申命記31章

 きょうは、申命記31章から学びます。

 

 Ⅰ.新しい指導者ヨシュア(1-13

 

 まず1節から8節までをご覧ください。

「それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

モーセは、神がイスラエル人と結ばせた新しい契約のことばを宣言しました。それは、彼らの神、主を愛し、主の御声に従うならいのちと祝福をもたらし、もし、彼らが心をそむけて、主の御声に聞き従わず、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、死とのろいをもたらすというものでした。

 

それからモーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて言いました。2節です。

「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、『あなたは、このヨルダンを渡ることができない』と言われた。」

「出入りができない」とは戦いができないという意味です。なぜでしょうか。神によって、このヨルダン川を渡ることができないと言われたからです。どうして主はモーセに、ヨルダン川を渡ることができないと言われたのでしょうか。それは彼が百二十歳という高齢になって体力がなくなったからではありません(34:7)。それは、過去において、あのメリバで水を求めたイスラエルの民に対して彼が怒りをあらわにし、神が岩を打ちなさい(一度)と命じたのにもかかわらず、二度も打ってしまい、神を聖なる者としなかったからです。(民数記20:1-13)彼は怒りのゆえに、神のみことばに正確に従わず、自分の思いのままに走ってしまいました。それで彼は約束の地に入れないと宣言されたのです。

このようなことが私たちにもよくあります。自分の感情に流され神のみことばからずれてしまうことが・・・。そういうことがないように注意しなければなりません。

 

しかし、たとえ、モーセがカナンの地に入って行くことができなくても、神が彼らの先に渡って行かれ、エモリ人の王シホンやオグになさったように、カナン人を滅ぼしてくださいます。それゆえ、彼らを恐れてはなりません。6節のみことばをご一緒に読みましょう。

「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」

本当に力強い言葉です。あなたが今、恐れていることはどんなことですか。不安に思っていることはどんなことでしょうか。それがどのようなことであっても恐れてはなりません。おののいてはなりません。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進んでくださるからです。

 

7節と8節をご覧ください。ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の前で、同じように言って、彼を激励しています。モーセはいなくなりますが、神の計画はヨシュアという新しい指導者が立てられ、彼をとおして成し遂げられていくのです。

 

次に9節から13節までを見てください。

「モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 

モーセは、律法を記録して、それをレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちに授けました。ここで言うみおしえが、モーセ五書全部を指すのか、申命記の核心的な内容を意味しているのかは明らかではありません。しかし、一つだけ明らかなことは、この中には神との契約締結に必要な内容が全部含まれていることです。そしてモーセは、彼らがカナンの地に入って行ったら、七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、主を礼拝するためにやって来る時に、このみおしえの書を読んで聞かせなければなりませんでした。

 

仮庵の祭りは、イスラエル人がエジプトを出た後の40年間を荒野で過ごしたことを思い出し、無事に約束の地に入ることができたことを仮の住まいに住むことによって思い出すために行いました。そしてそれはまた、主イエスが地上に来てくださり、「仮庵となられた」ことを喜ぶものでした。それによって神と人との和解をもたらされたからです。

そしてそれはまた、その年のすべての収穫の完了を祝う祭りでもありました。救いの完成のひな型でもあったのです。それはキリストの再臨によってもたらされる千年王国を指し示すものでもあったのです。

 

ですから、仮庵の祭りは、エジプトで仮庵(テント)で暮らしたことの記念から始まり、この地上に住まわれ神との和解をもたらしてくださったキリストと、やがて千年王国が到来する喜び、そのすべてがつながっている喜びの祭りなのです。その祭りにおいて、このみおしえが読まれなければなりませんでした。それは、12節にあるように、男も女も、子どもも、彼らの町囲みの中にいる在留異国人もみな、このみおしえを読んで聞いて学び、彼らの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うためです。

 

私たちはどれほどこのみおしえを聞いて学んでいるでしょうか。このみおしえを喜び、これを守り行い、主を恐れているでしょうか。私たちは新年度も聖書通読に力を入れますが、それはまさにこのためであることを覚え、喜んで聞き従っていく者でありたいと思います。

 

Ⅱ.主のあかし(14-23


 次に、14節から18節までをご覧ください。

「それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。」

 

ヨシュアを新しい指導者として立てたモーセは、ヨシュアとともに会見の天幕に立ちました。すると主は会見の天幕の雲の柱のうちに現れて仰せられました。それはイスラエルの民が外国の神々を慕って淫行(偶像崇拝)をしようとしていること、そしてそのようにして神と結んだ契約を破るなら、神の怒りが燃え上がり、彼らを滅ぼし尽くすというものでした。これはイスラエルの民の偶像崇拝を未然に防止するための神の警告でした。その日、イスラエルの民は、「これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからだ。」と言うようになりますが、それは反対です。神がおられるから、そのようなことが起こるのです。時として私たちも同じようなことを言ってしまうことがありますが、注意したいものですね。それは神がいないからではなく、神がおられるから、神がおられるから、そのようなことが起こるのだということを。

 

19節から22節までをご覧ください。

「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。」

 

神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。それはイスラエル人に対する主のあかしです。彼らが約束の地に入り、そこで食べて満ち足り、肥え太り、ほかの神々のほうに向かい、神との契約を破り、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかるとき、それがこうした理由からだということを彼らが知るためです。

 

それにしても、モーセの死の直前の最後の仕事は歌を書き記すことでしたが、その歌はのろいがもたらされたことを思い起こさせるための歌でした。何とも悲しいことでしょう。しかし、私たちには、人にいのちを与えるところの務めが与えられていることを覚えて感謝したいと思います。

 

23節をご覧ください。

「ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

最後に神は、カナンの地に入るヨシュアに対して、もう一度「強く荒れ。雄々しくあれ」と言って、励ましています。

 

Ⅲ.あなた道を主にゆだねよ(24-30

 

最後に24節から30節までを見て終わりたいと思います。

「モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。」

 

モーセは、そのみおしえの書を書き終えると、契約の箱のそばに置くようにとレビ人たちに命じました。なぜでしょうか。それは、それが神との契約であったからです。そのようになさったのは、イスラエルの民がかたくなで、うなじのこわい民であることを神が知っておられたからです。神は、16節のところで既に、イスラエルの民が、モーセの死後に、神を捨てることを語られました。モーセもエジプトを出てからこのヨルダン川に至るまで、いやというほど、経験して、よく知っていました。ですから、モーセは最後に、彼らが堕落することと、道から反れて主を怒らせるようになることを預言しているのです。

 

これはイスラエルのことだけでなく、私たちにも言えることです。私たちもこれまでもそうでしたが、いつも主の道から反れて自分勝手に歩みやすいものです。いつも堕落して、神の道から離れてしまうのです。ひどいことに、そのことにすら気付かないことが多いのです。ですから、いつも自分の感情や思いではなく、主のみおしえに歩まなければなりません。

 

パイロットが飛行訓練学校で訓練を受けるとき、教官はつねにこう強調するそうです。「操縦席についたら、決して自分の感覚を信じるな。特に悪天候の中で飛行するときや高度が上昇するとき、それに空中で航路からそれてしまったときは、なおさらだ。そのときは計器を信じるんだ。」

あるパイロットが訓練を終えて実際の飛行をしていました。彼は飛行感覚については自信がありました。訓練によって飛行感覚を身に着けていたからです。ある日、飛行中に思わしくない天候にあい、前後の見境もつかないほどの深い霧の中に閉じ込められてしまいました。彼は自分の飛行知識のすべてをかき集めましたが、次第に五里霧中に陥ってしまいました。方向さえもわからなくなってしまったのです。そのとき、飛行学校で教官が言っていた言葉を思い出しました。

「計器を見ろ。計器を信じてそれに従え。」

自分の感覚と計器の表示はまるで違っていました。しかしこのパイロットは計器を見ながら方向と高度を把握し、落ち着いて操縦したので、すぐにその状況を抜け出すことができました。

私たちの人生にも、悪天候に見舞われることがあります。そんなとき、自分の知識と自分の感覚は問題解決の役には立ちません。かえってそのような慣れた経験が、その問題をさらに深みにはまり込ませてしまうことがあります。

私たちの人生の計器は私たちではありません。私たちの人生の正しい計器は、神のみことばなのです。今あなたが困難な悪天候に見舞われているなら、過去の経験を思い起こす前に、他の人たちの意見を聞く前に、奥まった部屋に入り、計器の数値を示してくださる神に祈り求めてください。そして、そのまま従ってください。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を 認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6

ヤコブの手紙2章1~13節 「人をえこひいきしてはいけません」

きょうは、「人をえこひいきしてはいけません」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。神はそのために真理のみことばによって、私たちを新しくお生みになりました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。大切なのはその真理のみことばを聞くだけでなく、それを実行することです。そのみことばの実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。

 

この「えこひいきする」ということばは、顔を持ち上げるという意味のことばから来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節には、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」とあります。ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が公義であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。いったいなぜ人をえこひいきしてはいけないのでしょうか。ヤコブはきょうの箇所でその三つの理由を述べています。

 

Ⅰ.栄光の主イエスを信じる信仰を持っているのですから(1-4)

 

第一の理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。1節から4節までをご覧ください。1節にはこうあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光の主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は昔、神の幕屋に宿り(出エジプト40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネ1:14)。そして今日、彼を信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、彼を信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました(Ⅰコリント6:19-20)。クリスチャンとはそのような者なのです。神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、物質、あるいは富の栄光といったものは色あせてしまいます。もはやりっぱな服装であるとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか、お金持ちであるかどうかといったことはどうでもいいことであり、そういうことで人を差別してはいけないのです。

 

2節から4節までをご覧ください。

「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

ここでヤコブは、えこひいきとはどういうことなのかを具体的な例を取り上げて説明しています。「あなたがたの会堂に」とあるのは、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことを表わしています。そこにはいろいろな人々がやって来るわけですが、たとえばそこに二種類の人がやって来たとします。お金持ちと貧乏人です。お金持ちは金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時は、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたようです。そのためある人は、中指を除いた全部の指に指輪をはめ、それでもあきたらずに中には一本の指に二つも三つも指輪をはめていた人もいたそうです。彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのです。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいました。そのようにすることによって、自分を少しでもよく見せようとしていたのです。

 

一方で、貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物とてないので、みすぼらしい身なりをし、宝石などで飾ることもできません。そのような二種類の人がやって来た時、果たしてあなたはどのような態度をするのかというのです。

 

もしあなたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。でなければ、私の足元にすわりなさい」と言うとすれば、あなたは人を差別しているのであって、悪い考えで人をさばく者になっているのです。

 

