Ⅱサムエル記14章

 Ⅱサムエル記14章から学びます。

 Ⅰ.ヨアブの計画(1-17)

 1~17節をご覧ください。まず7節までをお読みします。「ツェルヤの子ヨアブは、王の心がアブサロムに向いていることを知った。ヨアブはテコアに人を遣わして、そこから知恵のある女を連れて来て、彼女に言った。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」ヨアブは彼女の口にことばを与えた。テコアの女は、王に話したとき、地にひれ伏して礼をして言った。「お救いください。王様。」王は彼女に言った。「いったい、どうしたのか。」彼女は答えた。「実はこの私はやもめで、夫は亡くなりました。このはしためには二人の息子がおりましたが、二人が野原でけんかをして、だれも二人を仲裁する者がいなかったので、一人が相手を打ち殺してしまいました。すると、お聞きください、親族全体がこのはしために詰め寄って、『兄弟を打った者を引き渡せ。彼が殺した兄弟のいのちのために、彼を殺し、この家の世継ぎも消し去ろう』と言います。残された私の一つの火種を消して、夫の名だけではなく、残りの者までも、この地に残さないようにするのです。」

「王の心がアブサロムに向いている」とは、前回見たように、アムノンが殺されたことで王がアブサロムに敵意を向けているということです。ヨアブはそのことを知り、テコアに人を遣わします。何のためかというと、ダビデとアブサロムの関係を修復するためです。でも、どうしてヨアブはダビデとアブサロムの関係を修復しようと思ったのでしょうか。実はこの「王の心がアブサロムに向いていることを知った」とは、ただ敵意をいだいていることを知ったということではなく、ダビデがアブサロムとの和解を願いつつも、それができずにジレンマに陥っていることを知って、ということです。新改訳2017や口語訳ではそのように訳しています。ヨアブはそのことを知り、事態を打開する案を考えたのです。それがテコアに人を遣わすことでした。

テコアは、ベツレヘムとヘブロンの間にある町です。そこから知恵のある女を連れて来て、彼女にこう言いました。「喪に服している者を装い、喪服を着て、身に油も塗らず、死んだ人のために長い間喪に服している女のようになって、王のもとに行き、王にこのように話してください。」(2-3)そして、彼女の口にことばを与えました。

当時のイスラエルでは、王が裁判官の役目も果たしていました。地方の裁判官が自分の懇願を聞き入れてくれないとき、王に直訴することができました。彼女の訴えの内容は、次のようなものでした。すなわち、自分は既に夫はなくなっているが、二人の息子が野原でけんかをし、一方が他方を殺してしまった。それで、親族の者が殺害した者を引き渡し、死刑にしなければならないというがいったいどうしたら良いかということです。そんなことをしたら残された自分の息子の火種が消え、家系までも残らなくなってしまいます。そのようなことがないようにしてほしいというのです。

それに対してダビデは何と言いましたか。8節から11節までをご覧ください。「王は女に言った。「家に帰りなさい。あなたのことで命令を出そう。」テコアの女は王に言った。「王様。刑罰は私と私の父の家に下り、王様と王位は罰を免れますように。」王は言った。「あなたに文句を言う者がいるなら、その人を、私のところに連れて来なさい。もう二度とあなたを煩わすことはなくなる。」彼女は言った。「どうか王様。あなたの神、主に心を留め、血の復讐をする者が殺すことを繰り返さず、私の息子を消し去らないようにしてください。」王は言った。「主は生きておられる。あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない。」」

ダビデは、このことで彼女の息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない、と宣言しました。もしこのことで文句を言う者がいるなら、その人を、自分のところに連れて来るように・・と。

テコアの女は、ダビデの口からこの言葉が出てくるのを待っていました。すなわち、「あなたの息子の髪の毛一本も決して地に落ちることはない」という言葉です。その言葉を元に彼女は、いよいよ本題に入ります。12~17節です。

「女は言った。「このはしために、一言、王様に申し上げさせてください。」王は言った。「言いなさい。」女は言った。「あなた様はどうして、神の民に対してこのようなことを計られたのですか。王様は、先のようなことを語って、ご自分を咎ある者としておられます。王様は追放された者を戻しておられません。私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。今、私が、このことを王様に話しに参りましたのも、人々が私を脅したからです。このはしためは、こう思いました。『王に申し上げよう。王は、このはしための願いをかなえてくださるかもしれない。王は聞き入れて、私と私の息子を神のゆずりの地から消し去ろうとする者の手から、このはしためをきっと助け出してくださるから。』このはしためは、『王様のことばは私の慰めとなるに違いない』と思いました。王様は、神の使いのように、善と悪を聞き分けられるからです。あなた様の神、主が、あなたとともにおられますように。」」

彼女の訴えは、もし殺人者の息子を赦すというなら、追放されたままになっているアブサロムも赦すべきではないかということでした。というのは、人のいのちは水のようなものだからです。ここに「私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです」とは、このことです。人のいのちは、地面にこぼれ落ちたらもう集めることができない水のようにはかないものであるということです。遅らせると手遅れになってしまいます。取り返すことができなくなってしまいます。だから、手遅れになる前にアブサロムを赦すべきです。なぜなら、ダビデもそうでしたが、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように計画しておられるからです。ダビデ王に神の使いのように、善と悪とを聞き分ける能力が備わっているので、きっとこのことを理解してくださるはずです。事実、ダビデ王は自分のためにあわれみの判断を下されました。自分は王の判断力を信じたので、王から慰めのことばを得るためにこうしてやって来たのですと。すなわち、テコアの女は、そのあわれみの判決を自分自身にも適用するようにと迫ったのです。

このように知っていることと、それを実践することとは、別の問題です。聖書の真理を理解していることと、それを自分の生活に適用することとは、別の問題なのです。神の愛を理解したからといっても、それを自分の生活に適用できるかというとそうではありません。私たちはただ聖書を理解するだけでなく、それを自分の生活に適用しなければならないのです。神の愛と赦しを受け取り、その神の愛に生きなければなりません。神は私たちを愛し、そのすべての罪を赦してくださいました。もう過去の罪に悩む必要はありません。トラウマに捉われなくてもいいのです。私たちに必要なのは、この神の愛と赦しの約束に堅く立つことです。キリストにある新しい人生を歩むことなのです。

 Ⅱ.ダビデの赦し(18-22)

するとダビデは、この女の背後にヨアブの入れ知恵があったことを見抜いて、彼女にこう言いました。18~19節前半をご覧ください。「王は女に答えて言った。「私が尋ねることに、隠さずに答えなさい。」女は言った。「王様、どうぞお尋ねください。」王は言った。「これはすべて、ヨアブの指図によるのであろう。」」

すると女は答えて言いました。19節後半~20節です。「「王様、あなたのたましいは生きておられます。王様が言われることから、だれも右にも左にもそれることはできません。確かに王様の家来ヨアブが私に命じ、あの方がこのはしための口に、これらすべてのことばを授けたのです。王様の家来ヨアブは、事の成り行きを変えるために、このことをしたのです。あなた様には、神の使いの知恵のような知恵があり、地上のすべてのことをご存じですから。」」

 そこでダビデはヨアブを呼び寄せて言いました。そして、彼の言葉を受け入れます。21~22節をご覧ください。「よろしい。その願いを聞き入れた。行って、若者アブサロムを連れ戻しなさい。ヨアブは地にひれ伏して礼をし、王に祝福のことばを述べて言った。「今日、このしもべがご好意を受けていることが分かりました。王様。王が、このしもべの願いを聞き入れてくださったのですから。」」

ヨアブは地にひれ伏し、王に礼をして、祝福のことばを述べました。彼はアブサロムの帰還があたかもダビデにとっての利益ではなく、自分にとっての利益であるかのように喜びました。元々これはダビデの心がアブサロムに向かっているのを見たヨアブが、自分に出来ることとして考えたことでした。そう思いながらもダビデがなかなか実践に移せないでいるのを見て、テコアの女を用いて解決を図ろうとしたのです。それを今、自分のことかのように喜びました。こうしたヨアブの心構えには、家来として大いに学ぶものがあります。

 かくして、アブサロムはエルサレムに戻されることになります。23~24節をご覧ください。「ヨアブはすぐゲシュルに出かけて行き、アブサロムをエルサレムに連れて来た。王は言った。「あれは自分の家に行ってもらおう。私の顔を見ることはならぬ。」アブサロムは自分の家に行き、王の顔を見ることはなかった。」

 ヨアブは王の決定を大いに喜び、直ちにゲシュルに行ってアブサロムをエルサレムに連れて来ました。しかしダビデは、アブサロムにエルサレムへの帰還を許しただけで、自分と面会することまでは許しませんでした。アブサロムは自分の家に引きこもったままで、王の顔を見ることができなかったのです。どうしてでしょうか。

 ダビデは、心の中では彼を赦していなかったからです。いや、赦すべきではないと思っていたのでしょう。そんなに簡単に赦しては王としての面子が立たないと思ったのかもしれません。しかしダビデは自分がバテ・シェバとの姦淫という罪を言い表わしたとき、神がその罪を赦してくださったので、神との交わりを回復することができたはずです。それなのに彼はアブサロムを赦すことができませんでした。もっと厳しくすべきだと考えたのです。こうしたダビデの態度には一貫性がありません。彼は厳しく対処しなければならないときに優柔不断な態度を見せ、赦しの心が必要な時には厳しい態度で接しました。なんともちぐはぐです。それがまた大きな問題を引き起こす火種となります。

 使徒パウロはこう言っています。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:31)

私たちは、キリストによって罪を赦された者です。神が罪を知らない方を私たちのために罪とされたのは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。大切なのは、私たちも赦された者、神と和解させられた者であるということを覚えることです。あたかも自分が義であるかのように錯覚し、他の人をさばくことがあるとしたら、それは神のみこころではありません。神が私たちに願っておられることは、私たちが赦されたように、私たちも互いに許し合うことなのです。

Ⅲ.ダビデとアブサロムの和解(25-33)

最後に25~33節をご覧ください。27節までをお読みします。「さて、イスラエルのどこにも、アブサロムほど、その美しさをほめそやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで、彼には非の打ちどころがなかった。彼は毎年、年の終わりに、頭が重いので髪の毛を刈っていたが、刈るときに髪の毛を量ると、王の秤で二百シェケルもあった。アブサロムに、三人の息子と一人の娘が生まれた。その娘の名はタマルといって美しい女であった。」

アブサロムは、かつてサウルがそうであったように、容姿がすぐれていました。彼は後にダビデから王位を奪おうとしますが、容姿も民の心をつかむのに役立ったことでしょう。髪の毛は200シェケルもありました。これは約2.8キログラムです。彼には3人の息子と一人娘がいました。その娘には「タマル」という名が付けられました。アムノンによって犯された美しい妹と同じ名です。よほど妹のことを愛し、彼女のことが忘れられなかったのでしょう。

ここにはアブサロムの肉体的な美しさが記されてありますが、その信仰や知恵に関する言及は一つもありません。肉体的な美しさもまた神からの賜物ですが、多くの場合、それが高慢となって自分の身に滅びを招くことになります。アブサロムもその長い髪が破滅の一因となりました。この後のところで、彼は逃亡する際に、頭を樫の木に引っ掛け、宙づりになったところを、ヨアブによって殺されたことが記されてあります。(Ⅱサムエル18:9~15)。

Ⅰペテロ3章3~4節に「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とありますが、私たちは自分の外見ではなく、心の中の人柄を誇る者でありたいと思います。

最後に、28~33節をご覧ください。「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。アブサロムは、ヨアブを王のところに送ろうとして、ヨアブのもとに人を遣わしたが、彼は来ようとしなかった。アブサロムはもう一度、人を遣わしたが、ヨアブは来ようとしなかった。アブサロムは家来たちに言った。「見よ。ヨアブの畑は私の畑のそばにあり、そこには大麦が植えてある。行って、それに火をつけよ。」アブサロムの家来たちは畑に火をつけた。ヨアブは立ち上がり、アブサロムの家に来て、彼に言った。「なぜ、あなたの家来たちは私の畑に火をつけたのですか。」アブサロムはヨアブに答えた。「ほら、私はあなたのところに人を遣わし、ここに来るように言ったではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでした』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」ヨアブは王のところに行き、王に告げた。王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。」

アブサロムは2年間エルサレムに住んでいましたが、王の顔を見ることはありませんでした。それで彼は王へのとりなしを頼もうとして、ヨアブのところに人を遣わしましたが、ヨアブは来ようとしませんでした。何度遣わしても来ようとしなかったので、業を煮やしたアブサロムは非常手段に訴えました。自分の家来たちに、ヨアブの畑の大麦に火をつけさせたのです。驚いて駆けつけたヨアブが、なぜ自分の畑に火をつけたのかと言うと、アブサロムは言いました。何度もあなたのところに人を遣わして、ここに来るようにと言ったにもかかわらず、来なかったからだと。これでは何のためにゲシュルから戻って来たのかわからない。王の顔を拝したい。もし自分に咎があるなら、王に殺されても構わないと。つまり、はっきりしてほしいということです。ヨアブがこのことをダビデに告げると、ダビデはアブサロムを呼び寄せました。そして、アブサロムがダビデのところに来ると、アブサロムはダビデの前でひれ伏して礼をし、ダビデはアブサロムに口づけしました。つまり、アブサロムを赦し和解したのです。実にあの事件、あの事件とは、アブサロムが兄弟アムノンを殺害してゲシュルの地に逃亡したという出来事ですが、あれから5年後のことです。

しかし、この和解は真実なものではありませんでした。というのは、次の章を見るとわかりますが、アブサロムはダビデから王位を奪おうとする工作を始めるからです。彼はイスラエルの民の心を自分に向けさせようとします。いったいなぜアブサロムは和解できなかったのでしょうか。それは、ダビデがアブサロムを蔑ろにしたからです。彼をゲシュルから連れ戻したのに彼と会おうともしませんでした。そのため彼はいったい何のために戻って来たのかわからなかったし、そのことでヨアブがきちんとした対応を取らなかったので、ヨアブの畑に火をつけたほどです。表面上は和解したかのようでも、実際にはアブサロムの中に苦々しい思いが残っていたのです。

ここから私は、親に対するパウロの勧めを思い出します。エペソ6章4節には、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。「怒らせない」とは、子どもを自由気ままに育てること、甘やかすこと、子どもに媚びることではありません。「怒らせる」(パロルギゾー)とは、文字通りの意味では、「何かによって怒らせる、挑発する」という意味です。英語訳ではirritateしない(いらいらさせない)となっています。コロサイ3章21節に、同じ命令の理由として、「気落ちさせないためです」と説明しています。つまり、「子どもをおこらせてはいけません」というのは、子どもたちが何らかの理由で「気落ちする」ことが無いように配慮することなのです。ダビデはアブサロムと会おうとしなかったことで彼を怒らせました。また、主の教育と訓戒によって育てることもしませんでした。彼はアブサロムに5年間も自分に会えなくするという、過度の懲らしめを与えてしまったのです。そのことで彼を気落ちさせてしまいました。

私たちはそのようなことがないように気をつけなければなりません。それは親子関係ばかりでなく、夫婦関係やすべての家族関係、また、教会や職場の人たちとの関係、さらには地域社会の人たちとの関係においても言えることです。言っていることとやっていることが違う一貫しない態度や不当な言動は、周りの人々にフラストレーションを与えることになります。子どもたちを怒らせてはなりません。そのためにはまず私たちが神のことばによって整えられ、みことばに従って生きることが求められます。そこに聖霊が働いてくださるからです。神の聖霊によって、私たちが神のしもべとしてふさわしく整えられるように祈りましょう。

雅歌3章1~5節「捜し求める花嫁」

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 きょうは、雅歌3章1節から5節までの箇所から、「捜し求める花嫁」というタイトルでお話したいと思います。ここは先週に続いて婚約時代を思い起こして歌っています。羊飼いである花婿は花嫁の家を訪ね、壁の向こうでじっと立ち、格子越しに窓から中を見ました。そして、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」と優しく語りかけましたが、花嫁は出てくることができませんでした。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白しつつも、立って、出て行くことができなかったのです。すると彼女は、花婿が取り去られる夢を見ます。それが今日の箇所です。

Ⅰ.見つからない花婿(1)

1節をご覧ください。「私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。」

羊飼いである花婿が仕事に出かけると、花嫁は夢を見ました。それは花嫁が花婿を捜す夢です。彼女は夜、とこについても、たましいの恋い慕う方、これは花婿のことですが、彼を探していました。でも、捜しても探しても、花婿を見付けることができませんでした。この「夜」ということばですが、これは複数形になっています。ですから、「夜毎に」とか、「毎晩」ということです。一晩だけのことではありません。夜毎に必死になって花婿を捜しましたが、見つからなかったということです。ここには「捜す」という言葉が繰り返して使われています。2節も含めると、実に4回も使われています。このように繰り返して使われているということは、そのことが強調されているということです。ここに、必死になって捜している花嫁の姿がよく表れているのではないかと思います。それでも見つかりませんでした。なぜでしょうか。

前回のところを思い出してください。花婿は彼女のところにやって来て、「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで」(2:10)と呼び掛けました。冬が過ぎ去り、春(夏)がやって来ました。新しい季節がやって来たのですから、さあ立って、出ておいで、と呼び掛けられたのに、出て行くことができませんでした。そのタイミングを逃してしまったのです。それで、花婿を見失ってしまいました。もしその招きに応じていたら、彼女は花婿との親密な交わりを待つことができたのに、そうしなかったのです。2章15節の言葉を借りるなら、狐を捕らえませんでした。「狐」とは、花婿との親密な交わりを妨害するものです。それは何と彼女の内側にありました。彼女は花婿を自分の思いのままに支配しようとしました。そよかぜが吹き始め、影が逃げ去るまでに何とか戻って来てください、すなわち、夕暮れになるまで戻って来てよと、自分の意のままにしたいと思ったのです。花婿にすべてをゆだねることができませんでした。その結果、花婿を見失ってしまったのです。そして今、その花婿がどこにいるのかわからないのです。どこを捜してもいません。

私たちも同様の体験をしたことがあるのではないでしょうか。花婿なる主の招きに応えることができず、主を見失ってしまったということが。どこへ行ってしまったのかわかりません。主の臨在が全く感じられなくなってしまったということがあります。もしかすると、今そういう体験をしている方がおられるかもしれません。それはあなたがこの花嫁と同じように、主の招きに応答しないからです。「また後で」とか、「今度時間がある時に」と言って、その招きを蹴ってしまうのです。そして、再びベッドにゴロンとなるのです。その結果、どこかへ行ってしまったと思い、捜しても、捜しても見つからないのです。

ちなみに、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、意味は「召しだされた者たちの群れ」です。主は私たちを召し出してくださいました。そして今も主との会見に召し出しておられます。そういう機会がたくさんあります。こうして毎週日曜日に集まって礼拝をささげる時もそうですし、今週の水曜日には祈祷会もあります。その他、小グループでのバイブルスタディーやC-BTEなど、様々な聖書の学びの機会が提供されています。このような絶好の機会をいとも簡単に逃していることがあります。たとえ教会に来ることができなくても、家で聖書を開き祈ることもできます。

それなのに、この花嫁のように、いろいろな理由をつけてはそれを拒んでしまうのです。今は忙しいからまた後でとか、きょうは疲れているので明日にしてください。今月はいろいろなスケジュールが入っているので無理ですと、ついつい後回しにしては、その機会を逃してしまうのです。その結果、この花嫁のように、主がどこかへ行ってしまったかのような距離感を感じ、その溝をなかなか埋められないでいるのです。あなたはどうでしょうか。そのような機会逃してはいないでしょうか。主と親しい交わりを持つために、いつも主の招きに応答したいものです。

Ⅱ.捜し求める花嫁 (2-3)

次に、2~3節をご覧ください。「「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私のたましいの恋い慕う方を、お見かけになりませんでしたか。」」

花嫁は目を覚まし花婿を捜しに出かけます。私たちの主は、時にご自身を隠されるようなことをなさいます。あえてかくれんぼをするようなことをされるのです。それは主が意地悪だからではありません。あなたにご自身を現わしたくないからでもないのです。それは、私たちを子として扱っておられるからです。

「かわいい子には旅をさせよ」ということわざがありますが、神様は子供が成長するために、あえて訓練されることがあります。へブル12章5~6節にはこうあります。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

父親が訓練しない子はいません。もしそのような子がいるとしたら、それは私生児であって、本当の子ではないのです。だから、訓練と思って耐え忍ぶように。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

私たちは主との関係を当たり前のものだと思い、もはやそれを有難いこととして、あるいは感謝なことであると受け止めることができなくなっています。それで、ついついあぐらをかいてしまうことがあるのです。別に主を求めなくてもどうせ主はそばにいてくれるから大丈夫だと、求めることをしないのです。イエス様を信じて天国に行けるようになったんだから、あとは別にどうでもいいと思っているのです。それで主は、そういう人からご自身を隠されることがあるのです。主との関係がどれほど大切なものであり、どれほど恵み深いものであるのかを教えるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。決して私たちを困惑させたり、失望させるためではありません。

確かに私たちはイエス様を信じて救われました。死んだら天国に行くことができます。いや、今この世にありながら、さながら天国を味わうことができます。私の罪のすべてが赦されて、神が共にいてくださると約束してくださいました。それが天国です。天国とは、神がともにおられるところです。それは最高の祝福です。しかし、そのように救いに導いてくださった主を求め、主との交わりを持たなかったら、私たちの信仰はどんどん弱くなってしまいます。肉体の筋肉も使わないでいるとだんだん弱くなっていくように、霊の筋肉も使わないとだんだん弱くなっていくのです。主はそのことを知っておられるので、私たちを強くするためにあえてこのようなことをなさるのです。

詩篇13篇1~2節をお開きください。これはダビデの賛美ですが、この歌の中でダビデはこのように歌っています。「主よ、いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。いつまで私は自分のたましいのうちで思い悩まなければならないのでしょう。私の心には一日中悲しみがあります。いつまで敵が私の上におごり高ぶるのですか。」

