イザヤ書2章1~22節 「鼻で息をする人間をたよりにするな」

きょうはイザヤ書2章全体から学びたいと思います。タイトルは「鼻で息をする人間をたよりにするな」です。これは22節のみことばそのものです。ここには、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」とあります。きょうは、神様にたよることについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.主の光に歩もう(1-5)

まず第一に、1節から5節までをご覧ください。ここには、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」とあります。

これは、イザヤがユダとエルサレムについて預言したことばです。イザヤは、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」と預言しました。この「終わりの日」とはいつのことなのでしょうか?これは、やがてキリストが再臨した後にもたらされるこの地上における千年王国の時のことです。イザヤはその終わりの日に現れる輝かしい神の国の幻を見たのです。

いったいその日にどのようなことが起こるのでしょうか?その日、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来ます。主の家の山とは、エルサレムのことです。このエルサレムが山々の頂に立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。これはエルサレムが文字通りすべての山よりも高くなるということではありません。これはシオンの山、エルサレムが、どの山よりも輝かしい所になるという意味です。その日、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。なぜでしょうか?主が再臨されて、そこに立たれるからです。ゼカリヤ書14章4節をご覧ください。そこには、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。その日、主がすべての聖徒たちを引き連れて来られ、オリーブ山に立たれるのです。すると、エルサレムからわき水が流れ出て、その半分が東の海に、他の半分が西の海に流れ出るようになのです。(同14:8)夏にも、冬にもそれは流れます。また、その日には、光も、寒さも、霜もなくなります。昼も夜もありません(同14:6)。夕暮れ時に、光があるのです。イエス様が再臨され、この主の山に立たれるからです。問題は、主がその山に立たれて何をされるのかということです。3節をご覧ください。ここには、

「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」

とあります。主はご自身の山に立たれるとき、そこでみことばを教えてくださるのです。主自らです。今は牧師とか、教師とか、伝道者とかがたくさんいて、こういう人たちを通してみことばが教えられていますが、この時には主が自ら教えてくださるのです。主が教えてくださるので全く誤りはありません。私は毎週かなりの時間をかけてみことばの準備をしていますが、それでもぼんやりしています。けれども、この時には主が直接顔と顔とを合わせて語ってくださるのです。はっきり・・・と。何とすばらしいことでしょうか。その時私たちは、主が語られるみことばを聞いて、感動で心が震える経験をするでしょう。

それだけではありませんよ。4節を見ると、「主は国々をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」とあります。どういうことかというと、その日、主が国々をさばかれ、判決を下さるので、そこに完全な平和がもたらされるということです。主のさばきは完全だからです。その時には剣が鋤に、槍がかまに変わります。軍事道具が農業用具になるのです。軍事道具が必要なくなるからです。軍事予算は必要なくなり、それらがみな農業予算に変わるのです。今そんなことをしたら大変なことになります。そんなことをしたら諸外国からの驚異に脅かされることになってしまうでしょう。ですからどの国でも軍備を増強して戦争に備えなければなりません。しかし、それがあまりも膨大なので、どの国でも悲鳴を上げている状態なのです。しかし、この終わりの日にはそうしたことも必要なくなります。主が正しく国々をさばいてくださるので、そこには完全な平和がもたらされるからです。悪は全くはびこることがないので、女の人でも夜間安心して出かけることができます。子供たちが誘拐される心配もいりません。人に騙されこともないのです。あのエデンの園のようです。そのような世界がもう一度この地上にもたらされるのです。それが主の千年王国です。それゆえに主はこう仰せられるのです。5節です。

「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」

終末の主の家の山の情景に見とれていた会衆に向かって、主は「さあ、来たれ。」と言って、彼らを未来から現在へと引き戻されます。そして、実際的行動へと駆り立てられるわけです。その実際的行動とは何かというと、「私たちも主の光に歩もう」ということです。「主の光に歩む」とは、神のみことばに従って生きるということです。イスラエルは神のみことばを聞くよりも、世の中のことを優先し、異邦人のように、人が造った物を拝んでいました。その罪を悔い改めて、主の道に歩もうではないか、と言うのです。

それは私たちクリスチャンも同じです。コロサイ3章5節には、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。私たちはこのむさぼりによって偶像礼拝の罪を犯してしまうことがあります。神様よりも自分のことが、この世のことが優先してしまうことがあるのです。それは偶像礼拝だと聖書は言うのです。主が私たちに求めておられることは、私たちも主の山に上り、そこで主のみ教えを聞き、その小道を歩くことです。人間関係や様々なプログラムが中心となるのではなく、神のみことばを聞いてそれに従うという生活、みことばが私たちの生活の中心でなければならないのです。  皆さんはいかがですか?皆さんにとっての最優先の事柄は何でしょう?主が語られるみことばを聞いて、その小道を歩くことによって、私たちも主の光に歩む者でありたいと思います。

Ⅱ.主だけが高められる(6-21)

次に6節から21節までを見ていきましょう。こうした主の招きに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。6節から9節までには、次のように記されてあります。「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。―彼らをお赦しにならないように。―」

「彼らをお赦しにならないように」というのはひどいことばです。なぜイザヤはこのようなことを言ったのでしょうか?それは彼らのあり方があまりにもひどかったからです。まず彼らはペリシテ人のように占いに満ちていました。卜者とは牧者ではありません。これは占いをする人のことです。人はこれから先どうなるのかがわからないと占いにたよるようになります。クリスチャンは将来どうなるかを聖書によってある程度知ることができるのであまりブレることがありませんが、聖書を知らない人はいつもブレています。そして占いにたよるのです。かなり前のことですが、日本で一年間にどれくらいの金額が占いに使われているかを調べたことがありますが、それによると数千億円にも上りました。それだけ不安だということなのでしょう。だったら聖書を学んだほうがよっぽどいいと思うのですが、そういう人たちは聖書よりも占いに走ってしまうのです。手っ取り早いからでしょう。

そればかりではありません。7節を見ると、「その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく・・」とあります。これは何のことかというと富のことです。富にたよるのです。あの愚かな金持ちのように、これから先何年分も物をたくわえることができたと、自分のたましいにこう言うのです。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、その時神はこう言われます。「愚かもの。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」このような人は、自分のいのちは財産にあると思っているのです。しかし、そのいのちが取り去られたら、そのように蓄えた物は、いったい何になるでしょうか。

さらに、ここには「その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。」とあります。これは軍事力を表しています。どの国でもそうですが、国が豊かになるともっと国を強くしていきたいと思うようになるのです。そしてこうした軍事力にたよろうとするのです。当時のイスラエルもそうでした。

そして偶像礼拝ですね。8節には「その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。」とあります。ユダの地は、偶像礼拝でいっぱいでした。自分の手で造った物、自分の指でこしらえた物を拝んでいたのです。

こうしたイスラエルに対して神様はどうされるのでしょうか。9節にはこのようにあります。「こうして人はかがめられ、人間は低くされた。」どういうことでしょうか?ここで「人間は低くされた」というのは、人間性が低くされたという意味です。詩篇115篇4節から8節に、「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。これに信頼する者もみな、これと同じである。」とあります。これに信頼する者もみな、これと同じです。偶像を拝む者は偶像のようになるのです。真の神様を礼拝する人は、神様のようになります。人はその触れるものに似ていくのです。イスラエルはこうした偶像を拝んでいたので、偶像のようになっしまいました。それが人間は低くされたという意味です。    ですからイザヤはこう言うのです。「彼らをお赦しにならないように。」もうどうしようもない状態です。そのような彼らには神の怒りと神のさばきしか望めなません。そういう告白だったのです。

