ローマ人への手紙4章1~25節 「アブラハムの信仰」

きょうは、「アブラハムの信仰」についてご一緒に学んでいきたいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪を取り上げ、すべての人が神の前に罪を犯したので、神からの栄誉を受けることはできないと語ってきました。神様の御前ではだれも、何一つ誇れるものはありません。人は、救われるためにいろいろな方法を試してみたりしますが、こうした試みは、人間の罪を解決する上で何の助けにもならないのです。人間の力では決して神様のみもとに行くことはできないからです。従って人間に残されているものは絶望と落胆しかありません。しかしあわれみ豊かな神様は、そんな人間が救われるために一つの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。3章21節には、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」と語られました。神様は、イエス・キリストの十字架を信じることによって義としてくださると約束してくださったのです。  このように信仰によって義と認められることを、「信仰義認」(Justification by faith)と言います。つまり、信仰によって義とされ、救われたと見なされる、という意味です。しかし、人々はこのことを理解できないと言って、なかなか信じようとしません。救いがただで与えられるということがピンとこないのです。「ただ」ということに慣れていないからです。私たち日本人にとっては特にそうでしょう。「ただほど怖いものはない」というように、「ただ」で受けることに抵抗感を持っています。ですから「お返し」という習慣があるのです。何か自分の体を動かして、一生懸命に努力して受け取ることで、安心します。それが人間の本性なのです。

しかし、聖書では、ただ神の恵みにより、信仰によってのみ救われると教えられています。その一つの例がアブラハムです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(3:23~24)とパウロが語ると、ユダヤ人のある人たちから、「そんなことはない。アブラハムは行いによって義と認められたではないか」という疑問が起こりました。そこでパウロはこのアブラハムの例を取り上げながら、救いはただ一つ、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ与えられるということを論証するのです。

きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。まず第一のことは、アブラハムが義と認められたのは彼が神を信じたからであって、割礼やその他何らかの行いをしたからではありません。第二のことは、ではそのアブラハムの信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。それは死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる神を信じる信仰、あるいは、望み得ないときに望みを抱いて信じる信仰でした。第三のことは、その信仰とは主イエス・キリストを信じる信仰であったということです。

Ⅰ.神を信じたアブラハム(1-16)

まず第一に、アブラハムが義と認められたのは神を信じたからであって、何らかの行いをしたからではないということについてみていきたいと思います。1~16節までのところに注目したいと思いますが、まず1~3節までのところをご覧ください。

「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」

ここでパウロは、自分たちの先祖アブラハムはどうだったのかについて取り上そのています。なぜなら、アブラハムこそ自分たちの民族の源だと考えていたからです。そのアブラハムが義と認められたのはいつのことだったのか?彼が神の命令を行ったときなのか、それとも神をただ信じたときだったのか?もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば誇ることもできますが、実はそうではありませんでした。なぜなら、聖書には、「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあるからです。これは創世記15章6節のみことばです。アブラハムは約束の地カナンに入って15年が経っており、だいたい90歳になっていましたが、彼にはこどもがありませんでした。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(12:3)と約束されたのに、まだこともが与えられていなかったのです。妻のサラも80歳を越えていました。一体あの約束は何だったのでしょうか。そんなことを考えながら絶望の淵にいたアブラハムに、ある夜、主が臨まれました。神様は彼を外に連れ出してこのように言われたのです。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)人間的にはどう考えても実現しがたい約束でした。にもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。そして、主はそれを彼の義と認めててくださったのです。つまり、アブラハムの信仰が神様の心を動かし、その信仰のゆえに彼は義と認められたのです。

ユダヤ人たちは、救いは信仰によって得られるということを聞いたときにひどく反発しました。なぜなら、アブラハムは行いによって義と認められたと思っていたからです。割礼を受けなさいと命じられたときに割礼を受け、モリヤの山でイサクをささげなさいと言われたときにも、本気で彼をほふろうとした。彼はそのように行ったからこそ救われたのであって、厳しい従順の行為こそが義と認められる根拠であると信じていたのです。そんな彼らに対してパウロは、ここで、「誤解しなさんな」と言っています。聖書の順序をよく見なさいと言うのです。彼らが割礼を受けた時やモリヤの山でイサクをささげようとしたのはいつだったのか?それは創世記17章と22章にしるされてある出来事です。つまり、アブラハムが神を信じて義と認められたという出来事の後で起こったことなのです。まず信仰によって義とされてから、その検証として割礼を受けたり、イサクをささげたのです。ですからアブラハムは行いによって救われたのではなく、信仰によって救われたということになるのです。その結果、信仰の行為が生まれたのです。この順序が大切です。旧約聖書でも新約聖書でも、救いの原理はただ一つです。それは信仰によって救われるということなのです。

それはダビデを例にとっても言えることです。6~8節をご覧ください。ここには、「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」とあります。ダビデ王とは旧約聖書を代表する人物で、救い主は彼の子孫から生まれると預言されていた重要な人物です。いわば旧約聖書のキーマンとも言える人物なのです。そのダビデが罪が赦される者の幸いについて、このように告白したのでした。これはバテシェバとの罪のことで苦悩していたダビデが、神の御前には隠すことができるものなど何一つないことを知り、その罪を告白した時に体験したことです。彼の罪が赦されたのは、彼が何か善行を積んだり、償いをしたからではなく、神の御前に自分の罪を認め、告白したことによってでした。その時神がその罪を赦し、義と認めてくださいました。ただ悔い改めて、神の恵みに信頼しただけです。つまり、ダビデもまた信仰によって義と認められたのです。

ということはどういうことなのでしょうか。結論は16節です。「そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」

そういうわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に保証されるためなのです。

新聖歌233番の曲は、「おどろくばかりの」という賛美歌です。英語では、「Amazing Grace」です。「Amazing」とは「あっとおどろくばかりの」という意味です。これを書いたジョン・ニュートンは、かつて奴隷船の船長でした。アフリカから英国に奴隷を運んでいました。人間のくずのような仕事です。しかしその船で帰る途上大嵐に会い、いのちからがら助け出されたとき、そこに神の不思議な御手を感じました。イギリスに戻ってから教会に行くようになり、自分の罪の大きさとその罪をも赦してくださる神の恵みに触れたとき彼は、「Amazing Grace!」と叫んだのです。こんな者でも赦してくださる神の恵みを体験したのです。私たちが救われるのは、私たちの中に何か少しでも徳があるからではありません。そういうものとは全く関係なく、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスを信じる信仰によってのみ義と認められるのです。

人間にはじっと我慢していることができないという性質があります。ですから、何かをしてこそ、あるいは何かをがんばってこそ、安心するのです。たとえば、ここに重病の患者さんがいたとします。この方に医者が、「あなたは何もする必要はありませんよ。ただじっとしていたらいいんです。じっとしていたら治ります」とでも言うものなら、この患者さんはひどく落胆するのではないでしょうか。「ああ死ぬ時が来たんだ。だから医者はそんなことを言うんだ。もう望みはないんだ」と。その結果、病状がかえってひどくなってしまうこともあるのです。ところが治らない病気でも、消化剤を与えられ、「これで全快しますよ」と言われると、一生懸命飲んで治ろうとします。不思議なことに、治らないと思われていた病気が、それで治ってしまうということさえあるのです。それが人間の姿なのではないでしょうか。人はやさしい道を拒み、難しい道を行こうとする傾向があるのです。ですから、到底ついて行けないことを要求する宗教に、多くの人々が列をなして入って行くのです。

しかし、本当の宗教は「ただ」なんです。ただ、信じれば救われるのです。それはこの救いが神様からの一方的な恵みによるためであり、すべての人が受けることができるためなのです。昔、イスラエルが荒野で不平不満を言ったとき、それを怒られた神は蛇を送られたので、多くの人たちが蛇にかまれて死にました。そのとき神様はどうされたでしょうか。高価な薬を飲まないと救われないと言ったでしょうか?お百度参りをしたら治してやろうと言われたでしょうか?いいえ、ただ青銅の蛇を一つ造り、それを仰ぎ見なさいと言われました。そうしたら救われる・・・と。仰ぎ見ることが骨の折れることでしょうか。いいえ、簡単なことです。だれにでもできます。そして、信仰をもって仰ぎ見たすべての人が、救われました。これが信仰なのです。この信仰によって人は義と認められるのであって、自分の努力や行いによるのではありません。そのようなものによっては、私たちは神の御前に正しいとは見なされないのです。ただ神を信じること、それ以外に道はないのです。

Ⅱ.アブラハムの信仰(17-22)

では、そのアブラハムの信仰とはどのようなものだったのでしょうか。17~22節までをご覧ください。

「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

ここにアブラハムの信仰がよく説明されていると思います。ここには、彼の信じた神は、死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方、としるされてあります。そう、アブラハムは、神はどんなことでもおできになられる全能の方であると信じていたのです。

私たちの信仰は、その人がどんな神様を信じているかで左右されます。死んだ神様を信じている人は、その信仰も死んだものであり、生きておられる神様を信じている人は、その人の中に生きておられる神様のみわざがどんどん現れてきます。皆さんは自分が信じている神様が全能者であると信じていますか?今も生きておられ、できないことは何一つない方であると信じていますか。もしそうならば、何も落ち込む必要はありません。神様がともにいてくださるなら、すべてのことが可能となるからです。宗教改革者のマルチン・ルターは「神様を神様たらしめよ」と言いました。私たちが犯しがちな罪の中でも最も大きな罪は、神を小さくしてしまうことです。神様を自分の考えに閉じこめてしまい、小さなことだけを行われる方として制限してしまい、その全能のお力を認めないのです。

私たちはしばしばこのような錯覚に陥ってしまうことがあります。「神様にも難しいことはあるだろう」本当にそうでしょうか。神様にも難しいことがあるでしょうか。たとえば、神様にとって、風邪を治すことはできても、がんを治すことは難しいことなのでしょうか。いいえ。神様にとっては、風邪を治すこともがんを治すことも朝飯前のことです。簡単なことなのです。私たちの目では、風邪がいやされることよりも、がんがいやされることの方がはるかに難しいように見えますが、神様にとってはどちらも簡単なことなのです。イエス様が死人を生き返らせた時には相当長く祈られたのではないかと思いがちですが、実際はそうではありませんでした。イエス様は簡単に死人を生き返らせました。イエス様にとって死人を生き返らせることなど簡単なことだったのです。なぜなら、イエス様はこの世のすべてのものを造られた創造主だからです。目に見えるものも、見えないものも、王座も主権も支配も権威も、すべてイエス様によって造られ、イエス様のために造られたのです。(コロサイ1:16)ですから、イエス様にとってできないことは何もありません。

であれば私たちは、神様にはできないことはないと信じて、いつでも大胆に主に頼って進み出ることが必要です。私たちの周りに、どんなにかたくなな人がいたとしても、全能の神様を信じて進み出るとき、神様はその魂を救ってくださると信じることが大切です。18節を見ると、アブラハムは「望み得ないときに望みを抱いて信じた」とあります。彼はおよそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。

ルカの福音書5章には、夜通し漁をしても全く魚が捕れなかったペテロに対して、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(5:4)と言われたことが出ています。このイエス様のおことばは、人間の理屈には合わないことでした。第一に、そのときは網を投じる時間帯ではありませんでした。第二に、網をおろす場所が間違っています。魚は普通、プランクトンがたくさんいる浅瀬にいるのであって、深みに網をおろしてはいけないのす。第三に、このときはもう漁が終わり、網を片付けているときでした。そんな時にもう一度舟を出すことが、どんなに面倒くさいことだったかわかりません。第四に、ペテロはイエス様に指示される立場ではありませんでした。彼は漁師でした。漁のプロで、魚を捕る専門家でした。なぜに大工であったイエス様に「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を捕りなさい」と言われなければならないのでしょうか。大工が漁師に漁について指図するというのは見当違いに思われました。しかし、ペテロは「でもおことばですから、網をおろしてみましょう」と答えました。するとどうでしょうか。網が破れそうになるほどの魚が捕れたのです。

これが信仰です。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信するものです。(ヘブル11:1)神様が言われたことは必ずなると信じることなのです。アブラハムは信じました。神には約束されたことを成就する力があると堅く信じたのです。それが自分の感情や理屈に合わなくてもです。100歳にもなって、自分のからだはもう死んだも同然であり、サラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。この「死んだも同然」ということばは現在完了形で現されていて、「すでに死んだ」という意味です。つまりもう死んでいて、その体には生産能力はありませんでしたが、それでも、その信仰は弱まらなかったのです。この信仰が重要です。「神様のみことばを聞いていると心は熱くなるけれども、周りを見たらもう大変で、何にもならない。すべて夢のようだ」と落胆する時がありますが、アブラハムはそのような絶望的な状態を見ても、その信仰は弱まるどころか、反対にますます強くなって、神には約束されたことを成就する地ががあると堅く信じたのです。

ロサンゼルスに、有名なおばあさんがいました。このおばあさんは道を歩くとき、いつもぶづふつ言いながら歩きました。不思議に思った人が尋ねました。「おばあさん。あなたはどうしてそういうふうにぶつぶつ言いながら歩いているんですか?」するとそのおばあんが、こう答えたそうです。「あたしゃもう年をとって、神様のお仕事をすることはできないし、子孫のためにできることもないのよ。でもヨシュア記1章3節に、「あなたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ってあるから、そのまま信じて従っているの」。不思議なことに、この方が足で踏んで歩いた所には、ユダヤ人の店が立ち並び、ユダヤ人たちが不動産を取得しているそうです。

「そのまま信じて従うこと」です。自分の理屈や常識に合わなくても従うことが求められているのです。なぜなら、神様の前では、理屈や常識は無用だからです。神様が用いられるのに難しい人というのは、常識を主張する人です。「それは常識的に可能でしょうか」といつも聞く人です。また何かをしようとすると、自分の経験ばかり言う人もいます。「やったこともないのにどうしようと言うのですか」と。しかし神様は、経験のあることを私たちにしろと言っておられるのではありません。全くやったことのないことや、まだ未知の領域のことでも信仰を持って出て行き、開拓するようにと呼んでおられるのではないでしょうか。パスカルは言いました。「信仰とは理性を十字架につけることだ」と。汚染されるだけ汚染されてしまった理性を十字架に付けて、みことばどおりに信じ、従う人にならなければなりません。アブラハムはまさに、そのような信仰を持っていたのです。

Ⅲ.イエス・キリストを信じる信仰(23-25)

そして第三のことは、このアブラハムの信仰とは、イエス・キリストを信じる信仰であったということです。23~25節をご覧ください。

「しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

アブラハムの信仰とは、神は約束されたことを成就する力があると堅く信じる信仰でしたが、それは同時に、イエス・キリストを信じる信仰でもありました。というのはここに、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあったとあるからです。どういうことかいうと、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちもまた、その信仰によって救われるということです。つまり、アブラハムが信じた神とは、死人を生かし、無から有をお造りになることのできる方、すなわち、復活の主であったということです。キリストの十字架と復活を信じる信仰こそ、私たちの罪が赦され、神に義と認められるために必要な唯一の信仰であるという意味です。ですからパウロはコリント人への手紙の中で、これが私たちが救われるべき福音であると、次のように言ったのです。

「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」(Ⅰコリント15:1~5)

私たちが救われるべき福音のことばとは、十字架と復活のことばです。キリストの十字架と復活なしに、私たちの救いはあり得ません。この福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのであって、それ以外に道はないのです。キリストの十字架と復活こそ、私たちが救われるべき方法として、神が示してくださった道なのです。なぜなら、キリストが十字架で死なれたのは、私たちの罪の身代わりのためであり、キリストが復活されたのは、この十字架上で成し遂げられた御業を、父なる神様が完全に受け入れられたということの宣言にほかならないからです。アブラハムはこの信仰を持っていたのです。

一昨日、東日本を中心に大地震が起こりました。私は那須で行われていた聖書入門講座から帰り自宅にいましたが、激しい揺れに世の終わりが来たかと思ったほどです。後でテレビの報道で特に福島、宮城、岩手沿岸に大津波が襲いかかり、多くの方々が犠牲になられたことを知って、本当に悲しみで胸が痛みました。涙が出ました。そして、この福音を知らずして亡くなられた方々のことを思うと、心が痛みます。何とかしてこの福音を宣べ伝えなければならないと思いました。そのためにも私たちは、この福音のことばをしっかり保っていなければなりません。この国の人々が福音を信じて救われますように。この国の回復と復興が、福音を信じる信仰によって、神の恵みと全能の力によって為されていきますように。心からお祈り致します。

 

ローマ人への手紙3章9~31節 「救いの道」

きょうは「救いの道」についてお話したいと思います。私たち人間にとっての永遠の命題の一つは、「人間はいかにしたら救われるか」ということではないでしょうか。もちろん、この場合の救いとは貧乏からの解放とか病気の治癒、人間関係をはじめとしたさまざまな問題の解決といったことではなく、それらの問題の根本的な問題である罪からの救いのことです。人類最初の人間であったアダムが罪を犯して以来、人類はその罪の下に置かれ、罪の力に支配されるようになってしまいました。これは奴隷をつなぐ鎖のように強力なので、この鎖から解き放たれることは並大抵ではありません。いったいどうしたらこの罪の力から解放されることができるのでしょうか。

きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、すべての人は罪人であるということです。義人はいない。ひとりもいません。すべての人が迷い出て、みな、無益な者となってしまいました。第二のことは、では救いはどこにあるのでしょうか。イエス・キリストです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。ですから第三のことは、このイエス・キリストを信じ、十字架だけを誇りとして歩みましょうということです。

Ⅰ.すべての人は罪人(9-20)

まず第一に、すべての人は罪人であるということについて見ていきましょう。9~20節までに注目してください。まず9節をお読みします。

「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」    1節からのところでパウロは、ユダヤ人のすぐれたところについて語ってきました。ユダヤ人のすぐれたところは、彼らには神のことばが与えられていたということです。そこでパウロは、そうした優越性というものを一応認めたものの、それは彼らが何をしても構わないということではないと釘を打ったところで、ではどういうことなのかをここで述べます。それは、ユダヤ人もまた罪人であるということです。