ダビデは絶望的な心と苦しみの中で、いつまで神様は自分から御顔を隠されるのですかと言っています。それは苦しいことです。彼は自分のたましいのうちで思い悩み、心には、一日中悲しみがあると言っています。しかし、そのような苦しみの中で彼は、「主よ」と呼び求めるのです。

すべてのクリスチャンは主と関係を持っています。しかし、すべてのクリスチャンが主と交わりをもっているかというと、そうではありません。イエス様を信じて主との関係を持っていても、主と交わりをもっているわけではないのです。主と関係を持つということと、主と交わりを持つということは別のことです。ここで主が私たちに求めておられることは、イエス様を信じて救われた私たちがイエス様との関係においてただそれにあぐらをかいているのではなく、神様との関係を与えてくださった主に感謝し、主との交わりを切に追い求めることです。

たとえば、結婚している男女は夫婦の関係を持っていますが、それは必ずしも夫婦としての交わりをもっているということではありません。夫婦の関係であっても全く会話がないとか、コミュニケーションがないということもあります。確かに戸籍上は夫婦かもしれませんが、そこに夫婦としての関係というか実態がなければ、それは夫婦とは言えないのです。。それは仮面をかぶった夫婦、仮面夫婦です。

神様との関係も同じです。神様を信じたことで神様と関係を持つことができました。聖書ではそれを永遠のいのちと言っています。イエス・キリストにある永遠のいのちです。それは消えて無くなるものではありません。救いが失われることは決してありません。しかし、神様と関係を持っていても、神様と親しい交わりをもっているかというとそうでもありません。折角イエス様を信じて、神様との平和を持つことができたのに、その神様と交わりをもっていないことがあるのです。主との交わりを疎かにしないでほしいと思います。そして、私たちが主を求め主と深い交わりを持つために、主はあえてご自身を隠されることがあることを覚えてほしいと思います。

花嫁は2節で、「私のたましいの恋い慕う方を捜して来よう。」と言っています。この「私のたましいの恋い慕う方」という表現が、ここに何回も繰り返して出てきます。4節までに、実に4回も使われています。これは1章7節に出てきた時に説明しましたが、たましいから恋い慕う方という意味です。たましいとは、私たちの一番深いところにあるものです。そ単に心から愛するというのではなく、たましいの極みから愛するということです。最高の愛の表現です。皆さんもどなたかにご自分の愛を表現をなさる時にいうといいですよ。「私のたましいの恋慕う方よ」と。相手はびっくりして逃げていくかもしれませんが。

彼女は今わかったのです。花婿がどんなに麗しい方であるのかを。それは、彼女のたましいの恋い慕う方であるということです。花嫁は、羊飼いなる花婿がそのような存在なのだということに気付いたのです。失って初めて気づく世界があります。今までは何とも思わなかったのに、失ってみてそれがどんなに有難いものだったのか、どんなに感謝なことだったのかがわかることがあるのです。彼女は花婿から離れてみてはじめて、そのすばらしさ、麗しさに気付かされたのです。

3節をご覧ください。ここには、「町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。」とあります。「夜回り」とは「町の見張り人」のこと、「警護する人」のことです。花嫁はこの夜回りを見つけたとき、「私のたましいの恋い慕う方を、お見掛けになりませんでしたか。」と尋ねています。しかし、夜回りも花婿を見つけることができませんでした。時に私たちは主を見失うと、教会の牧師やリーダーたちに相談すれば見つけることができるのではないかと思いますが、そうではありません。夜回りも彼女のために花婿を見つけることはできませんでした。ではどうすればいいのでしょうか。自分自身で見つけるしかないのです。だれかに見つけてもらうのではなく、自分自身で見つけなければなりません。あなた自身が見つけなければならないということです。

エレミヤ書29章13節を開いてください。ここには「あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。」とあります。

もしあなたが心を尽くして主を捜し求めるなら、見つけることができます。ここには「心を尽くしてわたしを求めるなら」とあります。英語では「with all your heart」となっています。「あなたのすべての心で」という意味です。半分の心ではありません。すべての心です。すべての心で主を求めるなら、あなたは主を見つけるのです。

ヨハネの福音書20章には、復活の朝、主のお身体に香油を塗ろうと墓に出かけて行ったマグダラのマリアのことが書かれています。彼女は墓に着いてみると、そこに置かれてあった大きな石が取り除かれているのを見て、困惑します。だれかが墓から主を取って行ったと思った彼女は、そのことを弟子のペテロとはヨハネに告げました。そして彼女は墓の外でたたずんで泣いていたのです。すると「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか」という声がしました。彼女はそれが園の管理人だと思って、「もしあなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」と言いました。すごいですね。「私が引き取ります」というのですから。この時彼女はもう50~60歳くらいになっていたかと思いますが、その彼女が50~60キロはあったでしょうイエス様のお身体を引き取るというのです。彼女はそれほど主を求めていました。心を尽くして主を求めていたのです。

すると、イエスは彼女に言われました。「マリア」。彼女はすぐにそれがイエスだとわかり、振り向いて、「ラボニ」、すなわち「先生」と言いました。するとイエスは彼女に言われました。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたの神である方のもとに上る」と伝えなさい。」(ヨハネ20:17)

ここから彼女がイエス様にすがりつこうとしていたことがわかります。それほど主を愛していました。それほど主を求めていたのです。彼女は心を尽くして主を求めました。だから、主を見つけることができたのです。

あなたはどうでしょうか。マグダラのマリアのように主を愛していますか。心を尽くして主を求めているでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

なたがたが主を求めるなら、与えられます。捜すなら、見出します。たたくなら、開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見出し、たたく者は開かれます。心を尽くして主を求めましょう。そうすれば、あなたも主を見つけることができるのです。

Ⅲ.しっかり捕まえて放さず(4-5)

その結果、どうなったでしょうか。最後に4~5節を見たいと思います。4節には「私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、私のたましいの恋い慕う方を見つけました。私はこの方をしっかり捕まえて放さず、ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。

花嫁は、ついに花婿を見つけました。すると彼女はどうしたでしょうか。彼女はこの方をしっかり捕まえて放さず、とあります。捕まえて放しませんでした。これまではどうでもいいと思っていたのに、失ってみてはじめてそのすばらしさ、有難さに気付いた彼女は、この方をしっかりと捕まえて放しませんでした。今まで失われていた主との関係を取り戻していくかのようです。

そればかりではありません。ここには「ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。」とあります。母の家とは彼女の実家のことです。そこにお連れしたのです。何のためでしょうか。ここに「私を身ごもった人の奥の間に」とありますが、これは親しい交わりを持つことを意味しています。これまではそんなに意識していませんでした。この方との交わりがそんなにすばらしいものであるのかということを。しかし、花婿がいなくなってみて、その存在の大きさに気付かされ、彼女が安心できる実家の奥の間にお連れし、そこで二人きりの親しい交わり、深い交わりの時を持ったのです。

神様を求めるのに特別な場所はいりません。そのためにわざわざ時間をかける必要もないのです。主を見つけたらしっかりと捕まえて、放さないようにしなければなりません。そして、だれにも邪魔されないように二人きりの場所で、二人きりの時間を持つことが大切です。

この「母の家」の「母」ということばは、へブル語で「エーム」と言いますが、これは「分岐点」「出発点」をも意味する言葉です。つまり、「母」は花婿と花嫁が出会った出発点、「初めの愛」を意味しています。初めの愛に立ち返らなければなりません。

黙示録2章には、主が書き送ったアジアにある七つの教会のうち、エペソの教会にこのように言われました。「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった。けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」(黙示録2:3-5)

あなたが初めの愛に立ち返り、その愛にとどまるなら、あなたは主のすばらしさを見出し、主との関係がさらなる次元に引き上げられていくことになるでしょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは主を見つけましたか。もし主を見つけたのなら放さないでください。しっかりと捕まえてください。そして、二人だけの場所で、二人だけの時間を過ごしていただきたいと思います。

最後に5節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

同じフレーズが2章7節にもありましたね、そこでは愛を擬人化して、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。ここまでが恋愛の時代の思い出です。次の節から新しい場面に入ります。その区切りのフレーズがこれです。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」愛は外側からの刺激によってではなく、内側から自然に目覚めるものだからです。

ここでも同じです。神との関係は、外側からの働きかけによって改善できるものではありません。その人の内側から、そうしたいと思う気持ちが起こらない限り無理なのです。すなわち、愛がそうしたいと思うときまで待たなければなりません。それまでは揺り動かしたり、かき立てたりしてはならないのです。主から離れている人を見ると、確かに心が痛みます。残念だなぁ、悲しいなぁ、同じ主にある兄弟姉妹なのにどうして離れて行ってしまったんだろう。そしてその人のために祈り、自分に出来ることがあれば少しでも役に立ちたいと思います。必要であればその人の悩みを聞いてあげたり、励ましたりすることも大切です。しかし、そこから踏み込む必要はありません。そっとしてあげればいいのです。愛がそうしたいと思う時までは。なぜ離れてしまったんですか、なぜ主の招きに応答しないんですかと、かき立てる必要はないのです。愛がそうしたいと思う時まで待たなければなりません。そして、このことについては祈り、すべてを主にゆだねなければならないのです。それは主がなさることだからです。私たちがすることではありません。私たちがあれこれと思い煩い、分析し、解決できることではないのです。主はご自身のタイミングで、ご自身のやり方で解決してくださいます。まさに「神がなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者3:11)です。あなたはそのことで騒ぎ立てたり、揺り起こしたりしなくてもいいのです。

これは主から離れて行った人たちのことだけでなく、私たちの生活に起こるすべてにおいて言えることではないでしょうか。私たちは日々いろいろなことで思い悩みますが、そのことで心を騒がせたり、思い煩ったりする必要はないのです。それをすべて主にゆだねなければなりません。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)

神にゆだねましょう。神があなたがたのことを心配してくださいます。愛がそうしたいと思うときまでは待たなければなりません。神がその人の心に働いてくださり、その人を動かしてくださいますから。私たちは揺り起こしたり、かき立てたりしないで、主がなさる最善を祈りながら、待ち望みたいと思います。

雅歌2章8~17節「さあ立って、出て行こう」

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 雅歌からの五回目のメッセージとなります。きょうは2章8節のところから、「さあ立って、出て行こう」というタイトルでお話したいと思います。

2章8節から新しい場面に入ります。ソロモンはこれまで結婚式当日のことを思い出して歌いましたが、ここから婚約の時代を思い起こして歌っています。これが3章5節まで続きます。ここで羊飼いである花婿は、花嫁に「さあ立って、出ておいで」と優しく語りかけています。私たちは花婿なる主の御声に応答して立ち上がり、出て行く者でありたいと思います。

Ⅰ.新しい季節がやって来た(8-13)

まず、8節から13節までをご覧ください。8~9節をお読みします。「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。山を跳び越え、丘の上を跳ねて。私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」

ここは故郷にある花嫁の家です。そこに後に花婿となる王が、迎えに来ているのです。結婚を前提に交際するために。

「私の愛する方の声がする。ほら、あの方が来られる。」

春が来るのを待ちわびていた彼女は、彼が来るのを心待ちにしていました。今か、今かと待ちわびている彼女の思いが伝わってきます。そして彼の声が聞こえたとき、「ほら、あの方が来られる。」と胸をときめかしているのです。

彼はどのようにしてやってくるのでしょうか。ここには、「山を跳び越え、丘の上を跳ねて。」とあります。まるでかもしかや若い鹿のようにです。「かもしか」とは「ガセル」のことで、聖書では美しさの象徴として用いられています。また「若い鹿」とは、軽快に跳びはねる様を表しています。花婿なるフィアンセは、かもしかや若い鹿のように山を飛び跳ね、丘の上を跳ねてやって来るのです。

「ほら、あの方は私たちの壁の向こうでじっと立ち、窓からうかがい、格子越しに見ています。」牢屋の外から格子越しに囚人を見ているというのではありません。久々の再会にフィアンセはすぐにドアをノックするのをためらい、彼女が何をしているのかを外から窓越しに眺めているのです。

そして、このように呼びかけて言われます。「わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」(10)この「私の愛する方」とは、花婿なるキリストのことです。もちろん花嫁とは教会のことです。花婿なるキリストは、私たちを「わが愛する者、私の美しいひとよ。」と呼んでくださいます。私たちはそのような者ではありません。自分勝手な者で、罪に罪を重ねるような者ですが、主そんな私たちをそのように言ってくださるのです。感謝ですね。そしてこう言われます。「さあ立って、出ておいで」

その理由の一つが、11節から13節までに述べられます。「ご覧、冬は去り、雨も過ぎて行ったから。地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来て、山鳩の声が、私たちの国中に聞こえる。いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香りを放つ。わが愛する者、私の美しいひとよ。さあ立って、出ておいで。」

それは冬が去り、雨も過ぎて行ったからです。つまり、新しい季節が訪れたからです。イスラエルでは、私たち日本人が言う四季のうち「春」とか「秋」という季節を表す言葉がありません。夏と冬だけです。先日フィリピンの姉妹とお話していたら、フィリピンでは夏だけだそうです。一年中夏。日本は春、夏、秋、冬があってとてもきれいだとおっしゃっていました。イスラエルも春と秋がなく、夏と冬だけです。夏は4月から10月頃まで続く長い「乾季」の期間で、冬は11月頃から3月頃までの「雨季」の期間です。11節に「雨も過ぎて行ったから」の「雨」とは、12~2月頃にかけて降る激しい雨のことで、「後の雨」と呼ばれているものです。

イスラエルでは雨のシーズンでも、日本で言うところの秋のはじめに降る「先の雨」と冬の終わりに降る「後の雨」があります。申命記11章14節には「わたしは時にかなって、あなたがたの地に雨、初めの雨と後の雨をもたらす。あなたは穀物と新しいぶどう酒と油を集めることができる。」とあります。この「初めの雨」とは「先の雨」のことで、この雨は乾季で岩のように硬くなった地を柔らかくしてくれる働きがあります。そのように柔らかくなった地を耕して種を蒔くのです。

一方、「後の雨」とは12~2月にかけて間欠的に激しく降る雨のことです。やがて春(夏)の収穫時期が近づくと、穀物を十分に実らせるために激しく降るのです。この「先の雨」と「後の雨」が降らなければ、種まきも刈り入れもできません。それは冬の季節の終わりと夏の季節の始まりを意味していました。

その激しい雨の季節が過ぎて行き、地には花が咲き乱れ、刈り入れの季節がやって来たのだから、山鳩の声が国中に聞こえるようになったのだから、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放つようになったのだから、さあ立って、出ておいで、というのです。

この「花」は複数形になっています。「花々」ですね。冬が過ぎ春がやって来ると、地には花が咲き乱れます。アネモネ、アドリス、ヒナゲシ、チューリップといった真っ赤な花や、蘭やシクラメン、野生のアイリス、クロッカス、キルナスといった青やピンクの花など、色とりどりです。先日、那須フラワーワールドに行きましたが、そこにも花が咲き乱れていました。ハナビシソウ、ルピナス、ネモフィラ、ヒナゲシ、ハルジオンなどです。那須の山々をバックにした景色は最高でしたね。イスラエルでは三千種類もの植物が生息していますから、それ以上です。それらの花が一気に咲き乱れるわけです。

「刈り入れの季節」とは、欄外の説明にもあるように「歌」と訳される言葉で、第三版では「歌の季節がやって来た」と訳しています。前後の文脈を見ると、そのように訳した方が適当かと思います。山鳩の声が国中に響き渡るのです。皆さんは「山鳩」の声を聴いたことがありますか。ネットで検索して聴いてみたら、「トルットゥルール、トルットゥルール」と同じリズムで鳴いていました。それはまさに歌を歌っているようです。真冬の寒く冷たい雨が降っているような時には聞くことができませんが、冬が過ぎて春が来ると、こうした山鳩やキジ鳩が一斉に歌い始めるのです。

冬の大雨の季節が過ぎ去り、春の収穫の季節がやってきたのだから、「さあ立って、出ておいで」というのです。おそらく、花嫁は家の中に座っていたか、ベッドに横たわっていたのでしょう。なかなかやって来ないフィアンセにやきもきしていたのかもしれません。しかし冬が過ぎて春(夏)がやってきたのだから、これまでの自分の殻を脱ぎ捨て、新しいステージに出て行かなければなりません。そうです、これは実を結ばない季節の終わりと、花婿との新しい季節の始まりに対する招きなのです。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来たのだから、さあ立って、出ておいでと。

私たちの人生にも新たな始まりの季節があります。心機一転、過去を振り払い、新しい恵みのステージに一歩踏み出す時があるのです。でもそのためにはだれでも冬を通らなければなりません。それは激しい雨が降る厳しいシーズンかもしれません。しかし、私たちの人生にもそうした雨季が必要なのです。神様は私たちが実を結ぶために、そうしたシーズンを通されるのです。アブラハムやモーセ、ダビデもそうでした。荒野を通るシーズンがありました。その中で養われ整えられていったのです。私たちも同じです。実を結ばないシーズンがあります。それはそれでいいのです。そのシーズンを通って実を結ぶ季節へと変えられていくのですから。無理に結ぼうとしないでください。見せかけは必要ありません。荒野のカチカチと乾いた地面の中で、ふさわしい時が来るまでじっと待てばいいのです。その中で神様が後の雨を与え、地を潤してくださいます。それが過ぎ去ったら、一気に花が咲き乱れます。どんなにずさんな状態でも構いません。ほんの小さな信頼でもいいですから神様を信じて立ち上がればいいのです。そこからすべてが始まります。うめくときもあります。しかし、その中で自我が砕かれていきます。痛みも経験することがあるでしょう。でもそこから、私たちは希望を見い出すことができます。あなたが神の愛に目覚めるとき季節が変わるのです。この時から新しい季節が始まるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

冬は過ぎ去り、雨も過ぎて行きました。あなたにも新しい季節が到来しています。地には花が咲き乱れ、山鳩の歌が国中に聞こえ、いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は花をつけて香を放っているのですから、私たちは愛する主の御声に応答して、立ち上がって、出て行こうではありませんか。

Ⅱ.岩の裂け目にいる鳩(14)

花嫁が立って、出てく理由が、もう一つあります。14節をご覧ください。「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる私の鳩よ。私に顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしい。」」

また出ました!「私の鳩よ」。ここで花婿は花嫁を「私の鳩よ」と呼んでいます。鳩は、美しさと清らかさの象徴でした。1章15節にも出てきましたね。「あなたの目は鳩。」このような表現は5章2節、12節、6章9節にも出てきます。「嫌だ!鳩だなんて」という方もいらっしゃるかもしれませんが、これは最高の誉め言葉です。それほどあなたは美しく、清らかであるということですから。それは聖霊のシンボルとしても使われていることからもわかります。

なぜそんなに美しいのでしょうか。なぜなら、彼女は岩の裂け目、崖の隠れ場にいるからです。ですから、岩なる主がかくまってくださるのです。ですからここに、「岩の裂け目、崖の隠れ場にいる鳩よ。」と呼び掛けられているのです。出エジプト記33章20~23節をお開きください。「また言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」 また主は言われた。「見よ、わたしの傍らに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れる。わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておく。わたしが手をのけると、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は決して見られない。」」

これはモーセが主の栄光を私に見せてくださいと祈ったときに、主が仰せられたことです。信仰者であればだれも願うことではないでしょうか。主の御顔を拝したいと。しかし主は「できない」と言われました。人は主の顔を見て、なお生きていることはできないからです。

しかしそんな彼に主は、うしろ姿を見せてくださると言われました。どのようにしてかというと、主が通り過ぎるとき、彼を岩の裂け目に入れてくださることによってです。主が通り過ぎるまで、主の手でおおってくださるので見ることはできませんが、主が手をのけると、うしろ姿を見ることができるというのです。私たちはこの目で主を見ることはできません。神と交わることも、神とともに歩むこともできません。神はあまりにも聖いお方だからです。でもその神を見ることができ、神と交わり、神とともに歩む方法があります。それは、モーセのように岩の裂け目に入れていただくことです。その岩とはだれのことでしょうか。

その岩とはイエス・キリストのことです。Ⅰコリント10章4節には「その岩とはキリストです。」とあります。そうです、この岩とはイエス・キリストのことなのです。あなたが岩なるキリストの裂け目に入れていただくなら、あなたは神を見ることができるのです。神と交わり、神とともに生きることができます。

ここで「私の鳩よ」とありますね。「鳩」は美しさの象徴、清らかさの象徴だと申し上げました。ここでは花嫁がその鳩にたとえられています。どうして花嫁が鳩のように美しいのでしょうか。それは岩の裂け目にいるからです。岩なるイエス・キリストにかくまってもらっているからなのです。花嫁だけを見れば、そんなに美しくないかもしれません。なかなか花婿が迎えに来てくれない、いつになったら来てくれるのかと、モジモジして引きこもっていました。ベッドに横になってみたり、縦になってみたりして落ち着かなかったと思います。お世辞にも美しいとは言えなかったでしょう。でも彼女は岩なるお方の裂け目、崖の隠れ場にいたので、「私の鳩よ」と呼んでもらえたのです。あなたの声は心地よく、あなたの顔は愛らしいと、言っていただけたのです。

それは私たちも同じです。私たちが美しいのは、私たちが美しいからではありません。私たちがすばらしいのは、私たちがすばらしいからではないのです。私たちが美しいのは、私たちがどこにいるかで決まります。私たちが岩の裂け目にいるなら、崖の隠れ場にいるから美しいのです。すなわち、岩なるイエス・キリストの内にいるなら、あなたは美しく、麗しいのです。そして自信をもってこう言うことができます。「私は黒いけれども美しい」(1:5)と。なぜ?なぜなら、岩なるキリストがかくまってくださるからです。私たちの罪、咎、汚れの一切をきよめてくださるからです。自分自身を見たら、とてもそのようには言えません。穴があったら入りたいくらいです。

使徒パウロも自分の姿に打ちのめされてこう言いました。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。」(ローマ7:18-21)

彼はここで、自分の内には善なるものは一つもないと言っています。善は住んでいないと告白せざるを得ませんでした。しかし、彼はそんな罪深い自分の姿を見たのではなく、その罪を覆ってくださるイエス・キリストのうちに、いのちの御霊の原理を見出しました。それがいのちの御霊の原理です。

