きょうはイザヤ書2章全体から学びたいと思います。タイトルは「鼻で息をする人間をたよりにするな」です。これは22節のみことばそのものです。ここには、「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」とあります。きょうは、神様にたよることについて三つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.主の光に歩もう(1-5)
まず第一に、1節から5節までをご覧ください。ここには、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」とあります。
これは、イザヤがユダとエルサレムについて預言したことばです。イザヤは、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」と預言しました。この「終わりの日」とはいつのことなのでしょうか?これは、やがてキリストが再臨した後にもたらされるこの地上における千年王国の時のことです。イザヤはその終わりの日に現れる輝かしい神の国の幻を見たのです。
いったいその日にどのようなことが起こるのでしょうか?その日、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来ます。主の家の山とは、エルサレムのことです。このエルサレムが山々の頂に立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。これはエルサレムが文字通りすべての山よりも高くなるということではありません。これはシオンの山、エルサレムが、どの山よりも輝かしい所になるという意味です。その日、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち、丘々よりもそびえ立つようになるのです。なぜでしょうか?主が再臨されて、そこに立たれるからです。ゼカリヤ書14章4節をご覧ください。そこには、「その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。」とあります。その日、主がすべての聖徒たちを引き連れて来られ、オリーブ山に立たれるのです。すると、エルサレムからわき水が流れ出て、その半分が東の海に、他の半分が西の海に流れ出るようになのです。(同14:8)夏にも、冬にもそれは流れます。また、その日には、光も、寒さも、霜もなくなります。昼も夜もありません(同14:6)。夕暮れ時に、光があるのです。イエス様が再臨され、この主の山に立たれるからです。問題は、主がその山に立たれて何をされるのかということです。3節をご覧ください。ここには、
「多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
とあります。主はご自身の山に立たれるとき、そこでみことばを教えてくださるのです。主自らです。今は牧師とか、教師とか、伝道者とかがたくさんいて、こういう人たちを通してみことばが教えられていますが、この時には主が自ら教えてくださるのです。主が教えてくださるので全く誤りはありません。私は毎週かなりの時間をかけてみことばの準備をしていますが、それでもぼんやりしています。けれども、この時には主が直接顔と顔とを合わせて語ってくださるのです。はっきり・・・と。何とすばらしいことでしょうか。その時私たちは、主が語られるみことばを聞いて、感動で心が震える経験をするでしょう。
それだけではありませんよ。4節を見ると、「主は国々をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」とあります。どういうことかというと、その日、主が国々をさばかれ、判決を下さるので、そこに完全な平和がもたらされるということです。主のさばきは完全だからです。その時には剣が鋤に、槍がかまに変わります。軍事道具が農業用具になるのです。軍事道具が必要なくなるからです。軍事予算は必要なくなり、それらがみな農業予算に変わるのです。今そんなことをしたら大変なことになります。そんなことをしたら諸外国からの驚異に脅かされることになってしまうでしょう。ですからどの国でも軍備を増強して戦争に備えなければなりません。しかし、それがあまりも膨大なので、どの国でも悲鳴を上げている状態なのです。しかし、この終わりの日にはそうしたことも必要なくなります。主が正しく国々をさばいてくださるので、そこには完全な平和がもたらされるからです。悪は全くはびこることがないので、女の人でも夜間安心して出かけることができます。子供たちが誘拐される心配もいりません。人に騙されこともないのです。あのエデンの園のようです。そのような世界がもう一度この地上にもたらされるのです。それが主の千年王国です。それゆえに主はこう仰せられるのです。5節です。
「来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。」
終末の主の家の山の情景に見とれていた会衆に向かって、主は「さあ、来たれ。」と言って、彼らを未来から現在へと引き戻されます。そして、実際的行動へと駆り立てられるわけです。その実際的行動とは何かというと、「私たちも主の光に歩もう」ということです。「主の光に歩む」とは、神のみことばに従って生きるということです。イスラエルは神のみことばを聞くよりも、世の中のことを優先し、異邦人のように、人が造った物を拝んでいました。その罪を悔い改めて、主の道に歩もうではないか、と言うのです。
それは私たちクリスチャンも同じです。コロサイ3章5節には、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」とあります。私たちはこのむさぼりによって偶像礼拝の罪を犯してしまうことがあります。神様よりも自分のことが、この世のことが優先してしまうことがあるのです。それは偶像礼拝だと聖書は言うのです。主が私たちに求めておられることは、私たちも主の山に上り、そこで主のみ教えを聞き、その小道を歩くことです。人間関係や様々なプログラムが中心となるのではなく、神のみことばを聞いてそれに従うという生活、みことばが私たちの生活の中心でなければならないのです。 皆さんはいかがですか?皆さんにとっての最優先の事柄は何でしょう?主が語られるみことばを聞いて、その小道を歩くことによって、私たちも主の光に歩む者でありたいと思います。
