たちの人生ってそんなものですよ。私たちの人生にはいろいろなことがあるわけですが、結局のところ、最後は一番重要なところに行きつくわけです。それが十字架なのです。イエス様の十字架によって罪が赦され、天の御国に召されていくということです。これが本当の平安です。このことがわかったら、私たちの生活のすべての領域において解決が与えられるのです。

私たちは自分の人生の中でいろいろなことを経験します。時に苦々しいことや、悲しいこと、辛いこと、信じられないこと、そうしたすべてのことが神の御手の中で練られながら、最終的にはやっぱりここに行きつくのです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。私たちのすべての傷は、キリストの十字架の贖いでいやされたのです。もうこれ以上、何が必要でしょうか。もう何もいりません。キリストの打ち傷によってすべての傷がいやされたのですから、私たちはキリストの示された模範にならって、不当な苦しみをも、耐え忍ぶことができるのです。

かつてイギリスにヘレン・ローズベリーと女性宣教師がいました。彼女はケンブリッジ大学で外科医になり、アフリカのコンゴ共和国の宣教師になって遣わされました。少し前に亡くなりましたが、この方は、宣教師の中でもヘレン・ローズベリーの右に出る人はいないと言われるほど壮絶な生涯を送られた方です。
 彼女は、病院が少ないコンゴに医療宣教師として遣わされ、そこで小さなクリニックを始め、やがて病院を建てるのですが、コンゴの革命に巻き込まれる中で虐待され、レイプされ、投獄されるのです。彼女はその中でイエス様との体験を深めていくのです。
彼女の証しには、その壮絶な体験が書かれてあります。その壮絶な体験の中で、ヘレン・ローズベリーはイエス様の声を聞くのです。「ヘレン、この壮絶な経験をあなたにゆだねたことで、あなたはわたしに感謝できるか?たとえ、その理由をわたしがあなたに話さないとしても、感謝できるか?」
 その中で彼女は、答えるのです。「主よ。私はどんなことがあってもあなたに感謝します。なぜなら、私はあなたへの信頼を絶対に捨てませんから。」

このとき彼女が体験したのは、より深いキリストとの一体感でした。そうした不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは神に喜ばれることだからです。キリストもそうされました。私たちが召されたのは、実にそのためです。私たちが不当な苦しみを受けながらも、それに耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることであり、キリストとの一体感をより深く体験するという恵みがあるのです。

Ⅲ.牧者のもとに帰る(25)

第三のことは、その結果です。25節をご覧ください。
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」

これがキリストの十字架の贖いの結果です。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」これもイザヤ書53章6節の言葉のからの引用です。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」

「あなたがたは羊のようにさまよっていた」という言葉は、ある日、道に迷ったというような軽いものではありません。ずっと前から、そして継続的に、神に背を向けて、自分勝手な道を歩んでいたという意味です。私たちは迷える小羊なのです。羊は目の前のことしか見えないので、いつしかどこかに迷い込んでしまうわけです。私たちはその迷える羊なのです。そんな者が、キリストの十字架の贖いによって、キリストが身代わりとなって私たちの罪を負ってくださったので、心おきなく、神のみとに帰ることができました。

ここには、主なる神の姿が二つの言葉で表されています。一つは「たましいの牧者」であり、もう一つは「たましいの監督者」です。たましいの牧者とは、羊飼いが羊をケアするように、私たちの人生そのものをケアしてくださり、正しい道に導き、守ってくださる方であるということです。100匹の羊のうち1匹が失われたとき、羊飼いは山や谷を巡って、見つかるまで捜し続けます。そして見つかったとき、「大喜びでその羊をかついで、こういうのです。「いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」(ルカ15:5)「たった1匹でしょ、しょうがない。羊は落ち着きがないからすぐにどこかに行っちゃうのよね。こういうことはよくあるの」なんて言ったりはしないのです。見つかるまで、どこまでも捜しし続けます。

それからもう一つのイメージは、「監督者」です。「監督者」とは、「見張るもの」とか、「見守るもの」という意味です。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(詩篇121:4)とあるように、主は私たちをしっかり守ってくださいます。キリストの十字架の贖いによって、私たちはこのたましいの牧者であり監督者のもとに帰ることができたのです。

けさ私たちは、このたましいの牧者であり監督者である主のもとに帰りましょう。そこでたましいの安らぎと喜びを味わいたいと思います。私たちのたましいがこの方のもとに帰るとき、私たちは真の安らぎを得ることができるからです。

初代キリスト教最大の神学者と言われたアウグスチヌスは、母モニカの心配をよそに放蕩生活を続けていましたが、「涙の子は決して滅びることはない」という司教アンブロシウスの言葉のとおり、母モニカが召される1年前に、遂に主のもとに立ち返りました。そのたましいの遍歴をアウグスチヌスはその著「告白」の中でこう述べています。
「あなたは人を目覚めさせて、あなたを賛美することを人の喜びとされました。というのもあなたは、私たちをあなたに向かうようにお造りになったからです。私たちの心はあなたの内で安らぎを得るまで揺れ動いています。」

この主の懐に憩いましょう。そして、不当な苦しみを受けることがあっても、それを耐え忍ぶ者でありたいと思います。あなたがたが召されたのは、実にそのためなのです。

ヨシュア記8章

きょうはヨシュア記8章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アイの攻略(1-9)

 まず1節から3節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」

前回は7章からイスラエルがアイとの戦いに敗れた原因を学びました。それは、イスラエルの子らが、聖絶のもののことで不信の罪を犯したからです。ユダ部族のカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取ったため、主の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がったのです。そこでヨシュアは失意の中で主に解決を求めると、その者を一掃するようにと命じられました。そこでヨシュアはその言葉のとおり、それがアカンによる犯行であることが明らかになると、彼とその家族のすべてと、彼の所有するすべてをアコルの谷に連れて行き、それらに石を投げつけ、火で焼き払いました。

あまりにも残酷な結果に、いったいなぜ神はそんなことをされるのかと不思議に思うところでしたが、それは神の残酷さを表していたのではなく罪の恐ろしさとともに、私たちも皆アカンのような罪深い者であるにもかかわらず、神はひとり子イエス・キリストの十字架の死によってその刑罰を取り除いてくださったがゆえに、そうしたすべての罪から赦されている者であり、神にさばかれることは絶対にないという確信を与えるためでありました。それゆえ、神を信じる信仰者にとって最も重要なのは自分には罪がないと言うのではなく、その罪を言い表して、悔い改めるということです。悔い改めこそが信仰生活の生命線なのです。

今回の箇所では、聖絶のものを一掃しイスラエルに対する燃える怒りをやめられた主が、再びヨシュアに語られます。主は、ヨシュアに対してまず「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語られました。「戦う民全部を連れてアイに攻め上」らなければなりません。ヨシュアは前回の敗北の経験を通してどれほどのトラウマがあったかわかりません。相当の恐れがあったものと思いますが、恐れてはならないのです。おののいてはなりません。なぜなら、主が彼らとともにおられるからです。彼らの罪は取り除かれ、かつてヨルダン川を渡ったときのように、またエリコの町を攻略したときのように、彼らを勝利に導いてくださるからです。その勝利はここに「見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」とあるように、もう既に彼らに与えられているのです。ですから、彼らはかつてエリコとその王にしたように、アイとその王にもしなければなりませんでした。しかし、ここにはエリコの時とは三つの点で異なっていることがわかります。第一に、「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということ、第二に、「分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。」ということと、そして第三に、「町のうしろに伏兵を置け。」ということです。どういうことでしょうか。

まず「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」ということについてですが、前回の攻略で攻め上ったのは3千人でしたが、今回は「全部の民」です。恐らくイスラエルの軍隊は20万人ほどであったと考えられます。その20万人すべてが戦いに参加するようにというのです。それは神が助けを必要とされるからではなく、すべての神の民が神の戦いに参加するためです。できることはひとりひとり皆違います。できないこともあるでしょう。しかし、神の戦いは全員で戦うものなのです。

先日サッカーのワールドカップアジヤ最終予選で、日本はオーストラリアと戦いました。これに負けると日本は本大会に出場することができません。勝てば本体行きの切符を手にすることが出来るという大一番でした。その大一番で活躍したのは若干21歳の井手口選手と22歳の浅野選手の二人の若い力でした。しかし、この戦いで目立ったのはこの二人だけではなかったのです。他のフィールドに立つ選手も、ベンチにいる選手も、さらには日本中のサポーターたちも一つになりました。みんなで戦った勝利でした。その結果、これまで最終予選では一度も勝ったことがないオーストラリアに勝利して本大会行きを決めることができたのです。

それは、神の戦いも同じです。戦う民全員が出て行かなければなりません。自分ひとりくらいいなくても大丈夫だろうなどというかんが考えを抱いてはならないのです。全員で戦うという覚悟が求められているのです。

次に、「その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい」ということですが、エリコとの戦いにおいては、金、銀、銅、鉄以外のすべてを聖絶しなければなりませんでした(6:18-19)。しかし、アイとの戦いにおいては、その分捕り物と家畜だけは、彼らの戦利品とすることが認められたました。すなわち、普通の聖絶の原則が適用されたのです(申命記2:34-35,3:6-7)。重要なことは、原則の適用が人によって判断されるのではなく、神のみことばによってなされなければならないということです。自分が欲しいから取るのではなく、主が与えてくださるのを待たなければならないのです。主は、ご自分が良いと思われるときに、必要なものをちゃんと与えてくださるからです。

そして町のうしろに伏兵を置くことですが、エリコの戦いのときとは、戦術にかなりの違いが見られます。エリコの戦いでは、伏兵というものを全く用いず、ほとんど戦わずして勝利することができました。彼らは神の指示されたとおり6日間町の周りを回り、そして7日目には7回ひたすら回り、ラッパの音とともに時の声を上げると、エリコの城壁が崩れ落ち、そこに上って行くことができました。しかし、アイとの戦いにおいてはそうではありません。町のうしろに伏兵を置くようにと言われたのです。これはどういうことでしょうか。神は必ずしも超自然的な方法のみによって敵を打ち破られるわけではないということです。むしろ、ご自分の民が正々堂々と戦い、また、ある場合には、策略をも用いることによっても、敵を打ち破られることもあるのです。神はそのとき、そのときに応じて最善に導いてくださるのであり、神が成されることを一定の法則の中に当てはめることはできないのです。よく「前の教会ではこうだったのに・・」という不満を耳にすることがあります。確かにそれまでの経験が生かされる時もありますが、神の働きにおいてはその時、その時みな違うのです。事実、私たちは大田原と那須とさくらで同時に教会の形成を担っていますが、この三つの場所での働きを考えてもそこに集っておられる方々や置かれている状況が違うため、やり方は全く違うことがわかります。ですから、大切なことは主が言われることを行なうことであり、御霊に導かれて進むことなのです。

次に、3節から9節までをご覧ください。
「そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。」こうして、ヨシュアは彼らを派遣した。彼らは待ち伏せの場所へ行き、アイの西方、ベテルとアイの間にとどまった。ヨシュアはその夜、民の中で夜を過ごした。」

ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をしました。そしてその中から勇士たち3万人を選ぶと、主が命じられたとおり、伏兵として夜のうちに彼らを派遣し町のうしろに配置しました。ヨシュアは前回と同じように、アイの町を北のほうから攻めますが、それはおとりです。アイの人々を町からおびき出すのです。アイから人々が出て来たら、ヨシュアたちは彼らの前で、逃げるふりをします。そしてアイの町に戦う人たちがいなくなったところに、伏兵として待機していたイスラエルの勇士たちが入って行って占領するという戦略です。それはヨシュアの考えに基づいてのことではなく、主に命じられた命令に基づいてのことでした。ヨシュアは、主が言いつけられたとおりに行ったのです。

Ⅱ.勝利の投げ槍(10-29)

さて、その結果どうなったでしょうか。まず10節から23節までをご覧ください。
「ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。彼とともにいた戦う民はみな、上って行って、町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイとの間には、一つの谷があった。彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、民は町の北に全陣営を置き、後陣を町の西に置いた。ヨシュアは、その夜、谷の中で夜を過ごした。アイの王が気づくとすぐ、町の人々は、急いで、朝早くイスラエルを迎えて戦うために、出て来た。王とその民全部はアラバの前の定められた所に出て来た。しかし王は、町のうしろに、伏兵がいることを知らなかった。ヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げた。アイにいた民はみな、彼らのあとを追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された。イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。
そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、彼の手が伸びたとき、すぐに走って町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけた。アイの人々がうしろを振り返ったとき、彼らは気づいた。見よ、町の煙が天に立ち上っていた。彼らには、こちらへも、あちらへも逃げる手だてがなかった。荒野へ逃げていた民は、追って来た者たちのほうに向き直った。ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見て、引き返して来て、アイの者どもを打った。ある者は町から出て来て、彼らに立ち向かったが、両方の側から、イスラエルのはさみ打ちに会った。彼らはこの者どもを打ち、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにした。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れて来た。」

ヨシュアは先の3万人に加えて5千人を伏兵として町の西側に回らせました。そして民を町の北側に置くと、ヨシュアは,その夜、谷の中で夜を過ごしました。アイの王が気付くと、翌朝早く急いで、イスラエルを迎えて戦うために、出てきました。ヨシュアと全イスラエルが打たれたふりをして、荒野への道に逃げたとき、アイの民はみな、彼らのあとを追って出て来ると、ヨシュアの合図とともに伏兵が走って町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけたのです。荒野に逃げていた民も、追って来た者たちのほうに向き直ると、ちょうどアイの民をはさみ打ちにするような形となり、アイの者たちを打ちました。イスラエルはアイの民を打つと、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにしました。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れてきました。イスラエルは、主が言われるとおりにしたことで、完全な勝利を収めることができたのです。

ところで18節には、アイがイスラエルの戦略にはまり、町を明けっ放しのままにしてイスラエルのあとを追ったとき、主はヨシュアに「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し出せ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」と言われました。いったいこの「投げ槍」とは何だったのでしょうか。その手が伸びたとき、陰に隠れていた伏兵が立ち上がり、町に入り、それを攻め取り、急いで町に火をつけました。それはかつてイスラエルがアマレクと戦ったとき、モーセが神の杖を手に持って、戦いの間中手を上げていた姿を思い起こさせます(出17:8-16)。ヨシュアはそれを記録するようにと命じられましたが、ここでは投げ槍が差し伸ばされたことが勝利の合図となり、敵を聖絶する力となりました。まさにそれは祈りの手だったのです。ヨシュアは主に命じられたとおりに投げ槍をアイの方に差し伸ばし、主が戦ってくださるのを祈ったのです。

これは私たちにも求められていることです。祈りの手を差し伸ばさなければなりません。それを止めてはならないのです。主がよしと言われるまで差し伸ばし、主が働いてくださることを待ち望まなければならないのです。

そして24節から29節までをご覧ください。
「イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。」

こうしてアイの軍隊を打ち破ると、イスラエルはアイの町に入って住民を皆殺しにしました。女子供を含めた全住民を殺すことはヒューマニズムに反するようであるが、聖絶するためという明白な理由のためにそのようにしたのです。聖絶とは何ですか?聖絶とは、神のものを神のものとして分離することです。そうでないものを徹底的に取り除くのです。イスラエルにとってこれは聖戦だったのです。彼らがその地に入って行っても、神の民として、神の聖さを失うことがないように、主はそうでないものを聖絶するようにと命じられたのです。