「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。しかし、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉のうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(ローマ8:1-11)

重要なのは、あなたがどこにいるかということです。もしあなたが岩なるキリストのもとに身を避け、神の御霊があなたのうちに住んでおられるなら、この御霊によってあなたの死ぬべきからだも生かされるのです。「私は黒いけれども美しい」と告白することができます。クリスチャンになることのすばらしさがここにあります。クリスチャンになることのすばらしさは、イエス・キリストがあなたの内に住み、あなたがイエス・キリストの内にいるということです。それゆえ、あなたがどんなに汚れていても、どんなにパッとしなくても、「さあ立って、出ておいで」と言われる花婿のことばに応答して、出て行くことができるのです。

Ⅲ.狐を捕らえてください(15-17)

そのためにはどうしたら良いのでしょうか。15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

これは10節から続く花婿のことばなのか、それとも、花婿のことばを受けての花嫁のことばなのかはっきりしていません。新改訳聖書2017では14節までが花婿のことばになっていますが、第三版では15節までが花婿のことばになっています。前後の文脈と意味を考えると、おそらくこれは10節からの花婿のことばではないかと思います。なぜなら、ここに「狐を捕らえてください」とあるからです。これはどういうことでしょうか。

「狐」はヘブル語で「シュアール」と言います。意味は「手のひら、一握り、少量の」です。つまり、「狐」は小さいものの象徴なのです。「かもしか」は美しさの象徴、「鳩」は美しさと清らかさの象徴でしたが、「狐」は小さいものの象徴です。その性格は、陰険でずる賢いことから、ずる賢いものの代名詞としても使われるようになりました。イエス様もヘロデのことを「あの狐」(ルカ13:32)と呼んでいます。狐のように小さくてずる賢いものが侵入して来て、ぶどう畑を荒らすのです。その狐を捕らえてくださいというのです。

当時、ぶどう畑は石垣に囲まれていました。それは外敵からぶどうの実を守るためです。しかし、狐は小さいのでその隙間から入り込み、中のぶどうをかじることがあったのです。その狐を捕らえてくださいというのです。なぜ?「私たちのぶどう畑は花盛りですから。」

ぶどう畑は、二人だけの語り合いの場であり、触れ合いの場です。これまで離れ離れになっていましたが、今やっとその恋が実る時がやってきました。まさに今が花盛りです。ですから、二人だけの時を妨げるものは取り除いてください、というのです。では、二人の関係を妨げる狐とは何でしょうか。

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」どういうことでしょうか。

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と言っています。すばらしいですね。私たちが主に「あなたは私のもの、私はあなたのものです」と告白できるのは、それほど親密な関係であるということです。これが夫婦の関係です。使徒パウロは、夫婦になった男女の互いの体はもはや自分だけのものではないと言っています。コリント第一7章4節には、「妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」とあります。

このように互いが互いの中にいる状態は、小羊の妻である天のエルサレムで実現します。「神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、」(黙示21:3)私たちは神と小羊と、霊において一体になるのです。

しかし、注意しなければならないことがあります。それは、自分の思いが強くなることです。花婿の働きを、自分の思いでコントロールし、制限してしまうことがあります。その後のところを見てください。16節の最後から17節にかけてのことばです。「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでに、あなたは戻って来て、険しい山々の上のかもしかや若い鹿のようになってください。」

「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」ということから、花婿が羊飼いであることがわかります。この方は羊飼いである王なのです。ですから、ゆりの花の間で羊の群れを飼っているわけですが、その花婿に対して花嫁は、そよ風が吹き始め、影が逃げ去るまでには戻って来てくださいと言っています。日本的に言うなら、日が暮れるまでには帰って来てね、ということでしょうか。その頃までには帰って来て、愛を確かめたいというのです。ある注解者はこれを、「夫がしている仕事について、夫と離れている時でも、それを疑うことがない」と解説していますが、そうでしょうか。私はその逆だと思います。夫の仕事に入りすぎています。ちょっとでも離れると、落ち着かなくなっているのです。日が暮れるまでには帰って来てください。険しい山々の上のかもしかや若い鹿のように跳んで帰ってくるのよ、とせかしているように感じます。これでは仕事になりません。

15節のところで、花婿は花嫁に「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえてください」と言いましたが、その「狐」とは、このことではないかと思うのです。つまり、花婿を自分の思うままにしたいという利己的な思い、独占欲です。花婿と花嫁の麗しい関係を破壊する狐は外側にいるのではなく、自分内側にいるということです。そうした「狐」を捕らえなければなりません。花婿を信頼し自分のすべてをゆだねることこそ花嫁の務めであり、そうすることによって二人の関係はより親密で麗しいものとなるのです。それが本当の意味での、私はあの方のもの、あの方は私のものということなのではないでしょうか。

ヤコブ4章2~3節にこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」  

私たちは願っても自分のものにならないと、人殺しをするのです。でも本当の問題はどこにあるのでしょうか。それは願いに答えてくれない主にではなく、私たちの側です。私たちの主は、この天地を造られた方、創造主です。主はあなたを造られました。この方は完全な方であり、完全な計画を持っておられます。それなのに私たちは、自分の思い通りにならないと、人殺しをするのです。争ったり、戦ったりします。私たちが良かれと思ってしていることが必ずしも正しいとは限りません。意外と自分の思い込みにすぎないことがあります。大切なのは、私たちがどう思うかではなく、花婿なる主が何と言われるかです。

「あなたがたは狐を捕らえてください。」そうすることで、私たちの花盛りのぶどう畑が守られることになります。主イエスの麗しい関係が保たれます。私たちの狐を捕らえましょう。そして、花婿の招きに心から応答しようではありませんか。花婿はあなたを招いておられます。「さあ立って、出ておいで」と言って。新しい季節がやってきました。どんなことがあっても岩なるキリストが、あなたを守ってくださいます。主の御声に応答して、立ち上がり、出て行きたいと思います。

Ⅱサムエル記13章

 Ⅱサムエル記13章から学びます。

 Ⅰ.アムノンの苦しみ(1-19)

 まず1~7節をご覧ください。「その後のことである。ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をした。アムノンは、妹タマルのゆえに苦しんで、病気になるほどであった。というのは、彼女が処女であって、アムノンには、彼女に何かをするということはとてもできないと思われたからである。アムノンには、ダビデの兄弟シムアの息子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に知恵のある男であった。彼はアムノンに言った。「王子様。なぜ、朝ごとにやつれていかれるのですか、そのわけを話してください。」アムノンは彼に言った。「私は、兄弟アブサロムの妹タマルを愛している。」ヨナダブは彼に言った。「床に伏せて、病気のふりをなさってください。父君が見舞いに来られたら、こう言うのです。『どうか、妹のタマルをよこして、私に食事をとらせるようにしてください。彼女が私の目の前で食事を作って、私はそれを見守り、彼女の手から食べたいのです。』」アムノンは床につき、仮病を使った。王が見舞いに来ると、アムノンは王に言った。「どうか、妹のタマルをよこし、目の前で団子を二つ作らせてください。私は彼女の手から食べたいのです。」ダビデは、タマルの家に人を遣わして言った。「兄さんのアムノンの家に行って、病人食を作ってあげなさい。」」

 「その後」とは、ダビデが預言者ナタンによって罪を指摘されたとき、それを悔い改め、バテ・シェバを正式に妻として迎え入れ、ソロモンを生んだ後ということです。13章26~31節は取り上げませんでしたが、これは11章1節の続きで、ダビデがアンモン人のラバと戦い、この王の町を攻め取った時の様子のことです。彼はその町を攻め取ると、彼らの王の王冠を奪い取り、非常に多くの分捕り物を持ち去りました。そして、その町にいた人々を連れ出して、石ののこぎりや、鉄のつるはし、鉄の斧を使う仕事に着かせ、また、れんがの仕事をさせました。ここまでがダビデの生涯の絶頂期でした。これ以降、ダビデの生涯は坂道を転がり落ちるかのように破滅の一途をたどることになります。12章には、ダビデがバテ・シェバと姦淫をした結果、その生まれた子どもが病気で死にました。次にダビデを襲うのが、家庭内の不和です。近親相姦と兄弟殺しの悲劇です。

 1節には「ダビデの子アブサロムに、タマルという名の美しい妹がいた。ダビデの子アムノンは彼女に恋をしていた。」とあります。3章を振り返ってみましょう。3章2節には、ダビデがヘブロンで王であったときに、イズレエル人アヒノアムから産まれた子がアムノンであることが書かれています。つまりアムノンが、すべてのダビデの息子たちの中で長男でした。次男はカルメル人ナバルの妻アビガイルによって生まれたキルアブです。そして三男が、ゲシェルの王タルマイの娘マアカによって生まれたアブサロム、四男はハギテの子アドニヤ、五男はアビタルの子シェファテヤ、六男がダビデの妻エグラによって生まれたイテレアムです。これらの子は、ダビデがヘブロンにいたときに生まれた子どもたちです。そして、これにエルサレムでバテ・シェバによって生まれた子ソロモンがいました。ここに登場するのは長男のアムノンと、ゲシェルの王タルマイの娘マアカによって生まれた三男のアブサロムです。この異邦人の王の娘マアカは、アブさロムの他に娘タマルを産んでいました。そして、ダビデの長男アムノンが、このタマルに恋をしたのです。

アムノンは、妹タマルのゆえに苦しんで、病気になるほどでした。というのは、彼女が処女であって、アムノンには、彼女に何かをすることはとてもできないと思われたからです。「何かをする」とは、何か手を出したりすることです。そんなことはできないと思いました。というのは、モーセの律法では、男が女と寝ることは、イコールめとることと同じことであったからです。性的な結びつきは、そのまま、霊的、精神的、社会的責任が生じる結婚であると考えられていたのです。しかし、姉妹との結婚は禁止されていました(申命記27:22)。タマルを恋い慕っていたアムノンは、それで病気になるほどでした。恋わずらいです。皆さんも、そういう時があったでしょう。胸がキュンとして苦しいのです。ちょっとだけキュンとする程度ならいいのですが、燃え上がるほどキュンとなると苦しくなります。今週の日曜日は雅歌2章からのメッセージでしたが、2章5節に「私は愛に病んでいるのです。」ありましたね。これはどういう意味ですかと、ある方からメールをいただきましたが、あまりにも愛しているので、体のエネルギーがそれに吸いとられるようで苦しいのです。それほど愛しているということです。ここでは愛ではなく恋ですが、恋の病は苦しいのです。

そのアムノンにダビデの兄弟シムアの息子でヨナダブという従兄弟がいました。彼はアムノンの友人で、非常に知恵のある男でしたが、アムノンが苦しんでいるのを見て、「どうしてそんなに苦しんでいるのですか。そのわけを話してください。」と言いました。アムノンは自分の思いを彼に伝えました。「私は、兄弟アブサロムの妹タマルを愛している。」と。

すると、ヨナダブは何と言いましたか。彼はアムノンに、病気のふりをして床に伏せているようにと言いました。父ダビデ王が見舞いに来たら、妹のタマルに食事を作らせて、自分のところによこしてほしいと。仮病を装ってタマルをおびき寄せればいいと助言したわけです。ヨナダブは非常に知恵のある男でしたが、その知恵を悪のために利用したのです。私たちは、アムノンやヨナダブのように自分の欲望を満たすために知恵を悪用するのではなく、神の栄光のために知恵を用いていかなければなりません。

アムノンは、ヨナダブが言った通りにしました。彼は、自分の欲望を満たすために従兄弟のヨナダブの悪知恵を利用して犯行に及んだのです。しかし、これは本当の愛ではありませんでした。アムノンはタマルを愛していたのではなく、自分を愛していたのです。というのは、愛とは、自分の利益を求めず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜ぶからです(Ⅰコリント13章)。彼はただ、自分の欲望が満たされることしか考えていませんでした。それは、愛ではありません。むしろ、愛には程遠い行為です。

次に、8~14節までをご覧ください。「タマルが兄アムノンの家に行ったところ、彼は床についていた。彼女は生地を取ってそれをこね、彼の目の前で団子を作ってそれをゆでた。彼女は鍋を取り、それを彼の前によそったが、彼は食べることを拒んだ。アムノンが「皆の者をここから出て行かせよ」と言ったので、みなアムノンのところから出て行った。アムノンはタマルに言った。「食事を寝室に持って来ておくれ。私はおまえの手からそれを食べたい。」タマルは、自分が作ったゆでた団子を兄のアムノンの寝室に持って来た。彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、彼は彼女を捕まえて言った。「妹よ、おいで。私と寝よう。」彼女は言った。「いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことをしないでください。私は、この汚名をどこに持って行けるでしょうか。あなたも、イスラエルで愚か者のようになるのです。今、王に話してください。きっと、王は私があなたに会うのを拒まないでしょう。」しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、力ずくで彼女を辱めて、彼女と寝た。」

事は、アムノンが計画した通りに進みました。タマルが彼の家にやって来ると、生地をこねて団子を作り、それをゆでました。それからそれをよそいましたが、彼は食べることを拒み、部屋にいた者たちを全員外に出しました。そして、タマルの手から直接食べたいと、彼女を寝室に呼び寄せました。彼女が食べさせようとして、彼に近づくと、彼は彼女を捕まえて、「妹よ、おいで。私と寝よう。」と迫りました。しかし、タマルは「いけません。兄上。乱暴してはいけません。イスラエルでは、こんなことはしません。こんな愚かなことはしないでください。」と言って拒みました。彼女はモーセの律法を知っていたのです。さらに彼女は、もしこのようなことをしたら、その汚名をどこにも持っていけなくなること、また彼も、イスラエルでいつまでも愚か者と呼ばれるようになることを伝えて、彼の思いをとどまらせようとしました。しかし、残念ながら、アムノンは彼女の言うことを聞こうとせず、力ずくで彼女を辱め、彼女を犯してしまったのです。

その結果、どうなったでしょうか。15~19節をご覧ください。「アムノンは、激しい憎しみにかられて、彼女を嫌った。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかった。アムノンは彼女に言った。「起きて、出て行け。」タマルは言った。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたあのことより、なおいっそう悪いことですから。」しかし、アムノンは彼女の言うことを聞こうともせず、召使いの若い者を呼んで言った。「この女をここから外に追い出して、戸を閉めてくれ。」彼女は、あや織りの長服を着ていた。昔、処女である王女たちはそのような身なりをしていたのである。召使いは彼女を外に追い出し、こうして戸を閉めてしまった。タマルは頭に灰をかぶり、身に着けていたあや織りの長服を引き裂き、手を頭に置いて、泣き叫びながら歩いて行った。」

アムノンはタマルと関係を持つと、激しい憎しみにかられ、彼女を嫌うようになりました。その憎しみは、彼が抱いた恋よりも大きかったのです。アムノンはタマルに言いました。「起きて、出ていけ。」

どういうことでしょうか。あれほど恋い慕っていたのに、いざ関係を持つとそれが憎しみに変わるのです。不思議ですね。しかもその憎しみは、彼が抱いていた恋よりも大きいものでした。彼はタマルのことを思うと病気になるほど恋していたのに、それがそれ以上に憎しみに変わったのです。まったく勝手な男です。でも、これが男というものです。これは、愛ではありませんでした。単なる欲望にすぎなかったのです。作家の有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」と言いましたが、それは愛でなく恋です。愛とは惜しみなく与えるものだからです。愛だと思って関係を持った瞬間に彼が激しい憎しみにかられたのは、それは本当の愛でなく自分の欲望を満足させようとする恋にすぎなかったからです。ですから、欲望を満足させた彼は、それまでの恋心よりもさらに激しい憎悪を抱くようになったのです。満たされたら、もう用なしです。情欲によってついさっきまで愛していると言っていた男が、その女を打つことも十分ありえるのです。それが愛だと思い違いをすると大変なことになります。

アムノンはタマルに「起きて、出ていけ。」と言いました。しかし、タマルは「それはできません」と答えています。そんなことをすれば、罪の上に罪を上塗りすることになってしまいます。というのは、モーセの律法には、このように処女を犯した場合必ずめとらなければいけない、とあるからです。その男は一生涯彼女の夫とならなければなりませんでした。しかし、アムノンはそんなタマルの声に耳を貸そうとしませず、彼女を追い出してしまいました。彼女は処女の王女が着るあや織りの長を裂き、手を頭に置いて、泣き叫びながら帰って行きました。

 Ⅱ.アブサロムの復讐(20-22)

次に、20~22節をご覧ください。「彼女の兄アブサロムは彼女に言った。「おまえの兄アムノンが、おまえと一緒にいたのか。妹よ、今は黙っていなさい。彼はおまえの兄なのだ。このことで心配しなくてもよい。」タマルは、兄アブサロムの家で、一人わびしく暮らしていた。ダビデ王は、事の一部始終を聞いて激しく怒った。アブサロムはアムノンに、このことが良いとも悪いとも何も言わなかった。アブサロムは、アムノンが妹タマルを辱めたことで、彼を憎んでいたからである。」

 妹タマルが犯されたことを知り、アブサロムはタマルに「今は黙っていなさい。」と言いました。なぜこのように言ったのでしょうか。もしアムノンを暗殺する好機を狙っていたのであれば、それは秘密裏に決行されたでしょう。しかし、この後のところを見てわかるように、それは秘密裏に決行されたのではなく、王も知り、兄弟たちも臨席している場で正々堂々と行われています。そのように公然と部下たちを動員して殺害するのであれば、いつでも行うことができたでしょう。それなのに、二年間もその時を待ったのは、このアムノンの悪事に対してダビデ王がどのような対処をするのか様子をうかがっていたからです。つまり、王位継承権第一を占めていたアムノンを粛清することで、自分がその王位に着くことを淡々とねらっていたのです。

 しかしダビデは何の行動もとりませんでした。彼は事の一部始終を聞くと激しく怒りましたが、それ以上のことは何もしませんでした。それは、彼がアムノンを咎めれば家庭が崩壊するのではないかと思ったからです。何よりもダビデ自身バテ・シェバとのことがあったので、性的な罪に対して厳しい態度を取ることができなかったのです。

 ここに、彼の家庭環境の複雑さが見られます。それは元はと言えば、彼が神の御心に反して多くの妻を持ったことに原因がありました。それゆえに、こうした複雑な家庭環境が生まれ、様々な問題が生じたのです。そして彼自身の罪、彼自身の弱さもありました。すべての関係の最小単位は夫婦であり、家族です。その関係が壊れると、すべての関係に影響を及ぼすことになります。神のことばに従って夫婦関係、家族関係を構築していかなければなりません。そうでないと、こうした問題に発展していきます。

 ダビデが正しく問題の解決を図らなかった結果、どのようなことが起こったでしょうか。23~27節までをご覧ください。「満二年たって、アブサロムがエフライムの近くのバアル・ハツォルで羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、アブサロムは王の息子たち全員を招いた。アブサロムは王のもとに行き、こう言った。「ご覧ください。このしもべは羊の毛の刈り取りの祝いをすることにしました。どうか、王も家来たちも、このしもべと一緒においでください。」王はアブサロムに言った。「いや、わが子よ。われわれ全員が行くのは良くない。あなたの重荷になってもいけないから。」アブサロムは、しきりに勧めたが、ダビデは行きたがらず、ただ彼に祝福を与えた。アブサロムは言った。「それなら、どうか、私の兄アムノンを私どもと一緒に行かせてください。」王は彼に言った。「なぜ、彼があなたと一緒に行かなければならないのか。」アブサロムがしきりに勧めたので、王はアムノンと王の息子たち全員を彼と一緒に行かせた。」

満2年がたって、アブサロムはアムノン殺害の計画を実行に移します。ダビデ王がアムノンの犯行を聞き激怒しながらも、決して罰しようとしないのを見て、アブサロムは自ら行動を起こします。自分の手でアムノンを殺すことにしたのです。

彼は、羊の毛の刈り取りの祝いをしたとき、王の息子たち全員を招待することにしました。まず王のもとに行き、この羊の毛の刈り取りの祝いに王と家来たちを招きます。しかし、このことでアブサロムに負担になってはならないと、王は行くことを断りました。そこで、では兄アムノンを代理として送ってほしいとしきりに願うと、ダビデは、アムノンと王の息子たち全員を一緒に行かせました。こうしてアブサロムの兄アムノン殺害の舞台が整いました。

28~33節をご覧ください。「アブサロムは、自分に仕える若い者たちに命じて言った。「よく注意して、アムノンが酔って上機嫌になったとき、私が『アムノンを討て』と言ったら、彼を殺せ。恐れてはならない。この私が命じるのではないか。強くあれ。力ある者となれ。」アブサロムの若い者たちは、アブサロムが命じたとおりにアムノンにした。王の息子たちはみな立ち上がって、それぞれ自分のらばに乗って逃げた。彼らがまだ道の途中にいたとき、ダビデのところに、「アブサロムは王のご子息たちを全員殺しました。残された方は一人もいらっしゃいません」という知らせが届いた。王は立ち上がり、衣を引き裂き、地に伏した。傍らに立っていた家来たちもみな、衣を引き裂いた。ダビデの兄弟シムアの子ヨナダブは、証言をして言った。「王様。彼らが王のご子息である若者たちを全員殺したとお思いになりませんように。アムノンだけが死んだのです。それはアブサロムの命令によるもので、アムノンが妹のタマルを辱めた日から、胸に抱いていたことです。今、王様。王子たち全員が殺された、という知らせを心に留めないでください。アムノンだけが死んだのです。」」

アブサロムは、自分に仕えている若い者たちに、アムノンが酔って上機嫌になったとき、自分が「アムノンを打て」と言ったら、彼を殺すようにと命じました。アブサロムの若い者たちは、彼が命じたとおりにアムノンにしました。かくして、アムノンは殺されてしまいました。

 アムノンが殺されたのは、羊の毛の刈り取りをする祝いのときでした。それは、本来は喜びと感謝の日です。喜びと感謝を表すべき場が、虐殺の現場となってしまったのです。これは、神に対する反逆です。さらに彼は、アムノンに酔いが回ったころ、彼を殺すようにと部下たちに命じました。彼は自分の手を下したのではなく、これに部下たちを巻き込んだのです。