パウロはここで、1章18節から異邦人の罪について、そして2章からはユダヤ人の罪を取り上げ、ここでその結論を語っているのです。すなわち、すべての人が罪人であるということです。ひとりとして例外はありません。この地上に生きた人で、この罪の下になかったのはひとりもいないのです。ただ神のひとり子であられ、聖霊によってお生まれになられたイエス・キリストだけは違います。キリストは聖霊の力によって生まれた「いと高き方の子」(ルカ1:35)であられたので、全く罪を持っていませんでした。しかし、キリスト以外のすべての人は、別です。異邦人であれ、ユダヤ人であれ、みな罪の下にあるのです。パウロはそのことを旧約聖書のことばを引用して裏付けています。10~18節です。

「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。」

本当にそうではないでしょうか。人が口を開けば毒のようなことを言って殺します。それはまさに開いた墓です。また、偽りや欺き、のろいや苦々しさで満ちています。他人が血を流して倒れているのを見ても悲しむどころか、むしろそれを見て喜んでいたりしているのです。これが人間の姿です。どうして人はこんなひどいことを言ったり、やったりするのでしょうか。罪を持っているからです。人は罪を犯したから罪人になるのではなく、罪人だから罪を犯してしまうのです。ダビデはこのように告白しました。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

ダビデは、自分が母の胎にいた時から罪人だったと言っています。母の胎にいた時から罪を持っていて、罪人として生まれてきたので、罪ある人生を送るようになったのだ・・・と。私たちはよく人の悪を見ては、「なぜあの人はあんなことをしたのだろう」とか、「この」人は本当にひどい人だ」と言いますが、それは日常的なことであり、だれにでも起こり得ることなのです。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです。

よく教会に行くとすぐ「罪」「罪」って罪のことばかり言われるから行きたくないのと言われる方がおられますが、そのような方は「罪」ということばから犯罪を連想し、罪人イコール犯罪人のこどてあり、自分はそんなにひどい人間だと思っていないからなのです。しかし、この世の法律を破った人が犯罪人であるならば、神の法律を破ってしまった人間は、この世の犯罪人以下であるはずがないのです。私たちはみな罪人なのです。

「罪」ということばはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは的外れを意味します。神によって造られた人間は、神をあがめ、神の栄光のために生きるはずなのに、その神から離れ自分勝手に生きるようになってしまいました。これが罪なのです。ですから、すべての人が罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができなくなってしまったと聖書は言うのです。聖書の言う救いとはこの罪からの救いあって、単なる前向きで、肯定的な生き方のことではないのです。この罪から解放されることによってもたらされる喜びと心の平安のことなのです。

Ⅱ.イエス・キリストを信じる信仰による神の義(21-26)

ではどうしたらいいのでしょうか。罪ある者として生まれてきた私たちには、何の希望もないのでしょうか。いいえ、まだ希望があります。それがイエス・キリストです。律法によっては、だれひとり神の前に義と認められることのない私たちに、律法とは別の、いや、律法が本当の意味であかししていた神の義が示されたのです。21~24節をご覧ください。

「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

ここには「律法とは別に」とありますから、これが旧約聖書に書かれてあったこととは別の義(救い)であるかのように錯覚しがちですが、そういうことではありません。ですからその後のところに、「しかも律法と預言者によってあかしされて」とあるのです。これは旧約聖書の時代から律法と預言者によってずっとあかしされていた救いなのです。それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」です。えっ、旧約聖書の時代にはまだイエス・キリストが登場していないのに、その旧約聖書であかしされていたとはどういうことなのでしょうか。預言です。預言という形であかしされていたのです。その時代にはまだキリストは誕生していませんでしたが、キリストを信じる信仰によって救われるということが預言という形でちゃんと示されていたのです。

たとえば、創世記3章15節などはその一つです。ここには、「わたしは、おまえと女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ということばがありますが、これは人類最初の人であったアダムを誘惑して堕落させた蛇であるサタンに神様が語られたことばです。ここで神は蛇であるサタンに、その勢力が地を這って歩くようになり、やがて蛇の頭、すなわち、サタンを粉々に打ち砕いて勝利すると宣言されました。これはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって成就しました。これはイエス・キリストの十字架と復活の型だったのです。

また、出エジプト記12章を見ると、ここにはイスラエルがエジプトから脱出した時の様子がしるされてありますが、その時神はイスラエルに不思議なことを命じました。12章5~7節です。一歳の雄の小羊をほふり、その血を取って、イスラエルの家々の二本の門柱とかもいに塗るようにというのです。いったい何のためでしょうか。しるしのためです。それは主への過越のいけにえでした。神がそのしるしを見て、滅びのわざわいを過ぎ越すためです。それは、やがて十字架に付けられて死なれたキリストを指し示すものでした。神のさばきは小羊の血を塗った家を過ぎ越していったように、イエス様の血を信じた者の上を過ぎ越されるという預言だったのです。

このように旧約聖書の時代にはまだキリストは生まれていませんでしたが、預言という形であかしされていたのです。このような預言は少なくとも350カ所、間接的な預言も含めると450カ所にも上ると言われています。A.D.400年頃のの有名な神学者と哲学者であったアウグスチヌス(Aurelius Augustinus)、「旧約は新約の中に現され、新約は旧約の中に隠されている」と言いましたが、まさにそのとおりです。旧約と新約は全然別々のものではなく、相互に結びついているものなのです。イエス・キリストを信じる信仰による神の義は律法とは別のものですが、律法と預言者によってあかしされていたものだったのです。ですから23~24節にあるように、

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

皆さん、イエス・キリストの血潮の力がなければ、罪を断ち切ることはできません。自分の意志や力では到底断ち切ることはできないのです。人間は罪を犯して以来、罪の奴隷として生きるようになり、罪の報酬である死を味わい、滅びるしかない存在となってしまったのです。それが私たち人間の姿であり、そこには絶望以外のなにものもないのです。それを認めなければなりません。しかし、この罪の力を打ち砕き、全く望みのない人間をその絶望と暗闇から救い出してくださる唯一の道が示されました。それがイエス・キリストを信じる信仰による救いです。罪のために全く無力になってしまった人間には何の為す術もありませんでしたが、そんな人間をあわれんで、神の方から一方的にその道を示してくださったのです。どんなに強い意志も、どんなに高尚な道徳も、鋼鉄のような律法をもってしても防げなかった罪の力が、イエス・キリストが十字架に釘付けされたことによって粉々に砕かれたのです。これが私たちが救われる唯一の道なのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

先日、テレビでおもしろい番組がありました。『たけしのIQ200~世界の天才が日本を救う~』!!という番組です。そこでは実質的に破綻しそうな国家予算から、外交問題、少子化、若者の就職難などの山積している現代の日本の問題を、「世界中の頭のいい人々」に解決してもらおうというもので、 今回、”世界の頭脳”の代表として登場したのが、「ハーバード白熱教室」で話題のマイケル・サンデル教授でした。そのスタジオで、ビートたけしはじめ、日本の芸能人・文化人を相手に初の授業が行われたのですが、その内容は今問題となっている相撲の八百長問題から始まり、北朝鮮の拉致問題など、多岐に渡りました。「大相撲の八百長」は悪いことなのかという問いに対して、初めは悪いと思っていた17人のゲストが少しずつ変わり、必ずしもそうとは言えないというふうに変わっていくのです。いろいろな視点から考えるということは大切だなぁと思いましたが、サンデル教授が最後に言ったことばがとても印象的でした。サンデル教授は最後にこう言って講義を締めくくったのです。「これが哲学だ。哲学には答えがないのだ。それを考えるのが大切なのだ」と。

なるほど、考えることは大切なのです。しかし、そこには答えがありません。それが哲学なのです。どんなにIQが200以上あっても、罪によって山積されたこの世の問題を解決することはできないのです。しかし、イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。ここに答えがあるのです。私たちの人類の問題の根本であるところの罪の赦しは、神の恵みによって私たちに賜ったイエス・キリストにあるのです。

Ⅲ.十字架を誇りとして(27-31)

ですから、結論は何かというと、このイエス・キリストを、十字架だけを誇りとしましょうということです。27節と28節をご覧ください。

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。どこにもありません。なぜなら、私たちが義と認められるのは、律法の行いによってではなく、信仰によってだからです。私たちはだれひとりとして、自分の善行や性格の良さ、頭の良さ、家柄や身分、社会的地位や財産の多さによって救われるのではありません。あるいは、難行苦行をしたり、あわれみ深い行いをしたから救われるのでもないのです。そのような行いの原理はすでに取り除かれました。では何があるのでしょうか。信仰の原理です。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる。これが信仰の原理です。私たちが救われるためには、神の賜物であるイエス・キリストを信じる以外に道はないのです。私たちの救いも、すべての仕事も、今置かれている境遇も、これまで成し遂げてきた業も、すべてが神の恵みであって、私たちが誇れるものなど何一つないのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

であれば私たちはが誇りとするものは、イエス・キリストの十字架以外にはありません。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。ローマ人はその帝国の民であることを誇るでしょう。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを誇ります。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、キリストは神の力、神の知恵なのです。十字架だけを誇り、十字架だけに頼り、十字架だけに生かされていく信仰、それが私たちの信仰なのです。それはちょうど光と影のようです。私たちが光から遠くなればなるほど影はだんだん大きくなり、逆に光に近づけば近づくほど、影は小さくなるように、キリストから遠く離れれば離れるほど、自分の誇りが大きくなり、光に近づけば近づくほど、自分の誇りはなくなっていくのです。

臨終を目の前にした人を見ると、私たちは皆恐れます。死とはそれほど恐ろしいものなのです。そのため私たちは、臨終を迎えようとする人に、心が安らかであるようにと話かけます。「あなたのように多くの仕事をした人はいません」「あなたは立派な方です」「どれほど多くの方があなたを称えるでしょう」そう言って慰めようとするのですが、そのようなことばが本当にその人を安心させることができるでしょうか。私はできないと思うのです。その人が何を、どれだけやったのかということは、その人の平安のよりどころにはならないからです。その人が本当に安らかになれるのは、神によって罪の赦しをいただいているという確信を持てる時ではないでしょうか。ですから、もし私がだれかの臨終に立ち会うことが許されるとしたら、こう言ってお慰めしたいと思っています。

「兄弟姉妹、イエス様があなたのために死なれました。そしてあなたのすべての罪は赦されました。今は主の懐の内に安らかに抱かれてください。」

イエス様だけが救いです。すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。「地の果てすべての人よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)ただ神を仰ぎ、キリストの十字架を誇りとして歩む者でありたいと思います。

ローマ人への手紙3章1~8節 「神は真実な方です」

きょうは「神は真実な方です」というタイトルでお話したいと思います。これまでパウロは異邦人の罪とユダヤ人の罪について語ってきました。神を知っていながらも、その神を神としてあがめないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、無知な心が暗くなった結果、してはならないことをするようになってしまった異邦人に対して、そんな異邦人をさばきながらもそれと同じようなことをしていたユダヤ人たち。彼らは自分たちが神によって特別に選ばれた者であるという誇りから形式的な律法に仕えていましたが、そんなユダヤ人たちに対してパウロは、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではなく、かえって人目に隠れたユダヤ人こそ本当のユダヤ人であり、御霊による、心の割礼こそが割礼なのだと、バッサリと斬り捨てるのでした。このようにしてパウロは、異邦人もユダヤ人もみんな罪人なのだと論じていくわけですが、その前に彼は、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのかという価値に関する疑問を取り上げながら、神がいかに真実な方であるかを語るのです。  きょうは、この神の真実について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、ユダヤ人のすぐれたところについてです。第二のことは、そのようなユダヤ人の不真実に対する神の真実についてです。第三のことは、であれば、私たちは神の真実に答えて歩んでまいりましょうということです。

Ⅰ.ユダヤ人のすぐれたところ(1-2)

まず第一に、では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何かということについて見ていきたいと思います。1~2節をご覧ください。

「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。」

パウロは2章のところで、ユダヤ人も異邦人同様に罪を犯していると述べ、ユダヤ人の場合は律法を知りながらそれを破っているのだから、律法を知らずに罪を犯している異邦人よりももっと悪いと言うと、ではユダヤ人のすぐれたところは何なのか、すなわちユダヤ人の優越性についての疑問が生じてきます。ここではその疑問について答えているのです。このように自問自答する話法をディアトリベーというそうですが、ユダヤ教の教理問答ではよく行われていたようです。

これに対してパウロは何と答えているかというと、「大いにあります」と答えています。どういう点で?それは、彼らには神のことばがゆだねられているという点においてです。これはシナイ山で神がイスラエルに十戒を与えた出来事を表しています。申命記4章12節を見ると、「主は火の中から、あなたがたに語られた。」とあります。神ご自身がイスラエルに語られたのです。このような民は他にはありません。これは、イスラエルにとって何よりも大きな特権でした。彼らには約束の地カナンが与えられましたし、またソロモンの時代には世界で最も栄え、数々の建物を造ましたが、彼らにとって最もすばらしい特権と祝福は何だったかというと、この神のことばがゆだねられていたことです。これは他のどの祝福にも優ったすばらしい賜物です。ですからここには「第一に・・・」と言われていながら、第二がないのです。「第一に・・・」しかありません。これが最高の祝福だからです。この特権は、他の国にはゆだねられませんでした。他の国々はイスラエルを通してみことばを聞かなければならなかったのです。そういう意味でイスラエルは、神と人とを橋渡しする祭司の特権が与えられていたのでした。どうしてこれが特権なのかというと、祭司だけが神に近づくことが許されていたからです。神はその祭司であるイスラエルにご自身のことばを与えてくださったのです。彼らにはバビロンやペルシャのような大帝国になったり、ローマのような強力な軍隊を持つような力はありませんでしたが、そのようなものよりもはるかに力がある神のことばが与えられていたのです。

イスラエルの長い歴史の中で、彼らの祝福を一言でまとめることができるとしたら、それはこの神のことばを受けた国であるということに尽きるのです。永遠のまことの神を知ること以上に大いなる祝福はないのですから、イスラエルほど祝福された国民はないのです。神ご自身に関する知識は他のいかなる真理よりも明るく輝くのであれば、イスラエルはギリシャの哲学やローマの法学、中国の政治の知恵よりもはるかに優って富んだ宝を所有していたと言えるのです。端的に言うならば、イスラエルは全ての国々の上に高く上げられた民族なのです。これほど偉大な特権と祝福をいただいている民は他にはいません。

そして、実は私たちにもその神のことばが与えられているのです。この聖書です。「聖書はすべて神の霊感によるもので、・・・」(Ⅱテモテ3:16)とあるように、聖書は神のことばなのです。その神のことばが与えられているのです。今から150年前、200年前はそうではありませんでした。いや、その頃にも確かにありましたがまだ日本語に訳されていなかったので、ラテン語とか、英語で読まなければなりませんでした。今の日本語の翻訳にはまだまだ足りない点や問題点もありますが、それでもラテン語やギリシャ語で読むよりはずっとわかりやすいはずです。皆が自由にみことばを読めるということは、本当に大きな祝福なのです。

1450年頃までにはヨーロッパにも印刷機がありませんでしたので、書物はどれもみな大変貴重なものでした。教会には聖書がありましたが、信者はそれを自由に持つことはできませんでした。博物館にある聖書を見たことのある人もおられると思いますが当時の聖書は非常に大きな書物で、すべて手書きで書かれてあり、それに鎖までかけられていました。盗まれないようにするためです。教会に来て何を盗むかって?昔は聖書でした。今では「どうぞ聖書を読んでください」とただで配っても、「い~らない」なんて言って、ゴミ箱に捨てる人もいますが、昔では考えられないことでした。盗まれないように鎖をかけて、宝のように大切に保管しておいたのです。それでクリスチャンはいつ聖書が読めたかというと、普通は日曜日の礼拝でしか聞けなかったのです。ですから、礼拝では牧師はみことばを長く朗読しました。今でも昔の伝統を守っている教会に行きますと、毎週旧約聖書と新約聖書の読む箇所が決まっていて、牧師がそれを拝読するのです。教会員には聖書がなく、他の時には聞く機会がなかったので、日曜日にみことばそのものをたくさん読んであげなければならなかったのです。そのようにして、信者たちはみことばを聞くことができたのです。それほど貴重でした。ですから、昔の教会ではみことばが朗読される時には会衆は全員立って聞いていたそうです。礼拝は2~3時間続けられましたが、彼らは礼拝のために教会に入った時から終わって出て行く時まで、ずっと立ちっぱなしで礼拝したのです。座る場所はありませんでした。石材で作った建物なので冬はかなり冷える会堂でしたが、ずっと立ったままで礼拝を守ったのです。それほどにみことばを慕い求めていたのです。みことばが少ない時代、信者たちのみことばを求める心は非常に強かったと言えると思います。

私たちは、いつでも聖書を読むことができます。家には何冊も聖書があるでしょう。一冊しかないというのではなく何冊も、しかも日本語だけでなく英語や他の訳のものもあるでしょう。そうした恵まれた時代に生かされているのです。であれば私たちは、このような恵みに感謝して、これをむさぼり読みながら、神のみこころを求め、神に聞き従う者でありたいと思うのです。ユダヤ人のすぐれたところは、この神のことばが与えられていたことでした。

Ⅱ.神は真実な方です(3-4)

次に3~4節をご覧ください。ここには、「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。

ユダヤ人にはそのように神のことばが与えられていたとしてももしそれに従わなかったとしたらどうなるのて゜しょうか。結局のところ、無駄になってしまうのでしょうか。絶対にそんなことはありません。なぜなら、たとえすべてのユダヤ人が不真実であっても、神は常に真実な方であられるからです。神は彼らにみことばを与え、もしのみことばに聞き従うなら、神の宝の民となるという約束をしてくださいました(出エジプト19:5~6)が、イスラエルはこの神のみことばに聞き従ったかというとそうではありませんでした。これを破り続けてきたのです。ではこの約束は全く意味がなかったのでしょうか。絶対にそんなことはないのです。なぜ?彼らが不真実でも、神は常に真実な方だからです。人間の場合はそうではありません。平気で約束が破られ、裏切ります。「ブルータス、お前もか」ということばは有名ですが、シーザーは愛する養子の背信に直面して、「ブルータス、お前もか」と叫ばすにはいられませんでした。世の中はそういうものなのです。血を分けた、すべてを与えた人であっても、最後には裏切って離れていくこともあるのです。これがこの世であり、人間の姿なのです。しかし、神はそうではありません。神はどんなことがあっても約束を破られる方ではありません。そこに神との契約の確実性があるのです。ですからそれは一方的な神の祝福の約束であって、私たち人間の不信仰や不真実によって無効になることはないのです。イエス様は次のように言われました。

