エレミヤ17章1~10節「神に信頼する人の幸い」

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エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。

Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)

 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」

ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。

ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。

創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。

2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。

その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」

「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムのいたるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡すことになります。

そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。

私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
  でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
  主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
  主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。

Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)

次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」

ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
  当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。

でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
  「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。

一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
  すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

  イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
  イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
  でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。

人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。

Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)

どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」

人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。

ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。

  イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
  鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。

大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。

では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
  人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
  へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
  神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
  これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。

 黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
  ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。

最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」

同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

Ⅱ列王記8章

 

 今回は、Ⅱ列王記8章から学びます。

 Ⅰ.あのシュネムの女(1-6)

まず、1~6をご覧ください。「1 エリシャは、かつて子どもを生き返らせてやったあの女に言った。「あなたは家族の者たちと一緒にここを去り、とどまりたいところに、しばらく寄留していなさい。主が飢饉を起こされたので、この国は七年間、飢えに見舞われるから。」2 この女は神の人のことばにしたがって出発し、家族を連れてペリシテ人の地に行き、七年間滞在した。3 七年たった後、彼女はペリシテ人の地から戻って来て、自分の家と畑を得ようと王に訴え出た。4 そのころ、王は神の人に仕える若者ゲハジに、「エリシャが行った大いなるわざを、残らず私に聞かせてくれ」と話していた。5 彼が王に、死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこに、子どもを生き返らせてもらった女が、自分の家と畑のことについて王に訴えに来た。ゲハジは言った。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」6 王が彼女に尋ねると、彼女は王にそのことを話した。すると王は彼女のために、一人の宦官に「彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりなさい」と命じたのであった。」

「かつて子どもを生き返らせてやったあの女」とは、シュネムの女のことです。彼女のことについては、Ⅱ列王4章8~37節にあります。エリシャのために、自分たちの家の屋上に休んだり、勉強することができるような部屋を作った人です。彼女には子どもがいませんでしたが、エリシャの祈りによって男の子が与えられました。しかし、その子が父親のところに行ったとき、「頭が、頭が」と言ったかと思うと死んでしまいました。エリシャは主に祈り、その子を生き返らせました。そのシュネムの女に、家族の者たちと一緒にそこを去り、留まりたいところに、しばらく寄留していなさい、と言ったのです。主が飢饉を起こされたので、北イスラエル王国は七年間、飢えに見舞われることになるからです。今、アラムの包囲から解かれて、飢饉から脱したかと思いきや、それとは別の七年間の厳しい飢饉がやって来るというのです。しかも、ここに主が飢饉を起こされたとあるので、それはイスラエルに対する神のさばきによるものであったことがわかります。

そこでこの女はエリシャのことばに従って、家族を連れてペリシテ人の地に行き、そこに七年間滞在しました。なぜペリシテ人の地に行ったのでしょうか。そこは地中海沿岸の地で平地でしたから、比較的肥沃だったのでしょう。彼女はそこに七年間滞在し、七年後にそこからサマリアに戻ってきましたが、自分たちがいない間に家と畑を他の人に取られていました。そこで彼女は自分の家と畑を取り戻そうと王に訴え出ました。

ちょうどその頃、イスラエルの王ヨラムはエリシャの奇跡に興味を持ち、エリシャに仕えていたゲハジから話を聞いていました。基本的に彼はエリシャを嫌っていましたが、エリシャが行った数々の奇蹟には興味があったようです。そこでエリシャに仕えるゲハジが、ヨラム王に死人を生き返らせたあの出来事を話していると、ちょうどそこにそのシュネムの女がやって来たのです。自分の家と畑について王に訴えるためにです。そこでゲハジは驚いて王に言いました。「王様、これがその女です。そしてこれが、エリシャが生き返らせた子どもです。」そこで王が彼女に尋ねると、彼女はその出来事について話しました。すると王は彼女のために一人の宦官に命じて、彼女のすべての物と、彼女がこの地を離れた日から今日までの畑の収穫のすべてを、返してやりました。

本当に不思議ですね。神様のなさることは。ちょうど良い時に、ちょうど良いことを行なってくださいます。これが私たちの信じている神の御業です。神は、神を愛する者には、すべてのことを働かせて益としてくださる方なのです(ローマ8:28)。

Ⅱ. ベン・ハダドに代わる新しい王ハザエル(7-15)

次に、7~15節をご覧ください。「7 さて、エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気であった。すると彼に「神の人がここまで来ている」という知らせがあった。8 王はハザエルに言った。「贈り物を持って行って、神の人を迎え、私のこの病気が治るかどうか、あの人を通して主のみこころを求めてくれ。」9 そこで、ハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せて、贈り物として携え、神の人を迎えに行った。彼は神の人の前に来て立ち、こう言った。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドが、『この病気は治るであろうか』と言って、あなたのところへ私を遣わしました。」10 エリシャは彼に言った。「行って、『あなたは必ず治る』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」11 神の人は、彼が恥じるほどじっと彼を見つめ、そして泣き出したので、12 ハザエルは尋ねた。「ご主人様はなぜ泣くのですか。」エリシャは答えた。「私は、あなたがイスラエル人に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたはイスラエル人の要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くだろう。」13 ハザエルは言った。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんな大それたことができるでしょう。」しかし、エリシャは言った。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」14 彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰った。王が彼に、「エリシャはあなたに何と言ったか」と尋ねると、彼は「あなたは必ず治ると言いました」と答えた。15 しかし、翌日、ハザエルは厚い布を取って水に浸し、王の顔にかぶせたので、王は死んだ。こうして、ハザエルは彼に代わって王となった。」

エリシャがダマスコに行ったとき、アラムの王ベン・ハダドは病気でした。ダマスコはアラム(シリヤ)の首都です。いったいなぜエリシャはダマスコへ行ったのかはわかりません。エリシャは北イスラエル王国を中心に活動していたので、敵国であるアラムの首都ダマスコまで行くのは稀なことです。おそらく、アラムの王ベン・ハダドからの促しがあったのではないかと思われます。というのは、当時彼は病気になっていたからです。数々のエリシャが行った奇跡を聞き、彼に治してもらうことを期待していたのではないかと思います。そのベン・ハダドに、「神の人」がここまで来ているという知らせがありました。

そこでアラムの王ベン・ハダドは、ハザエルに贈り物を持って行き、神の人を迎え、自分の病気が治るかどうか、主のみこころを求めるようにと言いました。ここには「神の人」という言葉が強調されています。異教の王がイスラエルの神、主の預言者を「神の人」と呼ぶことは珍しいことです。彼はそれほどエリシャを尊敬していたということです。

そこでハザエルはダマスコのあらゆる良い物をらくだ四十頭に載せて、贈り物として携え、エリシャを迎えに行きました。らくだ四十頭ですよ。それは相当の贈り物でした。ベン・ハダドはそこまでしてエリシャを迎えたかったのです。そこまでして病気が治りたかったのです。

ハザエルはエリシャの前に立つと、こう言いました。「あなたの子、アラムの王ベン・ハダドが、『この病気は治るであろうか』と言って、あなたのところへ私を遣わしました。」

ここでハザエルはアラムの王ベン・ハダドのことを、「あなたの子」と言っています。これは、ベン・ハダドの意志を表明しています。彼はエリシャが語る神のことばを主のみこころと認め、その判断に従うという意思を示したのです。

すると、エリシャは彼にこう言いました。10節です。「行って、『あなたは必ず治る』と彼に告げなさい。しかし、主は私に、彼が必ず死ぬことも示された。」

エリシャは彼に二つのことを告げました。一つは、ベン・ハダドの病気は必ず治るということ、そしてもう一つのことは、しかし、彼は必ず死ぬということです。これは病気によって死ぬということではなく、別の形で死ぬということです。

するとエリシャはハザエルが恥じるほどじっと彼を見つめ、急に泣き出しました。どうして泣きだしたのか驚いたハザエルはエリシャに尋ねました。「ご主人様はなぜ泣くのですか。」するとエリシャはその理由を彼に告げました。それは、このハザエルがイスラエル人に害を加えようとしていることを知っていたからです。彼はイスラエルの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八つ裂きにし、妊婦たちを切り裂くようになります。

それを聞いたハザエルは驚きました。なぜなら、犬にすぎない自分が、そんな大それたことなどできるはずがないと思っていたからです。表面上は。しかし、エリシャは彼にこう告げます。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」彼はベン・ハダドに代わってアラムの王になるというのです。

彼はエリシャのもとを去り、自分の主君のところに帰り、主君ベン・ハダドにそのことを報告しましたが、翌日、彼は厚い布を取って水に浸し、王の顔にかぶせたので王は死に、彼が代わって王になりました。彼の治世はB.C.841~801年までの40年間です。その間、彼はイスラエルを大いに苦しめることになります。エリシャが涙したのは(11)、このことを示されてのことだったのです。

ハザエルは、犬にすぎない自分に、そんな大それたことができるはずがないと言いましたが、その翌日にはエリシャが預言した通り、自分の主君ベン・ハダドをいとも簡単に殺してしまいました。彼はただ自分の内に潜む邪悪さに気付いていなかっただけだったのです。しかし、機会が到来すると、その邪悪な思いが一気に化け物のような姿を取ることがあります。それは私たちにも言えることです。私たちも罪赦された罪人にすぎず、私たちの内にはそうした罪の性質が残っているのです。パウロはそんな自分の肉の性質を嘆いて、「私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ:24)と言ったのです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(同7:19)と。そこで彼はイエス様に目を向けます。イエス・キリストにある者は罪に定められることは決してありませんと。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの道間の原理が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪深い肉と同じような形で、肉において罪を処罰されました。そのいのちの御霊によって、罪と死の原理から解放していただくことができる。これは私たちも同じです。私たちの肉の力によってではなく、いのちと御霊の原理によってそうした罪と死の原理から解放され、主のご性質に似た者となるように祈り求めていきたいと思います。

Ⅲ.ユダの王ヨラム(16-29)

最後に、16~29節をご覧ください。まず24節までをお読みします。「16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年、ヨシャファテがまだユダの王であったとき、ユダの王ヨシャファテの子ヨラムが王として治めるようになった。17 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。18 彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻だったからである。彼は主の目に悪であることを行った。19 しかし、主そのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからである。20 ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21 ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22 エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。23 ヨラムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。24 ヨラムは先祖とともに眠りにつき、先祖とともにダビデの町に葬られた。彼の子アハズヤが代わって王となった。」

ここから、話は再び南ユダ王国に関する記述に戻ります。列王記には、北王国と南王国の歴史が交互に記録されているので、どちらの記録なのかをよく見分けなければなりません。これは南王国の記録です。

北イスラエルの王ヨラムの第五年に、南王国で王となったのはヨシャパテの子のヨラムです。どちらの王も「ヨラム」なので紛らわしいですが、それぞれ別の人物です。彼は32歳で王となり、8年間ユダを治めました。

彼について特筆すべきことは、彼はアハブの家の者がしたように、イスラエルの王たちの道に歩んだということです。アハブの娘が彼の妻だったのです。南ユダ王国にバアル礼拝を導入したこの北イスラエルのアハブ王の娘です。アハブ王に関してはⅠ列王記16~22章に記されてありますが、彼の妻はイゼベルといって、シドン人の王エテバアルの娘でした(Ⅰ列王16:31)。彼女によってイスラエルにバアル礼拝が持ち込まれました。バアルだけではありません。アシェラ像も造りました。ですから、アハブは、彼以前の、どのイスラエルの王たちにまして、主の怒りを引き起こしたのです。その娘がヨシャファテの子ヨラムと結婚したのです。南ユダがどうなるかは目に見えています。ここには「彼は主の目に悪であることを行った。」とあるように、彼は悪を行いました。悪王でした。彼の父ヨシャパテは善い王でしたが、彼は悪い王だったのです。妻の影響を受けてバアル礼拝者となったからです。18節に「彼はアハブの家の者がしたように」というのは、そういう意味です。