 いつまでも憎しみを心に抱いてはなりません。憎しみはやがてこのような悲惨な結果を招くことになります。憎しみから解放される唯一の道は、さばきを主にゆだねることです。ローマ12章19節に、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。」とあります。これが信仰者である私たちが取るべき態度です。それは私たちの力でできることではありません。しかし、主はそんな私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。神に敵対していた私たちを赦してくださったイエス・キリストの十字架を見上げるとき、その力が与えられます。十字架の主の恵みを覚えて感謝することが、さばきを主にゆだねる原動力なのです。

 アブサロムの若い者たちが、アブサロムが命じたとおりにアムノンを殺すと、王の息子たちはそれぞれ自分のろばに乗って逃げました。彼らがその道の途中にいたとき、ダビデのところに「アブサロムは王の息子たち全員を殺しました。残された方は一人もいらっしゃいません。」という知らせが届きました。うわさというのは、伝わるのが早いですね。すぐに素早く飛び交います。ダビデは、その知らせを聞くと立ち上がり、衣を引き裂き、地に伏しました。

 そこに、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタブがやって来て、証言しました。その内容とは、アブサロムの家来たちが殺したのはダビデの子どもたち全員ではなく、アムノンだけであること、それはアブサロムの命令によるもので、アムノンが彼の妹のタマルを辱めた日からずっと、胸に抱いていたことであるということでした。

 このヨナダブは、タマルを強姦することについてアムノンに悪知恵を入れた人物です。彼はタマル強姦に関してはアムノンと同じ責任を負うべきです。また、アムノンの殺害に関しても、アブシャロムと同じ罪に問われるべきです。それなのに彼はここで、そうしたことには一切触れず、ただアムノンだけが殺されたということをダビデに得意げに報告しています。このような友人は最悪です。損得勘定で動きます。周りのことなどお構いなしです。常に自分の事しか考えません。自分のことだけを考えて行動するのです。箴言13章20節には「箴知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」とあります。ヨナダブのような愚かな者の友となると害を受けることになります。注意が必要です。

Ⅲ.アブサロムの逃亡(34-39)

最後に34~39節をご覧ください。「アブサロムは逃げた。見張りの若者が目を上げて見ると、見よ、うしろの山沿いの道から大勢の人々がやって来るところであった。ヨナダブは王に言った。「ご覧ください。王子たちが来られます。このしもべが申し上げたとおりになりました。」彼が語り終えたとき、見よ、王子たちが来て、声をあげて泣いた。王もその家来たちもみな、非常に激しく泣いた。アブサロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げた。ダビデは、毎日アムノンの死を嘆き悲しんでいた。アブサロムは、ゲシュルに逃げて行き、三年の間そこにいた。アブサロムのところに向かって出て行きたいという、ダビデ王の願いはなくなった。アムノンが死んだことについて慰めを得たからである。」

他の王の息子たちがらばに乗って、ダビデのところに戻ってきました。そして声をあげて泣きました。王も家来たちもみな、非常に激しく泣きました。ダビデは、毎日アムノンの死を嘆き悲しんでいました。一方、アブシサロムは、ゲシュルの王アミフデの子タルマイのところに逃げました。このゲシュルの王アミフデの子タルマイですが、アブサロムとタマルは、ダビデとこの異邦人ゲシェルの王タルマイの娘マアカとの間に生まれた子どもですから、タルマイはアブサロムにとって祖父にあたります。アブサロムは、祖父のところに逃げて、そこに三年間いたのです。その後、彼はイスラエルに戻りますが、ダビデと再会するのはさらにその2年後になります。

39節は難解な節です。ダビデがアブサロムのところに向かって出て行きたいという願いがなくなったということが、どういうことなのかがわかりません。アブサロムを慕って会いに行くことをやめたのか、アブサロムを憎んで攻めに出て行くのをやめたのかがわからないからです。それは14章1節の「王の心がアブサロムに向いている」ということばで、さらに混乱します。新改訳2017ではこのように訳していますが、第三版では「王がアブシャロムに敵意を抱いている」と訳しているからです。英語の訳では「心配している」とか「慕っている」という訳です。全く反対の意味を伝えています。ここではダビデはアムノンが死んだことについて慰めを得ていたので、アブサロムに対する敵意がなくなったということでしょう。

注目すべきことは、息子に対するダビデの態度です。タマルが強姦されたときもそうでしたが、今回もアブサロムに対して何の対応もしませんでした。これが、後になって問題を作ることになります。子どもに対してどのように対応するかは、親として頭が痛いところですが、少なくとも毅然(きぜん)とした対応が求められます。それができなかったのは、ダビデ自身もまた同じ過ちを犯していたからです。ですから、子どもたちにどのように対応するかということの前に、自分自身が主の前にどのように歩まなければならないのかを教えられ、聖霊の恵みと力によってそれを実行できるように祈らなければなりません。

雅歌2章1~7節「旗じるしは愛」

 雅歌からの4回目のメッセージとなります。きょうは、2章1節から7節までのところから「旗じるしは愛」というタイトルで、花婿なるキリストのすばらしさをお話したいと思います。

Ⅰ.茨の中のゆりの花のようだ(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。1節には、「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」とあります。

これは、花嫁が花婿に語っていることばです。1章5節で花嫁は、「私は黒いけれども美しい。」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。どんなに日に焼けていても、どんなに肌黒くても、「女の中でもっと美しいひとよ」(1:8)と言ってくださるのです。

そればかりではありません。1章9節には、「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。」とありましたね。ファラオの戦車の間にいる馬、それは最高級の馬です。それほど美しいのです。また、15節には「ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」とありましたね。あなたの目は鳩です。あなたの目は鳩というのは、鳩のように美しく、きよらかであるということです。花婿は花嫁に対して何度も「美しいひとよ」と言うものですから、花嫁はすっかり気分がよくなってこう言っています。「私はシャロンのバラ、谷間のゆり」。人は自分が愛されていることがわかると自分のイメージが変わります。他のだれが何と言おうとも、自分を愛する方がそのように言ってくださるのです。彼女は「私は黒いけれども・・」と言っていましたが、「私はシャロンのばら、谷間のゆり」と言うまでになりました。

「シャロン」とはヨッパ、今はヤッファという町として知られていますが、テルアビブの南の郊外にある都市です。そこからカイザリヤまでの地中海沿岸の肥沃な平原です。砂漠の多いこの地域にあっては、花が咲き草木が生い茂る特別な場所です。そのシャロンに咲くばらのようだ、と言っているのです。

この「ばら」という語は、下の欄外には「サフラン」とあります。新改訳第三版では「サフラン」と訳しています。このことばは聖書の中には他に1か所だけに出てきます。それはイザヤ書35章1節ですが、そこには「サフラン」と訳されています。「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。」ネットで調べてみたら、淡い紫色のきれいな花で、とてもきれいです。まあ、これが日本のサフランと同じかどうかはわかりませんが、とてもきれいな花であることは確かです。花嫁はここで、私はそのシャロンに咲く美しい花だと言っているのです。

それがかりではありません。「谷間のゆり」とも言っています。「ゆり」は、野原にあふれていた草花でした。イエス様も新約聖書の中でこのゆりについ言及しています。マタイ6章28節です。「なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」この「野の花」の「花」が「ゆり」です。ですから、第三版では「野のゆりが」と訳していますね。これは野原に普通に咲いていた花でした。彼女は慎ましやかに、自分を野に咲いているありふれたゆりの花であるとしながら、ただのゆりの花ではない、谷間のゆりだと言っているのです。谷間のゆりとは何でしょうか。谷間とは、過酷な環境の中でもひっそりとたたずんだ場所です。彼女は自分がそうした野のゆりの花にすぎないが、そうした過酷な環境の中でもたくましく生きているゆりの花だというのです。つまり、美しさとたくましさを兼ね備えて花であるということです。

まさに花婿であられるイエス様はそのようなお方でした。中世のキリスト教の多くの聖画を見ると、青い目をした色白の、弱々しい姿のイエス様の姿を描いたものが多くありますが、実際はそうじゃなかったと思います。イエス様は大工の息子でしたから、もっとがっちりしていたのではないかと思います。何よりも、神の子としての栄光に満ち溢れていたと思います。見た目には他の人とあまり変わりはないようでも、実際には美しさとたくましさを兼ね備えておられました。まさにシャロンのばら、谷間のゆりです。ここでは花嫁がそのように言われています。なぜならキリストがそのようなお方なので、キリストの花嫁である教会もそのようになっていくからです。

そんな花嫁に対して花婿は何と言っていますか。2節をご覧ください。「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」これは花婿のことばです。どういうことでしょうか。

「茨」とはとげのある小さな草木のことです。その中にあってとりわけ美しいゆりの花、それが花嫁です。この茨とは他の女性たちのことを指しています。1章5節には「エルサレムの娘たち」が出てきました。彼女たちは茨のような存在と言えるでしょう。そうした娘たちの中にあってその美しさが際立っていたのです。確かに彼女はどこにでもいるような野のゆりにすぎないかもしれませんが、しかし、そんな彼女の美しさと比べたら、他の女性たちは茨にすぎないというのです。それほどに花婿にとって花嫁は特別な存在なのです。

実際、イエス様はあなたをそのように見ておられます。あなたはひときわ美しいと。確かにあなたの周りには才能に溢れた人、輝いた人がいるかもしれない。回りのみんなからちやほやされ、羨ましい限りのような人がいるかもしれない。それと比べたら自分は何の才能もなく、いたって平凡で、これといった取り柄があるわけでもないし、本当に情けないと思っているかもしれませんが、そんなあなたを見て主は、「あなたは美しい」とおっしゃってくださるのです。「あなたと比べたら、他の人は茨のようだ!」と。

イエス様の目であなたは唯一無二の存在なのです。イザヤ43章4節にはこうあります。「わたし目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」このように見てくださる主に感謝したいと思います。そして、私たちの目ではなくイエス様の目で自分はどういう者なのかを、正しく受け止めたいと思うのです。

Ⅱ.あの方の旗じるしは愛でした (3-6)

次に、3節から6節までをご覧ください。3節をお読みします。「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。その木陰に私は心地よく座り、その実は私の口に甘いのです。」

これは、そんな花婿のことばを受けて花嫁が語っていることばです。ここで花嫁は花婿を称賛しています。「私の愛する方が 若者たちの間におられるのは、林の木々の中のりんごの木のようです。」

「林の木々」とは「(ぞう)木林(きばやし)」のことです。ここでは若者たちが雑木林にたとえられているのです。つまり、花婿が若者たちの間におられるのは、雑木林の中に植わったりんごの木のようだと。これは2節で花婿が言ったことに応答しているのです。2節で花婿は、「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、茨の中のゆりの花ようだ。」と言いましたが、それに応答して、「私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の中のりんごの木のようだ。」と言っているのです。それだけ特別な存在であるということです。

どのように特別なのでしょうか。その後のところで語られています。まず「その木陰に私は心地よく座り」とあります。その木陰で心地よく休むことができます。「寄らば大樹の陰」ということわざがあります。どうせ頼るなら、大きくて力のあるものに頼ったほうが安心できるという意味です。雨宿りをしたり、暑い日ざしを避けようとして木陰に身を寄せるときには、大きな樹木の陰が好都合でです。まさに私たちの花婿は「大樹の陰」です。

皆さんは何を大樹としていますか。お金ですか、仕事ですか、それとも資格といった類のものでしょうか。確かに、そうしたものも役に立ちます。しかし、そうしたものが全く頼りにならないときもあります。逆にあなたを裏切ることさえあるのです。これほど必死で働いてきたのにいったいそれはどういうことだったんだろう、ということがあります。仕事であろうと、資格であろうと、そうしたものが役に立たないときがあるのです。しかし、私たちの花婿は、決してあなたを失望させることはありません。この方は林の木々の中のりんご、雑木林の中にしっかりとそびえ立つりんごの木のように、あなたをすべての災いから守ってくださるからです。

詩篇91篇お開きください。これは主に身を避ける人がいかに幸いであるのかを歌った詩です。「1いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。2 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦私が信頼する私の神」と。3 主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。5 あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。6 暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。7 千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。8 あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。9 それはわが避け所主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。10 わざわいはあなたに降りかからず、疫病もあなたの天幕に近づかない。11 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。12 彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。

13 あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇を踏みにじる。14 「彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げる。15 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与える。16 わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せる。」」

すばらしいですね。いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿ります。私たちが苦しいとき主を避け所とするなら、主がいつもともにいて私たちを救ってくださるのです。

日本語で「お陰様で」ということばがありますが、この「お陰様で」という言葉は、辞書で調べてみると、神仏の加護の意味がある“御蔭”(おかげ)が語源とされています。教会に来ておられるブラジルの方にお聞きしたら、ポルトガル語では「グラッサス ア デウス」というそうです。直訳は「神に感謝」となるので、「神様ありがとう!」という意味になります。神に感謝することが「お陰様」でということなのです。なぜなら、神は全能者であられるので、その陰に宿る人を完全に守られるからです。そのおかげです。そういう意味でのりんごの木です。

私が福島で牧会していた時、一人の婦人が突然教会に来られました。それは土曜日の朝のことでした。「すみません、お話を聞いていただけるでしょうか」と、ご自分のことを話されました。アルコール中毒だったご主人が自宅の2階からたたき落ち、首の骨を折り1年半の間寝たきりになっているとりことでした。農家の仕事もできなくなったので農機具を処分しようと農機具店に来ましたが、教会があるのを見て来ました、ということでした。お話を聞くとあまりにも悲惨な状況だったので、主がこの方をあわれんでくださるように祈りました。そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(ローマ10:11)というみことばを引用し、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったこと、そして三日目によみがえってくださり、私たちの救いの御業を成し遂げてくださったことを話し、「主の御名を呼び求める者はみな救われる。」(ローマ10:13)とお話すると、その場でイエス様を信じなさいました。全能者の陰に宿ったのです。

数日後にご主人が入院している病院に行きました。ご主人は気管を切開し、呼吸器につながれ、植物人間のような状態でした。「こりゃ無理だ」と内心思いましたが、神様が癒してくださるように祈りました。

イエス様を信じてからこの姉妹は意欲的に仕事を探しました。するとある営業の仕事が与えられました。「先生、仕事が与えられました。感謝します。イエス様のお陰です。」と喜びが電話から伝わってきました。「良かったですね。どんなお仕事ですか」と尋ねると、何かの営業のお仕事でした。「日曜日はお休みになれますか」と聞くと、休んでも月1回くらいかなということでした。それで「もう少し祈りましょう。神様は必ず良い仕事を与えてくださいますから」と言うと、「先生ひどい!」というのです。「せっかく仕事が与えられたのに。これからのことを考えると良い仕事だと思ったのに」と。

それで彼女はどうしたかというと、もともと農家の方でしょ、りんごとかさくらんぼとかを栽培していたのですが、そのりんご畑に行ってりんごの木の下で祈りました。祈ったというよりもボーっとしていたといった方がいいかもしれません。すると、義理の両親がご主人のために掛けていた生命保険のことを思い出しました。病院の医師の話では、回復の見込みが有と診断書に書いてくれたので障害保険が降りなかったのですが、あれからもう1年半、ずっとこのような状態が続いているので、もしかすると無にしてくれるのではないかという思いが沸いてきたのです。「どう思いますか」と言うので、「病院で相談したらいいと思います」と言うと、医師は「あ、そうだね、回復の見込みは無いね」とあっさりと「無」にしてくれました。それでご両親が掛けてくれていた保険が下りて、苦しい生活から解放されたのです。

それからしばらくして、私が大田原に来てからのことですが、ご主人が奇跡的に意識を回復し立ち上がることができるまでになりました。そしてなんと杖をついて教会にも来られるようになったのです。教会の創立30周年の時に、後ろから私の肩をたたく人がいたので誰かなぁと思ったら、そのご主人でした。ご主人は介護を受けて自立生活ができるまでになり、イエス様を信じて救われました。ご主人だけではありません。二人のお子さんも、義理のご両親も家族みんな信じて救われたのです。この方に信頼する者は、だれも失望させられることがありません。主の御名を呼び求める者はみな救われるのです。

いと高き方の隠れ場に住む者。その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神」と。あなたは何の陰に宿っていますか。いと高き方の隠れ場、全能者の陰に宿る人は幸いです。

ところで、いと高き方の陰に宿るといっても、りんごの木ではちょっと小さいんじゃないですかと心配なさる方もおられるかもしれませんね。でも大丈夫です。この「りんごの木」はヘブル語では「タプアハ」という語ですが、これはりんごの木というよりは杏子の木、アプリコットの木のことです。それは10mくらいになります。ですから、陰として十分なのです。しかし、これがりんごの木であろうと杏子の木であろうと、これは花婿なるキリストのことですから、主イエスの陰に宿ることが大切です。主に信頼する者は失望させられることはありません。

このりんごの木ですが、もう一つのことは、その実は甘いということです。3節に「その実は私の口に甘いのです」とあります。これは、5節にも「りんごで元気づけてください」とありますが、私の口に甘く、私たちを元気づけてくれる神のみことばのことを表しています。詩篇の19篇10節には、「それらは金よりも多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。主のおしえは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣の滴りよりも甘いのです。

また、詩篇119篇103節にはこうあります。「あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。」それは甘いのです。それはただ甘いだけではありません。それはあなたを励まし、あなたを元気づけてくれます。

あなたはこのみことばを味わっているでしょうか。全能者の陰に宿り、この方が与えてくださる実、みことばを口にすることで元気づけられます。私たちもキリストの花嫁として、主よ、あなたは林の木々の中のりんごの木のようですと、その木陰に宿り、その実を口にする者でありたいと思います。

そして4節をご覧ください。ここにはこうあります。「あの方は私を酒宴の席に伴ってくださいました。私の上に翻る、あの方の旗じるしは愛でした。」

「あの方」とは花婿のことです。花婿が花嫁を伴ってくださいました。どこに伴われましたか?「酒宴の席に」です。「酒宴の席」とは、宴会とか、祝宴の席のことです。田舎娘の花嫁がこうした宴の席に出ること自体恥ずかしいことです。身を引くような思いでしょう。そんな花嫁を気遣って花婿は彼女をひときわ励まし、安心を与え、配慮しているのです。

その花嫁の上に翻っていた旗じるしは何でしたか。「愛」です。愛でした。「旗じるし」とは、兵士がどの部隊に属しているのかを示すものです。それは、誰が軍を率いているのかが一目でわかるような目印でもありました。強い武将なら「俺がここにいるぞ!」と相手を威圧するメリットもありました。その旗じるしが愛だったのです。それはイエス・キリストの十字架によって表された神の愛のことです。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

クリスチャンはみな、この旗じるしの下に呼び集められた者です。イエス・キリストの愛に属するものとされたのです。教会のシンボルが十字架であるゆえんはここにあります。どの教会にも十字架が掲げられているのは、ここに神の愛が示されたからです。これが花嫁である教会の上に翻っていた旗じるしでした。

もし、この旗じるしが「愛」ではなく「聖」だったらどうでしょうか。あるいは、「義」だったらどうでしょう。誰も近づくことができなかったでしょう。私たちはあまりにも汚れているので、どんなに自分で聖くなろうとしてもなれないからです。しかし、神はそんな私たちを愛してくださいました。確かに私たちは汚れた者、罪深い者ですが、そんな私たちが滅びることがないように、神はそのひとり子をこの世に遣わしてくださいました。そして、私たちのすべての罪を背負って十字架で死んでくださいました。それはこの方を信じる者はひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それが十字架です。神は世界中どこででも、この十字架の旗じるしを掲げて、私たちが帰るのを待っておられるのです。あなたをとっても愛しておられる造り主が。

5節をご覧ください。「干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで元気づけてください。私は愛に病んでいるからです。」「干しぶどうの菓子」は「干しぶどう」とは異なります。これはケーキ状に圧縮したぶどうの菓子で、ダビデが契約の箱を運んだ者たちに与えたものの一つです(Ⅱサムエル記6:19)。これは今日でも旅人を元気づけるために与えられると言われています。それは腐らず保存が効くので、最高の贈り物とされていました。それはイエス・キリストご自身の象徴でもありました。ヨハネ6章27節には「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」とあります。イエス様こそいつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物です。私たちには、このような食べ物が与えられています。その食べ物によっていつも力づけてもらうことができるのです。

また、「りんごで元気づけてください」とあります。このりんごもイエス様のことを象徴しています。3節にも「その実は私の口に甘いのです」とありましたが、それは花嫁を元気づけてくれるものでした。詩篇145篇14節には、「主は倒れる者をみな支え、かがんでいる者をみな起こされます。」とあります。主は倒れている者をみな支え、かがんでいる者をみな起こしてくださいます。

マタイ11章28節には、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とあります。有名なことばですね。おそらく教会の看板に書かれてある聖句で一番多いのがこのみことばではないかと思います。もしあなたが疲れているなら、あなたが重荷を負っているなら、イエス様のもとに来てください。そうすれば、主があなたを休ませてくださいます。りんごで元気づけてくださるのです。

6節をご覧ください。花嫁は続いてこう言っています。「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」

直訳では「左」「右」です。それが腕なのか手なのかは、はっきりわかりません。新改訳第三版では、「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」と訳しています。創造してみてください。左の腕が頭の下でしっかりと支え、右の腕で優しく抱きしめています。母親が赤ちゃんを抱っこしているようにです。それは確かな保護と細やかな愛情を表しています。

毎日が不安ですという方がおられますか。今月の支払いもギリギリで、この先やっていけるか心配ですと。でも大丈夫です。あなたはこの方の確かな保護を受けているのですから。健康面で不安ですという方がおられますか。安心してください。主があなたを守ってくださいます。それはただ困ったときの神頼みではなく、いつでも、どんな時でも、あなたのすぐそばにいてあなたを助けてくださいます。この方はあなたの花婿です。力強い御腕と細やかな愛の御手をもって守ってくださるのです。

私の好きなみことばの一つに、申命記33章27節のみことばがあります。「いにしえよりの神は、住まう家。下には永遠の腕がある。神はあなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ』と命じられた。」

すばらしいですね。私たちの下にはこの永遠の腕があります。神が常にあなたを支える腕となってくださいます。敵に立ち向かう力を与えてくださいます。自分で戦うのではありません。死に勝利され復活されたキリストが戦ってくださるのです。私たちは、神に信頼して従っていくだけでいいのです。