この描写は、決して誇張されたものではありませんでした。というのは、初期の礼拝式文書の中に次のような教訓があったからです。

「もしりっぱな着物をきた男か女が入って来たなら、その人がその地区の人であろうと他の地区からやって来た人であろうと、兄弟であり長老であるあなたは、その人にへつらってはならない。もしあなたが神のことばを語り、あるいは聞き、あるいは読んでいるなら、その人たちに座席を与えようとしてみことばの奉仕を中止してはならない。ただ静かにしているがよい。というのは、兄弟たちが多分接待してくれるからである。もし彼らに座席がないなら、兄弟姉妹の中の愛に富んだ人が立って、彼らに座席を提供するであろう。もし自分の地区か他の地区の貧しい男か女が入って来て座席がなければ、長老であるあなたは、たとえあなたが土間に座らなければならないとしても、心からその人のために座席を作ってやるべきだ。人の尊敬を得るためではなく、神から見られるためである。」

 

こういう教訓があったのです。そしてここでは礼拝指導者が、富んでいる人が入ってきた時に礼拝を中止して、特別席を設けるように指図することがないように注意するようにということが暗に示されています。

 

初代教会には、こうした社会的な問題があったことは否めません。主人が自分の奴隷の隣に座ったり、主人が礼拝に到着したら、その礼拝で自分の奴隷が礼拝の指導をしていたり、礼典の司式者であるということがあったからです。そういうことがあれば非常に具合が悪いということは、容易に想像することができたからです。単に生きている道具にすぎないと思われていた奴隷と主人とのギャップは、今では想像することができないほど大きかったに違いありません。さらに圧倒的に貧しく、賤しい人々で満ちていた当時の教会の中に富んだ人が回心者として加えられることは、大きな誘惑であったに違いありません。

 

けれども、たとえ現実的にそのような問題があったとしても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所でした。なぜなら、教会は栄光の主イエス・キリストが臨在しておられるところであり、この方の前には格付けや身分や名声といった一切の差別がないからです。この方を信じて生きる者にとって、そうしたものは一切色あせてしまうからです。自分の罪と汚れの大きさをみるならさばかれても致し方ないような者が救われたのでありますから、そこにあるのはただ神の恵みだけなのです。この神の卓越した栄光の前には、人の功績や価値の差別といったものは何もないのです。

 

にもかかわらず「自分たちの間で差別を設ける」ならば、その人は栄光の主イエス・キリストを信じているというよりも、この世の富に足を取られているのであり、二心のある人なのです。そういう人は、その歩む道のすべてに安定を欠いているのです。そのような人に求められていることは、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持つことであり、このキリストの目とキリストの心を持つことです。私たちはいつでも、人を栄光の主イエス・キリストを通して見て、判断し、受け入れるべきなのです。

 

Ⅱ.神の選びからくる兄弟愛の実践(5-7)

 

第二のことは、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。5節から7節までをご覧ください。

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

なぜ貧しい人を軽蔑してはいけないのでしょうか。それは、神がこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を相続する者とされたからです。

 

イエス様がナザレで最初の説教をした時、それは次のようなものでした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

イエスが遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝えるためでした。イエスは絶えず貧しい人々に特別な伝言をもたらしてきたのです。

 

また、イエスの山上の説教の第一番目の祝福は何だったかというと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)というものでした。イエス様の目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは、富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりももっと富を求めるようになります。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です 。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われましたが、それはそういう意味です。決して富んでいる人には救いが必要ないということではなく、富んでいる人が砕かれて、主の救いを求めることは難しいということです。

 

しかし一方で、それは神の計画であったともいえるのです。そのように神が弱い者たちや取るに足りない者たちを選んでくださることによって、有る者を無い者のようにしようされたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「兄弟たち、あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)

 

これは本当に不思議なことです。神はこの世の知恵ある者や力ある者ではなく、普通の人、いや無に等しいような者を選ばれたのです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない。」と言いましたが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

 

それなのに、こうした貧しい人たちをないがしろにするようなことがあるとしたら、それは全く神のみこころにかなったことではないと言えます。むしろ、あなたがたをしいたげるのは、そのように富んだ人たちなのです。イエス様のたとえ話の中に、七を七十倍するまで赦しなさいという教えがありました。1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借りのある人に対して首を絞め、「借金を返せ」と言い、その借金を返すまで、彼を牢屋にぶち込みました。(マタイ18:23-35)。当時はそういうことが実際にありました。そして、そのようなことをするのはこうした富んだ人たちなのに、どうしてあなたはそのような人たちにへつらい、貧しい人たちを軽蔑するようなことをするのか、とヤコブは言うのです。

 

Ⅲ.最高の律法(8-13)

 

ですから、第三のことは、そのように人をえこひいきすることは神の律法にかなっていないということです。8節から13節までをご覧ください。まず8節と9節をお読みします。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは実を犯しており、律方によって違反者として責められます。」

 

どういうことでしょうか。ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を勧めています。その律法とは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節のみことばですが、イエス様はこれを最高の律法と言われました。なぜなら、律法のすべては、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの二つの戒めに要約することができるからです。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。これが最高の律法です。それなのに、もし人をえこひいきするということがあれば、この律法に違反することになります。そうであれば、罪を犯していることになり、律法の違反者として責められることになるのです。なぜなら、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。10節と11節をご覧ください。ここには、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」とあります。

 

私たちは、どちらかというと、不品行とか殺人、嘘、不正といった罪は大きな罪のように感じますが、人をえこひいきすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神様の目ではどれも同じ罪であり、特に、この人をえこひいきすることは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

どういうことでしょうか。貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれるようになるということです。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)と言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも図られるからです。」(マタイ7:2)それと同じように、もし私たちが人をあわれむなら、やがてあわれみを受けることになります。しかし、これほどのあわれみを受けていながらあわれみを示すことがなければ、その人に対するさばきは、あわれみのないさばきとなって自分に返ってくるのです。

 

タスカーという聖書注解者はこう言っています。「義とされた罪人によって地上に示されるあわれみこそ、彼にとって、いつの日か最後の審判のとげがすでに抜き去られていることを知る、その確信の確かな土台である。」

 

このように、神のあわれみを受けた者として、人をえこひいきするのではなく、だれに対しても優しく、親切にしなければなりません。イエスは、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。神がえこひいきも偏愛もされないのなら、私たちも神と同じ高い水準の愛をもって人を愛するべきです。人を軽蔑することは、神のかたちに似せて造られた人を虐待し、神が愛されそのためにキリストが十字架で死なれた人を傷つけることになるのです。さまざまな形の人種差別や偏見は、何千年もの間、人類の疫病として存在してきましたが、このままではいけないのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っていますが、私たちはキリスト・イエスにあって一つとされたのですから、そうした偏見や差別を捨て、一つとなることを求めていかなければなりません。

 

先週、アメリカのトランプ大統領がイスラム教国の七か国からの渡航者を一時的に入国禁止にする大統領令に署名して世界中が大混乱しましたが、皆さんはこれをどのように受け止められたでしょうか。これは、テロリストをアメリカ国内に入国させいないようにするための措置ですが、すべてのイスラム教徒が過激派なわけではありませんし、イスラム教徒をそのような目で見ることは間違っています。また、難民をはじめすべての人を受け入れるようにと命じている聖書の教えにも反しています。そうした偏見や差別を捨てて、キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合い、受け入れ合わなければならないのです。

 

しかし、それはトランプ大統領だけの問題ではありません。それは、私たちの問題でもあるのです。アメリカではこれまで多くの難民や移民を受け入れてきた結果こうした問題と取り組まなければならない事情がありますが、日本ではそもそもこうした難民を受け入れて来なかったという事実があるのです。昨年、日本に難民申請があったのは7,586件ですが、難民認定者として認められたのはわずか27人にすぎませんでした。一昨年はわずか11人、その前の年は6人です。あまりにも少なすぎます。このような状況で、どうやってトランプ大統領を批判することができるでしょうか。私たちももっと真剣に考えなければなりません。隣人を愛することや、こうした人たちへの偏見を捨てて、受け入れることを・・。

 

1月26日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー」は、1968年のメキシコ五輪・男子200メートルで銀メダルを獲得したオーストラリア人・ピーター・ノーマンにスポットをあてた番組でした。  このメキシコ五輪が開催された1968年は、アメリカ黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求める抗議運動が継続し、ベトナム戦争の反対運動が起こっていた時代でした。

男子200メートルでは、2人のアメリカ黒人選手が金と銅メダルを獲得。そしてオーストラリア白人選手のピーター・ノーマンが銀メダリストとして表彰台に上がりました。すると、金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスが、アメリカの国歌が流れ星条旗が掲揚される間、壇上で頭を下げ、黒手袋をはめた拳を突き上げたのです。これはブラックパワーサリュートといって、黒人差別に抗議する行為ですが、これが波紋を呼び、トミーとジョンは、長い間アメリカスポーツ界から追放。黒手袋をはめた拳を突き上げませんでしたが、ピーター・ノーマンも、抗議運動に同調したということで批判され、地元のオーストラリアからも除け者扱いされ、4年後の1972年に開催されるミュンヘン五輪にあたってピーターは、予選会で3位の好成績を残したにもかかわらず代表にも選ばれませんでした。その後彼は、競技生活を引退し、引退後は体育の教師や肉屋などの職を転々としました。

結局ピーターは2006年、心臓発作でこの世を去りましたが、最後まで国から受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま亡くなってしまったのです。ピーターの葬儀ではアメリカからトミーとジョンがやって来て棺を担ぎました。オーストラリアでは無視された存在になっていても、彼らは決してピーターのことを忘れず、2人はピーターの棺に付添ったのでした。

そして、2012年、オーストラリア政府は、ピーターに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかった国の過ちと、ピーターの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかった」と謝罪したのです。ピーター・ノーマンは、たった1人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した手本になったのです。

 

現代ではブラックパワーサリュート事件は存在しないかもしれませんが、しかし、私たちの心の中にはまだ人をえこひいきする壁が残っているのではないでしょうか。私たちはついつい人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人をえこひいきすることなく、だれに対しても親切にし、心の優しい人になることを求めていきたいと思います。

申命記30章

 

 きょうは、申命記30章から学びます。

 

 Ⅰ.あなたを再び集める(1-10

 

 まず1節から5節までをご覧ください。

「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

前章でモーセは、イスラエルの民と新たな契約を結びました。それは、ホレブで結ばれた契約とは別のものです。それは、彼らが約束の地に入って行ってから神の民としてどうあるべきなのかが示された新しい契約であり、その契約に従う者には祝福を与え、従わない者にはのろいをもたらすというものでした。しかもそれは彼らの行いによるのではない、神の真実とあわれみによってもたらされる恵みの契約です。そして、その祝福とのろいが彼らに臨み、彼らがすべての国に散らされた時、それらのことを心に留め、彼らの神、主に立ち返る時、どのようなことが起こるのかがここで語られています。3節から5節までを覧ください。

