マタイ27章45~56節 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

キリスト教では、イエス・キリストが最後にエルサレムに入城した日から復活の前日までの一週間を受難週と呼んでいます。そしてキリストが十字架につけられたのは金曜日で、その日の午後3時頃に息を引き取られました。罪も汚れも無い神の子キリストが、全人類の罪を負って十字架に付けられて死なれたのです。その直前、キリストは「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫ばれました。訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言われました。そして、ローマ兵が酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプにつけて、それをイエスの口もとに差し出すと、イエスはその酸いぶどう酒を受けられ、「完了した」(ヨハネ19:30)と言われ、最後に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と言って、息を引き取られたのです。

これが、キリストが十字架に付けられた日の出来事です。イエスは十字架上で七つのことばを発せられましたが、その中で第四番目に発せられたのがこの言葉なのです。この言葉は永遠の神秘と言われ、理解するのが最も難しいと言われていいます。なぜなら、キリストが神の子、救い主であられるのなら、どうしてこのように叫ばなければならなかったのかがわからないからです。私はこれまで多くの求道者の方から尋ねられることがあります。それは、「キリストが神ならば、どうしてこのように叫ばなければならなかったのか。」ということです。そんなこと最初からわかっていたはずではないか、それなのにこのように叫んだということは、キリストがただの人間だったということ示しているのではないか、というのです。それなのに、このように叫ばなければならなかったというところに、この言葉の神秘があるのです。いったいキリストはどうしてこのように叫ばれたのでしょうか。きょうはこの言葉の意味をご一緒に考えたいと思います。

 

Ⅰ.罪を犯さなかったイエス

まず、第一に、主がこのように叫ばれたのは、ご自分の罪のためではなかったということです。46節を見ると、主がこのように叫ばれたのは、午後3時ごろであったとあります。それは十字架につけられてから6時間が経過した頃のことです。この時の肉体的な苦しみは相当のものだったでしょう。手足を引き伸ばされて釘で打ち付けられ、そこに全身の重みがかかっていたのですから、激しい苦痛が伴っていたことでしょう。特に釘が神経に当たっていたら、その痛みは耐えがたいものだったはずです。釘が入っていた回りの肉がはれて腐り始め、脳が充血して激しい頭痛を引き起こします。発熱のためにのども渇きます。それが直射日光の下にさらされていたのであればなおさらのことです。体力が奪われ、肉体の苦痛は極度に達していたにちがいありません。それにもまして苦しめていたのは、精神的・霊的苦しみです。人々から侮辱され、あざけられるというだけでなく、神にも見捨てられたという思いの中で、言葉には言い尽くせない苦痛を受けておられたのです。

ところで、このことばは詩篇22篇1節から引用です。詩篇22篇はダビデの賛歌とありますが、ダビデが自分の人生において、神に見捨てられたのではないかと思えるような状況の中で歌った詩なのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私を御救いにならないのですか。私のうめきのことばも。」(詩篇22:1)

ダビデは、自分の人生における困難の中で、そうした苦しみを体験していたのです。そのような苦しみの中で彼は、「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」と叫ばずにはいられなかったのです。それは神にも見捨てられたのではないかと思えるような激しい苦しみが伴う経験でした。しかし、ダビデがこのように歌ったのは自分の置かれた状況における困難や苦しみばかりでなく、同時にやがて来られるメシヤの姿を預言していたのです。

この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」が、ヘブル語なのか、アラム語なのかは、意見が分かれているところですが、しかしそれがヘブル語であっても、アラム語であったとしても、イエスがこうした極限の苦しみの中から叫ばれたものであるのは事実です。

いったいなぜイエスはこのように叫ばれたのでしょうか。それはこの十字架の刑が人々から裏切られるということ以上に、神に見捨てられるという経験だったからです。それはまさに地獄の経験でした。よく私たちは「地獄を味わった」ということを耳にすることがありますが、この時イエスは本当に地獄を味わったのです。なぜなら、神に見捨てられ、神から話されることこそ地獄だからです。イエスはこれまで永遠の昔からずっと父なる神と一緒でした。ひと時も離れたことがなく、常に親しい交わりを保っておられました。その主が一時的であっても父なる神から離されること、それは地獄の苦しみだったのです。ですから、この叫びは地獄の叫びと言っても過言ではありません。いったいなぜこのように叫ばなければならなかったのか。

一つだけはっきりしていることは、それはイエスご自身の罪のためではなかったということです。主は全く罪のない方であり、ご自分の罪のために見捨てられることはないからです。それはイエスを十字架に引き渡したローマの総督ピラトの言葉からもわかります。ユダヤ教の祭司長がイエス様をローマの総督ピラトの下に連れて行ったとき、彼の判決はこうでした。

「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」(ヨハネ19:4)

またこうも言いました。

「この人は、死罪にあたることは、何一つしていません。」(ルカ23:15)また、ピラトは三度目に彼らにこう言いました。

「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死にあたる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:22)

そしてついにピラトは、「この人の血については、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」(マタイ27:24)とさじを投げ出してしまいました。

しかし、最終的に彼はイエスを十字架に付けたのは、群衆を恐れたからです。群衆が暴動でも起こしたら自分の立場が危うくなると、群衆の要求通りにイエスを十字架につけたのでした。濡れ衣を着せられたこの時のイエスは、どんなお気持ちだったでしょう。

またイエス様といっしょに十字架につけられた犯罪人の一人でさえも、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(ルカ23:41)とイエス様の無罪を主張しています。

さらにヘブル人への手紙4章15節には、主は罪を犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです、とあります。

ですから、キリストが神に見捨てられたのはご自分の罪のためではなかったことは明らかです。ではいったいなぜ主は十字架につけられなければならなかったのでしょうか。

 

Ⅱ.私たちのために死なれたイエス

 

それは私たちの罪のためでした。全く罪のない方が、私たち人間のために、全人類のために死なれたのです。というのは、神は罪を処罰される方だからです。罪とは、的外れのことです。神によって造られた人間は、本来神を信じ、神のことばに従って生きるはずなのに、自分勝手に生きるようになりました。それが罪です。確かに悪い行いもそうですが、それはこの罪の結果なのです。神を神としないことから、さまざまな問題が生じるようになってしまいました。聖書はこう言っています。

「何が原因で、あなたがたに戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」(ヤコブ4:1-2)

つまり、自分の思うとおりにならないと我慢することができず、争ったり、戦ったりするのです。ですから、自己中心こそが罪の本質なのです。そしてそれを言い換えるなら、このように言えるのではないでしょうか。すなわち、罪とは、神を見捨てることであると・・・。神ではなく、自分が中心となることで、神を見捨てるようになってしまったのです。もしそうであれば、そのような人は、神に捨てられることになります。なぜなら、神は罪を放置されることはないからです。必ずその罪に対して報いをなさいます。その報いこそ、神から捨てられるということなのです。それこそ神によって造られた人間にとって最も不幸なことなのです。人の一生はこの地上のいのちだけではありません。やがて肉体が滅びる時、その人のたましいは神のみもとに行くようになります。その時神から捨てられた人は永遠の滅び、聖書ではこれを地獄と言っていますが、入らなければなりません。

するとどういうことになるでしょうか。すると、人間はみな神に見捨てられなければならないということになります。なぜなら、聖書には、「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)とあるからです。そして、「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)とあるからです。私たちはだれ一人として完全な者はおらず、したがって、生まれながらのままであればだれ一人として神のみもとに行くことはできないからです。しかし、神は私たちが滅びることがないように救い主をこの世に送り、罪の処理をしてくださいました。それがキリストの十字架上での死だったのです。主が十字架に付けられたのはご自分の罪のためではなく、私たちの罪のためであり、私たちの罪を負い、私たちが受けるべき罪の代価を身代わりとなって受けるためだったのです。それは私たちが神に見捨てられることがないように、代わりに神に見捨てられるためだったのです。

かつて、ある裁判官が一人の重罪人を裁いたことがありました。犯罪人が法廷に立って裁判官を見ると、それは自分の双子の兄でした。裁判官も、自分の弟が犯人であることを知りました。犯人は心から赦されることを兄に懇願しましたが、裁判官である兄は厳しく罪を裁き、すぐに彼を投獄するように命令したのです。そして翌朝には、彼は死刑にされることになりました。一方、その犯人は獄中で、翌日の死のことを考えて悶々とした眠れぬ一夜を明かしました。ところが、夜中に急に裁判官が官服のままで、獄にやって来て、その犯人である弟に驚くべきことを告げたのです。  「私は裁判官である以上、法律に違反することはできないので、お前を刑に処した。今、私がここに来たのは、兄としてお前を救うためだ。急いで、お前の服と私の官服とを取り替えて、ここから出て行きなさい。門にいる看守はお前を出してくれるだろう。お前は、遠方に行って、今後、心を入れ替えて新しい生活をしなさい。二度とこのような罪を犯してはいけない。さあ、早く行きなさい!」そして、その裁判官は翌朝、弟の身代わりになって死刑を執行されたのです。二日の後、このことが全市に知れ渡り、人々の大きな感動を呼んだということです。

 

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ5:6-8)。

「神は、罪を知らない方を、私たちの身代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)

「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。 どうか、この神に栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ガラテヤ1:4-5)

Ⅲ.絶対に見捨てられない私たち

ということは、どのようなことが言えるでしょうか。イエスがあなたの身代わりとなって神に見捨てられたので、あなたは絶対に見捨てられることはないということです。主が私たちの代わりに罪とされたのは、私たちが罪の刑罰を受けないためであり、私たちが神から見捨てられないためでした。私たちが罪から解放されて、永遠の死から救われるためでした。ペテロはそのことを次のように言っています。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

したがって、主イエスを信じて救われている者は、もはや罪に定められることはありません。つまり、絶対に神に見捨てられることはないのです。パウロは、この真理を次のように宣言しています。少し長いですが引用したいと思います。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:31-39)

主はご自身を信じる者のいと近くにいて、いつも励まし、慰め、救ってくださいます。目に見えないということは、主がおられないということではありません。神がともにおられるかどうかということは、人間の感情に依存するものではないのです。主はいつもともにおられます。それは主があなたの代わりに、神に見捨てられたものとなってくださったからです。それゆえに、この方を信じる者は、決して神に見捨てられることはないのです。

私たちは人生において、「どうして」と叫ばずにはいられないことがあります。どうしてこのような苦しみに会わなければならないのか、どうしてこのような悲しみ、困難、患難を受けなければならないのかという時があります。神に見捨てられたのではないかと思うような時があるのです。しかし、主が私たちのために、すでにその「どうして」という問いを発してくださり、その解答を与えてくださいました。あらゆる「どうして」という解答が与えられているのです。それゆえに、どのようなことがあっても、神はあなたを見捨てることはありません。

 

旧約聖書に登場するヨブは、まさにこの「どうして」を経験した人でした。彼は東の人々の中で一番の富豪でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。家族も愛し自分の息子たちや娘たちのために祝宴を開き、彼らといっしょに飲み食いをするのを常にしていました。

しかし、そんな彼にある日悲劇が襲います。シェバ人が襲って来て彼の家畜を奪うと、若い者たちを剣の刃で打ち殺してしまいました。そればかりではありません。ヨブがこの知らせを受けている時別のしもべがやって来て、彼の息子や娘たちが一緒に食事をしていたとき荒野の方から大型の台風がやって来たかと思うと彼らがいた建物が崩壊し、全員が死んでしまったというのです。その知らせを聞いた彼は上着を引き裂いて、頭をそり、地に触れ費して主を礼拝しました。ヨブはそれでも罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。

けれども、ヨブに襲った試練はそれだけではありませんでした。何と彼のからだの全体に、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で打たれたのです。唾も自由に飲み込めなくなりました。人々は彼につばを吐きかけ、友人たちまでも彼を冷やかしました。ヨブは、顔が赤くなるまで神様に向かい涙を流しながら、主が私を打たれたことによって私の望みを木のように抜き去られたのだと、自分の苦しみを告白せざるを得ませんでした。

それでもヨブは、罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。むしろ自分の無知、自分の不足さを悟り、悔い改めたのです。そして、彼はこう祈りました。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。」(ヨブ42:5)その結果どうなったでしょうか。神はヨブの所有物をすべて二倍にされました(42:10)。主はヨブの前の半生よりもあとの半生をもって祝福されました(42:12)。

あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることができるように、試練とともに脱出の道を備えてくださいます。その脱出の道こそ、イエスの十字架でした。イエスがあなたに代わって死んでくださったので、あなたは救われたのです。あなたがこのイエスを救い主と信じるなら、あなたは神に見捨てられることはありません。人生の暗やみの中で、全く孤独を感じるときでも、あなたがいやされる唯一の道は、キリストのように叫ぶことです。その叫びは、暗黒を貫いて必ず神にまで届きます。暗黒はいつまでも続くものではありません。決して長く続くものではないのです。それは、栄光の光への入口であるということを覚えていただきたいと思います。キリストがその暗やみを取り除いてくださったからです。

最後に、アメリカの有名な大衆伝道者D.L.ムーディー(1837-1899)の実話をもってこの話を結びたいと思います。1849年にゴールドラッシュがカリフォルニアに起こり、ある人が東部のニュー・イングランドを旅立って、西へ西へと黄金に引かれて行きました。妻と息子を残して。そこで彼は、金を掘り当てたので、家族呼び寄せることにしました。妻は大いに喜んで、ニューヨークから息子を連れて、サンフランシスコ行きの客船に乗ったのです。沖に出て間もなく、「火事だ。火事だ」とだれかが叫ぶ声がしました。船には火薬庫があり、船長はもし火がそこについたらひとたまりもなく、沈んでしまうことを知っていました。救命ボートがおろされました。小さかったので、少人数しか乗れませんでした。すぐに一杯になりました。そして最後のボートがおろされました。この母親は是非乗せてほしいと、懇願しました。しかし、船長は「もうひとりも乗せられない。乗せたらボートが沈む」と言って、どうしても許しませんでした。それで母親はさらに熱心に頼みました。船員は、「それではひとりだけ乗せてもよい」と許しました。すると母親は息子を押し退けて、船に飛び乗ったでしょうか。そうではありませんでした。母親は息子を抱きしめて、ボートに乗せると、最後の別れのことばをかけました。

「おまえ、お父さんに会ったら、こう言っておくれ。私がおまえの代わりに死んだのよ」と。

主イエスは、私たちに代わって、神に見捨てられ、死んでくださいました。だから私たちは決して見捨てられることはないのです。罪なきお方が、私たちの代わりに罪とされたことによって、キリストは神に見捨てられましたが、そのことによって、私たちはもはや、どのようなことがあっても見捨てられることはなくなったのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか、というこのイエス様の叫びは、この事実を私たちに教えていたのです。あなたもこの主イエスの叫びにご自分の身を置いて、この永遠の約束を受け取っていただきたいと思います。

ヨシュア記1章

きょうからヨシュア記に入ります。きょうは、ヨシュア記1章から学びます。まず1節から9節までをご覧ください。

 

 Ⅰ.モーセの従者、ヌンの子ヨシュア(1-9

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

私たちは、これまでモーセ五書から学んできました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、そして申命記です。これらはみな、モーセによって書かれたものであり、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。そのモーセが死に、今新しくイスラエルの指導者が立てられます。それがヨシュアです。ここには、「モーセの従者、ヌンの子ヨシュア」とあります。彼は偉大な先達者モーセの後継者であるということです。すぐれた人物の後に続く、いうならば「二番煎じ」です。ここには、「主のしもべモーセは死んだ」ということが繰り返して書かれてあります。どういうことでしょうか。先達者が偉大な人物であればあるほどその後を継ぐ者のプレッシャーは大きいものです。しかし、そのモーセは死にました。ヨシュアにはモーセとは違う、彼自身に与えられた使命を実現してくことが求められていたのです。