Ⅲ.愛が目ざめるとき(7)

最後に7節を見て終わりたいと思います。「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これは花婿のことばなのか、花嫁のことばなのかはっきりわかりませんが、文脈的には花嫁のことばと捉えて良いと思います。これと同じことばが3章5節と8章4節にも繰り返して出てきます。この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているのです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちに、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いしています。揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。私がそうしたいと思う時までは。そっとしてあげてくださいと。

「かもしか」や「野の雌鹿」は、非常に敏感な動物です。ちょっとした物音でも飛び跳ねて逃げて行きます。そのかもしかや野の雌鹿にかけて、揺り起こしたり、かき立てたりしないでほしいと懇願しているのです。どうしてでしょうか。愛とはそういうものだからです。愛とはだれか他の人にせかされて動くようなものではありません。そうしたいという思いが内側から起こされてはじめて動くものです。第三版では「愛が目ざめたいと思うときまでは」となっています。それは恣意的に起こすことがあってはいけないということです。愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではないのです。私たちは「この人を絶対に愛して行きます。」とか、「永遠に愛します」と言っても、実行する力がありません。そのためには目覚めが必要なのです。この目覚めがないのに、どんなに自分で愛そうと思っても限界があります。といっても、その目覚めさえ花嫁自身から出てくるものではありません。聖霊なる神のご介入と促しなしにはありません。聖霊が臨み、聖霊が触れてくださり、聖霊が助けてくださって、はじめて本物の愛となるのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときは「強さ」を表します。8章6節には「愛は死のように強く」とあります。また、8章7節には「その愛は大水も消すことができません」とあります。。

花婿なる主イエスへの愛も同じです。牧師にどれだけ強く勧められても、兄弟姉妹にどれだけ励まされても、自分の中にそうしたいという思いが与えられなければ燃え上がることはありません。一時的に心が高まることがあるかもしれません。しかし、すぐにしぼんでしまうでしょう。花嫁の心はかもしかや野の鹿のように繊細なので、内側から自然に愛が湧いてくるまで待たなければなりません。その中で聖霊ご自身が触れてくださり、慰めと励ましを与えてくださいます。愛がそうしたいと思うとき、愛が目覚めるときがやってきます。その愛は死のように強く、大水も消すことができないほどの力となって表れるのです。

パウロは、エペソの教会の人たちのためこう祈りました。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:14~21)

ですから、私たちも祈りましょう。私たちの内なる人に働く御霊が、あなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、私たちの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いている私たちが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、私たちが満たされますようにと。

Ⅱサムエル記12章

 

 Ⅱサムエル記12章1節から25節までを学びます。

 Ⅰ.預言者ナタン(1-12)

 まず1~6節をご覧ください。「主はナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンはダビデのところに来て言った。「ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来ました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために調理しました。」ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」」

 ウリヤが死に、喪が明けると、ダビデは人を遣わして、バデ・シェバを自分の家に迎え入れました。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産みました。めでたし、めでたし、です。ダビデがした行為は、人々の目から消え去ろうとしていました。しかし、彼が行ったことは主のみこころを損ないました。

そこで主はナタンをダビデのところに遣わしました。ナタンにつては7章にも出てきましたが、彼は王宮付きの預言者でした。王宮付きの預言者とは、王の個人的な助言者でもありました。7章では、ダビデが杉材の家に住んでいるのに神の箱が天幕に宿っている現実を憂いたダビデが、そのことを彼に相談しました。するとナタンは、「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」(7:3)と即答しましたが、それは主のみこころではありませんでした。ナタンは預言者であったにもかかわらず主に伺うことをせず、個人的な判断をしてしまったのです。

そのナタンがダビデのところにやって来て、一つのたとえ話をします。それは富んでいる人と貧しい人の話でした。富んでいる人には多くの羊と牛の群れがいましたが、貧しい人には、一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。そこへ一人の旅人がやって来ます。そこで富んでいる人はどうしたかというと、この旅人をもてなすために自分の羊や牛の群れから取って料理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために料理しました。

するとダビデはその男に怒りを燃やし、そんなことをした男は死に値すると死刑を宣告し、その貧しい男に雌の子羊を四倍にして償うようにと宣告しました。ダビデは、悪に対する義憤を抱いていましたが、それが自分のことであるということには気づきませんでした。これが私たち人間の姿です。私たち人間は、罪の中にいるとき罪に対して非常にきびしい態度をとるものの、それが自分の姿であることには全く気付かないのです。ダビデは他人の罪に対しては非常に厳しい態度を取りつつも、それを自分に適用することができませんでした。

私たちも同じです。他人の罪に対しては厳しい態度をとっても、自分に適用することはできません。自分だけはそのさばきを免れることができると思っているのです。私たちは、罪の認識が深くなればなるほど、神の恵みの深さも理解できるようになるのです。

するとナタンはこのように言いました。7~12節です。「ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう言われます。『わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とした。また、わたしはサウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主君の家を与え、あなたの主君の妻たちをあなたの懐に渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、彼の妻を奪って自分の妻にした。あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全体の前で、白日のもとで、このことを行う。』」

ダビデが憤って死刑を宣告するのを聞いたナタンは、そのたとえ話を適用して、「あなたがその男です。」と言いました。そして彼は次の三つのことを伝えます。

まず、主がいかにダビデに良くしてくださったかです。主はダビデを恵んでくださり、彼に油を注いで王としてくださいました。一介の羊飼いが王になるなど考えられないことです。しかし、主はそのようにしてくださいました。そればかりか、サウルからいのちを狙われていたときも、彼の手から救い出してくださいました。また、主君の妻までも与えられました。これは本当に感謝なことです。彼もそのことを思い出しては言葉にならない感謝をささげていたはずです。それなのに彼はむさぼったのです。「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」(8)とナタンは言っています。私たちがむさぼることのないようにする方法は、主の恵みを知ることです。主がいかに自分たちの必要を満たしてくださるお方なのか、どれほどの祝福を与えてくださっているのかを知ることです。そしてそれを忘れないことです。

次にナタンはダビデに罪の結果を告げています。ダビデがウリヤをアンモン人の剣で殺したので、以後、ダビデの家から剣が離れることはない(10)と。これは、このあと13章以降で実現していくことです。

そればかりではありません。ダビデの家にわざわいが引き起こされます。ダビデの妻たちが奪い取られ、白昼公然と置かされることになります(11)。これも16章22節で成就することになります。

ダビデは一時的な欲望を満足させるために罪を犯しましたが、その結果、悲劇をもたらすことになってしまいました。人は種をまけば、その刈り取りもするようになるのです。

Ⅱ.ダビデの悔い改め(13-23)

次に13~14節をご覧ください。「ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」」

ナタンのことばを聞いたダビデは、すぐに自らの罪を認め告白しました。すると主も、彼の罪を取り去ってくださいました。しかし、彼はこのことで、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、バテ・シェバによって生まれてくる子供は死ぬと宣告されました。

ここには、二つの大事なことが教えられています。一つは、神は私たちの罪を赦すのに早い方であるということです。ダビデは、ナタンから罪を指摘されると、すぐに罪を認め悔い改めました。ここがダビデのすばらしい点です。彼はここでナタンを殺すことも出来ましたがそのようにはせず、すぐに悔い改めました。すると、主もまたすぐに彼を赦されました。13節に「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。
」とあります。Ⅰヨハネ章9節に、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とある通りです。

ダビデは罪が赦されたことの喜びを、詩篇32篇で次のように言っています。「幸いなことよ その背きを赦され罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならずその霊に欺きがない人は。私が黙っていたとき私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ夏の日照りで乾ききったからです。セラ 私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。私は言いました。「私の背きを主に告白しよう」と。するとあなたは私の罪のとがめを赦してくださいました。セラ」

彼は、隠していた罪を主に言い表わすことにより、罪の赦しと解放を体験することができたのです。

しかし、もう一つ大切なことがあります。それは、罪の告白をすればその罪は赦されますが、その結果を刈り取ることもなる、ということです。ここには、ダビデに生まれる息子は必ず死ぬ、とあります。ダビデが罪を犯したことで、彼の家から剣が離れないこと、彼の妻が白昼公然と置かされるようになることについては見ましたが、ここではバデ・シェバによって与えられる息子が死ぬとあります。こんなに悲しいことがあるでしょうか。罪の結果、このような悲惨な結果も刈り取るようになるということを忘れてはなりません。

しかし、ここでダビデがすばらしかった点は、このような罪の中にあっても神の恵みを忘れなかったことです。彼は、神の恵みによって神に立ち返ることができると信じました。私たちはクリスチャンになるともうどんな罪も犯してはならないと思い、それを隠したくなる傾向がありますが、クリスチャンになっても完全になるわけではありません。大切なのはその罪を認め、悔い改めることです。そうすれば、主は赦してくださいます。ヒソプによってではなく、イエスの血潮によってきよめてくださいます。大切なのは、主は赦してくださる方であると信じ、その恵みにお頼りすることです。

15節から23節までをご覧ください。「ナタンは自分の家へ帰って行った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。ダビデはその子のために神に願い求めた。ダビデは断食をして引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らと一緒に食事をとろうともしなかった。七日目にその子は死んだ。ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。彼らは、「聞きなさい。王はあの子が生きているとき、われわれが話しても、言うことを聞いてくださらなかった。どうして、あの子どもが死んだことを王に言えるだろうか。王は何か悪いことをされるかもしれない」と言ったのである。ダビデは、家来たちが小声で話し合っているのを見て、子が死んだことを悟った。ダビデは家来たちに言った。「あの子は死んだのか。」彼らは言った。「亡くなられました。」ダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、衣を替えて主の家に入り、礼拝をした。そして自分の家に帰り、食事の用意をさせて食事をとった。家来たちは彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子様が生きておられるときは断食をして泣かれたのに、お子様が亡くなられると、起き上がり食事をされるとは。」ダビデは言った。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」」

主が宣告したように、ウリヤの妻バテ・シェバによって生まれた子は、主に打たれたので病気になりました。ダビデはこの病気が主によるものであることを知っていましたが、それでも、もしかすると主があわれんでくださり、生きるかもしれないと、その子の癒しを求めて、ひたすら主に祈りました。自分の罪のゆえにその子が死のうとしているのを知って、ダビデは相当苦悩したことでしょう。彼は断食し、徹夜で祈り、地にひれ伏して主に願い続けました。

しかし、7日目にその子は死にました。家来たちは、ダビデの悲しみがその死を告げ知らされることによって増し加わると心配していました。けれどもダビデは、正反対の反応を取ります。子どもが死んだことを悟ると、彼は起きて身を洗い、主を礼拝して、食事を取ったのです。息子が生きているときには断食し、死ぬと食事です。いったいどういうことでしょうか。驚いた家来たちがその理由を尋ねると、ダビデはこう言いました。「あの子がまだ生きているときに私が断食をして泣いたのは、もしかすると主が私をあわれんでくださり、あの子が生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、あの子は死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるだろうか。私があの子のところに行くことはあっても、あの子は私のところに戻っては来ない。」生きているときは、もしかすると主があわれんでくださり、あの子が生きるかもしれないと思ったが、子どもが死んだ以上、その事実を受け入れなければならないというのです。あの子をもう一度呼び戻すことはできません。自分があの子のところに行くことはできても、あの子が自分のところに戻ってくることはできません。この事実を受け止めなければならないのです。彼は信仰者として、主がなされたことをそのまま受け入れようとしました。

自分の祈りが聞かれないとき、その祈りに反してこのようなことが起こるとき、私たちはなかなかその事実を受け取ることができないときがあります。そして、「主よ、どうしてですか」と嘆きです。しかし、主がなさることは完全です。たとえ、自分が祈ったとおりにならなくても、主がなさることはいつも最善であって、それ以下ではありません。ですから、たとえ自分が祈った通りにならなくても、主の答えをそのまま受け止めることが大切です。私は、昨日、改めて「祈りのノート」を作りました。A5のノートを三つに区切り、祈った日と、祈りの課題、答えられた日を書き込むことができるようになっています。主は祈りを聞いておられます。私たちの祈りの答えが何なのかを、ノートを取ることによってはっきりとわかります。もしそれが、私たちが祈ったことと違ったとしても必ずしも祈りが答えられなかったというのではなく、別の形で答えられたということかもしれないし、もしかすると、まだ聞かれていないということかもしれません。時が来れば明確な答えがわかるでしょう。いずれにせよ、そのことによって主が何を語ろうとしていのかを、耳を澄ませて聞かなければなりません。それが、次に進ませる力となるからです。

Ⅲ.ソロモンの誕生(24-25)

最後に24~25節をご覧ください。「ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところに入り、彼女と寝た。彼女は男の子を産み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。

ここでソロモンが生まれます。産まれた子どもが死んだことは、ダビデだけでなくバテ・シェバにとってもショックなことでした。それでダビデは彼女を慰め、彼女のところに入り、彼女と寝ました。ここで初めてバテ・シェバのことが「妻」と呼ばれていることに着目してください。ここで彼女は、ダビデの正式な妻となりました。こうした正式な夫婦関係の中でソロモンが生まれたのです。「ソロモン」という名前は、「平和な」とか「平和を好む」という意味があります。この名前は、彼と神との間に平和が与えられたことを示しています。そして、ソロモンの治世が平和なものとなることを表しています。主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その子は「エディデヤ」と名づけさせました。意味は「主に愛される者」です。

ソロモンによってもたらされる平和な治世は、イエス・キリストによってもたらされる「平和」の予表でした。イエス・キリストこそ神との平和をもたらしてくださいました。イエス様はご自身の血によってそれを成し遂げてくださいました。キリストによる全世界の平和がやがてこの地上に実現します。イスラエルとパレスチナをはじめ、いま世界中で戦争が繰り広げられています。20世紀は二つの大きな世界戦争がありましたが、それは20世紀にはじまったことではありません。この人類の歴史は、まさに戦争の歴史です。有史以来この地上に戦争がなかった時代はありませんでした。今もアメリカと中国の関係が微妙です。一刻即発の様相を呈しています。

いったいどこに平和があるのでしょうか。イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちに真の平和をもたらすために来られました。そして、それを十字架によって成し遂げてくださいました。それゆえ、この方を信じる者は神との平和が与えられ、この地上で平和をつくることができるのです。「平和をつくる者は幸いです。天の御国はその人たちのもみのだからです。」(マタイ5:9)イエス・キリストを通して神との平和が与えられていることを感謝しましょう。

雅歌1章9~17節 「ただ一つの願い」

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2021年5月30日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:雅歌1章9~17節(雅歌シリーズ③)

タイトル:「ただ一つの願い」

 雅歌から学んでいます。きょうはその3回目となります。これは花婿と花嫁の関係を歌った歌ですが、神とイスラエル、また、キリストと教会との関係をたえとて歌われています。前回のところで花嫁は、「私は黒いけれども美しい」と言いました。なぜなら、花婿がそのように見てくださるからです。自分がどんなに汚れた者だと思っていても、花婿なる主が、「女の中で最も美しいひとよ」と呼んでくださる。それゆえ、花嫁なるクリスチャンは、黒くても美しい、と告白できるのです。きょうはその続きです。

Ⅰ.わが愛する者よ(9-11)

まず9~11節をご覧ください。「わが愛する者よ。私はあなたをファラオの戦車の間にいる雌馬になぞらえよう。飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。そこに銀をちりばめて。」

これは、花婿のことばです。「わが愛する者よ」という呼びかけは、雅歌全体で9回も用いられています。これが雅歌における重要な概念です。花婿にとって花嫁は「愛する者」なのです。

花婿はここで花嫁をファラオの戦車を引く雌馬になぞらえています。当時エジプトの馬は最高の馬でした。それは王だけが乗ることができる馬だったのです。今で言うと、ロールスロイスとかベントレーといった車です。ロールスロイスとかベントレーといっても皆さんはわからないでしょう。これらは、ロイヤルファミリーが乗る世界最高の乗り物です。ネットで調べてみたら実に美しい車で、価格は何と16億円もします。女性を乗り物になぞらえるなんて嫌だ!という方もおられるかもしれませんが、それほど美しいということです。最高であると。私たちは時々自分を見て「私はなんて黒いんだろう」と思うことがありますが、イエス様はそんなあなたを見て「ファラオの雌馬のように美しい」と言ってくださるのです。

10節をご覧ください。ここには「飾り輪のあるあなたの頬は美しい。宝石の首飾りがかけられたあなたの首も。」とあります。どういうことでしょうか。これは、ファラオの雌馬を飾り立てられていた装飾品のことでしょう。ファラオの雌馬には様々な装飾品が飾り立てられていました。そのように、花嫁も種々の装飾品を身に着け美しく輝いています。

11節には、「私たちは金の飾り輪をあなたのために作ろう。それに銀をちりばめて。」とあります。「金の飾り輪」とは、王宮の皇族が身に着けるものです。現代で言うなら「ティアラ」のようなものです。日本でも皇族の女性方が美しいドレスとティアラの装飾を身に着けている姿を見ることがありますが、とてもきれいですね。ここには銀をちりばめた金の飾り輪を作ろうとあります。どういうことでしょうか。聖書では「銀」は贖いの象徴として用いられています。また「金」は神性の象徴です。つまり、キリストの贖いによって救われ火で精錬することによって、神のご性質に作り変えるということです。

時として私たちは火で精錬されるような痛みや苦しみを負うことがありますが、それはいったい何のためかというと、金の飾り輪を作るため、すなわち、そのことによって、あなたを神のご性質に似た者として造り変えるためであるということです。神はあなたを美しく飾るために、あえて精錬されることがあるのです。それは私たちの罪に対する刑罰ではなく、私たちをキリストに似た者とするためなのです。私たちの罪の刑罰は、キリストが十字架で代わりに受けてくださいました。キリストが贖いとなってくださったので、私たちはもう裁かれることはありません。神が私たちを打たれるのは、私たちをもっときよめてくだるためなのです。

Ⅰペテロ3章3~4節には、「あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」とあります。神の御前で価値あるものは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりといった外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄です。こうしたもので飾ってくださるのです。

ところで、ここに突然「私たちは」とあります。急に複数形になっているのです。いったいどういうことでしょうか。これは花婿のことばですから、「私は」となるはずなのに「私たち」と複数形になっているのです。ある人たちはこれを、1章3節の「おとめたち」のことではないかと考えています。つまり、花婿がおとめたちと一緒に金の飾り輪を作ると言っているのではないかというのです。またある人たちは、これを尊厳の複数といって、ヘブル語では尊厳なものを表現する時には複数形をとることがあるので、「私たち」と言っているのではないかと考えています。

しかし、そうではありません。ここで花婿が「私たち」と言っているのは、実際に花婿がそのような方であられるからです。そうです、ここで「私たち」と複数形になっているのは、花婿はキリストのことですから、三位一体の神を表しているのです。旧約聖書にはこのような表現が他にもあります。たとえば、創世記1章26節には、神が人を造られたとき「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と言われました。神はここでご自分のことを「われわれ」と言われたのです。なぜ「わたし」ではなく「われわれ」なのでしょうか。神様は三人おられるからです。三人ですが一人、これが三位一体です。神様は三位一体なるお方なのです。エホバの証人の方はこれを受け入れることができないので、これを尊厳の複数だと考えています。神様は尊厳な方なので「わたし」とは言わないで「われわれ」と言われたのだと。しかし、そうではありません。神は三位一体のお方なので「われわれ」と言われたのです。花嫁を金の飾り輪で美しく飾ってくださるのは花婿なるキリストの御業ですが、それは父なる神と子なる神キリスト、聖霊なる神の、三位一体の神による共同の御業なのです。三位一体の神が、金の飾り輪であなたをさらに美しく飾ってくださいます。銀をちりばめて。イエス・キリストの贖いを通して、私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。感謝ですね。

であれば、私たちが人生の中で試練や困難に直面したとき、それは三位一体の神が私たちをさらに美しく整えるためになされている愛の御業であると受け止め、神がなさることに期待して、すべてを神に任せなければなりません。

Ⅱ.私の愛する方は(12-14)

次に12~14節をご覧ください。王が長椅子に座っておられる間、私のナルドは香りを放っていました。私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

これは花嫁のことばです。「王が長椅子に座っている間」とは、婚宴のテーブルについている間ということです。そのテーブルに着いている間、花嫁が放つナルドの香りは、王である花婿をうっとりさせるほど放たれていました。ナルドとは、ヒマラヤやチベットといった標高の高いところに生息する植物で、古代からインド人により、薬用や香料として使われてきました。それが油に混ぜ合わされたものがナルドの香油です。それは標高が高いところに生息していたことから、非常に高価なものでした。「ナルド」という名前には、「かぐわしい」という意味があります。

新約聖書を見ると、ベタニヤのマリヤが十字架を目前にイエス様に注いだのは、このナルドの香油でした。彼女がこの香油をイエスの足に塗り、自分の髪の毛でめぐったとき、家は香油の香りでいっぱいになったとありますが(ヨハネ12:3)、それほど強い香りでした。それは簡単に消えるものではありませんでした。ですから、イエス様が十字架に付けられたときも、また死んで葬られたときにも残っていたでしょう。マリヤがイエス様に香油を注いだのはそのためでした。彼女はイエス様の埋葬の備えにと、前もってイエスのからだに香油を塗ったのです。もっともマリヤは自分ではそんな意識はなかったでしょう。しかし、結果的にそうなりました。それはイエス様にとってどれほどの大きな慰めであったでしょうか。ひとり十字架に付けられたときに、このナルドの香油が慰めとなり、その苦しみを乗り越える一助となったに違いありません。

このナルドの香油は、花婿を祝福するものです。それがこの宴の席で放たれました。花嫁は花婿を愛するがゆえに、自分にとって大切な宝物である高価なナルドの香油をささげたのです。あなたはどうでしょうか。あなたは、あなたを愛して自分のいのちをささげてくださった花婿に何をささげるでしょうか。