「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることはありません。」(マタイ24:35)

キリストのことば、神のことばは、滅びることがありません。必ず成就するのです。また、イザヤ書46章3~4節にも、次のような約束が記されてあります。

「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

胎内いる時からになわれているだけでなく、年をとっても、いや、しらがになって、背負われるというのです。これが神の約束です。ここに神の真実が表れています。神の真実は、私たちの不真実によって無効になるようなものではないのです。神の賜物と召命とは変わることがないからです。(ローマ11:29)

何度か紹介しましたが、マーガレット・パワーズという人が書いた「あしあと」(フット プリント)という詩は、このことを私たちに思い起こさせてくれます。 ある夜、わたしは夢を見た。 わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。 暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。 どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。 ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、 わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。 そこには一つのあしあとしかなかった。 それは、わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。 このことがいつもわたしの心を乱していたので、 わたしはその悩みについて主にお尋ねした。 「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、  あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、  わたしと語り合ってくださると約束されました。  それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、  ひとりのあしあとしかなかったのです。  いちばんあなたを必要としたときに、  あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、  わたしにはわかりません。」 主は、ささやかれた。 「わたしの大切な子よ。  わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。  ましてや、苦しみや試みの時に。  あしあとがひとつだったとき、  わたしはあなたを背負って歩いていた。」

二組のあしあとがずっとあったのに、途中で一組しかない。考えてみるとそれは自分の人生の中で最も辛く、悲しく、苦しい時でした。最も神を必要としていた時に限って、一組しかないのです。「主よ。なぜあなたはその時にいてくださらなかったのですが。」それは、いてくださらなかったのではないのです。むしろ一緒におられたのです。そして、ずっと一緒に歩いていてくださった。あしあとが一つしかなかったのは、それは主があなたを背負っていたからだ・・と。

本当に感動的な詩です。私たちは何度も何度も背負われて来たのだと思います。そして、これからも同じことをしてくださるのです。激しい試練に遭うとき、もう神に見捨てられたのではないかと思うような時でも、主は私たちの側にいてくださるのです。主は決してあなたを裏切るようなことはなさらないのです。あなたが不真実でも、主は常に真実であられます。ですから、決して人生をあきらめてはなりません。決して失望してはならないのです。

Ⅲ.神の真実に答えて(5-8)

ではどういうことなのでしょうか。ですから第三のことは、この神の真実に答えて歩んでまいりましょうということです。5~8節です。

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか―私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。―もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

このようなことを申し上げると、中には、「そのように、もし私たちの不真実が神の義を明らかにするのであれば、その神の栄光を現すために、どんど悪いことをしようではないか」と言う方がおられます。そのことに対してパウロは、絶対にそんなことはないと答えています。このような浅はかな考え方は、神を人間と同じ世界に引き下げているものであって、神が絶対者であって、さばき主であるということがわかっていないからなのです。私たちの神様はこの世界を造られただけでなく、この世界を動かしておられる方です。そして最後に、この世界をさばかれる方でもあられます。このさばき主の前には、このような論理は通用しないのです。いや、それは人間の社会においても、決して通用しないものでしょう。たとえば、泥棒がいることによって警察官は成り立っているのだから、警察官は泥棒を逮捕すべきではないし、むしろ感謝すべきだといった主張が通用するはずがありません。同じことです。であれば、このような神の真実によって、その一方的な恵みによって救われたのではあれば、この神の真実、神の恵みに答えるような生き方を求めていかなければなりません。キリストの恵みによって救われたのだから、どんな生活をしても構わないのだと考え、なおも罪深い生活を続けるようなことがあるとしたら、そこにはもはや神の恵みは残されてはいません。そのように論じる人が罪に定められるのは当然なのです。もし神の私たちに対する真実、その恵みがどれほどのものであるかを本当に理解していたら、そんなことは決してできないはすですから・・。ローマ人への手紙5章15節に、

「ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」

とあります。皆さん、神の下さる恵みは、多くの人々に満ちあふれるているのです。神様の恵みがどれほど大きいかがわかるでしょう。私たちは、「こんなことも助けてくださるんだろうか?」と疑いながら祈ることもあるでしょう。にもかかわらず神様は、私たちの思いや期待をはるかに超えて、溢れるばかりに恵みを注いでくださいます。ダビデは詩篇23篇でその恵みを、「私の杯は溢れています。」(23:5)と表現しました。ペテロは夜通し漁をしても一匹の魚も捕れなかったとき、主から「深みに漕ぎだして網を降ろしなさい」と言われその通りに降ろしてみると、網が破れるほど多くの魚を捕ることができました。(ルカ5章)ヨハネの福音書2章には、カナという所で行われた結婚式の記事が出てきます。そこでイエス様は、一本や二本のぶどう酒をお造りになられだのでしょうか。いえいえ、庭にあった大きな石がめ六つに、溢れるばかりにぶどう酒で満たしてくださいました。ヨハネの福音書6章には、五つのパンと二匹の魚の奇跡が記されてありますが、大群衆の腹ぺこのお腹が、かろうじて満たされる、飢えをしのぐ程度にしか満たされなかったでしょうか。いいえ。男だけ五千人にもの人たちがお腹いっぱい食べてもなお十二のかごが残るほどに恵みを注いでくださったのです。これが神様の恵みです。イエス・キリストを信じて、その恵みの中にいる人たちは、どこに行っても、その杯は溢れるのです。神様が注いでくださる恵みがあまりにも大きいのです。であれば私たちは、「だったらもっと罪を犯そう」ではなくて、恐れとおののきをもって、この主の真実に答える者でありたいと思うのです。

ある中国の家の教会の指導者の証です。私はこの方の説教を二度聞いたことがありますが、まさに火を吐くようなメッセージでした。 「私は、1948年に17歳で主の召しを受け聖書学校に入りました。卒業後は華東地区という地区の教会で伝道者として奉仕していました。しかし、1955年に教会が国が支配する教会に加入しなければならなくなってしまったため、主の導きにお従って辞職し教会を離れました。そして、自由な立場の伝道者として仕え始めました。そのため3年後には「反革命活動」の現行犯として逮捕され、労働改造農場で23年間過ごしました。  1981年に、海外への出国申請が認められたため、労働改造所を出ることが許され、1982年にはアメリカへ移住。その後まもなくして、人民裁判所により名誉回復通知書を正式に受け取りました。  アメリカに移住後は仕事をしながら神学を学び、並行して2教会で奉仕を続けました。1988年に神学校を卒業し、フルタイムの奉仕に入りました。中国の家の教会に仕える働きです。思い返すにつけ、父なる神の導きは実に不思議なものです。それはまさに、 「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5b)「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。」(詩篇84:6) とみことばで語られている通りの体験でした。神様に感謝しました。  あっという間に私も80歳の老人の列に加わるようになりました。ガンの末期という重い病気にもかかりましたが、神様の恵みは至れり尽せりです。十分な治療の機会を与えてくださり、病を癒して、命を留めてくださいました。 「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」(詩篇150:6)  私の救い主、わが神、いのちの主よ。あなたの道とお心を私は知っています。 「 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩篇63:3)  選ばれた民に主はこう語っておられます。 「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:3~4)  愛する主よ。私はこの事を特にあなたにお祈りします。 「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者につげ知らせます。」(詩篇71:18) 「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」(詩篇48:14)  「生きる限り、必ずや前線に立ち続けよう」と、かつての盟友と励まし合いました。主よ。私たちはあなたのご真実ご慈愛を仰ぎます。  残り少なくなった私たちこの世代の働き人のために、どうぞお祈りください。信仰と愛と忠実さをしっかりと持ち続けて、清い晩年を全うし、主にまみえることのできますように、神よ、私たちをお守りください。アーメン!」

これぞ主のご真実に答えた生き方ではないでしょうか。主の恵みは溢れているのです。主はどんなことがあってもあなたを裏切ることは決してありません。この主のご真実の前に、息ある限り、信仰と愛と忠実さをもって仕えていく。それが私たちに求められていることなのです。

 

ローマ人への手紙2章17~29節 「本当のユダヤ人」

きょうは「本当のユダヤ人」というタイトルでお話したいと思います。パウロは1章の後半部分から、人間の罪について語ってきました。それは神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないばかりか、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心が暗くなって、してはならないようなことをするようになったということです。そうした人間の不敬虔と不義とに対して、神の怒りが天から啓示されるようになりました。    では、一方のユダヤ人はどうかというと、彼らはそうした異邦人を見下し、裁いていましたが、実は彼らも、そのようにさばきながら、自分たちもそれと同じようなことを行っていたのです。彼らは神に選ばれた民であることを良いことに、その特権と恵みに甘んじて、多少の問題があっても神は大目に見てくれるだろうと錯覚していたのです。そうしたユダヤ人たちに対してパウロは、そんなにこと断じてない、神はえこひいきなどしない方であり、その終わりの日に、その人の行いに応じて報いをお与えになられると言ったのです。

きょうのところはその続きでありますが、このところにもユダヤ人の罪が暴露されています。パウロはこれまでもユダヤの罪を取り上げて語ってきましたが、それまではあからさまに「ユダヤ人は・・」という言い方をしないで、「すべて他人をさばく人よ」(2:1)とか、「艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも・・」(2:9)というように、一般化して語ってきました。しかし、ここからははっきりとそれがユダヤ人に対してであるということがわかるように名指しでその罪を指摘し、彼らがどういう点で間違っていたのかを示すのです。すなわち、彼らは自分たちは神に選ばれたユダヤ人だと自負してはいるが、本当のユダヤ人ではないということです。では本当のユダヤ人とはどういう人のことを言うのでしょうか。

きょうはこのことについて三つの点でお話したいと思います。まず第一のことは、ユダヤ人たちの誇り、プライドについてです。第二のことは、そうしたユダヤ人たちの問題についてです。ですから第三のことは、本当のユダヤ人というのは外見上のユダヤ人のことではなく、心から神に従って生きる人たちのことであるということです。

Ⅰ.ユダヤ人たちの誇り(17-20)

まず第一に、ユダヤ人たちの誇りについて見ていきましょう。17~20節までをご覧ください。

「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」

ここにはユダヤ人たちの誇りがしるされてあります。彼らの誇りは中途半端なものではありませんでした。なぜなら、第一に、彼らには律法が与えられていたからです。神様は彼らに啓示をなさり、みことばを下さり、他の多くの民族にみこころを証する使命を下さいました。第二に、18節にあるように、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法によって教えられわきまえていました。ユダヤ人たちは、神様からみことばが与えられていただけでなく、そのみことばによって教訓を受けていました。彼らは小さな頃からみことばの養育を受けていて、成人式を行う12歳前には、すでにモーセ五書といって聖書の最初の五つの書を暗記していたほどです、神様のみことばによって考え、判断する訓練が小さい頃から身に付いていたのです。他の人が外側しか見れない時でも、ユダヤ人だけは本質を見ることができました。それはそうした神のことばによって訓練されているからです。ノーベル賞受賞者の23%がユダヤ人だと言われていますが、それはまさに、幼いときからみことばによって訓練を受けてきたことによる祝福なのです。小さい時からみことばによって訓練されるということはすばらしいことなのです。よく「私はクリスチャンホームに生まれ育って息苦しかった」と言われる方がいますが、とんでもない、それは最も大きな祝福なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、幼い頃からそれを学んできたので、神様のみこころは何か、なすべきことが何であるかを知っていたのです。それゆえに彼らは、そうしたことを知らない霊的盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認していたのです。

おそらく、この世に存在する民族の中で、もっとも誇り高き民族はユダヤ人でしょう。彼らは、自分たちは神様から特別に選ばれた民であって、いつも世界の歴史の中心にいると考えていました。そういう選民意識の虜になっていたのです。そしてそうでない人たち、異邦人を一段低い者と見なしていました。それは異邦人を「犬」と呼んでいたことからもわかります。当時のラビと呼ばれていた教師たちが書いた文章を見ると、「なぜ神様はこの地に異邦人を置かれたのか?それは地獄の燃料のためだ」と記されているほどです。時折、ユダヤ人たちが真っ赤な色の奇妙な帽子をかぶっているのをテレビなどで見ることがありますが、この帽子は自分たちが神様の選民であるという身分表示だからなのです。この帽子にどれほどのプライドをもっていたかというと、戦争が起きても鉄かぶとの下にその帽子をかぶって行軍したほどです。

人はそれぞれ誇りを持って生きています。誇りを持っていない人などいません。みんな何らかの誇りを持って生きているのです。そして、正当な誇りというのは私たちの人生に益をもたらしてくれます。そのような誇りは、時には自信を与え、所属意識を持たせてくれるからです。私は保護司をしてますが、ちゃんとバッジと身分証明書があります。今まで一度たりとも使ったことがありませんが、なぜこんなものを作って渡すのかというと、それは所属意識を持たせるためなのです。保護師としての自覚と責任をしっかりと持ちましょうということなのでしょう。会社ではロゴのついて制服の着用を義務づけますが、それも所属意識を持たせるためです。このような正当な誇りは私たちの人生において良い役割をもたらしますが、しかしこのような誇りが、時として自分の果たす役割を邪魔したり、将来をダメにしてしまうことも少なくありません。    たとえば、過去の学歴や経歴を誇るあまりに、職場で少しでも気にくわない処遇を受けたりすると、「おれを誰だと思ってるんだ!」とか、「何でおれがこんなところで働いていなければならないんだ」といぶかり、すぐに会社を辞めてしまう人がおられるということを聞いたことがあります。それはこの誇りが邪魔をしているからなのです。自分の知ってる人がテレビにでも出ようものなら、「おれはあいつのことを知ってるが、昔は大した人間じゃなかったんだ」とか、「あいつは学生時代は全然勉強ではなかったのに」とかと言って、豪語したりするのです。じゃ本人はというと、そうしたプライドが邪魔をしてなかなか前に進めずもがき苦しんでいたりしているのです。

このような誇りはむなしいものであり、人を生かすものではなく殺します。プライドが強くなりすぎると病的な高慢に陥るのです。こういう誇りは何の助けにもならないどころか、人生をだめにしてしまうのです。まさにユダヤ人の誇りはむなしく、腐ったものでした。どういう点で、彼らの誇りは腐っていたのでしょうか。

Ⅱ.ユダヤ人たちの問題(21-24)

21~24節をご覧ください。ここには、「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。」とあります。

彼らの問題は、神から律法が与えられ、何をすべきかを知っていながら、それを行っていなかったことです。人に盗むなと説いておきながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌いながら、神殿のものをかすめ取っていたのです。律法を誇りとしていながら、その律法に違反していたわけです。

これは、イエス様を長い間信じているクリスチャンの問題にも通じます。よく「あなたはイエス様を信じているんですか」と尋ねると、「うちの父親は牧師でです」という人がおられます。「そうじゃなくて、あなたはイエス様を信じているんですか」と聞き直すと、「親戚にクリスチャンが多いんです」とかとチンプンカンプンな答えをされる方がおられるのです。「そうでゃなくて、あなたはどうなんですかということを聞いてるんです。あなたはイエス様を信じているんですか」すると、「信じていない」と答えます。これが問題です。このような人は、イエス・キリストの十字架の血潮を信じて救われているのではありません。親戚にどれだけクリスチャンがいるかとか、両親が熱心なクリスチャンであるかどうかで、その人が救われるのではありません。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じているかどうかなのであって、そのような外見上のことが問題なのではないのです。

ユダヤ人たちが持っていた最高の誇りは、自分たちがアブラハムの子孫であるということでした。しかし、そんな彼ら対してイエス様は次のように言われました。ルカの福音書3章8節です。

「それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」

この意味は、血統など信じないで、心から神様を信じなさいということです。皆さん、今なおこのような外見上のものに頼って、誤った確信を持っている方がおられるのです。しかし、大切なのはそうした血筋や父母の信仰ではなく、自分自身がイエス様を信じているかどうかです。ヨハネの福音書1章13節に、

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

とあります。イエス様を信じ聖霊によって証印を押されるまでは、どんな人であっても救いを得ることはできないのです。父母の信仰の遺産をよく受け継ぐなら、それは自分の財産になります。それはいくらでも誇れるでしょう。「私の家は三代にわたって主に仕え、今も熱心に仕えている。」これはすばらしい恵みです。しかし、その血統に頼り、信仰の中身がないとしたら問題です。ユダヤ人たちは盗むなと言いながら盗み、姦淫するなと言いながら姦淫し、偶像を忌み嫌うと言いながら偶像崇拝のようなことをしていたのです。中身がありませんでした。彼らの宗教は外見だけの宗教だったのです。

今はすべての権威が崩れ行く時代です。ある家で、あまりにも勉強しない息子に父親がこう言いました。「おい。少しくらいは勉強したらどうだ。リンカーンはおまえの年で独学で弁護士になったんだぞ」すると息子は何と言ったでしょうか。「何言ってんだよ。リンカーンはお父さんの年に大統領になったんだよ」。訓戒を与えようとする父親に対して、あんたなんかにそんなこと言われたくないと言って反発するのです。何が問題なのでしょうか。中身がないことです。口先だけで生きていることです。親が本気になってその生き方を見せるときだけ、語ることばに力を持つのです。これは親だけでなく学校の教師でも誰でも、人を指導する立場にあるすへての人に言えることでしょう。子どもたちに、「神様のみことばは重要だ」と何百回言っても、自分がそのみことばに生きていなければ力がありません。子どもたちは両親が何を重んじているかをちゃんと見ているのです。教会学校の聖書クイズで一番になったと報告しても、親は特に反応はしないでしょう。しかし、学校のテストで成績が一番になったと聞いたら、もう大騒ぎです。友達や親戚中に話して回るのではないでしょうか。そうすると知らず知らずのうちに子どもの心に、「お父さんとお母さんは、神様を信じて従うことが一番大切だとは言うけれども、実際は学校の成績が一番になることを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして、礼拝や教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃという意識が宿るようになるのです。私たちが何を言うかではなく、どのように行うかという実際の生き方が子どもたちに植え付けられるのです。