どんなに神様が彼らを祝福しようとしても、彼らはこれを受け入れようとするどころかこれを拒み、他のもので心を満たそうとしました。いったい何が問題だったのでしょうか?高慢です。広辞苑で調べてみると、高慢とは「自分の才能・容貌(ようぼう)などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。」とありますが、聖書でいう高慢とは、少し意味合いが違います。聖書で言う「高慢」とは、自分の才能や容貌などが人よりすぐれていると思い上がることだけではなく、神を信じないことです。神に聞き従わないことなのです。「神様なんていらない。私は自分でやっていけるから」とか、「神様がなくても十分満足ですわ」といった思いです。それが高慢であるということです。このように高慢であると神様はさばかれ、そうしたものをことごとく低くされるのです。

10節と11節には、「岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。」とあります。高ぶる者に対して神が敵対し、激しいさばきを行われるので、人々は岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになるのです。

また、12節から18節を見ると、「まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶるものはかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。」とあります。ここに出てくるレバノンの杉の木とか、バシャンの樫の木とか、タルシシュの船というのは。どれもすばらしいものです。たとえば、レバノンの杉は、ソロモンの神殿に使われましたし、バシャンというのは、ゴラン高原のことですが、ガリラヤ湖の東側にある高原で、とってもきれいな所だそうです。春になると花が咲き乱れ、放牧にもとても適している所です。またタルシシュというのはスペインの南部の都市ですが、そこでは鉱石が採れ、貿易の町としてとても栄えました。人間が見て「これはすばらしい」と思っているものが全部だめになってしまうのです。

極めつけは19節から21節でしょう。ここに、「主が立ち上がり、地をおののかせるとき」とありますが、これは大地震のことです。主が立ち上がり、大地震によって地をおののかせる時が来るのです。それが大患難時代に起こるのです。黙示録6章12節から17節は、そのことを預言したものですが、次のように記されてあります。

「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

やがて世の終わりに、大きな地震が起こり、天地万物のすべてが揺れに揺れるようになるのです。そのとき人々はほら穴と山の岩間に隠れ、自分たちが拝むために造った金や銀の偽りの偶像をもぐらやこおもりに投げつけるようになるのです。全く役に立たないと言って・・・。そうして偽りの神々は消え失せ、主おひとりだけが高められるようになるのです。

皆さん、いったなぜこの世において神様の栄光が見えずらくなっているのでしょうか。神様ではなく占いにたよっているからです。神様ではなく富にたよっている。神様ではなく人間の力にたよっているからです。神様ではなく偶像にたよっているからです。そういうことを皆がしているから神様の栄光が見えなくなっているのです。たとえば、私たちが高い山に登って、「ああ、神様が造られた自然は何とすばらしいんだろう」と思っていると、頂上には鳥居があったりして、そこで人々が偶像を拝んだりしているわけです。そうするとすぐに神様の栄光に陰りが出てくるのです。こうしたことはみな人間の高慢さから出ていることであって、神様はそうした人間の高慢を砕かれるのです。

Ⅲ.鼻で息をする人間にたよるな(22)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、イザヤの結論はこうです。22節です。ご一緒に読んでみましよう。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」

鼻で息する人間をたよりにするなとはどういうことでしょうか?口で息をすればいいんですか。あるいは耳で。そういうことではありません。鼻で息する人間とはすぐにだめになってしまう人間という意味です。いいですか?皆さんの鼻と口を手で押さえて息ができないようにしたら、どれだけ生きていられるでしょうか。10分ですか?あるいは20分でしょうか?さすがに1時間も息をしないでいられる人はいないでしょう。息をしなかったら人はみな死んでしまうのです。人間とは、それほどもろいものです。そのような人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。というのです。しかし、これは戦いです。クリスチャンにとっても戦いです。人のことばを聞いて安心するところがあるからです。そうでしょ。人のことばがないと不安になります。ですから、神様のことばを聞いていても、人のことばの方を信頼してしまうのです。しかし、それは息でしかありません。すぐに消えてしまうのです。なぜそのようなものにたよるのでしょうか?実はこれがなぜイエス様を信じないのかという理由でもあるわけです。人間にたよってしまうのです。人間にきたいしてしまう。人間中心なんです。それが問題です。

ある人が、「国に危機が襲ったとき何にたよるか」という統計をとりました。それによると、アメリカで一番多かった答えは「神」でした。そのような時には教会に行って祈りますというのが一番多かったのです。ですから一時的であっかもしれませんが、あの同時多発テロ事件が起こったとき人々はこぞってみな教会に行ったそうです。国中で「God Bless America」が歌われました。「レフト・ビハインド」という再臨に関する書物が多く読まれました。それは最終的にたよるのは神様だと意識しているからです。しかし、日本では違います。日本では何にたよるかというとマスコミなんでかね。テレビや新聞です。マスコミでは何と言ってるかが基準になるのです。このマスコミというのは何かというと人間のことばなんです。人間にたよっていく。それが日本です。日本はそうやって発展を遂げてきたのです。

鍋谷堯爾先生(なべたに ぎょうじ)は、ご自身ま著書「鷲のように翼をかって」の中で、同じようなことを指摘しています。すなわち、日本が明治維新以降、これだけの近代資本主義社会を築くことができたのは、人間の合理性とお金の損得勘定で動く日本人の精神的土壌がその背景にあったと述べておられます。

そうした傾向は教会の中にも入り込んでくる場合があります。聖書は何と言ってるかではなく、牧師はどういう人なのかとか、教会にはどのような人が集まっているかということが、善し悪しの判断の基準になることがあるのです。神様よりも人に関心が向き、神のことばよりも人のことばを信頼してしまうのです。聖書が何と言ってるかよりも、他の人は何といってるかが自分の生きる基準になっているのです。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われたりすると極端に落ち込んでしまえわけです。しかし、大切なのは人が何と言ってるかではなく、神のみことばは何と言ってるかです。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければなりません。鼻で息をするような人間には何の値うちがあるでしょうか。ありません。それは、きょうはきれいに咲き誇っていても明日には枯れてしまう野の草のようなものなのです。真にあがめられるべきお方はおひとりだけです。この天地を造り、これを統べ治めておられる神様だけなのです。私たちはこの方をたよりとしなければなりません。

かつてエジプトに捕らわれていたイスラエルを救い出すために神がモーセを召された時、「わたしは、「わたしはあるという者である」(出エジプト3:14)と言われました。主は、他の何にも依存することない自存の神であるという意味です。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28-31)

私たちが信頼すべき方はこの方です。永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない方。この方です。この先私たちにどんなことが起こるかわかりませんが、どんなことがあってもこの方だけにたよって生きる者でありたいと思います。

イザヤ書1章21~31節 「初めのようにされる神」

イザヤ書からのメッセージですが、きょうは「初めのようにされる神」というタイトルでお話したいと思います。イスラエルは神に愛された民なのにその神に背を向け、離れ去って行きました。その結果彼らは病にかかり、傷だらけになってしまいました。頭のてっぺんから足の先まですっかり弱り果ててしまったのです。そんなイスラエルに神は和解の道を示されました。もし悔い改めるなら、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださると約束されたのです。このようなパターンがこのイザヤ書には何回も何回も繰り返して出てきます。