 

「あなたの神、主は、あなたの繁栄を元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」

 

主は何とあわれみに富んでおられる方でしょうか。たとえ神のみことばに従わずに罪を犯し、神のさばきとのろいを受けることがあっても、それで終わりではありません。その罪を悔い改め、主に立ち返り、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、主は彼らの繁栄を元どおりにし、彼らをあわれみ、すべての国々の民の中から、彼らを再び集めるというのです。そして、彼らが所有していた地に彼らを連れて行き、その地を所有させ、彼らを栄えさせ、その先祖たちよりもその数を多くさせるというのです。

 

私たちはまだこの預言の完全な成就を見てはいませんが、これまでのイスラエルの歴史の中でいくつかその成就を見ています。たとえば、イスラエルはB.C.587年にバビロンによって捕えられましたが、その70年後にカナンの地に帰還しています。また、A.D.70年にはローマによって滅ぼされ多くのユダヤ人が全世界に離散しましたが、1900年代になりシオニズム運動といって、全世界に散ら連れていたユダヤ人がイスラエルに帰還しました。そしてついに19485月に、イスラエル共和国が建国されたのです。1900年もの間国を失い流浪していた民族が再び国を興すといった話を聞いたことがありません。けれども、イスラエルはそれを成し遂げました。それはいにしえの昔、旧約聖書にこのように預言されていたからです。それが成就したのです。それはこの預言の成就の一部なのです。

 

それでは、ユダヤ人がみな主に立ち返ったのかと言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分たちのメシヤであると信じておらず、神の救いを受け入れていないからです。しかし聖書を見ると、このイスラエルの民もやがてイエスをメシヤとして受け入れるようになるとあります。それはイエスが再臨される時であり、その時彼らは患難の中を通って、初めて自分たちが槍を突き刺した方がキリストであったことを知り、胸を打って悔い改めるのです。ですから、大患難の時には、イエスが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。この時代に多くのユダヤ人がイスラエルに集まっていることはその預言に向かって大きく前進している証拠であるといえるのです。そして、彼らが悔い改めるとき、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章に書かれてある預言の成就です。

 

6節から10節までをご覧ください。

「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

「心を包む皮を切り捨てる」というのは、心の割礼のことです。イスラエル人にとって割礼は、彼らが神の民であることのしるしでした。しかし、どんなに肉体に割礼を受けていても、神のみ教えに歩まなければ何の意味もありません。彼らが割礼を受けたのは彼らが神の民であって、神の教えに歩むためだったのです。しかし、彼らはその神との契約を守ることができませんでした。ですから、大事なことは新しい創造です。(ガラテヤ6:15)心に割礼を受けることです。イスラエルが神のみこころに歩めなかったのは心を包む皮を切り捨てられていなかったからです。そこで主は、その心を包む皮を切り捨てると言われたのです。その時彼らは、心を尽くし、精神を尽くして、彼らの神、主を愛し、それで彼らは生きるようになります。そして、イスラエルを迫害したイスラエルの敵にのろいを下されます。まさに、アブラハムを祝福する者は祝福され、のろう者はのろわれます。

 

一方、イスラエルはどうなるかというと、8節にあるように、再び、主の御声に聞き従い、主のすべての命令を行なうようになります。心に割礼を受けるからです。心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができるようになるのです。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。

 「あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。」

 

こうして、イスラエルは、神との契約を破り、神の命じられたことに従わなかったことで神ののろいを受けますが、主はそんな彼らを再び栄えさせます。それは彼らが心に割礼を受けて、神に立ち返り、心を尽くして、精神を尽くして、主の御声に従うようになるからです。

 

それは、私たちも同じです。私たちも主の御声に従わないで罪を犯し、主のさばきとのろいを受けるようなことがありますが、悔い改めて、主に立ち返り、心を尽くして、主により頼むなら、主は再び私たちを回復させ、その祝福の中へと入れてくださるのです。失敗してもそれで終わりではありません。そのためには私たちは心に割礼を受けること、神の聖霊によって、かたくなな心を砕いていただきたいと思います。

 

Ⅱ.みことばは、あなたのごく近くにある(11-14


 次に、11節から14節までをご覧ください。

「まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」

 

ここでモーセは、主の命令とおきてとを守ることについて、それは彼らにとって難しすぎることはないと断言しています。それは遠くかけ離れたものではないからです。それは天に上って取ってこなければ聞くことができないものではありません。また、海のかなたに渡って取って来なければ聞くことができないものでもないのです。それは、あなたのごく身近にあり、あなたの口に、あなたの心にあるのです。ですから、いつでも聞いて行うことができるのです。

 

パウロはローマ人への手紙106節から10節までのところでこの箇所を引用し、信仰による義について語っています。すなわち、私たちが救われるためには天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとかということではなく、信仰のことばを受け入れるということ、すなわち、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、救われるのです。なぜなら、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。そのためにどこか遠く行くことも、天に上る必要もありません。神の救いのみことばはあなたのすぐ近くにあり、あなたの心にあるからです。

 

Ⅲ.あなたはいのちを選びなさい(15-20

 

最後に15節から20節までをご覧ください。

「見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。」

 

いのちか死か、幸いかわざわいか、どちらを選ぶのかという二者選択です。もし彼らが主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るなら祝福され、反対に、それに聞き従わず、ほかの神々を拝み、それに使えるなら、必ず滅びうせます。彼らが入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできません。だから、あなたはいのちを選びなさい、というのです。

 

どちらを選ぶのは大切なことです。それは、私たちの選択にゆだねられています。そして、私たちはいのちを選ばなければなりません。しかし、私たちはそれでものろいを選択してしまいます。いのちをえらばなければならないということをわかっていても、自分の欲に負けて誘惑されてしまうのです。ですから、私たちの肉の力ではこうした選択する力さえありません。私たちの心は罪に支配されているからです。しかし、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放してくれました。神はご自身の真理のみことばによって私たちを新しく産ませさせてくださいました。その御霊によって、肉に勝利することができます。そして、いのちを選ぶことができるのです。(ヤコブ1:18

 

ここでモーセは、「天と地とを、証人に立てる。」と言っています。確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。この神の御前で、私たちは、「私と私の家とは、主に仕える」と宣言しましょう。その中で、神のみことばを行い、いのちを得る者でありたいと思います。

ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。

申命記29章

きょうは、申命記29章から学びます。モーセは28章で神の契約を守る者に与えられる祝福と、神の契約を破る者にもたらされる呪いがどのようなものなのかを語りました。しかも呪いに関する記述の方がずっと長いのです。祝福の6倍ものスペースを割いて語られました。聞いているだけで気が重くなりそうです。しかし、幸いなことは、神の呪いを受けても致し方ないような私たちのために、神の御子であるキリストが身代わりとなって呪いを受けてくださったということです。それゆえに、私たちはこの方にあって神の祝福の中に入れられました。ですから、私たちののろいを一身に受けてくださったイエス・キリストの贖いを受け入れ、へりくだって、神のみおしえに聞き従わなければなりません。 

 1.新たな契約(1-15 

「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。」 

まず1節から8節までをご覧ください。モーセは今、ヨルダン川の東側にいます。そこでこれまでの過去を振り返りながら、イスラエルが約束の地に入って行った後にどうあるべきなのかをこくこくと語るのです。1節には、「これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」とあります。ここでモーセは、かつてホレブで彼らと結ばれた契約とは別に、新たな契約を結ばせようとしています。それはあのホレブでの契約とは別の新しい契約というよりも、あのホレブで結ばれた契約に追加しての契約といった方がよいでしょう。彼らが約束の地に入ってからどうあるべきなのかを語り、その神の命令に従うようにと結ばれる契約なのです。 

まずモーセは2節と3節で、以前イスラエルがエジプトにいた時のことを思い起こさせています。そこで神がどのような力ある御業を成してくださったのかを確認したうえで、それにもかかわらず神に従わなかったイスラエルの不信仰を取り上げているのです。いったい何が問題だったのでしょうか。4節にその原因が記されてあります。それは、「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」ということです。彼らは見てはいても見えず、聞いてはいても聞こえなかったので、神の真理を悟ることができなかったのです。それは今日に至るまで、ずっと同じです。 

イエスはそのたとえの中で、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。それは聞いてはいても実際のところは聞いていないからです。聞き方が重要です。御霊によって聞き、御霊によってわきまえるのでなければ、神の真理のことばを本当に理解することはできません。

パウロはこう言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(1コリント2:14-15ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるように祈らなければいけません。 

しかし、それにもかかわらず、神はそのような彼らを滅ぼすようなことはなさいませんでした。5節には、「私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが着ていた着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」とあります。すなわち、ここで結ぶ契約は彼らの真実さのゆえに結ばれるものではなく、神の真実に基づいた恵みとあわれみによっ結ばれるものなのです。 

6節には、「あなたがたはパンを食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。」とあります。どういうことでしょうか。パンやぶどう酒は祝福の象徴ですが、そのようなものは彼らには必要なかったということです。なぜなら、神ご自身が彼らの祝福だからです。そのようなものは確かに神からの祝福であるのには違いありませんが、その祝福によって心が高ぶって、神などいらないということにもなりかねません。ですから、神は彼らにパンも強いぶどう酒も与えませんでしたが、そのことが返って、彼らが主を知ることにつながりました。その代わりにマナを与えられることによって、彼らは、人はパンによって生きているのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きていることを確信することができました。私たちはとかく自分の目に悪いことが起こったり、何か欠けたものがあるときに主により頼みます。このことが、主を知っていくことの訓練になるのです。 

また、イスラエルの民がこのヨルダン川の東側にやって来たとき、そこにはヘシュボンの王シホンやバシャンの王オグが出てきましたが、イスラエルの民は彼らを打ち破ることができました。そして彼らの国を取り、それを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセの半部族に、与えることができました。 

何という神の御業でしょう。彼らが神の契約を守り、行うなら、彼らは栄え、彼らが想像していた以上の祝福を受けることになるのです。そのことを前提に今、主はイスラエルと新しい契約を結ばれるのです。それは人の従順によってではなく、神の真実に基づいた契約です。 

それでは、その契約を見ていきましょう。9節から15節までをご覧ください。

「あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」 

ここには何度も「きょう」ということばが繰り返されています。きょう、いったい何が起こるのでしょうか。モーセはここで「きょう」と言って、契約が今、結ばれることを宣言しています。それはイスラエルの長老たち、つかさたちといった指導者たちだけでなく、イスラエルのすべての人々、彼らの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで、すべての人を含んでいます。何の差別なく、全ての人がこの契約の中に含まれているのです。すべての人がこの契約を結ばなければなりません。神は決して呪うために契約を結ばれるのではありません。そうではなく、祝福するために契約を結ばれるのです。そのためには神の契約を守らなければなりません。 