 

ではその使命とは何でしょうか。それはイスラエルの民を約束の地に導き入れることでした。モーセは偉大な指導者でしたが、彼らを約束の地に導き入れることはできませんでした。ヨシュアにはその使命が与えられていたのです。そしてそれはまた、律法ではなく福音によって約束を受けることの象徴でもありました。モーセは律法の代表者でしたが、そのモーセは死んだのです。モーセはイスラエルの民を約束の地に導くことができませんでした。約束の地に導くことができたのはヨシュアです。ヨシュアとはギリシャ語で「イエス」です。そうです、約束の地に導くのは律法ではなくイエスご自身であり、イエスを通してなされた神の御業を信じる信仰によってなのです。

 

そのヨシュアに対して主が語られたことは、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということでした。

 

ここで重要なことは、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け」ということばです。また、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」ということばです。この「与えようとしている」とか「与えている」という言葉は、完了形になっています。つまり、これは確かに未来の事柄ではありますが、神にとっては確実に与えられているということです。もう既に完了しているのです。信仰の内に既にそのことが完了していることを表わすために、未来のことであっても完了形で書かれているのです。神の約束が与えられたなら、それはもう実現しているも同然のことなのです。

 

それと同時に、2節には、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということが示されています。つまり、神の約束が与えられたからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にか成就されるということではないのです。むしろその約束の実現の前には困難と試練が横たわっており、それを乗り越える信仰が求められるのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。これは霊的法則なのです。ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前にふさがるそのヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。

 

5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。ここには、神がともにいるという約束が語られています。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。

 

それゆえ、主はこう言われるのです。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(6-9

 

ここで主はヨシュアに、「強くあれ。雄々しくあれ。」と同じことを三度繰り返しています。なぜでしょうか。ある聖書学者はこう分析しています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。もちろん、それも一理あると思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知でしたので、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今、自分一人で戦わなければならない時に、頼るべきものは主なる神だけです。神に聞き従いつつ、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束の言葉はどれほど力強かったことかと思います。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。

 

これは私たちの信仰の生涯も同じです。それは戦いの連続であり、激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、主はそのような時にも共にいて、勝利を取ってくださいます。それが私たちの信仰なのです。主イエスの十字架は、私たちの罪の赦しのためです。しかしそれ以上に、十字架は悪魔に対する勝利の力であり、悪魔の罠をも勝利に転換させる大いなる力なのです。この十字架の勝利の信仰のゆえに、どんな戦いにも勝利することができるのです。一時的には敗北と見えるようなことがあったとしても、私たちにはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、十字架においてすでに主が勝利をとっておられるからであり、その勝利の陣営に私たちはいるからです。

 

私たちクリスチャンは信仰をいただいたからといって、戦いが全くなくなるというわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことは、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。

 

アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」

そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に与えられている勝利をもって、勝利の中を戦い続けていくものなのです。それゆえに、その勝利の信仰をいただいて、大胆に信仰と勇気をもって人生を歩んでいきたいものです。

 

Ⅱ.全員で戦う(10-15

 

 次に10節から15節までをご覧ください。

「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 

ヨシュアは民のつかさたちに、「糧食の準備をするように」と命じました。それはもう三日のうちに、ヨルダン川を渡って、神が所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしていたからです。

これは、ある意味で、それ以前彼らがイスラエルの荒野で天からのマナとうずらを食べたという出来事と対照的に語られています。以前は、一方的な神の恩寵によって、上から与えられる食べ物によって彼らは生きてきました。しかし、これからは自分の手によって食物を得るようにと命じられているのです。つまり、父なる神に対するある種の甘えや、依存心から脱却して、自分自身の手によって、食べ物を獲得していきないというのです。

 

いったいどのように糧食の準備をしたらいいのでしょうか。12節から15節までのところには、その一つについて語られています。すなわち、全員で戦うということです。ここでヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、戦いに参加するようにと命じています。覚えていますか、ヨルダン川の東岸、エモリ人が住んでいたところは、すでにモーセによって占領していました。そこに、ルベン族、ガド族、そしてマナセの半部族が、ここを所有地にしたいと願い出ました。モーセは初め怒りましたが、彼らのうち成年男子が、イスラエルとともにヨルダン川を渡り、ともに戦うと申し出たので、モーセはそれを許し、彼らにその地を相続させたのです。それで今、彼らが約束したように、彼らに民の先頭に立って戦うようにと命じられているのです。

 

これらの諸部族は、すでにヨルダン川の東側を所有し定住していたので、わざわざヨルダン川を渡って戦う必要はありませんでした。確かにかつて東側を所有するにあたり勢い余ってそのように宣言をしたかもしれませんが、今では戦いに参加するという意欲は失われていたのでしょう。そんな彼らに対して、彼らも立ち上がって戦いに参加するようにと命じられているのです。なぜなら、一つでも欠けることがあれば戦いに勝つことができないからです。彼らが一つとなって戦うところに意味があります。そこに神の力が発揮されるからです。その中には、全面的に参加する者もいれば、部分的参加する者もいたでしょう。また最前線で戦う者もいれば、後方で支援する者もいたに違いありません。しかし、それがどのような形であっても、各々が皆同じように戦略的には尊い存在なのです。そうした仲間が一つとなって戦うことによって、神の力が溢れるのです。

 

Ⅲ.ただ強く、雄々しく(16-18

 

次に16節から18節までをご覧ください。

「彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。」あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 

ここでは、イスラエルの民がヨシュアにあることを求めています。それは、自分たちはモーセに従ったようにヨシュアにも従うので、ただ強く、雄々しくあってほしいということです。これは指導者に対する条件です。つまり、敵との戦いのために、指導者は強く、雄々しくなければならないということです。指導者にとって誠実であることは重要なことですが、それにもまさって強さ、雄々しさが必要なのです。やさしく親切で、思いやりがあることは大切ですが、それにもまさって強く、雄々しくあることが求められているのです。特に戦いにあっては、その指導者の強さが勝敗を決定するといっても過言ではありません。

 

いったいこのヨシュアの強さはどこから来たのでしょうか。第一にそれは、天性のものではなく天来のものであり、肉によるものではなく霊によるものでした。ヨシュアが強く雄々しかったのは、神の霊が彼に注がれ、神の霊が彼の内側に宿っていたからです。

 

ヨシュアが強かった第二の理由は、彼は明確な召命観を持っていたことです。私はよく牧師に必要なのは何ですかと尋ねられることがありますが、それに対して迷うことなく、「神からの召命です」と答えます。神が自分を選び、この務めに任じてくださった。自分の願いからではなく、神が目的をもって自分を用いようと召してくださったという召命があれば、どんな問題も乗り越えることができるからです。ヨシュアはこの召命を持っていたので、強く雄々しくあることができました。自分がこの務めに資格があるかないかとか、適任であるかどうかということは関係ありません。それよりも、自分がその目的のために召されているのかどうか、神がそのことを自分にせよと命じているのかどうかが重要なのです。それは牧師に限ったことではありません。どんな小さな働きのように見えるものであっても、主の働きに求められているのは、主からの召命意識なのです。たとえ自分に力がなくとも、弱さや欠点を持っていようとも、私たちは強くなることができるのです。

 

ヨシュアが強くあることができた第三の理由は、彼が神の約束の言葉に信頼していたからです。彼には神の約束の言葉が与えられていたので、いかなることがあっても失望しませんでした。主なる神は約束されたことを守られる方であると信じていたからです。それゆえに神はヨシュアに、7,8節で、律法を守り行うこと、これを離れて右にも左にもそれてはならないということ、この律法の書を口から離さず、昼も夜も口ずさまなければならない、と命じられたのです。そうです、ヨシュアの強さはこの神のことばに信頼することからくる確信だったのです。それは私たちも同じです。私たちも神のみことばに信頼し、主が約束してくださったことは必ず実現すると信じ切るなら、主の強さと確信がもたらされるのです。

 

私たちもヨシュアのように神の強さをいただくために、神の霊を宿し、神からの召命を確認しながら、神の約束に信頼するものでありたいと思います。そして、ヨシュアが主の力によってイスラエルを約束の地へと導いていったように、信仰によって前進していきたいと思います。

申命記34章

きょうは、申命記34章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの死(1-8

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。」

 

神はモーセに、「モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登」らせ、約束の地全体を見ることができるようにされました。ネボ山の北方には、ギルガデからダンに至るまで、北西側にはナフタリの全土とマナセの地、西には西の海まで続くユダの全土、そして南はネゲブと低地、すなわちなつめやしの町エリコの谷をツォアルまで眺めることができるようにされました。この地は、かつて神がアブラハムとイサクとヤコブに、「あなたの子孫に与える」と約束された地です。モーセはそれを見ることができました。けれども、その地に入って行くことはできませんでした。

 

こうしてモーセは、モアブの地のその所で死にました。5節には、モーセが「神のしもべ」であったことが強調されています。これは、彼の死がその使命を完全に果たしたことを表わしています。主は彼をベテ・ペオル近くのモアブの地の谷に葬られましたが、その墓を知った者はいません。彼の生涯は人々に称賛されるためではなく、ただ神の栄光が現されるためのものであったことがわかります。彼の生涯は120歳でしたが、それは神のしもべとして、神に与えられた使命を全うする生涯だったのです。

 

私たちはどうでしょうか。私たちの一生は、神のしもべとして、誠実に使命を全うするものでしょうか。モーセのように、神がくださった使命を成し遂げるために最善を尽くしているでしょうか。救世軍の創始者ウイリアム・ブースの妻キャサリン・ブースは、自分の死を前にしてこう言ったと言われています。

「水が押し寄せて来て、私も押されて行く。しかし私は水面に浮かんでいる。死ぬというよりも、もっとよい生涯が始まろうとしている。ここで見ると、死というのはなんと美しく貴いものなのだろう!」

これは、本当に主のしもべとしてその使命に生きた人のことばではないかと思います。この地上にあっては、どれほどの困難があったかと思いますが、それでも自分に与えられた使命を全うした人にとって、死ほど美しいと思えるものはないのです。それとは逆に、この地上のものに執着し、イエス・キリストの永遠の王国とはあまりにも大きな隔たりのある人にとっては、悲惨なものでしかありません。皆さんの生涯はどちらですか。神のしもべとして、神に与えられた使命のために最後まで走り続けようではありませんか。

 

Ⅱ.ヨシュアへの継承(9-12

 

最後に、9節から12節までをご覧ください。

「ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。燃える芝の中で、主がモーセに現われました。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

 

モーセは死ぬ前に、ヨシュアに按手をし、イスラエルの新しい指導者として立てました。神はヨシュアがその使命を全うできるように、知恵の霊で満たされました。神は彼に使命を与えられ、その任務を全うできるように知恵と能力を与えてくださったのです。その結果、イスラエルの民は、神がモーセを通して命じた通り、ヨシュアに聞き従ったのです。

 

このことは本当に大きな慰めです。私たちが自分自身を見るとき、どうやっても神の民を導いていく知恵や能力がないことに気付きますが、主はそのような者がその使命を担うことができるように知恵と能力を与えておられるのです。問題は、私たちがその現実を信じているかどうかであり、この主の恵みに自らをゆだねているかどうかです。自分を見るのではなく、自分に知恵と力を与えてくださる神を見ることです。

 

10節以降は、モーセを称賛する言葉で締めくくられています。

「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。」

モーセは神が立てた預言者の中で、最も偉大な預言者であり、神と最も親密に交わった者です。「それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。」

それは、彼がパロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるまうためでした。つまり、彼の偉大な働きの背後には、偉大な神との親密な交わりがあったのです。そのような神の力と助けによってこそ、彼は偉大な預言者として、その使命を全うすることができたのです。

 

私たちはどうでしょうか。自分には何の力もないと言って嘆いてはいないでしょうか。そうです、私たちには何の力もありません。けれども、私たちとともにおられる方は、この世にいるあの者よりも強いのです。大切なのは、自分にどれだけの力があるかということではなく、この力ある神とどれだけ親密に交わっているかということです。主との交わりを通して、私たちも神のしもべとして立ち上がり、神の働きに遣わされていきたいものです。

 

ところで、モーセはこの時約束の地に入ることはできませんでしたが、この時から約1,500年後に約束の地に入っていることがわかります。マルコの福音書92節から8節を見ると、イエス様がヘルモン山に登られた時、そこでお姿が変わったことが記録されてあります。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでした。その時です、モーセとエリヤが現われて、イエスと何やら語り合っていたのです。(マルコ9:4)それは、本来主がどのような方であるのかを示すためであり、その主がどのような道を歩まれるのかを確認するためでした。モーセは律法の代表であり、エリヤは預言者の代表です。すなわち、聖書が示すキリストの道は十字架であることを、この時確認され、その道へと進んでいかれたわけです。

 

しかし、それと同時に、それは世の終わりに起こる出来事の預言でもあったと言えます。つまり、モーセはその生涯において約束の地に入ることができませんでしたが、キリストがこの地上に来られたときよみがえって主のみもとに引き上げられました。エリヤは死を見ることなく天に上げられましたが、それはキリストが来られる時に死を見ることなく主のもとに引き上げられる人たちの型であったということです。この世の終わりにキリストが再臨されるそのとき、主にあって死んだ人がまずよみがえって主のもとに引き上げられ、次に生き残っている私たちが変えられて、空中に引き上げられ、そこで主と会うのです(Ⅰテサロニケ4:13-18)。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになります。

 

私たちもモーセのように約束のものを見ながら生きるとき、確かにこの地上ではそれを受けることはできなくとも、やがて主イエスが再臨されるとき空中に引き上げられ、いつまでもイエスとともにいるようになります。死んだ人も生きている人も・・・。ですから、モーセがネボ山から約束の地を見たように、私たちも信仰の目をもって、しっかりと約束の地を見ながら歩まなければなりません。私たちもやがて神が約束してくださった地、天の御国に入るようになるからです。

ヤコブ4章11~17節 「主のみこころなら」

きょうは、「主のみこころなら」というタイトルでお話したいと思います。ヤコブは2章で、あなたがたに信仰があると言っても行いがなかったら、そのような信仰が人を救うことができるでしょうか、とチャレンジしました。そして3章ではその具体的な適用としてことばの問題を取り上げました。そして前回のところでは、心の高ぶりについて警告しました。いったい何が無限印であなた方の中に戦いや争いがあるのでしょうか。それは、あなたがたの中に働く欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと人殺しをするのです。自分の思うようにならないと我慢することができません。つまり、神のみこころよりも、自分の思いのままに生きていきたいのです。そういう彼らにヤコブは、「神の御前にへりくださりなさい」と勧めたのであります。そして、その流れの中で、兄弟の悪口を言うことと、神のみこころに生きることが語られています。

 

Ⅰ.互いに悪口を言い合わない(11-12)

 

まず11節と12節をご覧ください。

「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

前回のところで「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(4:10)と勧めたヤコブは、ここで悪口の問題を取り上げています。いったいなぜ悪口を言ってはいけないのでしょうか。なぜなら、自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばくことになるからです。どういうことですか?この律法とは、イエスが言われた律法のことです。イエスは、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られます。」(マタイ7:1-2)と言われました。私たちが人をさばくその量り(ものさし)で、私たちも神からさばかれることになります。というのは、私たちは人をさばいた後で、自分も同じことをしてしまう愚かな者だからです。パウロはローマ人への手紙の中でこう言っています。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。」(2:1)