それは、神の民である私たちも同じです。私たちは常に肉との戦いがあります。そうした戦いの中で、それと分離しなければなりません。(Ⅱコリント6:14~18)それによって主は私たちの中に住み、共に歩んでくださるからです。それなのに、私たちはどれほどそのことを真剣に求めているでしょうか。この世と妥協していることが多くあります。「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」(Ⅰペテロ2:15)と書かれてあるように、あらゆる行いにおいて聖なるものとされることを求めていきたいと思います。

Ⅲ.エバル山の祭壇(30-35)

終わりに30節から35節までを見ていきたいと思います。
「それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」

それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築きました。ヨルダン川を渡ることも、エリコとアイの攻略も、信仰生活の一部であり、祭儀の執行であったにもかかわらず、また、ギルガルでは40年ぶりに割礼を施し、過越しのいけにえをささげました(5:2-12)。それにもかかわらず、なぜアイの攻略後に再び祭壇を築いたのでしょうか。

「エバル山」は「はだか山」という意味で、アイの北方50キロにある山です。標高は940メートル、谷からは367メートルもそびえている山です。アイからそこへ向かうには最低でも2日はかかります。それゆえ、戦いを終えたばかりのヨシュアがこのような遠路を旅することができるはずがなく、これは後代の挿入ではないかと主張する人たちもいるのです。

しかし、それは申命記27章で、モーセによって命じられていたことでした。すなわち、イスラエルがヨルダン川を渡ったならば、エバル山に主のための祭壇、石の祭壇を築き、そこで全焼のいけにえと和解のいけにえをささげなさい、ということです。ヨシュアはそのとおりに行ったのです。それにしても、なぜこの時だったのでしょうか。エリコ及びアイとの戦い、アカンの事件を経験し、これからさらに多くの敵と戦わなければならないイスラエルにとって、エバル山での祝福と呪いの律法の確認は、まことにふさわしいものであったからです。

石の上に律法が写されると、イスラエルの民はゲリジム山とエバル山の二つに分かれて立ち、律法の書に記されているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げました。ヨシュアはモーセが命じたとおりにし、読み上げられなかったことばは一つもありませんでした。それは、イスラエルの中心は神のことばであり、その神のことばによってこそ彼らは強くなり、勝利することができるからです。それは、私たちも同じです。私たちも神のみことばによって強められ、神のことばに徹底的に従い、信仰によって神の約束を自分のものにしていく者でありたいと思います。

Ⅰペテロ2章13~17節 「人の立てたすべての制度に従いなさい」

 きょうは、「人の立てたすべての制度に従いなさい」というタイトルでお話ししたいと思います。聖書の中には、「これはいい言葉だ」と、赤い線を引いたり、一生懸命暗唱して覚えたりしようする言葉があれば、なんでこんな言葉があるのだろうと、戸惑いを覚える言葉もあります。きょう、私たちに与えられている聖書の言葉も、そのような戸惑いを覚える言葉の一つかもしれません。それは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。」という言葉です。主に従いなさい、というのならわかりますが、ここには、人の立てたすべての制度に従いなさい、と命じられています。それがどのようなものなのかというと、13節と14節には「主権者である王であっても」、また、「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても」と言っています。また、18節には、しもべたちに対して、主人に従いなさい、とあります。この「しもべたち」とは、家の中で働く奴隷たちのことです。そのしもべたちに対して、尊敬の心を込めて主人に服従しなさい、というのです。善良で優しい主人だけではなく、横暴な主人に対しても従いなさい、と言うのです。さらに3章には、妻たちに対して、「自分の夫に従いなさい」と続きます。ペテロは、政治や奴隷制度、そして結婚制度に至るすべてにおいて、「主のゆえに従いなさい」と命じているのです。

この聖書の箇所は、教会の歴史の中で、様々な問題を起こしてきた箇所でもあります。ある人々は、この聖句を読んで、「聖書にこう書いてあるのだから、あなたがたは、この制度に従わなければならない」と国家権力に従うことを強要したり、侵略戦争を正当化する根拠にまでしました。事実、日本の教会は、第二次世界大戦の時に軍事政権に飲み込まれていったという苦い歴史があります。

逆にある人々は、「人の立てた制度に従いなさい」とか、「上に立つ権威に従うべきです」ということを聞くだけで拒絶反応を起こす人もいます。君主制度や奴隷制度、あるいは封建的な結婚制度において人に従うなんてとんでもない、というのです。ペテロがここで語っているのは、その時代だけの特殊な状況の中での勧めであって、今の私には関係がないし、適用することはできない、というのです。

しかし、果たしてそのような読み方が、正しい聖書の読み方なのでしょうか。人の立てたすべての制度に従うとはどういうことなのでしょうか。きょうはこのことについてご一緒に考えていきたいと思います。

Ⅰ.人の立てたすべての制度に従いなさい(13-14)

まず13節と14節をご覧ください。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」

ペテロは12節で、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と勧めました。ここからそれが具体的な勧められていくわけですが、その一つが「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」ということです。それがローマ皇帝のような主権者であっても、あるいは、王から遣わされた総督であっても、です。

ペテロは、当時のクリスチャンたちが、どういう状況のもとに置かれていたかを良く知っていたはずです。ローマ皇帝は、その支配力を強めるために、支配しているすべての民に対して、自分を神として礼拝することを命じました。それは唯一の神だけを礼拝するクリスチャンにはできないことです。そのためクリスチャンは激しく迫害されることにもなったのです。事実、この手紙の受取人たちは、そのローマ皇帝の迫害によって散らされていた人たちです。そのような人たちに対して、たとえそのような支配者であっても「人の立てたすべて制度に従いなさい」と言っているのです。

確かに、私たちはイエス・キリストを信じたことで神の民とされました。この世のものではなく、神のもの、天に市民権を持つものとされました。しかし、それはこの世の制度に従わなくてもいいということではありません。この世に生きている者として、この世の制度にも従わなければならないのです。「人の立てたすべての制度に」従わなければならないのです。それが異邦人の中にあって、りっぱにふるまうということなのです。

それはイエス様の教えでもありました。マタイの福音書22章21節をお開きください。ここには、「イエスは言われた。『それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。』」とあります。
これは、パリサイ人たちがイエス様をことばのわなにかけようとして、税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることなのか、そうでないのか、という質問に対してイエス様がお答えになられたことです。イエス様はデナリ硬貨を手に取り、そこにカイザルの肖像が描かれているのを見せて、カイザルのものはカイザルに、そして神のものは神に返すようにと言われました。すなわち、たとえローマという異教社会であっても、その制度に従うことは神の御心であり、その責任を果たすことは正しいことであると言われたのです。

ローマ人への手紙13章1節、2節には、そのことがもっと強く勧められています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」
ここには、人の立てたすべての制度は神によって立てられたものであると言われています。それゆえ、その権威に従わないとしたらそれは神の定めに背いていることになるというのです。そして、そういう人は自分の身にさばきを招くことになると言われているのです。たとえそれが異邦人の社会であっても、人はみな、上に立つ権威に従うべきなのです。

それゆえにパウロは、「すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、感謝がささげられるようにしなさい。」(Ⅰテモテ2:1)と勧めているのです。なぜなら、そのことによって私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすようになるからです。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのです。

それにしても、いったいなぜ人の立てた制度に従わなければなせないのでしょうか。ここにその一つの理由が記されてあります。それは、「主のゆえに」です。この主のゆえにという言葉は、その制度に従う根拠とか、理由ととることができます。どうして人の立てた制度に従わなければならないのでしょうか。それは、主のゆえであるということです。それは、敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、なのです。それゆえに従うのです。

新共同訳聖書ではこれを「主のために」と訳されています。「主のために」と訳しますと、どちらかいえば、その目的となります。すなわち、私たちが、「人の立てたすべての制度に従う」のは、私たちを愛してくださった主のため、主の栄光のためであるということです。

いずれにせよ、私たちは自分たちを迫害する者を愛することなどできません。それは当然のことなのです。ですから、ペテロは人の立てたすべての制度に一生懸命頑張って従うようにしなさいとか、従える時には従いなさいと言っているのではなく、「主のゆえに」、「主のために」従いなさいと言っているのです。それが主のみこころだからです。それは人間の思いや力ではできないことですが、神にはどんなことでもできます。その神が敵をも愛されたキリストの愛のゆえに、また、キリストの栄光のために、どんな制度であっても、それが神のみこころに反しないものである限り、すべての制度に従うことが求められているのであり、そのことによって、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすことができるのです。

このように、私たちは異教社会の中で、神が無視されているような社会の中にあっても、人の立てた制度に従うということが求められているのです。もし異教徒が立てた制度だから従わないということがあるとしたら、それはりっぱなふるまいとは言えず、神の御心ではありません。私たちは天に国籍を持つ者ですが、同時にこの世に遣わされている者として、人の立てたすべての制度に従わなければならないのです。

Ⅱ.善を行って愚かな人々の無知の口を封じる(15)

いったいなぜクリスチャンは人の立てたすべての制度に従わなければならないのでしょうか。ペテロはここで別の理由をあげてそのことを勧めています。15節をご覧ください。それは、「というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。」これはどういうことでしょうか。ここで言われている「善」とか、「愚かな人々」とはだれのことを指しているのでしょうか。

この文脈では、「善」とは人の立てた制度に従うことであり、「愚かな人々」とは、12節のクリスチャンたちを悪人呼ばわりしている人たちのことでしょう。つまり、そのようにクリスチャンがこの世の制度に従うことによって、クリスチャンたちに対して誤解と偏見を持ち彼らを悪人呼ばわりしている人たちでさえ、口が封じられる、すなわち、神のものとされるようになるというのです。

それは3章1節の、「みことばに従わない夫」も同じです。彼らはあなたがクリスチャンだということで悪人呼ばわりまではしないかもしれませんが、あまり快く思っていないかもしれません。しかし、たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるのです。あなたが黙って夫に従う態度を見て、神に従うということがどれほどすばらしいことであるかを、はっきりと知るようになるのです。「従えばいいんでしょ、従えば・・」というのは、ここで言われていることではありません。神に従うことは自分の夫に従うことであると受け止め、心から夫に従うのです。そうした妻の無言のふるまいによって、神をも恐れない横暴な夫であっでも、やがて神のものとされるようになるのです。

事実、初代教会のクリスチャンたちがこうした使徒たちの教えに従って、ローマ皇帝が定めた制度に従った結果、どのようなことになったでしょうか。彼らはローマの神々には仕えなかったし、皇帝を主と呼ぶこともしませんでした。また、不道徳とされるものにも参加しなかったので、激しい迫害を受けることになりました。これまで住んでいた所から追い出され、小アジヤの地方に散らされて寄留することを余儀なくされました。けれども、自分たちの信教の自由を守るべく、反ローマの政治活動に参加したりはせず、主の愛をもって従ったのです。そうした異教社会の中にあっても人の立てた制度に従い、異邦人の中にあって、忍耐をもってりっぱにふるまいました。その結果、ついにはローマ皇帝コンスタンチヌスがキリスト教に回心するまでの影響力を持つことができたのです。それは紀元312年のことです。つまり、主権者に対して服従したことによって、かえって主権者をキリストの主権の中にいれる支配力を持つことができたのです。

先週礼拝後にAさんの誕生日をお祝いました。その席で私が「Aさんはどのようにクリスチャンになられたのですか。」と尋ねると、彼女は「姉が先にクリスチャンになったので、その姉について教会に行くうちにクリスチャンになりました。でもつい最近までは母について来ているような感じでした。」と言われたので、「そうでしたか、ところで、お母さんはかつてキリスト教には大反対だったと聞いていましたが、その時どんなお気持ちだったんですか」とお聞きすると、同席しておられたお母さんがこう言われました。
「そうなんです、私は当時佛所護念を熱心に信じていたので、何とかやめさせようと必死でした。特に娘が結婚するときTさんもキリスト教を信じると言うものですから、何とか止めさせようと思ってTさんの家へ行きお願いしたのです。するとTさんのおじいちゃんは、かつて内村鑑三の教えに感動しキリスト教に入信しようと思うも家が農家だということであきらめなければならなかったので、その自分が果たせなかったことを孫がするということはこれほどいいことはないと、逆に丸め込まれてしまったんです。それなら私も行ってみなくちゃいけないと、教会に行くようになったのですが、本当に良かったです。」と言われました。
あれほど反対していたお母さんが逆に信仰に導かれたばかりでなく、今では毎朝3時半には起きてスクワットをし、その後欠かさず1時間はデボーションをせずにはいられないほどイエス様にとらえられるようになったのは、まさに神様の御業というよりほかにありまん。

善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころなのです。異邦人の中にあっても、りっぱにふるまうなら、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

Ⅲ.自由人として行動しなさい(16-17)

第三のことは、自由人として行動しなさい、ということです。16節と17節をご覧ください。「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。」

ここまで、「人の立てたすべての制度に従いなさい」ということをお話してきましたが、ここで一つの疑問が残ります。それは、この世の制度や秩序がいつも正しいとは限らないということです。人の上に立つ権威がもし神のみこころに反することを強いたとしたら、または、悪を行なうような場合にはどうしたらいいのでしょうか。そのことに光を与えてくれる御言葉が、この「自由人として行動しなさい」(16)という御言葉です。

たとえば、ローマ皇帝は自分を「人の姿をとった神」と主張し、自分を礼拝するようにと強要しました。しかし、クリスチャンはそのような力に屈しないのです。クリスチャンは、そのようなものからは解放されて自由なのです。たとえ絶頂を極めたローマ帝国であっても、やがてはしおれていく草にすぎません。私たちは、主なる神によって本質的に自由な存在として創造されているのです。

しかし、ふつう自由に生きなさいというとき、多くの場合それを自分の好き勝手にすることだと解釈したり、自分中心に生きることだと思いがちです。そこでペテロは、16節後半で次のように釘を刺すのです。「その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」原文では「行動しなさい」という言葉はなく、ただ「自由人として、神の奴隷として」とあるだけです。自由人として、神の奴隷として、というのはどういうことなのか、そのことばがどこにつながるのかについてはいろいろな解釈があります。その中で最も多いのは、自由人として、神の奴隷として、13節の、従いなさい、につなげるというものです。つまり、キリスト者が人の立てた制度に従うというのは自由人として、神の奴隷として従うということなのです。

では、自由人として、神の奴隷として従うとはどういうことでしょうか。クリスチャンは、すべての人に対して自由であり、キリストの福音によって罪から解放された者です。そういう意味では本当の自由をいただいている者なのです。しかし同時に、キリストに贖われた者であり、キリストに属する者として、神の奴隷、神の僕です。そのような者として行動するようにということです。

宗教改革者マルチン・ルターは、これをこのように表現しました。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であり、すべてのものに奉仕する僕である」
キリスト者の自由は、神さまからの賜物であり、神と隣人に仕えるという服従の生活において全うされるのです。ですから、ペテロは信者と国家の問題を、単にそれだけ切り離して考えるようなことをせず、神さまとの関係において考えているのです。そして、この個所のまとめとしてこういうのです。「すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」(17節)

神様が私たちクリスチャンに願っておられることは、この世のすべての人を心から敬うというりっぱな態度です。皇帝や国の指導者たちは、その一例として引き合いに出されているに過ぎません。「すべての人を敬う」のです。ですから、神さまを信じている人はもちろんのことですが、神さまを信じていない人も、自分の好きな人もそうでない人も、すべての人を敬うのです。教会の仲間だけを愛し、この世の人々を軽蔑するようなことがあってはなりません。信仰を同じくする兄弟姉妹が互いに愛し合うのはもちろんですが、神さまの愛は、神さまに造られたすべての人へと広げられているのです。私たちの信仰を理解しようとしない人々や、国の指導者たちにまで広げられているのです。