この契約の中に入れられているという自覚を持っているかどうかというこがとても重要です。そうでなければここにある契約はただの絵に描いた餅でしかないからです。この契約の中に自分たちも入れられていると自覚しているから、そのような行動が生まれてまるわけです。 

それは私たちも同じで、私たちもこの契約の中に加えられた神の民であるという自覚がなければ、喜んで神のことばに従って生きていくことはできません。昔神はスラエルをエジプトの奴隷の中から救い出されたように、私たちをイエス・キリストの十字架の贖いによって罪の中から解放してくださったことを思うとき、感謝と喜びをもって心から神に仕えていきたいと思うようになります。 

2.のろいの誓いのことば(16-21 

次に16節から21節までをご覧ください。

「事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。」 

ここでモーセは、イスラエル人がエジプトに住んでいた過去と、今いるモアブの地までどのように導かれてきたのか、また、彼らの中にある憎むべき偶像を見たことを思い起こさせています。モーセは、個人であっても、家族であっても、部族であっても、その心が神から離れないように、また、そのような偶像に走ることによって毒草や、苦よもぎを生じる根を、イスラエルの中に生じないように、念を押して注意しています。というのは、このモーセの警告を聞いても、19節にあるように、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、そこに激しい神のさばきが降るからです。 

この19節の釈義は困難です。「潤ったものも渇いたものも」とは何を指しているのか、だれのことばなのかで意味が全く変わるからです。ほとんどの注解書は、これを前節で取り上げられている偶像崇拝者のことばとしてとらえていますが、そうすると前後の文脈の意味が全く通じなくなってしまいます。英語の聖書では、これを神が語られたことばとして解釈しているため、前後の文脈とも合致しとてもわかりやすい訳となっています。すなわち、「こののろいの誓いのことばを聞きながら『私は自分のかたくなな心に従っても大丈夫であろう。』」と自分自身を祝福する者があるなら、神は潤ったものも渇いたものと共に滅ぼし尽くす。」ということです。主はそのような者を決して赦そうとはなさいません。そのような者には激しい主の怒りとねたみが燃え上がり、この書に記されたすべてののろいがのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去ってしまいます。 

3.わざわいを下される(22-29 

次に、22節から29節をご覧ください。

「後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」

 

神との契約を守らない時、神は、その地にわざわいを下されます。後の時代、イスラエルの子孫や、遠くから来る外国人は、その地の災害と主がその地に起こされた病気を見て、こういうでしょう。「その全土は、・・・硫黄と塩によって焼土となり、種も蒔けず、目も出さず、草一本も生えなくなっており、主の怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」と。また、すべての外国人はこういうでしょう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」それは25節から28節にあるように、それは彼らの父祖の神が、彼らをエジプトの地から連れ出され、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、ほかの神々に行って仕え、それらを拝んだからである・・と。それで、主の怒りが、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされたからである・・と。 

このようにして見ると、神を捨て、偶像に走る者に対して、神がどれほどの大きな怒りで彼らをこの地から根こそぎにされるかがわかります。そして、それは当時のイスラエルに限らず、この書の契約の中に入れられている私たちも同じです。そして、私たちも自分ではどうすることもできない弱さを抱えた者であることを知ります。 

パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24と嘆いていますが、それは私たちも同じです。しかし、私たちは、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。神はご自身の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたからです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求がまっとうされるためです。 

何とすばらしい約束でしょうか。肉においては無力になったため、律法にはできないことを、神はしてくださいました。私たちはイエス・キリストを信じ、キリストの御霊によって生きるとき、その律法の要求を完全に行うことができるからです。ですから、私たちはこのキリストにとどまり、キリストの恵みに信頼して、神のみこころに歩めるように祈り求めていきたいと思います。神は砕かれた、悔いた心をさげすまれません。神の前にへりくだって、キリストの十字架の恵みに歩ませていただきたいと思います。 

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」
 
まだ書き記されていないみことばは、隠されたみことばであり、それは、主のものですが、書き記されたみことば、すなわち、啓示されたみことばは、私たちと子孫のものであります。そのみことばに対して、私たちに責任があるのです。ですから、まだ明らかにされていないことは主にゆだね、既に現わされたことば、すなわち真理の書である聖書のみことばを学び、そのみことばに堅く立って生きる者でなければなりません。そのように歩む者を、神が豊かに祝福してくださるのです。

ヤコブの手紙1章5~11節 「知恵を求める」

きょうは、ヤコブの手紙1章5節から15節のところから、「知恵を求める」というタイトルでお話しします。このヤコブとはイエスさまの異父兄弟のヤコブです。彼は迫害で国外に散っていたユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。どのように励ましたのかというと、前回の箇所で学んだように、さまざまな試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい、と勧めることによってです。だれも試練を喜ぶ人はいません。それは普通の感情で言えば辛く悲しいものなのです。それなのになぜヤコブは試練を喜ぶように、しかも、この上もない喜びと思いなさいと言ったのでしょうか。それは、試練には目的があったからです。その一つは、試練がためされると忍耐が生じるということです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、なぜなぜ買ってまで苦労をするのかというと、この忍耐が養われるからです。しかし、試練によって信仰がためされている人は苦労を買う必要がありません。すでに与えられているからです。忍耐は試練によって養われるのです。もう一つの目的は、信仰によって生じた忍耐を働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な人になるということでした。つまり、試練を通して信仰が成熟する、大人のクリスチャンになるということです。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と言ったのです。

 

きょうのところには、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧められています。これは前回のところで語られた試練を喜ぶということと無関係ではありません。つまり、さまざまな試練にあうとき、それをこの上もない喜びと思うためには知恵が必要であるということです。知恵とは何でしょうか。知恵とは、与えられた情報や知識を自分の生活の中に具体的に適応する能力のことです。しかし、この知恵とは人間的な知恵のことではなく、神からの知恵のことです。というのは、ここでヤコブは「知恵に欠けた人がいるなら、神に願いなさい」と言っているからです。なぜ知恵なのでしょうか。試練の中において、問題解決のための力や恵み、救出を願わないで、どうして知恵を求めるようにと言っているのでしょうか。それは、成熟したキリスト者となるために、神が成長の機会として試練を与えておられることを理解し、それに適切に応答するためには知恵が必要だからです。

たとえば、先日私が乗っている車が故障しました。車屋さんで見てもらったどうもオルタネーターという発電機が古くなったのが原因で、それを交換すれば問題ないということでした。しかし、この前はセルモーターが故障して交換して、今回はオルタネーターが壊れたということは、他にも悪い箇所が出てくることが考えられるので、そちらの方が心配だということでした。そういえば、夏になるとオーバーヒートの赤いランプがつくんですよと言うと、それはエンジンが確実にやられているということでしょうね。となると、交換してもどのくらい乗られるかわかりません、と言われました。オルタネーターだけの問題ならそれを交換するだけで済みますが、交換してもまた別の箇所に問題が生じるとしたら修理代がもったいなくなります。私としてはできるだけ部品を交換して乗りたいと思っているので、「でもお金がないから部品を交換してもらえますか。乗れるだけ乗りますから。」と言おうかと思いましたが、もうちょっと様子を見てからにしようと、「もうちょっと待ってもらえますか。家内と相談してからご返事したいと思います。どうせこれから年末年始に入るので整備もできないと思いますし。」と言って帰宅してみると、つばの週にはエンジンから焼いているようなにおいがして、今にも車が爆発でもしそうな大きな音がでたので、「ああ、これは無理だ」とはっきりしたので、交換することにしました。

私たちの日々の生活の中にはこういうことがたくさんあります。いったいどうしたらいいかと悩むことが多いのです。車の部品を交換した方がいいのか、買い替えた方がいいのか、やるべきなのか、それともやめるべきことは何か、行くべきなのか、留まるべきか、話すべきか、黙っているべきか・・・本当に悩みます。そのような時に必要なのがこの知恵なのです。人は例外なくさまざまな試練に会います。ちょうど車のエンジンがかからないように仕事でもエンジンがかからない時があります。人間関係でもさまざまなトラブルが起こります。車のブレーキがきかないように自分自身のブレーキがきかないことがあります。感情のコントロールをすることが難しい時があるのです。また予期しない事が突如として起こったりします。そのような時、自分の知識や経験ではどうしたらいいかわからないことがあるのです。そのような時に必要なのが、この神の知恵なのです。きょうは、この知恵を求めることについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に願いなさい(5)

 

まず第一に、神に願いなさいということです。5節をご覧ください。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

今までは自分の知恵や知識、経験で大丈夫だったかもしれませんが、しかし、それがきかなくなったとき、どうしたらいいかわからないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と言っています。なぜなら、その知恵は上から来るからです。ローマ16章27節には、神は知恵に満ちた方だとあります。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

神はこの天と地を造られた創造者です。その知恵と力をもってすべてのものを造られました。そして、神は今も知恵と力をもって万物を保持しておられます。神の知恵は私たちの知恵よりも優れていて、私たちが思う以上、考える以上の最善の道を持っておられます。私たちが試練に会い、どうしたらいいかわからず、八方塞がりになったとき、神に知恵を与えてくださるように願わなければなりませな。そうすれば、与えてくださいます。

Ⅰコリント10章13節には、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。神は耐えることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

1980年にアメリカの化学メーカー3M社から、糊付き付箋紙ポトスイット(Post-it) が販売されましたが、それがどのようにして発明されたかご存知ですか。それは失敗作から生まれた偶然の産物だったと言われています。この研究所に勤めていた研究員のスペンサーさんは、強力な接着剤を開発しようと研究していたのですがなかなかうまくいかず、失敗ばかりを繰り返していました。その研究の中でよくくっ付くけれどもすぐに剥がれてしまう奇妙な接着剤ができたのです。何かに使えそうだけれども何に使えるかがわからない、しかも、本来の目的であった強力な接着剤を作れないでいたのでとても苦しい状態でした。それから5年くらいした後、いつものように教会に行って聖歌隊として讃美歌のページをめくると、目印にしていたしおりがサッと落ちました。その瞬間彼の頭に「これだ!!」とひらめきました。よくくっつくがすぐに剥がれるものが役に立つものがここにあったと付箋紙を思い出したのです。今ではどこの家でも、どのオフィスでも使われて重宝していますが、このような失敗から新しい発見が生まれたのです。

それは試練も同じです。試練そのものは辛く悲しいように思われますが、そこから教えられることがたくさんあります。神は試練とともに脱出の道を備えておられるのです。ですから、試練に会ってもあきらめないで、その試練の目的は何か、神はそこから何を教えようとしているのかを求めなければなりません。そのためには知恵を求めることが大事なのです。