しかし、主はそのしもべダビデに免じて、ユダを滅ぼすことを望まれませんでした。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると彼に約束されたからで(19)どういうことでしょうか。

これはⅡサムエル記7章にあるダビデ契約のことです。Ⅱサムエル7章11b~16節にはこうあります。

「主はあなたに告げる。主があなたのために一つの家を造る、と。12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

これは、主がダビデに約束されたことです。主はダビデのために一つの家を造る、と言われました。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。それは、ダビデの身から出る世継ぎの子が、ダビデの死後に、彼の王国を確立させるということです。ダビデの世継ぎ子とはソロモンのことです。しかし、それはソロモンのことでなく、ダビデの子孫として生まれ、永遠の神の国を打ち立てられるメシヤ、キリストのことを預言していました。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。ですから、15~16節には、「しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」と言われているのです。サウルからは恵みが取り去られましたが、ソロモンからは取り去られることはありませんでした。確かにソロモンも罪を犯しました。サウルとソロモンの罪を比べたら、偶像礼拝に走ったソロモンの方がはるかに大きなものでした。しかしソロモンの王座が奪われることはありませんでした。なぜなら、これが永遠の契約に基づいていたからです。

これが神の救いです。神の救いは、私たちの不信仰によって取り去られるものではありません。神はこの救いの恵みを、イエス・キリストを通して私たちに約束してくださいました。ヨハネ10章29節には、「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。」とあります。どんなことがあっても、キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。私たちはイエス・キリストによって決して滅ぼされることのない救いを受けたのです。これが新しい契約です。一度救われたら、その救いを失うことは絶対にありません。もし罪を犯したなら、神に告白することによって赦していただくことができる。つまり、南ユダが滅びることはないということです。彼らが滅びないのは、ただ神の恵みによるのです。

列王記の著者は、このヨラムの時代を特徴づける出来事として二つのことを記しています。一つは、エドムの反乱と、もう一つはリブナの反乱です。20~22節にあります。「20 ヨラムの時代に、エドムが背いてユダの支配から脱し、自分たちの上に王を立てた。21 ヨラムは、すべての戦車を率いてツァイルへ渡って行き、夜襲を試みて、彼を包囲していたエドムと戦車隊長たちを討った。ところが、ヨラムの兵たちは自分たちの天幕に逃げ帰った。22 エドムは背いてユダの支配から脱した。今日もそうである。リブナもそのときに背こうとした。」

エドムはヨラムの父ヨシャパテの時代にユダに征服され、傀儡王によって統治されていましたが、ヨシャパテが死ぬと、彼らはユダに背き、エドム人を王として立てました。それでヨラムはエドムの反乱軍を制圧するためにツァイルに進軍しましたが、そこでエドム軍に包囲され、いのちからがらエルサレムに逃げ帰りました。リブナはエルサレムの南西、ペリシテの地の国境に位置する町です。リブナもエドムの反乱に刺激されたのか、そのときに背こうとしました。

最後に、25~29節をご覧ください。「25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年に、ユダの王ヨラムの子アハズヤが王となった。26 アハズヤは二十二歳で王となり、エルサレムで一年間、王であった。彼の母の名はアタルヤといい、イスラエルの王オムリの孫娘であった。27 彼はアハブの家の道に歩み、アハブの家に倣って主の目の前に悪であることを行った。彼自身、アハブ家の婿だったからである。28 彼はアハブの子ヨラムとともに、アラムの王ハザエルと戦うため、ラモテ・ギルアデに行った。アラム人はヨラムを討った。29 ヨラム王は、アラムの王ハザエルと戦ったときにラマでアラム人に負わされた傷を癒やすため、イズレエルに帰った。ユダの王ヨラムの子アハズヤは、アハブの子ヨラムが弱っていたので、彼を見舞いにイズレエルに下って行った。」

北イスラエルのヨラム王の第12年に、アハズヤがユダの王になりました。「アハズヤ」という王も北イスラエルと南ユダにいたので紛らわしいですが、これもまた別人です。これは南ユダの王ヨラムの子のアハズヤです。北イスラエルでは、アハブ→アハズヤ→ヨラムと続きますが、南ユダでは、ヨシャパテ→ヨラム→アハズヤと続きます。

この南ユダの王アハズヤは22歳で王となり、エルサレムで1年間治めました。その治世はたったの1年間でした。彼の特質すべきことは、彼の母親の名がアタルヤといって北イスラエルの王オムリの孫娘であったということです。つまり、アハブとイゼベルの娘です。そのアタルヤが南ユダにバアル礼拝を持ち込みました。今、礼拝でエレミヤ書からお話していますが、南ユダが偶像礼拝に陥った最大の原因は、このアタルヤだったのです。彼はそうした母アタルヤの影響を受けてバアル礼拝を採用し、アハブの家にならって、主の目の前に悪を行ったのです。

アハズヤは、イスラエルの王ヨラムとともにアラムの王ハザエルと戦うために、ラモテ・ギルアデに出て行きましたが、アラム人はヨラムを打ちました。ユダの王アハズヤは、アハブの子ヨラムが弱っていたので、彼を見舞いにイズレエルに下って行きましたが、これは愚かな選択でした。というのは、Ⅰ列王記22章でもこれと同じ出来事があったからです。彼の祖父ヨシャパテはアハブの同盟軍としてラモテ・ギルアデに出向いてアラムと戦いましたが、そこでアハブは戦死し、ヨシャパテも殺されそうになりました。今、その時と全く同じことが行われているのです。アハズヤは、彼の祖父ヨシャパテがかつてどうだったのかを思い起こし、その教訓から学ぶべきだったのに学びませんでした。全く同じ失敗を繰り返しました。

それは私たちにも言えることです。歴史は繰り返します。それは聖書を見てもわかります。人間の本質は変わらないからです。それゆえ、その失敗から学ばなかったら同じ結果になってしまいます。聖書の歴史を学び、同じ轍を踏まないように、そこからしっかりと教訓を学びたいと思います。

エレミヤ16章1~21節「主は生きておられる」

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きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
  「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。

Ⅰ.私たちの罪とは何か(1-13)

 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」

前章15章の終わりのところで主はエレミヤに、もしあなたが帰ってくるなら、私はあなたを堅固な青銅の城壁とすると約束してくださいました。どんなに敵があなたと戦っても、彼らはあなたに勝つことはできない。わたしがあなたとともにいて、あなたを助け出すからだ。そのように約束してくださいました。

その後で主はエレミヤに、不思議なことを命じられました。それは妻をめとるなということです。これは13章で学んだあのボロボロの帯のように、エレミヤの行動をもって語るためです。これを行動預言と言います。主はエレミヤに行動を通して語るように命じられたのです。その一つのことが、妻をめとるな、結婚するなということでした。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、空の星のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主は「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われたのです。どうしてでしょうか。

その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
  子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。これは、具体的にはバビロン捕囚のことを指していますが、バビロン軍がやって来る時、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになるからです。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。

5節にはもう一つのことが命じられています。それは、弔いの家に入ってはならないということでした。つまり、葬式に参列してはならないということです。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」

葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。ここに「わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだと」とあるように、これは神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。だから、彼らのために嘆いてはならないと言われているのです。

そしてもう一つのことが命じられています。それは9節にあるように、結婚式などの祝宴に出るなということです。ここには「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」とあります。それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。

いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。

日本のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分を捨てて相手にしてくれない人もいれば、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味ですが、これは、八百万の神を信じている日本だからこそ存在することわざであると言えるでしょう。八百万ものいろいろな神がいるのだから、あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。人生いろいろ、神様もいろいろというわけです。でも実際は違います。実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の側で八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなければ、じゃこっちの神と簡単に捨ててしまうのです。
  エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様の都合によってあしらわれるわけですから。
  でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
  これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚であり、バビロン捕囚だったのです。
  主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。南王国ユダの人たちは、これを身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。

では、主を捨てるとはどういうことなのでしょうか。それは具体的には神の律法を守られないことです。主のみことばに従わないことです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代の当時の南ユダの民だけの問題ではなく、私たちにも問われていることでもあるということがわかります。というのは、私たちは神のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、私たちも日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。

12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
   ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章に記録してありますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりももっとひどかったのです。もう手の付けようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主のことばに聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになったのです。主のみことばに聞き従いたくなかったのも、彼らの心(思い)が頑なだったからです。ですからパウロはローマのクリスチャンたちに、この思いを一新しなさいと勧めたのです。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
  ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。

あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。

Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」

エレミヤはこれまで、南ユダの真っ暗な将来を預言してきましたが、ここで明るい希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、その未来の希望を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
 「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
  どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜなら、それは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事です。それは出エジプト記に記録されていますが、400年間もエジプトの奴隷して捉えられていたイスラエルがそこから救い出されたんです。400年ですよ。それは完全にエジプトの支配の中にあったということです。そこから解放されるのは不可能だということです。しかし、主はその中から彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトです。すばらしい主の救いの御業が成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
  しかし、これから主が成そうとしていることは、その出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業ただというのです。もはや人々は、「イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。もっとすごいことが起こるからです。

15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
  「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそこから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
  ですから、これはバビロンから帰還するという希望の約束が語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえも色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトとも呼ばれているのです。

でも新約時代に生きる私たちにとっては、それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放の御業を知っているからです。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって、罪の中に捕えられた私たちをその罪から救い出してくださいました。これこそ第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、このバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎません。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。

  しかし、エレミヤの時代には、出エジプトの出来事はイスラエルの歴史において偉大な出来事でした。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れるほどの出来事であり、民が「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。

このような御業を成されるアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられます。そして、あなたを今の生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。

皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることができます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。それは、あの出エジプトよりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのはこの希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。希望は確かにあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いのです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。

しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」

神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。そのさまが、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復があります。神のあわれみは尽きることはないのです。

Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)

最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」

これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民のバビロンからの解放の御業が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人のことを指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦人が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
  「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。

日本人であれば、多くの家庭で父祖から受け継いだものとして仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家は檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになったのです。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係ありません。ただその目的だけのために置かれたのです。実際、仏様はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。ですから、仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことだというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにはご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。

諸国の民は地の果てから来てそういうようになります。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの。何の役にも立たない空しいものばかり。そのようなものは神ではないと。そして、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき神の御業を知り、その真の神、主を求めるようになるのです。

  イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロンに捕えられました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。そしてそれを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神、主は生きておられる、と告白するようになるのです。これが生きた証です。

主はあなたを通してこのような証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、そう思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださるのです。あなたは神に捉えられているのです。そしてその苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。

有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあるように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださるのです。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イエス・キリストはまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。

主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

Ⅱ列王記7章

 

 今回は、Ⅱ列王記7章から学びます。

 Ⅰ.ツァラアトに冒された四人の人の決断(1-9)

まず、1~9をご覧ください。まず1~2節をお読みします。「1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

1節のエリシャのことばは、6章33節でイスラエルの王ヨラムの使者のことば対して語ったことばです。ヨラムの使者はエリシャに、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか」と言いました。それは、サマリアが飢饉でハイパーインフレに陥っていたからです。6章25節には、飢饉のため、ろばの頭一つが銀80シェケル、約7万千円で、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シェケル、約4千5百円で売られていたとあります。また、6章29節には、子どもを煮て食べたという話がありますが、それほどの飢えで苦しんでいたのです。これは主からのわざわいであって、これ以上、何を期待することができるというのか。そんな偽りを言う者のことばなど信じられるかとエリシャに詰め寄ったのです。それに対してエリシャが言ったことはこうでした。