ですから、私たちは他人をさばくことはできません。にもかかわらず、人をさばき、他人の悪口を言うようなことがあるとしたら、それは律法をさばく者となり、その律法によってさばきを免れないのは当然のことです。私たちは律法を守るために召されたのであって、律法をさばくために召されたのではないのです。

 

それではだれがさばかれるのでしょうか。それは神ご自身であられます。「律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。」

兄弟の悪口を言うことは、ある意味で正しいことかもしれません。なぜなら、兄弟の悪口を言うということはその兄弟に非があるからで、そのように言われても仕方ないからです。けれども、このような非に対して、私たちはさばく権利を持っていないのです。なぜなら、さばきを行うのは、神だけであって、私たちにはないからです。それは兄弟に対してだけでなく、自分に対しても同じです。パウロは、こう言っています。

「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。」(Ⅰコリント4:3-4)

つまりパウロはここで、他人をも、自分をもさばかないと言っているのです。なぜなら、自分をさばかれるのは主ご自身であられるからです。たとえ自分には罪がないと言っても無罪とされることはありません。神の前に立たされるなら、だれが自分は正しい者だと主張することができるでしょうか。そのような者を、神は救ってくださいました。このような者が他人をさばくことができるでしょうか。さばかれるのは神だけであって、私たちは神に取って代わることはできません。もしそのようなことを平気で行っているとしたら、それは越権行為であり、そうした行為に対する神のさばきが下るのは当然のことなのです。つまり兄弟の悪口を言うことの本質的な問題は、知らず知らずのうちに自分が神になっていること、それほど自分がおごり高ぶっていることなのです。ヤコブはそのことをここでこう言っています。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

 

ですから、兄弟をさばくことはやめましょう。互いに悪口を言い合ってはいけません。それは神のみこころではないからです。神のみこころは何でしょうか。神のみこころは互いに愛し合うことです。愛は多くの罪をおおうからです。(Ⅰペテロ4:7)もし兄弟の悪口を言うようなことがあるとしたら、それはその人の中にある誇りや高ぶりがあるからであって、自分の行いをよく調べてみれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りであって、ほかの人に対して誇れることではないことに気が付くことでしょう。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」(ガラテヤ6:3)

 

Ⅱ.主のみこころならば(13-15)

 

第二のことは、主のみこころに生きるということです。13節から15節までをご覧ください。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」

 

さばきを神にゆだねず、自分でさばくという態度は、自分の計画を立てるときにも現われます。

「聞きなさい。『きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。』と言う人たち。

ユダヤ人は古くから世界の大貿易商人でした。ここには、世界地図を広げながら、新しい商売の拡張を計画している姿が生き生きと描かれています。計画すること自体は問題ではありません。問題はその商売への自信だけでなく、自分の生き方や人生の決定まで自分でできると過信していることです。日本語には訳されていませんが、13節の主語は「私」です。きょうか、あす、私たちはこれこれの町に行き、これこれをしようと、全部自分で時を定め、場所を定め、期間を定め、やるべきことを定めています。自分でいろいろなことを計画して、自分で成し遂げようとします。もしかしたらそれができるかもしれません。しかし、「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。」(箴言19:21)とあるように、主のみこころだけが成るのです。

 

ヤコブは、自分であれこれと計画を立て、自分でそれを達成しようとしている人たちに向かって、次のように言っています。14節です。

「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」

 

あなたがたは、あすことはわからないのです。人間は一寸先もどうなるかわからないちっぽけな存在にすぎません。きのうまであんなに元気だったのに急に病気になってしまったり、ちょっとしたことで思い悩み夜も眠れないこともあります。こんなはずじゃなかったのにと、自己憐憫に陥ってしまうこともあります。避けられない災害によって生活が一変してしまうこともあります。将来を保証されていた人が、ちょっとしたことで人生を棒に振ってしまったということもあります。人生は複雑で、不確実なのです。この先何が起こるのかはだれにもわかりません。ここではそれが霧にたとえられています。しばらくの間現われたかと思ったら、すぐに消えてしまいます。ヨブはそんな人間の姿をこう言いました。

「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。」(ヨブ14:1-2)

ヨブはここで人間の一生を花と影にたとえています。花のように咲いたかと思ったらすぐに切り取られ、影のようにできたかと思ったらすぐに消えてしまいます。それはほんとうにはかなく、むなしいものなのです。そんな人間が自分を誇ってみたところでいったい何になるというのでしょうか。

 

ですから、ヤコブはこう勧めるのです。15節です。ご一緒に読みましょう。

「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

私たちが何か計画をたてる時、決して見逃してはならないとは、「~ならば」ということです。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ということです。計画を立てることは決して傲慢なことではありません。傲慢なのは、明日起こる全てのことに関して主権を握っているのは自分であるかのように思い込むことです。私たちが皆知っているように、誰一人としてそのような主権を持っている者はいません。私たちは、あすのことはわからないのです。ですから、主のみこころならば生きていて、あのことをし、このことをしようというのが正しい生き方なのです。「主のみこころなら」というのは、「すべてのことに主を認める」ということです。主の許しがあってこそ事がなされ、成功もできるということを認め、神のみこころは何であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えることなのです。

 

パウロは、エペソで伝道していた時、エペソの人々が、もっと長くとどまるようにと頼みましたが、それを聞き入れないで、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってきます。」(使徒18:21)と言って別れを告げ、エペソから船出しました。

また、コリントの教会16章7節でも、「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。」(Ⅰコリント16:7)と言いました。

「主のみこころならば」、「主がお許しくださるならば」という態度は、私たちの立てる全ての計画において持つべきものです。私たちの立てる全ての計画は、主の御手にゆだねなければなりません。主もまた、私たちの人生に計画をお持ちなのです。エレミヤ書29章11節にはこう書かれています。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

また、イザヤ書55章8節と9節にはこうあります。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

 

あなたは、自分自身のことや将来についてどのように考えておられるでしょうか?実は、私たちよりも神の方がもっと完全な計画をもっておられるのです。私たちに対する神の計らいは計り知れません。自分の計画通りに事が進まず、「神様なぜですか?」と問い、いかに自分の立てた計画が完璧だったのかを思うとき、どうぞ覚えていてください。神の計画はあなたの計画よりもはるかに高いものだということを。神の私たちに対する計画はわざわいをもたらすものではなく、将来と希望を与えるものであるということを。もし主がその計画を祝福しておられないとしたら、それは主があなたを覚えていないからではなく、あるいは、あなたを愛しておられないからでもなく、それはあなたの人生における主の完全なご計画のうちにあるものではなかったということなのです。あなたの人生における主のみこころとご計画は実に完全なものなのです。

 

私たちが計画を立てることは決して間違ったことではありません。しかし、その計画の中に「もしみこころならば」を入れてください。「主のみこころならば、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と、みこころを求めて生きる人こそ、本当に神の御前でへりくだっている神のしもべなのです。

 

Ⅲ.むなしい誇りを捨てて(16-17)

 

第三のことは、神のみこころに生きるために、むなしい誇りを捨てましょう、ということです。16節と17節をご覧ください。

「ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」

 

結局、自分であれこれと計画を立て、自分で事を成し遂げようとしたり、兄弟の悪口をいうことのすべては、高ぶっていることに原因があります。むなしい誇りをもって高ぶっているので、さばきを主に任せないで、自分でさばこうとするのです。また、自分の計画を神にゆだねないで、自分で行おうとするのです。そこに主のみこころがあるのにそれを無視して、自分で果たそうとすること、それが高ぶりです。「むなしい誇り」は、放浪性のあるやぶ医者という語源から派生したことばだそうです。直っていないのに直ったと言い、やりもしなかったことを誇るのです。

 

こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。私たちは、「これはしなければならない」と思いながらも、行っていないことが何と多いことでしょう。それは罪です。罪とはしてはならないことをすることだけでなく、しなければならないことをしないこともそうなのです。そういう意味では、私たちは何と不完全なものであるかをまざまざと見せつけられます。それなのに、いかにも自分はやっているかのように錯覚したり、自分にはできるといったむなしい誇りを持つことがどんなに高ぶった愚かなことであるかわかるでしょう。私たちに必要なのはそんなむなしい誇りを捨てて、悔い改めて、神のみこころに生きることなのです。

 

数人の植物学者たちが、アルプスで標本にする花を探していました。すると絶壁のはるか下の谷底付近に、非常に珍しい花が見付かりました。花は、がけの途中に突き出した小さな岩の上に咲いていました。そこは命綱をしないと下って行けない所でした。どうしたものかと思案していたとき、ふと振り返ると、少し離れた所に羊飼いの少年がいることに気付きました。「そうだ、あの少年にお願いしてみよう。彼なら身軽だし、こういうことには慣れているだろう。」そして少年を呼び寄せると、ピカピカの新しい硬貨を何枚か取り出して、命綱を付けて下に下りて行き、あの花を取ってきてくれたなら、この硬貨をあげようと言いました。少年は深い谷底を見下ろし、差し出された硬貨を見つめて迷いました。硬貨は欲しいが、絶壁は恐ろしい。しかも命綱を握るのは、この見知らぬ人々なのだからなおさらのこと・・。しかし、突然何を思い付いたのか、少年は走り出して山の家に駆け込みました。そしてしばらくすると、大きくてがっしりとした体格の、見るからに親切そうな人といっしょに現われました。それはこの少年の父親でした。少年はがけの縁にいた学者たちのところに来て、こう言いました。「谷底に行って取って来てもいいよ。僕のお父さんが命綱を持っていてくれるから。」

 

主が命綱を握っていてくださるなら、いつでも、どこにでも下って行くことができます。主がともにおられるなら、何をしても大丈夫なのです。問題は何をするかではなく、だれとともにするか、だれが命綱を握っておられるかということです。主のみこころなら、それがどんなに困難なことでも、主が成し遂げてくださいます。主のみこころに生きることこそ、祝福に満ちた神の御手に握られた命綱なのです。

 

詩篇の作者はこう歌いました。「私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。」(詩104:34)  私の心の思いが神のみこころにかなうために、この詩篇の記者は、「私自身は、主を喜びましょう。」と言いました。私の思いや計画に神を引っ張り込むのではなく、私たちの思いを神様のみこころに合わせるのです。そして、あらゆる恵み、幸いにも勝って神ご自身を喜ぶことが、神のみこころに生きる道なのです。私たちもまたそのような信仰に歩んでいこうではありませんか!

申命記33章

きょうは、申命記33章から学びます。

 

 Ⅰ.モーセの祝福(1-5

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その後、主は彼にネボ山に登るようにと命じられました。そこから約束の地カナンを見るためです。彼は約束の地を見ることはできましたが、そこに入ることはできませんでした。イスラエルの民をそこに導くのは彼の後継者ヨシュアでした。モーセではなくヨシュア、すなわち、律法ではなくキリストを信じる信仰によって入ることができるのです。それでモーセは、その死を前にして、イスラエル人を祝福しました。

 

1節には、「これは神の人モーセが」とありますが、これはモーセ五書において、初めて使われた用語です。詩篇90篇にも、「神の人モーセの祈り」とありますが、モーセ五書においては初めてです。それは、モーセが死ぬ前にイスラエルの子孫を祝福したというこの出来事が、彼の死後、モーセではない他の人によって書かれたであろうことを表しています。それは2節で「彼は言った。」という言葉からもわかります。

 

モーセの祝福の序論にあたる2節には、主なる神が、かつてシナイ山で現われたことから始まっています。その時主は、稲妻と角笛の音と黒雲とで、彼らに現れてくださいました。

3節には、イスラエルの民を愛し、その民に神のみことばを語られる主の姿が描かれています。彼らは主の足元に集められ、主が語られる御告げを聞きました。

5節には、主なる神がエシュルン、すなわち、イスラエルの王となられたとあります。これはイスラエルにとって最も大きな祝福です。主は王となって彼らを治めてくださいます。神が治めておられる国は完全な国であり、そこに住む民に平和と喜びがもたらされます。イスラエルはその国民となったのです。しかし、それは同時に、彼らがこの王に従順であることが求められます。あなたは、この王の支配を喜び、敬い、崇めておられるでしょうか。

16世紀のドミニカ修道会に所属していたブラザー・ローレンスはこう言いました。「食事をする時でも、心を神に向けなさい。少しずつでも神を覚えることが、神の前には十分美しいのですあなたは神に向かって叫ぶ必要はない。私たちが思っているよりも、神は近くにおられる。」

主イエスが言われたように、まさに、神の国はあなたがたのただ中にあるのです。私たちは神が支配しておられる国に存在し、生きているのです。

 

Ⅱ.12部族への祝福(6-25

 

次に6節から25節までをご覧ください。ここから、イスラエル12部族への祝福のことばが語れていきます。まず6節をご覧ください。

「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」

まず長男ルベンに対する祝福のことばです。ルベン族は、死海の東側あたりに割り当て地を持ちますが、その人口が少なくなると言われています。それはかつてルベンが父のそばめビルハと関係を持ち、父の寝床を汚したことに起因していると思われます。(創世記35:22,49:4)それは、実際の歴史の中でも、そのとおりになりました。しかし、ここに生きて、死なないように、とあるように、なくなることはありませんでした。

 

次に、7節をご覧ください。ユダについてはこのように言われています。

「ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

ユダに関する祝福は、神が戦いを勝利に導き、彼を連れ返してくださるということです。このユダ族からダビデ王が出ました。彼は戦って勝利したので、イスラエルは国として統一され、強い国となりました。

 

8節から11節までには、レビ族について語られています。

「レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

トンミムとウリムとは、大祭司が胸当てのところに入れておく、主のみこころを知るための道具です。レビ人から祭司が出ました。そしてモーセ自身もレビ人です。モーセは、メリバにて、イスラエルのために岩を打って水を出しました。イスラエルが金の子牛をおがんで、乱れていたときに、彼らを殺したのは、レビ人でした。レビ人は、たとえ肉親であっても、主の怒りを静めるために、主に忠誠を尽くしたのです。レビ族の役割は、神との契約と神のみことばを守るように教えることで、神の栄光を現すことでした。その手のわざに恵みを施してくださいと、モーセは祈っています。

 

次に、ベニヤミンに対する祝福のことばです。12節をご覧ください。

「ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

ベニヤミンに対する祝福は、「主に愛されている者」として、戦いの中にあっても安らかに主のそばに住まい、あたかも父が息子をかばうように、神の肩の間に、安全に住むことができるようにということでした。

 

次に、13節から17節までのところに、ヨセフに対する祝福のことばが続きます。

「ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる」

ヨセフに対する祝福では、主の祝福が、彼の地にあるようにと、農耕の祝福が語られています。

このヨセフから、エフライムとマナセの二部族が出てきましたが、彼らは、ベニヤミン族の北部にその土地の割り当てが与えられました。その肥沃な土地のゆえに、モーセは主の祝福を「賜物」として描いています。それは「最上のもの」です。ここに7回も繰り返されています。モーセは、神が最も良い産物で、ヨセフを満たしてくださるようにと祈っているのです。また、ヨセフが、その兄弟たちから選び出された者として、頭の頂の上にあるようにと祈っています。

17節の、「牛の初子には威厳があり」とか、「その角は野牛の角」というのは、軍事的にも強いことを表わしています。彼らはこの威厳と角をもって国々の民をことごとく突き倒していきます。士師記に登場するのギデオンは、このマナセ部族の出身です。

 