重要なのは聖書をどれだけ知っているかということではありません。重要なのは、それをどれだけ行っているかです。その生き方なのです。ユダヤ人は神から律法が与えられ、神のみこころは何なのか、何をなすべきなのかということを知っていながら、あるいはそれを教えていながら、自分ではそれを行っていませんでした。それが問題だったのです。そのようにして彼らは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間でけがされている」というみことばのとおりになってしまいました。

Ⅲ.本当のユダヤ人とは(25-29)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから第三のことは、心から神を信じ、御霊によって生きましょうということです。25~29節をご覧ください。

「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」

パウロはここで、割礼の問題を取り上げています。割礼とは、男子の性器の先端の皮を切り取ることです。それは神の民であるユダヤ人のしるしであり、救いのしるしでした。割礼のない者は地獄に行くと、ユダヤ教のラビたちが教えていました。それほど、割礼は、ユダヤ人たちにとって重要なものだったのです。その割礼についてパウロはここで何と言っているでしょうか。パウロはこう言うのです。割礼を受けているかいないかが重要なのではなく、律法を守っているかどうかが重要なのだ・・・と。すなわち、外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではない。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人なのであり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼なのです。どういうことかというと、信仰というのは、内面性が重要であるということです。信仰が堕落すると、外的、儀式的なことが強調されるようになり、それに力を入れ始めるようになるのです。しかし、信仰において重要なのはその内容であって、御霊によって、心から神を信じ、神に仕えていく生き方なのです。

しかし、それはユダヤ人だけのことではありません。私たちもややもするとこうしたユダヤ人たちと同じような傾向に陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。たとえば、洗礼を受けさえすれば救われるといった考えです。洗礼を受けることは大切なことです。なぜなら、それは神のみこころだからです。しかし、洗礼を受けるということが天国に行けるという保証ではないのです。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」(マルコ16:17)と聖書にあるように、信じることが重要なのです。それは継続を表しています。信じ続けること、何があってもイエス様にとどまり、イエス様に従って歩んで行きますという決心です。すなわち、信仰の内面性なのです。心の中まで見通される神の前に立ち、へりくだって神を仰ぎ、神を慕い求め、神のみこころにかなった歩みをしていきたいと願う心です。その時、その誉れは、人からではなく、神から来るのです。

アメリカにロバート・ファンクさんというアメリカ最大の牧畜業を営んでおられる方がおられます。この方はプロのホッケーチームのオーナーもしておられる方ですが、とても熱心なクリスチャンです。しかし、最初から熱心だったのかというと、そうではありません。  この方はお母さんがクリスチャンであったことから、小さい頃からいつも教会に連れて行かれました。ところが学校を卒業してビジネスに入ったとたんに、仕事が忙しくなって教会に行かなくなってしまいました。それでも彼は、20年以上も教会に通っていたのだから、自分ではクリスチャンだと思っていました。そして、聖書のこともよく知っていると自慢していたのです。  そんなある日、仕事の仲間に誘われてビリー・グラハムという有名な伝道者の集会に出かけて行きました。その集会には何万人も集まって来るので普通の建物ではなく、野球場で行われていました。何万人という多くの人々の中の一人として、彼は聖書の話なら大抵知っているという思いで聞いていたのです。  ところが、ビリー・グラハムの語る一つ一つの言葉が、彼の心に新鮮な響きをもって響いてきました。そして、自分は今までクリスチャンだと思っていたけれども、もしかすると違うのではないかと思うようになりました。というのは、ビリー・グラハムが次のように言われたからです。 「本当の信仰とは、何年教会に通っているとか、聖書をどれだけ知っているかということではなく、生ける神と個人的な関係が築かれているかどうです。」  そのとき彼は考えました。神様との個人的な関係?考えてみたら、自分は何年も教会に行って、聖書のこともよく知っているけれども、神様と個人的な関係を持っているだろうか?もしそれが本当の信仰だと言うのなら、自分にはそれがないのではないか・・・と。そして、何千人の人たちともに、イエス・キリストを主として信じて受け入れ、イエス・キリストを中心とした生き方が始まったのでした。

Ⅱコリント5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」というみことばがあります。この「だれでもキリストのうちにあるなら」ということばを、モファットという聖書学者は、「だれでもキリストに信頼するなら」と訳しています。つまり、たとえクリスチャンでも、キリストに信頼しないなら、キリストに信頼することを忘れていたら、新しく造られたものとしての人生を歩むことはできないのです。「新しく造られた者」とは、十字架につけられたイエス・キリストを信じて、神の子として新しく生まれることであり、その御霊によって、御霊に信頼して、日々、生ける神と個人的な関係を持って歩む人のことなのです。どんなにみことばを知って、暗唱していても、そのみことばにあるように、イエス様を信じ、御霊に従って、謙遜に歩む者でなければ意味がないのです。

大切なのは、新しい創造です。それこそ真のイスラエルなのです。どうか、自分の知識、経験、能力といった外見だけのむなしい誇りを捨てて、イエス・キリストを信じ、その御霊によって、日々、神に従って歩んでください。そのとき、主が驚くべきみわざを成してくださることでしょう。この基準に従って進む人こそ神のイスラエル、本当のユダヤ人なのです。神はこのような人を求めておられるのです。

 

ローマ人への手紙2章1~16節 「神のさばきの日に備えて」

きょうは「神のさばきの日に備えて」というタイトルでお話したいと思います。1章後半のところでパウロは、神を神としてあがめず、感謝もしない人々に対して、神の怒りが天から啓示されていると語りました。それは特に異邦人に対してでありましたが、それは異邦人だけでなく、神の選民であるユダヤ人に対しても同じです。きょうのところには、そのユダヤ人の罪に対する神のさばきについて述べられています。きょうはこのユダヤ人に対する神のさばきについて、三つのポイントでお話ししたいと思います。第一のことは、神は正しくさばかれる方であるということです。第二のことはその理由です。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。第三のことは、ですから神のさばきの日に備え、悔い改めてイエス・キリストを信じ、神のみこころにかなった歩みをしましょうということです。

Ⅰ.神は正しくさばかれる(1-5)

まず第一に、神は正しくさばかれる方であるということについて見ていきたいと思います。ここにはユダヤ人の罪に対する神のさばきが述べられています。それは他人をさばいてしまうことです。1~5節までのところに注目してください。まず1節です。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」

異邦人の場合は、自分が罪を犯しているだけでなく、罪を犯している人の姿をみて、それを行っている人に心から同意しているのですが、では選民ユダヤ人はどうかというと、そのように罪を犯している人をさばきながら、自分自身も同じこと(罪)を行っていました。いわゆる「善人意識」です。彼らは、自分は正しい者だと思い込み、他の人をさばいたのです。他のことばで言うと、みことばを自分に適用するのではなく、他人に適用していたわけです。

自分が正しいと思っている人は、罪の話をしてもなかなかその心に響きません。自分には関係ないと思っているからです。1章に出てきた神の怒りと刑罰について聞いても、目の色一つ変えないでしょう。なぜなら、そのみことばは罪人たちに語られたことばであって、自分に対してではないと考えてしまうからです。善人意識をもっている人の問題はここにあります。罪の話は全部他人のことだと思うので、有罪宣告をなさる神の前に膝をかがめることができないのです。ですから、そのような人の信仰生活には悔い改めがありません。その結果、信仰が実に淡々としたものとなってしまい、罪が赦されという感激がないのです。私たちの信仰が成長していくために必要なことは悔い改めです。罪の自覚と悔い改めがあるところに神の聖霊が臨み、信仰的に、人格的に成長していくことができるのできるのですが、悔い改めがないと、なかなか成長していくことができません。

よく説教をしていると、その語ったみことばに対して反応を示してくださる方がおられます。牧師として、語ったみことばに対してそのような反応があるというのはうれしいことです。語ってもうんともつんともないと、「あれっ、きょうの説教はあまり響かなかったかな」とか思って悩むこともあるのですが、後で何らかの反応があると、少なくともその人の心には届いていたんだと安心するのです。ところが、中にそのみことばを自分にではなく、他の方に適用される方がおられます。「先生、今日のお話はとても恵まれました。今日の説教は○○さんにぜひとも聞いてほしかったですね。来られなくて残念です。」と。この方にとってみことばは、自分に適用するものとしてではなく、他の人に適用するものとして聞いていたのです。このようなことは意外と多いのです。たとえば「妻は夫に従い、夫は妻を愛しなさい」と説教すると、それを自分に適用しないで、相手に適用してしまうのです。「ねえ、あなた聞いた?今日牧師さんが、夫は妻を愛しなさいと言ったでしょ。なのにあなたは一体何よ」と食ってかかるのです。すると夫も夫で、「おまえこそ、妻は夫に従えとあっただろう。なのに服従のかけらさえないじゃないか」と言い返すのです。神のみことばが夫婦喧嘩の火種になってしまうこともあるのです。それを自分にではなく他の人に適用してしまうからです。

皆さん、みことばは他人に適用するものではなく、自分に向かうもの、自分を変えるものとならなければなりません。祝福とは何でしょうか。祝福とは、神のみことばを聞くとき、それによって自分の心に悔い改めの心が生じることです。心が刺されるという思いをすることなのです。ペンテコステの時、ペテロが説教を聞いた人たちは、どんな態度をしたでしょうか。

「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(使徒2:37)

彼らは心を刺され、「兄弟たち、私たちはどうしたらいいのでしょうか」と言ったのです。それを他の人に適用するようなことはしませんでした。「そうだ。祭司長たちは悔い改めるべきだ」とか「これはパリサイ人たちに必要なことだ」とか、そのようには言わず、これを聞いて心を刺され、みことばの前に自分の罪を告白したのです。そのとき、ペテロもはっきりと言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(同2:38)それゆえに、彼らは悔い改めて、イエス・キリストを信じて救われたのです。     しかし、善人意識にとらわれている人は、それを他人に適用するので、他人をさばいてしまうのです。このような人は、自分自身のあやまちには寛大ですが、他人のあやまちに対しては敏感で、それを大きく見る傾向があります。自分の罪は見ないで、いつも他人の罪ばかり見て、それを問題にするのです。イエス様はこのような人に対して、次のように言われました。

「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3~5)

ルカの福音書18章には、祈るために宮に行ったパリサイ人と取税人の姿が出ています。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをささげました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」一方、取税人はというと、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」どちらが義と認められて家に帰ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人の方でした。なぜなら、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者が高くされるからです。パリサイ人は、自分の罪を見ないで他人の罪を見ました。ですから彼には恵みがなかったのです。一方の取税人は、自分の罪を持って神様の御前に出、その罪を嘆いて、神様の恵みにおすがりしました。ですから彼は罪の赦しと恵みを受けたのです。皆さん、最高の恵みは、すべてのみことばが自分に向けられているとように聞こえることなのです。そして、そのように信じることこそ祝福なのです。

いったいユダヤ人はなぜそのように受け止めていたのでしょうか。それは自分たちの中に、神様によって特別に選ばれた者であるという特権意識があったからです。4節をご覧ください、

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

彼らは、自分たちが神によって特別に選ばれた神の民なのだから、その慈愛と寛容と忍耐によって、自分たちは異邦人たちのようにはさばかれるようなことはないだろうと考えていました。しかし、それはとんでもない誤解でした。神は正しい方であって、そのさばきはそのようなことを行っている人々に必ず下るのです。もし神がそのさばきを控えておられるとしたら、それこそ慈愛と忍耐と寛容によるものであって、悔い改めの機会が与えられているからなのです。決して神のさばきから逃れられることではありません。神は正しくさばかれる方だからです。

しかし、それはこのユダヤ人だけのことではありません。すでにイエス様を信じて神の子とされた私たちクリスチャンも言えることです。私たちは主イエス・キリストによって神の子とされ、神の特別の恵みを受けました。まさに慈愛と忍耐と寛容です。しかし、それは何をしても神様は許してくださるということではありません。彼らのように、他人をさばいて自分も同じようなことをしているとしたら、そこには異邦人同様、神の怒りが下るのです。恵みによって救われた以上、どんな生活をしても構わないのだという考え方は、少なくとも聖書の中にはありません。聖書ははっきりと、わたしたちの行いに対してさばきがあるということを示しているのです。それは行いだけでなく、ことばと思いをも含めたすべての面においてです。であれば私たちは、自分たちは結構善い人間だという意識を捨て、神の前にさばかれてもしょうがないほど汚れた者であるということを認め、あの取税人のように、胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と言うような、へりくだった者でなければならないのです。

Ⅱ.神にはえこひいきなどない(6-11)

第二のことはその理由です。なぜ神様はそのようにさばかれるのでしょうか。なぜなら、神にはえこひいきなどないからです。6~11節までですが、6節をご覧ください。ここには、

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。」

とあります。ユダヤ人だからとか、ギリシャ人だからといった区別はありません。ユダヤ人であっても、ギリシャ人であっても、どんな人であっても、神は、ひとりひとりに、その行いに従って報いをお与えになるのです。これはどういうことでしょうか。これは何回読んでも難解な聖句です。パウロはここで、救われるためには、善いわざが必要だと言っているのではありません。もしそうだとしたら、信仰によって義と認められるという福音の中心的な真理が損なわれてしまうことになります。いったいこれはどういう意味なのでしょうか。おそらく、ここでは信仰によって救われるとか、福音の恵みとか、そういうことを論じているのではなく、ひとりひとりの行いに従って報いがあるという一般的な原則が述べられているのす。つまり、

「忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行うすべての者の上にあります。」(7~10)

ということです。このような原則は、聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、マタイの福音書16章27節には、「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。」とありますし、Ⅱコリント5章10節にも、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。また、ガラテヤ6章7~9節にも、「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とあります。

ですから、このようにパウロが言いたかったのは行いによって救われるということではなく、善を行えば、時期が来て、その刈り取りをするようになるという原則についてだったのです。パウロが信じていたことは、人は行いによっては救われず、ただ神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われるということであり、福音のうちにこそその神の義が啓示されているということでした。ただ、終わりの日に受ける報いについては、ユダヤ人やギリシャ人といったことと関係なく、その人の行いに従って報いが与えられるということでした。それは神にはえこひいきがないからであり、その報いは、善を行うか、それとも悪を行うかによって決まるからです。

Ⅲ.神のさばきの日に備えて(12-16)

ですから第三のことは、この神のさばきに備えましょうということです。とはいえ、何が善で、何が悪であるかということを、いったいどうやって知ることができるのでしょうか。ユダヤ人ならば律法が与えられていましたから、その律法によって善悪の判断を下すことができましたが、異邦人の場合はそういうわけにはいきません。彼らは神の律法など持っていないからです。では、異邦人が善を行うということはできないのでしょうか。いいえ、できます。14、15節には、

「―律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明しあったりしています。」

とあります。確かに異邦人は律法を持たない者ですが、しかし、律法の命じる行いができるのです。どうやって?良心によってです。異邦人はユダヤ人のように神の律法を持っていませんが、心の中の良心によって何が善であり、何が悪なのかといった判断ができるだけでなく、悪に対してはそれを退けようとする働きがあるのです。「良心が痛む」という表現がありますが、人間は紛れもなく道徳的な存在であり、神がその良心をとおして私たちの心の中であかししておられるのです。14節の「自分自身が自分に対する律法なのです」というのは、そういう意味です。しかし、罪深い人間の良心はゆがめられ、その判断力は必ずしも正しいものではありません。たとえば、殺人を犯せばだれでも良心が痛みますが、偶像礼拝に対してそうではないというのは、罪によって良心がゆがんでしまった結果なのです。良心はある面で「神の声のエコー」ですが、人間の罪によってそれがはっきり聞こえなくなっているのです。とは言え、それでもこの良心によって異邦人にも律法の知識があるのは明らかですから、すべての人はその善を行うことができるのであって、その行いによってさばかれるのです。ですから結論は何かというと、16節です。

「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。」

ここには神のさばきについてはっきりと言及されています。神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠されたことをさばかれる日に、行われるのです。それが明らかにされるのはいつかというと、終わりの日です。ですから、このさばきの日に備えて、イエス・キリストによって私たちの心の隠れた事柄がさばかれても大丈夫なように、備えていなければなりません。ユダヤ人であっても、異邦人であっても、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。ですから、神のさばきに対して、永遠のいのちをはじめ、栄光と誉れと、平和を得るために、悔い改めて、イエス・キリストを信じ、神の義にお頼りしながら、神に喜ばれる歩みを求めていかなけれはなりません。

アメリカにミッキー・クロスというヤクザ出身のリバイバリストがいました。彼はその昔、ニューヨークの暗黒街のボスでした。警察が肝を冷やす(きもをひやす:驚き恐れてひやりとすること)ほどの淫行、放火、殺人、強盗をしました。彼が手にできなかったものは一つもありませんでした。お金、お酒、女性、とにかく彼が欲しいすべてのものを手に入れました。それにもかかわらず、彼には平安がありませんでした。夜寝る時には部屋には鍵を幾つもかけ、枕の下にはいつも拳銃を置いて眠り、いつも部下の裏切りを監視せずにはいられませんでした。いつも絶えることのない不安と恐怖の中で暮らしていたのです。夜更けに一人でいるとき、涙で枕をぬらしたことも数え切れないほどありました。心の孤独と悲しみ、つらさに、来る日も来る日も身震いしながら暮らしていたそうです。平安がなかったのです。イザヤ書48章22節にあるように、まさに「悪者どもには平安がない」のです。

数年前、韓国である人が罪を犯して逃亡しました。その人が侵した罪は6年で時効でしたが、この人は計算を間違えて、三日ほど早く自首してしまい、捕まってしまいました。普通なら、「しくじった」「何ということをしたのか」「本当についてない」と言うところでしょうが、逮捕されたこの人が言ったのは、「ああ、すっきりした。本当にすっきりした」でした。「この間、俺がどれほど不安だったことか。捕まったんだから、しっかり罰を受けてゆっくり眠ろう」と言ったのです。逃亡中、彼に安息はありませんでした。

終わりの日に受けるであろう神のさばき。神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に対する、明確な解決を持っていない人はみんな同じです。このさばきに対するしっかりとした備えがないために、不安を抱えながら生きているのです。しかし、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるのです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28)