「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」  

明日の今ごろとは、数時間後にはということです。数時間後には上質の小麦粉1セア(約7.6㍑)が1シェケル(11.4g)で、大麦も2セア(約15㍑)が1シェケルで売られるようになるというのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1gが80円だとすると、 912円となります。今朝の聖書日課の箇所は創世記37章でしたが、ヨセフは銀20枚、つまり、20シェケルイシュマエル人に売られました。ですから、現代の価値に換算すると、1シェケルは1,000~2,000円くらいでしょうか。エリシャは、小麦7.6㍑が1000円くらいで売られるようになると言ったのです。大飢饉でかなりのインフレの中にあったサマリアにおいては考えられないほど安い価格です。

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、エリシャにこう言いました。「たとい、主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」「王が頼みにしていた者」とは、親衛隊の隊長のことです。彼はエリシャに、絶対にそんなことはあり得ないと言ったのです。神にはそのような奇跡を行う力はないし、もしあったとしても、そうはされないだろう、というのです。そこで、エリシャは言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このことばを覚えておいてください。これが後に実現することになります。信仰がない人は、現実的にしか物事を見ることができません。神様なんているわけがないし、いたとしても、そんなことができるはずがないと考えるのです。それゆえ、目に見ていないものを自分のものにすることができません。

しかし、それが現実のものとなります。どのようにそれが実現したかについて、3節以降で展開されていきます。3~9節をご覧ください。「3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここにツァラアトに冒された4人の人が登場します。3節の町の門とは、サマリアの町の門のことです。彼らはサマリアの門の入り口にいました。というのは、ツァラアトに冒された人はイスラエルでは共同体から隔離されて生活していたからです。ですから彼らは町の門の入口にいて、そこで捨てられるゴミから自分の食料となるものを探して生きていたのです。 

彼らは互いに話し合っていました。ここに座っているだけならただ死ぬだけだし、かといって町に入ったところで、町は食糧難だから、そこで死んでしまうことになるだろう。だったら、いっそのことアラムの陣営に入り込んでみたらどうか。もし彼らが自分たちを生かしておいてくれるなら生き延びることができるし、もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。

こうして彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端までやって来ました。すると、そこはどうなっていましたか。そこにはだれもいませんでした。まさにもぬけの殻だったのです。何があったのでしょうか。6~7節をご覧ください。これは主がなさったことです。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイトの王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲ってくる」と言って、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま起き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのです。

それでツァラアトに冒されたこの人たちは、歓喜しながら、思う存分飲み食いしました。そしてそこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して秘密の場所に隠しました。あとで来て取り出せるようにするためです。

しかし、彼らはだんだん不安になってきました。こんなに良い知らせなのに、これを秘密にしていたら、いつか誰かが発見した時にばれて、なぜ秘密にしていたのかと、自分たちの責任を問われることになるだろう。だったらこの発見を伝えた方がいい。だから今すぐ、この良い知らせを王の家にも知らせようと思ったのです。

福音伝道もこれと同じですね。パウロは、Ⅰコリント9章16節で、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言っています。伝道とは、食べ物のありかを見つけた乞食が、他の乞食に、そのありかを教えてあげるようなものです。良き知らせを伝える者の足は、何と美しいでしょうか(ローマ10:15)。

Ⅱ. 疑ったイスラエルの王ヨラム(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。」

ツァラアトに冒された4人の人たちは、急いで町に入って門衛を呼び、事の次第を告げました。それを聞いた門衛たちは驚き、早速その知らせを王の家にいた人たちに伝えました。それを聞いたヨラム王はどのように反応したでしょうか。12節にあるようよ、彼はそれを聞くと疑い、それはアラム人たちが自分たちをおびき寄せるための罠だと言いました。彼らは自分たちが飢えていることを知っているので、陣営から出て来て野に隠れ、自分たちが喜んでで町を出たとたん、攻撃をしかけてくる考えだと言ったのです。これがヨラムの判断でした。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。

すると、それを聞いた家来の一人があることを提案します。それは、サマリアに残っている馬の中から5頭を取らせ、遣わして調べさせてみたらどうかということでした。どうせこの町に残っている民衆も、すでに滅んだイスラエルの民衆と同じ目に遭うのだからです。すでに滅んだイスラエルの民衆とは、飢えで死んでいった人たちのことです。創造主訳聖書はこれをわかりやすく訳しています。「それではこういたしましょう。この町に残っている馬の中から五頭を使って、偵察にやらせましょう。そうすれば、事情は判明いたします。ここにいても、どうせ同じ運命をたどるのでございますから。」わかりやすいですね。こういう意味です。

ヨラム王はこの提案を受け入れ、「行って確かめて来い」と命じて、偵察隊を派遣しました。彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行きました。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てて行った衣服や武具でいっぱいでした。サマリアからヨルダン川までの距離は、約40キロあります。その間、アラム人が残していった衣服や武具が散乱していたのです。

ヨラムが敵の策略だと疑ったのは、人間的には合理的なことです。しかし、信仰の視点からは、誤った判断だったと言えます。エリシャはヨラムに主の解放を預言していたのに、それを無視していたからです。サマリアの解放は、主の御手によってたなされたものであって、人間の知恵や力によるものではありませんでした。

イスラエルはエジプトを出た後、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたとき、追って来たエジプト軍を前に大いに恐れて、主に向かって叫びました。その時、モーセが民に言ったことばがこれでした。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

主が戦ってくださいます。ですから、私たちはそう信じて、主のなさる御業を、ただ黙っていなければなりません。

Ⅲ.主のことばのとおり(16-20)

最後に、16~20節をご覧ください。【16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」

この知らせが事実であることを知ったヨラム王は、サマリアの町の門を開きました。すると民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。

ヨラムは、あの頼みにしていた侍従を門のところで整理に当たらせましたが、熱狂した人々がそこへ殺到したので、侍従は転倒し、踏みつけられ死にました。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、エリシャが明日の今ごろ、サマリアの町は解放され、その門のところで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになるという預言を、彼が信じなかったからです。彼は、たとい、主が天に窓を作るにしても、そんなことがあるだろうか」と言って、エリシャの権威をあざけりました。つまり、これは不信仰の代価であったということです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。

主が語られたことは必ず実現します。これはその預言が実現したということです。エリシャは彼に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(19)その預言が成就したのです。私たちは信じない者にならないで、信じる者になりましょう。主が語られたことは必ず実現するからです。

Ⅱ列王記6章

 

 今回は、Ⅱ列王記6章から学びます。

 Ⅰ.浮かんだ斧の頭(1-7)

まず、1~7をご覧ください。「1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作りましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」

エリシャの奇跡の物語が続きます。1節には、預言者の仲間たちがエリシャに、一緒に住んでいる場所が狭くなったので、ヨルダン川から各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに住む場所を作りましょう、と提案しました。おそらくここはエリコだったと思われます。というのは、エリコには預言者の学校があったからです。エリコからヨルダン川まではすぐ近くです。約10㎞くらいです。ですから、預言者の仲間は、その宿舎が手狭(てぜま)になったので、ヨルダン川から木を切り出して宿舎を建てようと提案したわけです。

エリシャが「行きなさい」と言うとその中の一人が、自分たちと一緒に来てくださいと言ったので、エリシャは彼らと一緒に行くことにしました。彼らはヨルダン川に着いて木を切り倒し始めると、一人が使っていた斧の頭が水の中に落ちてしまいました。オ、ノー!です。小さな出来事ですが、当事者にとっては大変なことでした。なぜなら、それは借り物だったからです。

それでエリシャは「どこに落ちたのか」と言うと、彼がその場所を示したので、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込みその斧の頭を浮かばせたのです。エリシャが「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして取り上げました。

斧の頭を取り戻したその人は、どれほど安堵したことでしょうか。この人が預言者の仲間たちであったことに注目してください。すなわち、預言者学校の生徒たちです。バアル礼拝がはびこっていた当時のイスラエルにあって、彼らは真の神に仕えていました。それがどれほど容易なことではなかったことは想像できます。しかし、そうした中にあって彼らは、この奇跡によって主が生きておられることを体験的に学んだのです。私たちの神は、どんな小さなことにも目を留めてくださり、その必要に応えてくださるお方なのです。

Ⅱ.目をくらまされたアラムの軍勢(8-23)

次に、8~23節をご覧ください。14節までお読みします。「8 さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」10 イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11 このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」12 すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。14 そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

アラムの王とは、ベン・ハダド2世です。そのアラムの王がイスラエルと戦っていました。このイスラエルの王とはヨラム王です。5章では、アラムとイスラエルの関係は平和で、アラムの将軍ナアマンがツァラアトに冒された時、アラムの王ベン・ハダドがイスラエルの王ヨラムに宛てて手紙を書き送ったほどです。しかし、ここでは両国が対立し戦っています。アラムとイスラエルの間には、戦争の時と平和の時が交互に訪れていたのです。この時は戦争の時でした。

その時、アラムの王が家来たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言うと、神の人エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」と警告していました。それは一度や二度ではありません。何度も、です。いわゆる筒抜けの状態だったのです。それでアラムの王は激しく動揺して、自分たちのうちにだれかイスラエルの王と通じている者がいるのではないかと疑いました。

すると一人の家来が、イスラエルにいる預言者エリシャの存在を告げます。彼がアラムの王が寝室で語っていることばまでもイスラエルの王に告げていると。すごいですね、寝室というのは最もプライベートな領域です。そこで語られることはそこにいる人しか知らないことです。そのことまで知っているということは、何でも知っているということです。そうです、イスラエルの神、主は何でもご存知であられる方です。寝室で語っていることでさえ知っておられるお方なのです。

そこでアラムの王は、エリシャの居場所を突き止めて彼を捕らえようとしました。そして彼がドタンにいるという知らせを受けたとき、そこに馬と戦車と大軍を送り、夜のうちに来て、その町を包囲しました。

15~23節をご覧ください。「15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」

エリシャの召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車と軍勢がその町を包囲していました。それで慌ててエリシャにそのことを告げると、エリシャはこう言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」

すばらしいですね。これは真実です。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。それを信仰によってしっかりと見なければなりません。今、エリシャのところで仕えている若者は、アラムの大軍しか目に見えていません。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。

それで、エリシャは主がその若者の目を開いて、見えるようにしてくださいと祈ると、彼の目が開かれました。彼が見ると、なんと、火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。私たちの神は万軍の主です。エリシャを護衛するために、主の軍勢が町を取り巻いていたのです。

私たちもまた、霊の目が開かれるように祈るべきです。苦難の日には主の軍勢が私たちを取り囲み、敵の攻撃から守ってくださることをしっかりと見なければならないのです。

パウロは、エペソ人への手紙1章17~19節でこう祈っています。「17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

パウロはここで、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますようにと祈っています。そのためには、心の目がはっきり見えるようにならなければなりません。でからパウロは、主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるようにと祈ったのです。

そればかりではありません。アラムの軍勢がエリシャに向かって下って来たとき、エリシャは主に祈って言いました。彼らを打って目をくらましてくださいと。すると主はエリシャのことばの通り、彼らを打って目をくらませたので、彼らをイスラエルの首都であるサマリアへ連れて行きました。