それは、私たちがキリストの十字架によって自由にされたからです。「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)もう私たちを縛るものは何もありません。私たちはただ神の愛にとらえられているのです。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さも、そのほかどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスの愛から、私たちを引き離すことはできません。そして、王であろうが、主人であろうが、夫であろうが、すべてのものがみな神さまの愛の中にあるのです。主イエスは、敵をも愛してくださいました。その主イエスの愛が、私を愛してくださり、また、同じように、人々を愛していてくださることを認めているので、その愛のゆえに、私たちは神のしもべとして、「人の立てたすべての制度に従う」のです。

しかし、その制度が神さまの領域にまで踏み込んできた時、私たちは、神の自由を与えられた者として、ペテロのように「人に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と力強く宣言しなければなりません。これこそがキリスト者としての「りっぱなふるまい」なのです。

かつて日本を代表するクリスチャンの一人に矢内原忠雄という人がいました。彼は1937年、昭和12年、当時、東大の教授でしたが、その座を退くために大学に辞表を提出しました。
提出した前の年の2月26日に、いわゆる二・二六事件が起こるんですね。政府を軍部が指導し、日本の中国侵略はますます激しさを増して行きます。彼は、東大で植民地政策を教える専門家でしたが、熱心なクリスチャンであったため、この頃から平和のために戦うべきだと強く意識するようになるのです。そして、1937年の夏に、山陰、山陽、四国へと、自分の信仰の友を伴って、講演旅行に出かけるのです。それは、当時の軍国主義の中で決死の大伝道旅行でした。20日間をかけて、毎日、各地で福音を語り、平和を祈り、戦争を批判します。そして夏が終わった9月、中央公論に「国家の理想」と出した論文を発表するのです。
 「国家が目標とすべき理想は正義である。それは聖書の語る『義』『公義』である。正義とは、弱い者の権利を強い者の侵害から守ることだ。そして、国家が正義に反した時は、国民の中からそれに対する批判がなされなければならない。しかし今の日本は、概して誰一人それを批判する者がいない。」
この論文が、東大の経済学部の教授会で問題にされます。当時すでに、軍部、警察、司法、文部省は、全部連携を取っていました。そして、国と大学を挙げて、矢内原追放運動が展開されるのです。そのような中で彼は辞表を提出するのです。辞表を出した時の彼のことばは、こうでした。  
「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 たといそこが荒野であっても、吹く風は自由です。それは彼が周りのプレッシャーをはねのけてでも、自分のゆくべき道を見定め、信仰の良心の自由を守り通したがゆえに、心の中に与えられた自由でした。その自由は、たといそれが荒野であっても、神を信じてそれを成したのであれば、神さまは必ず守ってくださるという自由です。

自由というのは時に、勇気と犠牲を払います。戦後彼は東大の総長として返り咲きますが、中には、同じようなことをしていのちを落とす人も出ました。でもどんなにいのちを落としたとしても、生きて幸せになる以上に、自分の信仰の良心を貫くことの方が尊いと、多くの人は考え、それらの人の流された血によって、私たちは今自由を獲得しているのです。

獲得した自由をもし守るとしたら、やがて私たちも勇気と犠牲を払うべき時が来るかもしれない。そんなに大きなことは考えなくていいのかもしれない。でも覚えておきたいことは、小さな人間関係でも、学校の問題でも、会社の問題でも、周囲のプレッシャーをはねのけて、神の御心を生きるために、胸を張って主張し、それがゆえに追い出されるようなことがあったとしたら、この矢内原忠雄のことばを覚えておくべきだということです。「私は広い野に出ました。たといそこが荒野であっても、吹く風は実に自由です。」
 ある方が今月末に腎臓の摘出手術をすることになりました。ところが、最近の検査で脳に3ミリ程度の腫瘍が見つかりました。担当医の話では、腎臓の手術の前に脳の腫瘍の摘出をしなければならないが、腫瘍の大きさが3ミリということで、手術して摘出した方がいいかどうかギリギリのところにあるということです。「それは大変ですね」と言うと、その方がこう言われました。「ええ、でもそれほど悲観していないんです。すべてを主にゆだねていますから。」

これがキリスト者の自由です。たとえ問題があってもその問題に縛られるのではなく、その問題のすべてを主にゆだねることができるのです。あなたを縛っているものは何でしょうか?将来に対する不安でしょうか?人に対する憤りでしょうか?健康に対する不安ですか?様々なものに縛られながらも、すべてを主にゆだねて自由に生きていく者でありたいと思うのです。そして、その置かれた所で人の立てたすべての制度に従うことを通して、クリスチャンとしてりっぱにふるまう者でありたいと思います。

ヨシュア記7章

きょうはヨシュア記7章から学びたいと思います。

 Ⅰ.アカンの罪(1-9)

 まず1節から5節までをご覧ください。
「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。」

イスラエルは神の不思議な方法によってエリコで勝利を収めると、さらに西へと向かい、次の攻撃目標であるアイへと進みました。アイは、エリコから15キロぐらい離れたところにあり、さらに7~8キロぐらい西に進むとベテルがあります。それはエリコよりも千メートルほど高いところにあり、そこへ行くには上り道でありました。しかし、そこは難攻不落と言われていたエリコに比べ以前から廃墟となっているような町で、難なく攻略できるかのように思われました。実際、事前にヨシュアによって派遣された偵察隊によると、その地にいるのはわずかなので、民全部を行かせる必要はないと判断したほどです。当時アイの人口は一万二千人、戦闘可能な兵士は約三千人でした。そのような町であれば難なく攻略できるだろうと思い、民のうち、およそ三千人が上って行きましたが、思いがけない攻勢を受けて敗退する結果となりました。イスラエルは、36人の戦死者を出し、敗北感に打ちのめされ、水のようになってしまいました。いったい何が問題だったのでしょうか。6節から9節までをご覧ください。

「ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」

ヨシュアは着物を引き裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました。そして、いったいどうしてこのようなことになってしまったのかと、嘆きました。ヨシュアの信仰はどこへ行ってしまったのでしょうか。ヨルダン川渡河を導き、エリコの攻略を成功させた指導者のことばとは思えないことばです。けれども、これが人間の現実ではないでしょうか。神の前に正しい人であったヨブも、試練の中で、信仰の弱さを露呈しました。それは私たちも同じです。どんなに奇しい主の御業を体験しても、ちょっとでも嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあると、次の瞬間にはもうだめだと思ってしまいます。ヨルダン川の向こう側にいた方が良かった、というようなことを言って不信仰に陥ってしまうのです。ただヨシュアはそれだけで終わらないで、そのような悲しみの中にあっても、その敗北の原因は何だったのかを主に尋ねます。敗北を味わうことは人生の中で多々あることでしょう。しかし大切なのは、そこで失敗の原因をつきとめ、除去するように努めることです。

Ⅱ.身をきよめなさい(10-15)

主は、へりくだって祈るヨシュアに、その敗北の原因が明かされました。10節から15節までをご覧ください。
「主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける部族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。」

いったいイスラエルはなぜ戦いに敗れたのでしょうか、心のゆるみですか。戦術の不備ですか。いいえ、もっと本質的な原因がありました。それはアカンという人物が神のものを盗んだことです。アカンは神の命令に背き、聖絶のものの中から取り、それを自分たちのものの中に入れたのです。エリコは、カナン攻略の最初の町として、全く神のものとしてささげられた町であり、神だけのものでした。アカンは、その神のものを盗み、自分のものにしたのです。ですから、1節が鍵となります。

「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。」

これは7章全体の鍵になる御言葉です。イスラエルに起こった出来事が語られる前に、1節で問題点がすでに指摘されているのです。大勝利の陰に、次の敗北の芽が生えていたということです。聖絶すべきものをアカンが隠し持ったので、イスラエル全体が聖絶の危険に陥ったのです。ここではアカンの罪がアカン一人の罪ではなく、イスラエル全体の責任として問われています。イスラエルは神のいのちで結ばれた有機体であることを考えると、それはアカン一人の問題ではなく、イスラエル全体の問題なのです。それは伝染病を囲い込んだ群れと同じなのです。

いったいどうしたらいいのでしょうか。13節で、主はその解決策を語られます。「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。」

その解決のために主がイスラエルに求められたことは、民をきよめるということでした。彼らのうちから聖絶のものを除き去るということです。それまで主は彼らとともにはおらず、敵の前に立つことはできない、と言われたのです。

主は人の目に隠れた小さな罪でも見逃すことはなさいません。私たちに罪があるなら、主がともに働かれるということはないのです。イザヤ書59章1-2節に、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とあります。主の御手が短くて救えないのではありません。その耳が遠くて、聞こえないのでもないのです。私たちの咎が、私たちと神との間の仕切りとなり、私たちの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのです。もしかしたら。私たちに起きている問題の原因はどこか別のところにあるのではなく、私たち自身にあるのかもしれません。失敗のきっかけになった原因を「あの人」「あの事」にばかりに目を奪われずに、もう少し深いところを見つめなければなりません。その根本的な問題が、神との関係にあるのかもしれないのです。その神との関係のために、罪が取り除かれなければならないのです。

そして、主が示された方法は、彼らが部族ごとに進み出て、その中から主がくじで取り分ける部族、氏族、家族は、男ひとりひとり進み出なければならないというものでした。そして、聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならないというものでした。

アカンを特定する方法について、くじによって違反者を見出すというのは、冤罪を生み出す懸念もありますが、これは神がこの問題に限って定めた方法であり、アカンの自白によって、適切な方法であったと見るべきでしょう。

Ⅲ.悪を取り除く(16-26)

16節から26節までをご覧ください。まず21節までをお読みします。
「そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」

そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させると、ユダの部族がくじで取り分けられ、さらにユダの氏族ごとに進み出させると、ゼラフ人の氏族がとりわけられ、ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取り分けられ、ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、アカンが取り分けられました。原因はこのアカンでした。そのアカンに対して、ヨシュアは「わが子よ」と言って、優しく語りかけています。わが子よ、あなたが何をしたのかを私に告げなさい・・と。するとアカンは、自分が聖絶のものを盗んだことを告白します。するとヨシュアは使いを遣わして、アカンが言ったことが本当であることを確かめると、アカンと彼の息子、娘、家畜、それに彼の所有物のすべてをアコルの谷に連れて行き、彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけました。そこで、主はイスラエルに対する燃える怒りをやめられたのです。

この大変な罪のためにアカンとその全家族が滅ぼされました。(25,26)それにしても、あまりにも残酷ではないでしょうか。アカンだけならまだしも、ここではその家族全員も打ち殺されています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。

それは、神は罪を赦すお方でありますが、罪を見過ごしたり、大目に見たりする方ではない、ということです。必ずけじめをつけられます。これは神の無慈悲を表しているのではなく、罪の悲惨さを表しているのです。そして、その罪のもたらす影響がどれほど大きいものであるのかを示しているのです。パウロはこのことについてコリント人への手紙の中でこう述べています。コリント人への手紙第一5章6-7節です。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。」
ここには古いパン種を取り除くように、と言われています。この古いパン種とは、神の目にかなわない罪、咎のことです。なぜなら、そのようなものがあると、それが粉全体をふくらませることになるからです。つまり、全体に影響を及ぼしてしまうことになります。だから、古いパン種を取り除かなければならないのです。それは粉全体、教会全体を守るためです。それはちょうど体を蝕む癌のようなものです。それを取り除かなければ体全体に転移し、やがては死に至ることになってしまいます。そのための最善の処置は、癌細胞のすべてを取り除くことです。それと同じように、教会の中に悪があれば、その細胞のすべて取り除かなければなりません。それはひどい話ではなく、そうしなければ全体も滅んでしまうになるのです。それゆえ、私たちは私たちの内にある罪を処理しなければならなりません。

しかし、今日において、私たちがアカンのように神に滅ぼし尽くされることはありません。なぜなら、イエス様が私たちの身代わりとなって十字架で滅ぼされたからです。私たちの罪は既に赦されているのです。主は、ご自身の御子イエス・キリストの贖いによって、私たちに対する燃える怒りをやめられたのです。(26節)。ヨハネ第一の手紙1章6~9節を開いてください。
「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

ですから、この箇所を人々の心の中に隠されている罪の糾弾と、それに対する神の裁きとしてだけ語られてはなりません。私たちはみな神の前に罪人であり、神のさばきを受けなければならない者ですが、そのような者も赦してくださる神の恵み、あわれみが語られなければならないのです。
私たちに求められているのは、悔い改めであり、主の赦しのもとに新しい一歩を踏み出すことなのです。

Ⅰペテロ2章11~12節 「異邦人の中でりっぱにふるまう」

 きょうは、「異邦人の中でりっぱにふるまう」というタイトルでお話したいと思います。この手紙はペテロから迫害によってポント、ガラテヤ、カパドニヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンたちに書き送られた手紙です。ペテロは迫害で散らされた先々で肩身の狭いような生活を余儀なくされていた彼らを励ますためにこの手紙を書きました。どのようにして励ましたのかというと、彼らにもたらされた恵みがどれほど栄光に富んだものであるかを思い起こさせることによってです。そこでペテロは前の箇所で、彼らは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民であると言いました。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。その事実に基づいてそのような身分を受けた彼らが、その置かれた状況の中でどのように生きるべきかを、具体的に勧めるのです。それは、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまう」ということです。たとえクリスチャンが少ない異邦人ばかりの社会の中にあっても、立派に生活するようにと勧めるのです。りっぱにふるまうとはどういうことでしょうか。なぜそのように生きることが必要なのでしょうか。

Ⅰ.たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい(11)

まず11節をご覧ください。ペテロはここで、「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」と言っています。

ペテロはまず異教社会に住むクリスチャンが、その中でりっぱにふるまうために、消極的な面から勧めています。それは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけるということです。

肉の欲を遠ざけるとは、禁欲主義でありなさい、ということではありません。私たちが生来持っている食欲や睡眠欲といった基本的な欲求をはじめ、楽をしたいとか、快楽を味わいたい、認められたいといった欲を禁じているわけではないのです。そうではなく、そうした欲に支配されることがないようにということなのです。この世にどっぷりと浸かり、欲に支配されると、それがたましいに戦いを挑むことがあるからです。

創世記にロトという人物が出てきます。ロトはアブラハムのおいで、アブラハムと共に、故郷を出て神様の示す地へ行きました。ところが、このアブラハムの家族とロトの家族との間に争いが起こります。彼らが持っていた持ち物が多すぎたので、いっしょに住むことができなかったのです。そこで、アブラハムがロトに言いました。
「どうか私とあなたとの間に、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるのだから、私から分かれてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」(創世記13:8-9)
そこで、ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見回すと、そこは主の園のように潤っていたので、ロトはその地を選び取って、そこに天幕を張ることにしました。しかし、そこはソドムとゴモラという悪に満ちた町のそばにあって、とても危険に満ちたところでした。けれどもロトはそんなことはおかまいなしに、さっさと移動して行きました。

その後、ロトとその家族について、聖書にはしばらく何も語られていません。次にロトについて記されてあるのは創世記19章ですが、そこには、なんとロトの家族がソドムの町のど真ん中に住んでいるのです。二人の娘は、ソドムの男性と結婚していました。それはまさに、神様がソドムの町を滅ぼされる直前のことでした。最初はソドムとゴモラの近くに住んでも大丈夫だろうと思っているうちに、いつの間にか、その真ん中に住んでいるということがあるのです。