ヤコブはここで、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」と言っています。神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。あの人は特別で、自分はそうではないとか、神はあの人の祈りは聞かれるが、私の祈りは聞いてくださらないということはありません。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。なぜなら、神は私たちに神の御子を与えてくださったからです。ローマ8章32節にはこうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ありません。最愛のひとり子を与えてくださったのであれば、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないわけがあるでしょう。子どもが魚をくださいというのに、ちょっと格好が似ているからと、魚の代わりに蛇を与えるような親がいるでしょうか。卵をくださいというのに、さそりを与えるような親がいるでしょうか。してみると、私たちは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。であれば、なおのこと、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を、知恵を与えてくださらないことがあるでしょうか。ないです。求めるなら、与えられるのです。ですから、どうぞ神に求めてください。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)すばらしい約束ですね。求めるなら受けるのです。ですから、キリストの名によって父なる神に求めてください。そうすれば受けるのです。

皆さんはどうでしょうか。今どのような試練の中にあるでしょうか。どのような苦しみがあるでしょう。どうしたらいいかわからない、八方塞がりの状態ですか。そうであればどうぞ祈ってください。どうしたらいいのか、何が神のみこころなのか、祈ってください。そうすれば、きっと与えられます。自分でも思いもつかなかったような知恵が与えられます。それは意外とシンプルなことかもしれません。気付いていないことかもしれない。でも神はそんな気づきを与えてくださるでしょう。

Ⅱ.信じて願いなさい(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

もし、知恵に欠けた人がいて、その人が神に願うなら、神はその知恵を与えてくださいます。しかし、そこには一つの条件があります。それは、少しも疑わずに、信じて願うということです。「信じます、お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理だよな、どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたらそれは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。信じるとは疑わないことです。そこには疑う余地がありません。

ヘブル11章6節をご覧ください。そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。」とあります。ここで神に近づく者に求められていることは何でしょうか。それは、神がおられるということと、神を求める者には報いてくださるということを信じることです。そうでなければ神に近づくことはできません。ですから、神に近づく者には、信仰が求められているのです。

イエスさまはこう言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22)

ただ信じるのでなく、疑わずに信じることが大切です。そうすれば、山も動きます。私たちの人生にはいろいろな山があります。この問題はどうしても動かないと思える山があります。しかし、心の中で信じて疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると主は言われました。

皆さん、私たちの祈りが聞かれるには、心の中で疑わずに信じることが重要です。「主よ、信じます。」これだけです。「主よ、信じます。でも、これは考えられないことです。」とか、「主よ、信じます。しかし、あまり期待はしていません。」というのでは、主も答えようがありません。どっちなの?信じているの、信じていないの、はっきりしてちょうだいと言われそうです。信じますと言った後で、「しかし」とか「もし」ということばがつくと、すぐに疑いが生じてきます。さっきまで信じていたのに、すぐに疑いが始まるのです。そういう人は何に似ているでしょうか。そういう人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。波は何に左右されるかというと、風ですね。風が吹くと揺れ動きます。強風になると大波になります。

私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は何に左右されるでしょうか。状況です。状況が安定していると私たちの心も落ち着いていますが、状況が悪くなったとたんに、私たちの心も揺さぶられます。問題が大きくなればなるほど、私たちの心も大きく揺れるのです。私たちは目に見えることによって右往左往してしまうのです。しかし、信仰は見えるものではなく、見えないものに目を留めます。なぜなら、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)だからどんなに状況が悪くても信仰によって歩むなら、心が安定するのです。しかし、信じていても「でも」とか「もし」という疑いがあると、不安定な心になってしまいます。それは二心のある人で、そのような人の歩みは、当然不安定なものとなります。

あるとき、イエスさまのもとに、悪霊につかれた息子を連れて父親が助けを求めてやって来ました。この息子に霊がとりつくと、所かまわず彼を押し倒し、あわを吹いたり、歯ぎしりしたりするので、どうしたらいいかわからず弟子たちのところに連れて来たのですが、弟子たちにはこの霊を追い出すことができませんでした。すると、イエスは彼らの不信仰を嘆かれ、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねると、父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、イエスさまはこう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)するとこの父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って、息子から悪霊を追い出していただきました。

私たちもすぐに疑って、「もしおできになるなら」と言ってしまう者ですが、「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って、少しも疑わないで信じる者でありたいと思います。油断すると人はすぐに不信仰に陥ってしまいます。それが人の性(さが)というか、生まれつきの性質なのです。状況が悪くなればなるほど、疑いしか出てきません。しかし、そのような時こそ信仰を働かせ、信じて願い求める者でありたいと思います。

Ⅲ.神に望みを置いて(9-11)

最後に9節から11節までを見て終わりたいと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

ここには、貧しい境遇にある人は、自分の高い身分を誇るように、また、逆に、富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持つようにと勧められています。これはどういうことでしょうか。

この手紙は迫害によって国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは迫害や試練によって家や財産を失い、貧しくなっていました。それは経済的な貧しさだけでなく、社会的にも身分が低くされることも含まれていました。しかし、そのような貧しさの中にいても、自分の価値を低くみる必要はありません。なぜなら、そのような人たちは、神によって高い身分にされているのですからです。すなわち、人の価値は家柄や社会的な地位や物質的な豊かさによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる霊的資源によって決まるのです。イエス様を信じて神の国に入れられているのであれば、神の子としての特権が与えられているのですから、最高の身分が与えられているということであって、それを誇ればいいのです。逆に、どんなに富んでいたとしても、この特権を受けていなければ永遠に失われた者なのであって、それは最も悲しいことであり、哀れです。なぜなら、富んでいる人は、草の花ようにすぐに過ぎ去ってしまうからです。太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまうのです。すると、その鼻は落ち、美しい姿は滅びてしまいます。そのことを、イザヤはこう言っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

皆さん、人は草です。その栄光は野の花のようなんです。すぐにしぼんでしまいます。すぐに枯れてしまう。どんなにきれいに咲き誇っていたとしても、やがて滅びてしまいます。それほどはかないものなのです。そんなはかないものでどんなに誇ったところで、それがいったい何になるというのでしょうか。やがてすぐに消え去ってしまいます。しかし、主のことばはとこしえに堅く立ちます。そこに目を留めることができなければ、人生はほんとうに空しいものなのです。

パウロはテモテにこのように書き送りました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならないと実に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

これが神の知恵です。このような正しい価値観は、神の知恵によらなければ持つことはできません。神様を信じるまでは物質的な豊かさこそ人生の豊かさであるかのように思い込んでいましたが、イエス・キリストを通して永遠のいのちがあることを知った時、人生の豊かさはそうした物やお金の豊かさにあるのではなく、ただ神に信頼し、神に望みを置くことによってもたらされる霊的資産いかんによってはかられるものであることがわかりました。それは神の知恵によるのです。ですから、この神の知恵を持つということが私たちの人生にとってどれほど重要であるかがおわかりかと思います。

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、試練によって貧しい境遇になったかもしれない。しかし、低くされるということは謙遜にされるということであり、謙遜にされることによって、人の価値が何なのかがはっきりわかるようになりました。ですから、試練は感謝なのです。試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさいと言われているのです。そのためには、神の知恵が必要です。神の知恵によって、そのことにハッと気づかされるのですから・・。

 

あなたは何に信頼を置いていますか。あなたが信頼を置いているものは、本当に頼りになるものでしょうか。私たちが信頼しなければならないのは神ご自身です。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。ここに望みを置いて歩んでまいりましょう。そのために、神の知恵が与えられるように、少しも疑わずに、信じて願い求めましょう。

ヤコブの手紙1章1~4節 「さまざまな試練に会うときは」

あけましておめでとうございます。新しい年をどのような思いで始められたでしょうか。この新しい年も主のみこころに歩めるように、みことばから共に学んでいきたいと思います。きょうからヤコブの手紙に入ります。それでは早速見ていきましょう。

 

Ⅰ.この上もない喜びと思いなさい(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

この手紙を書いたのは、ヤコブです。ここには、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とあります。聖書には「ヤコブ」という名前の人が四人出てきます。一人はゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスの弟子で、ヨハネの兄弟でしたが、サマリヤの人たちがイエスさまを受け入れないと、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったことから、「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付けられました。このヤコブではありません。他にイエスの弟子でアルパヨの子ヤコブ(ルカ6:15)という人がいますが、彼でもあません。もう一人、イエスの弟子でユダという人がいますが、彼をイスカリオテ・ユダと区別するために「ヤコブの子ユダ」(ルカ6:16)と紹介していますが、このヤコブでもありません。ということは、このヤコブというのは、イエスの実の兄弟ヤコブのことです。兄弟といっても、イエスさまは聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、このヤコブはマリヤが結婚してヨセフとの間に生まれた子どもでしたので、異父兄弟ということになります。彼は初めイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)が、イエスさまが復活されてから彼に直接現われてくださったことで、イエスさまを信じ、キリストの弟子となりました。そして教会の指導者の一人として重んじられるようになり、使徒の働き15章に出てくる第一回エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けなければ救われないのか、という議題において、最終的な決定を下しました。ガラテヤ書2章9節でパウロは、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」と言っているように、彼はエルサレム教会の柱として重んじられていたことがわかります。

 

それほど重んじられていた人物であるならよほど偉い人だったのではないかと思われますが、彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。彼はイエスの異父兄弟でしたから、自分を「神の子イエス・キリストの実の兄弟であったヤコブより」と紹介することもできました。あるいは、「エルサレム教会の初代牧師です」ということもできたはずです。それなのに彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と言ったのです。なぜでしょうか。それは彼がキリストに対して正しい理解を持っていたからです。確かに彼は主イエスの実の兄弟だったかもしれない。約30年の間同じ家で生活し、一番近くで人間イエスをつぶさに見て来たかもしれません。しかし、このイエスがどのような方であるのかをはっきり知ったのは、イエスさまが復活して彼に直接現われてくださったことによってでした。それまでは信じられなかった。イエスがどのような方であるのかを全く理解していませんでした。イエスさまが直接彼に現れてくださったことによって、イエスが初めてわかった。そして、復活されたイエスは神であるということ、それは父なる神と等しいお方であるということです。

 

イエスさまは、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。また、「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14:9)と言われました。でも、それがどういうことなのかがさっぱりわからず、この人は気が狂っていると思っていたのに、イエスが復活されたことでこれまでイエスさまが語っておられたことが自分の中で全部つながったのです。そして、この方はまことに神であったということがわかったのです。この方は神と等しい方であり、この方こそ救い主であるということがわかったのです。そして、この方がどのような方であるかがわかったとき、彼は確かにイエスさまとは異父兄弟であり、エルサレム教会の柱として重んじられていた者ですが、そんな自分の立場とか、環境などといったことは何の関係もない、ただのしもべにすぎないということを自覚することができたのです。この「しもべ」という言葉は、ギリシャ語で「デューロス」という言葉ですが、それは奴隷、しかも最も低い奴隷のことを意味しています。彼は、キリストがすべての人を救う救い主であると理解したことで、自分はその方に仕えるしもべにすぎないと思ったのです。