サマリアに着くと、エリシャが彼らの目を開いて見えるようにしてくださいと祈ると、主が彼らの目を開けてくれたので、彼らは見えるようになりました。そして、なんと、彼らは自分たちがサマリアの真ん中にいることを知りました。

イスラエルの王ヨラムは彼らを見て、エリシャに「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」と言いました。これまでヨラムはエリシャの存在を毛嫌いしていたのに、ここでは「わが父よ」と呼びかけています。これまでの経緯を見て、ヨラムはエリシャに敬意を表するようになったのでしょう。

それに対してエリシャは何と言いましたか。22節です。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」

なんとエリシャは全く逆のことを言いました。打ち殺すどころか、彼らにパンと水を与えて、彼らの主君のもとに送り返しなさいというのです。捕虜の扱いとしては前代未聞です。そこでヨラムは大宴会を催しました。彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを家に帰したのです。するとどういうことになったでしょうか?するとそれ以来、アラムは二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。

多くの犠牲を払っても達成できなかった平和を、主は平和的に行われたのです。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言われました。神は平和の神です。私たちは争いではなく平和をつくる者でなければなりません。そこに平和の神が臨在してくださるからです。

Ⅲ.サマリアに起こった大飢饉(24-33)

最後に、24~33節をご覧ください。「24 この後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲した。25 サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んだ。「わが主、王よ。お救いください。」27 王は言った。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちは今日、それを食べて、明日は私の子どもを食べましょう』と言ったのです。29 それで私たちは、私の子どもを煮て食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の衣を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は衣の下に粗布を着ていた。31 彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」

32 エリシャは自分の家に座っていて、長老たちも彼と一緒に座っていた。王は一人の者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのを知っていますか。気をつけなさい。使者が来たら戸を閉め、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」」

その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲しました。ちょっと待ってくださいよ。23節には、アラムの略奪隊は二度とイスラエルに侵入しなかったとあるのに、24節にはそのアラムの王ベン・ハダドが全軍を召集してサマリアに上って来て、これを包囲したとあります。これはどういうことでしょうか。

この23節と24節の間には、どれくらいの期間があったのかはわかりませんが、おそらく何年もの時間が経過していたのでしょう。その間に彼らは、超自然的に盲目とされ、最後は盛大なもてなしを受けて本国に戻されたことを、すっかり忘れてしまったのです。感謝の記憶が薄れることは、危険なことですね。

そして、私たちにもそのようなことがよくあります。神様はイエス・キリストを通して一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのに、その恵みを忘れて、自分勝手に行動し、神の愛から離れてしまうことがあるのです。詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の欲してくださったことを何一つわすれるな。」とあります。主が良くしてくださったことを忘れないで、いつも主に感謝と賛美をささげなければなりません。

さて、アラムの王ベン・ハダドがサマリアに上って来てこれを包囲したとき、サマリアはどうなったでしょうか。25節を見ると、サマリアには大飢饉が起こっていました。この飢饉は自然環境によってもたらされたものではありません。これはアラムがサマリアを包囲したことによってもたらされたものです。つまり、アラムがとった戦法は包囲戦で、いわゆる兵糧攻めにしたということです。その結果、サマリアに大飢饉が起こったのです。

それは想像を絶するほどひどいものでした。ろばの頭一つが銀80シェケルで売られ、鳩の糞一カブの4分の1が銀5シェケルで売られるようになっていました。ろばの頭は、不浄の動物の頭なので、平時であれば食べる人などいません。それが80シェケルで売られていたのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1g80円だとすると912円となります。ですから、ろばの頭が72,960円ということになります。普通はたべないろばの頭が72960円もするのです。鳩の糞とは、通常は家畜の餌になるものでしたが、その一カブの4分の1が4,500円もしたのです。かなりのハイパーインフレです。

そんな時、イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んで言いました。「わが主、王よ。お救いください。」

すると彼はこう言いました。27節です。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」つまり、自分は王であっても、何もあげるものはないよと言うことです。それほど飢饉がひどい状態であったということです。どれほどひどい状態であったかは、この女の訴えを聞くとわかります。ヨラムが彼女に「どうしたのか」と尋ねると、彼女は答えました。知り合いの女の提案で、今日は自分の子どもを煮て食べ、明日は彼女の子どもを煮て食べることになっていましたが、彼女の番になったとき、彼女はその子を隠してしまったというのです。こんな悲惨なことが起こるほどに、サマリアの町の飢饉は激しかったのです。

それを聞くと王は、衣の下に荒布を来ていましたが、「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」と言いました。荒布は、悔い改めを表現するために着用するものですが、彼は主に立ち返るどころかそれをエリシャのせいにして、イスラエルの罪を指摘するエリシャに腹を立て、彼を殺そうとしたのです。彼は、主がなされた数々の奇跡を目撃しながら、悔い改めようとしませんでした。今回の試練は、主がイスラエルの民を悔い改めるために与えたものです。私たちも、試練に会ったとき、神が何を語っておられるのか、そこから神の御声を汲み取らなければなりません。

エリシャはそのことを知っていました。彼は自分の家に座っていて、長老たちと一緒にいました。そして、長老たちに、イスラエルの王ヨラムが自分の首をはねに人を遣わしたことを告げ、使者が来ても、だれも中に入れないように、戸を閉めておくようにと言いました。案の定、エリシャが話していると、イスラエルの王の使いがやって来ました。その使いはエリシャのところに来ると、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」と言いました。どういうことでしょうか。

ヨラム王は、エリシャから今回の事は主からの裁きであると聞いていたのでしょう。だから、主が解決してくださるのを待つようにと助言されていたのです。けれどもヨラムは待ちきれなくなり、悔い改めるよりも自分で問題を解決しようとしたのです。エリシャを殺せば、彼が語った呪いの言葉が効力を失うと思ったのです。

ヨラムはどこまでも身勝手な人間でした。自分の身に起こるわざわいを自分以外の者は環境のせいにして、その本質を見ることができませんでした。その本質とは神との関係です。神との関係が崩れることで、私たちの人生にさまざまな問題が起こりますが、その最大の解決は悔い改めて神との関係を回復することなのです。それ無しには何も解決することはありません。それ無しに人間的に動いても、それはかえって逆の結果をもたらすことになります。静まって神を待ち望み、神の御前に悔い改めて神にすべてをゆだねること、それが、私たちが苦難の時に生きる道なのです。

エレミヤ15章15~21節「堅固な青銅の城壁とする」

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きょうは、エレミヤ書15章後半の個所から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節の御言葉から取りました。
  「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」

  前回のところでエレミヤは、自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔しました。10節でしたね。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を生んだので、私は全地にとって争いの相手、口論する者となっている。」それは彼が、エルサレムが滅びるという極めて悲惨な預言をユダの民に語らなければならなかったからです。そしてそれを聞いた民が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。

それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。必ず主は彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。

しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。再び彼は神に不平をもらすのです。それが今日の箇所です。そして、それに対する神の答えがこれだったのです。「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」

 Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」

これは、エレミヤの祈りです。これは実に正直でストレートな祈りです。自分の思いの丈をぶつけています。言葉で飾るようなことをしていません。
  15節で彼は、「私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。」「私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」と言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えているのです。

16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したということです。そしたらそれが楽しみとなり、心の喜びとなりました。リビングバイブルでは、「有頂天となった」と訳していますが、そういう意味です。これは、飛んだり、跳ねたりして喜ぶ様を表しています。御言葉を食べたら、そのあまりの美味しさに小躍りするくらいうれしくなったというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。それは、患難や苦難が無くなるということではありません。神の御言葉を食べて喜んでも、患難や苦難があなたを襲うことがあります。人々から誤解されたり、バカにされたり、憎まれたり、(さげす)まれたりすることがあります。でも違うのは、そのような中にあっても、神の御言葉があなたを支えてくれるということです。エレミヤは神の御言葉によって支えられていました。彼が神の御言葉を食べていなかったら、簡単に潰れていたでしょう。

それは私たちにも言えることです。御言葉を食べて、御言葉を味わい、御言葉を楽しみ、御言葉を心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!神様を信じたって何の役にも立ちません。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは神の御言葉です。イエスのことばを聞いてそれを食べ、それを楽しみ、それを喜び、それに従う人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることがないのです。

それでも、エレミヤは傷ついていました。神の御言葉食べてそれを楽しんでいても、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言ってしまいます。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」

どういうことでしょうか。エレミヤはここで神様に向かって、「あなたは偽り者だ!」と言っているのです。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか。私はいつまで続まなければならないのですか。私の打ち傷は治らず、癒されません。そんなのおかしいじゃないですか。あなたは約束してくださいました。あなたはいのちの水の泉だと。だから私はあなたに信頼したのです。それなのに、あなたに頼ってもあなたは答えてくれません。それは欺く小川の流れのようです。当てにならない水にすぎません。そう言っているのです。これは本来言ってはいけないことばです。神様に不平不満をもらしているのですから。
  この「小川」というのは、「ワディ」と呼ばれる川のことですが、この川は雨の季節は水が流れていることはあっても、乾燥した季節は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういう水のことです。あるようでない。あるように見せかけても実際にはありません。エレミヤは神様をこの当てにならない小川にたとえたのです。あると思ったのにない。神様は欺く小川の流れだと。全く役に立たない。祈っても答えてくれない。期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきです」なんて言えません。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼になっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いを正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信じていいんですかと。

私たちにもこのようなことがあります。落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることがあります。でも、エレミヤのようにそれを正直に神に訴えることができません。ちゃんと祈らなければならないと思っているからです。それで美辞麗句を並べて、心にもないことを言ってしまうのです。
  「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛め苦しんでいますが、あなたはもっとひどい苦しみを受けられました。あなたは十字架で「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。ですから、私もあなたの御言葉に従ってあの人を赦します。あの人を愛します。あの人のために祈ります。どうか、あなたのお力を与えてください。アーメン」
  すばらしい祈りです。でも本音は違うでしょ。本当は憎いのです。赦せないのです。ムカついています。それなのに、きれいな言葉で祈らなければならないと思っています。クリスチャンだから。一応。
  でも神様は、あなたの心の思いを全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はなのです。あなたの正直な気持ちをエレミヤのように神様に訴えていいのです。なかなか祈れないという人の問題はここにあります。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。だから祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。仮面を被ったもう一人の自分が祈っているかのような、そんな感覚さえ抱いてしまいます。しかし、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりをする必要はありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に祈っていいのです。

詩篇を見るとそういう祈りがたくさん出てきます。詩篇109篇などはそうです。その中でダビデは敵に仕返ししてくだいというだけでなく、敵がことごとくのろわれるようにしてくださいとまで祈っています。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様の教えを知っている私たちにとっては戸惑いを感じますが、それでいいのです。自分の心の思いを正直に主に申し上げることが大切なのです。