そればかりではありません。13節には、「私の愛する方は、私にとって、私の乳房の間に宿る没薬の袋。」とあります。何でしょうか、「乳房の間に宿る没薬の袋」とは。これは当時の習慣からきています。当時、婦人たちは体臭を消すために没薬の袋を胸の間に潜めていました。没薬は、着物や体によい香りを付けるために用いられたものです。今でいうと柔軟剤のようなものでしょうか。中には強力に消臭するだけでなく、良い臭いがずっと持続するものもあります。しかし、これは単に体臭を消すためではなく、あることを預言していました。それはイエスの死です。というのは、イエス様が誕生したときも、十字架で死なれたときもこの没薬が用いられたからです。

イエス様が誕生したとき東方の博士たちがイエスに幼子イエスに贈り物を持ってやって来ました。黄金、乳香、没薬です。なぜ黄金と乳香と没薬だったのでしょうか。黄金は、キリストが王であることを表していました。ですから、王なるキリストにとってふさわしい贈り物でした。乳香は、一般の家庭では用いられず神殿での礼拝に用いられていたことから、神にとってふさわしい贈り物でした。そして没薬は、死体が腐るのを防ぐ防腐剤として埋葬の際に用いられていました。すなわち、これはキリストが犠牲的な死によって人々を救いに導く方、救い主であることを表していたのです。ですから、キリストがお生まれになられたとき東方の博士たちが黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのは、まことに王であり、神であり、救い主であるキリストにふさわしいものだったのです。

ここでは、その没薬です。これは常に死と関わりがある香りでした。これが乳房の間に宿したのは、そのことを忘れないためです。つまり、イエス様が私たちを救うために十字架で死んでくださったことを忘れないためです。本当にイエス様を愛する人は、このことを忘れません。いつも自分の胸に刻むのです。それは女性が首につけるネックレスのロケットのようなものです。ロケットとは飛行機のロケットのことではなく、チャームが開閉式になっていて中に写真や薬などを入れられるようになっているものです。よくバレンタインとか、バプテスマ式とか、婚約式とかに贈り物として贈られます。愛する人の写真をその中に入れてネックレスにしていつも胸の間に置くわけです。遺骨の一部をその中に入れている人もいます。イエス様を愛する人はそのことを忘れません。自分の真っ黒い罪のために十字架で死んでくださったという神の恵みを、いつも心に留めるのです。

「恵」という漢字は、十字架を思うと書きます。十字架を忘れません。常に胸の間に十字架があるのです。十字架のネックレスのようですね。十字架が神と私たちのアクセスとなりました。このことを思うのです。このことを思うことが、私の乳房の間に宿る没薬の袋です。

さらに、花嫁は花婿にこのように言っています。14節をご覧ください。「私の愛する方は、私にとって、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花房。」

ヘンナ樹」とは「へんな木」のことではありません。これはエジプト、インド、北アフリカ、イランなどの乾燥した水はけの良い丘陵に育つ、ミソハギ科の植物で、3メートルから6メートルほどの常緑低木です。白またはピンク系の花を咲かせます。ここにはエン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹とありますね。エン・ゲディは、死海の西岸にある荒野です。かつてダビデがサウルに追われて隠れたのがこのエン・ゲディの荒野でした。それは、荒野にある唯一のオアシスでした。いのちがみなぎるところ、それがエン・ゲディです。

このヘンナ樹ですが、この木は長さ2センチ、幅1センチほどの楕円形の小さな葉をつけます。主にマニュキュアとかタトゥーなどの染料として使用されます。ヘナの白髪染めがありますが、それがこのヘンナ樹です。ですから変な木ではありません。花はバラの花のような甘い香りがします。それを求めて花嫁は花婿に引き寄せられるのです。

ところで、この「ヘンナ樹」ですが、へブル語では「コーフェル」(כֹּפֶר)と言います。ですから、新共同訳ではこれを「コフェルの花房」と訳しています。この「コーフェル」(כֹּפֶר)ということばは、創世記6章14節では「やに」とか「樹脂」表す「タール」と訳されています。また、詩篇49篇8節では、「贖いの代価」と訳されています。「たましいの贖いの代価は高く永久にあきらめなくてはならない。」(詩篇49:8)この「贖いの代価」が「コーフェル」です。つまり、この「コーフェル」という語は、贖いという概念をもっているのです。ですから、ここで花嫁が花婿のことを「ヘンナ樹の花房」と言うとき、それは花嫁なる教会が花婿なるキリストの血によって贖い出された存在であることをも表しているのです。イエス様は私たちにとってヘンナ樹の花房なのです。ご自身の尊い血によって贖い出してくださいました。そのように麗しいお方であるからこそ、私たちはこの方を慕い求めるのです。

Ⅲ.私たちの家(15-17)

最後に15~17節をご覧ください。15節をお読みします。「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。ああ、あなたは美しい。あなたの目は鳩。」

これは、花婿が花嫁に語っていることばです。ここで花婿は花嫁に、「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と言っています。皆さんは自分の奥さんにこんなことばかけたことがあるでしょうか。「ああ、あなたは美しい。わが愛する妻よ。」アメリカでは自分の気持ちを正直にことば表現しますが、日本人はことばで表現するのが苦手です。「あなたは私を愛しているの」と聞かれると「言わなくてもわかるでしょ」とか、「もうそんな年じゃないよ」などと言うのです。でもここで花婿は花嫁に対して「ああ、あなたは美しい。わが愛する者よ。」と呼び掛けています。すごいですね。何がそんなに美しいのでしょうか。目です。

花婿はここで、「あなたの目は鳩」と言っています。ポッ、ポッ、ポッ、鳩ポッポです。「嫌だ!鳩なんて」と思われる方もいるかもしれませんが、鳩は美しいものを形容しているのです。それほど美しい、それほど清らかであるということです。目は人の心を映し出す鏡とも言われますから、あなたの目は鳩というとき、それは最高の誉めことばでもあるのです。あなたの目は「蛇」なんて言われたらどうでしょう。どうも人を惑わしそうなイメージがあって気持ち悪いですが、あなたの目は鳩と言われると、なんだか素直な人のようでうれしいいんじゃないですか。

興味深いことに鳩には、一夫一婦という習性があります。鳩ですから一雌一雄となるでしょうか、その人だけという習性です。その人だけをじっと見つめます。他の相手に目もくれません。その相手だけです。一生涯同じパートナーだけを見つめます。そのように花婿だけを一点に見つめる花嫁の一途な瞳に、花婿の心が奪われるのです。イエス様だけを見つめて離れない花嫁の目がどれほど麗しいかがわかります。

そして、何といっても聖書において鳩は聖霊のシンボルでもあります。ですから、花婿があなたの目は鳩のようだというとき、それは単に私たちの目が鳩のように美しいというだけでなく、私たちの中に住まわれる聖霊様の聖さ、聖霊様の美しさを見ておられるのです。見た目が美しいということ以上に、その内側の美しさを見られるのです。なぜなら、あなたの内側には聖霊様がおられるからです。花婿であられる主イエスは私たちの醜さ、愚かさ、汚さを見るのではなく、私たちの内におられる聖霊様をみておられるのです。それを見て、あなたは美しい、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。ここにおられる方々にも同じように言われます。なぜなら、イエス様はあなたの内におられるご自身のいのちを見ておられるからです。

これが、主があなたを見られるときのまなざしです。主はあなたを見下げたり、白い目で見たり、けなしたりすることは全くありません。ただ誉めことばと励ましのことばだけです。私たちの目はかすんだり、曇ったりしていてそんなにきれいじゃありませんが、主はそんなあなたの目を見て、あなたの目は鳩のようだと言ってくださるのです。

16節と17節をご覧ください。「私の愛する方。ああ、あなたはなんと美しく、慕わしい方。私たちの寝床も青々としています。私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。

これは花嫁が花婿に歌っていることばです。「私たちの寝床も青々としています」彼女は花婿にほめられたことで、ますます彼を恋い慕っています。肉体的に感情的に燃えているのです。寝床が青々としているというのは、そのことを表現しています。別にベッドが青いということではありません。肉体が一体となることを求めているのです。これは詩篇23篇2節にもあります。「主は私をみどり牧場に付させ、いこいのみぎわに伴われます。」主は私を緑の牧場に付させるとは、その交わりの豊かさを表しているのです。

ではその家はどうでしょうか。花嫁はこう言っています。「私たちの家の梁は杉の木、私たちの垂木は糸杉。」

これは、私たちの家は最高の家であるということです。当時、杉の木は最高の建材でした。花婿と花嫁の家は、この杉の木でできていました。垂木とは、屋根の下地になる建材です。屋根の一番高い棟木から(けた)にかけて、斜めに取り付けられる部材のことです。屋根を拭く材料の重さによっても違いますが、和式の家の標準的な間隔は45㎝です。「屋根の善し悪しは垂木で決まる」と言われるほど重要な木です。その垂木が糸杉でできています。つまり、朽ち果てたボロ家ではないということです。欠陥住宅ではありません。しっかりとした作りで、安心して住める堅固な家です。いつ倒れるかわからないような心配もありません。これが、花婿が建ててくださる家です。

その家とは何でしょうか。ヨハネの福音書14章1~3節をご覧ください。私たちの花婿であられるキリストは、私たちのためにこのような家を用意してくださると言われました。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」

すばらしいですね。私たちにはこのような家が用意されています。この地上にあっては、部屋が狭いとか、気密性が悪いとか、フローリングが剥がれるとか、害虫が入り込んでくるとか、不便なこともありますが、イエス様が私たちのために天に用意しておられる家は、完璧です。虫やさびで傷物になったり、泥棒が壁に穴を開けて盗みに入り込むこともありません。また、強風で倒れる心配があるような貧弱なものではなく、どんな嵐が襲ってきてもびくともしない堅固な家です。

それはかつて主がダビデに約束されたことでした。主はダビデにこう言われました。「彼はわたしのために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル記7:13) それはとこしえまでも堅く立つ王国、ダビデの子として生まれるキリストによって立てられる天の御国です。この家を用意してくださいました。これは杉の木でできた梁、糸杉でできた垂木の最高の家です。どんなに大きな嵐が襲ってきてもビクともすることがありません。これほど安心できる家はありません。私たちの愛する方は、私たちをこの家に導いてくださるのです。

であれば、私たちに求められていることは何でしょうか。それはこの花婿を慕い求めることです。鳩のように、花婿だけを見つめて生きることなのです。ダビデはこう言いました。「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」(詩篇27:4)

あなたは何を求めていますか。ダビデは、ただ一つのことを主に願いました。それはいのちの日の限り主の家に住むことです。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすためです。私たちも一つのことを求めましょう。いのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。これが花婿なるキリストが私たちに願っておられることです。あなたが花婿のために何をするかではなく、花婿があなたのために何をしてくださったのかということです。花婿なるキリストは、私たちのために一つの家を建ててくださいました。そして私たちがその家に住むために、私たちの罪を贖ってくださいました。十字架の上で。それゆえに、私たちは美しいと言っていただけるのです。

ですから、私たちに求められているのはこの花婿を慕い求め、見つめて離すことなく、主の家に住まうことです。そこで花婿なるキリストし親しい交わりを持つことなのです。ベッドも青々としています。それは杉の木の梁、糸杉の垂木でできた堅固な家です。この方と一つになることを求めましょう。主との交わりがさらに祝福され、豊かなものになりますように。

Ⅱサムエル記11章

 きょうは、Ⅱサムエル記11章の「ダビデの罪」について学びたいと思います。

 Ⅰ.ダビデの罪(1-5)

 まず、1~5節をご覧ください。「年が改まり、王たちが出陣する時期になった。ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエル全軍を送った。彼らはアンモン人を打ち負かし、ラバを包囲した。しかし、ダビデはエルサレムにとどまっていた。ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。ダビデは人を送ってその女について調べさせたところ、「あれはヒッタイト人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバです」との報告を受けた。 ダビデは使いの者を送って、その女を召し入れた。彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た──彼女は月のものの汚れから身を聖別していた──それから彼女は自分の家に帰った。女は身ごもった。それで彼女はダビデに人を送って告げた。「私は子を宿しました。」」

 「年が改まり」とは、冬が過ぎて春が来た、ということです。イスラエルの暦では、アビブの月(ニサンの月)が新年の始まりとなります。この月はイスラエルがエジプトから脱出した月ですが、イスラエルでは出エジプトが民族の歴史の始まりであり、新しい年の始まりでもあったのです。これは太陽暦の3~4月にあたり、レバノン山の雪解けの水でエリコやヨルダン平原が潤され、大麦の収穫が始まる時期でもあります。冬の間が雨の日が続くので戦うこともできませんが、この時期になると戦いも再開します。この時の戦いは、アンモン人との戦いです。その戦いについては10章で学びましたが、アンモン人が、ダビデの送った使者たちに侮辱を加えたことで、ダビデはヨアブと勇士たちの全軍を送り出し、アンモン人とアラム人の連合軍を打ち破りました。そして年が改まった今回は、今度はアンモン人の首都ラバを包囲する戦いに臨んでいます。アンモン人の首都ラバは、現在のヨルダン王国の首都アンマンです。アンマンという地名は、このアンモンから来ているのです。しかしダビデはこの戦いに出て行かず、エルサレムに留まっていました。もはや勝敗の行方は明らかで、出向くまでもなかったのでしょう。彼は戦いの全てを、軍の司令官ヨアブに委ねました。

2節をご覧ください。そんなある日の夕暮れ時に、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが見えました。彼女は律法に従って月のものの汚れを清めていたのです。おそらく、周囲に配置されている家臣の家の一つの庭でのことではないかと思います。ダビデはそれを見て「これはいけない!」と思ったでしょうが、その美しさにまいってしまい、それをじっと見てしまいました。これが、人が罪に陥る最初のステップです。見なくても良いものを見てしまうのです。凝視してしまいました。「これはいけない!」と思った時点で見るのを止めればよかったのに、ずっと見てしまいました。Ⅰヨハネ2:16には「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」とあります。彼はこの目の欲にすっかり魅了されてしまったのです。

それだけではありません。3節には、ダビデはその女について調べさせたとあります。その結果、彼女がヒッタイト人ウリヤの妻でバデ・シェバであることがわかると、使いを送って彼女を召し入れました。ヒッタイト人とは、カナンの先住民の一つです。つまり彼女はイスラエル人ではないヒッタイト人という異邦人出身の人の妻だったのです。しかしダビデはそんなことを全くお構いなしに召し入れてしまいました。彼はただ自分の肉の欲に従って行動したのです。

さらに4節を見ると、ダビデは彼女を召し入れ、彼女と寝ました。これは部下の妻との不倫、姦淫の罪です。彼は自分が王であることを利用し、その権威を自分の欲望を成し遂げるために用いたのです。特に、このとき夫のウリヤは戦争に出かけていました。王の命令によっていのちがけで戦っている時に、その家臣の妻に手を出したのです。これは赦されないことです。いったいなぜ彼はこのようなことをしまったのでしょうか。

ダビデは、主なる神を信じている信仰者として、そんなことをしてはいけないということくらい分かっていたはずです。しかも彼は、神が一介の羊飼いにすぎなかった自分をイスラエルの王とされたことを感謝し、その恵みを誰よりも深く体験した人です。しかし、バテ・シェバへの欲情に突き動かされていく時、そのようなことは全く歯止めにもならなかったのです。いったいなぜ彼は罪に陥ってしまったのでしょうか。ダビデほどの信仰者がこのように罪に陥っていくのであれば、私たちごときはどんなに注意したとしても、罪を犯さずにいられるという保証は一つもありません。罪の力というのはそれだけ大きく、不気味なものなのです。神様を信じていれば、神様に従おうと努力していれば、それを防ぐことができる、罪に陥らないで済むなどという甘いものではありません。「私たちはダビデのような罪を犯さないように気をつけましょう」というだけでは追いつかないほど、恐ろしいものなのです。いったい彼はどうしてこんなことをしてしまったのでしょうか。

このことを考えるとき、この時彼がどのような状況に置かれていたのかを考えるのは有益なことだと思います。前章で私たちは、アラムを打ち破ったダビデは祝福の絶頂にあったことを学びました。その戦いによってダビデは、その勢力をユーフラテス川のかなたにまで広げたのです。それは主がアブラハムやモーセ、ヨシュアに約束されたことの成就でした。主は、彼らに約束されたことを、一つもたがわず、みな実現してくださいました。しかし、そうした祝福の絶頂にあって、彼らの中に高慢が生じていたのです。箴言16章8節に「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とありますが、まさに高慢になったことで、破滅の一途をたどることになったのです。

私たちが霊的に一番危険なときというのは、試練や困難、弱さの中にある時ではなく、このように祝福されている時です。イスラエルに対して主はモーセを通して、「約束の地で祝福されたイスラエルが、高ぶって「自分たちの手で、このように繁栄しているのだ」と言うことがないように、そして他の神々に従うことがないように」と戒められましたが、自分たちが祝福されていると、自分たちは正しい者であると錯覚し、あたかも自分の手で何かを成し遂げたかのような思いになってしまうことがあるのです。ダビデも、主がこの国を立ててくださったことに安住し、一心に走ることを怠って、高慢になっていました。このような時は注意が必要です。私たちはいつも主の御前にへりくだり、謙虚に歩まなければなりません。そして、イエス様が教えられたように、誘惑に陥らないように祈らなければならないのです。

ダビデは、他人の妻と寝たとき、それだけのことだと考えていたかもしれませんが、そうではありませんでした。5節にあるように、バテ・シェバは身ごもってしまったのです。彼女はそのことをダビデに告げます。そして、そこからさらに深刻な話へと展開していくことになるのです。

Ⅱ.罪の隠蔽しようとしたダビデ(6-25)

次に6~25節をご覧ください。13節までをお読みします。「ダビデはヨアブのところに人を遣わして、「ヒッタイト人ウリヤを私のところに送れ」と言った。ヨアブはウリヤをダビデのところに送った。ウリヤがやって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、また兵たちは無事か、さらに戦いはうまくいっているかと尋ねた。ダビデはウリヤに言った。「家に帰って、足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼の後に続いた。しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなと一緒に眠り、自分の家に帰らなかった。ダビデに「ウリヤは自分の家に帰らなかった」という知らせがあった。ダビデはウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私が家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るということができるでしょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」ダビデはウリヤに言った。「今日もここにとどまるがよい。明日になったら、あなたを送り出そう。」ウリヤはその日と翌日、エルサレムにとどまることになった。ダビデは彼を招いた。彼はダビデの前で食べて飲んだ。ダビデは彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちと一緒に自分の寝床で寝た。しかし、自分の家には下って行かなかった。」

ダビデはバデ・シェバが身ごもったことを知ると、ヨアブのところに人を遣わし、ウリヤを自分のところに来させます。そして、戦況について尋ねると、「家に帰って、足を洗いなさい」と言いました。どういうことでしょうか。これは、ダビデが行ったことを隠蔽するための工作です。バデ・シェバの妊娠が通常の夫婦生活によるものと見せかけようとしたのです。ウリヤがバテ・シェバのところに入れば、生まれてきた子はウリヤの子であるとごまかすことができます。8節の「家に帰って足を洗いなさい」とありますが、これは「ご苦労だった。奥さんの所に帰ってゆっくりくつろげ」ということです。しかもダビデはウリヤに贈り物までしています。妻と共に楽しむためのご馳走か何かだったのでしょうが、いつになく親切な、愛想のよい態度の背景には、こうした魂胆があったのです。

ところが、このウリヤという人は実に忠実で、実直な人でした。彼は自分の家に帰ろうとせず、王宮の門のあたりで寝たのです。神の箱も、イスラエルも、ユダの仮庵に住み、主人ヨアブも、その家来たちも戦場で戦っているというのに、自分だけが家に帰り、食べたり飲んだりして、妻と寝るようなことはできるだろうか、そんなことは決してできないと思ったからです。その隠蔽工作が失敗に終わると、次にダビデが考えたことは、ウリヤに酒を飲ませて、何とか家に帰らせようとすることでした。酒を飲ませて酔わせれば、気分がよくなって帰るのではないかと思ったのでしょう。しかし、ウリヤはそれでも自分の家に帰ることをせず、自分の主君の家来たちと一緒に自分の寝床で寝ました。彼はどこまでも忠実に主君に仕えようとしていたのです。しかし今、ダビデにとって、その実直さが邪魔になっていました。なんという皮肉でしょうか。

ちなみに、このウリヤはヒッタイト人でしたが、改宗して神の民に加えられていました。ウリヤという名前の意味は「主は私の光です」です。ウリヤは神に愛された者として、忠実に神に仕えたいと思っていたのです。何と実直な信仰でしょうか。彼はダビデの下で、その良い霊的影響を受けていました。それなのにダビデは、そんなウリヤと殺そうとしたのです。

14節から25節までをご覧ください。「朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤに託して送った。彼は、その手紙に次のように書いた。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が討たれて死ぬようにせよ。」ヨアブは町を見張っていて、その町の力ある者たちがいると分かっている場所に、ウリヤを配置した。その町の者が出て来てヨアブと戦った。兵のうちダビデの家来たちが倒れ、ヒッタイト人ウリヤも死んだ。ヨアブは人を遣わして、戦いの一部始終をダビデに報告した。そのとき、ヨアブは使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終えたとき、もし王が憤って、おまえに、『どうして、おまえたちはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのは、だれであったか。一人の女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。どうして、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました』と言いなさい。」使者は出かけて行き、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言を、すべて伝えた。使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入り口まで彼らを攻めて行きました。城壁の上から射手たちがあなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言いなさい。『このことに心を痛めるな。剣はこちらの者も、あちらの者も食い尽くすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃し、それを全滅させよ。』あなたは彼を力づけなさい。」」

ウリヤがなかなか家に帰らないのを見て、ダビデが次に考えたことは実に恐ろしいことでした。彼を戦いの最前線に送り込み、彼が死ぬようにさせたのです。朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤ本人の手に託しました。その手紙には、ウリヤを激戦の真正面に出し、打たれて死ぬようにせよ、と書いてありました。ヨアブはダビデの命令を実行し、ウリヤが戦死するように仕向けました。案の定、ウリヤは戦いで死んでしまいました。ダビデが殺したのです。ダビデは自分の罪を隠し切れないと知るや、それを責める立場になるウリヤを抹殺することで自分の身を守ろうとしたのです。姦淫の罪を取り繕うために、何の罪もない、忠実な部下を殺すというさらに大きな罪を重ねました。罪はこのように新たな罪を生み、ふくれあがっていきます。一つの嘘をつくと、それを隠すために第二、第三の嘘をつかねばならなくなり、嘘がふくれ上がっていくのです。