 

このヤコブが、国外に散っている十二の部族に書き送っています。この国外に散っている十二部族とは、ユダヤ人クリスチャンたちのことを指しています。初代教会の時代、神のことばが、ますます広がって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常に増えて行くと、多くのユダヤ教の祭司までもが次々に信仰に入りました。これはまずいとユダヤ教の指導者たちがいろいろと議論をふっかけてくるのですが、弟子たちは知恵と御霊によって語っていたので、また、それに伴う数々の不思議なわざやしるしも行ったので、全く太刀打ちすることができませんでした。そのような中で最初の殉教者が出ました。それがステパノです。ユダヤ教の指導者たちは民衆をそそのかし、彼がモーセと神を汚すことを聞いたと言わせて、石打ちにしたのです。それでエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:2)。散らされた人たちはみな、みことばを宣べながら、巡り歩きました(使徒8:4)。このようにしてユダヤ人クリスチャンたちは国外へと散らされて行ったのです。そして、彼らは行く先々でも激しい迫害に会い、苦難を余儀なくされました。それはこれまで学んできたヘブル人への手紙でも見たとおりです。そこでヤコブは、迫害によって国外に散っているユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書き送ることにしたのです。この手紙はペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙と合わせて「公同書簡」と呼ばれていますが、その時代の人々ばかりでなく、今の時代に生きている私たちクリスチャンたちに対する励ましでもあるのです。

 

その国外に散っている十二の部族に宛てて、ヤコブは何と言って励ましているでしょうか。2節をご覧ください。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

「私の兄弟たち」という言葉は、「愛する兄弟たち」「兄弟たち」という言葉と合わせ、ヤコブが好んで使っている言葉です。この手紙の中に19回も使われています。恐らく彼は、このように言うことで、主にある兄弟として、自分も同じ立場にあるということを伝えたかったのではないかと思います。私たちも自分と同じ立場にある人から言われると、「ああ、私だけじゃないんだ」「自分と同じようにみんな辛い経験をしているんだ」という気持ちになって慰められることがあります。しかし、彼はそのように呼びかけて彼らに同情を示すだけでなく、彼らが前に向かってしっかりと進んで行くことができるように、具体的な励ましも語っています。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

ここでヤコブは、「もしさまざまな試練にあうときは」と言わないで、「さまざまな試練に会うときは」と言っています。それは、クリスチャンは必ず試練に会うということを前提に、そのようなときはどうしたら良いのかを述べているのです。信仰を持ったら苦難に会わないということはありません。問題が全く起こらないということはないのです。それは、非常に聞こえはいいですが現実的ではありません。聖書が教えていることは、「試練に会うときは」です。しかもその試練というのは一つや二つの試練ではなく、「さまざまな試練」と言われています。仕事や勉強がうまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。人間関係はどうでしょうか。平和な時もあれば、誤解されたり、裏切られたり、争ったりすることもあります。健康でもそうです。体調が良くて快適に過ごせる時もあれば、病気やガンにかかったりすることもある。また交通事故に会ったり、階段から落ちてケガをすることもあります。愛する人と死別するということもあります。長く生きれば生きるほどいろいろな苦難や問題に会うのです。これが、私たちが生きているという現実なのではないでしょうか。キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。パウロも「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いました。

私たちはこうして新年最初の日を迎えていますが、本当にすがすがしい気分になります。すべてが新しい。今年こそ日記を書くぞと思いますが、三日も過ぎればすっかり忘れます。新鮮な思いを脅かすような試練が襲ってくるのです。

 

それでは、こうしたさまざまな試練に会うとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブはこのように言っています。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」何か書き間違ったのではないかと思うような内容です。試練に会うとき、私たちは辛く、悲しく思います。心が折れて落胆します。人生が終わってしまったのではないかと思う人もいます。ある人は、神がいるならどうしてこんな辛い目、苦しい目に遭わせるのか。神は私を愛していないのか、私がどうなっても構わないというのかと思う人もいるかもしれません。試練は、それほど辛く悲しく思われるものなのです。それなのにヤコブはここで「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言いました。いったいどうしてでしょうか。

 

Ⅱ.信仰がためされると忍耐が生じる(3)

 

3節をご覧ください。「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」どういうことでしょうか。これは、クリスチャンがこうしたさまざまな試練に会うのには目的があるということです。その目的とは何かというと、信仰がためされると忍耐が生じるということです。

 

ある若い牧師が年配の牧師に言いました。「先生。忍耐が身に着くように、私のために祈ってください。」

するとその年配の牧師が彼のためにこう祈りました。「神さま。どうかこの人に病気を与えてください。人間関係の問題も。あ、そうです、それだけでなく経済的にも困難を与えてください。貧しさを通ることができますように。ありとあらゆる苦しみを与えてください・・・。」

すると、その若い牧師が言いました。「先生、そうじゃなくて、私が祈ってほしいのは忍耐が身に着くようにということです。」

するとその年配の牧師が言いました。「忍耐は試練を通して身に着くものなんだよ。」

何とも含蓄のある言葉ではないでしょうか。長く生きた人の経験からにじみでてくる知恵です。忍耐は試練を通して養われ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるのです。

 

皆さん、大人と子どもの違いは何ですか。それは忍耐できるか、できないかということです。子どもは忍耐することができませんが、大人はできます。こうして毎週忍耐して私の話を聞いてくれていますが、大人だなぁと思います。その忍耐をいったいどうやって身につけることができるのでしょうか。試練です。信仰がためされることによってです。

 

忍耐という時にすぐに思いつくのは、旧約聖書に出てくるヨブです。このヤコブ5章10節、11節には、「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によってかたった預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるということです。」とあります。ヨブは忍耐の人でした。彼がどのように忍耐したのか、その結末はどうだったのかをよく見るようにと言っています。ヨブはどのように忍耐したのでしょうか。

 

彼は神の祝福によってあらゆる面で豊かさを受けた人でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。七人の息子と三人の娘がおり、羊は七千頭、らくだは三千頭、牛五百くびき、ろば五百頭を所有し、非常に多くのしもべを持っていました。それで彼は東の人々の中で一番の大富豪でした。ところがある日、サタンが神のところにやって来て、こう言いました。「神さま。ヨブはあなたを信じているように見えますけどあればうわべだけです。彼があなたを信じているのはあなたが彼を祝福しておられるからで、もし試練に会ったらたちまちあなたを信じなくなるでしょう。だすから、どうぞ彼の財産を打ってください。そうしたら、彼はあなたをのろうに違いありません。」

「いや、ヨブはそのような人ではない。彼は心からわたしを信じている。だから、わたしを呪うようなことは絶対にない。」

「だったら神様、私に試させてください。」

「では、彼のすべての無持ち物をおまえの手に任せよう」ということで、サタンはまず彼の財産を奪います。しかし、サタンは財産だけでは足りないと、今度は子どもたちも奪っていきます。ヨブは当然嘆き、悲しみ、着物を引き裂きながらも、神の前にひれ伏して、こう言いました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。するとサタンは、今度は悪性の腫物でヨブの全身を打ちます。足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物ができて、もう体中かゆくて、かゆくてしょうがなく、土器のかけらで自分の身をかくほどで、体中が傷だらけになってしまいました。それを見た彼の妻はこう言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ひどい妻ですね。こういう時こそ助けてほしいのに、神をのろって死になさいなんて、とんでもないことを言います。それでなくともさまざまな試練で苦しいのに、こうした妻のことばはどれほど彼を打ちのめしたかと思うのですが、それでも彼はこういうのです。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ2:10)

そう言って、彼はそのようになっても、罪を犯すようなことをしませんでした。

すると、今度は友達がその様子を見て最初は同情的だったのですが、だんだんヨブにこんなに試練が襲いかかるのは、ヨブに何か問題があるからた、と言います。だれでも考えることですが、このような考え方はもっと自分を苦しめることになります。

しかし、それでもヨブは忍耐して神に従うと、最後に神ご自身が来られて彼に語りました。するとヨブは主に答えて言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:5-6)

ヨブは自分がなぜこうなったのかわかりませんでした。最後まで分からなかった。なぜわからなかったのかというと、今まではうわさでしか神のことを聞いていなかったからです。しかし、今は違います。今はこの目で神を見ました。この耳で神のことばを聞きました。ヨブは、様々な試練を通して忍耐を学び、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを体験を通して知ったのでした。

すると神は、ヨブを祝福しました。主はヨブの祈りを受け入れられ、彼の所有物も二倍に増やされました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福してくださったのです。

聖書は、このヨブの結末を見て、主が彼にしたことがどういうことだったのかを見なさいというのです。耐え忍んだ人は幸いなのです。

 

それは私たちの人生も同じです。いろいろな問題が起こります。さまざまな試練に会います。聖書には、イエスさまを信じたら試練がなくなるとは書いてありません。もし試練に会うならではなく、会うと言っているのです。いろいろなことが起こってきます。でも、神がヨブにした結末を見て、忍耐するようにと励ましているのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。このことからもわかるように、神が私たちに試練を与えるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちがそれを通って忍耐を身に着け、完全な者となること、つまり、私たちの信仰の成長のためなのです。試練に会うことで私たちは自分の弱さを知ります。それまでは、自分は何でもできると思っています。しかし、試練に会うことで、自分にはどうすることもできないことがたくさんあるということを知るのです。その時私たちは何に信頼したら一番幸せなのかを学ぶことができます。そして神に信頼し始めるのです。問題の解決のために祈り始めます。そして、神からの解決を得ようと神のことばである聖書を開き始めるのです。もっと神に近づこうとします。そうすることで神は、私たちを霊的に強くしてくださるのです。

 

Ⅲ.完全な者となります(4)

 

最後に、その試練の結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

試練の目的は信仰が試される時、その信仰が本物であるかどうかを証明することでした。信仰が本物だから救われるのではありません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってです。あなたがイエスさまを自分の罪からの救い主、人生の主として信じたのであれば、あなたは救われるのです。だんだん救われるのではありません。信じたその瞬間に救われます。死んだらすぐに天国行きです。そこで神の国を相続するのです。この事実は変わりません。もしあなたがイエスを信じたのであれば、あなたはもう救われているのです。そして、だれも父の手からあなたを奪い去る者はありません。神はその保証として御霊を与えてくださいました。エペソ1章14節にそのように約束されてあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」ですから、神の御霊、聖霊を受けているなら、必ず御国を受け継ぐのです。そして救われている者は、この神の聖霊によってどんな試練に会っても耐え忍ぶことができるのです。なぜなら、忍耐は御霊の実であるからです。忍耐は生まれながらの人にはありません。でもキリストを信じるなら、忍耐する力が生まれてきます。私たちは弱く、自分の力では忍耐することができませんが、私たちの内側におられる聖霊の力によって忍耐する力を与えてくださるのです。