Ⅱ.主だけが高められる(6-21)
次に6節から21節までを見ていきましょう。こうした主の招きに対してイスラエルはどのように応答したでしょうか。6節から9節までには、次のように記されてあります。「まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。こうして人はかがめられ、人間は低くされた。―彼らをお赦しにならないように。―」
「彼らをお赦しにならないように」というのはひどいことばです。なぜイザヤはこのようなことを言ったのでしょうか?それは彼らのあり方があまりにもひどかったからです。まず彼らはペリシテ人のように占いに満ちていました。卜者とは牧者ではありません。これは占いをする人のことです。人はこれから先どうなるのかがわからないと占いにたよるようになります。クリスチャンは将来どうなるかを聖書によってある程度知ることができるのであまりブレることがありませんが、聖書を知らない人はいつもブレています。そして占いにたよるのです。かなり前のことですが、日本で一年間にどれくらいの金額が占いに使われているかを調べたことがありますが、それによると数千億円にも上りました。それだけ不安だということなのでしょう。だったら聖書を学んだほうがよっぽどいいと思うのですが、そういう人たちは聖書よりも占いに走ってしまうのです。手っ取り早いからでしょう。
そればかりではありません。7節を見ると、「その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく・・」とあります。これは何のことかというと富のことです。富にたよるのです。あの愚かな金持ちのように、これから先何年分も物をたくわえることができたと、自分のたましいにこう言うのです。「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」しかし、その時神はこう言われます。「愚かもの。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」このような人は、自分のいのちは財産にあると思っているのです。しかし、そのいのちが取り去られたら、そのように蓄えた物は、いったい何になるでしょうか。
さらに、ここには「その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。」とあります。これは軍事力を表しています。どの国でもそうですが、国が豊かになるともっと国を強くしていきたいと思うようになるのです。そしてこうした軍事力にたよろうとするのです。当時のイスラエルもそうでした。
そして偶像礼拝ですね。8節には「その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。」とあります。ユダの地は、偶像礼拝でいっぱいでした。自分の手で造った物、自分の指でこしらえた物を拝んでいたのです。
こうしたイスラエルに対して神様はどうされるのでしょうか。9節にはこのようにあります。「こうして人はかがめられ、人間は低くされた。」どういうことでしょうか?ここで「人間は低くされた」というのは、人間性が低くされたという意味です。詩篇115篇4節から8節に、「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。これに信頼する者もみな、これと同じである。」とあります。これに信頼する者もみな、これと同じです。偶像を拝む者は偶像のようになるのです。真の神様を礼拝する人は、神様のようになります。人はその触れるものに似ていくのです。イスラエルはこうした偶像を拝んでいたので、偶像のようになっしまいました。それが人間は低くされたという意味です。 ですからイザヤはこう言うのです。「彼らをお赦しにならないように。」もうどうしようもない状態です。そのような彼らには神の怒りと神のさばきしか望めなません。そういう告白だったのです。
どんなに神様が彼らを祝福しようとしても、彼らはこれを受け入れようとするどころかこれを拒み、他のもので心を満たそうとしました。いったい何が問題だったのでしょうか?高慢です。広辞苑で調べてみると、高慢とは「自分の才能・容貌(ようぼう)などが人よりすぐれていると思い上がって、人を見下すこと。また、そのさま。」とありますが、聖書でいう高慢とは、少し意味合いが違います。聖書で言う「高慢」とは、自分の才能や容貌などが人よりすぐれていると思い上がることだけではなく、神を信じないことです。神に聞き従わないことなのです。「神様なんていらない。私は自分でやっていけるから」とか、「神様がなくても十分満足ですわ」といった思いです。それが高慢であるということです。このように高慢であると神様はさばかれ、そうしたものをことごとく低くされるのです。
10節と11節には、「岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。」とあります。高ぶる者に対して神が敵対し、激しいさばきを行われるので、人々は岩間に隠れ、ちりの中に身を隠すようになるのです。
また、12節から18節を見ると、「まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶるものはかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。偽りの神々は消えうせる。」とあります。ここに出てくるレバノンの杉の木とか、バシャンの樫の木とか、タルシシュの船というのは。どれもすばらしいものです。たとえば、レバノンの杉は、ソロモンの神殿に使われましたし、バシャンというのは、ゴラン高原のことですが、ガリラヤ湖の東側にある高原で、とってもきれいな所だそうです。春になると花が咲き乱れ、放牧にもとても適している所です。またタルシシュというのはスペインの南部の都市ですが、そこでは鉱石が採れ、貿易の町としてとても栄えました。人間が見て「これはすばらしい」と思っているものが全部だめになってしまうのです。