18節をご覧ください。ヨアブは人を遣わして、このことをダビデに報告しました。これはあまりにも稚拙な作戦だったので、本来であれば司令官の責任問題になることでしたが、ヨアブはこの戦闘の一部始終をダビデに報告する際に、もし王がそれを聞いて憤り「何故そんなバカな作戦を行ったのか」と怒るようなら、「あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」と言えと命じました。

21節にある1人の女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツでアビメレクを殺したというのは、士師記9章にある出来事です。勇将アビメレクが敵を追ってやぐらに近づきそれに火をつけようとしたとき、一人の女がやぐらの上から石を落とし、アビメレクの頭蓋骨を砕いたという出来事です。このことから「城壁に近づきすぎてはならない」というのが戦いの鉄則でした。しかし、ヨアブはこの鉄則をやぶり城壁に近づいたことで、敵が射かけてくる矢を防ぐことができませんでした。しかし、そのことでダビデが激怒したら、こう言えばいいのです。「あなたの家来、ヒッタイト人ウリヤも死にました。」

するとダビデはどのように反応したでしょうか。25節をご覧ください。「あなたはヨアブにこう言いなさい。『このことに心を痛めるな。剣はこちらの者も、あちらの者も食い尽くすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃し、それを全滅させよ。』あなたは彼を力づけなさい。」」どういうことでしょうか。心配するな、戦争なんだから、人が死ぬのは仕方がない。だから、これ以後頑張って敵を攻撃し、全滅させよ、と激励しているのです。ダビデはヨアブに何も言うことができませんでした。だってそのようにするようにと命じたのはダビデ本人なのですから。何という欺瞞でしょうか。ウリヤはダビデの意志によって、その命令によって殺されたのです。ダビデが彼を殺しました。それを「戦争なんだから仕方がない」と装っているのです。ダビデのこの罪は単なる人殺しでは終わらない、さらに深いもの、さらに大きな罪だったのです。どこかで、この罪のサイクルを断ち切らなければなりません。もし断ち切らなければ、取り返しのつかない結果に陥ってしまいます。いったいどうしたらいいのでしょうか。

Ⅲ.主のみこころを損なったダビデ(26-27)

ですから、主イエスを信じなさい、ということです。主の救いを受けなさい、主の恵みを受けなさい、ということです。26~27節をご覧ください。「ウリヤの妻は、自分の夫ウリヤが死んだことを聞き、自分の主人のために悼み悲しんだ。喪が明けると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、彼のために息子を産んだ。しかし、ダビデが行ったことは【主】のみこころを損なった。」

ウリヤの妻バデ・シェバは、自分の夫が死んだことを聞き、悼み悲しみました。喪に服する期間は七日間です。喪があけると、ダビデは人を遣わして、彼女を自分の家に迎え入れ、自分の妻としました。時間が経つと、姦淫によって彼女が身ごもっていたことが明るみに出てしまうからです。それで彼は喪が明けるとすぐに彼女を自分の家に迎え入れて自分の妻としたのです。その後、彼女は男の子を生みます。

すべてが計画通りでした。ダビデと数人の使いの者、またヨアブ以外はだれも、このことについての真実を知りませんでした。しかし、彼が行ったことは主のみこころを損ないました。人間的には上手に罪を覆い隠すことができたかもしれませんが、主は決してそれを見過ごしにはならず、みこころを痛められたのです。神様はそこで何をなさったかについては、この後でⅡサムエル記を読んでいく中で見ていきますが、ここで特に覚えておきたいことは、このことが神のご計画全体の中でどのようになったのかということです。

マタイの福音書1章1~17節をお開きください。これはイエス・キリストの系図です。その中に、本日のこのダビデの罪のことが語られています。6節です。ここには「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」とあります。ダビデ王の後継ぎとなったソロモンは、このバテ・シェバから生まれました。それは今回のⅡサムエル記11章で生まれた男の子ではありません。ソロモンはその後、バテ・シェバがダビデの正式な妻となってから生まれた子です。しかしこの系図には、ソロモンの母は「ウリヤの妻」であると記されてあります。ダビデは部下のウリヤから妻を奪った、その罪が、忘れられることがないように、ここにちゃんと記されてあるのです。このようにことさらにダビデの罪を強調しているこの系図は、主イエス・キリストの系図です。主イエス・キリストは、このような人間の罪の歩みを受けて、神様のご計画によってこの世にお生まれになられたと、この系図は語っているのです。ダビデとバテ・シェバの、あのどろどろとした、決して赦され得ない罪の末裔として、主イエス・キリストはお生まれになったのです。それは、主イエスが私たちの罪を、信仰者をも容赦なく飲み込んでいく不気味な罪の力を、十字架の苦しみと死とにおいて引き受けて下さり、ご自分の命をいけにえとしてささげることによって、私たちを赦して下さるためでした。私たちがこの強力な罪の力から救われるのは、ダビデのような罪を犯さないように気をつけることによってではなく、このイエス・キリストの十字架の死による赦しの恵みの中に置かれることによってなのです。「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み」という主イエスの系図は、私たちが確かにその恵みの中に置かれていることを示しているのです。(日本基督教団富山鹿島町教会ホームページから転用)

Ⅰヨハネ1章9節にはこうあります「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」

ここに私たちの希望があります。私たちの希望は主イエス・キリストです。もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。そのとき、神が聖霊を注いでくださり、この聖霊の力によって、私たちの肉によってはできない罪との戦いに勝利を与えてくださるのです。これがパウロがローマ7章で見出した真理です。ローマ7章24~8章4節にはこうあります。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」

私たちは、私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。神は私たちができないことを、してくださいました。ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わしてくださり、肉において罪を処罰してくださったからです。それゆえ、私たちは神の恵みに置かれることによって、この救い主イエス・キリストの十字架の贖いにより、その名を信じた者にもたらされる聖霊の力によって、この強大な罪の力にも勝利することができるのです。イエス・キリストはあなたのために生まれ、あなたの罪の身代わりとして十字架で死んでくださいました。このイエスを信じるならあなたも救われます。神の確かな恵みの中に置かれるのです。この神の恵みによって罪に勝利する人生を歩ませていただきましょう。

雅歌1章5~8節「黒いけれども美しい」

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 前回から雅歌を学んでいます。きょうは、1章5節から8節までの箇所から「黒いけれども美しい」という題でお話します。「雅歌」とは「歌の中の歌」という意味です。これは花婿と花嫁の最高の愛の歌です。2節から花婿に対する花嫁の歌が続いています。2節には「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」とあります。どうしてですか。花婿がそれほど麗しい方だからです。2節の後半には「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく」とあります。主イエスが与えてくださる愛は、この世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしいのです。

3節には、「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は注がれた香油のよう。」とあります。これは、神に献げられた芳しい香りです。キリストは、神でありながらご自身を虚しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえに神は彼を高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになられました。捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。キリストはご自分のいのちを献げられたので、その香油は香り芳しいのです。

4節には「私を引き寄せてください」とあります。この方は私たちを引き寄せてくださる方です。私たちが神を愛したのではありません。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの供え物としての御子を遣わしてくださいました。ここに愛があります。神が私たちを引き寄せてくださいました。私たちはキリストの花嫁として、花婿であられるキリストとの関係に入れられたのです。何という恵みでしょうか。しかし、そればかりではありません。花嫁の花婿に対する愛の歌はまだ続きます。

Ⅰ.私は黒いけれども美しい(5-6)

まず5~6節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。ケダルの天幕のように、ソロモンの幕のように、私は黒いけれども美しい。あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はエルサレムの娘たちに語りかけています。「ケダルの天幕」とは、黒やぎの毛でできたテントのことです。「ケダル」とは、創世記25章13節に出てくるイシュマエルの子どもの一人です。イシュマエルとはアブラハムと妻サラの女奴隷ハガルとの間に生まれた子どもです。その次男がケダルです。彼は、今日のアラブ民族の祖先となります。彼らは遊牧民となりましたが、黒やぎの毛で作られた天幕に住みました。それは黒く、汚れていました。花嫁は自分の姿を見て、そのケダルの天幕のように黒いと言ったのです。しかし、ただ黒いのではありません。ここには「黒いけれども美しい」とあります。それはソロモンの幕のようです。「ソロモンの幕」とは、神殿の聖所と至聖所を仕切る垂れ幕のことです。この垂れ幕については、出エジプト記26章31節にこうあります。「また青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、垂れ幕を作る。これに意匠を凝らしてケルビムを織り出す。」これはイエス・キリストご自身を表していた、最も美しい幕でした。ですからここで花嫁が言っていることは、自分はケダルの天幕のように黒く汚れているけれども、ソロモンの幕のように美しいということです。

どうして彼女はそのように言うことができたのでしょうか。それは花婿がそのように見てくれるからです。8節を見てください。ここには「女の中で最も美しいひとよ」とあります。これは花婿の言葉です。確かに彼女は真昼の日照りの中で畑の見張りをさせられ、日に焼けて浅黒くなっていたかもしれませんが、花婿にとっては最も美しく愛すべき最高の花嫁だったのです。だから彼女は、「私は黒いけれども美しい」と言うことができたのです。

これは私たちにも言えることです。私たちもケダルの幕のように黒く罪に汚れた者ですが、主はそんな私たちを見てこうおっしゃってくださる。「女の中で最も美しいひとよ」それゆえ、私たちも「私は黒いけれども美しい」と言うことができるのです。大切なのは私たちが自分をどのように見るかではなく、主がどのように見てくださるかということです。人がどのように見るかではなく、神さまがどのように見てくださるかということなのです。神さまが見られるその姿こそ私たちの正確な姿であり、私たちが持つべきアイデンティティーです。

それにしても、彼女はどうしてそのように見ることができたのでしょうか。6節にはその理由があります。「あなたがたは私を見ないでください。私は日に焼けて、浅黒いのです。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人にしたのです。でも、私は自分のぶどう畑の番はしませんでした。」

花嫁はここで、自分がこのように黒くなったのは生まれつきではないと言っています。日に焼けたからだと。母の息子たち、すなわち兄弟たちが、私をぶどう畑の番人にしたので、炎天下にさらされた結果、日焼けして浅黒くなってしまったのです。

でもそうでしょうか。確かに日に焼けて黒くなったということもあるでしょうが、でも普段生活するうえではそんなに気にならなかったでしょう。彼女が自分は黒いということをこんなに意識しているのは、花婿であられる王の前に出たからです。彼女は透き通るように美しく輝いた王の前に出たとき、自分があまりにも黒いということに気付かされたのです。私たちも主の前に立つとき、自分がいかに黒いか、汚れているかがはっきりわかります。暗闇の中にいると自分の黒さには気付きません。光の中に立たされて初めてその黒さに気付かされるのです。

あの預言者イザヤもそうでした。彼は自分が預言者としてイスラエルの民の姿を見たとき、「わざわいだ」と何度も非難し断罪しましたが、高く上げられた御座に着いておられる主を見たとき、そのものすごい聖さに打ちのめされてしまいました。そしてこう言ったのです。「ああ、私は滅んでします。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(イザヤ6:5)彼はイスラエルの民と自分を比較していたときには気付きませんでしたが、主の聖さに触れたとき、自分がいかに汚れているかということに気付かされたのです。そうです、人は闇の中にいると自分汚れには気付きませんが、主の前に立たされたときに初めて、その黒さに気付かされるのです。

あのパウロもそうでした。彼は自分のことを「罪人のかしら」(Ⅰテモテ1:15)と言っています。新約聖書の中の13もの手紙を書いたパウロですら、神の聖さ、神の恵みの大きさが分かったとき、「罪人のかしら」であると告白せざるを得なかったのです。

神に近づけば近づくほど、光に近づけば近づくほど、影は伸びるものです。ですから、クリスチャンとして霊的に成熟すればするほど自分の汚れ、罪深さ、醜さが示されるのは当然のことなのです。どんなに自分が熱心に信仰に励み、信仰歴も長く、それなりに立派にやってきたと思っていても、主の御前に立たされるなら、「私は黒い」と言わざるを得なくなるのです。

けれども美しい!のです。なぜ?花婿なるキリストがそのように見てくださるからです。主はそんな私たちの汚れを、ご自身の血をもってきよめてくださいました。その血によって、しみや、しわや、そのようなものが何一つない者としていただいたのです。

エペソ5章26~27節にはこうあります。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」「キリストがそうされたのは」とは、キリストが教会のためにご自分をささげられたのはということです。キリストがそうされたのは、教会をきよめて聖なるものとするためでした。罪や汚れを洗いきよめ、しみや、しわや、傷や、そのようなものが何一つない栄光の教会を、ご自身の御前に立たせるためだったのです。ここに「ご自分で」とありますね。それは私たちがすることではありません。それは主がなさることです。私たちは自分の手で自分をきよめることなどできません。きよめてくださるのは主なのです。

ですから、私たちは、見た目には確かに黒いかもしれません。自分の罪深さに「これでもか」と打ちのめされそうになることがありますが、主はそのような私たちをきよめてくださり、「女の中で最も美しいひとよ」と言ってくださるのですから、私たちも「私は黒いけれども美しい」と告白することができるのです。これが私たちの姿です。あなたもイエス・キリストを信じるなら、このように告白できるようになります。ぜひ信じていただきたいと思います。

Ⅱ.私のたましいの恋い慕う方(7)

次に7節をご覧ください。「私のたましいの恋い慕う方。どうか私に教えてください。どこで羊を飼っておられるのですか。昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。なぜ、私はあなたの仲間の羊の群れの傍らで、顔覆いをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。」

ここで花嫁は花婿を「私のたましいの恋い慕う方」と呼んでいます。新改訳第3版では「私の愛している人」と訳しています。口語訳では「わが魂の愛する者よ」となっています。ここではただ愛している方というよりも、「私のたましいの恋い慕う方」とか「わが魂の愛する者よ」というのが適切だと思います。というのは、ただ愛しているのではないからです。たましいから愛しているのです。たましいから愛するとはどういうことでしょうか。それは最も深いレベルで愛するということです。それは最大の愛、極みの愛です

マタイ22章37~38節には、「イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。」とあります。これはある律法の専門家が「律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」と尋ねたことに対して、イエスが答えられたことです。ここで主イエスは彼に「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と言われました。この「いのちを尽くして」が「たましいを尽くして」ということです。それはいのちがけの愛です。いのちがけで愛しなさいというのです。これは最大の愛の表現なのです。ですから、ここで花嫁が花婿に対して「私のたましいの恋い慕う方」と言うとき、それは自分のたましいから恋い慕っている方、いのちをかけて愛するほどの方だと告白しているのです。

人はだれを愛するのかによって、また、何を愛するのかによって、その人生が決まります。それによって人生観も決まるのです。もしあなたが自分自身を愛するなら、そのような人生になります。いつも自分が願うようにならないと気が済まなくなるので、不平不満とかつぶやきに満たされることになるのです。まさに「フロイトの快楽の原則の通り」です。現代の精神医学や心理学の問題はここにあります。

生きる意味を失ってしまい、迷っていたある若者が、ある日、精神病院を訪ね、医者と相談しました。ところが、その精神科の医者は、フロイトの快楽の原則の通りに、「あなたが願う通りに快楽を楽しんでみなさい」とアドバイスしました。そのアドバイスに従って青年は、歓楽街へと行き、女遊びに明け暮れました。青年は二度と医者の所へは戻ってきませんでした。彼は、自分に嫌気がさして自殺したのです。

この世の快楽だけでは、決して解決できない精神的空虚と不安のために、人々のたましいは疲れ果てています。もしあなたが自分を愛するなら、自分の願う通りに行かない現実に嫌気がさして、何をしても満たされることはないでしょう。

しかし、神を愛するなら、感謝と喜びに溢れるようになります。なぜなら、神は完全であられるからです。この神を愛し、神に従うなら、神があなたの必要を満たし、歩むべき確かな道を示し、あなたの思いを越えたすばらしい結果をもたらしてくださるので、あなたは平安と喜び、感謝を得るようになります。大切なのは、自分を愛することではなく、神を愛することです。イエス様は「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われました。これが第一の戒めです。

私たちの主は、たましいを尽くして愛するのにふさわしい方です。なぜなら、主は私たちのためにご自身のいのちを与えてくださったからです。ヨハネ15章13節を開いてください。ここには、「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とあります。主はそのような愛で私たちを愛してくださいました。これ以上の愛はありません。私たちはこの愛で愛されているのです。それゆえ、この方をたましいの愛で、いのちがけの愛で愛するのは当然のことなのです。あなたはどうでしょうか。あなたはだれを愛していますか。何を愛しているでしょうか。そのことによってあなたの価値観が決まります。あなたの人生が決まるのです。

花嫁はここで自分がこのように黒いのは家族のせいだとずっと恨んでいました。母の息子たちが私に怒りを燃やし、私を彼らのぶどう畑の番人したので、私はこんなに浅黒くなったんだと苦々しい思いでいたのです。しかし、花婿に目を留め、花婿をたましいから愛えすることができたとき、そうした恨み辛みから解放されました。そしてこう尋ねているのです。「どうか私に教えてください。どこで羊を飼っているのですか。」

ここで花嫁は、花婿である王が羊飼いであることを示唆しています。ある人はここから、主な登場人物が3人いると考えます。すなわち、王である花婿と羊飼い、そして花嫁です。このように考える人は、羊飼いのような身分の低い人が高貴な王であるはずがないと考えます。常識的にはそうかもしれません。しかし、王でありながら、同時に羊飼いであられる方がいます。だれでしょうか?イエス・キリストです。イエス・キリストは王の王、主の主でありながら、同時に羊飼いであられます。黙示録19章16節にはこうあります。「その衣と、もものところには、「王の王、主の主」という名が記されていた。」「その衣」とは、白い馬に乗っておられる方で、「確かで真実」と呼ばれ、義をもってさばかれる方です。その方は血に染まった衣をまとい、「神のことば」という名で呼ばれていた方とありますから、この方はイエス・キリストです。イエス様は「王の王、主の主」と呼ばれる方なのです。

しかし、同時にこの方は羊飼いでもあられます。ヨハネ10章11節をご覧ください。ここには「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」とあります。これはイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。イエス様は羊飼いでもあられるのです。また、また、ヨハネ10章14節には「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。」とあります。これもイエス様のことばです。イエス様は「わたしは良い牧者です」と言われました。

ですから、イエス様は王の王、主の主であられますが、同時に羊飼いでもあられるのです。その羊飼いである花婿に対して花嫁はここで、私のたましいの恋い慕う方よ、あなたはどこにおられるのですかと尋ねています。どこで羊を飼っているのですか、教えてください、と言っているのです。彼女は羊飼いであられる花婿と一緒にいたいのです。片時も離れることができません。離れたくないのです。花婿が一緒にいなければ満足することができません。羊の群れと一緒にいるだけでは満足することができません。彼女にとっては花婿が必要であり、いつも花婿と一緒にいたいといのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは花婿なる主と一緒にいたいという切なる願いがあるでしょうか。そのことを求めているでしょうか。教会に行ける時には行きますとか、時間があれば聖書を読みます、祈ります、ということはないでしょうか。そのような思いでは行くことはできません。読めません。祈れません。人は何を愛するかによってその行動が決まるからです。ダビデは、このように言いました。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27:4)

私たちも一つのことを主に願いましょう。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮でふける、そのために。心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くして主を愛しましょう。いつも主と一緒にいることを切に求めたいと思います。

Ⅲ.羊の群れの足跡を追って出て行き(8)

そのような花嫁の願い、叫びに対して、王である花婿は何と答えているでしょうか。8節をご覧ください。「女の中で最も美しいひとよ。あなたが知らないのなら、羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」

「女の中で最も美しいひとよ。」これは先ほども述べたように、花嫁である教会、私たちクリスチャンのことです。私たちは確かに黒くて醜い者ですが、花婿であられるキリストの目には最も美しいものと映っているのです。たとえ自分が黒い者だと思っていても、たとえ自分が同じ罪を繰り返すような情けない者であっても、あなたはイエス様にとってかけがえのない存在なのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。そのお方がどこにいるのかあなたが知らないのなら、わたしがどこにいるのかを本当に知りたいと思うなら、どうすれば良いかを教えています。それは、「羊の群れの足跡を追って出て行き、羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

ここでは二つのことが言われています。第一に、「羊の群れの足跡を追って出て行きなさい」ということです。これは、いわゆる1匹狼のようなクリスチャンは存在しないということです。クリスチャンはみな羊です。羊は群れで行動します。もし単独で行動するとどうなるでしょうか。あの1匹の迷える子羊のたとえにあるように、どこかに迷子になってしまいます。聖書には教会はキリストのからだにたとえられていますが、からだはバラバラでは存在しません。キリストを頭として、からだ全体が一つとなってこそ機能します。それと同じです。私は群れが苦手だから自分で信仰を守りますとか、礼拝に行かなくても大丈夫です、どこでも礼拝できますから。自分で聖書を読んで祈りますと言われる方がおられますが、本当にできるでしょうか。もうそんなことは何年もやってきたので卒業しました。イエス・キリストだけでいいんです。こういうのは、聞こえはいいですがこれほど非聖書的なことはありません。なぜなら、聖書はそのようには教えていないからです。もしあなたがイエス様を知らないと思うなら、羊の群れの足跡を追って行かなければなりません。羊の群れとは何でしょうか。それは、キリストの教会のことです。もしあなたが、花婿がどこにいるのかを知りたいなら、羊の群れである教会の足跡に着いて行かなければなりません。

へブル10章25節には、「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」とあります。私たちはある人たちのようにいっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合うことが必要です。かの日とはキリストの再臨の日のことですが、その日が近づいています。それを見てますますそうしなければなりません。私たちはみな群れについて行く必要があります。群れの一員として行動することが求められているのです。そうすれば花婿がどこにいるかがわかります。花婿がどのようなお方なのかがわかるのです。それがキリストのご計画です。