きょうの箇所もそうです。きょうのところには、イスラエルのことが「忠信の都」と呼ばれていますが、この都が遊女になってしまいます。そのエルサレムをどのようにして回復してくださるのかが描かれているのです。きょうはこのイスラエルの回復について三つのことをお話したいと思います。第一のことは、この堕落した忠信の都の姿についてです。第二のことは、そんな忠信な都がどのように回復していくのかという神の計画についてです。そして第三のことは、ではそのためにどうしたらいいのかということについてです。

Ⅰ.遊女になってしまった忠信の都(21-23)

まず第一に堕落した忠信な都エルサレムの姿について見ていきましょう。21-23節をご覧ください。

「どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」

ここで神様は「どうして、遊女になったのか、忠信の都が。」と嘆いています。「忠信の都」とはエルサレム(イスラエル)のことです。エルサレムはまごころを尽くし、うそ偽りのない忠信の都として造られました。公正と正義にあふれていました。にもかかわらず彼らは、遊女となってしまったのです。ここで神様はイスラエルとの関係を夫婦の関係で表しています。夫婦にとって最も重要なことは誠実であることです。その誠実さが失われたことに対して夫である神が嘆いているのです。イスラエルが神様から与えられた契約に背いて、不従順、不信仰になってしまい、偶像に心を移すようになったのをご覧になって、「どうして、遊女になったのか」と嘆いておられるのです。

聖書に出てくる人物で、最も公正と正義に満ちていた人物はだれでしょうか。もちろんイエス様はそうですが、イエス様以外にあげるとしたらおそらくダビデでしょう。彼はバデシェバとの姦淫の罪を犯しましたが、神様に対しては本当に忠実な人でした。すべてのことに神の主権を認めていました。サウルが洞窟にやって来て彼を殺すチャンスがあったのに、サウルに手をかけることをしませんでした。彼が油注がれた王様だったからです。それで着物のすそを切りましたが、それだけでも良心が痛みました。彼はすべてのことに神の主権を認めていたからです。彼は、良いことも悪いことも、彼の人生に起こるすべてのことが神から来ていると認めていました。それほど神を恐れ、神に従っていました。そのような誠実さが求められていたのです。

けれども、イスラエルはそうではありませんした。神様から与えられた契約に背き、不信仰になり、不純になり、偶像に心を移すようになったのです。それはちょうど銀がかなかすに、良い酒が水で割ったようになったのと同じです。22節を見ると、「おまえの銀は、かなかすになった。おまえの良い酒も、水で割ってある。」とあります。「かなかす」とは、不純物の多い金属を指す場合に使われることばです。銀は銀であるからこそ意味があるのに、そこに不純物が入ってしまったら価値がなくなってしまいます。それは「良い酒」も同じです。良い酒を水で割ったらどうなるでしょうか。私はお酒を飲まないのでよくわかりませんが、あまり美味しくないでしょう。ウィスキーなら「水割り」がありますが、日本酒の水割りは聞いたことがありません。一番わかりやすいのはコカ・コーラの水割りです。皆さんもコカ・コーラを水で割ったら飲めますか?本当にまずいですよね。コカ・コーラはコカ・コーラだからこそ意味があるのです。コカ・コーラをを水で割ったらスカッと爽やになりません。不純物が入ると本来の成分を失ってしまうのです。まさにイスラエルはそのような状態でした。

その結果どうなったでしょうか?23節です。「おまえのつかさたちは反逆者、盗人の仲間。みな、わいろを愛し、報酬を追い求める。みなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。」これはどういうことかというと、彼らが神様から離れた結果、特にその国の指導者たちは盗人の仲間のようになり、わいろを愛したり、報酬を求めるようになったということです。つまり、物質主義に走るようになったということです。

人々が真の神を拒むと、このように物質を追い求めるようになるのです。神様の代わりに受け入れるものは目に見える物しかないからです。こういうのを唯物論と言います。もし人が唯物論を受け入れるなら、その人は人間を理性のない、ただ本能のままに生きている動物のようになってしまうのです。その結果、倫理観は低下し、弱肉強食の争いを繰り返し、政治が堕落し、不道徳が蔓延することになるのです。イスラエルは、創造主でいます神を拒んだことで、不道徳に陥ってしまいました。

これはイスラエルだけでなく、私たちの社会も同じではないでしょうか。神様を拒み自分勝手に生きようとした結果、人々は目に見える物を追い求めるようになってしまいました。そしてその結果、堕落と破滅が生じ、人類が混乱するようになってしまったのです。

イエス様は、「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)と言われました。塩が塩気なくしたら意味がありません。そのような塩は何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられてしまうのです。私たちはクリスチャンとして、地の塩としての役割を十分果たす者でなければなりません。

ではその使命とは何でしょうか。それはこのキリストの花嫁として誠実であることです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)イエス様に心と思いを集中しなければならないのです。神様が私たちに求めておられることは忠信であることです。クリスチャンとして召されたというのはこういうことなのではないでしょうか。

Ⅱ.忠信の都の回復(24-27)

ではどうしたらいいのでしょうか。24節から27節をご覧ください。ここには、

「それゆえに、―万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ―「ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきいつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、中信な都と呼ばれよう。」 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」

とあります。24節を見るとそのようなイスラエルに対して、神様はさばかれるとあります。「それゆえに、万軍の主、イスラエルの全能者、主の御告げ。ああ。わたしの仇に思いを晴らし、わたしの敵に復讐しよう。」「それゆえに」とは、忠信の都であるはずのエルサレムが遊女になってしまったのでということです。遊女となってみなしごのために正しいさばきをせず、やもめの訴えも取り上げないのでということです。それゆえに、神はイスラエルをさばかれるのです。

ここには神様の名前が「万軍の主」とか、「イスラエルの全能者」とありますね。「万軍の主」というのは軍事的な意味合いを持った神の呼び名で、全能者というのは、神の大能の力を表しています。つまり、イスラエルの指導者たちがどんなに権力と力を持っていようとも、それよりもはるかに力のある万軍の主が、みなしごややもめたちのために戦ってくださるということです。そして、反逆した者たちに報いを与えられるというのです。

しかし25節を見ると、そうした神のさばきは単に彼らをさばくために行われるのではなく、彼らから不純物を取り除き、彼らを回復される目的で行われることがわかります。25,26節、「しかし、おまえの上に再びわが手を伸ばし、おまえのかなかすを灰汁のように溶かし、その浮きかすをみな除こう。こうして、おまえのさばきいつかさたちを初めのように、おまえの議官たちを昔のようにしよう。そうして後、おまえは正義の町、中信な都と呼ばれよう。」

いったいこれはどういうことでしょうか?これは終末における大患難時代のことが預言されているのです。ダニエル書9章27節を開いてください。ここには、

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげものとをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