皆さんは、このさばきに備えておられますか。イエス・キリストを信じて救われていますか。キリストのくびきを負って、キリストから学んでおられるでしょうか。キリストのところに来てください。そうすればたましいに安らぎが来ます。どんなさばきがあろうとも何の恐れもないのです。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りをくだされるのです。艱難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行うすべての者の上にあるからです。

 

ローマ人への手紙1章18~32節 「天から啓示されている神の怒り」

きょうは、「天から啓示されている神の怒り」というタイトルでお話したいと思います。パウロは、16~17節のところで、この手紙の主題について述べました。それは、福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力であるということです。なぜなら、この福音の中にこそ神の義が啓示されているのであって、人間の力や行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって救われるからです。  きょうのところには、「というのは」ということばで始まっています。実は、ここからローマ人への手紙全体の本論に入るわけですが、「というのは」という接続詞で始まっているということは、これがその前の節とのかかわりの中で語られていることを表しています。つまり、ここには私たち人類が神の義を必要としている理由が記されてあるわけです。いったいなぜ私たちは神の義が必要なのでしょうか。それは、全人類が罪を犯し、神の怒りの下にあるからです。18節をご覧ください。

「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」

神が私たちを救ってくださるのは、私たちがみな神の裁きの下にあるからで、つまり救いを必要としている存在だからなのです。神が求めておられるのは、あくまでも義なのであって、その義にかなわない人間のあらゆる不敬虔と不義とに対して、神の怒りが啓示されているからなのです。

しばらく前に、みことばに対する深い瞑想のないままの「可能性思考」とか「積極的思考」というものがはやりました。イエス様を信じることは人生に豊かさをもたらすことであり、すべてが思いのままになる祝福をもたらすはしごであるという考えです。ある面ではそうですが、しかし聖書の語っている祝福とはそのような表面的で薄っぺらなものではなく、もっと深いところからにじみ出てくるものです。罪深い人間に必要なのは、そうした自負心を刺激する積極的な思考ではなく、自分がいかに罪深い者であることを知り、悔い改めることです。罪の深刻さを指摘され、罪にまみれた恐ろしい自分の姿に気づかされ、その中から救いを叫ぶことなのです。罪について赤裸々に語ることなしに、イエス様の福音がどんなに必要であるかはわかりません。

私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。逆境を克服したときです。まことの感謝は、私たちが困難にぶつかり、その深い困難から抜け出した経験があってこそ生まれるものなのです。私たちは知らず知らずのうちに、すべてが自分の思い通りになる、何の試みもない平坦な人生こそ、最も幸いな人生であるかのように思い込んでいますが、実はそうではなく、人生最大の危機にまで落ち込んで、その後で上ってくる経験の中にこそ、まことの感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちが救いの喜びと感激というものを切実に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを悟る必要があるのです。

きょうは、このイエス・キリストを信じる以前の人間の姿について三つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、神の怒りの原因である罪についてです。罪とは、神を知っていながら、その神を神としてあがめないことです。第二のことは、その罪の結果です。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。第三のことは、罪の結果のもう一つの面です。それは、彼らを良くない思いに引き渡されたので、してはならないことをするようになったということです。

Ⅰ.神を神としてあがめず(18-23)

まず第一に、神の怒りの原因である罪について見ていきたいと思います。18~23節に注目してください。パウロはここで、どういう人に神の怒りが啓示されているかを述べています。それは、「不義によって真理をはばんでいる人」に対してです。「不義によって真理をはばんでいる」とはどういうことでしょうか。この「真理」とは19節を見ると明らかですが、それは神に関する真理であることがわかります。ここには「神について知られることは、彼らに明らかです」とあります。創世記1章27節を見ると、神は人をご自身のかたちとして創造されました。神のかたちというのは、神を慕う心、神と交わる部分、つまり霊のことです。私たちは霊的な存在として造られたのです。にもかかわらず、自分たちの持っている罪のゆえに、神に関する真理をはばんでいるのです。その顕著な例が「不敬虔」と「不正」です。「不敬虔」とは、神を神としてあがめようとしない神に対する罪で、「不正」とは、その結果生じている人間の悪い思い、道徳的な乱れ、罪の行為のことです。これが罪の二大局面です。この二つは切り離すことはできません。つまり、人は神のかたちに造られ、神を慕い求め、神をあがめるように造られたにもかかわらず、神を神としてあがめようとしない罪の結果、この世において様々な悪いことをするようになったのです。  坂本九さんの大ヒット曲に「上を向いて歩こう」という歌がありますが、人というのはギリシャ語で「アンスローポス」と言います。意味は、「上を向いている者」です。人間は本来、上を向いて生きる者なのです。なのに私たちは、ついつい日常の事柄に心の目が奪われてしまい、上を向く心を失ってしまいました。そして、「神なんていない」、「信じられるのは自分だけだ」なんて、織田信長のようなことを言うようになってしまったのです。  しかし、本当に「神なんていない」のでしょうか。いいえ、そうではありません。確かに神は私たちの目で見ることはできませんが、神がおられることと、この方がどれほど偉大な方であるかは、はっきりと示されているのです。どのように?神の創造のみわざを通してです。20節をご覧ください。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」

確かに、神様は目に見えないお方ですが、その力と神性は、創造のみわざをとおしてはっきりと現されているのです。ですから、もし私たちが神を探り求めることでもあるなら、見いだすことができるのです。神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはいません。私たちは、神の中に生き、動き、存在しているのです。にもかかわらず、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。それだけではありません。この神の代わりに偶像を作り、それを拝むようになってしまったのです。22~23節、

「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」

皆さん、人はなぜ偶像を求めるのでしょうか。偶像を造る人たちは、神様は目に見えない存在だから、その目に見えない神を見える形で表すものであると言い、人は力ある神に偶像を通してでなければ近づくことが出来ないからだと言いますが、本当はそうではありません。人間は神のかたちに似せて造られていますから、生けるまことの神から離れるとき、何かを神としないではいられなくなるからなのです。ですから、まことの神の代わりに、被造物を神としてしまうのです。また偶像礼拝は、このような宗教的な対象として像を拝むことだけではありません。ピリピ3章19節でパウロは、彼に反対する人たちに対して、「彼らの神は彼らの欲望であり・・」と言っているように、こうした欲望を具現化したものも偶像崇拝なのです。  しかし、それは本当に愚かなことではないでしょうか。神様に対抗している人の多くは自分が知者だと思い込んでいるようですが、実は、それは愚かなことなのです。そのような偶像が人を救うことなどできないからです。人を救うことができるのはただこの天と、地と、海と、その中に住むすべてのものを造られたまことの神しかいないのです。なのに、その生けるまことの神様を信じようとしない。そうした人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているのです。    この「啓示されている」ということばは現在形で書かれてあります。すなわち、今もずっと、罪があるところには神様の怒りがとどまっているということです。神様は、そのご性質上、罪をそのまま容認なさることはしません。ハバクク書1章13節に、「あなたの目はあまりにきよくて、悪を見ず、」と言われているとおりです。神様は決して罪を我慢できない方なのです。

皆さん、イエス様を信じる前の私たちはどんな状態にあったのでしょうか。それは一言で言うなら、滅ぶべき罪人でした。この罪のゆえに、神の怒りが天から啓示されていたのです。全く望みというものを見いだすことができない惨めな存在でした。ローマ人への手紙6章23節には、「罪から来る報酬は死です」とありますが、まさにこの罪のゆえに、神様の怒りから逃れられず、地獄行きの運命が定まっていたのです。

Ⅱ.汚れに引き渡され(24-27)

第二のことは、その結果です。神を神としてあがめず、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えた結果、どうなってしまったでしょうか。24節をご覧ください。

「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。」

神を神として認めようとしない人に対する神の怒りは、世の終わりにおいてだけでなく、すでに始まっているのです。どのようにでしょうか。ここには、「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。この「引き渡され」ということばは、26節と28節にも繰り返されていますが、これは「見放す」とか「見捨てる」という意味のことばです。神の怒りの絶頂は、罪を犯した人間をその心の欲望のままに汚れに引き渡すことです。そのまま放置することなのです。ある人はこう言うでしょう。「俺は神様とは関係なく生きて来たけれども、大満足の人生だった」と。それは、この人が神の裁きとのろいのまっただ中にいることの証拠なのです。

たとえば、親の言うことを聞かない子供がいるとしましょう。すると親は正しく育てようと、いろいろと訓戒します。時にはむち打つこともあるかもしれません。けれどもその子がなかなか言うことを聞こうとしないと、親はその子に何と言うでしょうか。「じゃ、勝手にしなさい」これは子供に自由を与えるという意味ではなく、親として発し得る最も恐ろしい怒りの表現なのです。「勝手にしなさい」ですから、信仰を持たない人たちが、その恐ろしい罪にもかかわらず人生がうまくいっているように見えても、何もうらやましがる必要はないのです。それこそ恐ろしい神の裁きの現れだからです。神様に見放され、見捨てられている人は大忙しで、礼拝をささげる時間もありません。あくせくと的外れな努力をして、結局は地獄に行ってしまうことになるのです。

皆さん、私たちは神様の前で好き放題に生きられる存在でしょうか。決してそうではありません。そんなことをしたら必ず後でつけが回ってきます。ですから神様は私たちを放ったらかしにはなさらないのです。少しでも高慢になると、大きな病気やその他の方法でそれを扱われます。みこころにかなわないことをしようとすると、試みや艱難が来て練られます。少しでも祈りを怠ると、火のような試みを通して心を引き締めさせてくださるのです。でも、これこそ神様の祝福であり、恵みなのです。なぜなら、箴言3章12節には、「父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。」とか、ヘブル人への手紙12章7~8節に、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」とあるように、それこそ神が私たちを愛しておられることの証拠だからです。その心の欲望のままに引き渡されることこそ、神の怒りの表れであります。

では、その心の欲望のままに汚れに渡された人間は、どのようになったでしょうか。ここには、「彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました」とあります。神との関係における霊的倒錯は、人間関係における性的混乱を引き起こすようになりました。パウロがこの手紙を書いていた時代にも、たとえばコリントには、アフロデトと呼ばれる神殿があり、そこには巫女と称する神殿娼婦がたくさんいました。それは、巫女たちと肉体的に交わることによって、アフロデトの女神と一体になれると教えられていたからです。また、26,27節には、

「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」

とあるように、同性愛が広まりました。当時のローマの世界では、レスビアンとかホモセクチャルなどは普通のことでした。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。パウロはこれらのことを評して、「その誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」と言っていますが、それは、神様が創造の秩序として立てられたものを無視し、それを誤用、乱用して放縦に走った結果招いた荒廃だったのです。

Ⅲ.良くない思いに引き渡され(28-32)

そればかりではありません。第三に彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29~32節をご覧ください。

ここには長い罪のリストが記されてあります。このリストは、人間社会のすべての悪を取り上げているわけではありませんが、これを見ていくと、罪の恐るべき力について十分知ることができると思います。まず、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意です。これは罪の一般的な表現でしょう。次は、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみです。これは内面的な悪意のことです。そして、具体的な悪口の数々が列挙されていくわけですが、ここで注目したいことは、神を知ろうとしたがらない人間は、こうした悪の思いに満ち溢れるようになったということです。彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡されたとは、こういうことです。神を知ろうとしない人間の内側は、実に、みにくい罪と悪なのです。それらは、私たちすべての人の姿であり、私たちの内面の思いなのです。

そして、そこからさまざまな罪の現実が生まれていきます。まず陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。ここには私たちが行う悪の数々が語られているわけですが、それは、毎日の新聞やテレビのニュースを見れば明らかです。何の事件も起きない日など一日もありません。毎日、毎日、さまざまな悪事が行われています。私たちは文字通り罪の中に生き、悪を行っているのです。

ロシヤの文豪ドストエフスキーは、「もし人が、神は存在しないという確信さえ持つならば、できないことはない。」と言いました。これは恐ろしい言葉ですが事実です。人々が悪いことをしながらも、それでもある程度自分自身を節制するのは、「こんなことをしたら罰があたるかもしれない」という何らかの神に対する意識が働いているからですが、しかし人間が神はいないと確信するなら、そこにはすさましい光景が広がることでしょう。まともに目を開けてなど見られないはずです。ここに取り上げられているのは、人間社会のすべての悪ではありませんが、本当に罪の恐ろしさがまざまざと描かれているのではないでしょうか。それは、彼らが神を知ろうとしたがらない罪のゆえなのです。神を知っていながらも、その神を神としてあがめようとしないためなのです。それゆえに神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。良くない思いに引き渡され、そのために彼らは、してはならないことを平気でするようになってしまったのです。 いやそればかりではなく、それを行う者たちに心から同意さえしているのです。こうした罪に対して、神の怒りがどれほどのものであるかを想像することはそれほど難しいことではないでしょう。こうした不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているのです。

いったいどうしたら、この罪の現実から、救われることができるのでしょうか。このような人間の罪と悪は、身を修める修身教育や道徳教育くらいで解決できるものではありません。四国八十八箇所を巡礼したくらいで解決できるものではないのです。こうした罪と悪からきよめられ、神様の怒りを逃れることのできる唯一の道は、神の義であるイエス・キリストの血潮以外にはありません。ローマ人への手紙5章9節をご覧ください。

「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。」

私たちが罪に対する神の怒りから逃れる道は、イエス・キリストの血潮の他にはありません。ただ福音において啓示されている神の義だけが、私たちを罪の道、滅びの道から連れ戻す力を持っているのです。ですから、私たちはこのキリストの福音を信じなければなりません。

私たちは口癖のように「神様の恵みによって、死ぬしかなかった罪人が救われた」と言います。「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れをしれる我に」と賛美します。イエス・キリストの十字架のゆえに罪が贖われて、神の子どもとされた感激をいつも味わいながら生きていますと、証して回りますが、しかし、これがことばだけであることが多いのです。多くのクリスチャンが、救われた後、自分がどれほどすばらしい身分に変えられたのかを知らずに過ごしているのです。それは、イエス様を信じる以前の自分がどれほど悲惨な者であったかを知らないことに起因しています。イエス様を信じる前の自分は、こうした罪のゆえに、神の御怒りによって滅ぶしかなかった者であったことがわかると、その救いの喜びと感謝を切実に感じるようになるのです。

あるクリスチャン夫婦の証を読みました。この夫婦は、非常に仲むつまじく、子供たちも健やかに育っていました。しかし、ある日夫人が体調を崩して、病院で診察を受けました。医師は病名を教えてくれず、ただ「家族を連れて来なさい」とだけ告げました。不安を抱えて夫とともに再度病院に行ってみると、がんにかかっていて回復の見込みは薄いことを告げられました。それはまさに青天の霹靂(せいてんのへきれき:急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃)でした。幸福な家庭に暗雲が立ち込めたのです。ご主人の居ても立ってもいられない姿が痛々しく見えました。子どもたちも勉強が手に着かない様子でした。しかしあるとき、家族が信仰をもって祈り始めました。みんなで早天祈祷会に出席して、神様に切に祈る家庭になりました。そこで涙とともに祈る姿は、すべての聖徒たちを感動させました。そして数日後、夫人は別の病院で再度診断を受けました。するとどうでしょう。何と誤診だったのです。夫人はがんではなく、単なる消化不良だったのです。  この出来事を契機に、この家庭はすっかり変わりました。いつでもすべてのことについて、神様に感謝し、家族を挙げて神様に献身するようになりました。いつも口を開きさえすれば神様の恵みを誇る家庭となりました。神様はすべてを働かせて益としてくださる方です。彼らはがんという死刑宣告をとおして、感謝と賛美に満ち溢れる信仰の家庭に変えられたのです。

私たちも、私たちの罪の現実の姿を見ることは、痛く、苦しいことでもありますが、こうした惨めな姿に直面してこそ、救いの喜びが大きくなるのです。不義をもって真理をはばんでいた人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して神の怒りが天から啓示されていますが、神はイエス・キリストの血潮によって、そこから逃れる道を用意してくださったのです。これが福音です。であれば、私たちはこの福音を信じなければなりません。罪を悔い改めて、神に立ち返り、イエス・キリストの十字架の血潮を信じなければならないのです。そして、人間の本来の姿である上を向いて生きる生活、神を神としてあがめ、神を中心とした生活を始めていこうではありませんか。そのとき私たちはこの天から啓示されている神の怒りから救われ、感謝と賛美に満ち溢れた生涯を歩むことができるのです。

ローマ人への手紙1章16~17節 「救いを得させる神の力」

きょうは「救いを得させる神の力」というタイトルでお話したいと思います。きょうのところには、ローマ人への手紙全体の中心テーマが記されてあります。それは、救いを得させる神の力としての福音です。福音とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。きょうはこのことについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、福音は救いを得させる力であるということについてです。第二のことは、それを受ける手段についてです。それは信仰です。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。第三のことはその理由です。それは、この福音のうちに神の義が啓示されているからです。

Ⅰ.救いを得させる神の力(16)

まず第一に、福音は、救いを得させる神の力であるということについて見ていきたいと思います。16節のところでパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と言っています。この前のところで彼は、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、この福音のあまりものすばらしさのゆえに、この恵みはどうしても返さなければならない負債だと語ったのに、ここに来て、「私は福音を恥とは思いません」と、一見弱々しいように宣言しているのはどうしてなのでしょうか。彼の中に福音に対してどこか恥と感じるようなことがあったのでしょうか。そうではありません。実は、このように「福音を恥とは思いません」という言い方は、一見否定的に見えるような言い方ですが、実はこれは、逆に誇っている表現なのです。このように否定的に表現することによって、逆の事柄を強調しようとしたのです。たとえば、マルコの福音書12章34節には「あなたは神の国から遠くない」とありますが、これは、神の国にごく近いところにいるということを強調しているのです。同じようにパウロがここで、「私は福音を恥じとは思わない」と言ったのは、彼が福音をどんなに高く評価し、それを誇りとしていたかの表れであったわけです。これまで福音を語ったために彼がどんなにひどい目に遭ってきたかを思うとき、このローマ帝国の首都において福音を語ることがどんな苦難が伴うことなのかくらい十分承知していたはずです。それは軽蔑以外の何ものでもなかったでしょう。皇帝崇拝が盛んに行われ、皇帝の権力があらゆる形で誇示されていたこのローマでは、それに対抗しうるものなど何一つないかのように感じたことと思います。そのようなローマで福音を語ることはある意味で人を気おくれさせ、恐れおののかせ、気恥ずかしい思いを抱かせたことでしょう。しかしそうした中にあってパウロは、「私は福音を恥とは思いません」と言って、福音を誇ったのでした。いったいパウロはなぜそのように言うことができたのでしょうか。それはこの世の政治、経済、文化がどれほど偉大であり、光り輝いたものであっても、福音にはそれにまさる価値があることを、彼がよく理解していたからです。それは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。ここに福音の価値がいかんなく言い表されていると思うのです。それは、この福音は神の力であるということです。それは単なる教訓とか、哲学、倫理ではなく、力なのです。それは、救いを得させる神の力です。