次はゼブルン族とイッサカル族です。18節と19節をご覧ください。

「ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」

ゼブルンとイッサカルは、ヤコブとレアの間に生まれた息子たちです。ここには、このゼブルンとイッサカルへの祝福が一緒に出ています。なぜ、この二つの部族は、一つとして扱われているのでしょうか。それは、この二つの部族が内と外において、すなわち日常生活において、あらゆる面で楽しみを享受する部族であるからです。

19節の「山」とは、特定の山を指すのではなく、ささげものと礼拝をささげる場所のことを意味しています。ですから、「そこで義のいけにえをささげよう」というのは、儀式的な礼拝ではなく、霊とまことをもってささげる霊的な礼拝のことです。つまり、彼らは霊的な祝福された信仰生活を送るようになるという意味です。そのような部族には、物質的な祝福が伴います。彼らは「海の富と、砂に隠されている宝」、つまり、海を通してもたらされる貿易を通して、富がたくわえられるようになるのです。

 

次に20節と21節をご覧ください。

「ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

「ガドは雌獅子のように」攻撃的で勇敢に戦う部族です。その特徴は、「腕や頭の頂をかき裂く。」というところにあります。彼らにはヨルダン川の東側の最も良い地を相続地として与えられました。モーセが初めて手にした土地の割り当てをもらったのです。(民数記32:1-5)しかし、自分たちに相続地が割り当てられても、神の義に徹し、他の部族たちに協力して、誠実にカナンの地の征服に参加しました。

 

22節をご覧ください。ダンにいては次のように祝福されています。

「ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

ダン族は、えさに飛びつく獅子の子にたとえられています。これは将来、強い力を発揮する獅子のようになることを表わしています。ダン族には、ペリシテ人が住む今のガザ地域北部に割り当てが与えられましたが、そこだけでは不十分で、北部のほうにも行き、そこも自分たちの土地としました。「バシャン」というのは、そのことです。それは、現在のゴラン高原の地域にあたります。

 

23節をご覧ください。ナフタリについては次のように祝福されています。

「ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

ナフタリ族はガリラヤ地方の一部とその西南部を所有しました。そこは肥沃な地で、農産物がたくさんとれるところです。まさにここにあるとおり、恵みに満ち足り、主の祝福に満たされています。

 

次は、アシュルに対する祝福です。24節と25節をご覧ください。

「アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

「アシュル」という名前は、幸いなとか、祝福されたという意味です。この部族はイスラエルの中で、最も祝福された、最も幸福な部族になります。「その足を、油の中に浸すようになれ。」というのは、油を足に注ぐのではなく、油の中に足を浸すようになるということで、かなりのオリーブ油が産出されることを表わしています。また、「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり」というのは、彼らの砦が堅固なものであることを表わしています。どんな敵も彼らを打ち破ることができません。

 

Ⅲ.しあわせなイスラエル(26-29

 

最後に、26節から29節までを見て終わりたいと思います。

「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、「根絶やしにせよ。」と命じた。こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

 

先にも述べた通り、エシュルンとはイスラエルのことを指しています。モーセはここで、イスラエル全体を祝福しています。彼はイスラエルの神を賛美すると、神がどれほど偉大な方であるかを、「神はあなたを助けるために天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。」と言っています。これは、やがて主が雲に乗って再び来られ、ご自分の民を救ってくださることの預言です。このような神は他におられません。この方に並ぶ者はほかにはありません。

また、神は永遠なる方です。永遠の腕がいつも彼らの下にあります。どんなに自分がだめでも、この永遠の腕が下にあります。その永遠なる腕が彼らの下にあって彼らを敵から守ってくださるというのは、どんなに大きな慰めかと思います。

その結果イスラエルは安らかに住まい、その泉は、穀物と新しいぶどう酒の地を潤します。また天からの露も尽きることはありません。いつまでも豊かな収穫を享受することができるのです。

 

何という祝福でしょうか。そのような祝福を享受するイスラエルを、モーセは「しあわせなイスラエルよ」と言っています。だれが彼らのような祝福を受けることができるでしょう。神は彼らを助ける盾であり、助け手であられます。それは彼らが神との契約の中にあり、神の民とされているからです。そして、神の祝福の計画はイエス・キリストを通して明らかになりました。イエス・キリストを信じて神の子とされた者に、神はこのイスラエルに約束された祝福を注いでくださるのです。

 

私たちは神の子として、このしあわせを受けているということに、どれだけ深く気付いているでしょうか。私たちの下にある永遠の腕の中にすべてをゆだね、そこに深い安心感と満足をいただいて、いつも主をあがめる生活ができるように祈ります。

ヤコブ4章7~10節 「ですから、神に従いなさい」 

きょうはヤコブの手紙4章7節から10節までのみことばから、「ですから、神に従いなさい」というタイトルでお話します。

行いの伴った生きた信仰について語ったヤコブは、その具体的な例として舌を制御することについて述べました。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。これを制御することはだれにもできませんが、それは心にあることを話すのですから、そのためには、いつも心が神の平和で満たされていなければなりません。

それでは、どうして私たちの間に戦いや争いがあるのでしょうか。それは外側の問題ではなく、内側の問題です。私たちのからだの中で戦う欲望が原因であって、私たちは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをしたり、うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。

ですから、私たちは私たちの心をしっかりと見張っていなければなりません。いつも神に従い、神の平和と神の知恵に満たされていなければならないのです。

きょうは、この神に従うことについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に従いなさい(7)

 

まず7節をご覧ください。

「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」

 

「ですから」というのは、ヤコブがこれまで語ってきたことを受けてということです。これまでヤコブはどんなことを語ってきたのでしょうか。6節には、「しかし、神は」とあります。私たちはすぐに神ではなく世を愛してしまうような愚かな者であるにもかかわらず、しかし、神は、そのような者をも愛して恵みを注いでくださいます。「ですから」です。

 

ですから、そのように神の恵みによって救われたクリスチャンはどうしなければならないのでしようか。「ですから、神に従いなさい」なのです。この手紙はユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙です。ユダヤ人クリスチャンとは、もともとユダヤ人であった彼らが、神の恵みを受けてクリスチャンになった人たちのことです。ユダヤ人というのは、旧約聖書を信じていますが、その中に書かれてある約束のメシアがイエス・キリストであるとなかなか受け入れることができない人たちです。しかし、そんな彼らでも、中にはイエスを信じて救われた人たちがいました。それがユダヤ人クリスチャンです。

 

そんなユダヤ人クリスチャンにとって、神に従うことは、すべての祝福の原点でした。彼らの先祖は昔エジプトで四百年の間、奴隷として捕らえられていいました。しかし、神はモーセという人物を立てて、彼らをエジプトの地から救い出してくださいました。

しかし、彼らがカデシュ・バルネアというところまで来たとき、約束の地まではほんの目と鼻の先というところまで来たのに、「上って行け」という神のことばに従わないでその地の住人を恐れ、上って行きませんでした。その結果、彼らは40年間も荒野をさまようことになってしまったのです。そして、多くの人たちが荒野で滅び、約束の地に入ることができませんでした。20歳以上の男子では、ただヨシュアとカレブの二人しか入ることができなかったのです。

 

いったい何が問題だったのでしょうか。神に従わなかったことです。ですから、約束の地に入ろうとしていたユダヤ人に、モーセが繰り返し、繰り返し語ったことは、神に従いなさい、神を愛しなさいということだったのです。神に従うことが、その地で彼らが幸せに生きるための絶対条件であり、神が約束してくださったすべての祝福を受ける道であったのです。

 

ヤコブはここで、イエスを信じて救われたクリスチャンに対して、神に従いなさい、と命じました。神に従うことが、神の恵みを受ける道であり、この世で彼らがすべての祝福にあずかる条件なのです。イエスは、こう言われました。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

神の国とその義とを第一に求めるなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるのです。

 

しかし、残念ながら、生まれながらの人間は、神に従うことができません。生まれながらの人間は肉の性質を持っているので、神に従いたくないからです。肉の性質というのは、自分中心という性質のことです。人はみな生まれながらに自己中心であって、いつも自分を中心に考え、自分の利益を求め、自分の欲望を満足させたいという傾向があるのです。ですから、神に従うよりも自分の思いを通したいのです。しかし、神に救われた者、神の恵みを受け者は、自分に死に、神のために生きるようになりました。自分ではなく、神のために、神を愛し、神の栄光のために生きるようになったのです。

 

それでは、神のために行春とはどういうことでしょうか。神を愛するとはどういうことなのでしょうか。それは、神に従うということです。Ⅰヨハネ5章3節には、このようにこうあります。

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」

ここには、神を愛するとはどういうことなのかがはっきりと示されています。それは、神の命令を守ることです。神を愛している人は、神の命令を守ります。それは重荷とはなりません。神を愛していると言いながら、神の命令に従いたくないということはないのです。

 

また、ヨハネの福音書14章15節にはこうあります。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

これはイエスのことばです。イエスを愛する者はイエスの命令、イエスの戒めを守ります。では、その戒めとは何でしょうか。それは互いに愛し合うことです。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:24)

これがイエス様の戒めです。それなのに戦いや争いがあるのはどうしてでしょうか。それは、神に従っているのではなく、自分の欲望に従っているからです。何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょうか。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、すぐに人殺しをするのです。自分の思うようにならないと、すぐに敵対心を持ち、憎んだり、争ったりするのです。あなたがたの肉が問題だと、ヤコブは行っているのです。

しかし、神を愛する者は、神に従います。自分の思うとおりにいかなくても、自分のほしいものが手に入らなくても卑屈になりません。神の命令に従って、人を愛し、人を赦し、人を受け入れます。愛は寛容であり、愛は親切です。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、人をした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを耐え忍びます。

「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(箴言10:12)のです。

 

ところで、ここには神に従いなさいということだけでなく、悪魔に立ち向かいなさい。ともあります。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。どういうことでしょうか。神に従うことを悪魔が妨げているということです。ですから、神に従って、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

悪魔とは何者でしょうか。悪魔は元々神に仕える天使長でしたが、彼は高ぶって、自分も神のようになりたいと神に反逆し、天から落とされよみの穴の底に落とされました。(イザヤ14:12-15)そして最初の人アダムとエバはその悪魔にだまされ罪を犯したので、神から離れてしまいました。それ以来、人類はずっとこの罪の支配下に置かれるようになりました。ですから、すべての人は生まれながらに罪の性質を持っているのです。だれからも教えられなくても悪いことをします。それはそのような性質を持っているからです。ですから、人間は生まれながら罪の奴隷なのであって、いつでも罪に従うというか、悪魔に誘惑されて罪を犯してしまうのです。

 

しかし、神は、ひとり子イエス・キリストをこの世に送り、私たちの罪の代わりに十字架につけてくださり、その罪から救ってくださいました。罪の奴隷から解放してくださったのです。キリストを信じた人は悪魔の支配から神の支配に、暗やみから光へ移されたのです。ですから、クリスチャンは神に従うことができるようになったのです。

 

しかし、以前の主人であった悪魔は、クリスチャンが新しい主人である神に従うことを憎み、神に従わないようにあの手この手を尽くして誘惑し、以前の罪の生活に引き戻そうと躍起なっているのです。たとえば、悪魔は私たちのさまざまな欲に働きかけて誘惑します。目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢などはそうです。「もっといい生活がしたい。」「あれもほしい、これもほしい」と私たちの中にある欲に働きかけて誘惑してくるのです。誘惑そのものは罪ではありませんが、誘惑に負けると罪になります。

 

あるいは、悪魔は私たちの人生に起こるさまざまな試練を用いて誘惑することもあります。病気とか、事故とか、経済的な問題を通して不安を与え、人間関係の問題を通して脅してきたりするのです。「なぜ私ばかりこんなに苦しまなければならないの、神がおられるなら、こんなことが起こるはずがない・・・」と、神の愛に疑いを抱かせ、信仰を捨てるように誘惑するのです。

 

あるいは、悪魔はこうした問題ばかりでなく、逆に良いことを通しても

誘惑してくることがあります。たとえば、家族を愛することは大切なことです。一生懸命に働くことも、たまに趣味を楽しむことも良いことです。しかし、それがどんなに良いことであっても神よりも愛するなら、それが罠となって神から離れてしまう原因になってしまうことがあるのです。イスラエルの民が神から離れたのは、これが一番大きな要因でした。彼らはパンがないとか水がないことによっても神を疑い、神から離れることがありましたが、それよりも、彼らが豊かになった時かれらは高ぶって神を忘れ、神から離れてしまいました。

 

このように、悪魔は、私たちが神に従わないようにと、あの手この手をもって誘惑してきます。ですから、私たちはこの悪魔に立ち向かっていかなければなりません。そのためには、神に従うことが求められます。神に従って、そして、悪魔に立ち向かわなければならないのです。私たちの力では、悪魔に立ち向かうことができません。神に従い、神の力をいただき、そして悪魔に立ち向かわなければなりません。

 

神はそのために神の武具を与えてくださいました。それはエペソ6章にありますが、中でも悪魔に立ち向かっていくために、御霊の与えてくださる剣である神のことばを与えてくださいました。神のことばは、御霊の与える剣です。この剣を持って悪魔に立ち向かっていくなら、悪魔は逃げ去るのです。

 

あなたは、この武具を受け取っておられるでしょうか。私たちは強そうでも弱い者です。すぐに否定的になったり、躓いたりします。ですから、この神のみことばを心にたくわえ、みことばによって強められて、悪魔に立ち向かっていかなければなりません。

 

Ⅱ.神に近づきなさい(8)

 

第二のことは、神に近づきなさいということです。8節をご覧ください。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」

 

神の恵みによって救われた者は、神に近づかなければなりません。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。どういうことでしょうか。それは、神との親しい交わり中に入れられるということです。悪魔はさまざまな方法で誘惑してくると申し上げましたが、その誘惑に負けて罪を犯すと、神から遠く離れてしまいます。神から離れるとこの世に妥協し、自分勝手な生き方に逆戻りしてしまいます。それは一見楽しそうに見えるかもしれませんが、実は心はみじめで、空しくなるのです。

 

あの放蕩息子のことを思い出してください。彼は父親に財産を分けてもらうと、遠い国に旅立ち、そこで放蕩して湯水のように財産を使い果たしてしましました。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こると、彼は食べるにも困り果ててしまいました。それである人のところに身を寄せると、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせました。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどでした。それは彼にとって屈辱的で、最悪な状態でした。豚の食べるいなご豆とは、豚の食べるえさのことです。そんな家畜のえさで腹を満たしたいというのですから、しかもユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていたので食べることはしませんでしたが、その豚の世話をして、そのえさを食べたいと思うほどであったというのは、彼がどれほど落ちぶれてしまったかをよく表しています。父親のところにいればそんなことはなかったのに、そんな父の下を離れ、自分勝手に生きようとした結果がこうでした。これは私たち人間の姿を表しています。神から離れた人間は、この放蕩息子のようにみじめでしかないのです。人間にとってもっとも幸せなのは、神とともにいることです。なぜなら、人間はそのように造られているからです。神は人をご自身のかたちに造られました。このかたちこそ霊魂のことであり、神に祈り、神と交わる部分です。ですから、神とともにあるとき、私たちは真の喜びと生きがいを感じるのです。

 

あの放蕩息子は、最悪の状態に落ちたとき、そのことを思い出しました。そのとき、彼はこう考えるのです。

「父のところには、パンの有り余っている雇人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」そうだ、父のところに帰ろう。そしてこう言おう。

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」(ルカ15:18)

これは彼にとって大きな方向転換でした。これまで自分に向かっていた方向を、父に向けました。これを悔い改めると言います。彼はへりくだり、悔い改めて、父のもとに向かいました。