とあります。ダニエルはやがてこの世の終わりに、七年間の患難の時が来ることを預言しました。それは「一週の間」です。「一週の間」とは七年のことを指します。ですから半週とは三日半、つまり三年半のことになります。この七年間の患難時代、特に後半の三年半はそれが極度に達するので大患難時代と呼ばれていますが、ユダヤ人たちはこの時代を通るようになるのです。そしてこの大患難時代の苦しみの中で、かなかすが灰汁のように溶かされ、浮きかすが取り除かれるのです。つまり、彼らの不信仰が取り除かれるわけです。不信仰が取り除かれ、悔い改めて、イエス・キリストを信じるようになります。神様に従う新しい心が与えられるのです。こうして、イスラエルは、みな救われる、という聖書の預言が成就するのです。エレミヤによって預言されたみことばを見てみましょう。

「見よ。その日が来る。―主の御告げ―その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ― 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを。書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31-33)

また、預言者エゼキエルも次のように預言しています。エゼキエル書36章24~27節です。 「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

このようにして神の御国である千年王国が実現するのです。患難時代の間に、悔い改めたイスラエルの民にはキリストを信じる信仰が与えられ、新しく生まれ変わるのです。千年王国では、彼らは真心から神を畏れ敬い、心を尽くし思いを尽くし、力を尽くして神の戒めを守る者になるのです。それでエルサレムの都は正義と忠信の人々に満ちた町になるのです。神様はこのようにしてイスラエルを回復しようと計画しておられたのです。ですから27節にこうあるのです。

「シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。」

シオンはどのように回復するのでしょうか?それは軍事的な力や政治的な力によるのではありません。公正によって贖われ、正義によって贖われるのです。どういうことでしょうか?「贖う」ということばは「代価を払って買い取る」という意味です。神が払われる代価とは神の御子イエス・キリストです。御子イエス・キリストによってシオンに住む新しい民を買い取られるのです。自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じることによって、シオンを贖ってくださるのです。終わりの日に、そういう時に必ずそういう時がやってくるのです。

皆さん、これが神様が計画しておられたことなのです。時として私たちにも激しい試練が襲ってくることがありますが、それはいったい何ためかというと、私たちを滅ぼすためではないのです。私たちからかなかすや浮きかすを取り除き、私たちが初めのように、昔のように、純粋な信仰を取り戻すために、神様はそのような試練を与えられるのです。

神様は、罪を犯してその信仰のレースからはずれようとする人を、必ず追いかけて来られます。それはその人をさばくためではないのです。その人を愛しておられるからなのです。もう一度、ご自分の愛の中に引き戻したいのです。そのために神様は試練を与え、「そのままではだめですよ。まっとうな道に戻りなさい」と警告されるのです。

アメリカでは毎年何千台という車が盗まれますが、ある時、ロサンゼルスで、一台の車が盗まれました。それは日常茶飯事のことで、特別なことではありませんでしたが、アメリカ中の注目を浴びたのです。  なぜその事件が注目を浴びたのかというと、実は、ある人が週末を利用して、自分の山小屋に行こうとしましたが、その山小屋には大量のねずみが発生するので、その人は、そのねずみを殺すために、毒入りのクラッカーを用意して、それを持って車に乗り込んだのです。ところが、車に乗り込んだとき、忘れ物を思い出して家の中に取りに戻ったのです。そのすきに、泥棒がやって来て、車を盗んで行ったのです。  盗まれた人はすぐに警察に電話をしました。「車が盗まれたのです。中にはねずみを殺すための毒入りのクラッカーが入っています。もし誤って食べたりしたら死んでしまいます。急いで捕まえてください。」  それを聞いた警察は、パトカーなどあらゆる方法を使って泥棒を捕まえようとしました。テレビでもラジオでも流しました。するとその車を盗んだ人は、ロサンゼルスやカリフォルニア中の人が自分を追いかけているような気がして、一生懸命逃げました。いったいなぜおまわりさんが、そんなに必死に追いかけたのでしょうか?彼の命を救うためです。まさか、そんなとで自分が追いかけられているとは知らなかった彼は、捕まったら裁かれると思って必死で逃げたのです。  同じです。神様は私たちの命を救いたいのです。ですから罪を犯して神から離れて行こうとする人々を追いかけて行くのです。それは私たちを救いたいからなのです。ですから神は試練を与え、その中で悔い改めるように警告を発せられ、正しい道に導こうとされるのです。Iペテロ1:6-7節を開いてください。ここには、

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」

とあります。私たちは試練の中にあっても大いに喜ぶことができます。なぜなら、いまは、しばらくの間、試練の中で悲しまなければならないのですが、その試練の中で練りきよめられ、やがて称賛と光栄と栄誉に至ことを知っているからです。神様に似た性質へと私たちが造り変えられるのです。それは、火で精錬された金よりも尊いものなのです。ですからパウロは、第一コリント人への手紙10章13節のところで、次のように言っているのです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」    悪魔は私たちを倒そうと働きかけてきますが、神様は私たちの救いのことを考えてえられます。私たちが霊的に成長することを願っておられるのです。そしてそのために試練を与えてくださいます。ですから、私たちが耐えることができないような試練を与えることはなさいません。耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。試練がやって来ると、「もうだめだ」と倒れそうになるかもしれないけれども、神様は必ず私たちをささえ、耐える力を与えてくださるのです。ですから私たちは試練そのものではなく、その試練の先にある希望を見ていかなければなりません。

Ⅲ.忠信の都となるために(28-31)

ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、悔い改めなければなりません。悔い改めないとどうなるのでしょうか?悔い改めないとそこに神のさばきが臨みます。忠信の都が回復されることはないのです。28-31節をご覧ください。

「そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。あなたがたは葉のしぼんだ樫の木のように、水のない園のようになるからだ。つわものは麻くずに、そのわざは火花になり、その二つとも燃え立って、これを消す者がいない。」

そむく者は罪人とともに破滅し、うせ果てます。そういう人は葉のしぼんだ樫の木のようになります。水のない園のようになるのです。これはカラカラに乾いた状態になるという意味です。そして31節にあるように、麻くずのように、また、火花のようになるのです。これは燃えて、すぐに無くなってしまうという意味です。どんなに自分が「つわもの」のように強い者であるといきがっても、すぐに燃えて消えてしまうのです。それは彼らが神にそむき、神が忌み嫌われることを行うからです。29節には、「まことに、彼らは、あなたがたの慕った樫の木で恥を見、あなたがたは、みずから選んだ園によってはずかしめを受けよう。」とあります。この「樫の木」とか「園」というのは、偶像礼拝が行われていた場所のことです。また、その儀式の一環として不品行が行われていました。その不品行によって生まれた子どもほふる(殺す)という恐ろしいことが行われていました。それはもともとカナン人たちの行っていた異教的な儀式でしたが、そうしたことを彼らが平気で行っていました。そのようなことへの報いは何でしょう。それは当然、恥であり、はずかしめです。そのようなことをする彼らに臨むのは恥とはずかしめという神のさばきでしかありません。

皆さん、神様は回復してくださいます。遊女となってしまったエルサレムを「忠信の都」にしてくださいます。彼らを初めのように、昔のようにしてくださる。これが神様の約束です。そのために必要なことは、神様の御前に砕かれ、悔い改めて、神に立ち返ることです。そのために神様は私たちに試練を与えられます。私たちはその試練の中でしばらくの間悲しまなければならないのですが、神様は 、その試練の中で私たちを練りきよめてくださいます。私たちの中から不信仰や不従順といったかすを取り除き、私たちをみこころにかなった者に造り変えてくださるのです。ここに回復の希望があります。私たちはこの神様の救いのご計画を信じ、救い主イエス・キリストに信頼しながら歩んでまいりたいと思います。シオンは公正によって贖われ、正義によって贖われるからです。