それにしても、パウロはなぜここで福音を力だと言ったのでしょうか。それは、この救いは罪からの救いのことだったからです。一般的に人は「救い」という言葉を聞くとき、それが病気や経済的なことからの救い、あるいは、その他私たちの人生において直面している問題からの救いであるかのように錯覚しがちですが、ここで言われている救いとは、そうした問題からの救いのことではなく、そうした問題も含めたあらゆる問題の根源である罪からの救いのことだったのです。そしてこの罪からの救いは、私たちの力でできるようなことではありません。悪魔の支配下に置かれている人間は、どんなに跳んだり跳ねたりしても、あるいは力をふりしぼって頑張っても、徹夜で本を読んで勉強しても、その縄目から自分を救い出すことはできないのです。人が罪から救われるためには、悪魔よりもはるかに強い力がある方に解放していただかなければなりません。それは神です。そのような罪の中にいる人間を救うことができるのは全能の神以外にはいないからです。皆さん、考えてみてください。人を動かすのは山を動かすよりも難しいと言われますが、自分でどんなに変わろう、変わろうと思っても、なかなか変わられないというのが現実なのではないでしょうか。

私はもう何年も牧師をしていますが、最も多く受ける質問は、「どうして私は変わることができないのか」というものです。「変わりたいと思っていても、どうしたら変わることができるかわからない。変わる力がない」ということなのです。皆さんにもそのような経験がおありでしょうか。私たちはよくセミナーや大きな集会に出かけて行き、自分の人生をその場で変えてくれるような方法を探しますが、それをしてもなかなか変わりません。私は健康維持のためにふと思い立って散歩を始めたりするのですが、二週間も経つと最初の決意はどこかへ消えてしまい、いつの間にか元通りになってしまいます。今、はまっているのはラジオ体操です。外に出るのは寒いので何かいい方法はないかと考えていたとき、どなたかがラジオ体操をやっていると聞いて、早速インターネットのユーチューブからダウンロードして時間の合間にやっています。これならどこにも行かなくても、自分の家で、好きな時にできるのでいなぁと思っているのですが、これだっていつまで続くかわかりません。すぐに元通りになってしまうかもしれません。変わるということは本当に難しいのです。時々、自己啓発の本を読んでみたりすることもありますが、問題は、そのような自己啓発の本は「何をすべきか」は教えてくれても、それを「実行する力」を与えてくれないことです。それらの本には「悪習慣を断ち切り、前向きになりなさい。否定的にならない」と教えられていますが、ではどうやったらそれができるかは教えてくれないのです。いったいどうしたら自分を変えることができるのでしょうか。どうしたら今の自分の殻を突き破ることができるのでしょうか。

ここにすばらしい知らせがあります。それは「福音」です。福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。私たちが必要としているのはこの「力」ではないでしょうか。新約聖書の中には、この「力」という言葉は57回出てまいります。この言葉は、歴史上最も力強い出来事、そうです、イエス・キリストの復活の出来事を現すために使われています。人生において最も大切なことは、キリストを知り、キリストの復活の力を体験することです。この復活の力について、パウロは次のように言っています。

「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」(エペソ1:19~21)

この「力」と訳された言葉は、ギリシャ語の「デュナミス」(dunamis)という語ですが、これは英語の「ダイナマイト」(dynamite)の語源になっている言葉です。神の力は、今から二千年前にイエス・キリストを死の中からよみがえらせた復活の力であり、悪魔の要塞を完全に打ち破ることのできる力なのです。この神の力が私たちを悪魔とその罪の支配から救い出すことができるのであって、この神の力があらゆる問題に打ち勝つ力を与えてくださり、その人格を全く新しいものに造り変えることができるのです。この救いを得させる神の力が、私たちに差し出されているのです。それが福音です。

Ⅱ.信じるすべての人に(16)

ではどうしたらこのすばらしい神の力をいただくことができるのでしょうか。第二のことは、それは信仰によってであるということです。もう一度16節に注目してください。ここには、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

ここで重要なのは、この神の力は、「信じるすべての人に」差し出されているということです。福音がどんなに力があっても、これを信じなければ救われることはできません。ある人はこう言うでしょう。「他宗教における救いの可能性も排除してはいけない」と。「分け登る 麓の道は多かれど、同じ高嶺の月を見るかな」ってあるように・・・。どの宗教を信じたって、結局、行き着くところはみな同じだというのです。しかしこれは大うそです。十字架につけられて死なれ、三日目によみがえられたイエス・キリストを信じること以外に救いはありません。このメッセージを放棄してはいけないのです。もしこれを放棄したら、それはもうキリスト教とは言えないからです。何を信じても同じだというのは一見、心が広い人であるかのように見えますが、それは真理ではありません。なぜなら、聖書は次のようにはっきりと言っているからです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」(使徒4:12) 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

あるいは、このように言われる方もおられるでしょう。「あの人が救われるのなら、私はあの人よりももっとましな人間だから絶対救われるはずだ。」と。あるいは、「世の中の人たちはみんな罪を犯しているが、私はそんなに大きな罪を犯しているわけではないから、天国に行けるはずだ。私が行けなかったとしたら、あと誰が行けると言うのだ・・・。」と。しかし、誤解しないでください。天国は、相対的なものではありません。他の人と比較してどうなのかではなく、絶対的な神様の目で見てどうなのかということです。ほかの人と比較して少々善良であってもなくても、それは沈んでいく船の客室で、大きく揺れる絵の額を見比べて、どれが一番傾いているかを論じるのと同じで、全く的外れなことです。沈没するのは同じなのです。百人中二十人が天国に行けて、八十人は落第して地獄に行くというものではありません。信じて従うならすべての人が天国に行けるし、罪を悔い改めないでイエス・キリストを信じないなら、すべての人が地獄に行ってしまうのです。

あるいは、私たちの中には、一生懸命に良いことをしたら天国に行けると思っている人も少なくありません。つまり、自分がたとえ40くらいの罪を犯しても、60くらいの功績を積めば20ポイントもプラスなんだから、天国に行けるはずだと考えてしまうのです。しかし、これも間違いです。神様は、私たちがどれだけ良いことをしたかではなく、私たちの罪が清められているかによって決められるのです。もし少しでも罪があるなら、全く聖い神様は、私たちを受け入れることはできないのです。そうでしょ。たとえば、きれいに透き通っていて、どんなに美味しそうな水でも、そこにほんの少しだけねずみの糞が入っていたら飲めますか。99%清くても、1%汚れているだけで全部捨てるように、ある程度清いから天国に行けるということではないのです。

ならば、いったいだれが天国に行くことができるでしょうか。だれもいません。私たちは生まれながらに罪人であって、不完全な者なのだから、完全に聖くなることなどできないからです。しかしあわれみ豊かな神様は、その罪を赦し、全く罪のない者としてくださるために、ひとり子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。この方を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、この方を信じる者の罪はすべて洗い流されるのです。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(イザヤ4:22)

皆さん、私たちがキリストを信じたそのとき、それまでかすみのようにかかっていた罪がすっかりぬぐいさられるのです。神様がキリストによってその罪を贖ってくださるからです。私たちの罪が赦され、天国に行くことができるのは、ただこの救い主イエス・キリストを信じる以外にはありません。イエス・キリストを信じるなら、だれでも、どんな人でも救われるのです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力なのです。ですから、聖書は一貫して、「ただ信ぜよ。さらば救われる」と言っているのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)ただ信仰によって、この救いを受けることができるのです。

Ⅲ.神の義は福音のうちに(17)

ではなぜ福音を信じるだけで救われるのでしょうか。それは神の義がこの福音の中に啓示されているからです。最後にこのことについて見ていきましょう。17節をご覧ください。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」

ここで注目したいことは、この福音の中に「神の義」が啓示されているということです。福音のうちに神の義が啓示されているとは、どういうことなのでしょうか。実は、この「神の義」こそ聖書全体の重大なテーマであって、これを曖昧にすると、聖書で本当に言わんとしていることがつかめなくなってしまいます。それほど重大な事柄です。これがすべての根底にあるといってもいいでしょう。たとえば、皆さんは神はどのようなお方ですかと尋ねられたとしたら、いったい何と答えるでしょうか。神は愛ですと答えるでしょう。しかし、その愛とは、実は、この義に基づいたものであって、私たちが考えるようなセンチメンタルなものではありません。ですから、神はどのようなお方ですかと問われたら、その第一のご性質は「義なる方」となるのです。神は義なる方、全く正しい方です。ここからすべてが発しているのです。ですから、救いということを考える時にも、単に肉体の癒しとか、問題の解決といった御利益が中心なのではなく、罪からの救いということが中心になるわけです。

ところで、ここで「神の義が啓示される」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは神が定められた律法の要求に対する人間の正しい関係を意味しています。人はだれも自分の力によって義と認められません。神が要求している律法を完全に行う人など一人もいないからです。ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、神様はこの世にキリストを送ってくださったのです。それは私たちの義ではなく、この神のひとり子であられるキリストの完全な服従に基づいた義をいただくためです。神の律法の要求を完全に行うことができるキリストが、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかって死んでくださったことによって、この方を信じるなら、私たちの中にその神の義が全うされるようになったというのです。私たちはこのキリストによって、神と正しい関係を持つことができるわけです。

では、「その義は、信仰に始まり信仰に進ませる」とはどういうことなのでしょうか。これは神との正しい関係が、信仰によって始まり、信仰によって完成されるという意味です。これは今に始まった新しい教えではなく、実は、旧約聖書の時代から一貫して流れていた真理でした。その一つの例が、「義人は信仰によって生きる」ということばです。これは旧約聖書のハバクク書2章4節からの引用ですが、イスラエルにカルデヤ人が侵略してきた時、そのような国家的危機の中で、預言者ハバククが語った言葉です。彼はその時何と言ったかというと、主に拠り頼む者は勝利を得ると言いました。一生懸命に武器を作り、どうしたら勝てるかと戦略を練れば勝利できるのではなく、主に拠り頼むことによってのみ勝利することができると言ったのです。義人は信仰によって生きるとはそういう意味です。神との正しい関係はこの信仰によってのみ得ることができ、また信仰によって全うすることができるのです。

皆さん、私たちは自分はできると思いがちです。そして、救われるために自分で何とかしようともがきます。ある面でそれは大切なことでしょう。しかし、このような努力やがんばりだけでは、私たちの人生を破壊し、破滅に陥れるこの罪から救い出すことはできません。この罪の前には、私たちは何もすることができないのです。全く無力なのです。私たちができることはただ一つ。それは受けることです。十字架で死なれ、三日目によみがえられて、死に勝利された復活の力を受ける以外にないのです。

ある家族が賭博で無一文になってしまいました。家中の財産をすっかり失ってしまったのです。賭博というのはどうも伝染するのか、この家はおじいちゃんが賭博で破滅しかと思ったら、お父さんも賭博師として家を潰してしまったのにもかかわらず、息子まで賭博をするようになったのです。息子自身もそのことをよく知っていて、「祖父は賭博で破滅した。親父も賭博のために人生を棒にふった」と言っていたそうです。それなのに賭博をやめることができませんでした。この息子は教会に通い始めると、悲壮な覚悟を決め、牧師の前で何と斧で手の指を全部切手しまったそうです。「これで二度と賭博はしない」と雄々しく決心したのですが、その覚悟も長続きはせず、彼は再び賭博を始めてしましいました。指のない手でどうやってしたのか?何と足の指に花札をはさんで賭博をしたのです。これが罪の力です。これほどの罪の力を、いったいどうやって断ち切ることができるのでしょうか。イエス・キリストです。私たちにはできないことを神はしてくださいました。神はキリストをこの世に送り、十字架につけてくださって、この方を信じる者をみな、許してくださると約束してくださったのです。このイエス・キリストの血潮がなければ、誰一人、罪の力を断ち切ることはできません。私たちはただその十字架で死なれたイエス様が自分の救い主であると信じ、この方にお頼りして、忠実に生きさえすればよいのです。福音こそ、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです。

地上においた船をどんなに動かそうとしても、動かすことはできません。屈強な男たちが十人か二十人かかっても、1トンの船さえ動かすのは用意なことではありません。しかし潮が満ちて船が浮くと、幼子がちょっと押しただけでも動くようになります。神様が御業を行われる方法とは、まさにこのようなものです。自分の力、才覚でやろうとするのではなく、「神様、どうぞ恵みの水を送ってください。そしてこの困難を乗り越えさせてください」と主にしがみついて、重荷をゆだねるとき、私たちの取るに足らない力でも悠々と船を動かすことができる、驚くべき不思議に人生が転回し始めるのです。義人は信仰によって生きる。皆さんもキリストを信じる信仰によって、そのような世界を生きることができますように。

ローマ人への手紙1章8~15節 「返さなければならない負債」

きょうは「返さなければならない負債」というタイトルでお話したいと思います。先週のところで私たちは、パウロがまだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに自分を紹介するにあたり、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と紹介したことを学びました。パウロは、自分がこの福音のために選び分けられた者であるという強い自覚と使命感がありました。このような使命感があったからこそ、彼は本気で福音のために献身することができたのです。

さて、きょうのところは先週に引き続きこの手紙全体の導入の部分ですが、このところでパウロは、自分がなぜローマに行きたかったのか、その理由を述べています。11節を見るとここには、「私があなたがたに会いたいと切に望むのは」とか、13節にも、「何度もあなたがたのところに行こうとした」とか、15節のところにも、「ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」と記されてあります。いったいパウロはなぜそんなにローマに行きたかったのでしょうか。きょうはそのことから三つのポイントでお話したいと思います。

第一のことは、それは彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。第二のことは、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと願っていたからです。そして第三のことは、それが返さなければならない負債であると思っていたからです。

Ⅰ.全世界に言い伝えられている信仰(8)

それではまず第一に、それはローマのクリスチャンたちの信仰が全世界に伝えられていたからということから見ていきましょう。8節をご覧ください。

「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」

パウロはまずローマのクリスチャンたちのことで、神に感謝しています。それは、彼らの信仰が全世界に言い伝えられていたからです。全世界に言い伝えられていた信仰とはどのような信仰だったのでしょうか。これと同じようなことがテサロニケ人への手紙の中にも記されてあります。Iテサロニケ1章8節です。

「主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」

ここで言われている信仰とは、彼らの聖い生活ぶりとか、愛に満ちた生活ということではなく、神に対するあなたがたの信仰です。それはどのような信仰かというと、キリスト信仰のことなのです。キリストによって罪から救われ、新しい人生、新しい生活に入れられた者として、そのキリストとともに生きる信仰のことです。パウロはその信仰をガラテヤ人への手紙の中で次のように告白しました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

この信仰です。ローマのクリスチャンたちは、この信仰に生きていました。皇帝を神としてあがめるローマ帝国の首都にあって、この信仰に生きることはどんなに大変なことだったかと思います。けれども彼らはこの信仰に生き、キリストを立派にあかししていたのです。それはローマ全体から見たなら、ほんの一握りの人々であったかもしれませんが、彼らのそうした不撓不屈(ふとうふくつ:どんな困難に出あっても心がくじけないこと)の信仰は、ほかの地にいるクリスチャンにとって大きな励ましであり、また良い模範となりました。パウロはこのローマのクリスチャンたちがそのような信仰を持つようになったことを神に感謝したのです。    それは昔から神信仰に生きた人たちに共通して見られる信仰でもあります。たとえば、ダニエル書にはシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという三人の少年たちが登場していますが、彼らはバビロンの王ネブカデネザル王から、もろもろの楽器の音を聞く時には、ひれ伏して、彼が造った像を拝むようにと命じられても、決して拝もうとしませんでした。それによってたとえ火の燃える炉の中に投げ込まれようともです。その時彼らは王に次のように答えました。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17,18)

「しかし、もしそうでなくても・・」というのがすばらしいと思います。私の神は、私の信じている神は、そのような火の燃える炉から救い出すことができますが、たとえそうでなくても、決して金の像を拝むようなことはしない、と言ったのです。彼らは自分たちのいのちに優先する信仰として、どんな状況にあっても揺るがない、神だけに拠り頼む、そのような信仰を持っていたのです。

皆さんはいかがですか。皆さんには、「もし、そうでなくても」という信仰がおありでしょうか。もし自分の思うように進まなくても、もし自分の願いが叶わないとしても、もし、このことによって苦難を受けるようなことがあっても、それでも私は神だけに拠り頼むという信仰がおありでしょうか。

スウェーデンの宣教師デヴィッド・フラッドという人の話を読みました。彼は福音を伝えるために、妻と2歳の息子とともに1921年、アフリカのコンゴに向かいました。飢餓と病気、敵対的な部族の人々の中で困難な働きを続けました。宣教の唯一の実は、一人の幼い少年だけでした。彼はそこで毎週日曜日にその幼い少年に聖書を教えました。そんな中、妻が娘を出産して七日目に世を去ってしまったのです。度重なる困難に疲れ果てていたフラッドは、妻まで失ったことで自暴自棄に陥りました。神に失望し、殉教まで覚悟していた信仰を捨てて、現地の宣教本部に娘を預け、息子だけを連れて本国に戻ったのです。  その後、73歳になった彼は、40年ぶりにはじめて会った娘から驚くべき事実を聞くのです。娘は、父に会いに来る途中、ロンドンのある集会で黒人の牧師に会ったのですが、それがあのコンゴの少年だったのです。その少年は立派に成長して牧師になり、福音の不毛地と言われたコンゴで神に仕える器となったのです。そして今では32カ国に宣教師を送り、11万人ものクリスチャンを誇るまでになりました。父の献身と母の殉教によって、コンゴに新しいいのちがたくさん生まれていたのです。娘が「お父さんのしたことは決して無駄ではなかったのです」という言葉に、フラッドは涙して悔い改めたのでした。  主のために努力したのに、結果が思ったとおりでないとき、私たちは失望します。しかし、たとえそうでなくても、それでもただ神に従うという信仰が重要です。まことの神を信じるなら、あらゆる結果を感謝して受け入れることができるようになるのです。