するとどうでしょう。家まではまだ遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思って走り寄り、何度も口づけして、喜んで彼を迎え入れました。そして彼に一番良い着物を持って来て着させ、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせ、肥えた子牛をひいてきてほふり、祝ったのです。

 

父親から離れ、自分勝手に生きていた彼には何の喜びも祝福もありませんでした。しかし、彼が向きを変えて父のもとに立ち返った時、父親は彼に近づいてくれました。神に近づくなら、神はあなたに近づいてくださるのです。神はあなたの罪を赦し、あなたを祝福してくださいます。ですから、まだイエス様を信じていない人がいたら、どうか悔い改めて、神に立ち返ってください。神の救い、イエス・キリストをあなたの救い主として信じてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。あなたのすべて罪は赦されるのです。だれでも、一つや二つ、過去のことで思い悩むことがあります。忘れようとしても忘れられないことがあります。しかし、それがどんなに暗い過去であっても、神は雪のように白くしてくださいます。あなたの罪の全部を赦してくださるのです。

 

また、もうイエス様を信じたのに罪を犯し、神から離れておられる方がおられるでしょうか。そういう方がおられましたら、どうか主のもとに立ち返ってください。神に近づいてください。そうすれば、神はあなたに近づいてくださいます。神はあなたを責めるようなことはされません。あの放蕩息子の父親のように、両手を広げて受け入れてくださいます。あなたが返ってくるのを待っておられるのです。

 

ところで、ここには「手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」ともあります。どういうことでしょうか。旧約聖書によると、神に近づくことができたのは、神に仕えた祭司だけでした。彼らはきよめの儀式に従って手を洗い、動物のいけにえをささげてからでないと、神に近づくことができませんでした。なぜなら、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないからです。ですから、動物をささげて、動物の血を取り、その血によって身をきよめてから、神に近づいたのです。これは、やがてもたらされる完全ないけにえ、イエス・キリストの十字架の贖いのひな型でした。

 

しかし、ここでヤコブが「手を洗いなさい」と言っているのはそのことを言っているのではなく、イエスを信じた後に行っている罪の行いのことです。この手紙は、ユダヤ人だった彼らがイエス・キリスト、神の恵みを信じてクリスチャンになっていた人ユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは悔い改めてキリストを信じていたのです。それなのに、彼らの行いは神のみこころにかなったものではありませんでした。行いが伴った信仰ではなかったのです。

 

私たちは、イエスを信じてからも罪を犯します。罪を犯さずには生きていけないと言ってもいいでしょう。ここでは、そうした罪を悔い改めるようにと言われているのです。その場合この「手」は、私たちの行いを表しています。キリストを信じて救われた者であるなら、そこには当然良い行いが伴うはずなのにそうでないなら、それを洗いきよめなければなりません。

 

また、ここには「心を清くしなさい」ともあります。心を清くするとは内側を清くするということです。私たちの思い、私たちの動機、私たちの考えといった内側をきよめなければなりません。すなわち、キリストを信じて罪がきよめられ、神に近づく者とされた私たちは、神のみこころにかなった心と行いを持つように、絶えずきよめられなければならないということです。それによって、神に近づくことができるからです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだりなさい(9-10)

 

第三のことは、神の御前にへりくだりなさいということです。9節と10節をご覧ください。

「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。」

 

これは、どういう意味でしょうか。Ⅰテサロニケの手紙には、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)とあります。このみことばに照らし合わせてみると、ここでヤコブが言っていることは正反対のように感じます。なぜなら、ヤコブはいつも喜んでいなさいではなく、その喜びを憂いに変えなさいとか、笑いを悲しみに変えなさいと言っているからです。

 

前にも申し上げましたが、ヤコブの教えはイエスの教え、特に山上の説教がベースになっています。ここではそのイエスの教えが背景にあります。イエスは山上の説教で開口一番こう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。」(マタイ5:3-4)

 

イエス様はここで、心の貧しい者は幸いです、と言われました。心の貧しい人とはどういう人でしょうか。それは、神の前に心がへりくだった人です。自分はどうしようもない罪人であり、自分では自分を救うことができないと認めている人、つまり霊的破産状態にあると認めている人です。このような人は神に向かいます。「神さま、助けてください。」「このようなみじめな私を救ってください」と祈らずにはいられません。そのような人は幸いです。なぜなら、天の御国はそのような人たちのものだからです。そのような人こそ神から恵みを受けるのです。

 

イエスは、ルカの福音書18章で、祈るために宮に上ったふたりの人の話をされました。パリサイ人と律法学者です。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」(ルカ18:11-12)

それに対して、取税人はどのように祈ったでしょうか。彼は遠く離れて立ち、目を天に向けてようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人をあわれんでください。」(ルカ18:13)

いったい、このふたりのうちどちらが、義と認められて家に帰って行ったでしょうか。パリサイ人ではありません。この取税人でした。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

心の貧しい人とは、このように自分の罪を悲しみ、嘆き、神の前にへりくだって、神に救いを求める人です。ですから、ヤコブはここでが、「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」と言っているのは、自分の罪を悲しみ、神の前に心が砕かれて、神に赦しと救いを求めるようにということだったのです。

 

ダビデは偉大な王でしたが、彼の最も偉大だったのはどういう点だったかというと、神の前にへりくだることができたという点です。彼はウリヤの妻バデ・シェバと姦淫を行ったとき、神の前に出てこう祈りました。

「幸いなことよ。そのそむきを許され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときは、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申し上げました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは私のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)

彼は偉大なイスラエルの王という立場にあっても、主の前にへりくだり、自分の罪を告白して、赦しを請いました。彼は自分の罪に苦しみ、悲しんで、泣いたのです。それゆえ、主は彼の咎を赦し、彼を本当の意味で偉大な王としました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 

あなたはダビデのように主の前にへりくだっているでしょうか。「神さま、こんな罪深い私をあわれんでください。」と、胸をたたいて、打ちひしがれているでしょうか。主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたを高くしてくださいます。

 

神に従いなさい。神に近づきなさい。神の前でへりくだりなさい。これが神の恵みを受けたクリスチャンの姿です。私たちはいつもこのことを忘れることなく、ただへりくだって神のみこころに歩ませていただきたいと願います。

ヤコブ4章1~6節 「なぜ戦いや争いがあるのか」

きょうは、ヤコブの手紙4章から「なぜ戦いや争いがあるのか」というテーマでお話します。

以前、こんな質問を受けたことがあります。それは、どうしてこの世の中から戦争がなくならないのか、という質問です。そして、その方が言うには、世の中にはいろいろな宗教があるから戦争も起こるのではないのかということでした。確かに宗教が原因で戦争が起こったこともあります。

しかし、宗教が原因となった戦争は、ある方々が主張しているほど多くはありません。「Encyclopedia of Wars」という戦争に関する百科事典によると、歴史上には1,763件の戦争が起こりましたが、そのうち宗教的なことが原因で起こった戦争は123件(6.98%)であったとされています。ですから、歴史上の大きな戦争は、宗教とは無関係に起こっているのです。ではいったいどうして戦いや争いがあるのでしょうか。

 

Ⅰ.争いの原因(1-2a)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」

 

「あなたがたの間に」の「あなたがた」とは、この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンのことを指しています。ですから、これは教会の外での争いのことではなく、教会の中での、クリスチャンの間にあった争いのことなのです。彼らはイエス・キリストを信じて救われていました。なのに、そうした彼らの間にも戦いや争いがあったのです。信仰を持ったら争いが無くなるのかというとそうではなく、人が集まるところにはどこででも争いが起こるのです。いったい何が原因でこうした戦いや争いが起こるのでしょうか。

 

ヤコブはここでその原因を次のように言っています。「あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。」こうした戦いや争いの原因は私たちの外側にあるのではなく私たちの内側にあるのであって、私たちのからだの中で戦う欲望が原因であるというのです。どういうことでしょうか。

 

2節には、「あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。」とあります。私たちは他の人がいい生活をしているのを見ると、「ああ、いいなぁ。自分もあんな生活をしてみたいなぁ。」とうらやましく思ったり、自分もそういう生活をしてみたいと思ってもできないと、急にひがんでみたり、ねたんだりするようになります。すると不思議なことに、そういう人を見ると嫌な気持ちになったり、敵対心を抱くようになったりするのです。やがて太刀打ちできないということがわかるとその人がいないところで悪口を言ってみたり、うわさ話をして、その人の評判を落とそうとすることさえあります。つまり、そうした自分の中で戦う欲望が外側に表れて、それが争いや戦いになるのです。

 

私は今でこそあまりありませんが、ちょっと前までは、いい車に乗っている人を見ると、「どうしてあんなにいい車に乗れるのだろうか。」とか、「あの人どういう生活をしているんだろう」と思ったものです。別にいい車に乗りたいとは思わないけれども、そういう生活をしてみたいという思いが働くのでしょう。でも、そんな生活ができるわけがないので結局のところあきらめるわけですが、ただあきらめるだけならいいものを、言わなくてもいいようなことまで言ってしまいます。「意外とああいう車にに乗っている人は見栄を張っているだけで、実際は貧しい人たちだ」とか・・。その人がどんな生活をしようと自分とは関係ないのに、自分の中に戦う欲望が、いろいろな思いを引き起こし、それが戦いや争いとなって現われるのです。

 

でもちょっと待ってください。世の中の人々ならわかりますが、クリスチャンはそういうことはないでしょう。この世の中の人々は神を知っているわけではなく、イエス様を信じているわけでもありませんから、生まれながら肉なる者であり、そのような思いを抱くのは当然かもしれませんが、イエス様を信じて救われた人たちがそのような思いを抱くなんて考えられません。クリスチャンはイエス様を信じて新しく生まれ変わった者であり、キリストのために生きていきたいと願っている者たちであり、そうした欲にも勝利しているのではありませんか。

 

確かに、クリスチャンはイエス様を信じたとき、聖霊によって新しく生まれ変えられました。古い自分はキリストともに十字架につけられたのです。私がいまこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。しかし、その一方で、まだ肉の性質が残っているのです。肉というのは自分のことです。自分の思いのままに生きていきたい、自分が願うように、自分の満足のために、自分の喜びのために、自分の、自分のという思い、それが肉の思いです。そうした肉の性質が残っているため、欲に引かれて、おびき寄せられ、誘惑されるのです。

 

たとえば、夫婦のことを考えてみてください。まだ結婚していない方は友人との関係でもいいです。なぜ争いが起こるのでしょうか。自分はこうしたいと思っているのに、相手はそうではないからです。自分の思いや利益と相手の思いや利益が一致しないからです。一致していればこうした問題は起こりません。しかし、誰の利益ともぶつからない欲望などはあり得ないわけですから、自分は、自分はという自分の思いが強ければ強いほど、自分の中に戦いや葛藤が生じてくるのです。そしてそれが戦いや争いとなって外側に現れてくるのです。これはクリスチャンであってもノンクリスチャンであっても同じです。確かにクリスチャンであるなら、自分というのは十字架に付けられたので死んでいるはずですから、本当に死んでいれば自分ではなく御霊が支配しているのでその傾向は少ないはずですが、御霊によってではなく肉によって歩むならノンクリスチャンと全く変わらない生き方となってしまうのです。夫婦や友人関係でもそうなのですから、そういう人たちが何人も集まっている教会の中でこうした戦いや争いが起こることは避けられません。

 

ですから、重要なのは、どうしたらこうした戦いや争いを解決することができるかということです。というのは、キリストを信じて救われたクリスチャンが互いに争ったり、戦ったりするのは、神のみこころではないからです。神のみこころは、私たちが互いに愛し合うことです。ですから私たちは、私たちのからだの中で戦うこの欲望に対して、どうしたら対処することができるのかを学ばなければなりません。

 

Ⅱ.神に願い求める(2b-3)

 

いったいどうしたらこの問題を克服することができるのでしょうか。2節後半から3節までをご覧ください。ここには、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。

 

ヤコブはここで、あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからだと言っています。何かをほしいと思い、うらやむのは、その根底に自分があって、自分でそれを手に入れようという思いがあるからです。そこには、「神」は存在していません。したがって、祈ることもないわけです。けれども、神は惜しみなく与えてくださる方です。ですから何かを願うなら、それを神に願い求めなければなりません。神に願って、神に祈って、神により頼むなら、神が与えてくださいます。あなたがたのからだの中で戦う欲望の解決は、まずあなたが神に向かい、神に祈り、神にすべてをゆだねることから始まります。

 

イエス様はマタイの福音書7章7~11節のところで、こう言われました。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」

だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ここでも同じです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。どうしてあの人ばかり与えられるのか。それに比べて私はちっとも与えられないと、ひがんではいませんか。求めてください。願ってください。祈ってください。そうすれば、主は豊かに与えてくださいます。

 

そんなこと言われても、それは他の人のことであって、私の祈りなどちっとも聞いてくださいません、という方はおられますか。そうではありません。神はあなたの祈りも聞いてくださいます。

 

何度かお話ししたことがあるかと思いますが、私が福島で会堂建設に携わった時、いろいろな先生方が来られて信仰のチャレンジをしてくださいました。どの先生も言うのは、会堂建設の時には神様が不思議なことをしてくださるので、神様に祈ってくださいということでした。でもそれは他の教会のことであって、私たちの教会では無理だと思っていました。私たちの教会には若い人たちばかりで経済的に余裕のある人など一人もいなかったからです。

しかし、奇跡的に土地が与えられいよいよ会堂本体の工事に入ろうとした時に、一つの問題が生じました。銀行から予定していた金額の借入れができないと言われたのです。そこで、翌週の礼拝後にみんなで話し合いました。そして、本体をもっと小さくして建築費を押さえようと決めかかった時、ちょうど札幌から引っ越してきたばかりの札幌から引っ越してきたばかりの一人の韓国の姉妹が、「はい」と手を上げたのです。すると彼女はこう言いました。「日本人は何でも小さく考えます。でも神様は全能です。それが本当に必要ならば与えてくださるのではないでしょうか。だから祈りましょう。神様が与えてくださると信じて祈りましょう。」一瞬、皆の顔が凍り付きました。もう十分捧げたので、これ以上は無理だと思っていたからです。私もそうでした。しかし、彼女が言われるように、それが本当に必要なら神様が与えてくださるはずです。ですから、信じて祈ることになりました。

すると本当に不思議なことが起こりました。そのことがあって数か月後に東北電力の方が来られ隣のタイヤの工場で電気を引きたいので教会の上空を通してほしいと言われ、その為電線の下の土地の価格の評価が下がるのでその保証として多額の保証金が与えられたり、いつもの年よりもたくさんの結婚式があったりして、予定していた1年後に必要が満たされたのです。問題は祈らないことです。神に祈り求めないことです。求めるなら、与えられるのです。

 

ヤコブはこのことをただ概念として勧めていたのではありません。それは彼自身の経験からにじみ出た確信でした。ヤコブは、「らくだの膝を持つ人」と言われていたそうですが、なぜそのように言われていたかというと、彼の膝がらくだのように堅くなっていたからです。歳をとって堅くなったのではありません。彼はいつも膝をついて祈っていたので堅くなったのです。彼は祈りの人でした。その祈りの中で神に願い求めたのです。そして、神は聞いてくださるという確信を持っていたのです。

 