イザヤ書1章10-20節 「雪のように白く」

きょうはイザヤ書からの第二回目のメッセージとなります。前回のところには、神に背いたイスラエルの姿が描かれていましたが、今回のところには、その罪を雪のように白くしてくださる神の恵みが語られています。

スコットランドのある小さな宿屋で釣り人たちが集まりお茶を飲んでいました。その中のひとりが自分の逃した魚の大きさを説明するためにああだこうだと手を振り回していたとき、女中が運んできたティーカップにうっかり手がぶつかり、カップが飛んで、白い壁に褐色のシミが付いてしまいました。一瞬にして起こった失敗でしたが、当事者は大変すまなそうにしていました。言い訳をしながら謝るのを気の毒に思ったのか、近くにいた人が近寄り「心配するな」と言ってペンを取り出し、壁に出来たシミの周りに絵を描き始めました。すると、大きくてすらりとした鹿の姿が現れました。その人は当時イギリスで活動していた画家エドゥイン・ランドシアでした。私たちの人生には多かれ少なかれ、消してしまいたいシミがあります。そのシミが消し去られたらどんなにうれしいことでしょう。

きょうはこのシミを消し去ってくださる神の恵みについて三つのポイントでお話したいと思います。まず第一のことは、聞き従うことはいけにえにまさるということです。第二のことは、人間の罪がどれほど深くても、もし悔い改めるなら、神は雪のように白く、あるいは羊の毛のように白くしてくださいます。第三のことは、ですから悔い改めて、神に聞き従いましょうということです。

Ⅰ.聞き従うことはいけにえにまさる(10-17)

まずはじめに、神が喜ばれることはどんなことなのかについて見ていきたいと思います。10-17節までをご覧ください。

「聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、主は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙―それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日―会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」

ここで神は、ユダの民を「ソドムの首領たち」とか「ゴモラの民」と呼んでいます。すごいですね。ソドムとかゴモラというのは不道徳の代名詞です。神殿礼拝をちゃんとしていたユダの民に対して、「ソドムの首領たち」とか「ゴモラの民」というのはあんまりです。なぜ神はそのように呼ばれたのでしょうか。それは、彼らがそれほどに堕落していたからです。この世と全然変わらないような歩みをしていたからなのです。15節には、「あなたがたの手は血まみれだ」とか、16節には、「わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くことをやめよ。」とありますが、そういう生活をしていたのです。それなのに彼らは多くのいけにえをささげていました。新月の祭りと安息日、会合の召集、不義と、きよめの集会をしていました。

何が問題だったのでしょうか。それがただの形だけであったことです。心がなかったのです。ですから神様は「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と仰せられたのです。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた」と言われました。「雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。」のです。また、そうした数々の祭りや集会に耐えられない、いや私の心は憎むとまで言われたわけです。それは神様にとって重荷となり、負うのに疲れ果てたと言われるのです。そうしたささげものや祭りに心が伴っていなかったからです。ただ形式的に行われていた。神様はそれを憎まれたのです。

皆さん、信仰が伴っていないただの形式的な儀式を、神様は求めておられません。神様が求めておられるのは、私たちの信仰なのです。私たちが神を恐れ、心から神に従って生きること、それを求めておられるのです。多くの人は旧約聖書は律法で、新約聖書は信仰だと言いますが、それは間違いです。聖書は最初から最後まで一貫して信仰を求めています。ヘブル人への手紙11章3節と4節を開いてみましょう。そこには、

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」

とあります。聖書は最初から終わりまで信仰なのです。神のみことばに聞き従うかどうかです。しかし、彼らにはそれがありませんでした。神に聞き従うことではなく、いけにえをささげるとか、例祭を守るといった儀式的なこと、表面的なことを重視していました。けれども、神様が求めておられることはその中身なのです。その最も良い例は、サウル王がいけにえをささげたという行為に現れています。Iサムエル記15章に出てくる内容ですが、主はサムエルを通してサウル王に、「アマレクを打って、すべてのものを聖絶せよ。」と命じられました。(15:3)男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺すようにと命じられたのです。そこでサウル王はアマレクを打ち、その民を残らず剣の刃で聖絶しました。(同15:8)しかしサウルは、肥えた羊や最も良いものを惜しみ、聖絶することをしませんでした。なぜでしょう。神様にいけにえとしてささげようとしたからです。そのときサムエルに主のことばがありました。そして、サウル王が主のことばに背いたと告げました。翌朝早く、サムエルがサウルのところへ行ってみると、「メェ~」とか、「モオ~」といった家畜の鳴き声が聞こえるではありませんか。いったいこれはどういうことかとサムエルに尋ねると、民が、神様にいけにえをささげるために羊と牛の最も良いものを惜しんだのです、と答えました。それは言い訳にすぎませんでした。神様が言われたことは、女、こども、家畜に至るまでみな滅ぼせ、聖絶しなさいということだったのに、彼はその通りにしなかったのです。こうすれば神は喜んでくれるにちがいないと勝手に思い込んだ。だれに聞いたってそうだ。それが常識的なことだよ。しかし、神が言われることはそうではありませんでした。神様は次のように言われました。

「するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(Iサムエル15章22,23節)

聞き従うことが大切です。聞き従うことはいけにえにまさるのです。もし聞き従うことがなかったら、たとえ人間的に見てとてもいいと思うようなことであっても、それは全く意味がありません。私たちのすべての行いは、神様が言われていることを聞いて、イエス様が命じられていることを聞いて、それを行うことです。それが信仰です。なのにサムエルはそれをしませんでした。多くの場合私たちも、このようなことがあるのではないでしょうか。神様が言っていることよりも何をするかが中心になってしまうのです。そのようにするこで信仰に生きていることを示そうとしたり、補おうとするのです。

このお正月に「サイモン・バーチ」という映画を観ました。サイモン・バーチは、驚くほど小さな赤ん坊として生まれましたが、彼はそれを悲観することなく、自分がそのように生まれてきたのは、神様の何らかの使命があるからだと信じていました。とても信心深い子どもでした。あるとき礼拝が終わった後で牧師が「下でどうぞコーヒーとドーナッツを食べてくつろいでください」と言うと、サイモンが「神様とドーナッツがどういう関係があるの?」と尋ねるのです。すると牧師が、「ドーナッツを食べながら今後の活動について話し合うんだよ」と答えると、彼はこういうのです。「神様は活動に興味はないし、お金集めのために教会を作ったんじゃない。」  私はその言葉を聞いて考えさせられました。神様は活動に関心があるのではなく、神の言葉に聞き従うことに関心を持っておられるのです。神様が望んでおられることは何なのか、何が良いことで神に受け入れられることなのか知って、それを行っていくこと。そのことに関心があるのです。  ところで、その後教会で日曜学校のキャンプに参加することになるのですが、バスが事故を起こし、川に突っ込んでしまうのです。そのときサイモンは窓の隙間をくぐって子どもたちを救出ましたが、おぼれ死んでしまいました。瀕死の床でサイモンはこう言うのです。「僕の小さな身体に意味があっただろう?」  あったんです。その小さなからだであったからこそわずかな隙間からバスの中に入って子どもたちを救うことができました。これが彼に与えられていた使命だったのです。神様から与えられた使命を知って、そのために生きること。神様はそれを喜んでくたざる。それが信仰なんだとサイモン・バーチは訴えていたのです。