 

その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になることができます。ここにある「完全な者」とは全く罪のない人になるということではありません。完璧な人になるということでもありません。ここで言われている完全な者になるというのは、成熟した者という意味です。言い換えるならば、それは大人のクリスチャンになるということです。皆さん、私たちはどうしたら成熟した大人のクリスチャンになれるのでしょうか。信仰がためされることによって生じた忍耐を完全に働かせることによってです。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になるのです。

 

それはちょうどスポーツマンのようです。スポーツマンは練習量が多いと「嫌だな」と思うものですが、コーチの言うことを信じて忍耐しながら練習に励むことによって、以前の自分よりもはるかに強くなっていることがわかると、勝利を得る厳しい道に自分がしだいにふさわしい者になっていくと確信できるのでうれしくなります。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンも信仰がためされることによって忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、自分が救いにふさわしい者であることがわかり、自分の信仰が強められていることを実感できるので喜びに溢れます。サタンは人を最悪に落とすために誘惑しますが、神は人から最善を引き出すために試練を与えるのです。ですから、ペテロが言っているように、信仰の試練は、火を通して精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの表れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるのです。

 

イエスさまは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10~12)と言われました。

ヤコブの教えは、イエスさまが教えられたことがベースになっています。イエス様は、義のために迫害されている者は幸いだ、と教えられました。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。そのことによって、その人が天の御国の民にふさわしい人であることがわかります。だから、喜びなさいと言われたのです。いや、喜び踊りなさいと言われました。

皆さんは喜んでいますか。喜び踊っていますか。皆さんが試練に会うとき、皆さんは天の御国が与えられていることを知ることができます。神の子とされ、神の国の相続人とされていることをはっきりと知ることができるのです。すばらしいことではありませんか。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思わなければなりません。

 

パウロは、ローマ書の中でこう言っています。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3-5)

 

すばらしい約束ですね。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。試練の目的は信仰をためすだけでなく、私たちの信仰の成長のためでもあるということ、大人のクリスチャンにするためでもあるのです。

 

ですから、私たちもどんな試練に会っても、主に信頼して前進していきましょう。この新しい一年の歩みの中でもさまざまな試練に会うでしょう。そのとき私たちはどうすべきでしようか。それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、私たちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせましょう。そうすれば、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となることができます。この一年が信仰の成長を遂げる年となりますように。さまざまな試練に会う時、それをこの上もない喜びと思うことができますように。主イエスの御名によって祈ります。

マタイの福音書2章1~12節 「博士たちのクリスマス」

Merry Christmas!救い主イエス・キリストのご降誕を心からほめたたえます。今年は12月25日が日曜日なので、こうしてクリスマスを教会で礼拝をもって迎えられることをうれしく思います。

私は、教会附属の保育園に行っていましたので、クリスマスにはいつも聖書のお話しや降誕劇、「きよしこの夜」の讃美歌に親しんできました。とは言っても、私の家はいわゆるクリスチャン・ホームではなく、仏壇や神棚がある普通の家庭でしたので、クリスマスというと、ケーキ屋さんで働いていた叔父が毎年クリスマスイブの晩に持って来てくれるケーキを食べお祝いしました。クリスマスは多くの人がそれなりの仕方でお祝いをしますが、聖書の中のキリスト降誕のストーリーを知っている人は日本にはそれほど多くありません。12月25日がキリストの誕生日であったかどうかは別として、というか、実際のところは別の日ですが、一般的に世界中でクリスマスにキリストの降誕が祝われていることは事実です。

きょうは、東方から来た博士たちが、幼子イエスを拝みに来たストーリーから、私たちがクリスマスを迎える心構えについて学びたいと思います。

 

Ⅰ.星に導かれた博士たち(1-3)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました。』」

 

お気付きのように、イエス・キリストの誕生のストーリーには歴史的事実と超自然的な出来事が織り込まれています。ここには、「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき」とあります。これは歴史的な事実です。このヘロデとはヘロデ大王のことで、紀元前37年から紀元後4年までユダヤを統治していた王でした。当時イスラエルはローマ帝国の属国でしたが、ローマ帝国は、ヘロデにイスラエルの統治を委託していたのです。彼はローマとの協調関係を築きながら、エルサレム神殿の大改築をするなど、多くの建築物を残したことで有名です。また、猜疑心がとても強く身内を含む多くの人を抹殺しました。その時代にキリストは生まれました。これはまぎれもない歴史的な事実です。

 

一方、ここには、このヘロデ王の時代に、東方の博士たちが星を見て、ユダヤ人の王が誕生したことを知り、その方を拝みに来たと告げています。この「博士」とはギリシャ語で「マゴス」という言葉で、天文学を研究していた学者たちか、あるいは、占星術、星占いをしていた者たちであったと考えられていますが、彼らは星の動きを研究している中でユダヤ人の王が生まれたことを知り、その星に導かれてエルサレムのヘロデのところへやって来たのです。おそらく彼らは、旧約聖書のダニエル書や他の預言書からイスラエルに救い主が誕生することを知っていたのだと思いますが、その星に導かれてエルサレムにやって来たのです。これは何十年に一度見られるハレーすい星だったのではないかと考える学者もいますが、これを

科学的に解明するのには無理があります。なぜなら、このように星が導くということは考えられないことだからです。これは彼らをエルサレムまで導くために神が用いられた超自然的な星だったのです。

 

このようにキリストの誕生の経緯は、歴史的事実と超自然的な出来事といういわゆる横の糸と縦の糸によって見事に織り込まれているのです。ですから、この話を黙想する人たちに、今も不思議な感動を与えてくれるのです。そして、ここにいる私たちも、その不思議な星に導かれて、きょうここにいるのではないでしょうか。すなわち、博士たちが不思議な星に導かれてキリストに出会ったように、私たちも人それぞれその方法は違いますが、不思議な方法でキリストのもとに導かれているということです。

 

先ほども申し上げたように、私は教会附属の保育園に行ったことで、小さい頃から自然にイエス様のことを聞いていました。両親が共働きだったのでどこか私を見てくれるところがないかと探したところ、たまたまそれが教会の保育園だったのです。なぜ私を教会保育園に入れたのかとあとで母に訪ねたことがありますが、「なんでって、なんでだべね、わがんね。そごしがながったがらない」という返答でした。でも、私は、そこしかなかったからではなく、そこに不思議な神の導きがあったからだと思っています。なぜなら、そのようにして教会保育園に入れてもらったことで、キリスト教対する違和感が全くなかったというだけでなく、あこがれさえ抱いていたからです。神は超自然的な星に導かれて私を教会保育園に連れて来てくれたのでした。

 

同じように、皆さんがきょうここに導かれたのも、その背後に不思議な神の深いご計画と導きがあったからなのです。ある人はだれかに誘われて来たという方もおられます。ある方はたまたま何らかのイベントに参加したのがきっかけで来られたという方もおられると思います。それがどのようなきっかけであっても、あなたはきょう、不思議な神の導きによってここに来られたのです。

 

そのようにしてキリスト教に触れた私は、しばらく教会とは無縁の生活を送っていました。そんな私が再び教会に引き戻されたのは、一人の宣教師との出会いがきっかけでした。それは私が高校3年生の秋のことでした。私は高校時代バスケットボール部に所属していましたが、インターハイが終わるとそれまで打ち込んでいたものが無くなり、心にポッカリ穴があいた日々を過ごしていました。大学進学を目指していたのにその道が閉ざされたので就職することになりましたがすぐに大手の会社に就職が決まると、何もすることがなくなったのです。「そうだ、あの人に手紙を書こう」と、その夏交換留学生として来日したアメリカ人のことを思い出したのです。しかし、高校時代まったく勉強しなかった私は英語で手紙を書くことができなかったので、同じ町の高校に英語の教師として来日したばかりの宣教師の家を訪ねました。それが今の家内です。今の家内でとは言っても、他に家内はいませんが、とにかく彼女に英語の手紙を直してもらおうと言ったのです。すると家内は、片言の日本語で、「教会に来ませんか」と誘ってくれました。私は特にやることもなかったので、また、キリスト教に対して違和感がありませんでしたし、社会勉強のつもりで行くことにしたのです。

 

すると、日曜学校の先生が温かく迎えてくださり、後で1枚のはがきをくださいました。「ああ、教会の人って優しいんだなぁ」と思って続けて行くようになると、その方が、「ちょうど良かった。今度のクリスマスに降誕劇をするので手伝ってもらえませんか。あなたは悪役です。」とお願いされました。それで私は、悪役で役者デビューをすることになりまはこんなことしているんだろう」という思いもありましたが、まあ他にやることもなかったし、キリスト教がどのようなものなのかを知りたいと思って教会に続きました。

 

そのような時でした。卒業式までもう少しという時、高校で一つの問題が起こりました。担任の先生から、もしかするとあなたは卒業できないかもしれないと言われた時、ここまで来て卒業できなかったらどうしようという思いで目の前が真っ暗になりました。その時、クリスマスのプレゼントに家内からもらった聖書をむさぼるようにして読んだのです。すると、第二コリント5章17節にこう書いてありました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでもキリストを信じるならすべてが新しくなるという言葉を読んだとき、私はこれまでの人生をリセットして、新しい人生をスタートさせたいと強く思い、イエス様を私の罪からの救い主として信じ受け入れました。

 

本当に不思議ですね。もし教会の保育園に行っていなかったら、もし家内と出会っていなかったら、もしあの問題が起こっていなかったら、私はここにいなかったかもしれません。しかし、東方の博士たちが星に導かれてエルサレムにやって来たように、私も不思議な神の導きによってイエス様のもとにやってくることができました。

 

そんな彼らがイエスのもとに導かれたのは、聖書のみことばによってでした。5節と6節には、旧約聖書にある預言の言葉を通して彼らは救い主はベツレヘムで生まれたということを知り、幼子のイエスのもとへ行きました。私たちも不思議な出会いを通して教会に導かれ、その中で聖書のことばを通してキリストへの信仰へと導かれることがわかります。

 

あなたはいかがですか。神は今も不思議な方法によってあなたの人生をも導いておられます。いろいろな人との出会いや出来事を通して、あなたをイエスのもとへと導いておられるのです。あなたのスターは何ですか。あなたの星となってあなたを導いてくれた人は誰でしょうか。あなたも博士たちのようにその星を見て単純に喜び、その星に導かれるように、あなたの人生を神様にゆだねておられるでしょうか。

 

Ⅱ.この上もなく喜んだ博士たち(3-10)

 