Ⅰペテロ2章5節にも同じことが言われています。「あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」神に喜ばれる霊のいけにえとは、神に喜ばれる礼拝のことです。どうしたら神に喜ばれる礼拝をささげることができるのでしょうか。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられることによってです。「霊の家」とは教会のことです。ですから、本当に神に喜ばれる礼拝をささげたいと思うなら、私たち一人ひとりが生ける石となって、霊の家である教会の上に築き上げられなければなりません。これが神のご計画であり、神のみこころなのです。独立した石ではなく、組み合わされて一つとなってはじめて、神に喜ばれる礼拝をささげることができるのです。勿論、一人で祈ることもできます。でもあなたが本当に主との麗しい関係を求めているのなら、主と一緒にいることを願っているなら、羊の群れである教会に集う必要があるのです。

花婿なる主がどこにいるのかをあなたが知りたいならどうしたらいいのでしょうか。第二のことは、その後にあるように、「羊飼いたちの住まいの傍らで、あなたの子やぎを飼いなさい。」ということです。どういうことでしょうか。

イエス様が復活された後で弟子たちにご自身の姿を現わされたとき、同じことをペテロに言われました。イエス様がペテロに「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」と問われると、ペテロは「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。するとイエスは彼に「わたしの子羊を飼いなさい。」と言われました。どうしてイエス様はペテロにそのように言われたのでしょうか。

J.C.ライルという聖書注解者はこう述べています。「他者に対して有用な者となることは、愛を試す主要なテストであり、キリストのために奉仕することは、真にキリストを愛する立派な証拠である。・・・それは大声で話すことでも、立派な信仰告白をすることでもなく、がむしゃらで衝動的な熱心さや、剣を脱いで戦う用意をすることですらない。それは、この世に散らばっているキリストの小羊たちのために、堅実で、忍耐強い、骨の折れる努力をすることである。そしてこれこそが、忠実な弟子であることの最善の証拠なのである。これがキリスト者のすばらしさの本当の秘訣である。」(「ライル福音書講解ヨハネ4」p491-492)

ここで、ライルが言っていることは、この雅歌において花婿が言っていることにも当てはまります。すなわち、あなたがキリストの花嫁としてキリストを本当に愛しているのなら、この世に散らばっているキリストの小羊のために労することこそ、その愛を証明することになるということです。それは忍耐強い、骨の折れる努力をすることですが、それによってより深く主を知り、主との深い主との交わりへと導かれるのです。なぜなら、花婿は羊飼いであられるからです。

私たちの人生には辛いと感じるときや、主がどこへ行ってしまったのかわからないほどの試練に直面することがあります。そのような時私たちに必要なのは、羊の群れの足跡を追って行くことです。そして、あなたの子やぎに食べさせてあげることです。どんなに辛くても羊の群れから離れてはなりません。どんなに忙しくても教会に来ることをやめてはならないのです。また主を知らない人たちに、あるいは、主を信じたばかりの若い子やぎを養わなければなりません。そうすれば、あなたは花婿である主を見出し、花婿であられる主との深い交わりの中に入れられるでしょう。

あなたが神の家族の一員として神の民に属するとき、あなたの本当の人生の目的が明らかになります。神の家族の中で、自分がどこから来て、どこへ向かっているのか、生きる意味を知ることができます。そのときあなたは、あなたに対する主のみこころが何であるのかを深く知るようになるのです。私は黒いけれども美しい。女の中で最も美しいひとよと言ってくださる花婿に、私たちのたましいの愛をささげたいと思います。

雅歌1章1~4節「歌の中の歌」

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 きょうから、雅歌に入ります。皆さんは「雅歌」という言葉を聞いたことがありますか。「雅歌」というと一般に絵を描く「画家」を思い浮かべるのではないかと思いますが、その「画家」ではなく「雅歌」です。この「雅歌」という言葉を広辞苑で調べてみると、①俗歌に対して、格式の正しい歌。みやびな歌。②旧約聖書中に収められた男女の恋愛歌。とあります。やはり、どちらかというとこの聖書の中の「雅歌」を念頭に説明されているようです。

 1節には「ソロモンの雅歌」とあります。これはソロモンが書きました。この「雅歌」という言葉には※印がついていて、下の説明を見ると、直訳「歌の中の歌」とあります。ヘブル語では「シール・ハッシリーム」と言います。意味は「歌の中の歌」です。「歌」はヘブル語で「シール」といいますが、このように「シリーム」と伸びると複数形になります。ですから、ただの歌ではなく「歌の中の歌」です。英語では「The Song of Songs」となっています。このように「歌の中の歌」という表現は、「主の主」、「王の王」という表現のように最上級を表しています。つまり、「雅歌」とは「歌の中の歌、最上級の歌」という意味です。この歌を書いたのはソロモンです。彼は伝道者の書も書きました。前回までその伝道者の書を学びましたが、その書の中で彼は「空の空、すべては空」と言いました。この世において私たちの心を満たすものは神以外にはありません。神を知らない生き方は虚しいのです。その神とはどのようなお方なのでしょうか。その伝道者の書に続いてこの雅歌があるのは意義深いと思います。つまり、神を知るということは、 神の愛を知ることなのです。

 この雅歌を読んでいくとわかりますが、ちょっと難解です。何回読んでもわかりません。その理由の一つには、ここに登場する2人の男女が誰のことを指しているのかはっきりわからないことです。伝統的にはこの2人の男女に関しては3つの解釈があります。第一に、これは実在した2人の男女で、この雅歌はこの男女の愛を歌った歌であるという考えです。つまり、これは神が用意してくださった理想的な男女の愛の関係とはどういうものなのか、夫婦の関係とはどういうものなのかを歌った歌だというのです。

第二に、これは単なる男女の恋愛の歌ではなく、神とイスラエル民族との関係を比喩的に表したものであるという考えです。ほとんどのユダヤ人の学者と一部の福音派の学者はそのように理解していて、これをイスラエルに対する神の愛の物語だと考えています。

第三に、比喩は比喩でもこれはキリストと教会との関係を表わしているという考えです。多くの福音派の学者がそのように理解しています。新約聖書には教会はキリストの花嫁とありますから、そのように解釈するのは自然ではいかと思います。ここでは「花婿なるキリスト」と「花嫁なる教会」との基本的な愛の関わりを預言的に歌った「愛の歌」と理解してお話しを進めていきたいと思います。

 Ⅰ.ぶどう酒にまさって麗しい愛(1-2)

それでは、早速本文を見ていきましょう。まず1~2節をご覧ください。「ソロモンの雅歌 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、」

2節から本文が始まります。2節から7節までが花嫁のことばです。それにしても、最初からドキッとしますね。いきなり「口づけ」の話です。「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。」

口づけは、愛の親密感を表しています。そもそも「口づけ」するということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせる行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意の表れなのです。その口づけは、複数形で表されています。何度も口づけしてくれたらいいのに、という意味です。ルカの福音書15章に放蕩息子のたとえ話がありますが、その話の中で父親は放蕩して帰って来た息子に何度も口づけしました。それと同じです。それは親密な愛の表現であるだけでなく、尽きることのない愛を表わしています。それは何回も与えられるものなのです。昨日だけでなく今日も、明日も与えられます。それはいつも新鮮なのです。私たちは昨日の「口づけ」ではなく、日々与えられる新しい「口づけ」を求めることができるのです。

花嫁はなぜこのような親密な関係を求めているのでしょうか。その理由が2節の後半にあります。「あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しい」花婿の愛はぶどう酒にまさって美しいからです。どういうことでしょうか。聖書では「ぶどう酒」は人生の楽しみや喜びを象徴しています。たとえば、詩篇4篇8節には「あなたは喜びを私の心に下さいます。それは彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。」とあります。この穀物と新しいぶどう酒は喜びを象徴しています。主が与えてくださる喜びは、この世が与えてくれる喜びにまさっているということです。また、詩篇104篇15節にも「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、パンは人の心を支えます。」とあります。この「ぶどう酒」とか「パン」は、この世が与える喜びと言ってもいいでしょう。すなわち、花婿の愛はこの世が与える喜びや楽しみよりもはるかにすばらしい、はるかに勝っているという告白なのです。

先ほど歌った賛美は「なんて素晴らしいイエスの名は」(What A Beautiful Name)という賛美です。イエスの名がなんて素晴らしいものなのかを歌った歌です。

なんて麗しい なんて麗しい イエス・キリストの その麗しい名に 勝るものはない

なんて麗しい イエスの名は

なんて素晴らしい  なんて素晴らしい イエス・キリストの その素晴らしい名に勝るものはない なんて素晴らしい イエスの名は

永遠の初めからあったことば。そのことばは神とともにありました。ことばは神であり、神の栄光に満ちていました。その栄光の神が、すべての人を照らすまことの光として、この世に来られたのです。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知りませんでした。この方はご自分の民のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れませんでした。それなのに神さまは、ご自分に敵対していたこの世を救うためにこの方を遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けてくださいました。それは、この方を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この方の愛によって、私たちは神の子とされ、栄光の御国を相続する者とされました。だれもこの愛から引き離すものはありません。なんて麗しい愛でしょうか。

使徒パウロは、この方の愛を次のように言いました。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:6-8)

 私たちがまだ罪人であったときとは、私たちが神さまに背き、神さまに敵対していたときのことです。そのようなときにキリストは私たちのために十字架で自分のいのちを与えてくださいました。そのことによって、私たちに対するご自身の愛を明らかにしてくださったのです。何と麗しい愛でしょうか。あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛。この世にはいろいろな愛がありますが、これほどの愛はありません。これは自分を与える愛です。相手が良い人であるかとか、悪い人であるかといったことは全く関係ありません。そのようにしてイエスさまはご自身の愛を明らかにしてくださったのです。それは私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。この永遠のいのちとは、死んでから受けるいのちだけでなく、イエス・キリストによってもたらされる罪の赦しと永遠のいのちです。聖霊による神さまとの交わりです。神さまがいつも共におられます。この地上にあっても、神さまが与えてくださる平和と喜びに満たされることができるのです。何とすばらしいことでしょうか。

 このキリストが与えてくださる神さまとの交わりは、この世が与えるどんな喜びよりもはるかにすばらしい。そういっているのです。それは永続する喜びです。主イエスは言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)この水を飲む人は、また渇きます。しかしイエス様は、決して渇くことのない水を与えてくださるのです。それはこの世にあるものと比べることができません。イエスが与える愛、イエスが与える喜びにまさるものはありません。それはあまりにも大きく、あまりにも豊かで、あまりにもすばらしいので、この世のものと比べることができないのです。

 思い出してください。皆さんが救われた時のことを。思い出してみてください。一人主の御前にひれ伏して祈っているときに神の臨在があなたに臨んだ瞬間のことを。それはまさに天にも上るような思いだったはずです。思い出してみてください。兄弟姉妹と一緒に声を合わせて賛美しているときのことを。それは、ヘルモンから、シオンの山々に降りる露のようです。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからです。それは何にもまさる喜びです。キリストの愛は、ぶどう酒にまさって麗しいのです。

Ⅱ.注がれた香油のような名 (3)

次に3節をご覧ください。ここには「あなたの香油は香り芳しく、あなたの名は、注がれた香油のよう。そのため、おとめたちはあなたを愛しています。」とあります。なぜ、おとめたちはそんなに彼を愛しているのでしょうか。それは花婿の愛が香油のように芳(かぐわ)しいかぐわしいからです。この香りはとのような香りでしょうか。散歩していると、ふと花の香りが漂ってきて思わず足をとどめることがあります。その香りに季節の変わり目を感じるのです。沈丁花に春の香りを、クチナシの花に梅雨のしっとりさを、金木犀の香りには秋の深まりを感じます。そんな風情がなんともいえません。ではキリストの香りには何を感じるのでしょうか。

パウロはⅡコリント2章15節で、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と言っています。この香りは神に献げられた芳しい香りです。ここに「あなたの名は、注がれた香油のよう」とあるのはそのことです。キリストの名が香油のように芳しいのは、キリストがご自身を神に献げられたからなのです。

ピリピ2章6~11節にこのようにあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

何ゆえに神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになったのでしょうか。それは、キリストは神の御姿であられる方なのに、神としてのあり方を捨てることはできないとは考えないで、自分を無にして仕える者の姿をとり、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたからです。キリストはご自分を神に完全にささげてくださったので、神はこの方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。十字架上のキリストの犠牲は、究極的な「神に捧げる香り」であって、私たちの罪の赦しのために、神に受け入れられるものです。

捧げ尽くすところにいのちの祝福があります。「あなたの名は注がれた香油のよう。」です。キリストはご自分のいのちを献げので、香油のように香り芳しいのです。そのため、おとめたちは彼を愛するのです。

Ⅲ.引き寄せてくださる方(4)

第三に、この方は私たちを引き寄せてくださいます。4節をご覧ください。「私を引き寄せてください。私たちはあなたの後から急いで参ります。王は私を奥の間に伴われました。私たちはあなたにあって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえます。あなたは心から愛されています。」

花嫁は花婿に「私を引き寄せてください」と言っています。私たちは、引き寄せてもらわなければ花婿のもとに行くことができません。引き寄せられて初めてその後について行くことができるのです。

私は、18歳の時、高校3年生の時に教会に行きイエス様を信じました。生きる目的がわからず地に足が着いていないような生活をしていた時、後に結婚することになりますが、一人の宣教師に誘われて教会に行きました。初めは冗談のつもりでしたが、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)のみことばを聞いて、キリストにある新しい人生をスタートすることができました。それからずっとイエス様を信じて歩んできましたが、ずっと自分がイエス様を信じたとばかり思っていました。でも実際はそうではなかったのです。イエス様が私を引き寄せてくださったのです。そうでなかったら信じることもできなかったでしょう。それは信じるということばかりでなく、その後のことを考えてもそうです。イエス様を信じてからも実にいろいろなことがありましたが、それでも信じ続けることができたのは、イエス様が私を引き寄せてくださったからなのです。どんなに神から離れても、どんなに神に背を向けていても、神の方から御手を伸ばしてくださいました。

この神の愛について使徒ヨハネはこう述べています。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Ⅰヨハネ4:9-10)

ここに愛があります。神がそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

預言者エレミヤは、このことをこう述べています。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)すばらしいですね。主は永遠の愛をもって愛してくださいました。過去、現在、未来において、主があなたを愛さなかったことは一度もありません。生まれる前から、そして生まれてからもずっと愛し続けてくださいました。私たちが人生で最悪だと思うようなときでも、神さまはずっとあなたを愛し続けておられたのです。クリスチャンになってからだけでなくクリスチャンになる前も、ノンクリスチャンの時ですら愛しておられました。あなたは、この永遠の愛で愛されているのです。

ここには、主は遠くから私に現れたとあります。どういうことでしょうか。主が遠くにおられるということではありません。主は私たち人間が近づくことなど決してできないお方であるということです。この方は創造主であられます。聖なる方です。「聖なる」というのは「分離している」という意味があります。この世と完全に分離しているのです。光が闇と交わることがないように、私たちと神様との間には到底近づくことができない淵があるのです。それが、罪がもたらした悲劇です。もし罪深い人間がちょっとでも近づこうものなら、たちまちその場に倒れてしまうことになります。それが「遠くから」という意味です。預言者イザヤはその聖なる方に触れたとき、「ああ、私は滅んでしまう。」と叫びました。「万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と(イザヤ6:5)。しかし、そんな罪深い私たちを、主は永遠の愛をもって愛してくださいました。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた、とエレミヤは言ったのです。

ヨハネ15章16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」とあります。

私たちが主イエスを選んだのではありません。主が私たちを選び、任命してくださいました。これを「先行的恵み」と言います。私たちが求める前から、主が先行して私たちを選んでくださいました。私たちの側から神さまに近づいたのではありません。神の方から私たちに近づいてくださったのです。これが最初のクリスマスです。クリスマスとは、神が私たちに近づいてくださった日です。神が私たちを引き寄せてくださいました。だから、私たちは主の後からついて行くことができるのです。感謝ですね。

ところで、ここには「王は私を奥の間に伴われました」とありますね。どういうことでしょうか。ここから場面が変わります。これは花婿と花嫁の結婚式を表しています。花婿に引き寄せられて花嫁が宮殿に向かいそこで結婚式が行われますが、花嫁は父親から離れて花婿のもとへ近づいて行くのです。そこで二人は結ばれます。これは結婚式において二人が結ばれた瞬間です。結婚式のクライマックスは二人が神の前に誓約をするときですが、これはちょうど結婚式において誓約がなされた直後のことです。二人は正式に夫婦として認められます。そのしるしとしてキスが交わされたり指輪の交換がなされますが、ここでは王である花婿が花嫁を奥の間に伴われるのです。そこは二人だけのプライベートルームです。そこで二人は親密な交わりへと導かれるのです。つまり、花嫁が花婿を王として、また主として認めることによって二人は結ばれ、親密な関係に入っていくということです。どういうことかというと、もしあなたが花婿であられる主イエスと麗しい関係、親密な関係を持ちたいと願うなら、この方を王として、また主として認める必要があるということです。もしあなたがこの方をあなたの王として、また主として認め、この方にすべてをゆだねるなら、王である花婿はあなたを奥の間に伴われ、より深い交わりと喜びを楽しむことができるようになるのです。

私たちはそのように告白したはずです。ローマ10章9~10節にこうあります。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

もしあなたがあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたも救われます。奥の間へと伴われ、そこで花婿なるキリストとの深い交わりと喜びを楽しむことができるのです。それが礼拝です。礼拝とは何でしょうか。礼拝とは英語でWorshipと言いますが、Worship とは神さまを「最も価値あるものとみなす」という意味があります。主イエスを最も価値あるものとみなすなら、あなたの心に主への愛が満ち溢れ、主と麗しい関係を持つようになります。これがキリストの花嫁である教会の心です。教会の心とは神を愛する心であり、礼拝を喜びます。教会にとってこれが生命線あり、いのちです。このWorshipの関係、愛の関係がないなら、どんな働きをしても虚しいだけです。神さまの愛がわからないと神さまを愛するということがわかりません。その人にとって礼拝は愛をささげることではなく義務となります。愛の関係が義務となると、神さまとのすべての関係が義務的になってしまいます。みことばも、祈りも、献金も、生き方も、です。

先週、韓国から宣教師として来日して東京で伝道しておられる崔先生と電話でお話ししました。先生は1979年に来日すると、みことばと祈りに基づく教会形成に励んできました。みことばと祈りに基づいてという言葉はだれでも口にする言葉ですが、先生はこれを実践しておられます。毎週金曜日は午前10時から午後3時まで祈り会をもっておられるのです。午前10時から午後3時までの5時間です。それを毎週続けておられる。1時間祈ったら10分くらい休憩してまた祈ります。そのようにして5時間祈るのです。そこでは日曜日に聞いたみことばをどのように自分の生活の中に実践しているのかの分かち合いもします。みことばを聞くだけではなく、それを実行しなければなりません。その聞いたみことばをどのように実行したか、あるいは、どのようにしたら実行できるのかを分かち合って祈るのです。それを10年続けています。それまでは徹夜で祈っていましたが、今は日中持つようになりました。5時間と聞くと長いように感じますがあっという間です。先生はいつも祈っています。道を歩いても、聖霊様が「祈りなさい」というと、その場でひざまずいて祈ります。するとあとでどうして聖霊様がそのように導いてくださったのかを示してくださるのだそうです。

どうして先生はこんなに祈れるのでしょうか。それは主を愛しておられるからです。まだ日本に来る前に早天祈祷会で祈っていたとき、聖霊のバプテスマを受けました。これはペンテコステ派が言っているような異言の伴う聖霊のバプテスマのことではなく、圧倒的な聖霊の満たしでした。人生の価値観が全く変えられたのです。後でそれが聖霊のバプテスマだったということに気付かされたのです。聖霊のバプテスマ、あるいは、聖霊の満たしを受けると、人生の考え方、価値観が全く変えられます。主を心から愛するようになるのです。水のバプテスマだけでは変わりません。聖霊のバプテスマ、聖霊の満たしが必要です。それはイギリスの伝道者ロイド・ジョーンズも言っていることです。聖霊の満たしを受けると、主を愛せずにはいられなくなります。主を礼拝せずにはいられなくなるのです。

先生は毎日、目で聖書を読み、耳で聞く聖書を聞き、口で祈りながら聖書を読みます。すごいですね。目と耳と口で同時に聖書を読むのです。日々主の臨在に溢れているのです。雨が降ってもハレルヤです。問題があっても、すべて主にゆだねて祈ります。病院で治療できないと宣告された病も癒されました。どんなに病気になっても長くて3日で癒されると言います。バッグをなくしたとき、「主よ、財布だけでも戻してください」と祈ったら、本当に財布だけ交番に届けられたそうです。本当に主との交わりをエンジョイしているんですね。これが礼拝です。これが花嫁の心です。花嫁の心とは主を愛する心であり、主を礼拝する心です。この愛の関係、Worshipの関係こそ、私たちにとっていのちなのです。

Ⅰコリント13章3節に、「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。愛は関係です。「愛しなさい」と言われても愛はわかりません。愛が分かる唯一の方法は、無条件に愛されていることを知ることです。それは完全に赦されていることを知る経験かもしれません。イエスさまの十字架の贖いが、聖霊さまによってはっきり心に刻まれるとき、真の悔い改めと同時に、その計ることのできない神の愛が私たちの内に注がれます。それが主への賛美と変えられるのです。これが花嫁の心です。多く赦された者は多く、いや、よけいに愛するようになるのです。

あなたはどうでしょうか。主はあなたを引き寄せてくださいました。主は永遠の愛をもってあなたを愛されました。その主の愛に感謝し、この方こそ私の主ですと告白し、この方にすべてをささげようではありませんか。そのときあなたも香油が注がれたような麗しい主の愛の中へと導かれます。親密で深い交わりを持つことができるのです。主は麗しいお方です。主は香油のように香り芳しいお方です。主はあなたを引き寄せてくださいます。私たちも、「イエスさま、あなたは主です。あなたは私の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられました。あなたに私の人生のすべてをささげます」と祈りましょう。そして、主との麗しい愛の関係、礼拝の心を持たせていただこうではありませんか。