私たちもややもするとこの信仰の本質を失ってしまうことがあります。何かをすることに焦点が向いてしまうことがあるのです。しかし、聞き従うことはいけにえにまさるのです。神様が願っておられることは何なのかをみことばと祈りの中で示していただいてそれを行う。それが信仰なのです。

Ⅱ.雪のように白く(18)

第二のことは、もし悔い改めるなら、神はあなたを赦してくださるということです。18節をご覧ください。

「さあ、来たれ。論じ合おう」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

ここで主は、「さあ、来たれ。論じ合おう」と言われます。この「論じ合おう」ということばは法廷用語です。ここで神様は判決を下す裁判官としてではなく、裁判席から被告席まで降りてきて、問題解決の糸口を共に見つけ出そうとしておられるのです。その解決のために差し出された打診案はどのようなものでしょうか。それは、

「たとえ、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」

ということでした。まずここで知らなければならないことは、私たちの罪は緋のように赤いということです。緋のように赤いとはどういうことでしょうか。なぜ黒じゃなくて赤なんでしょうか。それは、この緋色とか紅というのが血の色を表しているからです。15節を見ると、「あなたがたの手は血まみれだ」とありますが、その血を表しているわけです。罪のゆえにながす血です。ですから緋色や紅は罪の色なのです。それはどんなに洗っても落ちることのない罪の頑固さを表しているのです。私たちの罪は緋のように赤く、紅のように赤いのです。私たちはそのような性質を持っています。これを無視して、これをないがしろにして、本当の救いはわかりません。この事実を直視しないで避けて通ろうとすれば、福音がボケてしまうのです。私たちはなるべく自分をよく見せたがります。しかし罪の現実というのは本当に深いのです。デビッド・ホプキンズは、「人の心の中がわかったら、隣の人から逃げてしまうだろう。すべて神のあわれみによって、私たちはここにいることができるのです。」と言いました。本当にその通りです。人の心はそれほど陰険なのです。パウロはローマ人への手紙3章10-18節のところで、詩篇のことばを引用してこう言っています。

「それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

すごいですね。彼らののどは開いた墓だとか、彼らのくちびるの下には、まむしの毒があるとか、彼らの口は、のろいと苦さで満ちているのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(同3:23-24)これが人間の姿なのです。ここから逃げてはいけません。この現実をしっかりと受け止めなければならないのです。

しかし、これで終わってはいけません。ここから始まりますがそれで終わりではないのです。だから希望があるのです。神の救いという希望があるのです。たとえあなたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。羊の毛のように白くなると言うのです。私たちが悔い改めて、神の救いを求めたら、一瞬のうちにこのようになるのです。Iヨハネ1章9節に、次のような約束が記されてあります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。ダビデはバテシェバと姦淫をして子どもが出来ただけでなく、その夫ウリヤを戦場の最前線に送って殺しました。そんな大罪を犯して果たして赦されるのでしょうか?彼はその罪を預言者ナタンに示されたとき、その罪を認めて告白しました。悔い改めたのです。「ヒソプをもって私の罪を除いてください。私を洗ってください。」と祈りました。その結果彼は赦されたのです。彼が砕かれた心で、悔い改めとき、神は彼の罪を赦し、すべての悪からきよめてくださったのです。全く新しくしてくださいました。

神様はあわれみ深く、恵み深い方ですから、もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。雪のように白く、羊の毛のように白くしてくださるのです。

しばらく前に「私の頭の中の消しゴム」という映画がありました。これは若年性アルツハイマーにかかった女性とその夫の話です。年をとってから物忘れをするというのはよくあることですが、若くして物忘れがひどくなる病気は大変辛いものがあります。ご主人のことさえも忘れてしまうのです。「あれっ、あなただれだっけ」となる。その時彼女がこうつぶやくのです。「私の頭の中には、消しゴムがあるんだって・・。」  この映画の基調は「赦し」だそうです。自分を捨てた母親を赦せないでいるご主人に、この若い妻が赦しのメッセージを語るのです。そう言えば、この夫妻の家の壁には、戸を叩くイエス様の絵がかけられています。聞くところによると、これを作った監督は、この映画を通して、赦しの大切さを伝えたかったのだということです。そして、イエス様はそれをしてくださいました。イエス様が十字架にかかって死んでくださることによって、十字架で、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と祈られることによって、私たちの罪を全部忘れてくださったのです。あの若年性アネツハイマーで、その生涯を終えられた妻のように・・・。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神様はそのひとり子、イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけることによって、その約束を完璧に行ってくださいました。それほどに私たちを愛してくださったのです。それは私たちの罪が赦されて天国に行くことができるように、どんなことがあっても地獄に行かないで、天国に行けるようにするためです。

イエス様を信じるなら、すべての罪が赦されます。過去に犯した罪、現在犯している罪、そして未来に犯すであろう罪も、あるいは、意志的な罪も、無意識的な罪もすべてです。しかし、私たちはこの約束をなかなか受け入れることができません。自分を赦すことができないのです。特に儒教の文化の中にいる私たちは、なかなか自分を赦せないのです。自分で解決できるくらいの罪は赦せるのですが、これだけひどい罪の現実であることがわかると、自分で自分を赦せないのです。それでその罪の中にどっぷりと浸ってしまいます、落ち込んでしまうわけです。しかし、これは約束です。神様の一方的な恵みなのです。私たちがいい人であろうと悪い人であろうと、そんなことは全く関係がありません。罪を悔い改めて、イエス様に信頼するかどうかにかかっているのです。もしそのようにするなら、神様は真実な方ですから、その罪を赦してくださるのです。それは一方的な神の恵みなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-20)

ですから第三のことは、悔い改めて、福音を信じましょうということです。19-20節をご覧ください。

「もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、主の御口が語られたからである。」

選択は二つしかありません。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができますが、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれるのです。その真ん中はありません。二つに一つです。それを決めるのはあなたです。

南ユダ王国最後の王様はゼデキヤです。彼はエレミヤを通して語られる神のことばを聞いたとき、もじもじするんですね。従わなければならないことはわかっているけど、そんなことをしたら民に殺されてしまうからです。もじもじです。その結果どうなっでしょうか。彼は目をえぐり取られて、鎖に繋がれて、バビロンに連れて行かれました。「喜んで聞き従うのか」それとも「拒み、そむくのか」の二つに一つです。日本人はできるだけ曖昧にしたいという気持ちが働きます。どっちに転んでもいいように曖昧にするのです。しかし、聖書がはっきり語っていることは聞き従うのか、それとも拒むのかのどちらかであるということです。もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができますが、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれるのです。

生まれながらの人間は神の御前に出ることを拒もうとします。できるだけ自分の力でやろうとするのです。そして「神様なんて必要ありません」とか「自分で解決するから大丈夫です」と言うのです。神を避け、宗教的な振る舞いや良い行い、哲学、修行といった人間の力で間に合わせようとします。しかし、人間の力ではだめなのです。どんなに頑張っても天にまでは届きません。それほど私たちは罪深いのです。私たちに示されている解決の道は一つだけです。悔い改めて神に信頼し、神が言われることに喜んで聞き従うことなのです。