20世紀のイギリスに、キリスト教を世俗から守った第一人者にC・S・ルイスという人がいます。彼は映画「ナルニア国物語」の著者でもありますので、キリスト教を知らない人でも、彼の名前は知っていると思います。C・S・ルイスは、オックスフォード大学で中世の文学を教えていましたが、徹底した無神論者でした。その彼がキリスト教に回心して、キリスト教を現在の様々な出来事から守る第一人者となりました。ものすごく多くの本を書いていますが、その中に、「悪魔からの手紙」というのがあります。「悪魔からの手紙」というのは、悪魔の親分が悪魔の子分に、どのように仕事をしたら良いかをいろいろ指導している内容が記されてあります。その一節を、そのまま読んでみたいと思います。
 「どだい物質主義が真理かどうかなどと人間に考えさせてはいけない。ただ、「物質主義は、力強くて、ハッキリしていて、これからの世を背負う生き方」とでも考えさせておきなさい。
覚えておくがよい、人間とは我々みたいに完全に霊的な存在ではないのだ。人間は眠くもなり、腹も空く。人間は洋服も着、様々なアクセサリーを身に付ける。おそらくおまえには想像もつかないだろうが、奴らはいつも日常の出来事に奴隷のように振り回されている。それが人間だぞ。それを十分に利用しなさい。おまえの作戦はこうだ。人間がこの世の先の出来事だとか、人生の意義だとか、永遠者の存在だとか、そんなことを考え始めたとき、すぐさま、そいつの注意を、そんな目に見えないものから、物質的な現実的な、目の前にあるものへと移してしまうのだ。
 人間は、着るもの、食べもの、そうした手で掴めるものに弱い。そうだ、この世界を彼らに向けて「現実世界」と呼ばせようではないか。「現実世界」という響きは、いかにもしっかりとしている。どうせ彼らは、「現実とは何なのか」、そんなことを尋ねて来るわけがない。人間は現実世界に弱い。
 俺の管轄にあった一人の男の例を挙げておこう。そいつはロンドンの大英博物館でよく研究していた無神論者だった。ある日、そいつの考えが間違った方向へと進んで行くではないか。なんと、そいつは死、生命、神、そんなことを考え始めていた。覗いてみると、なんと敵の(キリストの)手先が彼のそばでささやいているのだ。俺の20年に亘る労苦が水の泡になるところだった。そのとき、もしも彼を理論で説得しようとしていたなら、俺の負けであった。しかし、俺様もそんな「愚か者」じゃない。すぐさま、彼の中のもっとも俺様が支配しているところを捉えて、そしてこう言ってやった。「そろそろ、ランチの時間だよ」
 勿論、敵もさることながら、すぐさま「この問題はランチよりも大事だ」とささやいたが、ここがベテランの俺様の腕のみせどころだ。すかさず「大事であることはごもっとも。事実、この問題は、ランチの前の疲れた頭で考えるには、大事すぎる」とそう付け加えておいた。
 そして、「こんな大事な問題、ランチの後でじっくりと考えた方がいいんじゃないか」と付け加える頃には、彼はもう出口の方に足を踏み出していた。
 一旦、外へ出たら、この戦いは俺様のもんだった。道行く人の雑然とした働きぶりをとっくりと見させ、73番のバスが彼のそばを通り抜け、5分としないうちに彼を確信に導くことができた。
 俺はこのとき学んだよ。たとえ人が一人になっても、本をめくって考え事をしていたとしても、そんなときにどんなおかしな考えが人間の頭をかすめようとも、町に転がっている「現実生活」というものの臭いをたっぷりとかがせてやれば、たちまち霊的考えの雲は吹き飛んでしまう。」

 こういう内容です。悪魔は私たちの弱みを見事につかんでいます。自分の霊的なきよさ、この世にあって旅人として遣わされていることの大切さ、自分が神の国の市民であること、自分がいただいた罪の赦し、神の子どもとされた喜び、そんなものは、現実生活というものによって一瞬にして吹き飛んでしまうのです。勉強したの?と言われれば、あ、勉強の方が大事だと思ってしまいますし、夏休みの宿題終わったの?と言えば、宿題の事で頭がいっぱいになるでしょう。テレビの宣伝じゃないですけれども、借金のことを考え始めたら全部借金になってしまいます。現実生活というのは、それだけ力があるのです。そうしたたましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければなりません。

それは、キリスト教が禁欲主義を推奨しているということではありません。あれはだめ、これもだめ、だぶんだめ、きっとだめ、と何でも禁じているわけではないのです。もっと積極的に、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにするのです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
ただ神の栄光を現すためにしているはずのことが、いつの間にかそこからズレてその欲に支配されてしまい、そこにどっぷりと浸かってしまうこともあるので、注意が必要なのです。

たとえば、仕事はどうでしょうか。仕事は大切なものであり、私たちが生きていく上で必要不可欠なものです。しかし、良かれ思って始めた仕事が、やがてその仕事の虜になり、日曜日も礼拝に行けなくなり、だんだん教会から遠ざかって行くことがあるとしたら、それは「たましいに戦いをいどむ肉の欲」となるのです。

ここでは、その「肉の欲を遠ざけなさい」と言われています。「遠ざけなさい」とは「遠ざけ続けなさい」という意味があります。クリスチャンは肉の欲に支配されるのではなく、肉の欲を遠ざけなければなりません。悪習慣や肉の欲といった内面的な戦いにおいては、これくらいなら大丈夫だという態度が多くの場合みじめな結果となってしまいます。一番確実な勝利の道はそれらのものを「避ける」ことだと、経験豊かなべテロは勧めているのです。

いったいなぜ肉の欲を遠ざけなければならないのでしょうか。ここには、「旅人であり寄留者であるあなたがたは」とあります。ペテロがここで「旅人であり寄留者であるあなたがたは」と語っていることには深い意味があります。人生は旅であり、この世は仮の住まいなのだ、という考え方は、一生涯をテントで生活したアブラハムの信仰からきています。

ヘブル人の手紙には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。・・・・これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」(ヘブル11:8~10,13)とあります。

アブラハムは、約束された地に他国人のように住み、天幕生活をしました。なぜでしょうか。なぜなら、彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。ですから、約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎えていました。そして、この地上では旅人であり寄留者であることを告白し、そのように生活したのです。旅人や寄留者ですから、この地上のものに固執する必要がなかったのです。

それは私たちの模範でもあります。私たちはイエス・キリストを信じたことで天国の市民となりました。私たちの国籍は天にあるのです。この地上の住まいは仮の宿にすぎません。それなのにこれが終の棲家であるかのように、そこに執着して生きるとしたら、どんなに空しいことでしょうか。物欲に囚われない、名誉欲にも駆られない、世の煩いに縛られないという生き方こそ信仰者のあるべき姿です。もちろん、ペテロは、私たちに対して世捨て人のような、あるいは仙人のような生き方を勧めているわけではありません。しかし、自分たちが天国の市民であるという自覚は、肉欲を遠ざける大きな動機になるはずです。私たちはもう一度どのような者とされたのかを深く考え、神の所有とされた民として、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなければならないのです。

Ⅱ.異邦人の中にあって、りっぱにふるまう(12)

次に12節の前半をご覧ください。ここには、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」とあります。

「異邦人の中にあって」という言葉は、ユダヤ人と対比した異邦人という意味ではなく、クリスチャンではない、という意味の「異邦人」のことです。いわゆる、神を知らない人々、不信者のことです。この頃のクリスチャンは圧倒的に少数派でしたので、社会生活においては、こうした人たちに取り囲まれて生きていました。ですから、生活の全てが異教的な習慣に従ってなされていたのです。商売もいわゆるごまかしが横行し、酒の付き合いも今の日本と変わらないくらい一般的でした。そんな中で、「聖い生活」を保つこと、貫くことはなかなか容易なことではありませんでした。

それは現代のこの国に生きる私たちも同じです。クリスチャン人口が全体の0.4%と圧倒的に少ない社会の中で生きることは、容易なことではありません。どこか隠れるようにして信仰を保とうとしたり、できるだけこの世との関わりを断ち、この世に触れないように生きようとすることがあるのではないでしょうか。あるいは逆に、この世にどっぷりと浸かり、この世に流されながら生きた方がどんなに楽かと思うこともあるかもしれません。しかし、ペテロはそうした社会の中にあってそこから逃れるのではなく、あるいは逆にその中に取り込まれてしまうのでもなく、その真っただ中にあってりっぱにふるまいなさいというのです。

この「りっぱに」と訳された言葉は「他の人の目にとまる魅力的な美しさ」を意味しています。内的な美しさが外的にもあらわれる行為は、異教社会に住む者にとって必要なことであり、大切なことであったのです。そうすれば、彼らは、何かのことで彼らを悪人呼ばわりしていても、彼らのそのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

今年1月召された前ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが、「置かれた場所で咲きなさい」という本を書いてベストセラーになりました。三十代半ばで、思いがけず岡山に派遣され、翌年、大学の学長に任ぜられ、心乱れることも多かった彼女に、一人の宣教師が短い英語の詩を手渡してくれました。その中には、「Bloom where God has planted you.」(神が植えたところで咲きなさい)と書かれてありました。「咲くということは、仕方がないとあきらめるのではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」と続いたその詩は、「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです」と告げるものでした。
結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいというのです。どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、下へ下へと根を降ろすのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

この本を読んで思うことは、私たちの幸せは置かれた状況とは全く関係がないということです。どんな境遇でも、その置かれたところで花を咲かせることができるのです。ここでペテロは異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい、と言っていますが、確かに異邦人の中に置かれるということは楽なことではないかもしれません。誤解や偏見、無理解といったこともあるでしょう。肩身の狭いような思いをすることもあるかもしれない。しかし、そのような中にあってもりっぱにふるまうことができる。その場所で花を咲かせることができるのです。神様が私たちをそこへ置いてくださったと信じるなら、必ずそこでりっぱにふるまうことができるのです。

下村湖人(しもむらこじん)の名作に「次郎物語」があります。戦争中に、次郎と兄さんが、おじさんの徹太郎という、学校の先生をしているその家に疎開をするんです。ある日、3人が山に登って山の中腹で腰を下ろして、おにぎりを食べていますと、目の前に大きな岩が二つ、真ん中に松の木が、その岩の裂け目から根を張って生きているのを見ます。よく見ると、明らかに松の木が大きな岩を二つに割ったように生えているのです。
 おじさんの徹太郎は、その松の木を見て、いのちの力に感動してこう言うんですね。「強い。松の木は強い。でも強いのは松の木ばかりじゃないんだよ。いのちのあるものは、みんな強いんだよ」
そう言うと、徹太郎は次郎に向かって、「でもな」と話しを続けます。「でもな、卑怯ないのちは役に立たんぞ。卑怯ないのちというのは、自分の境遇を喜ぶことができない。」「たとえば、あの松の木だ。何百年かの昔、一粒の種が風に吹かれてあの岩の小さな裂け目に落ち込んだとする。種には何の責任もない。種はそういう境遇に巡り合わされたとする。一日で岩を割ることはできない。でもそこにじっと我慢して、その境遇を嘆くのではなく、恨むのでもなく、そこで気持ちよく努力すれば、やがていのちの種は大きな岩を二つに割ることもできる。」
その話を聞いて、次郎はハッとさせられるんですね。それまで次郎は疎開先で「僕はなんでこんなところに住んでいるんだろう。この土地の人々、この土地の子どもたちとは馴染むことができない」といつも不平不満を言っていたからです。しかし、そうした境遇を嘆くのではなく、あるいは恨むのでもなく、そこに神様が置いてくださったのだと受け止めて、その置かれたところで精一杯努力したら、きっとあの松の木のように岩を二つに割ることもできるのです。神さまはそのようにして旅人であり、寄留者であるあなたを導いてくださるのです。

あなたの置かれているところはどんなところですか。あなたはそれをどのように受け止めておられますか。だれも自分の境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。異邦人の中にあって、りっぱにふるまうことができるのです。それはあなたが置かれたその所が、神によって運ばれた所だと、信仰によってしっかりと受け止めることから始まるのです。

Ⅲ.神をほめたたえるようになる(12b)

第三のことは、その結果です。異邦人の中にあって、りっぱにふるまった結果、どのようなことになるのでしょうか。12節の後半をご覧ください。ここには、「そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」とあります。

この手紙が書かれた当時、キリスト者を「悪人呼ばわり」する者がいました。 聖餐式のことを聞きかじって、キリスト者を「人の肉を食い、人の血を飲む者たちだ」と言ったり、教会は神の家族であり、信者は互いに兄弟姉妹だというと、「道徳的に乱れた人々」だと罵(ののし)る者たちがいたのです。このような中傷にもかかわらず、ペテロは「りっぱにふるまいなさい」と勧めるのです。それは今の時代でも同じです。キリスト教に対する無理解から、宗教はどの宗教も同じだと、宗教を持つことを極端に毛嫌いする世の中です。ただでさえ悪人呼ばわりされるのがクリスチャンですから、場の雰囲気に合わなければその場にいる人たちから煙たがられたり、みんなと調子を合わせないということで、仲間はずれされることもあるでしょう。しかし、クリスチャンのりっぱなふるまいを見ることによって、長い目で見ると、やっぱり信用できるのはクリスチャンだということがわかり、やがておとずれの日に神をほめたたえるようになるのです。

この「おとずれの日」というのは、キリストの再臨の時、世の終わりの裁きの日のことだと考えられます。しかし、この個所の場合は、「神に逆らっていた者が恵みの中に入れられる日」と理解するのがよいと思われます。それまで神に敵対していた人に神がおとずれてくださり、神を信じ、神をほめたたえるようになる、そういう日が来る、というのです。これは慰めであり、励ましではないでしょうか。今はわからなくとも、やがいおとずれの日に、そのような人たちも神を信じ、ハレルヤ!と言って神をほめたたえるようになるとしたら、それほど大きな喜びはありません。なぜなら、私たちはそのために召されているのですから。

この「見て」と訳された言葉ですが、これは、「じっと見つめる」という意味です。ちょっとした目には、変わったやつだ、と爪はじきにされるかもしれません。しかし、私たちの行いをじっと見つめる人は、その中に神の恵みと力を感じるようになるのです。
イエス様を十字架につけたローマの百人隊長は、その一人です。十字架に付けられたイエス様の姿を見て、「この方はまことに神の子であった」(マタイ27:54)と言いました。また、インドで牧師を監視するために担当させられた秘密警察官が長い「監視」の末に、この男の信じているイエス様は本物だと言ってバプテスマを受けた話を聞いたことがあります。彼らはたとえ今クリスチャンを悪者呼ばわりしていても、おとずれの日に、クリスチャンのりっぱな行いを見て、神をほめたたえるようになるのです。

ですから、皆さん、今の現実だけを見て落ち込んでいてはなりません。やがてその日が来ることを覚え、この現実の世界の問題で頭をいっぱいにするのではなく、現実の世界から離れて、週に一度神の前に出て、神の前にひれ伏し、伏し拝みながら、自分がどのような者であり、自分が今どこにいるのかを確認しながら、やがておとずれの日にもたらされるすばらしい栄光を仰ぎ見ながら、人生の最終目標である天国を目指して進んでいかなければならないのです。

確かにこの道は楽な道ではないかもしれません。険しい坂道を何度も上り下りするような道かもしれない。しかし、あなたは神から恵みを受けたのです。以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。そのような者として、この人生の旅を神とともに歩んでいこうではありませんか。

Ⅰペテロ2章9~10節 「神の所有とされた民」

きょうの箇所でペテロは、「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、神の所有とされた民です。」と言っています。皆さんは、「あなたは誰ですか」と問われたら、何とお答えになるでしょうか。「はい、私は大橋富男という名前で、男性です。福島県の伊達町の出身です。時々中国人ですかと言われることもありますが、日本人です。今は栃木県の大田原市に住んでいて牧師です。」と言うと、私のことが少しわかってもらえるかもしれません。しかし、私がどういう人で、どんなことをしてきたのか、どんな価値観をもって生きているのかまではわからないと思います。しかし、本当に重要なのはその部分です。その部分が確立しているかどうかで、この世での生き方が大きく変わってくるからです。