中国の奥地伝道のパイオニア、ハドソン・テーラーはこのように言いました。「あなたがたは、膝をついて前進しなければならない。」膝をついて前進したらろくに進めないのではないかと思うかもしれませんが、でも膝をついて前進するというのは祈って前進しなければならないということです。祈りなしに神の前に出ることはできません。祈りなしに前進することはできません。祈りこそミニストリーの原動力であり、祈りによらなければ何も生まれないというのが、ハドソン・テーラーの確信だったのです。

 

それじゃ、どうしてあなたが祈っても与えられないのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」とあります。動機が間違っていれば聞かれません。神の栄光のためにではなく自分のために、自分の快楽のために使おうとして悪い動機で願うなら、与えられないのです。神様は私たちの必要を満たしてくださいますが、私たちの欲しいものを与えるわけではありません。自動販売機のように欲しいものを押せば出てくるというものではないのです。もしあなたが祈りとはそのようなものだと思っているなら失望するでしょう。というのは、祈りとは自分の願いが叶うことではなく、神のみこころがなることだからです。みこころが天で行われているように、地でも行われるようにと祈ることです。もちろん、神はご自身の栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいますが(ピリピ4:19)、私たちは、私たちの願いではなく、あなたのみこころがなるようにと祈られたイエス様のように祈らなければなりません。これが祈りの神髄です。私たちの願いを祈ることも良いことです。「神さま、私はあれが必要なのです。どうか助けてください。」と祈るなら、神はその祈りを聞いてくださいます。神はあなたのささいなことにも関心を持っておられます。だから必要なことを祈るということは大切なことですが、もっと大切なことは、私の願うようにではなく、あなたのみこころのとおりにしてくださいと祈ることなのです。神が望まれることは私たちのベストだからです。であるとしたら、神様はベスト以下の何ものも与えないはずです。ですから、神があなたに与えようとしておられるのは何かを知ることはもっといいことであり、すばらしいことなのです。あなたが祈っても与えられないとしたら、それが神のみこころであり、あなたにとってのベストであるかもしれないからです。であれば、もう悩む必要もありません。今まではあれもほしいこれもほしいと、与えられないことをひがんでみたり、ねたんだりしていたものを、祈っても与えられないことでこれが神からの答えだということがわかれば、私たちは平安を持つことができるからです。だから、神に祈ること、神に願うことは重要で、私たちのからだの中にある欲望に対処する大切なステップです。

 

詩篇34篇10節には、「若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を訪ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」とあります。すばらしい約束ではないでしょうか。主を訪ね求める者には、良いものに何一つ欠けることはありません。そう信じて神に向かい、神に願うなら、神はあなたに良いもので満たしてくださるのです。

 

Ⅲ.神の御前にへりくだる(4-6)

 

第三のことは、神の御前にへりくだることです。4~6節までをご覧ください。4節には、「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」とあります。

 

「貞操のない人たち」とは、直訳では、「姦淫を行う人たち」です。口語訳では「不貞のやからよ」と訳しています。すごいですね。「不貞のおからよ」「やから」とは、仲間のこと、あるいはよくない連中のことです。不貞を行う仲間よ、という意味です。ヤコブはこれまで祈りを込めて、「私の愛する兄弟たち」と呼んでいたのに、ここでは「不貞のやからよ」と呼んでいるのです。いったいなぜそのように呼んだのでしょうか。それは、世を愛することは神に敵対することだからです。それは霊的姦淫の罪を犯すことなのです。なぜなら、この世はキリストを拒絶する悪の世であってこの暗やみの世界の支配者たち、天にいるもろもろの悪霊が支配しているところだからです。神などいなくても自分たちには何でもできると思っています。人間中心の世界です。このような考えはこの世の芸術、文化、教育、スポーツ、科学、医学など、ありとあらゆる世界に入り込んでいます。神がいなくても自分たちは何でもできると思い込んでいます。神を無視する世界、神に敵対する世界なのです。ですから、こうしたこの世を愛することはひとえに神に敵対することであり、霊的に姦淫を犯すことになるのです。

 

いいえ、私はこの世を愛していますが神も愛しています、という方がおられるでしょうか。そういうことはできません。なぜならイエス様は、だれも、ふたりの主人に仕えることはできないと言われたからです。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじで他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)

ですから、世の友となりたいのか、神の友となりたいのかの、どちらかしかありません。そして、ここでヤコブが言っているように世の友なりたいと思うなら、その人は自分を神の敵としているということを肝に銘じておかなければなりません。

 

5節をご覧ください。ここには、「それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに下っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。」

この「」のことばはゼカリヤ書1章14節のみことばの引用です。ゼカリヤ書では、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」とありますが、ここでは、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」になっています。どちらにも共通していることは、神はねたまれる方であるということです。神の民であるイスラエルが自分以外の偶像に走って行ったら、神はどのような思いを持たれるでしょうか。ねたみです。本当に愛しているからねたむのです。どうでもよければねたみは起こりません。神は私たちが救い主イエス・キリストを信じたとき、私たちにご自分の御霊を与えてくださいました。私たちは福音を聞きそれを信じたことで、新しく生まれ変わりました。神の子として、天の御国を受け継ぐ者とされたのです。その保証として神は、ご自身の御霊を与えてくださいました。それは、私たちがやがて天の御国を受け継ぐことの保証でもあります。それはちょうどマンションを借りる時と同じです。いいマンションが見つかってそこに住みたいと思うなら、不動産を通して契約書にサインし手付金を払います。そうすることで、やがて契約の日が来たらそこに住むことができます。御霊も同じで、それは私たちが天のマンションにやがて住むことができるという手付金なのです。それまでの間、神の御霊が私たちの中に住んでくださり、イエス様を信じるように導き、神を愛することができるように助けてくださいます。本当に罪に汚れた者を聖めてくださり、キリストのご性質にあずかる者としてくださり、この地上にあってキリストの栄光を現すことができるようにしてくださるのです。

それなのに、まことの神以外のものを愛するとしたら、神の敵であるこの世を愛するとしたら、神がどれほどねたまれるでしょう。神は昔エルサレムとシオンとをねたむほど激しく愛したように、今は私たちの中に住んでおられる神の御霊を、ねたむほど慕っておられるのです。

 

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、結論は6節にあります。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

ここでは、「しかし、神は」が強調されています。たとえ私たちが、神が用意しておられるベストを受けそこなっても、世の友となって神の敵となってしまっても、それで終わりではありません。それでも、神の恵みは尽きることはありません。いや、神はさらに豊かな恵みを与えてくださいます。これは福音なのです。グッド・ニュースです。本当に私たちは愚かな者です。自分では神に従っているようでもいつの間にかこの世の友となっていることがあります。しかし、神はそんな者さえも憐れんでくださり、さらに恵みを与えてくださいます。

 

ローマ5章20節には、「律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れました。」とあります。それじゃ、もっと罪を行おうということではありません。私たちは罪を犯さずには生きていけないほど愚かな者なのです。わかっているようでわからない。どこまでも自分中心で、貪欲の塊(かたまり)でしかありません。にもかかわらず神は、そんな私たちを赦し恵みを注いでくださいます。

 

でから、こう言われるのです。「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」どうしたら恵みを受けることができるのでしょうか。へりくだることです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになります。イザヤ書66章2節にはこうあります。「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。」

神が目を留められる者はどういう人でしょうか。へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。高ぶっている人は神に向かいません。神に頼らなくても、神に祈らなくてもやっていけると思っているからです。そのような人は神の恵みを受けることはできないのです。神の恵みを受ける人は、へりくだって心砕かれ、神のことばにおののく者です。

 

私たちも、私たちのからだの中にはまだ古い性質が残っていて神のみこころよりも自分の意志を通そうとして、それが原因で争いや戦いを引き起こすことがありますが、そのような者をも愛し、赦してくださる主の御前にへりくだり、主ご自身を求めましょう。主のことばにおののく者でありたいと思います。それこそ、私たちのからだの中で戦い欲望に打ち勝つ最大の力なのです。

申命記32章

きょうは、申命記32章から学びます。

 

 Ⅰ.ひとみのように守られる主(1-14

 

 まず1節から14節までをご覧ください。1節から4節までをお読みします。

「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」

 

 モーセは、イスラエルの全会衆に聞こえるように、神のことばを歌によって語りました。その内容がこの章に記されてあります。1節には、「天よ。耳を傾けよ。地よ。聞け。」とあります。30:19節や3128節にも、天と地が証人として立てられるとありました。天と地が神とイスラエルの間に結ばれた契約の証人です。それは、これからモーセが歌う内容がいかに重要であるかを示しているものです。

 

 2節には、モーセの教えは、雨のように、露のようにしたたり、若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように下る、とあります。これは、これからモーセが語ることが、雨のように、また露のように、さらには若草の上の小雨のように、また青草の上に下る夕立のように必ず下ることを表わしています。

 

 3節では、主の御名を宣言し、栄光を神に帰すように言っています。なぜ主に栄光を帰さなければならないのでしょうか。それは4節にあるように、主は岩のように堅く、変わることがなく、強いので、本当により頼むことができる方だからです。また、その道は正しく、真実であられるからです。

 

それに対して人間はどうでしょうか。5節と6節をご覧ください。

「主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。」

 

イスラエルは(人間は)神に向かって悪を行い、「主の子らではない」よこしまで曲がった世代です。また、彼らは愚かで知恵のない民です。なぜなら、彼らは主によって造られたのに、その主を見捨ててしまうからです。

 

ですから、そんなイスラエルに求められていたことは何かというと、昔のことを思い出すことです。そうすれば、主がどれほどあわれみ深い方であり、真実な方であるかがわかるからです。

 

7節には、「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。」とあります。「昔の日々」とは、イスラエルがエジプトから救い出された日のこと、また、その後40年間荒野を通ってここまでやって来たその全行程のことです。そのことを思い起こし、そのことを彼らの先祖に問うなら、彼らは次のようにあなたに話してくれるだろう、というのです。8節から14節までをご覧ください。

 

「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

 

ここには、主がいかにイスラエルを守って来られたのかがふんだんに語られています。まず、主は彼らとの契約に従って相続地とそれぞれの部族に割り当ての地が与えられます。それがもうすぐ起ころうとしているのです。ヨルダン川の東側の一部は既に分割されました。しかし、これからがその中心です。それも確実に行われようとしているのです。

 

そればかりか、イスラエルがここに来るまで、主はずっと彼らを守ってくださいました。主は獣のほえる荒野で彼らを見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られました。11節には、神の守りを、あたかも鷲が自分のひなを育てて、ひなが巣立ちすることができるように行なう飛行訓練にたとえています。親鷲は、巣をゆすって、ひなが巣から落ちるようにさせると、ひなは必死になって羽をばたつかせますが、それを追いかけて、ひなが地面に落ちる前に自分の翼を広げてこれを取り、守ります。そのように神は、イスラエルを守って来られたと言っているのです。これらすべてのことは、神がお一人でなされたことです。そして13節と14節では、将来カナンの地でイスラエルが、どのように豊かな神の供給を受けるかを預言しています。「岩からの油」というのは、岩地に生えているオリーブの木のことす。イスラエルでは今も、岩がごろごろしているところに、オリーブの木がたくさん生えています。主はこのようにしてイスラエルを守り、導いてこられたのです。まことに主は岩です。そのみわざは完全であり、主の道はことごとく正しいのです。

 

それなのに彼らはどうしたでしょうか。15節から18節をご覧ください。

「エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」

 

「エシュルン」とは、古来のイスラエルの名称です。そのエシュルンが、約束の地における主からの祝福によって、おいしい食べ物を食べ、赤いぶどう主を飲んで肥え太ったとき、彼らは、これを与えてくださった神に感謝するどころか、神を捨て、自分の救いの岩を軽んじるようになります。そして偶像の神々に仕え、神のねたみを引き起こし、彼らを産んだ創造主なる神をおろそかにするのです。彼らは真実な神の前に出るより、この異邦の神、憎むべき偶像に仕えるのです。貧しさや苦しみの中にいる時よりも、豊かさの中にいる時の方が、神を忘れやすくなるのです。

 

それは私たちにも言えることではないでしょうか。人は豊かさの中で、神の恵みを忘れ、この世の偶像に走ってしまう傾向があります。自分の救いを軽んじてしまいやすいのです。そういうことがないように、いつも神のご性質を覚えておかなければなりません。そのためには、自分たちが昔どのような状態であったのか、そして、そこから神がどのようにして救い出してくださったのかを思い出さなければなりません。親鷲がそのひなを育てる時に胸に抱いて育てるように、私たちを大切に守り、育ててくださったことをいつも思い出し、主の恵みに留まっているなら、神を捨てることは起こらないのです。

 

Ⅱ.神の怒り(19-33


 そのようなイスラエルに対して、神はどのようにされるでしょうか。19節から33節までをご覧ください。まず25節までをご覧ください。

「主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。」

 

イスラエルが神を捨てたので、神も怒りに燃えてイスラエルを捨てられました。20節では、「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。」と言っておられます。神がこのように言われるのは、イスラエルがまことの神を裏切り、まことの神に対して誠実でなかったからです。また、彼らが神ではないもの、すなわち偶像の神に走ったので、神のねたみを引き起こし、主をそこなうむなしいことで、主の怒りを燃えさせたからです。その怒りの火はよみの底まで燃えて行き、地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払うことになります。その怒りによってイスラエルには飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきばといったものを、地を這う蛇の毒とともに彼らに送り、国の内外に殺戮と恐れが溢れるようになるのです。イスラエルの歴史の中で、このことが起こりました。B.C.586年にはバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連行されました。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ、世界中に散らばる離散の民となりました。

 

捨てられるということは悲しいことです。私たちは、時々親に捨てられた子供たちの話を聞きます。幼い頃、家族から受けた傷のせいで一生を暗闇の中で過ごした人の話も聞きます。また、職場や学校で仲間はずれにされたという話も聞きます。聖書の話は捨てられた人たちの話です。家族から捨てられ、友達から捨てられ、人々や弟子たちからも捨てられた人たちの話がいっぱい書かれているのです。そして、イスラエルも自分たちの罪のために神に捨てられました。しかし、神はそんな彼らを捨てて終わりではありません。その回復の道をも用意してくださいました。それが救い主イエス・キリストです。イエス様は、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて救うために来たのです。」(マルコ2:17と言われましたが、イエス様の愛はいつも捨てられた者たちに向かって流れ、失われた人たちに向かって広がっています。イエス様の愛は家族に捨てられ、友達から疎外され、社会から隔離された人たちに向かっているのです。イエス様こそ私たちにとっての神の知恵であり、また、義と聖めと、贖いとなられたのです。(Ⅰコリント1:30

 

そんな神の愛は、神を捨て、自分勝手な道を歩んだイスラエルにも向けられています。26節から33節をご覧ください。

「わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」と言うといけない。まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。」

 

神はイスラエルを粉々にし、彼らを人々の記憶から消し去ってしまうことはありません。つまり、神は彼らを滅ぼし尽くされることはないのです。なぜなら、もしそんなことをしたら、敵が誤解してこういうようになるからです。「われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。」27)ですから、イスラエルが正しいからではなく、ご自分の真実さのゆえに、イスラエルを滅ぼし尽くすことをせず、イスラエルに対する約束を実現されるのです。

 

28節の「彼ら」とは「イスラエルの民」のことです。「彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。」なぜなら、もしも彼らに知恵があったら、彼らは自分の終わりのことを悟ることができたであろうからです。しかし、できませんでした。知恵がなかったからです。

それは私たちも同じです。私たちも何度も同じ過ちを犯してしまうのは、知恵がないからです。いつも目先のことしか考えられません。自分が行なっていることの結果をよく考えていたのなら、偶像を拝むとか、神を捨てるといった愚かなことはしなかいでしょう。それなのに、すぐにそのことを忘れてしまうため、それが愚かなことだとわかっていても繰り返してしまうのです。