どうか、あなたも神に信頼する人生を選択することができますように。神に信頼して神からの罪の赦しと永遠のいのちの祝福を受けることができますように。 そのとき、たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなります。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになるのです。

 

イザヤ書1章1-9節 「まず主に立ち返ることから」 

きょうからしばらくの間、このイザヤ書からご一緒に学んでいたきたいと思います。なぜイザヤ書から学ぶのでしょうか。それはこのイザヤ書が旧約聖書のローマ書と言われているからです。ローマ人への手紙の中に福音の奥義、神の救いの計画が体系的に語られているように、このイザヤ書にも、神の救いの計画が最もよく表されているからです。それはイエス様やパウロがこのイザヤ書から最も多くの預言を引用していることからもわかります。時代的にはホセア書とかミカ書と同時代に書かれた書物なのに、イザヤ書の方が先に出てくるゆえんはそこにあります。ちょうどパウロが書いた手紙の中でテサロニケ人への手紙などの方が先に書かれた手紙なのにローマ人への手紙の方が先に収められているのと同じです。この書の中に神の救いの計画がよく表されているのです。

そのイザヤ書ですが、1節を見ると「アモツの子イザヤの幻。これは、彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。」とあります。イザヤとは、「主は救いである」とか、「救いは主のもの」という意味です。彼は、私たちが救われるのは、北や南の超大国によるのではなく主からなのだということを、この書全体を通して語りたかったのです。この主の救いがテーマです。彼はユダの王ウジヤの時代、実際にはこのウジヤが死んだ年の.C.739年から、ヒゼキヤの統治期間が終わったB.C.687年までの間、実に彼は約53年間も預言の働きをしたのです。この時代はどういう時代であったかというと、一言で言えば、それは非常に危機的な時代でした。アッシリヤという国が台頭して来て近隣諸国を併合していました。そしてB.C.734年には北イスラエルの住民がアッシリヤに捕らえ移され、721年にはついに首都サマリヤが陥落するのです。

一方、南ユダはどうだったかというと、アッシリヤが南ユダのエルサレムの近隣の町々を破壊して、残るはエルサレムだけになっていました。その時、ヒゼキヤ王が必死にとりなしの祈りをささげるとその祈りに主が答えてくださり、奇跡的に彼らを救い出されました。185,000人のアッシリヤの軍隊が一夜のうちに滅ぼされてしまったのです。B.C.701年のことです。まさに主は救いです。これは38章に出てくる内容です。しかし、そんなヒゼキヤ王もいつしか高慢になって罪を犯し、ついにはバビロンに捕らえ移され、ついにエルサレムも陥落していくのです。

そうした差し迫った状況の中で、この預言が語られたのです。この時代は北イスラエルも、南ユダも他国によって滅ぼされてしまうという危機的な状況にありましたが、それでも主に信頼するなら主が助け出してくださるということを伝えたかったのです。きょうはこのことについて三つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.神に背を向けたイスラエル(2-4)

まず第一のことは、神に背を向けた胃すら絵の姿です。2-4節をご覧ください。

「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」

イザヤは神の懲らしめのメッセージから入ります。懲らしめのメッセージとか、さばきのメッセージはあまり人気がありません。人々はできるだけ温かいメッセージを聞きたいからです。励まされるようなメッセージを聞きたいからです。しかし、まことの預言者は、歴史の中に神のさばきの御手を見て、そこから人々に悔い改めを迫るのです。偽りの預言者は、滅びが迫って来ていても、「平安だ、平安だ」と言って、人々の良心を麻痺させますが、真の預言者は、まず罪を責め、人々の心を砕くのです。ホセア書6章1節に「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」とあるようにです。主は私たちを引き裂いてからいやし、私たちを打ってから包んでくださるからなのです。単に表面的な解決をもたらそうとはしないのです。

ここでイザヤがまず語っていることは、「天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。」(1a)ということです。神は、天にも地にも響き渡る形で、誰にでも聞いてもらいたいという気持ちで語られました。というのは、申命記に二人、三人の証人によって物事は事実と確認されるとあるからです。ですから神様は天と地という二人の証人を立てて、すべてのものを明らかにする形で語っておられるのです。

その内容はというと、「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」(2b-3)ということでした。神がイスラエルを責めておられる第一の理由は、親が子を育てるように、神がイスラエルを育てたのに、まるでご自分のことを全く知らないかのようにイスラエルが神に対して振る舞っていることでした。人間は忘れっぽく、感謝することも忘れやすい者ですが、こんなに何百年も、何千年にもわたって育ててきたのに、その人のことを忘れてしまうことなどあり得ません。聖書を最初からずっと読んでいくと、天地創造とかノアの洪水といった世界的な出来事が最初の10章程度にまとめられていて、そこから12章に入るとアブラハムを選び、ご自分の民とされました。世界的な視野からイスラエルという小さな民族に焦点が絞られていくのです。そしてモーセの時代に律法を与えご自分のみこころを示し生活の細部に至るまで教え、導いてこられたのです。いわば全世界の中でこの子だけを育てていくよ、あらゆるものの中で彼らだけを特別に愛して育ててくださったのです。どれほど多くのこどもがいても、イスラエルは特別でした。親の眼に自分のこどもしか見えないように、神はイスラエルにあつい眼差しを注いでおられたのです。まさに目の中に入れても痛くないような存在だったわけです。

にもかかわらず彼らは、その親への恩を全く忘れてしまいました。それは動物よりもひどいと言います。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉桶を知っていますが、イスラエルは知らないというのです。家畜よりもひどいというわけです。これは実際にあった話ですが、ある泥棒を捕まえるために警察がいろいろ考えて、彼が飼っていた牛の縄を解いて放してやったそうです。するとどうなったと思いますか。何とその牛は自分の飼い主のところへ自然に向かって行ったそうです。そうやって泥棒がいる場所を見つけて捕まえた。このように、牛でさえ自分の飼い主を知っているのに、あなたがたは知らない、悟らない、とはどういうことかと、神様は驚いておられるのです。

そういう彼らへの嘆きはさらに続きます。4節です。「ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。」「ああ」という神の嘆きに、私たちの心は痛みます。なぜに神はそんなに嘆いておられるのでしょうか。彼らは罪を犯す国であり、咎重き民であり、悪を行う者の子孫、堕落した子らだからです。

「罪を犯す国」とは、もともと「的を外す」という意味です。神の基準に満たないことを行っているということです。神から離れた人間はどのように人生を送っても、最終的には目標のない中途半端な存在にすぎません。どれほど勤勉で家庭円満な誠実な人生を歩んでいても、人生の最終到着点がはっきりしていない人は「的外れの人生」を送っており、神の前には罪人にすぎないというのです。イスラエルは神によって選ばれ、神の栄光を現すという明確な目標を与えられた民でしたが、的外れの民、罪を犯す国になってしまいました。