極めつけは19節から21節でしょう。ここに、「主が立ち上がり、地をおののかせるとき」とありますが、これは大地震のことです。主が立ち上がり、大地震によって地をおののかせる時が来るのです。それが大患難時代に起こるのです。黙示録6章12節から17節は、そのことを預言したものですが、次のように記されてあります。
「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」
やがて世の終わりに、大きな地震が起こり、天地万物のすべてが揺れに揺れるようになるのです。そのとき人々はほら穴と山の岩間に隠れ、自分たちが拝むために造った金や銀の偽りの偶像をもぐらやこおもりに投げつけるようになるのです。全く役に立たないと言って・・・。そうして偽りの神々は消え失せ、主おひとりだけが高められるようになるのです。
皆さん、いったなぜこの世において神様の栄光が見えずらくなっているのでしょうか。神様ではなく占いにたよっているからです。神様ではなく富にたよっている。神様ではなく人間の力にたよっているからです。神様ではなく偶像にたよっているからです。そういうことを皆がしているから神様の栄光が見えなくなっているのです。たとえば、私たちが高い山に登って、「ああ、神様が造られた自然は何とすばらしいんだろう」と思っていると、頂上には鳥居があったりして、そこで人々が偶像を拝んだりしているわけです。そうするとすぐに神様の栄光に陰りが出てくるのです。こうしたことはみな人間の高慢さから出ていることであって、神様はそうした人間の高慢を砕かれるのです。
Ⅲ.鼻で息をする人間にたよるな(22)
ではどうしたらいいのでしょうか?ですから、イザヤの結論はこうです。22節です。ご一緒に読んでみましよう。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」
鼻で息する人間をたよりにするなとはどういうことでしょうか?口で息をすればいいんですか。あるいは耳で。そういうことではありません。鼻で息する人間とはすぐにだめになってしまう人間という意味です。いいですか?皆さんの鼻と口を手で押さえて息ができないようにしたら、どれだけ生きていられるでしょうか。10分ですか?あるいは20分でしょうか?さすがに1時間も息をしないでいられる人はいないでしょう。息をしなかったら人はみな死んでしまうのです。人間とは、それほどもろいものです。そのような人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。というのです。しかし、これは戦いです。クリスチャンにとっても戦いです。人のことばを聞いて安心するところがあるからです。そうでしょ。人のことばがないと不安になります。ですから、神様のことばを聞いていても、人のことばの方を信頼してしまうのです。しかし、それは息でしかありません。すぐに消えてしまうのです。なぜそのようなものにたよるのでしょうか?実はこれがなぜイエス様を信じないのかという理由でもあるわけです。人間にたよってしまうのです。人間にきたいしてしまう。人間中心なんです。それが問題です。
ある人が、「国に危機が襲ったとき何にたよるか」という統計をとりました。それによると、アメリカで一番多かった答えは「神」でした。そのような時には教会に行って祈りますというのが一番多かったのです。ですから一時的であっかもしれませんが、あの同時多発テロ事件が起こったとき人々はこぞってみな教会に行ったそうです。国中で「God Bless America」が歌われました。「レフト・ビハインド」という再臨に関する書物が多く読まれました。それは最終的にたよるのは神様だと意識しているからです。しかし、日本では違います。日本では何にたよるかというとマスコミなんでかね。テレビや新聞です。マスコミでは何と言ってるかが基準になるのです。このマスコミというのは何かというと人間のことばなんです。人間にたよっていく。それが日本です。日本はそうやって発展を遂げてきたのです。
鍋谷堯爾先生(なべたに ぎょうじ)は、ご自身ま著書「鷲のように翼をかって」の中で、同じようなことを指摘しています。すなわち、日本が明治維新以降、これだけの近代資本主義社会を築くことができたのは、人間の合理性とお金の損得勘定で動く日本人の精神的土壌がその背景にあったと述べておられます。
そうした傾向は教会の中にも入り込んでくる場合があります。聖書は何と言ってるかではなく、牧師はどういう人なのかとか、教会にはどのような人が集まっているかということが、善し悪しの判断の基準になることがあるのです。神様よりも人に関心が向き、神のことばよりも人のことばを信頼してしまうのです。聖書が何と言ってるかよりも、他の人は何といってるかが自分の生きる基準になっているのです。そして他の人からどう思われるかがすごく気になり、悪く言われたりすると極端に落ち込んでしまえわけです。しかし、大切なのは人が何と言ってるかではなく、神のみことばは何と言ってるかです。私たちは人にたよることを止めて、神様だけをたよりにしなければなりません。鼻で息をするような人間には何の値うちがあるでしょうか。ありません。それは、きょうはきれいに咲き誇っていても明日には枯れてしまう野の草のようなものなのです。真にあがめられるべきお方はおひとりだけです。この天地を造り、これを統べ治めておられる神様だけなのです。私たちはこの方をたよりとしなければなりません。
かつてエジプトに捕らわれていたイスラエルを救い出すために神がモーセを召された時、「わたしは、「わたしはあるという者である」(出エジプト3:14)と言われました。主は、他の何にも依存することない自存の神であるという意味です。
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:28-31)
私たちが信頼すべき方はこの方です。永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない方。この方です。この先私たちにどんなことが起こるかわかりませんが、どんなことがあってもこの方だけにたよって生きる者でありたいと思います。