実にローマのクリスチャンたちにはそのような信仰がありました。この世のこと、この地上のものを求めてやまないこの世の人たちとは違って、神のこと、永遠のことを求めて生きていたのです。そういう原理に生きていた。信仰が生きていたのです。ローマのクリスチャンたちはパウロによって信仰に導かれたわけではありませんでしたが、彼らがそのような信仰を持って歩んでいるというあかしを聞き、そのように導かれた神に感謝をささげると同時に、そういう彼らに何とかして会いたいと願っていたのです。

Ⅱ.ともに励ましを受けるため(9-12)

パウロがローマに行きたかったもう一つの理由は、ともに励ましを受けたかったからです。9~12節をご覧ください。

「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」

まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちではありますが、パウロはいつも彼らのことを思っていました。どのように?祈りによってです。祈りによって彼は、いつも彼らのことを思い、神のみこころによって、何とかして道が開かれて、彼らのところに行けるようにと願っていたのです。いったいなぜパウロはそんなにも彼らのところに行くことを切望していたのでしょうか。それは11、12節にあるように、御霊の賜物をいくらかでも彼らに分け与えて、彼らの信仰を強くしたかったからです。なぜ彼らの信仰を強くしたかったのでしょう。伝道者、牧師であればそれは当然のことです。そのために自分が用いられるのであれば、喜んでそうしたいと思うのが普通です。しかしパウロの場合はただそのような理由だけではありませんでした。この手紙の終わりの方、15章を見ていただくとわかりますが、どうも彼はもっと遠く西方に、イスパニヤ、今のスペインですね、そこまで福音を宣べ伝えたいと願っていたようです。その宣教の拠点としてこのローマ教会に立ってほしかった。そのために必要だったことは、彼らが福音によってその信仰がしっかりと整えられていることだったのです。なぜなら、福音に力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって神の力です。その福音にしっかりととどまっていてほしかった。だからこの手紙を書いたのです。本当なら、ローマまで行って直に会い、顔と顔とを合わせて教えるのに越したことはありません。しかし今はそれができないので、こうやって手紙を書いて彼らを強めようとしているのです。

しかし、パウロがローマに行きたかったのは、そのように彼に与えられた御霊の賜物を分け与えて、彼らを強くするためだけではありませんでした。12節、「というよりも、彼らの間にいて、互いの信仰によって、ともに励ましを受けたかったからなのです。」

皆さん、私たちクリスチャンには、それぞれ御霊の賜物が与えられています。この御霊の賜物についてパウロは、ローマ書12章3~8節のところで次のように言っています。

「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」

一つのからだには器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりが互いに器官なのです。ですから、その与えられた御霊の賜物を、主に喜ばれるように、ほかの人々のために用いていかなければならないのです。パウロには預言の賜物があったでしょう。教える賜物も、勧める賜物も、指導する賜物もあったかもしれません。かといって、彼がオールマイティーであったかというとそうではありません。おそらく、人を励ますという賜物は弱かったのではないかと思います。それはあのバルナバとの激しい反目をみるとわかります。彼らが第二次伝道旅行に出かけて行こうとした時、マルコを連れて行くかどうかで話し合った時、彼らの間に激しい反目が起こりました。先の伝道で途中から戻った者など伝道者としてふさわしくないと主張したパウロと、いや、人はみな弱さがあって完全ということはないんだから、そういう人をも受け入れていく必要があると主張したバルナバとの間に、激しい口論が生じたのです。結局、マルコを連れて行ったのはバルナバでした。パウロはなかなか受け入れることができなかった。もちろん、後でパウロはそのマルコさえも心から許し、受け入れましたが・・・。どちらが正しかったのかというよりも、人にはいろいろな性格や賜物、考え方があるので、そのような違いが生じてくるのです。しかし、それはやはりパウロの度量のなさというか、弱さからくる限界でした。やはり人を励ますという点ではバルナバは優れていたました。とは言ってもみながバルナバだったらいいのかというとそうではありません。バルナバのような人がいて、パウロのような人がいて、それぞれに与えられた賜物を用いることによってともに励ましをうけることが大切なのです。神様は、そのために必要な人材してそれぞれを教会に置いてくださったのです。ですから、それぞれに与えられた賜物を用いて、互いに主に仕えていかなければならないのです。そのためには、自分に与えられている霊的賜物を、ほかの兄弟姉妹に喜んで分け与えようという愛と、自分もまた教えられ、祝福を受ける必要があるということを十分認識し、そうした欠けを補いたいという謙虚さが必要です。この両者のあるところにクリスチャンの交わりがあり、それは大きな恵みをもたらしていくのです。

19世紀のアメリカの偉大なリバイバリスト、D・L・ムーディの周りには、彼を支えた多くの人たちがいました。賛美の奉仕をしたのはサンキという人ですが、この人は生涯ムーディとともに働きました。ムーディーが行く先々で、まずサンキが賛美して人々の心を開き、熱くしました。ムーディとサンキの関係は、まさに同労者の関係でした。またムーディはサンキだけでなく、R・A・トーレイという神学博士をいつも連れて回りました。この人は、それほど説教がすぐれていたわけではありませんでしたが、しっかりとした神学的背景を持っていたので、靴屋から献身し、それほど教育を受けられなかったムーディにとっては、そうした神学的知識で理路整然に文章をまとめ、説教の原稿を作ったり、バイブルスタディの教材を作ったりしてもらえたことは、大きな助けでした。

パウロは、「あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」と言いました。私たちはこのような励ましを、恵みをみな必要としているのです。お互いに心を開き、このような交わりを持つように励みたいものです。

Ⅲ.返さなければならない負債(13-15)

パウロがどうしてもローマに行きたかった第三の理由は、それが返さなければならない負債だったからです。13~15節までをご覧ください。ここでパウロは、

「兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」

と言っています。パウロは、何度もローマに行こうとしましたが、なかなかそれを果たすことができませんでした。なお妨げられていたのです。パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行でエペソに3年間滞在したのち、マケドニヤ、アカヤを訪れた時でした。コリントに三ヶ月間滞在していた時でした。コリントといったらローマまでひとっ飛びです。もう少しで行けるというところまで来ていましたが、マケドニヤからの献金を携えてエルサレムに行かなければなりませんでした。今なお妨げられているのです。しょうがないから彼はそこで手紙を書いて、隣町ケンクレヤの女執事フィベに託して手紙を送り届けたのです。それにしてもなぜパウロはローマに行くことをそれほど願ったのでしょうか。その理由は14節にあります。

「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。」

パウロはそれを「返さなければならない負債」だと思っていました。「負債」とは、辞書で調べてみると、「他から金銭や物品を借りて、返済の義務を負うこと。また、その借りたもの。借金。債務。」とあります。それは義務なのです。ローマ人やギリシャ人に対して実際に負債を負っていたというのではなく、その人たちに返さなければならない負債を「神に対して」負っていたという意味です。つまり、神がそのことを要求しておられるとパウロは考えていたのです。

パウロはその使命を負債のように感じていました。負債を負っている人なら、あるいはかつて負ったことのある人ならパウロの気持ちがよくわかるのではないでしょうか。それが常に重荷となってのし掛かってまいります。「返さなければならない」というプレッシャーとなって日々全身に重く感じるのです。パウロがローマに行って福音を伝えたいと思ったのは、それは神から与えられた大きな恵みのゆえに、どうしても返さなければならない負債だったのです。

ここに私たちクリスチャンのあるべき姿がよく表されているのではないかと思うのです。つまり、私たちは自分が何をしたいのか、どこに行きたいのかといった個人的な思いからあれをしよう、これをしようと選択して生きているのではなく、神が何をしてほしいのかを知り、それを行っていくことが大切であるということです。そういう基準で生きる(行動する、選択する)ことです。

現代の人は「こうしなければならない」ということを極端に嫌います。代わりに「権利、権利」と、権利ばかりを主張するのです。しかし、すべての状態が自分の都合に合致しなければ喜べないというのは 自己中心的で赤ちゃんのような心の人で、その心を変えなければ、いつまでたっても成長はありませんし、滅びの道から逃れることはできません。すべての事が自分の思うとおりにはいくとは限らないからです。神から与えられた仕事を、神のために、神のお喜びのためにやるという心を持つ時に、大人のような立派なクリスチャンになることができるのです。パウロはそうでした。彼はいつも神のために何が一番良いことなのかを求めて生きました。たとえばコリント第一の手紙9章には、彼は飲み食いする権利、妻を連れて歩く権利、まあ、これは結婚のことですが、それから働きのために報酬を受ける権利があるが、そのような権利を一つも用いなかったと告白しています。なぜでしょうか?より多くの人を獲得するためです。

「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(Iコリント9:19)

彼はすべてのことを福音のためにしたのです。パウロは信仰によって、福音のために何が一番良いのかという選択をしました。それが霊的な大人の考え方です。そのように考えるなら、このような義務は祝福であることがわかるのです。また、そのような務めが私たちに与えられているということは、神がそのような者として私たちを認め、期待しておられるということの裏返しでもあるわけですから、本当に感謝なことなのです。今年のペットの流行は「ホーランドロップ」といううさぎだそうですが、どんなにホーランドロップが癒し系のかわいいうさぎだからといって、そのうさぎに家中を掃除することを期待するでしょうか。しないです。そのようなものとして認めていないからです。家にはかわいいフェレットがいますが、このフェレットに何らかの責任を与えたりするでしょうか。「フェレットちゃん、きょうはおとなしくお留守番しているのよ」なんて言いますか。言いません。そのようなことを期待していないからです。カエルにお買い物を頼みますか?「頼むから美味しい食べ物を買ってきてくれませんか」なんて・・。しません。できないからです。そんなこと言ったら、「もうカ~エル!」なんて言われるでしょう。そのように責任を与えるということは、それができると認めているから与えるのであって、できなかったら与えません。神様は私たちにそのような務めを与えてくださったというのは、そのような者として私たちを見ておられるからなのです。もし私たちが神から与えられた義務と責任をすばらしいものとしてとらえることができれば、一人の人間として、クリスチャンとして、必ず成長していくことになるのです。

パウロは、「私は、ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と言いました。「ギリシャ人にも未開人にも」とか、「知識のある人にも知識のない人にも」というのは、 世界中のあらゆる人々にという意味です。パウロの関心は、世界中のどこにおいても、この福音を宣べ伝えることでした。それが自分に与えられた使命であり、どうしてもしなければならない負債だと考えたのです。それはパウロだけではありません。私たちも同じです。私たちも同じ負債を負っているのです。私たちはそれほど大きな神の恵みを受けたからです。神の御子をこの世に与え、十字架につけて死なせ、三日目によみがえらせることによって、この方を信じる者はだれでも救われるという道を開いてくださったのです。そのおかげで、私たちはたましいの救いを得ることができました。何と大きな恵みでしょうか。私たちはそれほどの恵みを受けたのならば、その恵みを何らかの形でお返ししたいと思うのが、自然の思いではないでしょうか。パウロはその神の大きな恵みのゆえに、この福音宣教を、どうしても返さなければならない負債を神に負っていると感じていたのです。それは私たちも同じです。私たちも恵みを受けたのです。ですから、これがどうしても返さなければならない負債、いや、それこそ私たちの願いとして受け止めるられるなら、神の国がますます大きく前進していくだけでなく、私たち自身の祝福ともなるのです。

ですからパウロは何とかしてローマに行きたかった。ローマにいる彼らにも、ぜひ福音を伝えたかったのです。私たちもパウロのような情熱をもって、神のみこころに生きることを求めていきたいものです。

ローマ人への手紙1章1~7節 「この福音のために」

きょうからしばらくローマ人への手紙からご一緒に学んでいきたいと思います。あるアメリカ人のアルコール中毒患者が、どうしても酒を断ち切ることができず、病院で二ヶ月以上治療を受けました。その治療期間が終わって退院した帰りに、ある酒場の前を通りかかりました。雀が精米所の前を通り過ぎることができないように、その人に酒の誘惑が強力に襲いかかってきて、そこを通り過ぎることができなくなってしまいました。ところがそのすぐそばに、2ドル30セントで牛乳飲み放題の「牛乳バイキング」の店がありました。そこでこの人はそのお店に入って、満腹になるまで牛乳を飲んで出てきました。そして再び酒場の前を通りかかったときには、もうお酒の誘惑は全く無くなっていました。簡単に通り過ぎることかできたのです。牛乳でお腹が一杯になったからです。

これから学ぼうとしているローマ人への手紙全体のテーマは福音の力です。このアルコール中毒の患者が牛乳に満たされたことでアルコールに勝利したように、私たちは福音の力によって勝利ある人生を送ることができるのです。なぜなら、福音には力があるからです。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(1:16)です。この福音をよく理解し、この福音に堅く立ち、福音によって生きるなら、私たちはみこころにかなった歩みをすることができるのです。

きょうはこの神の福音について三つのことをお話したいと思います。まず第一に、パウロの召命感です。パウロは、この福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信をもっていました。第二のことはこの福音の内容です。それは御子に関することですとあるように、イエス・キリストのことです。そして第三のことは、この福音がもたらされた目的です。それは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためでした。それは、この福音であるイエス・キリストによってのみできるということです。

Ⅰ.神の福音のために選び分けられたパウロ(1)    まず第一に、パウロの召命感について見ていきたいと思います。1節をご覧ください。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。」

新約聖書の中にあるパウロの手紙は全部で十三ありますが、このローマ人への手紙は、その中でもきわめてユニークな手紙です。パウロのほかの手紙はすべて、彼が自分で伝道したか、あるいはパウロの弟子たちが伝道して生まれた教会に宛てて書かれた手紙ですが、このローマ人への手紙だけはそうではないからです。おそらくあのペンテコステの時に回心した人たちがローマに帰って伝道し、そういう人たちによって生まれていたのでしょう。ですから彼らとは一度も会ったことがありませんでしたし、全く面識がありませんでした。それではなぜパウロはローマの教会に手紙を書き送る必要があったのでしょうか。それは、このローマ教会が福音によってしっかりと立っていてほしかったからです。この手紙の後半の方、15章を見ると、どうもパウロはイスパニヤ、今のスペインですね、そこまで行って伝道しようと願っていたようです。その伝道を彼らに担ってほしいと考えていたのです。そのためには彼がローマに行って福音の奥義を語って教え、彼らの信仰を養育するのが一番ですが、今はそれができませんでした。パウロがこの手紙を書いたのは彼が第三次伝道旅行でコリントを訪れ、そこに三ヶ月間滞在した時でしたが、この後で彼はマケドニヤの諸教会から集めた献金をエルサレムに持って行かなければならなかったのです。ローマに行くことも大切なことですが、今は献金を携えてエルサレムに行くことの方がもっと重要なことだったからです。そこで彼はケンクレヤという隣町の女執事フィベにこの手紙を託して届けさせたのです。その手紙の最初のところで彼は、まだ一度も会ったことのないローマのクリスチャンたちに対して、「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」と自分を紹介したのです。

「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」という表現は、きわめて珍しい言い方です。皆さんがまだ一度も会ったことのない人に手紙を書き送る時に、このような言い方をするでしょうか。ここにはパウロの強い思いと確信がにじみ出ていると思います。それは、自分は福音宣教のために選ばれ、召し出され、存在しているという確信です。だからこそ彼は使徒の働き20章24節のところにあるように、「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。」と言うことができたのです。これが彼の献身の原動力だったのです。

皆さん、なぜ私たちはこの世に存在しているのでしょうか。私たちは何の目的もなく、意味もなく、ただ偶然に生まれてきたのでしょうか。そうではありません。神様に偶然などあり得ないからです。神様は一羽の雀が地に落ちるのも知っておられ、二十万本以上あると言われている私たちの髪の毛の数まで知っておられる方です。その神様は、私たちひとりひとりの人間に、その人生の目的なり、計画を持っておられるのです。それは何かというと、神の福音を宣べ伝えることです。福音をあかしすること、それが私たちに対する神のみこころなのです。イエス様を信じるすべての人は救いを得ていますが、なぜ神様は私たちをこの地上に置いてくださったのかというと、そこには目的があるからです。その目的とは神の福音を宣べ伝えることなのです。この目的をしっかりと握りしめている人は、どんな誘惑にも決して揺らぐことがありません。そして確信をもって献身することができるのです。この目的意識こそが、人を生かすのです。

昨年も自殺者が3万人を越えました。これで10年以上毎年3万人以上が自殺していることになります。その予備軍を入れたら、その数はものすごい数字になるでしょう。どうしてそんなに多くの方が自殺するのでしょうか。人生の目的がわからないからです。人は明確な目的があればあるほど喜びと使命感がわいてくるのです。人が自殺するのは人生に意味がなく、それが虚無的に感じらるからなのです。虚無感というのはたとえすぐに人を殺さなくても、日ごとに人を蝕んでいきます。その反対に目的意識は人にいのちをもたらし、人を強くするのです。

たとえば、先日、「この日本人がスゴイらしい」というテレビ番組で、核廃絶を世界に訴えた二重被爆者、山口彊(つとむ)さんの生涯が紹介されました。山口さんは1945年8月6日、会社の出張先の広島で被爆し、さらに8月9日、故郷の長崎でも被爆された二重被爆者です。それで左耳の聴力を失い、急性白血病となり、原爆の後遺症に苦しめられますが、被爆に対する偏見や差別などから自分が被爆者であることを隠していました。しかし妻と息子を亡くしたことがきっかけで、自分の命はいったいなぜ生きながらえているのか?自分がここに存在しているのはいったい何のためなのかを考えるようになりました。そして、それはこの核の恐ろしさを世界に訴えるためではないかと、自分が二重被爆者であることを公表するわけです。そして90歳になってからアメリカへ行き、ニューヨークの国連本部で反核、世界平和について訴えたのです。それから被爆をテーマにした映画を観てみたいと、「アバター」で有名な映画監督のジェームズ・キャメロンに手紙を書き送るのです。  すると2008年12月22日に、がんで長崎の病院に入院していた山口さんのもとに、このジェームズ・キャメロン監督がやって来て、やがて核廃絶をテーマにした映画を作ると約束したのです。その映画は「The Last Train from Hiroshima :The Survivors Look Back」というノンフィクションの著書を元にした映画で、この山口さんの体験が重要な部分を占めている映画です。  それにしても90を過ぎてから国連で訴えたり、ジェームズ・キャメロンに手紙を書き送ったりという知恵と力はどこから来たのでしょうか。それは、自分が生きているのはこのためであるという使命感からなのです。その使命感が山口さんを動かしたのです。それは私たちも同じです。