それから「咎重き民」の「咎」ということばは「ゆがみ」「ひずみ」を意味することばです。英語では、guilt feeling(罪責感)です。神から離れ、神に背を向けて歩むようになった人間は、鍾乳洞の迷路のように曲がりくねったものとなり、罪責感で心が重い状態になりました。    そして「悪を行う」とは、公正と正義に照らして悪いことを行っていることです。「堕落」とは、神の基準から落ちてしまったことを言っています。つまり、神から離れ、人生の究極的な目標を持たない的外れの状態から、すべての咎や悪、堕落が始まっているということです。

人生の様々な不幸と災い、人を傷つけたり、裏切ったり、ねたんだり、家庭内での不和、偽りなど、これらいっさいのものは、神との関係の修復からから始めなければ、すべて応急処置にすぎないのです。人の一生は、政治家であっても、主婦であっても、もし罪の根源、すなわち神との関係の修復から始めなければ、自分の人生に起こる様々なトラブルの応急処置に終始して人生を終わることになるのです。

Ⅱ.弱り果てたイスラエル(5-8)

第二に、そのように主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、神に背を向けて離れ去ったイスラエルは、どうなってしまったのかを見ていきましょう。5-8節をご覧ください。

「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。」

そのように、主に反逆に反逆を重ねた結果は、主を悲しませただけでなく、自分自身をも、自分自身をも傷つけることになってしまいました。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果ててしまいました。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、生傷が絶えないのです。この頭とか、心臓というのは人間の体の外側と内側を表しています。そして足の裏から頭のてっぺんまでというのは、体全体という意味です。つまり、神に逆らって反逆に反逆を重ねた結果、体全体が弱り果ててしまったということです。しかもここには、「絞り出しても包んでもらえず、油で和らげてももらえない」とあります。これは治療してもらえないという意味です。病気で苦しみ、痛みにあえいでいるのに、治療もしてもらえないとしたら、どんなに苦しいことでしょう。それほどまでに弱り果てているのです。

その弱り果てた様が7,8節に描かれています。「あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。」アッシリヤの攻撃によって、イスラエルもユダも荒れ果ててしまいました。彼らの町々は火で焼かれ、まるで他国人の破滅にも似たような形で荒れ果ててしまいました。そして8節を見ると、それはあたかもぶどう畑の小屋のように、キュウリは畑の番小屋のようになってしまいました。ぶどう畑の小屋とか、きゅうり畑の番小屋というのは、今でいうと、ビニールハウスのようなものです。最近のビニールハウスは結構頑丈で、ちょっとした雨風では破れたりはしませんが、もともと骨組みが弱いですから、台風などがやってくるとひとたまりもありません。何とかそこに立っているというようなビニールハウスです。あるいは、よく畑などに置かれてあるプレハブ小屋を想像するとよいかもしれません。土台もしっかりしていませんので、ちょっとした外圧で傾いてしまいます。そうした状態でかろうじて立っています。 それほどまでに弱り果ててしまいました。かつては神のあついまなざしが注がれていたイスラエルが、今ではその陰さえも見られないほど荒れ果ててしまったのです。

これが神から離れ、神に背を向けて歩んでいる人間の姿です。にもかかわらず私たちは、「自分は富んでいるから大丈夫。乏しいものは何もない」と言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りません。このような人にとって必要なのは何でしょうか。目薬です。かつてイエス様がラオデキヤの教会に、「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:18)と言われたように、目に塗る目薬を買わなければならないのです。そうすれば、自分の姿がハッキリ見えて悔い改めることができる。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(同3:19,20)

そのことによって初めて主が私たちのところに入って、私たちとともに食事をしてくださいます。食事をともにするというのは本当に親しい関係を表しています。嫌いな人となかなかともに食事はできないですよね。その親しい関係に入れてくださるというのです。

Ⅲ.残されたイスラエル(9)

第三のことは、それでもあわれみ深い神様は、残りの者を残しておらたということです。9節をご覧ください。

「もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。」

ここですね。ユダとその他の国々の違いは・・・。主は、アッシリヤとかバビロンといった国々に対して完全な破滅を宣告しておられるのに、なぜイスラエルにはそうではないのかというと、それは残りの者が生き残っているからです。

ここに一つの主が持っておられる原則が見られます。それは、主は「残りの民」を用意しておられるということです。これが、パウロがローマ人への手紙9章から11章までのところで展開していることです。9章29節ではこの箇所を引用しています。そして、11章1節でこう宣言しています。「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。」なかなか悔い改めようとしないイスラエルに対して神は、すべてを滅ぼしてしまわれるのかというとそうではありません。その中にも少数の残りの者を用意しておられ、彼らを通してイスラエルが救われるようにと計画しておられたのです。神様の賜物と召命とは変わることがありません。そうでなかったら、あのソドムとゴモラのように滅ぼされてしまったことでしょう。しかし、イスラエルは神様に特別に選ばれ、愛された民なので、神は滅びることがないように守っておられるのです。それはただ神様のあわれみによるものです。哀歌3章22節に、次のようなみことばがあります。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」皆さん、私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによるのです。主のあわれみは尽きることはありません。主はご自身を愛し、ご自身に従う者を、決して見放したり、見捨てたりはなさいません。主のあわれみは尽きないからです。主の愛のゆえに、どんなに激しい神の御怒りの中にあっても、主を信じて歩む者に、神の御怒りがくだることは絶対にないのです。私たちに終わりが告げられることはありません。何という御約束でありましょう。けれども神様はどこまでも真実な方であって、その約束はとこしえに変わることはありません。

皆さん、このことからいったいどのようなことが言えるのでしょうか。そうです、神様は今でも残りの民はいるということです。この世の圧倒的多数の人たちが神から離れ、全く神とは正反対であるかのような道を歩んでいても、神様は必ず「残りの民」を用意しておられるのです。主が再び来られるその日まで信仰を堅く守り、神様の御前に従う民が必ずいるのです。どんな大きな迫害や、苦しい状況があったとしても、神様の恵みとあわれみによって、ちゃんと「残りの民」がいるのです。

ですから私たちは決して数に慰めを求めるのではなく、「私たちの中に神様が認めてくれる信仰があるかどうか」「私たちが神のみこころに従って歩んでいるかどうか」ということを絶えず確認していなければなりません。どんなに少人数であっても、この神の約束を握りしめているなら、神様はそのような人を用いてこの歴史を動かしてくださるからです。

神に背を向け、神から離れて行った民の人生は本当に悲惨なものです。しかし、イスラエルがどれだけ不従順で、罪を犯しても、神の子という身分は消し去られることはありませんでした。神は「残りの民」を残しておられました。神はご自分の子を決して見捨てるようなことはなさらなかったのです。家出した息子、娘を待つ父のように、イスラエルの民に望みを置かれ、彼らが立ち返ることをずっと待っておられたのです。神は今、あなたをも待っておられます。あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。あの放蕩息子がはっと我に返ったとき父のことを思い出したように、今、私たちも父から離れたみじめな者であることを覚え、父のもとに立ち返ろうではありませんか。そのとき、主は「死んでいたのが生き返った」と言って喜び、祝宴をしてくださいます。主はそれほどまでに、私たちが神に立ち返ることを願っておられるのです。今、あなたも自分の罪を悔い改めて、主に立ち返ってください。そこから始めていかなければなりません。そのとき主はあなたを赦し、あなたを喜んで受け入れてくださいます。そして嘆きは喜びに、悲しみは踊りに変えられるようになるのです。