たとえば、この手紙はイエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していたクリスチャンに宛てて書かれた手紙です。彼らはローマの迫害によって散らされ、肩身の狭い思いで生きることを余儀なくされていましたが、そんな彼らにとって、自分たちがどのような存在なのか、自分たちは神の民であるということを知っていること、そのアイデンティティーをしっかりと確立していることは、たとえそのような状況の中にあっても決して流されることなく、堅く信仰に留まるために重要なことでした。

きょうのところでペテロは、私たちクリスチャンがどのようなものであるのかについて、次のように言っています。

Ⅰ.神の所有とされた民(9a)

9節の前半をご覧ください。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」どういうことでしょうか。

「しかし、あなたがたは」とは、先ほども申し上げたように、この手紙の受取人であり、小アジヤ地方、現在のトルコの各地に散らされていたクリスチャンたちのことです。ペテロはそんな彼らに向かって、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と言っています。

「選ばれた種族」とは、私たちが神の民となったのは、私たちの考えや決断によるのではなく、神様の深いご計画の中で、私たちが救いに選ばれたということです。しかもその救いは今に始まったことではなく、永遠の昔から、この世界の基が置かれる前から、愛をもってあらかじめ定められていたことであるということです。「選ばれた」ということは、この世の人々とは違う生き方が求められているということでもあります。人は何のために生きているのでしょうか。人はあまりそのことを考えませんし、考えようともしません。しかし、私たちが生きる目的ははっきりしています。それは、神の栄光を現すことです。

きょうはこの後で悠人兄と奈々姉の婚約式が行われますが、私は結婚式のたびごとに、結婚というのはつくづく不思議なものだなぁと思います。結婚するふたりは、互いに知り合うまで、電車で隣り合わせても、街ですれ違っても、全く知らない者同士だったのに、それが結婚によって、親子よりも、兄弟よりも、親密な関係になっていくのです。また、世界中には、何十億の男性と、何十億の女性がいて、その中からたった一人の男性とたった一人の女性が結び合わされるのです。それはものすごい確率でしょう。それはまさにそのように選ばれたのであり、その背後には神の特別な配慮と不思議な導きがあったとしか言いようがありません。

私は、かつて奈々さんに「どんな人と結婚したいの」と聞いたことがあります。すると、奈々さんは、「えっ、謙遜な人がいいです」と答えられました。「謙遜な人か・・・、じゃ私のような人だなぁ」と思ったら、その後で、「私は、あまり外見は気にしないんです。本当に謙遜な人であればそれで十分なんです。」と言われたので、それはちょっと私ではないなと思いました。そこに颯爽と現われたのが悠人兄でした。お二人は以前からKGKでお知り合いであったようですが、それがまさかここでつながるとは誰が想像することができたでしょう。それはまさに神の深いご計画と導きによって結び合わせてくださったものであり、神の選びによるのです。

ということは、このようにして結び合わされたお二人は、他の人たちとは違った目的があるということです。お二人はこの婚約の期間になぜ自分たちは結婚するのか、それは自分たちを通して神の栄光を現すためであるという確信を深め、どのようにしてそれを実現することができるのかを、祈りながら求めていってほしいと思います。

イスラエルの民が失敗したのは、実にこの目的を見失ったことにありました。民族としてのイスラエルが神に選ばれたのはこの神を証するためだったのに、彼らは自分たちが選ばれたことに酔いしれて、その目的を忘れてしまったのです。私たちは神に選ばれた者であるということをしっかりと覚え、その目的に従って生きることが求められているのです。

また、ここには「王である祭司」であるとも言われています。「王である祭司」とは、王である神の御国に仕える祭司であるという意味です。旧約時代、祭司の働きは、罪人の罪を引き受けて、神の前に出ていけにえをささげて、祈ることでした。クリスチャンは「王である祭司」として人々の救いのためにとりなしをする働きがゆだねられているということです。それは牧師にだけ与えられた特権ではありません。救われて神の民とされたすべてのクリスチャンに与えられた特権なのです。

第三に、クリスチャンは「聖なる国民」です。聖なると訳された「ハギオス」というギリシャ語は、分離することを意味しています。汚れから分離して、神に属するもの、神のものとなったという意味です。

それと同じことが、次のところにも出てきます。それは、「神の所有とされた民」です。クリスチャンは神の所有とされた民、神の民とされました。それまではただの人であったわけです。何か特別なことができる訳でもないし、何か特別な身分であったわけでもありません。ただの人です。しかし、神はそんな私たちを選び、神の民としてくださいました。ロイヤルファミリーですよ。ロイヤルファミリーというのは、神の国のロイヤルファミリーのことです。すごいでしょう。

先日、東京都議会議員選挙がありました。都議会議員でも国会議員でもひとたび選挙に当選するや否や、それまで無名で平凡な人もさまざまな特権を持ち、生活も一変します。私たちも私たちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目によみがえられたイエス様を信じたときから、私たちの身分も大きく変えられ、神の所有の民、神のロイヤルファミリーの一員とさせていただくことができたのです。

それなのに、私たちは、こうした自分の立場を忘れてしまうことがよくあります。周りの人から言われることばに流されて、自分の本来の立場を見失ってしまうことがあるのです。「お前は変わり者だな」と親戚の人から言われることがあれば、「ほう、お前はクリスチャンなのか」と驚かれることもあります。それでも多くのクリスチャンが積み上げてきた立派な証があるので、クリスチャンは割と評判がいいのですが、それが災いしてか、逆にクリスチャンらしからぬふるまいをすると、「お前はそれでもクリスチャンか」と言われて、落ち込んだりすることもあります。

ジョン・バニヤンが「天路歴程」という本を書きました。ある人が、自分たちの都市が滅ぼされることを知って、天国を目指して巡礼の旅に出かけます。ところで、途中で間違って落胆という沼に落ちたり、いろいろな人の言葉に騙されて、道をそれたり、元の道に戻ったりするのです。それでも、伝道者に教えられて狭い門を入って行き、十字架の前に立ったとき、ようやく無条件の赦しを体験することができました。私たちも、クリスチャンとしての素晴らしい身分を見出すまで、このような旅をしているのかもしれません。

そのような私たちに対して主は、「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」と、同じような言葉を重ねながら語ってくださるのです。なぜでしょうか。それは同じような表現を何回重ねて言い換えたとしても、強調しすぎることがないほど、あなたがそのような身分とされていることを知ってほしいからであり、それほど、神の目にあなたは尊い存在なのだということを覚えてほしいからなのです。

実は、これは出エジプト記19章4~6節からの引用で、神がモーセに語られたことを、ここでペテロが引用しているのです。

「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたがわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

その中心にあることばは何かというと、あなたがたはわたしの宝であるということです。皆さんは、宝物を持っておられますか。皆さんの宝物は何でしょうか。「私の宝物はあなただ!」なんて言われたら、どんなに感動するかと思いますが、神様はそのように私たちに言っておられるのです。そして、その宝物のためにご自分のいのちを投げ出してくださいました。十字架の上で・・・。私たちはそのことがなかなか実感として沸いてきません。もし分かっていたら、どんなことがあってもそれを大事にするというか、それに応答していきたいと思うでしょう。それなのに、それがないとしたら、実際にはそのことが分かっていないということなのです。

ピーター・グリーブというハンセン病について、様々な記録を書いているイギリス人がいます。彼は長い間インドに住んでいましたが、そのインドでハンセン病に罹り、視力を失い、そして身体が麻痺した状態でイギリスに戻りました。その時、英国国教会のシスターが運営する施設でしばらく暮らすのですが、働くことができませんでした。すると社会から煙たがれるようになり、こんなことなら生きている意味などないと、自殺しようと考えました。自殺しようと、施設を去ろうとした日の朝早く起きて庭をブラブラしていると、何やらぶつぶつと唱える声が聞こえてきました。いったい何だろうと近づいて行くと、そこは礼拝堂でした。そこでシスターたちが、礼拝堂の壁に書かれていた患者一人ひとりの名前を挙げて祈っていたのです。ピーター・グリーフは、その名前の中に自分の名前があるのを見つけました。その途端、彼の心に電撃のような神の愛が走ったのです。自分はもう生きている意味がない。これから先どんな仕事に就けるのか、いや、仕事など就けない。家族を持つ希望もない。でも自分の名前は礼拝堂の壁に書かれていて、毎朝シスターが自分の名前をあげて祈っているのを見たとき、彼は思ったのです。自分は嫌われているのではない。自分は生きることを望まれている。自分はのろわれているのではない。自分は恵みを受けるためにいま生きているのだ。そう思った瞬間、彼はやみの中から、驚くべき光の中に招かれていたことに気付いたのです。

皆さん、私たちも、私たちがどんなにすばらしい身分とされたのか、神の所有とされた民、神の宝の民とされたことがわからないために、依然としてやみの中を歩んでしまうことがあります。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。このことを忘れないでください。あなたはのろわれているのではありません。愛されているのです。あなたはどうでもいい存在なのではない、神の目には高価で尊い存在なのです。信仰によってこの神のことばを自分への言葉として受け取り、神の民としての自分のアイデンティティーをしっかりと確立したいものです。

Ⅱ.今は神の民(10)

次に10節をご覧ください。いったいクリスチャンはどのようにしてこのような身分に変えられたのでしょうか。ここには、「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、いまはあわれみを受けた者です。」とあります。

クリスチャンは神によって選ばれたというだけでなく、そこにキリストによって変えられたという恵みがあります。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民です。以前はあわれみを受けなかった者なのに、今はあわれみを受けた者なのです。ダイエットや家の増改築だけでなく、クリスチャンにもbeforeとafterがあります。以前は神の民ではなかった。以前はあわれみを受けるものでもありませんでした。それなのに、今は神の民です。今はあわれみを受ける者となりました。その転換点には何があったのでしょうか。神のあわれみです。神のあわれみによってやみから光へ、のろいから祝福へ、絶望から希望へと、立場が移されたのです。それは私たちが自分の知恵や力や、また自分の信仰の力によって獲得したものではなく、一方的な神のあわれみによるのです。

この言葉の背景にはホセア書2章22、23節があります。そこには預言者ホセアの妻でありながら浮気を繰り返していたゴメルから生まれた3人の子供の名前を、主が祝福の名前に逆転させてくださるという約束が記されてあります。

1人目は「イズレエル」です。意味は、「神は蒔かれる」とか、「神は蒔いてくださる」です。かつて神の裁きの象徴として付けられたこの名前を、神は豊かな実りの地に変えてくださいました。また、2人目の子供は「愛されない者」という意味の「ロ・ルハマ」という名前でしたが、愛される者という意味の「ルハマ」に変えてくださいました。また3人目は「わたしの民ではない」という意味の「ロ・アミ」でしたが、「わたしの民」という意味の「アミ」に変えられました。

このように、ゴメルの三人の子供の名前には神の怒りとさばきが込められていましたが、神はイスラエルの民が心から悔い改め、ご自分に立ち返るのを忍耐して待ち望まれ、その名を祝福に変えてくださいました。このホセアの三人の子供の名を祝福の名に変えられたということは、私たち一人ひとりも先祖伝来の悪習慣から解放されて、自由にされ、新しい神の祝福の中に入れられることを象徴していると言えます。

私たちは誰も、親を選ぶことはできません。浮気妻ゴメルの子供たちは、生まれながらのろわれた名前が付けられていましたが、神はご自身の一方的なあわれみによって、それを祝福に変えてくださいました。私たちもかつては自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき者でしたが、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私をキリストとともに生かしてくださいました。その罪ののろいを祝福へと変えてくださったのです。以前は神の民ではなかったのに、今は神の民とされ、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受ける者となりました。イエス・キリストの福音は、やみの中から、ご自分の驚くべき光という神の御子のご支配の中に移すことができるのです。

だから、たとえあなたが今やみの中にいるとしても、イエス・キリストにあるなら、光の中へ移されるのです。たとえあなたが今絶望的な状況にあっても、神のあわれみによって希望へと移されるのです。神はあなたをそのように招いておられます。問題はあなたがその神の招きにどのように応答するかです。神のあわれみによるbeforeとafterを、あなたも体験してください。

Ⅲ.神のすばらしいみわざを宣べ伝えるため(9b)

最後に、クリスチャンがそのような祝福、神のあわれみを受けたのは何のためか、その目的を見て終わりたいと思います。9節後半をご覧ください。

「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。」

先々週、さくらで82歳の宗川姉がバプテスマ(洗礼)を受けられました。ご主人が亡くなられて三か月後の昨年9月に、教会に行きたいとご自分から電話して来られました。あれから10か月間、礼拝と聖書の学びを続けて来る中で、すっかりと教会の方々とも打ち解けるようになり、バプテスマの恵みに与かることができました。不思議なことに、さくらの教会には比較的ご年配の方々がたくさん集っておられます。教会を始める前に想像していたことは、小さなお子さんを持つ若いお母さん方が多く来られるのではないかと思っていましたが、いざふたを開けてみると、ご高齢の方々が多いのです。そして、一般的には教会も高齢化して・・・と、高齢化に対して少しネガティブなイメージがありますが、さくらに集っておられる方々は少し違うのです。本当に慰めと力を受けます。

ちょっと前に開いた聖書の学びの時です。ヨハネの福音書9章の、生まれつきの盲人がイエス様によって目を開けていただいた箇所から学びました。この盲人はイエス様によって目を開けてもらうと、自分が経験したことを、ありのままに伝えました。すると、彼は会堂から追い出されてしまいましたが、そんな彼をイエス様が見つけ出され、信仰告白へと導かれました。「あなたは人の子を信じますか。」と尋ねると、彼は、「主よ。私は信じます。」と告白し、イエスを拝したのです。すると、学びに参加していたひとりの姉妹が、昨年、その姉妹のお宅の隣にある畑に立てさせていただいた看板のことでお話しされました。

「先生、あそこに看板立てたでしょ。あれは私にできる信仰の告白なんです。近所の人が、『あなたも教会に行っているの?』と聞いて来たら、『そう、私、この教会に行っているんです』と言うつもりで立ててもらったんです。」「まだ誰も聞いて来ないんですけれども・・。」

私はそれを聞いてとても感動しました。私としては、比較的通りに面したところにあるので、そこを通る人が「あっ、この近くに教会があるのかな」と潜在的な意識を持ってもらうことができればという思いで立てさせてもらいましたが、まさか、ご自分の信仰の告白のつもりで立ててもらおうと考えていたなんて思ってもいなかったので、それがその姉妹にできる宣教の一つの取り組みなんだなぁと思うと、心がとても篤くなりました。考えてみると、昨年6月に集うようになってから礼拝や聖書の学びに一度も休まず出席している中で、神の驚くべき恵みが心に溢れていたのでしょう。

まさに私たちが神に選ばれ、神の所有の民とさせていただいたのはそのためです。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためです。

私たちは、選ばれた種族、神の民であるという宣言を受け入れ、以前はあわれみを受けないものであったのに、今はあわれみを受けるようになったという自分の変化を喜びながら、そのような驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるという与えられた使命を実現していくために、神の民として力強く歩んでいきましょう。

2017年9月30日(土)チャペルコンサート2017

チャペル コンサート 2017
Classic Concert 〜華麗なるギター〜

2017年9月30日(土)
大田原キリスト教会
大田原市美原3-1-19
開演14:00(開場13:30)