 

また、もし私たちが何かで成功したり、祝福されたりすると、すぐにそれを自分の手柄であるかのように思い込んでしまいます。しかし、それはその背後に主がおられ、主が勝利をおさめておられるからなのに、そのことも忘れてしまいます。30節には、「彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。」とあります。ギデオンが数万人のミデアン人に対して300人の兵士だけで勝つことができたのは、また、ヨナタンと道具持ちが、たった二人で、ペリシテ人の陣営に入り込むことができたのは、主がともにおられたからです。イスラエルが周囲の敵に勝利することができたのは、主が彼らを売らず、主が彼らを渡さなかったからなのです。そのことは敵も認めていることです。敵も、イスラエルの神のほうが、自分たちよりもずっと力強いということを知って、認めています。それなのに、イスラエルはそのことを忘れ、自らわざわいを招いてしまうのです。彼らの中に毒ぶどうがあったり、そのふさに苦みがあったり、そのぶどう酒が蛇の毒であったりするのはそのためです。

 

とても遠い道のりを歩いて来た人に新聞記者たちが、一番苦しかったことは何ですか、と尋ねました。

「一番苦しかったことは、暑い太陽の下で、水のない荒野を一人で歩くことでしたか。」

「いいえ、違います。」

「それでは、最も急で険しい道を苦労しながら上ったことですか。」

「いいえ、違います。」

「それでは寒い夜を過ごすことでしたか。」

「違います。」

するとその旅人はこう答えました。

「そんなことは全然苦になりませんでした。実際、私を一番苦しめたのは、私の靴の中に入っていた小さな砂でした。」

私たちを苦しめるのは何か大きな罪の行いよりも、私の中で解決されずに残っている小さなくずのようなものなのです。神を神とせず、自分の思いで突っ走って行こうする思いなのかもしれません。それが大きなわざわいをもたらすことになるのです。ですから、自分の中に主を認めようとしない思いはないかどうかを、時間を割いて点検しなければなりません。そして、それをきれいにすっかり洗い流してしなわなければなりません。

 

Ⅲ.神のあわれみ(34-52

 

しかし神は、そんなイスラエルをいつまでも捨ておかず、やがて回復してくださると約束されます。34節から52節までをご覧ください。34節から43節までをお読みします。

「「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。まことに、わたしは誓って言う。「わたしは永遠に生きる。わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。」諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。」

 

34節から35節までの「」のことばは、神ご自身が直接語っておられることばです。神はそんなイスラエルを懲らしめるために他の異邦の民族を用います。しかし、そんな彼らに対しても責任を問われ、復讐される時が来るのです。主は、「復讐と報いはわたしのもの」35)と言われ、「主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。」36)と言われます。彼らの力が失せ、これまで自分が頼みとしていたものがあてにならないということがわかり、本当にへりくだって、主に立ち返るとき、イスラエルの民はまことの神が主であるということを知るようになるのです。

 

「今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。」(39

 

そして主は敵に復讐をし、ご自分の民の贖いをされるのです。神は怒りの中にあっても、ご自分の民を忘れるような方ではなく、あわれんでくださる方なのです。これはイスラエルの歴史の中で成就した預言ではありますが、最終的にはキリストの再臨によって成就します。その時キリストは敵に対してことごとく勝利され、この地上における千年間の間統治される神の王国をもたらされます。

 

Ⅳ.いのちのことば(44-52

 

44節から47節までをご覧ください。

「モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 

モーセとヨシュアは、これらの歌をイスラエルの民に聞かせた後、イスラエルの民に、これらのことばを心に納めるように命じ、このみおしえのすべてのことばを守らせるように言っています。(46)なぜならこれは彼らにとってむなしいことばではなく、彼らにいのちを与えることばであるからです。まさにこれはいのちのことばなのです。

 

そして48節から52節までには、このすべてのことばを語り終えたモーセに対して、主が命じられたことが記されてあります。

「この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」

 

それは、ネボ山に登り、神がイスラエルに与えて所有させようとしているカナンの地を見るように、ということでした。彼はそこで死に、イスラエルの民に加えられます。彼はカナンの地を見ることができましたが、そこに入ることはできませんでした。それは、イスラエルがかつてエジプトを出てツィンの荒野をさまよっていたとき、メリバデ・カデシュの水のほとりで、主に対して不信の罪を犯し、主を聖なるものとしなかったからです。

 

この出来事についてはすでに何度も触れてきましたが、モーセが、主から、「岩に命じなさい」と言われた時、一度ならず二度も打ってしまったことです。それはモーセがイスラエルの民の不平不満に対して憤ったからであり、神の命令に背いて、罪を犯したからでした。

 

私たちの感覚からすれば、たった一度の間違いで、約束の地に入ることができなかったというのはあまりにも厳しいのではないかと思えますが、それが律法です。律法は一点でも違反すれば、律法全体を違反したことになります。(ヤコブ2:10)モーセはこの律法の代表者でした。ですから、このモーセがイスラエルにもたらしたものが何であるかがわかると、このことも理解できます。つまり、確かに神の律法は良いものですが、それは私たちを神の元へと導く養育係であって、この律法によって救われることはできないということです。ですからモーセは、約束の地にはいることができなかったのです。

 

では、誰が約束の地に導くのでしょうか。それは彼の後継者ヨシュアでした。ヨシュアはキリストの型です。ヨシュアをギリシヤ語にすると「イエス」になります。すなわち、約束の地に入るためには律法の行ないによってではなく、この救い主キリストを信じる信仰によってであり、それは神の一方的な恵みによるのです。

ヤコブ3章1~18節 「舌を制御する」

きょうは、ヤコブの手紙3章から学びます。ヤコブは2章で、「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」(17)と、行いが伴った信仰、生き方信仰について語りました。今回の箇所では、その行いの伴った信仰の一つとしてことばの問題を取り上げられています。

 

Ⅰ.ことばで失敗しない人がいたら(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

 

ヤコブはここで、「私の兄弟たち。多くの者が教師となってはいけません。」と言っています。多くの注解者はこの「教師」を神の御言葉を語る教師のこと、つまり「牧師」のことだと解釈していますが、必ずしも牧師だけのことではありません。勿論、牧師は神の言葉である聖書を神の言葉として解釈し語るわけですから、非常に厳粛さが求められるのは確かです。しかし、それは必ずしも牧師や教師のことだけでなく、栄光の主イエス・キリストを信じたクリスチャンのすべてを指していると考えるのが自然です。というのは、ヤコブはこれまですべてのクリスチャンに対して行いの伴った信仰、生きた信仰とはどのようなものかを語ってきているからです。

 

こうした教師をはじめとするクリスチャンに求められていることは何でしょうか。舌を制御することです。2節には、「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とあります。ヤコブがこのように多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」ということわざがあるように、人は口から発することばで失敗することが多いからです。ここには、「もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」とありますから、ことばで失敗しない人はいないということでしょう。「それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちてい」(8)るのです。

 

誰しも、この舌を抑えられたなら失敗しなかったのに、ということがあるのではないでしょうか。これだけ言ったらおしまいだと思っているにもかかわらずついついポロッと口から出てしまったばかりに家族ばかりか親類までも巻き込む問題になったり、上司に言った一言が原因で会社を辞めるはめになってしまうことさえあります。舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。いったいどうしたらこの舌を制御することができるでしょうか。そのためにはまず自分の舌がどんな災いをもたらすかその影響の大きさをまずしっかり自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があります。

 

Ⅱ.舌のもたらす影響の大きさ(3-12)

 

そこで、次に4節から12節までをご覧ください。ここには、舌のもたらす影響がどれほど大きいのかを、いくつかのたとえを用いて説明されています。まず馬とくつわのたとえです。3節をご一緒にお読みましょう。

「馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。」

 

馬は大きくてものすごい力があります。それは力を表す単位として「馬力」が使われていることからもわかります。しかし、そんなに大きくて力のある馬でも、口にくつわをかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。私は実際、馬に乗ったことがありませんが、手綱を右の方に引っ張ると右の方に行き、左の方に引っ張ると左の方に行きます。そして両方引っ張ると止まります。くつわは本当に小さなものですが、そのくつわを口にかけるとどんなに大きくて力がある馬でも御することができるのです。

 

次のたとえは船とかじのたとえです。4節をご覧ください。ご一緒にお読みしましょう。

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」

 

この船は風で動く大きな帆船です。帆船は風が吹いてきたら、風になびいて進みますが、そんな時でもかじを取る人によって思いとおりに持って行くことができます。それは船全体に比べたらとても小さなものですが、たとえそれがどんなに小さくても、船全体を風に逆らっても動かすことができるのです。

 

いったいここでヤコブは何を言いたいのでしょうか。そうです、くつわにしても、かじにしても、それらは小さなものですが、馬全体を、船全体を動かす力があるということです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。

 

次に5節と6節をご覧ください。ヤコブが次に用いている例は大きな森と小さな火です。

「ご覧なさい。あのように小さい火があのように大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。」

不注意な人が何気なく捨てた小さなタバコの吸い殻が大きな森を燃やしたという話を聞くことがありますが、何気なく、不用意に語ったことばが、その人の人生全体を、人格全体をダメにしてしまうことがあります。日本ではよく、大臣が放った一言によって辞任に追い込まれたり、夫婦でも絶対言ってはいけないことを言ったために、離婚に発展するケースもあります。

 

皆さん、なぜ舌を侮ってはならないのでしょうか。それは自分や他の人々の人生にこんなにも大きく、破壊的な影響をもたらすからです。ある人たちは日本語で「言葉」を言の葉と書くように、言が葉っぱのようにぱらぱらと落ちるイメージがあることから、「ことばは単なる音の響きだ」ととらえている人がいたり、一方、「言霊」(ことだま)と言って、発した言葉どおりの結果を現す力があると考える人もいます。

 

では、聖書では何と言っているかというと、創世記には、神はことばによって世界を造られたとあります。神が、「光よ、あれ」と言うと光ができました。また、預言者が神の呪いを発するとそのようになりました。逆に祭司が祝福を祈るとそのようになりました。つまりユダヤ人にとってことばは単なる響きではなく、そこには実体があると考えられていたのです。ですから彼らが「シャローム」とあいさつすると、「平安がその人に来る」と理解していました。それは私たちも同じで、ことばには重みがあるのです。たった一つのことばが、その人の人生全体に大きな影響を与えてしまうことになります。ですから、ことばが正しく用いられないと、自分や他の人々の人生を破壊してしまうことになるのです。

 

その舌を制御することについて7節と8節ではこう言っています。

「どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。」

それは少しもじっとしていない悪であり、死のとげに満ちています。人間は器用に、あらゆる動物を飼いならし、自由に動かすことができます。サーカスを観に行くと、あの巨大な象が、サーカスの人によって上手に飼いならされています。百獣の王であるライオンも、飼いならされています。それなのに、なんとこの小さな舌は制御することができません。それはじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているのです。

 

今、東京都で豊洲移転の問題で大きく揺れています。地下水に溜まっている汚水から基準値の79倍のベンゼンという発がん性物質が検出されたことで、それが人体に与える影響を考慮すると果たして豊洲に移転すべきなのか、すべきでないのかの検討がずっと続けられているのです。工場排水に含まれる害毒には敏感でありながら、自分の口から出る毒に満ちたことばを垂れ流しにしたままでよいのでしょうか。私たちは、自分の舌がどんな災いをもたらすのか、その影響の大きさをまずしっかりと自覚し、本気になって解決の道を探っていく必要があるのではないでしょうか。

 

それは9節から12節に書かれてある泉と木のたとえも同じです。同じ泉から甘い水と苦い水がわきあがることがないように、いちじくの木がオリーブの実をならせることがないように、この唇は神を賛美するために造られたのであって、神をのろったり、神にかたどって造られた人をのろったりすべきではないのです。いったいどうしたらいつもきれいな水を出すことかできるのでしょうか。どうしたら舌を制御することができるのでしょうか。

 

Ⅲ.舌を制御する(13-18)

 

ですから13節から18節をご覧ください。13節と14節には、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。」とあります。

 

ヤコブはここで、「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはなりません。」と言っています。つまり、口から出てくることばの源になっている「心」が問題だと言っているのです。私たちの心にひそかにたまっていることが口から出て、人の心をぐさっと傷つけるのです。そこに目を向け解決されない限りは、ことばの問題、人間関係の問題は解決しません。もしあなたの心の中に、苦々しいねたみや敵対心や憎しみや恨みがあると、言ってはならないようなことを言ってしまったうことになるのです。それは話し方教室に通うだけではどうしようもない問題なのです。ねたみや敵対心があるとき、私たちは悪しき者の影響を受けてしまうのです。確かに、そういう思いで心が一杯になっているとき、自分のコントロールから外れてしまうと思わないでしょうか。普段だったら絶対に言わないようなことを言ってしまったり、やらないようなことをやってしまったりします。カーッとなって思わず手が出てしまったり、たまたま打ち所が悪ければ大変なことになってしまいます。

 

まさかあの人がと言われるような事件の数々は、決して他人事ではありません。またそのような時には、どうやって相手を苦しめようかという知恵もどんどん出てくるものです。「そのような知恵は、上から北ものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや邪悪な行いがあるからです。」そのようなものにしはいされてはなりません。そのために、私たちは上からの知恵、神の知恵に満たされなければなりません。なぜなら、17節にあるように、「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」だからです。私たちの心が整えられて平安であるとき初めて、私たちは自分の舌を制することができるようになり、良い人間関係を築いていくことができるようになるのです。

 

このことについて、イエス様は何と言っておられるかを見てみましょう。マタイの福音書12章34,35節をご覧ください。

「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが癒えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」

また、マタイの福音書15章18,19節でも、「しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てくるのからです。」と言われました。つまり、口と心はつながっていて、口は心で思っていることを語るということです。であれば、私たちは口やことばを直す前に、心が癒され、良い物で満たされる必要があります。では、そのためにはどうしたらいいのでしょうか。

 

二つのことが必要です。一つのことは、イエス・キリストを信じて、霊的に新しく生まれ変わることです。キリストを信じるなら、キリストの平和があなたの心を支配するようになるからです。良い物は良い倉から出てくるのです。キリストによって新しく生まれ変わり神の愛に満たされた良い心からは、だんだん良いことばを話すようになります。それは道徳とか倫理の問題ではありません。あなたの霊、あなたのたましいが罪から救われてきよめられているかどうか、そして、あなたの心が神の愛とキリストの平和で支配されているかどうかの問題なのです。

 

もう一つのことは、キリストの新しい性質を身に着けることです。自転車でも、水泳でもそうですが、どうしたら身に着けることができるでしょうか。実際にやってみることによってです。どんなに教室で自転車の乗り方や泳ぎ方を学んでも、それだけでは実際に乗ることはできません。そのためには何度も何度も失敗しながら、実際にやってみなければなりません。そして一旦からだで覚えたら、意識しなくてもできるようになります。それは舌を制御することも同じことで、そのためには、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないことを実践しなければなりません。

 

Ⅰペテロ310,11にはこうあります。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを言わず、悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