私は、1993年に初めて韓国に行きました。当時ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われていた教会がソウルにあって、その教会が主催した牧師のセミナーに参加したのです。教会の信徒さんが「ぜひ先生も行って恵まれて来てください。その費用は私たちが献げますから。先生が恵まれることで私たちも恵まれますから」と、背中を押してくれたのです。それは光林教会という教会でした。今でも覚えています。礼拝が始まると同時に礼拝堂の窓のカーテンが自動的に閉まるのです。すると講壇の前にいたオーケストラが賛美歌を奏でました。「来る朝ごとに」でした。荘厳な雰囲気の中で荘厳な曲が奏でられ、体が震えました。あたかも天国にいるかのような光景でした。
  私たちは、その教会が所有している祈祷院に宿泊したのですが、そこには毎晩のように多くの信徒が祈るために来ていました。何を祈っているのかわかりませんが「チュよ、チュよ」と犬の遠吠えのような大きな声が聞こえてきました。私も隣の部屋で祈っていましたが声が気になってなかなか祈れませんでした。
  そこで担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈るんですよと。韓国人はそういう国民性なのかと驚いて、もっと大きな声で祈りましたが、ナイーブな私にはやはりうるさくて祈れませんでした。でも韓国の兄姉は違うんですね。もっと大きな声で祈ります。他の人は関係ありません。全く視野に入ってこないのです。ただ主を見上げて、「チュよ、チュよ」と叫ぶのです。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。
  当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会もそうでした。私は徹夜祈祷会にも行きましたが、11月の末のとても寒い時ですよ。教会を出たところで多くの人たちがあちこちでひざまずいて祈っているのです。中では礼拝形式で祈祷会が持たれていましたが、集会の終わると多くの兄姉が講壇になだれ込み、「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っていました。それはもう祈りじゃないです。叫びです。主に向かって心を注いで叫んでいるという感じでした。飢えた魚がえさを求めるように。周りの人がどう思うかなんて関係ありません。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。

それでいいんです。というのは、このエレミヤのつぶやきや疑いに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんなことを祈るなんてひどいヤツダとか、私を疑うなんてとんでもないことだとか、お前のような者はもうわたしのことばを語る資格などないとか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを受け入れてくださいました。19節からのところで、その祈りに対して主が応答していることからもわかります。正直に言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それが祈りです。それがエレミヤの祈りでした。祈りとはまさにコミュニケーション、対話です。それがこの中に見られるということです。

私たちは神様とこのようなコミュニケーションを取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈ります、という通り一辺倒の祈りではなかったでしょうか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わってはいなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあるかもしれません。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいのです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもってとりなしてくださいますから。ローマ8章26節にこうあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
  感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエスが、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
  ですから、決して神様に対して自分の気持ちを隠す必要はありません。仮面を被らなくてもいい。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢することができません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」これでいいんです。

でも、これで終わってはいけません。ここが重要なポイントです。これを神に訴えるとはどういうことかということです。これを神に訴えるとは、だから助けてください!ということなのです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにということではなく、神様に助けを求め、神様がその力を与えてくださるように願うことなのです。神様はあなたの本音を知っておられますから。正直な気持ちを知っておられますから。それをまず神様にぶつけない限り何も始まりません。それを正直に訴えたうえで神に助けを求める。そこに主が働いてくださいます。それを隠したまま、ただことば巧みに自分を霊的、信仰的な者であるかのように見せかけると、そこに「偽善」が生じることになります。そうじゃなくて、そんなあなたのやるせない思い、正直な思いをありのままに神様に訴えて、その上で神様にきよめていただく、助けていただく、それが神様が望んでおられることなのです。

Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)

次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。19節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」

エレミヤのつぶやき、疑いに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神様を疑ったからではありません。神様に本音で訴えたからではないのです。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであると失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていました。エレミヤは、そんなことならいっそのこと民といっしょになって不信仰でもいい、その方がよっぽど楽だと思っていました。
  そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは神を疑うほどまで落ち込んでいました。それは預言者としては失格でした。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていたのです。これはエレミヤの生涯における最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないでください。まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。そして、もし、彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはなりません。「彼ら」とはユダの民のことです。エレミヤは神の預言者として神に立てられた器ですから彼らに流されたり、彼らの影響を受けるべきではない。預言者としての使命を果たしなさいということです。

Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)

最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えてくださいました。20~21節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」

エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに繰り返して語られました。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。

これと同じことを、パウロはこう表現しています。Ⅱコリント4章7~9節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
  この「宝」とはイエス・キリストのこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「土の器」の「の」を取ると、ただの「土器」です。皆さん、私たちはただの「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。

皆さん、私たちの人生にはポッカリと穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
  それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然ポッカリ穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇することがある。突然病気になったり、事故に遭ってしまった、会社が倒産した、会社は大丈夫だけれども、自分が失業した、愛する人を突然亡くした、というようなことがあります。
  そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明けて、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

マルコの福音書16章1~8節「石は転がしてあった」

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 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
  私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。

これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。

彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気が付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。

しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちはどこで何を話し合っていたのでしょうか。彼女たちは墓に向かう途中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。

ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に話し合うんじゃないですかね。「どうする、行っても無駄だ。墓の入り口には大きな石があるし、自分たちの力ではどうやっても動かせない。しかもそこにはローマ兵たちがいる。どう考えても無理だ!その前に香料なんて買ったってただのお金の無駄遣いだ」と。

これが一般的な男性が考えることです。でも女性は違います。女性は心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずすぐにそれを行動に移すのです。そんなことを言うのは女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、私は女性を差別しているのではありません。それが女性の素晴らしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。できるだけ早くイエスに会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えるでしょう。その極めつけが十字架でした。イエス様は十字架の上で敵を救うために取りなしの祈りをされたのです。このような愛はこの世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあります。そのことに気付かないと大切なものを失ってしまうことがあるのです。

注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。だれが転がしてくれるかと言ったのです。皆さん、だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。その状況とか方法とかを考えてしまうあまり、足がすくんで何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」と問わないで「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知っていただきたいのです。この女性たちのように。彼女たちはイエスの墓に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエス・キリストです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられるのです。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。

榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。

そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。

招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。

席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。

T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。

T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。

榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。

それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。

帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。

榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。

それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。

「先生、息子を、よろしくお願いします」。

頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。

「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」

ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。

それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。

でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

Ⅱ列王記5章

 

 今回は、Ⅱ列王記5章から学びます。

 Ⅰ.ナーマンの癒し(1-14)

まず、1~14節までをご覧ください。7節までをお読みします。「1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。3 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」4 そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。6 彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」」

アラム(シリア)の王ナアマンの話です。ナアマンはアラムの王の将軍で、その主君から重んじられていました。それは彼が勇士であって、以前彼を通してアラムに勝利をもたらしていたからです。ここには、その勝利は「主が以前、彼を通して」与えられたものであったと記されてあります。主が彼を選び、彼とともにあったので、彼は勝利を得ることができたのです。それは主が彼を選び、彼の癒しも計画しておられたからです。

しかし、そんなナアマンですが、「ツァラ―ト」に冒されていました。「ツァラ―ト」は重い皮膚病で、イスラエルではツァラートの患者は隔離されなければなりませんでしたが、アラムではそうではありませんでした。彼はこのことでどれほど心を痛めていたことでしょうか。人々に認められて、何一つ不自由ない生活を送っていたにもかかわらず、自分ではどうすることもできない弱さや痛みを抱えていたのです。私たちも同じです。表面的には有能で一生懸命働いていて、何一つ不自由のない生活をしているようでも、こうした弱さを抱えながら生きています。

ところで、彼の家に一人の若い娘がいて、彼の妻に仕えていました。彼女は、かつてアラムが略奪に出たとき、イスラエルの地から連れて来られた娘です。その娘はある日、女主人にエリシャのことを伝えました。3節です。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

彼女には、エリシャを通してこのツァラートが癒されるという信仰がありました。この信仰が、ナアマンの癒しにつながっていくことになります。このような若い娘でも、主によって大きく用いられる器になることができるのです。

そのことがナアマンの耳に入ると彼は主君のところへ行き、この娘から聞いたことを伝えました。するとアラムの王は有能な将軍を病で失うことは一大損失と考えたのか、ナアマンがイスラエルに行くことを許可しただけでなく、イスラエルの王に宛てて手紙を書き送りました。それは6節にあるように、「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」という内容のものでした。この時のアラムの王はベン・ハダド2世(B.C860-841)ですが、この時点ではイスラエルの王ヨラムと良好な関係を維持していました。それでナアマンは、銀10タラント、金6千シェケル、晴れ着10着を持って出かけて行きました。銀10タラントとは340㎏です。金6千シェケルは68.4㎏です。相当な重さ、相当な額の贈り物です。これを150㎞も離れたサマリアまで運ぶのは大変なことだったと思います。ナアマンはツァラートの癒しのためにそれ相応の贈り物を用意して、イスラエルに敬意を払おうとしたのです。それほど癒されたかったということです。

それに対して、イスラエルの王ヨラムはどのように対応したでしょうか。7節です。イスラエルの王は、自分がナアマンを癒さなければならないと勘違いしたのか、これは再びイスラエルを攻めてくる言いがかりではないかと疑いました。彼は、ナアマンの妻の女奴隷のイスラエル人の少女と違って、預言者エリシャのことが思い浮かびませんでした。神の働きを受け入れようとしない人は、ヨラムのように神の働きを見ることができません。取るに足りない娘が発した信仰の言葉が、二つの王国の運命を大きく揺さぶることになります。私たちの主は、小さき者の信仰を大いに祝福してくださる方なのです。

次に、8~14節までをご覧ください。「8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」

エリシャは、ヨラム王が動揺して衣を引き裂いたと聞いて、王のもとに人を遣わして言いました。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

エリシャは、自分が責任を持って癒すので、彼はイスラエルに預言者がいることを知るようになるだろうと言いました。

それでナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入口に立ちました。するとエリシャは彼に使いをやってこう言わせました。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」

何ということでしょう。はるばるアラムからやって来たというのに、しかもそれ相応の贈り物まで持って来たというのに、自分に会おうともしないというのは。あまにも失礼だ。しかも、その治療法はとんでもない。ヨルダン川へ行って七回身を洗うというのは。

これを聞いたナアマンは激怒し、そこを去りました。彼が激怒したのは、エリシャ自身が出て来てきよめの儀式をしてくれると思ったのにそうではなかったこと、そしてそれがあまりも失簡単すぎると思ったからです。彼は英雄だったので、英雄にふさわしい治療を期待していました。それなのに、ヨルダン川に行って7回身を洗えというのですから。だったら故郷のアマナやパルパルの川の方がましじゃないか。プライドの高かったナアマンには、信仰による単純な癒しを受け入れることができなかったのです。

それは私たちの救いにも言えることです。神様が同様の単純な方法で赦しを与えようとすると、ナアマンのような反応をする人々がいます。イエス・キリストを信じるだけで救われるというのは重みが足りないと感じるのです。でもナアマンがツァラートを癒していただくために必要だったことは、彼がへりくだって神のあわれみを受け入れることです。神のことばを受け入れて、ただ信じるならば救われるのです。

今週の礼拝は受難週のメッセージで、ルカ23章からお話しましたが、あの一人の犯罪人が救われたのはどうしてでしょうか。彼がへりくだってイエス様に「あなたが御国にお着きになる時には、どうか私を思い出してください。」と言ったからです。彼は十字架に磔にされていましたから、彼には何もすることかできませんでした。彼に出来ることは、救ってくださいと神に懇願することしかなかったのです。するとイエスは感動をもってこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

彼に出来ることはただ、イエスが救うことができる方であると信じ、そのイエスにすがることだけだったのです。その結果、彼は救われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と、イエスから救いの約束を得ることが出来たのです。

ナアマンは憤って帰途につくと、彼のしもべたちが近づいて来て、彼に言いました。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」このしもべは冷静でした。ヨルダン川に行って7回洗うということは何でもないことです。しもべは知っていました。主君ナアマンのことを。そして、もっと難しいことをエリシャが命じたら、あなたはそれをやろうとしたでしょう、と言ったのです。簡単なことができずに、難しいことだったらやろうとする。それが私たち人間の持っている性質です。簡単なことでは救われないと思っているのです。救われるためにはもっとハードなことをしなければならないと。ナアマンはそういうことを期待していました。でもエリシャが言ったことは実にシンプルなことでした。ヨルダン川に行って7回身を洗うだけです。