入場無料
どなたでもお気軽にお越しください。
駐車場に限りがございます。
お近くの駐車場をご利用ください。

演奏曲目
【バッハ作曲】
無伴奏チェロ組曲3番
【タレガ作曲】
アルハンブラの思い出
【チャイコフスキー作曲】
くるみ割り人形
・鹿のように
・主の祈り

※曲目は変更になる場合があります。予めご了承ください。

池田宏里さん(8弦ギタリスト)
プロフィール
1962年生まれ。
8歳より叔父池田司氏に師事。
当初より徹底したギターテクニックを叩き込まれる。
15歳でソロデビュー。
ピアノ曲•管弦楽曲などをギター演奏表現のため、10代後半で6弦ギターから8弦ギターへ移行。
20代から30代半ばまでギター活動を停止し、15年間の空白を経て1998年より青森県弘前市Ark noahコンサートホールを拠点として再始動。
2009年より東京を拠点とした演奏活動を展開。
2015年9月CD『Air』リリース。
昨年10月、紀尾井ホールにてモーツァルト作曲ピアノ協奏曲第8番、ロドリーゴ作曲アランフェスギター協奏曲を姜春東指揮のもと、東京シモン•フィルハーモニック•オーケストラをバックに演奏し好評を得る。
今年4月に日本クリスチャン音楽大学に入学。
現在55歳にして大学一年生として在学中である。
NPO法人すぽっとらいと理事長。
東京カルバリーチャペル会員。

2017年9月30日(土)チャペルコンサート2017

お問い合わせ
大田原キリスト教会
大田原市美原3-1-19
Tel:0287-23-8317(9:00-21:00)
e-mail:otawarachurch@gmail.com

 

 

 

Ⅰペテロ2章4~8節 「霊の家に築き上げられなさい」

きょうは、「霊の家に築き上げられなさい」というタイトルでお話しします。前回の箇所でペテロは、神の恵みによって救われたクリスチャンは、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい、と勧めました。それによって成長し、救いを得るためです。今回のところでペテロは、そのように霊の乳であるみことばによって救われて、成長したクリスチャンはどうあるべきなのかを語っています。それは、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげなさいということです。

 

霊の家とは何でしょうか。それは神の教会のことです。パウロはコリント人への手紙第一3章16節で、「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」と言っています。神の御霊が宿っている私たちのからだが神の神殿であり、そのような人たちが集められ、築き上げられているのが教会です。教会は建物のことではなくキリストのからだであり、このキリストのからだである教会に築き上げられ、霊のいけにえをささげることが求められているのです。

 

Ⅰ.生ける石(4)

 

まず4節をご覧ください。

「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」

 

「主のもとに来なさい。」という勧めは、何か唐突な感じがします。新共同訳では、4節の冒頭に「この」ということばがついていて、「この主のもとに来なさい。」となっています。これは3節で言われていた「主がいつくしみ深い方であることを味わっているので」、この主のもとに来なさいということになります。しかし、英語の聖書には、霊の家に築き上げられるために、生ける石である主のもとに来なさい、とあります。つまり、真理のみことばによって新しく生まれたクリスチャンは、みことばの乳を慕い求めることによって成長し、霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるために主のもとに来なさいということなのです。

 

旧約時代は、だれもが主のもとに来ることはできませんでした。そのためには祭司の仲介が必要だったのです。しかし、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じることによって、この救いを受け入れる人はだれでも主のもとに来ることができるようになりました。

 

なぜでしょうか。なぜなら、主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。どういうことでしょうか。キリストは人々を罪から救うためにこの世に来られましたが、人々はこの方を自分たちが期待していたメシヤ像とは違うと、十字架につけて死なせてしまいました。しかし、神はこの捨てられた石を礎の石として霊の家を築き上げられたのです。7節にあるように、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のです。

 

この「礎の石」とは、建物全体を支えるかなめの石のことです。パレスチナの家は石造りになっていて石を積み上げる方法で建築されていましたが、そのアーチ型の天井のてっぺんに入れる最後の石はとても重要な石で、その石がピッタリとはまるかどうかで、建物全体が強さが決まったのです。この石こそ建物全体のかなめとなったのです。英語の聖書には「Capstone」と訳されています。

 

それに対して6節の「礎石」は、「礎の石」という点では同じですが、これは建物全体を支える土台の四隅に据えられたかしら石のことです。英語では「Cornerstone」と訳されています。このコーナーストーンの上に建物の柱と壁が結び付けられて建物全体を支えていたので、これがどのような石なのかによって建物全体の強さが決まったのです。そういう意味では7節の「礎の石」と6節の「礎石」はどちらも建物全体を支えるかなめの石であったという点では同じです。それなのに、この石は、人には捨てられたのです。なぜでしょうか。それを見抜けなかった建築家の見立てが間違っていたからです。判断を誤ったのです。

 

イエスさまはそのことをぶどう園と農夫のたとえで説明されました。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して、旅に出かけました。収穫の季節になったので、ぶどう園の主人は収穫の分け前を受け取ろうと、農夫たちのところへしもべを遣わしましたが、彼らはそのしもべをつかまえて袋たたきにすると、何も持たせないで送り帰しました。それで主人は、私の愛する息子ならきっと敬ってくれるだろう、と最後にその息子を遣わしましたが、農夫たちは、「あれは跡取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。」(ルカ20:14)と言って、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまいました。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。いったいなぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか。イエスはその話の中でこう言われました。

「では、家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」と書いてあるのは、何のことでしょう。」(ルカ20:17)

まさにこれは農夫たちの見立て違いだったのです。彼らはしもべたちを侮辱し、跡取り息子を殺せば相続財産であるぶどう園を自分のものにすることができると思いました。しかし、それは完全な見立て違い、判断ミスだったのです。

 

時として、私たちもこのような間違いを犯してしまうことがあります。この石こそ私たちの人生の土台であり、キリストの教会の礎石、かなめの石なのに、そうでないものを土台に据えてしまうことがあります。イエス・キリストこそ教会の礎石であり、また、私たちの人生のコーナーストーンなのです。どんなに立派なものを建て上げようとしても、イエス・キリストという土台の上に立っていなければ、それは確かな人生とは言えないし、何らかの災害などがあった時にはもろくも崩れてしまうことになります。イエス・キリストがコーナーストーンです。この方を礎石として、この方の上に人生を築き上げるなら、どんなことがあってもびくともすることはありません。「彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。」のです。あなたの人生はどんな石の上に建てられていますか。

 

使徒パウロもエペソ人への手紙2章20~22節のところで、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にあって聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」と言っています。キリスト・イエスが礎石です。霊の建物である教会は、この方にあって組み合わされ、結び合わされて、成長していくのです。

 

ですから、何を教会の土台に据えるのか、何を私たちの人生の土台に据えるのはとても重要なことなのです。使徒パウロはこう言っています。「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように立てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。」(Ⅰコリント3:10-11)

 

私たちは皆、人生という家を築いています。それをどのように築き上げて行くはとても重要なことです。しかし、もっとも重要なことは、何の上にそれを築き上げていくのかということです。パウロが賢い建築家のように土台を据えたと言っているように、私たちも賢い建築家のように、人生の土台を据えたいと思います。

 

いったいなぜこのキリストの上に築き上げられなければならないのでしょうか。それは、主は人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石だからです。ペテロはこの手紙の中で「生ける」ということばを好んで用いています。1章3節では「生ける望み」と言い、1章23節では「生けるみことば」と言っています。そしてここでは、「生ける石」と言っているのです。いったいペテロはここで何を言いたかったのでしょうか。それは、この石がいのちを与える石であるということです。死んでいる石ではない、いのちを与える石なのです。それはイエス・キリストが死からよみがえられ、今も生きておられる方であるからです。ですから、この方に信頼する者は失望させられることはありません。私たちは弱くても、彼は強い方であり、今も生きて私たちにいのちと力を注ぎ続けておられる方だからです。

 

この「生ける石」は英語で「リビングストーン」と言いますが、そこから家名を取ったスコットランドの宣教師で、探検家でもあったリビングストーンは、アフリカで60年の生涯を終えました。しかし、彼が召された1873年以降も、彼が与えた影響は今に至るまでアフリカの大地に生き続けています。ザンビアの南部には、彼の名にちなんで「リビングストーン」という名前の都市があるほどです。このように、キリストは生ける石として今も生きておられ、私たちの人生に大きく働いているのです。

 

「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」これが私たちの人生の、私たちの教会のかなめの石です。あなたはどのような土台の上に人生を築いておられますか。この生ける石の上に私たちの人生も築き上げていきましょう。

 

Ⅱ.霊の家に築き上げられる(5a)

 

第二のことは、キリストが生ける石であるというだけでなく、私たちも生ける石として、霊の家に築き上げられなければならないということです。5節をご覧ください。ここに、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」とあります。これはどういうことでしょうか。

 

「あなたがた」というのは、すべてのクリスチャンのことを指しています。これはローマ皇帝の迫害によって小アジヤ地方に散らされていたクリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ペテロはそうした彼らに対して、「あなたがたも」と言っているのです。私だけでなく、あなたがたも、この石の上に築き上げられなさい・・と。

 

ペテロが石となってキリストの上に築き上げられることについては、マタイの福音書16章に語られていました。一行がピリポ・カイザリヤにいたとき、イエスが弟子たちに「人々はわたしのことをだれだと言っていますか。」と尋ねると、今度は弟子たちに、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われると、ペテロは弟子たちを代表してこう言いました。「あなたは、生ける神の子キリストです。」(マタイ16:16)

すると、イエスは彼にこう言われました。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:17-18)

 

ペテロというのは「岩」とか、「石」という意味です。「あなたは岩です、石です。わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われたのです。「この岩」とはペテロのことではなくイエスさまご自身のことです。その岩であられるイエスさまの上に、石であるペテロを用いてご自身の教会を建てるというのです。

イエスさまがなぜ彼をペテロと呼ばれたのかはわかりません。しかし、彼はその名前で呼ばれることをどれほど光栄に思ったことでしょう。どんなに小さな石でも、キリストという大きな岩の上に建てられた霊の家を築き上げていくために用いられていることを誇りと思ったに違いありません。

 

それはペテロだけでなく他の弟子たちも同じです。彼らは初代教会で重要な役割を果たしました。彼らは、イエス・キリストというコーナーストーンに直接つながっている土台の一部とされました。しかし、教会は使徒たちや他の指導的な人々だけで立て上げられているのではありません。石造りの建物には、大きな石ばかりではなく、小さな石も必要です。大きさばかりでなく、形も、色も、堅さも、様々なものが必要なのです。ですから、ペテロはここで、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。」と言っているのです。私もイエスによって教会の土台石にされたように、あなたがたも、主の招きに応じて、生ける石として、霊の家に築き上げられなさい、と呼びかけているのです。

 

これは明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)という小説家の「昼寝の夢」という小説に出てくる一節です。ある日旅人が天国へ行った夢を見ました。天国の中央に新しき都エルサレムがあって、その石垣には昔から歴史上人類に貢献してきた有名な作家の名前がずらりと刻まれていました。ダンテ、ミルトン、シェークスピア、テニスン、トルストイ、ドストエフスキー等の栄光の石でした。彼は驚きながらも自分の石はどこにあるのかと一生懸命探しました。大きい石から小さな石まで探して行くうちに、ほんの小指の先ほどの小さな石に「徳冨蘆花」と刻んであるのを発見しました。彼は怒りました。怒りのあまり、大石と大石との間にはさまれた、その小さな自分の石を取り出そうとすると、突然、大音響と共にその壮大な天国の都が崩れかけました。その瞬間、彼は恐ろしさのために目が覚めた」というのです。つまり、天国全体にとっては無くてならない存在だということを悟らされたのです。私たちはそれぞれ小さな石であるかもしれませんが、霊の家を築き上げていくための大切な材料の一つであることを覚え、共に霊の家を築いていくものでありたいと思うのです。

 

ところで、いったいどのようにして築いていったらいいのでしょうか。幸いなことに、ここには、霊の家を築き上げなさいとは言われていないで、霊の家に築き上げられなさいと受け身で言われています。どういうことでしょうか。それは、建て上げてくださるのはイエス様であるということです。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされて、成長し、愛のうちに立てられるのです。」(エペソ4:16)

どんな建物でもそうですが、どんなに立派な柱があっても、断熱性の高いペアガラスにしても、無垢のフローリングにしても、それだけでは意味がありません。それが組み合わされて、結び合わされて、すばらしい建物となるのです。それを建て上げてくださるのがイエス様なのです。だから、私たちはそんなに頑張らなくてもいいのです。私たちは生ける石として自分を主に差し出すだけでいいのです。そうすれば、主が建て上げてくださるのです。

 

今回もアメリカから4名のチームが来日してくださり、明日からのさくらでのサマー・イングリッシュ・デイ・キャンプで奉仕してくれることになりました。どうなるかわかりません。わかりませんが、大きな梁や無垢材のフローリング、ペアガラスどころかトリプルガラスのサッシも用意されました。こうした一つ一つの材料を主に差し出すとき、主が建て上げてくださると信じましょう。

 

Ⅲ.聖なる祭司として(5b)

 

第三のことは、私たちが、霊の家に築き上げられるのは何のためか、その目的です。それは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるためであるということです。つまり、聖なる祭司として神と人に仕えることです。5節の後半をご覧ください。ここには、「そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」とあります。

 

祭司というのは、神に仕える仕事です。もう少し正確に言うと、神の御前に人々の罪を担ってとりなす者です。ですから、イエス・キリストは私たちの大祭司であると言われているのです。そして、ここには私たちは聖なる祭司であると言われています。マルチン・ルターは、ここから「万人祭司説」を唱えました。クリスチャンはみな祭司であるという教理です。彼が宗教改革を行ったのは1517年ごろですが、それまでは聖職者と平信徒という区別がありました。罪の赦しを祈ることも、聖書の説き明かしをすることも、それはもっぱら聖職者の仕事であって、平信徒にはできないと考えられていたのです。しかし、マルチン・ルターはその区別を取っ払いました。信仰者はみな祭司であると主張したのです。それは、信仰者は互いに対して小さなキリストになることができるということを意味しています。

 

ですから、私たちは互いの罪を負い合い、互いのために祈り合い、とりなし合うことができます。互いのために聖書を説き明かし、互いに励まし合うことができるのです。私たちは互いに聖なる祭司、小さなキリストなのです。その私たちに求められているのは何でしょうか。聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれるいけにえをささげるということです。

 

ユダヤ教の神殿では、目に見えるいけにえがささげられました。しかし、霊の家である教会では、目に見えない霊のいけにえをささげます。では、イエス・キリストを通してささげる霊のいけにえとはどのようなどのようないけにえでしょうか。

詩篇50篇14節には、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」とあります。ここには、「感謝のいけにえ」とあります。神に感謝をささげること、それが一つの例のいけにえなのです。

また、詩篇51篇17節には、「神へのいけにえは、砕かれたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。神へのいけにえは、砕かれたたましい、砕かれた悔いた心です。神はそれをさげすまれません。

また、詩篇141篇2節には、「私の祈りが、御前への香として。私が手を上げることが、夕べのささげものとして立ち上りますように。」とあります。これは祈りのことです。神への祈りが神への喜ばれる霊のいけにえであると言われているのです。

さらに、ヘブル人への手紙13章15、16節には、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」善を行うことと、持ち物を人に分け与えることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。」とあります。賛美のいけにえ、さらには、善を行うことや持ち物を人に分け与えることも、神に喜ばれるいけにえです。