もし、あなたが幸いな日々を過ごしたいと思うなら、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らないようにしなければなりません。私たちは常日頃、たくさんの誘惑にさらされています。悪いことをされたり、ばかにされたり、自尊心を傷つけられたりします。そのようなとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。これまでは条件反射的に、悪いことばや攻撃することばを言い返していました。「目には目を。歯には歯を」です。口には口です。しかし、これからは違います。キリストの愛が私たちを取り囲んでいます。聖霊の助けによって舌を押さえて悪を言わないようにするのです。何度か失敗もするでしょうが、その度ごとに聖霊に信頼して何度も何度も実践するのです。そうすれば、それが習慣となり、やがて、舌を押さえることができるよううになるのです。

 

ヤコブは2節のところで、「もしことばで失敗しない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」と言っています。この「完全な人」というのは、「大人の人」とか、「成熟した人」という意味です。つまり、初めから舌を制御できる人のことではなく、そうした訓練によって習慣化し、それを身に着けることができるようになった人のことを言っているのです。

 

ケネス・ヘーゲンと言う人は、「愛、勝利に至る道」でこう述べています。生活をエンジョイして、幸いな日々を送り、長生きする秘訣は、『自分の舌に悪をやめさせること』です。愛は、悪を言うことをいつも慎みます。愛は人々に対して欺瞞や悪を語りません。また神のご性質の愛は、すべての人との平和を求めます。」他の人を批判することは簡単なことです。しかし、同じ環境のもとで、私たちはその人ほど立派に行うことができるでしょうか。ですから、その人を裁くのではなく、その人を愛さなければなりません。愛は多くの罪を覆うからです。愛こそ、勝利に至る道なのです。

 

ヤコブは舌のもたらす破壊力について語っていますが、同時に、舌が持つ力についても教えています。もし私たちが舌を正しく制御するなら、私たちの人生をも変えることができるはずです。私たちはことばが持つ力についてあまり意識していません。何かが起こるとすぐに、「ああ、最悪だ」と言ってしまうのです。でも本当に最悪なのでしようか。また、ある人たちは病気がなかなか治らないと、「このままだと死んでしまう」と言ってしまいます。また、ある人たちは「何をやってもうまくいかない。俺の人生はどうせこんなもんだ」と言います。もし私たちがこのような投げやりで破壊的なことばを自分に向かって発するなら、本当に最悪なことが起こり、体はますます悪くなり、失敗を重ねる人生になってしまいます。なぜなら、ことばには力があるからです。自分が発したとおりになってしまうのです。ですから、私たちに求められていることは、神様のみこころにかなったことばを語り、それを実践することです。そうすれば、そのとおりになります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

舌を制御することはだれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。けれども、イエス・キリストを信じて、聖霊によって心を支配していただき、力の限り、私たちの心を見守るなら、そこからいのちの泉が湧き出るのです。私たちも神のみこころにかなった言葉を発することができるように、上からの知恵に満たされて、自分の唇を制御できるように求めていきましょう。

ヤコブ2章14~26節 「生きた信仰」

きょうは、ヤコブの手紙の後半の箇所から「生きた信仰」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて、みことばを実行する人になりなさい、と勧めました。そして、その具体的な実践の一つとして、人をえこひいきしてはいけないということを取り上げました。きょうのところでも、信仰が生きたものとなって全うされることを勧めています。ここには、「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではない」(24)とあることから、信仰による義を強調していた宗教改革者マルチン・ルターは、このを「藁の書」と言ったほどです。しかしここでは、信仰か行いか、どちらかということを述べているのではなく、本当のクリスチャンの信仰生活には、信仰も行いもあるはずだということが強調されているのです。きょうは、行いが伴った本当の信仰、生きた信仰についてお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.死んだ信仰(14-17)

 

まず、14節から17節までをご覧ください。ここでヤコブは死んだ信仰について語っています。

「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

 

私たちの間に、実質の伴わない、言葉だけの信仰話がしばしばなされることがあります。ヤコブはここで、「だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と言っています。ここで重要なのは、「自分には信仰があると言っても」の「言っても」です。「私は神を信じています」と言うことと、実際にその人に信仰があるかどうかは、別問題なのです。

 

このことについて、イエスさまは次のように警告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)また、ヨハネの福音書2章にも、「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(ヨハネ2:23-24)とあります。ということは、イエスさまを信じても、イエスさまがご自身をお任せになれないような信じ方があったということを示唆しています。しかもここには「多くの人々が」とありますから、多くの人々がそのような信じ方をしているということなのでしょう。神との関係が確かなものであれば、それがその人の中に働いて、必ず悔い改めにふさわしい実を結びますが、そうでないと、それが実となって現われることはないのです。

 

ヤコブはその具体的な例として、15節から17節までのところで次のように言っています。

「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ここでも、「と言っても」が問題となっています。「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えないなら、何の役にも立ちません。そのような信仰は死んでいる信仰なのです。すなわち、それは無きに等しい信仰であり、全く無意味なのです。

 

ちょっと待ってください。私たちは何かをしたから救われたのではなく、神の恵みのゆえに、信仰によって救われたのではないのですか。パウロはエペソ人への手紙の中で、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」(エペソ2:8)と言っています。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。それなのに、そのような信仰は無意味だとか、死んでいるというのはおかしいのではないでしょうか。

 

確かにパウロは、私たちが救われるのは神の一方的な恵みによるのであり、行いによるのではないことを強調しています。私たちが神に受け入れられるのはキリストの義を土台にしているのであって、私たちの行いによるのではありません。それが聖書の真理です。しかし、そのようにして始められた救いの御業は必ず行いとなって現われるのであって、行いが伴っていないとすればその信仰は死んだものであるか、その信仰に何らかの問題があるかなのです。というのは、パウロはそのエペソ人への手紙の中で続いてこう言っているからです。

「私たちは神の作品であった、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:20)

パウロは、私たちは恵みのゆえに、信仰によって救われると述べた後ですぐに、それは良い行いをするためだと言いました。つまり、パウロもヤコブも同じ行いの伴う信仰について語っていたのです。勿論、身体的、精神的、その他の理由でしたくてもできない場合もあります。しかし、そうしたケースは別として、自分には信仰があると言っても、それが単なる口先だけの、言葉だけの信仰であるとしたら、そのような信仰は死んだものであり、全く意味がないものなのです。

 

Ⅱ.見せることができない信仰(18-19)

 

次に、18節と19節をご覧ください。

「さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

ヤコブはここで、次の話題に入っています。それは、見せることができる信仰についてです。信仰そのものは、目に見えないものですが、信仰の行いは見ることができるのであって、もし見せることができないとしたら、その信仰は偽善的な信仰なのです。

 

多くの人が、信じているけれどもその信仰を見える形で示すことはできないと言いますが、それは正しくありません。というのは、その信仰は行いによって現わされるからです。たとえば、皆さんは今安心して椅子に座っていますが、なぜ安心して座っていることができるのでしょうか。そう信じているからです。この椅子は絶対に壊れないと疑うことなく信じているからこそ座っているのであって、もし壊れるかもしれないと思っていたら怖くて座ることができないでしょう。壊れないと信じているからこそ座るのです。つまり、座るというその動作の中に、その人の信仰が現われているのです。言い換えるならば、その人の行いを見れば、その人が何を信じているかがわかるということです。信仰には、行いをもたらす力があるからです。ですから、その人が何を信じるかということはとても重要なことなのです。

 

これはたとえ話ですが、世界的に有名な天才的な綱渡り師がいるとします。彼はこれまでどんな困難なところでも一度も失敗したことがなく渡ることができました。そして、今、目の前の崖から崖に一本の綱が張られていて、それをだれかをおんぶして渡るとします。彼は見ている人に聞きます。「向こう側に渡れると思う人?」すると全員が手を上げます。そこで彼は続いてこう尋ねます。「それでは自分におんぶしてもらってもいいと言う人?」すると誰も手を上げません。なぜなら、もし誤って落ちてしまったら自分のいのちはないからです。すなわち、信じているようでも、本当に信じていないのです。本当に信じるとは、実際に彼におんぶしてもらうという行為に現れます。本当に信じているなら、その信仰を見せることができるのです。

 

そして、見せることができない信仰とはどのようなものかを、ヤコブは19節でこう言っています。「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

 

「神はおひとりだと信じています。」これは申命記6章4節のみことばです。そこには、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。」(申命記6:4)とあります。これはユダヤ人の信仰告白です。ユダヤ人は今でもこのみことばを安息日ごとに告白しています。これはユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれた手紙ですから、ヤコブはあえてこのみことばを取り上げたのでしょう。それは私たちで言うならば、イエスがキリストであり、救い主であると告白するようなものです。このように告白することはすばらしいことです。なぜなら、そのように心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。

 

しかし、驚くなかれ、悪霊どももそう信じているのです。悪霊どもは確かに神の存在を信じており、またキリストが神の子であることも信じています。マルコの福音書3章11節、12節には、「また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、あなたは神の子です、と叫ぶのであった。」とあります。そればかりか、「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(ルカ8:31)とあります。つまり悪霊は、キリストがさばき主であり、最終的な刑罰の場所があることも信じているのです。そして悪霊どもはそう信じて、身震いしているのです(マルコ1:23-24)。

 

しかし、信じて身震いすることと、神の救いを受け入れて救われていることとは全然違います。本当の信仰とは、神の救いについての正しい知識を得て、それを受け入れることです。パウロはこのことを新しい創造と呼んでいます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)つまり、新しく生まれ変わる新生の体験なのです。

 

前回の申命記の学びで、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」(申命記30:6)というみことばを学びました。いったいイスラエルはどうすれば心を尽くし、精神を尽くして、主を愛し、主に従うことができるのか。それは彼らの心を包む包皮を切り捨てることによってです。心を包む包皮とは、肉体の割礼に対する心の割礼のことです。イスラエルの民は、彼らが神の民であることのしるしとして、生まれて八日目に割礼を受けました。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。それはユダヤ人にとっては神の民であることのしるしとしてとても重要なものでした。それは、ユダヤ教に改宗する人たちにも求められていました。けれども、彼らがどんなに肉体の割礼を受けても意味がありません。なぜなら、それはただ形式的なことであって、それだけで心を尽くして神に従うことなどできないからです。彼らが神に従うためにはそうした肉体の割礼ではなく、心に割礼を受けなければなりませんでした。心を包む皮を切り捨てなければならなかったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちがバプテスマを受けても、それがただの形式的なものであるならば救われることはなく、私たちが救われるために必要なのはキリストを信じる信仰によって、私たちの心が神の御霊によって新たく生まれ変わることによってなのです。それが心の割礼であり、新しい創造なのです。そのような新しい創造を体験した者は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)とあるように、全人格的、全生涯的にキリストを受け入れて生きるようになるのです。

 

「行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。」と言われても、死んだ信仰にはいのちがないのですから、見せようにも見られません。しかし、ヤコブはここで、「私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」と言っています。それは決して高慢になって行っているのではなく、そうした偽善的な信仰に対する彼のチャレンジであり、悔い改めと神への従順を求める神からのメッセージなのです。

 

Ⅲ.生きた信仰(20-26)

 

次に、20節から26節までをご覧ください。

「ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

 

信仰と行いを分離して、一方がなくても他方があるからと反対する人たちに向かって、ヤコブは、信仰と行いとは不可分のものであることを旧約聖書の二人の人物を取り上げて、さらに説明を加えています。その二人とはアブラハムとラハブです。

 

ユダヤ人にとって、アブラハムは信仰の父でした。ヤコブによると、そのアブラハムが義と認められたのはいつのことであったかというと、彼がその子イサクを神にささげた時であったと言っています。彼はその行いによって義と認められたというのです。

 

しかし、創世記を見ると、アブラハムが義とみなされたのは創世記15章6節の時点であって、その時なはまだイシュマエルもイサクも生まれていませんでした。人間的に考えれば、アブラハムに子どもが生まれ、その子孫が天の星のようになるという神の約束が実現することが、全く考えられない時でした。それにもかかわらず、アブラハムは神の約束を信じたのです。主はそれを彼の義と認められました。ローマ4章3節やガラテヤ3章6節でパウロが言っている「アブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」ということばは、この時のことです。

 

しかし、ヤコブが「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。」(21)と言っているのは、それから三十年も後の創世記22章の出来事なのです。いったいこれはどういうことなのでしょうか。これは、創世記15章6節で、その信仰が義と認められたということばが、22章のイサクをささげたという行いによって実証されたということです。ですから、行いによって義とされたということが救われるための条件としてではなく、義と認められる信仰は、行いによって証明されるということを意味しているのです。

 

22節を見ると、「彼の信仰は彼の行いとともに働いた」とありますが、それはこのことを表わしています。元々、アブラハムが生まれ故郷のウルの町を出た時も、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12:1)という神の召しに応答してのことでした。アブラハムの信仰はただ神を信じるというものでしたが、それは生きた神との交わりを通して育まれ、行動となって現われていきました。彼はたくさん失敗もしましたが、それでも神が恵みをもって祝福してくださったので、神への信頼が増していきました。その結果として、神からあなたの愛するひとり子をささげなさいと命じられた時も、神はイサクをよみがえらせることができると信じて、その命令に従うことができたのです。

 

ここには、「彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ」とありますが、これは、彼の信仰がその行いによって証明されたという意味です。アブラハムの信仰は、イサクをささげるという神への全き服従によって全うされたのです。このように全うされる信仰とは、神の約束のことばを土台として、そのみことばを受け入れ、そのみことばに生きることによって、捨て身になって神に信頼する信仰なのです。その時に、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼が神の友と呼ばれたように、私たちの中にも神の義が全うされるようになるのです。

 

そして、もうひとりの人は遊女ラハブです。彼女については次のように紹介されています。25節です。

「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。」

 

彼女については、ヨシュア記2章に記されていますが、彼女について特筆すべきことは、彼女がカナン人、つまり異邦人であったこと、しかも遊女であったということです。神の救いは決して、その人の素性や行いによって妨げられるものではないことがわかります。しかし、いったいなぜここでわざわざ遊女ラハブのことが取り上げられているのでしょうか。アブラハムならわかります。彼は信仰の父であり、神の友と呼ばれた人物です。しかし、彼女は異邦人であり、遊女でした。そんな彼女がわざわざ取り上げられているのには一つの理由があります。それは、彼女がアブラハム同様、行いによって義と認められた者であるということです。つまり、行いによって、その信仰が全うされた、証明されたということです。いったい彼女はどのようにその信仰を全うしたのでしょうか。

 

25節には、彼女は、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、とあります。彼女は自分の命の危険を冒してイスラエルの使者たちを招き入れ、招き入れただけでなく、別の道から送り出しました。いったいなぜ彼女はそこまでしたのでしょうか。ヨシュア記によると、彼女はイスラエルにはまことの神がおられ、その神がカナン人を滅ぼされる計画を持っておられるということを知っていたからでした。つまり、彼女は、その方こそ救い主であると信じていたので、その使者たちをかくまい、自分と自分の家族を救ってほしいと頼んだのです。その信仰がそうした行いとなって現われていたのです。

 

結論として、ヤコブはこう言っています。26節をご覧ください。

「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。」

死とは、からだからたましいが離れることです。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は死んでいるのです。

 

皆さんの信仰はどうでしょうか。たましいを離れたからだのようにはなっていないでしょうか。私たちは、神の一方的な恵みによって救われました。しかし、本当に神の恵みによって救われたのなら、そこには必ず行いが伴うはずです。もっと神を愛し、神に従い、神のみ旨にかなった歩みをしたいという思いが溢れてくるはずなのです。もしそうでないとしたら、もう一度自分の信仰を吟味し、本当に救いの信仰を持っているのかどうかをよく調べてみる必要があるのではないでしょうか。

「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」(Ⅱコリント13:5)

そして、行いの伴った信仰、救いに至る信仰を全うしようではありませんか。