ナアマンはよい家来を持ったものです。彼はそのことばを聞くと反省し、家来たちの助言を聞き入れます。彼は下って行き、神の人エリシャが言ったとおり、ヨルダン川に7回身を浸しました。これが信仰です。信仰とは、主が言われているとおりに信じて聞き従うことです。すると彼はどうなりましたか。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなりました。主は彼を癒しただけでなく、彼の皮膚を幼子のようにすべすべした肌に作り変えたのです。それはヨルダン川の水に癒す力があったからではありません。それは、ナアマンが預言者を通して語られた主のことばを信じたからです。彼は信仰によっていやされたのです。この「7回」という数字は、それを物語っています。聖書の中で「7」は完全数、または神のことを表わしています。彼が神のことばを受け入れて7回浸ったことで、彼は癒しの恵みを受けることができたのです。そうです、神のことばに力があります。その神のことばを受け入れ、それに従う人は何と幸いでしょうか。

Ⅱ.ナアマンの感謝(15-19)

次に、15~19節をご覧ください。「15 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」16 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。17 そこでナアマンは言った。「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。18 どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。」

癒されたナアマンは、感謝に溢れてエリシャのもとに引き返してきました。これは決して短い距離ではありません。ヨルダン川からエリシャがいたサマリアまでは約40㎞もありました。それほど彼は感謝に満ち溢れていたということです。その距離をもろともせずに引き返してきたのですから。エリシャのもとに引き返して来たナアマンは彼の前に立つとこう言いました。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

これはナアマンの信仰告白です。この奇跡は、神の視点からは、このナアマンの信仰を引き出すためのものだったのです。アラムの将軍ナアマンといったら異邦人です。その異邦人でもイスラエルの神に従うなら救われるということを示していたのです。

ルカ4章27節には、「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。イスラエルにはツァラアトに冒されて人が多くいましたが、きよめられたのはそのイスラエル人ではなく、異邦人であったナアマンだけでした。なぜ?イスラエルには信仰がなかったからです。ナアマンにはありました。イスラエルの民はバアル礼拝に走っていましたが、ナアマンはイスラエルの神、主への信仰を告白しました。なんとい皮肉でしょうか。これは何を意味しているのかというと、たとえ異邦人であっても、ヤハウェを信じる者はみな救われるということです。信仰によって、神の救いの中に加えられるのです。それは日本人である私たちも同じです。日本人であっても、イスラエルの主ヤハウェを信じるなら救われるのです。主は新約時代だけでなく、旧約時代からすでにご自分のわざを示しておられたのです。

ナアマンは感謝のしるしに贈り物を差し出しましたが、エリシャはそれを拒否しました。なぜでしょうか。エリシャはこのように言っています。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」エリシャは、それが神の働きであって、神の働きはこの世のそれと違い仕事の報酬であるかのようにお金を受け取ってはいけないことを知っていたからです。それは神の働き人が報酬を得てはならないということではありません。聖書には、「「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」」(Ⅰテモテ5:18)と言われているように、ある意味それは当然のことなのです。しかしそれを当然であるかのように受けることは神の働き人としてふさわしいものではありません。それでエリシャは、ナアマンが受け取らせようとしてしきりに勧めましたが断ったのです。

そこでナアマンは一つのことをエリシャに願いました。それは二頭のらばに乗せられるだけの土を与えてほしいということでした。これは祭壇を築くための土です。彼はヤハウェへの祭壇を築くためにイスラエルの土でないとだめだと思っていたのです。すべてのものは信仰によってきよめられるから(ローマ14:23)です。別にシリアの土を用いても構わなかったのですが、彼はイスラエルの土にこだわっていました。イスラエルの神、主だけにいけにえをささげるために。

しかし、そのように言いながら彼は、突拍子のないようなことをエリシャに告げています。それは18節にあるように、彼の主君がリモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために自分の手を必要としますが、自分がリモンの神殿でひれ伏すとき、それを赦してほしいということです。「リモン」とは、雨と雷を司る偶像です。そのリモンの神殿に入るとき、それは自分の職務としてやっていることだけなので、礼拝するわけではないから、身をかがめることを赦してほしいというのです。

するとエリシャは何と言いましたか。エリシャはこう言いました。「安心して行きなさい。」どういうことでしょうか。旧約聖書を見る限り、たとえそれが礼拝するわけではないとしても、偶像にひれ伏してもいいという箇所はどこにもありません。むしろ神は聖なる方であって、その聖なる方にならって分離することを命じておられます。偶像礼拝に陥らないように。それなのに、ここでエリシャはたとえそれが職務の一つであるとは言え、「安心して行きなさい。」とナアマンがリンモンの神殿でひれ伏すことを許しているかのように受け取れます。これはどういうことでしょうか。どの訳を見ても同じです。どの聖書も「安心して行きなさい。」「Go in peace」と訳しています。

バイブルナビには、このように解説しています。

「ナアマンはどうして異教の偶像の前で身をかがめる行為を許されたのだろうか。ナアマンは、リンモン神を礼拝する許可ではなく、王が身をかがめるとき、立ち座りの介助をする義務を果たす許可を求めたのである。別名ハダドとしても知られるダマスコの神リンモンは、雨と雷の神として信じられていた。同時代のほとんどの人間と異なり、ナアマンは神の御力に対し鋭い意識を持っていることを示した。神を国が拝む偶像の一つに加えるのではなく、彼は唯一神がおられると認めた。ナアマンは、他の神々を礼拝しようとしなかった。この一点においてのみ許しを求めたナアマンの行為は、多くの偶像を拝み続けていたイスラエル人とは対照的である。」

確かに、ここでエリシャが許したのは、ナアマンがアラムの王ハダドが立ったり座ったりするのを介助する許可を与えたということでしょう。しかし、たとえ彼の主人のこととは言え、それを手助けすること自体受け入れられないことです。

フレデリック・ファーラー(1831-1903年、聖公会の司祭)はこう述べています。

「エリシャの助言を誤解してはならない。彼は、異教の教えの影響が残っているこの新改宗者に、無制限の自由を約束したわけではない。ナアマンが置かれていた状況は、どんなイスラエル人の状況とも異なる。彼は改宗して1日しか経ってない。それも「生煮え」の改宗者に過ぎない。ナアマンのように、一貫して偶像礼拝に関わって来た人に、多くを要求することはできない。それまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するようにナアマンに迫ることは、余りにも唐突過ぎる。それは、無分別な無益な要求であり、彼に不可能な自己犠牲を迫るものである。最善の方法は、彼がリモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることである。それでも、リンモンの神殿で偶像を礼拝してはならないという原則だけは、不変である。」

ここでフレデリック・ファーラーが言っていることは、ナアマンの信仰は情報不足もあってまだ未熟なものであったということです。そのナアマンにそれまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するように迫ることは余りにも唐突過ぎることであり、無分別な要求であるということです。彼にとって必要なことは、リンモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることであり、やがてナアマン自身が、いかに行動すべきかを判断する必要があったということです。そういう点ではナアマンが置かれていた状況を考えると、これはギリギリの許可だったのではないかと思われます。

しかし、ここで注目していただきたいことは、このエリシャのことばです。彼はここで「安心して行きなさい。」と言っていますが、これはナアマンのこの行為を許可したとかしないということではなく、ただ「神があなたと共にあるように」と言ったのです。いわゆる、「シャローム」と言ったのです。それはあなたが判断することです。確かに神の原則は変わりません。リンモンの神殿で礼拝してはならないという原則だけは、不変です。その原則を踏まえた上で、彼がどう判断するのか、それはあなたが決めることであって、重要なのは、神があなたとともにおられるということ。神の平安とともに行くように、ということです。つまり、エリシャは彼の判断にゆだねたのです。たとえ、今そうであっても、イスラエルの神、主がどのような方であるかを知るようになれば、自ずとどうすれば良いかはわかって来るでしょう。偶像を礼拝してはならないという原則だけは変わらないが、何よりも重要なことは神とともにあること、神の平安をもって出て行くことです。そう言いたかったのではないでしょうか。

これはきわめて現実的で知恵に満ちた答えでした。この日本という異教社会に住む私たちもナアマンのような問題を抱えることがありますが、同じような問題で悩んでいる人に対してどのような助言をすべきかを、神様から知恵をいただきながら聖書の原則に立ってしっかりと対応していきたいと思います。

Ⅲ.ゲハジの貪欲(20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」21 ゲハジはナアマンの後を追いかけて行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて彼を迎え、「何か変わったことでも」と尋ねた。22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」23 するとナアマンは、「ぜひ、二タラントを取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を自分の二人の若者に渡した。そこで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。24 ゲハジは丘に着くと、それを二人の者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせたので、彼らは去って行った。25 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行っていません。」26 エリシャは彼に言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもおまえとおまえの子孫にまといつく。」ゲハジはツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行った。」

すると、エリシャに仕えていたゲハジは考えました。エリシャはナアマンが持って来た物を何も受け取ろうとしなかった。では、自分が行って、何かをもらって来よう。そしてナアマンの後を追いかけて行き彼に追い着くと、「何か変わったことでも」と尋ねるナアマンに、彼は嘘を言いました。22節です。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」ゲハジは自分の主人エリシャの名を使って、嘘をついたのです。

するとナアマンは、銀1タラントと晴れ着2着という要求に対して、銀2タラントと晴着2着を与えました。ゲハジが求めた額は、ナアマンが用意していたものに比べると控え目ですが、それでも大金です。これを手に入れたら、一生楽に暮らしていけます。結局ナアマンは、その倍の額と晴着2着をゲハジに与え、財宝を運ぶ2人の若者まで提供しました。

ゲハジは家に帰って来ると、それを二人の若者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせました。そして、彼が家の中に入りエリシャの前に立つと、エリシャは彼にどこに行っていたのかと尋ねました。彼は「しもべはどこにも行っていません。」と嘘をつきました。二回目の嘘です。これは嘘の上塗りです。人は一度嘘つくとその嘘を隠すために他の嘘もついてしまうことになります。けれども、エリシャは知っていました。彼がどこに行って来たのかを。エリシャはこう言いました。

「今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」

「オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷」は、ゲハジが手に入れた銀で買おうと思っていたものです。その結果、彼に神のさばきが下りました。ナアマンのツァラートが、いつまでもゲハジと彼の子孫にまといつくことになる、と告げられたのです。そしてそのことばの通り、ゲハジはツァラートに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行きました。

ここでは、エリシャとゲハジが対比されています。エリシャは、神の器として神の恵みを分かち合い、人から見返りを受けるのではなく、ただ主に仕えるしもべであったのに対して、ゲハジは神の栄光を、自分の欲望のために奪い取ろうとしました。このように、神のしもべにも2種類のタイプの人がいます。あなたはどちらのタイプのしもべですか。私たちは神のことばへの信頼と従順によって、エリシャのように神の恵みを分かち合うしもべでありたいと思います。

ルカの福音書23章32~43節「三本の十字架」

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今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最後の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たります。そこから数えて三日目の、週の初めの日、すなわち日曜日の朝に、イエス様は復活されます。ですから、来週の礼拝は、イエス様が復活されたことを記念してイースター礼拝を行いたいと思いますが、今日はその前に、イエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。

Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)

まず、32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」

32節の「ほかにも」とは、イエスのほかにもということです。イエス様の他にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行きました。彼らがどんなことをしたのかはここにはありませんが、並行箇所のマタイ27章38節を見ると「二人の強盗が」とあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したのです。

彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。「どくろ」はギリシャ語では「クラニオン」、ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と言います。英語の「カルバリー」は、このラテン語から来ています。それは響きがいいですが「どくろ」という意味です。「がいこつ」ですね。それは死を象徴しているものです。
私は福島で最初の教会を開拓しましたが、その教会の名前は、「北信カルバリー教会」です。なぜそのような名前にしたのかというと、私たちを遣わしたアメリカの教会がカリフォルニア州のガーデナという町にありますが、その教会がカルバリーチャーチという名前だったからです。カルバリーチャペルとは違います。アメリカンバプテストという団体に所属している教会ですが、その教会の牧師は本当にすばらしい牧師で、霊的にも優れていましたが、人格的にもすばらしい人で、何よりも世界宣教、特に日本の宣教に重荷を持っていましたので、その教会の名前から取りたかったのです。それでその地域の名前にカルバリーという名を付けたのです。でも意味は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのかというと、諸説ありますが、その丘の形がどくろの形をしていたからではないかと考えられています。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエス様を十字架につけました。イエス様だけではありません。イエスといっしょに引かれて行った二人の犯罪人も十字架につけられました。一人はイエス様の右に、もう一人はイエス様の左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
これはイエス様が十字架上で発せられたことばです。イエス様は十字架の上で7つのことばを発しましたが、これはその最初のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」つまり、十字架につけられたイエス様は開口一番とりなしの祈りをされたのです。イエス様がこれまで弟子たちに教えて来られたことを自ら実践されました。たとえば、ルカ6章27~28節には「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とありますが、これを実践されたわけです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエス様はこれらのことを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。

この時イエス様はボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエス様だと判別することができないほどでした。にもかかわらず、イエス様はこう祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」

この「彼ら」とは誰でしょうか。それは直接的にはイエス様を十字架につけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。しかしそれだけではなく、直接手をかけなくても、彼らに死刑を執行させたポンテオ・ピラトもそうです。さらには、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ教の当局者たちもそうでしょう。また、そうした宗教家たちに先導されてイエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が何をしているのかわからない人たち、キリストを十字架につけても何とも思わない人たちのためにイエス様はこのようなとりなしの祈りをされたのです。

このときイエス様は瀕死の状態でした。その声は虫の息のようでした。ことばを発するのが奇跡に近いような状態だったのです。そういう状態だったのにイエス様はご自分のことではなく、そんな「彼ら」のために祈られました。皆さん、自分の手のひらに釘を押し付けたことがありますか。私は遊びでやってみたことがありますが、釘の先をちょっとでも押し付けると「痛っ!」となります。それを両手両足に打ちつけられていたのですから、相当の痛みが走ったことでしょう。すべての神経がそこに集中したはずです。もう他の人のことなど考えられなかったでしょう。余裕で何かことばを発するなんてできない状態でした。しかしイエス様は自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたのです。それはイエス様ご自身がそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエス様は激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも一人でも救おうと願っておられたからです。

このことばは、古今東西多くの人たちの心を捉えてきました。まさに心を奪われてイエス様を信じた人たちがたくさんいます。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。聞いたことがありますか。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。
「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」
これは文語訳ですが、このことばが彼の心を捉えました。そして彼は救われたのです。そして世界中を伝道して回る伝道者になりました。アメリカと日本の架け橋となって、赦しのメッセージを伝えて行くことになったのです。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。

私たちはもう一度自分の信仰の原点を考えなければなりません。自分はどこから救われて来たのかを。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエス様のとりなしによって救われたのです。これが私たちの救いの原点なのです。私たちもイエスを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人たちとちっとも変わりません。それなのにイエス様はそんな私たちのために祈られました。本来ならこの私が十字架につけられておかしくなかったのに、そんな私たちのためにイエス様がとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエス様がこの祈りをささげてくださられなかったら私たちは救われませんでした。

35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
「言った」というよりも「言ってしまった」という方がいいかもしれません。思わず言ってしまったということです。英語で表現するなら「ウップス!」です。聞いたことがありますか、「ウップス!」思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは本当です。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったかのように見えたとか、他人を救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本音が出てしまいました。「あれは他人を救った」と。そうです、イエス様は他人を救ったのです。イエス様の敵であった彼らでさえも、それを認めざるを得ませんでした。彼らは知っていました。イエス様が神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。

皆さん、イエス様は自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。自分を救うことなんてお茶の子さいさいでした。たとえば、イエス様が十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエス様を捕らえに来ましたが、その時イエス様が彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエス様が「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の屈強なローマ兵が一度に倒れたのです。また、イエス様が風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うとどうなりましたか。すぐに凪になりました。風や波すらイエス様の言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエス様の権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエス様にかなうわけがありません。イエス様は自分を救うことなんて何でもないことだったのです。十字架の上から下りることができました。でもあえてそうされなかったのです。なぜなら、そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエス様はそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしなかったのです。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことをされるならさっさとここから下りて天の父のもとに帰って行こうと。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するがゆえに。釘がイエス様を十字架に留めたのではありません。私たちに対する愛が、イエス様を十字架に留めたのです。そのことをもう一度覚えたいと思います。

36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエス様をあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエス様の近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒は、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためのものではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったのであわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエス様はそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエス様の愛でした。つまり、イエス様は十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山の十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。

イエス様はかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて身代わりとなる、それ以上に大きな愛はありません。なぜなら、人が犠牲にすることができる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエス様はまさにその「ご自分のいのち」を私たちの身代わりとなって捨てて下さいました。しかもそれは神の御子のいのちです。罪の汚れが一点たりともない神の子のいのちです。私たちは多かれ少なかれ罪を持っていますから十字架で罰せられても致し方ありませんが、神の御子は違います。紙の御子イエスはそのような罪を何一つ犯したことがなく、重罪どころか軽犯罪すら犯したことがありませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反したことがありませんでした。イエスは全く罪のない完全な方なのに、十字架で死なれました。なぜでしょうか?それはあなたを救うためです。私を救うためです。私たちの罪の身代わりとなるために十字架で死んでくださったのです。これこそ「愛」です。これより大きな「愛」はありません。だから神様は私たちのことを間違いなく愛して下さっているということがわかるのです。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。

朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、彼はさらに訊ねました。「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、言いました。「あんたは、一人の男があなたのためにいのちを捨てたのに、『彼があなたを愛していたか』って聞くの?」。
私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、イエス様があなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。

Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)

次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」

並行箇所のマタイ27章44節を見ると、最初イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗は、二人ともイエス様をののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエス様をののしり、もう一人はイエス様を信じ、イエス様をののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人の強盗が変えられたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。いったい何が変わったのでしょうか。犯罪者の一人は、イエス様をののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエス様に「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と懇願しました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。

これまでも35節と37節に「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。ここでも一人の犯罪人はそのようにののしっています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していたことは何でしょうか。それは、今置かれている目の前の苦しみから救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよくあるのではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆このようにヤケクソになります。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではなく、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから下してみろ」ではなく、逆に「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってくださいと。もっとあなたの御傍近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです。そうと言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもなおあなたを知りたいのです。もっとあなたに近づきたいのです、そう言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいみことばですね。この苦しみを通してイエス様の苦しみに少しでも預かることができるならそれこそ本望だと。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエス様の似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦難を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。そのような祈りになっているでしょうか。それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。それも大切な心の叫びです。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わらないということです。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけですから。しかし、仮にイエス様がこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗は自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の解放を経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいと願うのは自然なことです。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたいのです。もっとあなたを深く知りたい。そう願うことなのです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。

私たちもそうありたいですね。苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えらなくなりますが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えたいと思います。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)

最後に、この犯罪人の願いに対するイエス様の応答を見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」

これは、イエス様が十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、その瞬間にパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、天の楽園のことを指しています。それが天国です。黙示録を見ると、実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、天国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様を信じた今日、その瞬間、イエス様は彼をパラダイスに伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束をいただいたのです。

皆さんはどうですか。この約束のことばをいただいているでしょうか。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」いや、わたしはまだ聖書を全部読んでいないから無理ですとか、もっときよめられないと無理ですと思っていませんか。でも、そうではありません。あなたが救われるためには、ただイエス様を信じるだけでいいのです。この強盗を見てください。この状態でいったい何ができるというのでしょう。何もできません。彼ができたことはただイエス様のあわれみにすがり、あなたが御国に入れられるときには、わたしを思い出してくださいと祈ることだけでした。そう祈っただけで救われたのです。パラダイス、それは神がいるところ、イエス様がともにおられるところです。そこにいることができるのです。あなたがただイエス様の十字架の御業を信じるなら、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。なぜなら、イエス様があなたの救いのために必要なすべてのことを十字架で成し遂げてくださったからです。あなたがどのような人であるかとか、あなたに何ができるかといったことは全く関係ありません。あなたがただ神の前に頭を垂れ、へりくだって自分の罪を悔い改め、神の救いを受け入れるなら、あなたも今日、イエス様とともにパラダイスにいるのです。しかし、神の側ではそのために最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。

イエス様はこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。「まことに」ということばは、原文では「アーメン」です。イエス様はご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「まことに」「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が自らの罪を認めてご自身に救いを求めたことです。もう自分では何もできないという絶望的な状態にありながらも、イエス様を信じて救われたいと真実に願い求めた姿が、イエス様を感動させたのです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認めてイエス様の救いを受け入れるのかのどちらかです。イエス様を信じて、イエス様がおられる天の御国、パラダイスに入れさせていただきましょう。イエス様は、私たちを「まことに」「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。

Ⅱ列王記4章

 

 今回は、Ⅱ列王記4章から学びます。

 Ⅰ.空の器の満たし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「1 預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」3 すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。4 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」5 そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。6 器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

ここからエリシャの預言活動が続きます。これらを読んで行くと気づくことは、エリヤに願ったとおり、エリヤの霊の二倍の分け前がエリシャに与えられていることです。エリヤの霊の二倍の分け前とは、エリヤが持っていた霊の二倍ということではなく、エリヤに働いていた同じ霊をエリヤ以上にという意味です。ですから、ここにはエリヤが行なった奇蹟と似たような出来事がいくつか出てきますが、エリヤとは異なる、対照的な奇蹟も見ることになります。

1節をご覧ください。預言者の仲間の妻の一人が、やもめとなりました。彼女の夫は借金を残して死んだため、債権者がやって来て彼女の二人の子どもを奴隷にしようとしていました。そこで彼女はそれをエリシャに訴えました。当時は、福祉制度がなく、母子家庭に対する生活保護もなく、やもめはひどく貧しい状況に陥りました。そして当時は、借金を払わない代わりに、このように奴隷になることが習慣としてあったのです。

それで、エリシャは彼女に言いました。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」

すると彼女は言いました。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」

「油」とは、オリーブ油のことです。この油は粉に混ぜてパンを焼いたり、燈火用に使ったりするものですが、その油を入れる壺が一つしかありませんでした。家の中に油の壺が一つしかないというのは、極貧の家庭であったことを表しています。

するとエリシャはこう言いました。3~4節です。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」

どういうことでしょうか。外に行って空の器を借りて来て、そのすべての器に油を注ぐようにというのです。いったい何のためにこんなことをしなければならないのでしょうか。そんなことをしていったい何になるというのでしょう。だれもがそう思うでしょう。しかし、彼女には主のことば、エリシャのことばに従うことが求められていました。彼女が集める器の数が、そのまま彼女の信仰の量なのです。家の戸を閉めるというのは、この奇跡が公にではなく私的空間で行われたとを示しています。ここがエリヤの時と違う点です。エリヤの場合は公になされましたが、エリシャの場合は個人的なレベルでなされました。

そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めると、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れました。そして、器がどれもいっぱいになったので、彼女が子どもの一人に「もっと器を持って来なさい。」と言いましたが、子供が「もう器はありません」と言うと、油がピタッと止まりました。これを霊的にも言えることです。主は私たちに生ける水である神の御霊を注いでくださると約束されましたが、渇いた心を持って主の御許に行くなら満たされますが、そうでないとピタッと止まります。満たされません。私たちの器に神の聖霊を満たしていただくためには、「もっと、もっと満たしてください」と、渇いた心をもって主の御前に進み出なければなりません。良い意味で霊的に貪欲になる必要があるのです。

彼女がエリシャに知らせに行くと、彼は「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子供は暮らしていけます。」と言いました。この一家は負債から解放されただけでなく、将来の糧まで得ることができました。このようにエリシャの奇跡はエリヤのそれと異なり、個人的なレベルで具体的な必要を抱えている貧しい人たちに対してなされたのです。イエスさまの成された奇跡に非常に似ています。

Ⅱ.シュネムの女(8-17)

次に8~17節をご覧ください。「8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」

ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入って横になった。12 彼は若者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」ゲハジが呼ぶと、彼女はゲハジの前に立った。13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『本当に、あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨折ってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか』と。」彼女はそれにこう答えた。「私は私の民の間で、幸せに暮らしております。」14 エリシャが「では、彼女のために何をしたらよいだろうか」と言うと、ゲハジは言った。「彼女には子がなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入り口のところに立った。16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」すると彼女は言った。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」17 しかし、この女は身ごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころに男の子を産んだ。」

先程は、貧しいやもめの女で、ふたりの子どもを持っていましたが、ここではそれとは対照的に、裕福で夫はいますが、子どものいない女です。

ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き留めました。「シュネム」は新改訳2017の地図には載っておりませんが第三版には載っていて、イズレエルの北10㎞に位置しています。おそらくエリシャは、サマリヤ、イズレエルのエリアを巡回していたのでしょう。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになりました。その婦人は霊的に感受性が豊かな人だったのか、ある時夫にこんな提案をしました。それは10節にあるように、エリシャのために屋上に壁のある小さな部屋を作り、彼のために寝台と机と椅子と燭台を置き、エリシャがそこに来るたびに使ってもらいましょうということでした。主に対する彼女の献身が、主のしもべに対する親切となって表れたのです。

ある日、エリシャがやって来て、その屋上の部屋に入って横になると、エリシャは若者ゲハジに、シュネムの女を呼んで来るように言いました。彼はそのシュネムの女の親切に報いたいと思ったのです。エリシャがゲハジを通して彼女に、「あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか」と尋ねると、彼女は「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と答えました。何もありませんということです。どうせなら、折角の機会なんだから、「じゃ、これをしてもらえますか」と言えばいいのにと私なら思いますが、彼女はすべてが神の恵みと受け止め、もう十分に与えられておりますと答えました。謙虚ですね。彼女はどこまで謙虚で美しい心を持っていました。

そこでエリシャは彼女にではなくゲハジに尋ねると、ゲハジは、彼女には子どもがないことを伝えます。それに、彼女の夫も年をとっていました。彼女は主に祝福されて、何の不自由もないように見えましたが、実は、心の奥底では痛みを抱えていたのです。不妊であったという痛みです。ここからわかることは、人は一見不自由でないように見えても、何らかの欠乏や葛藤を抱えているということです。もしかすると、いくら神の人であるとはいえ、この悩みを彼に言っても無駄だと思ったのかもしれません。

そこでエリシャがゲハジを通して彼女を呼ぶと、彼女は入り口の所に立ちました。するとエリシャは彼女にこう言いました。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」

すると彼女は言いました。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」あまりにも調子のいいことを言わないでくださいということです。しかし、翌年のちょうどそのころ、彼女はエリシャの言葉どおりに男の子を生みました。

子を産まない胎が命を産み出しました。神には不可能なことはありません。この誕生は私たちが経験する霊的誕生のひな型でもあります。また、私たちが想像もつかないほどの神の大いなる御業です。人にはできなくても、神にはどんなことでもできるのです。

ところが、その子供が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき事件が起こります。18~28節をご覧ください。「18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」23 すると彼は、「どうして、今日あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は「かまいません」と答えた。24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」25 こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。26 さあ、走って行って彼女を迎え、言いなさい。『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と。」彼女はそれにこう答えた。「無事です。」27 それから彼女は山の上にいる神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠し、まだ私に知らせておられないのだ。」28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」」

急に頭に痛みを覚え「頭が、頭が」と言いました。父親は若者に「急いでこの子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じると、若者はその子を抱き、母親のところに連れて行きました。そして、母親の膝の上に休んでいましたが、ついに死んでしまいました。死因が何であったかはわかりません。ある学者は日射病ではないかと考えています。

すると彼女は屋上に上がって、神の人エリシャの寝台にその子を寝かせると、戸を閉めて出て行きました。どういうことでしょうか。彼女はまだ諦めていなかったということです。エリシャなら癒すことができると思ったのです。それで若者一人と雌ろば一頭を用意してもらうように夫に呼びかけました。すると夫は、「どうして、今日あの人のところに行かなければならないのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言いました。夫は無理だと思ったのでしょう。彼はエリシャのことを宗教的行事程度にしか見ていなかったのです。すると彼女は「それでもかまいません」と言って、出かけて行きました。長々と説明して、時間を無駄にしたくなかったからです。

彼女は雌ろばに鞍を置くと、若者に命じて言いました。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」(24)シュネムからエリシャがいたカルメル山までは、片道約30㎞です。彼女はそこまで手綱を緩めることなく、急いで行きました。ここに彼女の必死さがよく表れています。「どうして、今日あの人のところに行くのか」とのん気に構えていた夫とは雲泥の差です。

エリシャは遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに、彼女と夫、そして子とでもの安否を尋ねるようにと言いました。「あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか」彼女は「無事です」と答えていますが、実際は無事ではありません。どうしてこのように答えたのかというと、やはり時間を無駄にしたくなかったからです。彼女が夫に「かまいません」と答えたように、ここでも「無事です」と答えたのです。それだけ時間がなかったということ、それだけ切羽詰まっていたということです。

それから彼女はカルメル山の上にいたエリシャのところに来ると、彼の足にすがりつきました。ゲハジは彼女を追い払おうとしましたが、エリシャは「そのままにしておきなさい」と言いました。彼女が深い悲しみに襲われていると思ったからです。ただし、その悲しみがどのようなものであるかは、まだ知らされていませんでした。

彼女はその問題について告げる前に、「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」(28)と言いました。エリシャはそのことばを聞いて、息子に何らかの危機的状況にあることを悟りました。なぜなら、それは子が与えられて死ぬぐらいなら、初めから与えなかったほうが良かったのではないかという意味のことだったからです。それでエリシャはすぐに彼女の家に向かいます。

ここでの主役はシュネムの女、あの母親です。彼女は信仰の人でした。その信仰は、神の人エリシャに会うまで沈黙を守るという形で表現されています。彼女は、自分が直面している問題を、神の視点から解決しようとしたのです。私たちにこのような信仰があるでしょうか。

次に、29~37節をご覧ください。「29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」30 その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。」

最初エリシャは、ゲハジに自分の杖を持たせてシュネムに派遣しようしました。杖は権威の象徴です。しかし、その子の母親が、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」と言いました。それはエリシャに対する絶対的な信頼を表しています。それでエリシャは立ち上がり、彼女の後について行きました。

ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置きましたが、子どもは目を覚ましませんでした。ゲハジはそこを引き返してエリシャに会うと、そのことを伝えます。そして、エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んでいました。

エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈りました。祈りに集中するためです。これもイエス様に似ていますね。それから、子どもの体の上に身を伏せて祈り続けると、子どもの体が温かくなってきました。それからエリシャは下に降りたり、部屋をあちこちと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けました。この「七」という数字は完全数ですが、これが主なる神の奇跡であることを表しています。

エリシャは母親を呼ぶと、その子を母親に返しました。彼女はエリシャ足元にひれ伏し、地にひれ伏しました。そして、子どもを抱き抱えて出て行きました。「彼の足元にひれ伏し」とは、エリシャへの感謝を示しています。また、地にひれ伏しとは、主に感謝と礼拝をささげたということです。この奇跡はシュネムの女の信仰に対する神からの答えだったのです。イエスさまの言葉を借りるなら、「あなたの信仰が、救ったのです」(マルコ10:52)でしょう。彼女は、エリシャが聖なる神の人であることを認めて、この人の祈りによっていやされるという信仰を持っていました。だから、引き下がらず、ゲハジのあいさつや、ゲハジが持っていった杖では直らないと言い張ったのです。このように、いやしや奇蹟には、双方の信仰が要求されることが多いです。いやすことができる方と、いやされると信じる信仰です。私たちはどれだけ主に信頼して祈っているでしょうか。主は癒す力を持っておられます。大切なのは、私たちが主は癒すことができると信じて祈ることなのです。

Ⅲ.毒を取り除いたエリシャ(38-44)

最後に38~44節をご覧ください。まず、41節までをお読みします。「38 エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」39 彼らの一人が食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生の瓜を前掛けにいっぱい取って帰って来た。そして、彼はそれを煮物の釜の中に刻んで入れた。彼らはそれが何であるかを知らなかった。40 彼らは皆に食べさせようとして、これをよそった。皆はその煮物を口にするやいなや、こう叫んだ。「神の人よ、釜の中に毒が入っています。」彼らは食べることができなかった。41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれを釜に投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」そのときにはもう、釜の中には悪い物はなくなっていた。」

エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こりました。そこには預言者の仲間たちがいたので、エリシャはその仲間たちに食事を提供しようと思って、若者ゲハジに命じました。煮物を作るようにと。預言者の仲間の一人が、野草を見つけ、その実をたくさん持ち帰ったので、彼はそれを刻んで釜の中に入れました。しかし、それは毒のある実でした。皆はその煮物を口にするやいなや、「神の人よ、釜の中に毒が入っています」と叫びました。するとエリシャは麦粉を持って来させ、それを釜の中に入れました。すると釜の中には悪い物はなくなっていました。

この奇跡は、エリシャの働きを象徴するものでした。イスラエルの民は主に背きバアル礼拝に走ったので、霊的ききんを経験しました。バアル礼拝は、霊的死をもたらす「毒」でした。エリシャはその「毒」を取り除き、イスラエルの民に真の霊的糧をもたらそうと献身的に主に仕えたのです。私たちが食する霊的糧の中に毒が入っているようならば、聖霊によってそれを取り除いていただきましょう。

42~44節をご覧ください。「42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。」

預言者の仲間たち百人に、大麦のパン二十個と一袋の新穀によって、満腹になるほど食事を与える、という奇蹟です。彼の召使は、「これだけで、どうやって百人もの人にわけられるでしょうか」と言いました。するとエリシャは「この人たちに与えて食べさせなさい。」と言いました。主がこう言われるからです。「彼らは食べて残すだろう。」そこで召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残しました。主が言われた通りでした。

このことからどんなことが学べるでしょうか。これに似た奇跡をイエス様も行いました。しかし、イエス様の場合はもっと大きな規模で行われました。五つのパンと二匹の魚によって男だけで五千人の空腹を満たされたのです。すなわち、私たちが信頼すべきお方は、イエス・キリストの父なる神だけであるということです。バアルの神は豊穣の神でしたが、バアルは彼らの必要を満たすことができませんでした。彼らの必要を満たすことができるのは真の神だけです。私たちは、私たちの必要を満たしてくださるイエス・キリストの父なる神だけに信頼しましょう。