さらに、ローマ人への手紙15章16節を見ると、ここには、「私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは、異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」とあります。パウロがここで言っている祭司としての務めというのは、言うまでもなく伝道のことです。自分は伝道をもって、祭司の務めを果たして、キリストの福音を証し、人々に宣べ伝えること、それが神へのいけにえであると言っているのです。

 

こうやってみると、神に喜ばれるいけにえとは、私たちの生活のすべてであると言うことができます。ですから、パウロは、ローマ人への手紙の中でこのように言っているのです。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12:1)

「あなたがたのからだを」というのは、あなたがたの存在とか、あなたがたのすべてということです。それをささげなさいというのです。それこそ、神が喜ばれる霊のいけにえ、霊的な礼拝なのです。

 

生ける石であるキリストのもとに来て、生ける石として、霊の家に築き上げられた私たちは、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなければなりません。あなたのベクトルはどこを向いていますか。あなたは、聖なる祭司として、神に喜ばれる霊のいけにえをささげていますか。あなたのからだを、あなたの存在のすべてを神に受け入れられる、生きた供え物としてささげましょう。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝なのです。私たちはいったい何のために救われたのか、その目的を知っているかどうかは、私たちの信仰の歩みに大きな影響を及ぼします。私たちが救われたのは霊の家に築き上げられ、霊のいけにえをささげるためであるということをはっきりと知っている人は、この地上での生涯を神と人のために喜んでささげることができるようになるのです。

 

最後に一つのお話しをして終わりたいと思います。何人もの男たちが大きな石にロープをつけて丘の上に引き上げていました。石を滑りやすくするために、石の下に丸太を並べ、少し動かしてはまたそれを並べるというようにして、長い坂道を上っていきました。そこにとおりかかった旅人が、「そんな大きな石を運んで、どうするのかね。」と聞きました。すると一人の男が、苦しそうな顔をして、こう言いました。「そんなこと知るもんか。俺は日雇いで働いているだけさ。しかし、こんなにきつい仕事じゃ割にあわないぜ。」ところが、一緒に働いていた別の男が、汗だらけの顔でしたが、白い歯をみせてこう言いました。「だんな、ご存知じゃないんですか。この丘の上にはね、この町一番の立派な教会が建つんですよ。これはその石なんです。さあ、もうひとがんばりだ。」

 

皆さん、どちらの男がその日の仕事に満足できたと思いますか。自分がしていることの目的を知っていた人です。私たちも、神が私たちを贖って、霊の家に築き上げられたていることの目的を知り、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれ霊のいけにえをささげる者でありたいと思います。

ヨシュア記6章

きょうはヨシュア記6章から学びたいと思います。

Ⅰ.城壁がくずれるために(1-11)

まず1節から11節までをご覧ください。1節と2節をお読みします。

「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

主の奇跡的なみわざによってヨルダン川を渡ったイスラエルはまず割礼を施し、過越しのいけにえをささげました。そして、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、抜き身の剣を手にしたひとりの人がいて、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」と命じられ、ヨシュアはそのようにしました。すなわち、彼は主の御前に自らを明け渡し、主の命じられることに従っていく準備をしました。そして、いよいよ約束の地カナンの占領が始まっていきます。

その最初の取り組みは、エリコを攻略することでした。エリコの町はパレスチナ最古の町と言われており、この町はパレスチナの主要都市であっただけでなく、パレスチナにおける交通の要所であり、軍事的にも重要な拠点でした。ですからこのエリコの町を攻略することができるかどうかは、その後のヨシュアの戦いにとって極めて重要なことでした。

しかし、1節を見ると、「エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。」とあります。この町の周囲には高い城壁が巡らされており、だれひとり出入りすることができない難攻不落の町でした。この難攻不落の要塞を前にして、おそらくヨシュアは不安と恐れの中でしばしたたずんでいたのではないかと思います。

そのような時に、主がヨシュアに語られました。2節です。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」ここで注目したいのは、主がヨシュアに、エリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡したと、完了形で言われていることです。すなわち、いまだ起こっていない未来のことが、もう既に彼の手に渡っているということです。このことは私たちの信仰生活において極めて重要なことを示しています。それは、たとえそれが未だ起こっていないことであっても、神の約束の言葉があれば必ず成就するということです。すなわち、たとえそれが未来のことであっても完了形となるのです。ですから、私たちは何かを始めていくとき、まず主の前に祈り、主から約束の言葉をいただいてから始めていくことが重要なのです。

ところで、主はどのようにしてエリコの町を彼らの手に渡したのでしょうか。3節から5節までをご覧ください。「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」

ここで主は大変不思議なことをヨシュアに言われました。あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ、というのです。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、町の周囲を一度回り、六日間、そのようにし、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならないというのです。そして、祭司たちが吹くその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。そうすれば、城壁が崩れ落ちるので、崩れ落ちたら、民はおのおのまっすぐに上っていかなければならない、というのです。これは全く軍事的な行動ではありません。宗教的行為です。こんなことをして一体どうなるでしょうか。途中で敵がそれに気づいて襲ってくるかもしれないし、襲って来なくても、その行動を見てあざ笑うことでしょう。いったいなぜ主なる神はこのような命令を出されたのでしょうか。それは、彼らが自分たちの考えではなく神のみこころに徹底的に従うなら、神が勝利してくださるということを示すためでした。

イザヤ55章8,9節には、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。─主の御告げ─天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。私たちの思いと神の思いとは決定的に異なります。私たちがどんなに愚かな知恵をしぼって、ああでもない、こうでもないと思い悩んでも、複雑な迷路に落ち込み、果てには不信仰の中に落ち込んでいくだけですが、しかし、人間の知恵をはるかに超えた神の知恵に自分自身をゆだね、あるいはその問題をゆだねるなら、そこに不思議な神のみわざが現されるのです。

ですから、たとえそれが私たちには理解できないことであっても、あるいは、敵にあざけられるようなことであっても、主が命じておられるのであれば、そのみことばに従わなければなりません。特にここには「七」という数字が強調されていることに注目してください。エリコの町を七日間回ること、七日目には七度回ること、七人の祭司、七つの雄羊の角笛と「七」が強調されているのは、これが完全な神のみわざとしてなされるということです。

それに対してヨシュアはどうしたでしょうか。6節と7節をご覧ください。「そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」

ヨシュアは信仰によってそれを主の御声として受け止め、その御声に従いました。また、イスラエルの民も、そのヨシュアの声に従いました。それは世界の戦闘の歴史の中でも最も異様な光景でしたが、彼らは主の御声に聞き従ったのです。

8節から11節までをご覧ください。

「ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。」

10節に注目してください。ここには、「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。」とあります。口からことばを出してはいけません。黙っていなければなりません。なぜでしょうか。主の戦いに人間の声は必要ないからです。人間が口から出すことばによって、主の働きを妨げてしまうことがあるからです。しかし、黙っているということはなかなかできることではありません。特に女性にとっては大変なことでしょう。ある若い婦人は、「私は夫が聞いていても、いなくても、とにかく話します」と言っておられました。話さないではいられないのです。しかし、主の戦いにおいては黙っていなければなりません。

また、主の戦いにおいてもう一つ注意しなければならないことは、焦らないということです。11節を見ると、ヨシュアは1日に一度だけ町の回りを回らせたとあります。これはなかなか忍耐のいることです。どうせなら一日に七度回ってその日のうちに終わらせた方が効率的ではないかと思うのですが、ヨシュアはこの点でも主の御声に従いました。主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちは力を尽くして主に拠り頼み、自分の悟りに頼らないことが大切です。

Ⅱ.くずれた城壁(12-21)

次に、12節から21節までをご覧ください。

「翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。」

イスラエルの民はその次の日も、町を一度回って宿営に帰り、六日間、同じようにしました。いったい彼らはどんな気持ちだったでしょうか。最初のうちに希望と期待に喜び勇んで行進していたかもしれません。しかし、それが二日、三日とむだに見えるような行進が続く中で、次第に疲れていったのではないでしょうか。しかし、彼らが疲労困憊し、夢や希望が潰えてしまったような時に、神は勝利の合図を送られました。角笛の音を聞いて、大声で時の声をあげると、城壁はくずれ落ちました。これが神の時なのです。私たちも時として「主よ、いつまでですか」と叫ばずにはいられないような時がありますが、そのような時にこそ神は御声を発せられるのです。

モーセの死後、あのヨルダン渡河の奇跡と、このエリコの城壁が崩れたという奇跡によって、出エジプトの神はその大能の御手をもってヨシュアとその民と共におられるということが、ここで完全に立証されたのです。そして、民はまっすぐに町へ上って行き、その町を攻め取りました。

ところで、ヨシュアはこのエリコの町を占領するにあたり、この町のすべてのものを、主のために聖絶しなさい、と命じました。その町にあるもの、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて聖絶しなければなりませんでした。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものなので、主の宝物倉に持ち込まなければなりませんでした。

「聖絶」するとはどういうことでしょうか。「聖絶する」という言葉はヘブル語の「ハーラム」(חָרַם)で、旧約聖書に51回使われていますが、このヨシュア記には14回も使われています。それは神がすでに「与えた」と言われる約束の地カナンにおいて、そこを征服し、占領していくその戦いにおいて、「聖絶する」ことが強調されていたからです。

この「ハーラム」(חָרַם)は英語訳では、「totally destroyed」とか「completely destroyed」と訳されています。つまり、徹底的に破壊すること、完全に破壊することです。すべてのものを打ち殺すという意味です。すなわち、神のものを神のものとするために、そうでないものを完全に破壊するということなのです。このことばの意味だけを考えるなら、「なんと残酷な」と思うかもしれませんが、しかしイスラエルが神の民として神の聖さを失い、他のすべての国々のようにならないようにするためにはどうしても必要なことだったのです。つまり、「聖絶」とは、神の「聖」を民に守らせる戦いだったのです。

それは神の民であるクリスチャンにも求められていることです。パウロは、コリント人への第二の手紙6章17、18節で、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」と言っています。神の民として贖われたクリスチャンも、この世から出て行き、彼らと分離しなければなりません。勿論それはこの世と何の関係も持ってはならないということではありません。私たちはこの世に生きているので、この世と関わりを持たないで生きていくことはできません。ここでパウロが言っているのは、この世に生きていながらもこの世から分離して、神のものとして生きなければならないということです。そのためには、常に世俗性と戦う必要性があるのです。世俗性とは何でしょうか。それを定義することは難しいことですが、あえて定義するとすれば、それは「神への信頼を妨げる一切のもの」と言えます。私たちがこの世に生きる限りこうした世俗的なものが絶えず襲い掛かって来ては神への信頼を脅かしますが、神の民として生きるために、いつもこの世と分離しなければなりません。私たちにもこの「聖絶」(聖別)することが求められているのです。

Ⅲ.神のあわれみ(22-27)

最後に、22節から終わりまでをみたいと思います。

「ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。」

エリコの町とその町の中にあるすべてのものは、主のために聖絶されましたが、遊女ラハブと、その家に共にいた者たちは、助け出されました。それは以前ラハブが偵察したふたりの者をかくまったからです。あの時遊女ラハブに誓ったとおり、ふたりの斥候は彼女の家に行き、彼女と彼女に属するすべての者を連れ出し、イスラエルの宿営の外にとどめておきました。すぐに彼らを宿営の中に入れなかったのは、おそらく彼らが異邦人だったので、その前に信仰告白と割礼を受ける必要があったからでしょう。しかし、そんな異邦人であった彼らもやがて神の民の中に加えられました。そればかりか、ラハブは遊女でありながらも救い主の系図に名を連ねるという栄光に浴することができたのです(マタイ1:5)。

こうして、旧約においても、神は、この世における最も卑しい者に対しても救いと恵みを与えてくださる方であることを示してくださいました。それは限りない神の恵みとあわれみの表れです。たとえ私たちが、「こんなにひどい罪を犯したのだから、決して赦されることはないだろう」と思っても、神の恵みとあわれみは尽きることがありません。神はその罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

26節と27節には、このエリコの町の聖絶が徹底的なものであったことが記されてあります。いや徹底的であっただけでなく、それはヨシュアの世代を超えた未来にまで及ぶまでの徹底さでした。Ⅰ列王記16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とありますが、エリコの町を再建させようとするヒエルがエリコの町の礎を据えたとき、長子アビラムが死に、門を建てたとき末の子セクブが死んだことで、この言葉が文字通り成就しました。ここにはイスラエルをかくまったラハブと、イスラエルに敵対したエリコとの姿とが対比されています。

私たちも遊女ラハブのように救われるべき素性や行ないなどないような者でしたが、一本の赤いひもが彼女とその家族を救ったように、イエス・キリストの血に信頼することによって、神の怒りから救い出されました。そのように救い出された者として、神の民、神のものとして、神の深いご計画の中で、神に喜ばれる歩みをさせていただきたいと思います。

Ⅰペテロ2章1~3節 「乳飲み子のように」

きょうは、ペテロ第一の手紙2章1節3節までのみことばから、「乳飲み子のように」というタイトルでお話しします。

 

乳飲み子は不思議なもので、誰からも教えられていなくても必死になってお母さんのおっぱいを求めます。特にお腹が空いている時などは大泣きをしながら訴えます。そして、おっぱいを口にあててもらうと、一心不乱に飲み始めるのです。その吸う力には驚かされます。ひとたび口にくわえたら、どんなことがあっても離しません。娘がまだ乳飲み子だったころ、それがどのくらい強いかをみようとそのほっぺに人差し指を当てて引き離してみたことがありますが、それは相当の力でした。ちょっとやそっとでは口から離すことはありませんでした。ここには、そんな乳飲み子のように、霊の乳飲み子である私たちも、神のことばである聖書を一生懸命に慕い求めるようにと教えられています。

 

Ⅰ.捨てるべきもの(1)

 

まず1節をご覧ください。

「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、」

 

ここには、「ですから」という言葉で始まっています。それは、前の箇所とのつながりで語られているということです。前回のところでペテロはどんなことを語ってきたのでしょうか。22節には、「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」と勧めました。そして、そのようなたましいの救いはどのようにしてもたらされたのですか。23節にはこうありましたね。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わるこのない、神のことばによるのです。」この世の種はみな朽ち果ててしまいますが、私たちが新しく生まれたのは朽ちない種、生ける、いつまでも変わらない神のことばによるのです。「ですから・・」です。

 

この事実に基づいてペテロは、「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と言っているのです。ここには神の言葉によって新しく生まれた者はどうあるべきなのかの前に、そのような者が捨てるべきものは何かを述べています。それは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口です。この「捨てて」と訳された言葉は、「脱ぎ捨てて」という意味の言葉です。真理のことば、神のことばによって新しく生まれた者は、泥まみれの汚い衣服を脱ぐように、ふさわしくない古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

それはまず「すべての悪意」です。ペテロはここで、すべての悪意を捨てるようにと言っています。悪意とは何でしょうか。悪意とは、他人に害を加えようとする悪い心のことです。そのことが恨みやねたみ、敵意や不平不満など、あらゆる悪へと広がっていきます。イエス様はマルコの福音書7章20節で、「人から出るもの、これが、人を汚すのです。」と言われました。「内側から、すなわち、人の心から出てくるものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(マルコ7:21~23)内側にあるものが外側に表れます。その内側にある悪の根こそ悪意であり、そこからすべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口といったものが出てくるのです。

 

このような悪意があるとどうなるでしょうか。当然、互いに愛し合うことができなくなってしまいます。ですから、悪意というのは教会の交わりを損なわせる原因となのです。ですから、ペテロはここで互いに愛し合うためにはまず、すべての悪意を捨てなければならないと勧めているのです。