パウロは、自分が神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたという確信を持っていました。明確な目的意識があったのです。それが彼の生きる原動力だったのです。パウロはそのような召命感を持っていたので、すべてのことを犠牲にしても福音のために献身していきたいという思ったのです。それは私たちも同じです。私たちもこの福音のために選び分けられ、このことのために召され、今ここに存在しいるのだということがわかるとき、すべてのことを犠牲にしても、福音のために献身していくことができるようになるのです。

Ⅱ.福音はイエス・キリスト(2-4)

では、その福音とはどのようなものなのでしょうか。第二のことは、その福音の内容についてです。2~4節までをご覧ください。

パウロは自己紹介をしたのち、この手紙の受取人であるローマにいるすべての聖徒たちへ、すなわち7節に進むはずでしたが、ちょっと横道にそれて、とうとうこの手紙の中心主題である神の福音について語り始めました。彼としては、それが言いたくて、言いたくて、ムズムズしていたのでしょう。人は頭にあることを話します。食べ物のことばかり話す人は、いつも食べ物のことばかり考えているからです。人は頭で考え、心で思っていることを話すからです。私は24時間いつも教会のことばかり考えているので、いつも教会のことばかり話します。頭のてっぺんを押されても、横っ腹をつつかれても、足の裏をくすぐられても、その口から出てくるのは「教会」のことです。パウロが考え、パウロが思っていたことは、神の福音のことでした。彼はいつも福音のことばかり考えていたので、自己紹介からその受取人について書き記す間に、横道にそれてしまったのです。それほど彼は福音に心が捕らえられていたのです。しかし、ここではすべてを語りません。食事でいうなら前菜のようなもので、フルコースのメニューのわずかなものだけちらつかせて、フルコースへの関心をかき立てようとしているのです。では、その神の福音とはどのようなものなのでしょうか。

「―この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

それは旧約聖書の預言者たちを通してずっと昔から約束されていたもので、御子に関することです。この御子は、「肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神に御子として示された方」です。「肉によれば」というのは人間的に見ればという意味です。つまり、人間的に見れば、この御子は旧約聖書の預言に記されてあるとおりに、ダビデの子孫としてお生まれになられたということです。旧約聖書の預言のとおりに生まれた方です。すなわち、まことの救い主であられるということです。それだけではありません。聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方です。つまりキリストは十字架で死なれましたが、その死から復活されることによってご自身が神であることを証明されたのです。「この方が死につながれていることなどあり得ないからです。」(使徒2:24)つまり、この方は旧約聖書のメシヤの預言の通りに生まれた方であり、死者の中からよみがえられることによって、神の御子であるということをはっきりと示された方、私たちの主イエス・キリストのことなのです。私たちは、この主イエス・キリストによって罪から救われ、喜びと感謝の中を生きることができるのです。これが福音です。いや、このお方こそ福音なのです。

皆さん、福音とは、決して観念やイデオロギーではありません。この生きておられる主イエス・キリストとの交わりなのです。この方にかたく結びついているときのみ、私たちはいのちにあふれた生活をすることができるのであって、それがなかったら福音とは言えないのです。パウロが信じていた福音とは、そのように自らが体験していたものであり、確かな力であり、いのちだったのです。16節のところで彼が、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と言っているのはそういうことです。福音は力なのです。

イエス様は、ピリポ・カイザリヤというところで弟子たちに、「人々はわたしのことを何と言ってるか?」とお尋ねになられました。すると弟子たちは、「ある人は預言者だと言い、ある人はエリヤ、また別の人はほかの預言者だと言っています」と答えました。するとイエス様は何と言われたでしょうか。イエス様はこのように言われたのです。「では、あなたがたはわたしを誰だと言うのか?」他の人々の主張はそのくらいにして、それではあなたがたはわたしを誰だというのかと、彼ら自身の告白を求められたのです。  すると弟子の一人のペテロが言いました。「あなたこそ、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)するとイエス様は、ペテロを称賛し、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです」と言われました。イエス様はほかの人が何と言っているかではなく、あなたは何と言うか、あなた自身の告白を聞くことを願っておられるのです。

しかし、私たちは自分の告白をしません。「ある人の話ですが、イエスを信じると救われるらしいです」とか、「ある人の話ですが、祈ると答えられるそうです」と言うのです。これは福音宣教ではありません。福音宣教とは、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを証することなのです。「イエスが力です。十字架が救いの力です。祈りは必ず答えられます。イエス様だけが唯一の望みです。」とはっきり言えなければならないのです。そのように言える自分の信仰、証がなければなりません。私が信じているイエス様、私が信じている福音、私が体験した福音を証しなければなりません。それが力の源なのです。福音には力があるので、みことばをそのまま読むだけでもすばらしい力がありますが、もっと力があるのはそのみことばを実際に味わっていることを証することです。福音はイエス・キリストであり、単なる観念ではなく、力だからです。

Ⅲ.このキリストによって(5-7)

最後に、このようにパウロがローマの教会に福音を宣べ伝えた目的とその手段についてを見て終わりたいと思います。5-7節をご覧ください。

「このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。―このパウロから、ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

パウロは自己紹介をしながら、横道というか、福音そのものについて少し触れましたが、巧みに話を元に戻し、差出人から宛先へと進めていきます。今ここで紹介した福音の本質とはイエス・キリストであるという話から、このキリストによって、自分が使徒としての務めを受けたのだと結びつけていくのです。ここには「恵みと使徒の務め」とありますが、これは、「恵み、すなわち使徒の務め」という意味で、「使徒の務めという恵み」ということです。パウロは福音そのものである主イエス・キリストによって、この尊い務めをいただいたのです。では、それはいったい何のためでしょうか。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。「信仰の従順」とは何でしょうか。「信仰の従順」ということばは、ギリシャ語では「信仰、つまり神への従順」となっています。ですから信仰の従順とは、信仰の内容である神に従う生活のことなのです。パウロが使徒の務めという恵みを受けたのは、あらゆる国の人たちがこの福音を信じ、神の用意してくださった救いを受け入れることによって、神に従う生活ができるようにするためだったのです。それはパウロだけではありません。「あなたがたも」、すなわち、ローマのクリスチャンたちも同じです。いや私たちも同じなのです。なぜなら、私たちも、イエス・キリストによって召された者だからです。私たちも神に愛され、召された者として、パウロのように、あらゆる国の人々に信仰の従順をもたらしていかなければならないのです。どうやってそれができるのでしょうか。ここに「このキリストによって」とあります。「このキリスト」とは、神の福音そのもののことです。ですからこれは、神の福音によってということになります。神の福音によって私たちは、あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすことができるのです。それは決して人間の力や方策によってではないのです。

ネヘミヤは、バビロン捕囚からエルサレムに戻ってきたイスラエルの民に何をしたでしょうか。ネヘミヤ記8章を見ると、彼は、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラにお願いしました。それを水の門の広場に集まっていた民に、夜明けから真昼まで、朗読したのです。その結果消滅していた仮庵の祭りが復活し、異邦人との婚姻が解消され、安息日を守る運動が徹底され、什一献金が行われるようになり、イスラエルに信仰の変革が起こっていったのです。これがウォーターゲートのリバイバルです。「水の門」ウォーターゲートでのリバイバルです。それはイスラエルが神のみことばに立ち返り、みことばに堅く立つことによってもたらされたものだったのです。。

それは使徒の働きの中に見られる初代教会も同じです。例えば、使徒の働き19章にはパウロがエペソで伝道した時のことが記されてありますが、彼らはパウロを通してみことばを伝えられるとすぐに、魔術を行っていた人々は魔術の本を集めて燃やしてしまいました。その額なんと銀貨5万枚、今の価値で300万円相当だったと言われています。それは彼らが神のみことばを聞いて、それを理解したからなのです。みことばを本当に理解すると、自然と、その行動にも変化が起こってくるのです。

1903年にウェールズで起こったリバイバルもそうでした。神様のみことばに対する覚醒が起こると、劇場や酒場が門を閉ざすようになりました。また工場の労働者たちが盗んだ品物を返しにやって来て、それが山のように積まれるようになったのです。なぜそういうことが起こったのかというと、いつもむちで虐待していた主人たちが、神の恵みを受けてからは慈しみ深くなり、ロバを抱いて涙する人までいたからです。神のみことばによって人々の内側が変革したことが、社会的な改革へとつながっていったのです。

1907年に今の北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で起こったリバイバルもそうでした。みことばで目覚めた聖徒たちが日曜日になると一斉に仕事を休んだので、平壌の経済が麻痺してしまったのです。10%の聖徒たちが商店の門を閉めたので、平壌全体が日曜日の主日には一斉に休むようになったのです。クリスチャンが10%になると、社会全体に大きな影響を及ぼすようになるのです。

それまでは少し忍耐が必要です。日本では今のところクリスチャンの人口は全体の1%にも満ちていませんが、これが10%になると、社会全体を変革していく大きなうねりとなるのです。その鍵は何でしょうか。信仰の本質である神の福音です。神の福音に立ち返り、この福音にしっかりと立ち続けることであって、それ以外にはないのです。決して人間的な方法やプログラムによるものではありません。

猪(いのしし)が最も好んで食べる物はどんぐりだそうです。猪はどんぐりに目がなく、夢中になるのです。しかし猪は頭が悪いのか、どんぐりがなくなると、どんぐりが地面から出てくると思って地面を掘り返してしまうのです。もし私たちが猪のことばを知っているとしたら、そんな猪に何とことばをかけてやるでしょうか?「猪君。地面を掘ったってドングリは出て来ないよ。どんぐりは上から落ちてくるの。だからそんなにどんぐりを食べたければ、木の根元を打つか、枝を揺らさないと・・。」このように言ってやるのではないでしょうか。

同じです。コロサイ人への手紙3章1,2節には、「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右の座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」とあります。何か良い方法はないかと地面を掘ったりするのではなく、天にあるものを求めていかなければなりません。「天にあるものを求めなさい」それが私たちに求められていることなのです。

私たちはこの一年がそのような年でありますようにと祈ります。「このキリストによって」「この神の福音によって」皆さんの心が奮い立たせられる一年でありますように。いつもみことばに立ち返りながら、そこから恵みと力をいただいて、このすばらしい務めを全うしていくことができますように。この教会がこの福音に堅く立ち、キリストの恵みと力によって前進していく教会でありますように。

Acts28:30-31 “Boldly by the Holy Spirit”

              Since June of 2009 for one and a half years, I’ve been preaching from Acts and finally we have come to the end.  Actually if you include since the time we started the first book that Luke wrote, the Gospel of Luke then we’ve been studying what Luke wrote for 3 and a half years.  The last ties everything together so today let’s once more look at what sharing the Gospel is.

              Beginning with the birth of the church Acts gives in a large scale a picture of the first church, but ends without much spark.  This ending is so plain, that many theories have been given as to why the book ends here. For example, when Luke got to

this point there was something that happened that prevented him from continuing.  Possibly Luke planned to write the rest in a 3rd book, but he died. Possibly he actually wrote the 3rd. book, but it got lost. Etc.

              However, just because a book didn’t end the way the reader wanted it to doesn’t mean that it is necessary to try to speculate on the reason. Rather, we should consider why Luke ended this way.  Luke is summarizing everything that he has said. In other words, Peter and Paul and all the people that appeared in Acts preached the kingdom of God Jesus Christ.  In today’s passage this is summarized well. Therefore, today let’s at the end of Acts as a conclusion to the whole of Acts and see how Paul shared the Kingdom of God and taught about the Lord, Jesus Christ.

I.                Like this (vs. 30)

The key to Acts is Acts 1:8.  Luke is saying in Acts 1:8 and showing us throughout the book of Acts that the way the kingdom of God is preached and the Lord, Jesus Christ is taught is by the Holy Spirit coming upon us and when that happens then we will receive power.  It is definitely not by human power or ability.  It is only possible by the power of the Holy Spirit.  People who share the Gospel have an end, but the work of the Holy Spirit has no end.  It is eternal.  By the work of the Holy Spirit the Gospel was spread from Jerusalem to Judea and Galilee, and to the utmost parts of the earth.  Luke who wrote this wanted to tell us that.  He had written in the earlier book, in other words, the Gospel of Luke, “about all that Jesus began to do and to teach.” (1:1)  In the continuation, Acts, he records the Growth of the God’s work of Jesus who was lifted to heaven, through the Holy Spirit, and through the church.  Therefore, the main topic of Acts is not Paul, but our Lord, Jesus Christ. It is not the Acts of the Apostles, but the Acts of the Holy Spirit.

“But you will receive power when the Holy Spirit comes on you; and you will be my witnesses in Jerusalem, and in all Judea and Samaria, and to the ends of the earth.” (1:8) This means that the work of Acts is not finished. By the end of the book of Acts there were still places at the ends of the earth that the Gospel had not reached.  That is the same today.  We are still in the process of reaching the ends of the earth.  According to the survey of 2007 in Japan, presently there are over 1,500 cities, towns and villages without a church.  In Japan there are still many places that are at the ends of the earth that have not heard the Gospel.  By the power of the Holy Spirit we need to share the Gospel in these places.  We need to be filled with the Holy Spirit, and we need to be careful to not block the work of the Holy Spirit. We should never use human means, but work in the freedom of the Holy Spirit, and we should endeavor to prepare the way for them to hear Gospel.

Jesus said, “The wind blows where it pleases.” (John3:8)  “The wind” is the Holy Spirit.  The Holy Spirit has personality and likes.  The Holy Spirit goes “where it pleases”. There are no Christians who don’t have the Holy Spirit, but that doesn’t mean that the Holy Spirit is pleased.  Therefore, in Ephesians it says, “Do not grieve the Holy Spirit.” (Ephesians 4:30).   When the Holy Spirit is grieved, we can’t be filled with the Holy Spirit.  

“The wind blows where it pleases.” (John3:8) So that the flow is not hindered,  let’s seek the Holy Spirit, and walk so that the Holy Spirit is pleased.  In that way the kingdom of God will be preached and the Lord, Christ, will be taught.

II.              Welcoming those who come to visit (vs. 30)

Here it says, “For two whole years Paul stayed there in his own rented house and welcomed all who came to see him.” (30) The 2 years includes the time spent during the proceedings of his release, the whole time that he was under house arrest. According to the Roman law at that time, if the accuser didn’t appear in the court within 18 months, the case would be canceled. Therefore, the reason that Paul was here for 2 years in his own rented house was because the Jewish leaders that had caused such a disturbance and accused Paul, maybe they thought their                                 was disadvantageous, but they didn’t come to Rome and press charges against Paul.  Paul won and was not guilty.  The Gospel was victorious.

However, even though he was victorious in the courts, these 2 years were for him a very difficult time.  To have to spend time in this type of circumstances must have been very tough.  However, the Bible doesn’t say it that way.  Here it says, he “welcomed all who came to see him.” (30) and “he preached the kingdom of God and taught about the Lord Jesus.” (31)    The way of evangelizing by welcoming “all who came to see him”. (30) if you consider just words, this seems a little passive, but on the other hand it is using every opportunity to preach the Gospel.  In reality at this time Paul was in chains, a prisoner, so he couldn’t go out and freely preach in the Jewish synagogues and squares.  However, just because he couldn’t go out he didn’t just sit on his hands.  Even in this type of condition he did what he could do.  For example, Ephesians, Philippians, Colossians, and Philemon, many of his letters were written then. Even in this kind of condition, he witnessed in the ways he could.  Not only that but in Philippians 1:12-14 he says, ”Now I want you to know, brothers, that what has happened to me has really served to advance the gospel.  As a result, it has become clear throughout the whole palace guard and to everyone else that I am in chains for Christ.  Because of my chains, most of the brothers in the Lord have been encouraged to speak the word of God more courageously and fearlessly.”

Being arrested actually “served to advance the gospel.” (Philippians 1:12)  For 2 years the guards watched over him and every time they went back to their office they told everyone about what Paul had said about Christ. Gradually the Gospel was spread  from Paul’s guards to the whole palace guard, and “most of the brothers in the Lord” (Philippians 1:14) were given confidence and more and more boldly testified to the Word of God.  It was really amazing.  Paul used the chances that he was given and did the Lord’s work. Therefore he “welcomed all who came to see him.” (30) was nothing more than the means by which he did so. No matter what came his way, he used it as a chance to evangelize and witnessed.

“Paul stayed there in his own rented house and welcomed all who came to see him.” (30) This wasn’t his “own” house.  He was still a prisoner with a guard. Therefore he was free, but not free .  However, at that rented house, there was God’s blessing.  Everyone wants to live in a house with land that they own.  However, even if you live in a rented house all of your life a house with the blessings of the kingdom of God is wonderful.  A rented house, an old house, a house with an entrance that is guarded, even if there is no freedom, but if there are many people who come to visit and if the kingdom of God is being preached to them, then it is a huge blessing. Whether it is a rented house or a house that has been bought, if those who visit are welcomed and the kingdom of God is shared with them then it is a wonderful privilege.

III.            Without hindrance (31)

Finally, let’s look at the fact that Paul preached “boldly and without hindrance.” (31)  It was a miracle that Paul was able to preach “boldly and without hindrance.” (31)  It we think back through Paul’s evangelism, in Judea, in Asia, and in Europe, there we always some king of barriers.  It was continuous barrier and obstacles.  Now Paul is in the middle of Rome, which prided the world with its culture, politics, and military strength.  Not only that he is a prisoner, but he is able to evangelize.  This shows that the Gospel is victorious.  This is the last verse of Acts because Luke wanted to say that the Gospel is always victorious.