 

真理のことばによって新しく生まれたクリスチャンが捨てなければならない二番目のものは、「すべてのごまかし」です。ごまかしと訳された言葉は、釣り針にえさをつけるという言葉から来ています。釣り人はどうやって魚を釣るのでしょうか。釣り針にえさをつけて、「これはおいしいですよ。どうぞパクリと食べてください」とだまして釣ります。そのように他人をだますこと、それがごまかしです。最初の人アダムとエバが罪に陥ったのも、悪魔の巧妙なごまかしによりました。「神さまは、ほんとうに食べてはならないと言われたのですか。」と疑いを起こさせると、「あなたが食べても死にませんよ」と神のことばを否定し、「あなたが食べるその時、あなたの目が開け、あなたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言ってだましたのです。そのようにもっともらしく見せかけて人をだますこと、それがごまかしです。こうしたごまかしは自分の信用を失うばかりか、人との信頼関係をも壊します。ですから、このようなごまかしを捨てなければなりません。

 

次に、いろいろな偽善を捨てなさいとあります。「偽善」とは役者を演じることです。役者は自分でない自分を演じます。本当の自分を隠して他人を演じるのです。よくテレビのドラマなどを見ていると、よくできるなぁと感心させられます。最近見たドラマに「小さな巨人」という番組がありましたが、その役者さんはものすごい迫力でしたね。ちょっとやりすぎじゃないかと思うくらいの演技力でした。役者は自分の心とはかけ離れた顔で、真の感情とは全く異なった言葉でその人になりきるのです。テレビのドラマは一つの作品なのでいいのですが、そうした偽善が私たちの日常生活で行われると相手に対して壁を作ってしまい、親しい交わりができなくしてしまいます。ですからここでは「いろいろな」とあるのです。そのいろいろな偽善を捨てなければなりません。

 

クリスチャンが捨てなければならないもう一つのものは、ねたみです。ねたみとは、相手が成功したり祝福されているのを見てうらやんだり、苦い思いを持つことです。ねたみはクリスチャンになってもなかなか抜けない性質の一つです。キリストの弟子たちですら、だれが一番偉いかと最後まで議論していたほどです。しかし、こうした性質は互いに愛し合うことを妨げ、良い人間関係を築き上げていくことを破壊してしまいます。

 

最後にクリスチャンが捨てるべきものとしてペテロが挙げているのは、すべての悪口です。悪口とはだれかのことを引き下げて話すこと、その人を非難中傷することです。そういう人はたいてい人と話すとき、「あの人はすごいよね」という会話になったとき、「まあ、確かにそうだけど、でもね、本当はね、こうなんだよ、ああなんだよ」と、その人をどうにか引き下げようとする思いが働きます。それは、大抵の場合、心の中のねたみが原因となっています。こうした悪口やうわさ話はだれもがあとになって悔やみ、悪いということを認めているものの、同時にほとんどすべての人が楽しむものでもあるのです。しかし、まず陰口や悪口ほど問題を引き起こし、相手の心を痛めさせ、兄弟愛やクリスチャンの一致を破壊するものはありません。それゆえに、ペテロはここで悪口を捨て去るようにと勧めているのです。

 

そしてこれらの言葉に「すべて」とか「いろいろな」いう言葉が付けられていることに着目してください。つまり、どんな種類のものでもいけないということです。生ける、いつまでも変わることのない神のことばによって新しく生まれたクリスチャンはまず、こうした古いものを脱ぎ捨てなければなりません。

 

Ⅱ.みことばの乳を慕い求めなさい(2)

 

では、霊的に新しく生まれたクリスチャンが積極的に求めていかなければならないものは何でしょうか。2節をご覧ください。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

 

ここから教えられることは、私たちはまだ最終的な救いに達していないということです。確かに神の恵みにより、イエス・キリストを信じたことでたましいの救いをいただくことができましたが、それは救いが完成したということではなく、私たちの中に救いが始められ、その救いの中に置かれているということなのです。ですから、パウロはピリピ人への手紙の中で、「自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧めているのです。私たちは十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられたイエス様を信じたことで完全に救われました。しかし、一方では、その救いというのは私たちの一生をかけて完成されていくものでもあるのです。神が真理のみことばによって始めてくださった救いの業を、私たちが聖霊の恵みに信頼することによって達成していくという面があるのです。神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださいます。神は私たちに働いて救われたいという思いを与え、その救いの種を植え付けてくださいました。しかし、それはまだほんの始まりにすぎません。その救いの芽を大きく育てていかなければならないのです。いったいどうしたら成長していくことができるのでしょうか。

 

ペテロはここで、そのためには「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」と言っています。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

なぜなら、それは何の混じりけのない「純粋な」神のことばだからです。私たちが日ごろ食べている食物にはいろいろな添加物が混じり込んでいて、何が本物なのかわかりにくくなっています。そのため混ぜ物をした方がおいしく感じてしまうことがあります。今はそういう時代です。純粋なみことばに、いろいろな物を混ぜた方がおいしいと感じてしまうのです。いつの時代でも、福音宣教においては、こうした人の口に合うように何らかの混ぜ物をしようとする試みがなされてきました。しかし、神のことばは純粋で、ピュアなものです。この純粋なみことばの乳によってこそ、私たちの信仰は養われていくのです。

 

私たちの教会では聖書通読を重んじています。毎週の礼拝と個人の礼拝、デボーションを大切にしていきたいと願っています。それは、この神のみことばが私たちを救い、成長させてくれると信じているからです。毎日、少しずつでもこのみことばの乳を飲んでください。そうすれば、この純粋なみことばの乳によって私たちの考え方や、生活が変えられていくのです。このみことばの乳を慕い求め、毎日飲む習慣を身に着けていただきたいものです。ではどのようにこれを求めたらいいのでしょうか。

 

ここには、「生まれたばかりの乳飲み子のように」とあります。皆さんも、生まれたばかりの乳飲み子がお母さんのおっぱいを吸うのを見たことがありますか。それは必死というか、ものすごい勢いで飲みます。まだ目が見えない時から、お母さんのおっぱいを探し当て、すごい勢いで飲むのです。まだ他のことは何もできないのに、あの小さな体のどこに、そんな力があるのかと不思議に思うほどです。まるでそのことに生死がかかっているかのようです。周りで見ている者にとっては、そんなにあわてなくても大丈夫よ、と声をかけてあげたくなるほどです。しかもそれを2~3時間ごとに繰り返します。おっぱいを飲んでやっと寝たかと思うと、またすぐにおっぱいが欲しいと泣き叫びます。すると、またしても変わらぬ勢いでゴクゴクと飲み始めるのですから驚いてしまいます。それは元気な証拠ですから、親にとっては嬉しいことですが、そのあまりの頻繁さに、夜中に何度も起こされて「もう勘弁してよ!まだ飲むの?」と思ったことがある母親も多いのではないでしょうか。

 

このたとえによってペテロはどんなことを言いたかったのでしょうか。それはこの乳飲み子のように、生まれたばかりのクリスチャンもみことばの乳を慕い求めるようにということです。乳飲み子は母乳が与えるのをじっと待ってはいません。母親がそれを口に流し込んでくれたら飲みますよ、という態度ではなく、ミルクが欲しいという思いを体全体で表し、かつありったけの声を出して、必死に求めます。そしてそれが与えられると一生懸命に、ただそのことだけに集中して飲み続けるのです。私たちのみことばに対する態度はどうでしょうか。赤ちゃんがこのようにお乳を飲まなかったら、それはその体のどこかがおかしいということです。どのようにお乳を飲むかによって、健康なのか、あるいは不健康なのかがわかるのです。であれば、私たちのみことばに対する姿勢によって、私たちの霊的健康の度合いも知ることができます。私たちは、純粋な、みことばの乳によって、与えられたいのちが養われ、それを成長させ、救いのゴールに向かって力強く前進して行くことができるのです。

 

詩篇42篇1節には、「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」とあります。鹿が谷川の流れを慕い喘ぐという表現はどこかのどかで、美しい情景が思い浮かべますが、実際はそのようなイメージとはほど遠く、飲み水を求めて谷川の水を激しく慕い求める鹿の姿が描かれているのです。パレスチナには雨季と乾季があって、乾季にはまったくと言ってよいほど雨が降らないため、多くの川は干上がってしまいます。そのような中で鹿にとっての唯一の水源は、谷川を流れる水溜りのような水だったのです。その水を求めて鹿は、もはや川とは呼べないような谷川の水を、激しくむさぼり飲んだのです。

 

生まれたばかりの乳飲み子が乳を慕い求める姿と、鹿が谷川の流れを慕い求める姿に共通していることはどんことでしょうか。どちらも必死であるということです。そのようにクリスチャンも、純粋なみことばの乳を慕い求めなければなりません。それによって成長し、救いを得ることができるからです。

 

今から200年ほど前、イギリスの田舎の小さな家に、メリー・ジョーンズという10歳の女の子がいました。日曜の朝になると、メリーは両親と一緒に4キロほど離れた村の小さな教会へ出かけます。教会では聖書のお話を熱心に聴きました。学校で読み書きを習い、聖書が読めるまでになりましたが、教会に行かないと聖書を読むことができません。その頃、聖書はとても高価で貴重なものだったのです。「もっと聖書を読みたい」メリーは、自分の聖書が欲しいと思うようになりました。メリーの家はとても貧しく、靴も買えないような暮くらしぶりでしたが、メリーは聖書を買うために一生懸命、お金を貯ためました。

6年が過ぎ、ようやく聖書が買えるほどのお金を貯めることができました。でもどこで聖書が買えるのでしょう?聖書を探すメリーは、バラという町に聖書を数冊持っている人がいると教えられました。欲しかった聖書が手に入ると聞き、彼女は40キロも離れたバラの町まで歩いて行くことを決心をしました。果てしなく思えるような長い道のりを、メリーは裸足で進んで行きました。多くの小道を抜け、谷や小川を渡り、丘を越えて、ようやく町に到着しました。 そして、人々に道をたずねて、とうとう教会に着きました。

「聖書が欲しいんです。」玄関のドアが開くと、メリーはチャールズ牧師に頼みました。ところが、チャールズ牧師は困った顔をして言いました。「聖書は全部売れてしまったんだ。残っている3冊も友だちにやると約束したものなんだよ。」これを聞いたメリーは全身の力がぬけて泣き出しました。チャールズ牧師はそれを見みてしばらく考えこんでいましたが、やがて隣の部屋から聖書を手に戻ってきました。「メリー、きみの聖書だよ。」チャールズ牧師はなんと3冊ともメリーに手渡したのです。「きみの町に住む人たちにも分けてあげるといい。」チャールズ牧師は1冊分のお金しか受け取りませんでした。メリーは真新しい聖書を手にすると、飛び上がって喜び、心から感謝をしました。「チャールズさん、イエス様、ありがとう!」

メリーは喜んで家に帰っていきましたが、聖書を求めて裸足で旅してきたこの少女のことがチャールズ牧師の頭から離れませんでした。「もっと大勢の人々が聖書を手にできるようにしなければならない。」チャールズ牧師は、多くの有名人にメリーとの出来事を訴えました。それから4年、メリーの話に感動した人々の協力によって、世界最初の聖書協会がイギリスに設立されました。「誰もが買える価格で聖書が読めること」、「人々が普段使っている言語で聖書を読めるようにすること」、これが聖書協会の働きの出発点となりました。

 

聖書を手に入れることにこんな苦労をしていた時代と比べて、私たちはなんと恵まれていることでしょうか。かりそめにも、聖書を読むことが義務感からということの無いようにしたいものです。聖書は、神様が私たちに与えて下さったラブレターです。本当に愛し合っている男女がラブレターを放って置くはずがありません。どんなことが書かれているのか、期待と興奮をもって読むはずです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めましょう。

 

Ⅲ.主のいつくしみを味わっている(3)

 

第三のことは、なぜそのようにみことばを慕い求めるのか、その理由です。3節をご覧ください。ペテロはその理由をこのように言っています。「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」

 

どういうことでしょうか。ペテロはここで、「あなたがたは、主が恵み深い方であることを、すでに味わい知っているのだから、このようにすべきである。」と言っているのです。このようにというのは、みことばの乳を慕い求めることです。私たちがみことばを求めるのはどうしてなのかというと、みことばによって、主の恵み深い方であることを、すでに味わい知っているからなのです。

 

私たちはみことばによって何を味わったのでしょうか。私たちが味わったのはまず救いの恵みです。パウロが言っているように、私たちの救いは、自分の力ではどうすることもできませんでした。変わりたいけれど変われない、止めたいけど止められない、したいけどできない、ほんとうにみじめな人間でした。しかし、自分にはできないことを神はしてくださいました。神はキリストを遣わし、私たちの罪のために十字架で死んでくださることによって、この罪を処罰してくださいました。ですから、私たちはこのキリスト・イエスにあるいのちと御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されたのです。私たちはこの救いの恵みを味わいました。罪が赦されるというほど大きな喜びはありません。私たちは、この罪の赦し、永遠のいのち、救いの喜びを味わったのです。

 

しかし、私たちが味わったのは救いの喜びだけではありません。私たちが日々この地上で生きていく上でも、多くの恵みを受けています。神の恵みは尽きることがありません。それは朝毎に新しいのです。

哀歌3章22~23節には、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝毎に新しい。あなたの真実は力強い。」とあります。

イスラエルが荒野を旅した時も、神は天からのパンをもって日々彼らを養ってくださいました。何日も前のパンではなく、その日、その日に必要なだけのフレッシュなパンです。それは朝毎に新しい恵みなのです。同じように、神は天からのマナをもって、私たちの糧を与えてくださいました。私たちには霊的な必要や物質的な必要ばかりでなく、肉体的や精神的なものも含めいろいろな必要がありますが、神はそうしたすべての必要も満たしてくださいました。祈りがかなえられるということもそうです。これまで何度も自分の力ではどうすることもできないということがありましが、不思議に神が助けてくださり、その道を開いてくださいました。治るはずじゃない病気が治ったり、受かるはずじゃなかった大学に受かったり、通るはずじゃなかった試験に通ったりといったことがたくさんありました。それはたまたまそうなったのではなく、そこに神が働いてそのようにしてくださったのです。すべては神の恵みなんです。私たちはそうした神の恵みを味わったのです。危険から守られるのもそうです。皆さんもこれまで何度かヒヤッとした経験をされたことがあるのではないでしょうか。あと1秒遅かったら、もしあの電車に乗っていたら、ということがありました。しかし、神はそうした危険からも守ってくださいました。いろいろな祝福もありました。入学や就職、結婚や出産、家族が守られたこと、住まい、健康など、私たちは当たり前だと思っていますが、実はそうではなく、これらすべて神の恵み、神の祝福なのです。私たちが受けるに値するから受けたのではなく、神の恵みによって与えられたのです。私たちはすでに、その主の恵みを味わっているのです。主がそれほどいつくしみ深い方であることを味わっているのですから、私たちは悪いものを捨て、私たちにとって良いもの、私たちのたましいを救い、成長させてくれるもの、神のみことばを慕い求めなければならないのです。

 

詩篇34篇8節には、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」とあります。主のすばらしさを味わい、これを見つめる人はなぜ幸いなのでしょうか。なぜなら、その人は主に身を避けるようになるからです。

 

あなたはこの恵みを味わっているのです。そして、その恵みは尽きることがありません。ですから、さらにこの恵みを味わいましょう。それは純粋な、みことばの乳によってもたらされます。生まれたばかりの乳飲み子のように、このみことばの乳を慕い求めようではありませんか。それによってあなたは成長し、救いを得ることができるのです。