次に、3節から10節までをご覧ください。3節には、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れまどった。エルサレム中の人も同様であった。」とあります。

 

こうした博士たちの行動とは裏腹に、キリストの誕生を快く思わなかった人たちもいました。それはヘロデ王であり、エルサレム中の人々です。ここには、「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った」とあります。そして、7節と8節にあるように、彼は、博士たちをだましその幼子の情報を得て、その子をなき者にしようとしました。いったいなぜヘロデは恐れ惑ったのでしょうか。それは、自分の上に支配者がいることを望まなかったからです。彼はこの幼子が成長した時、自分の王としての立場や地位が奪われるのではないかと心配したのです。それは何もヘロデに限ったことではありません。それは、人の上に立つ立場にある人ならだれでも受ける誘惑でしょう。自分の立場や地位を守るという動機で、いろいろなことを言ったりやったりします。このヘロデ王はそれが特に強く、彼は五回も結婚していましたが最初の妻(ドリス)と二人の息子、二番目の妻(ミリヤム)と二人の息子をも抹殺して、自分の立場を守ろうとしました。当時、ヘロデよりも豚の方が安全だとささやかれたほどです。

 

一方ここには、「エルサレム中の人々も王と同様であった」とあります。ヘロデならばわかりますが、なぜエルサレム中の人々も王と同様に恐れたのでしょうか。それは、自分たちの現状が変わることを恐れたからです。人は自分の現状が変わることを極端に恐れます。それは新しいものへの不安でもありますが、今ある現状を手放さなければならないと思うと、恐れを抱くのです。多くの場合変わりたいのに変われないのは、変わりたいという自分の考えよりも、これまでの現状を変えたくないという気持ちによってブレーキがかけられているからです。どんな状況であろうとも、誰にとっても、現状が自分の知り得る範囲での最も安全な領域であり、現状の考え方が、今の自分に一番馴染んでいるという思いがあるのです。このように、変化を恐れる気持ちは誰の中にもあります。

 

さらに、ここにはもう一つの種類の人たちが登場しています。それは民の祭司長たちと学者たちです。4節を見てください。

「そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」

彼らは、ヘロデ王から、キリストはどこで生まれるのかと問いただされたとき、「ユダヤのベツレヘムです。」と答えています。預言書にそう書かれてあったからです。この預言書というのは、今日の旧約聖書のことですが、そこにはキリストがユダヤのベツレヘムという町に生まれることが、前もって、預言されていたのです。言い換えれば、聖書の民と呼ばれていたユダヤ人には早くからキリスト誕生が預言されており、ほとんどの人がそのことを知っていたということです。それなのに、彼らはその知らせを耳にしても、ちっとも動こうとはしませんでした。なぜでしょうか。関心がなかったからです。聖書のみことばを知っていても、実際には信じていなかったのです。

 

このように、キリスト誕生の知らせを聞いても、人によって反応はさまざまでした。それは二千年前も今も変わらない事実です。しかしごく少数ですが、このキリストの誕生を感動的に体験した人たちもいました。それはこの博士たちです。9節、10節をご覧ください。

「彼らは終えの言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 

キリスト降誕の知らせを耳にして、ヘロデやエルサレムの住民が不安を感じたのに対して、幼子のような純粋な心を持って、まっすぐにイエス様の生まれたところへと向かって行った東方の博士たちの姿は何と対照的でしょうか。彼らはこの上もなく喜びました。その喜びは、お金や物によって得られるものではない、幼子のような信仰からあふれ出る説明のできない感動的な喜びです。今日も、世界中で多くの人たちがこの喜びを体験しています。あなたもそのおひとりでしょうか。

 

Ⅲ.幼子を礼拝した博士たち(11-12)

 

最後に、幼子イエスのもとに導かれた彼らが何をしたかを見て終わりたいと思います。11節と12節をご覧ください。

「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

 

星に導かれて、そしてまた、聖書の預言の言葉に確信を得て、ついに幼子イエスのいるところまでやって来たのは、不思議なことに聖書に約束されていた神の民ではなく、異邦の民、東方の博士たちでした。彼らは母マリヤとともにおられる幼子を見ると、ひれ伏して拝みました。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。

 

黄金は言うまでもなくとても高価で貴重なものです。それは王にふさわしいものです。ここで博士たちが黄金をささげたというのは、キリストが王の王であることの信仰の告白でもありました。

そして乳香、乳香は香料の原料です。その色が乳白色の色であることから乳香と呼ばれていますが、その原料を焚いて香として、神にささげるのです。つまり、この乳香はキリストの神性を表していたのです。

そして、没薬ですが、没薬は、古代エジプトではミイラ作りのために欠かせない薬品で、強い殺菌力と芳香を兼ね備えたものです。没薬はキリストが十字架で、私たちの罪の身代わりとして死なれる贖い主であることを表していました。もちろん、博士たちはそんなつもりで持ってきたわけでなく、ただ高価な贈り物を贈っただけでしょうが、奇しくもそれが、この幼子が私たちの罪のために死なれる救い主であることを表していたのです。

 

彼らはこうしたささげ物をささげ、ひれふして拝みました。いったいなぜ彼らはこのようにしたのでしょうか。いったいなぜそんなに遠いところから、おそらく千数百キロはあったでしょう、今のように新幹線や飛行機があったわけでもなかったのに、そんなに遠い所から長い年月をかけてやって来たのでしょうか。相当の犠牲があったことと思いますが、なぜ彼らは、このような高価な贈り物をまでして、キリストを礼拝したのでしょうか。

 

それは彼らにそれだけの喜びがあったからです。その星が幼子のおられるところまで進んで来たとき、彼らはこの上もなく喜んだとあります。その喜びは、それだけのお金と時間を使っても惜しくないと思えるほどの喜びでした。その喜びが感謝となって内側からあふれ出て、礼拝となって表れたのです。

 

東方の博士たちと、ヘロデ大王やエルサレム中の人々、あるいはユダヤ教の宗教的指導者たちの違いはどこにあるのでしょうか。それは、救い主の誕生を心待ちにしていたか、そうでないかの違いです。自分にとって、救い主が意味のあるお方なのかそうでないかの違いと言ってもいいでしょう。
大切な人の誕生日なら、その日を喜んでお祝いするでしょう。別にどうでもいい人の誕生日なら、どうでもいいと思うはずです。敵の誕生日なら、呪いたくなるかもしれません。自分にとって大切な人が生まれたからこそ、博士たちはお祝いにやってきたのです。ここが最も重要なポイントです。  私たちにとって、イエス様はどのような方でしょうか。クリスマスがどういう日であるかは、私たちとイエス様との関係次第で決まります。あなたにとって、クリスマスはどういう日でしょうか。素敵なディナーでロマンチックな雰囲気を味わう日ですか?あるいは、特別なイベントで盛り上がる日でしょうか?それとも、どうでもいい日?むしろ疲れる、クルシミマス?こうしたこともいいですが、しかし最も大切なのは、クリスマスはイエス様に対する感謝と喜びにあふれる日であるということです。なぜなら、イエス様は私たちを罪ののろいから救ってくださったからです。勿論、東方の博士たちは、イエス様が自分たちを罪ののろいから救ってくれる救い主だとは思っていなかったでしょう。自分たちの先祖を救ってくれたユダヤ人への感謝の思いから、はるばる遠い東の国からやって来ただけかもしれません。けれども、私たちはこうした彼らの姿からクリスマスこそイエス様の誕生をお祝いし、この方をこの世に送ってくださった神に感謝して、ひれ伏して拝む時であるということを知ることができます。だからこそ、クリスマスを迎えるのに最もふさわしい迎え方は、心からの感謝をもってキリストに礼拝をささげる日であるということです。このクリスマスイエス様に対して、あふれる感謝を込めて礼拝しましょう。

 

 

 

 

ヨハネの福音書8章12節 「わたしは世の光です」

それでは、聖書からの励ましのメッセージです。今晩の聖書のみことばはヨハネの福音書8章12節です。

 

「イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

毎年、クリスマスの季節になりますと、シンガポールの観光名所、オーチャード・ロードは、光と色彩のワンダーランドに変わります。このライトアップの目的は、大勢の観光客に来てもらって、沿道の店でお金を使ってもらうことにあります。楽しい雰囲気、クリスマス・キャロルの歌声、大道芸などを目当てに、毎年、世界中から多くの人がやって来ます。

 

一方、最初のクリスマスのライトアップは、ネオンの光や色彩ではなく、天使たちの「主の栄光」の輝きでした。それを見たのは、観光客ではなく、野原にいた羊飼いたちです。まばゆいばかりの光に続いて、大勢の天使たちが現れると、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と賛美したのです(ルカ2:14)。

羊飼いたちは、御使いが語ったことを確かめようとベツレヘムに行きました(同2:15)。そして、それが本当だと分かると、「この幼子について告げられたことを知らせた」のです(同2:17)。

 

何という励ましでしょう。聖書は、救い主誕生の知らせはまっさきに羊飼いたちのところへもたらされたと告げています。羊飼いというと、今でこそのどかな雰囲気を感じさせますが、当時は、昼も夜も羊の番をしなければならない過酷な仕事でした。彼らのほとんどは雇われで、自分の主人の羊を代りに面倒みていたのです。給料は少ないし、羊を置いて礼拝にも行けず、裁判で証言することも許されていませんでした。いったい自分は何のために生きているのかがわからず空しく生きていたのです。しかし、そんな羊飼いたちのところに、最初のクリスマスの光が照ったのです。

 

これは私たちにとっても希望ではないでしょうか。私たちの人生にも、やみがあります。それはコンプレックスというやみであり、孤独や悲しみというやみであり、また、恐れや不安というやみ、怒りや憎しみというやみです。しかし、そのやみがどんなに深くても、神は私たちの心を照らすことができるのです。神はご自分のひとり子イエスを、あなたに与えてくださいました。そして、イエスはこう言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」神が私たちに与えてくださった愛の賜物(イエス)は、どんな暗やみにも光をもたらすのです。

 

「そうはいうけれども、ちっとも明るくないじゃないか」と思われる方もいるかもしれません。確かに世の中を見るとあまりいいことがありません。戦争は絶えないし、愛は冷え切っています。不景気だし、明るい話題があまり多くありません。私たちの生活を見ても懐は寒いし、体のあちこちが悪い、家族の心配もあるし、あんな問題、こんな問題と、複雑な悩みをたくさんかかえています。イエス様が世の光として来てくださったというなら、もっといいことがあってもいいんじゃないですか?世の中もっとパッと明るくなるはずなのに、なぜ明るくならないのですか、そう思わずにはいられません。けれども、光はやみの中に輝いているのです。あなたの真っ暗なやみの中で輝いているのです。

 

日本にもよくいらして、神様への讃美を歌っておられるレーナ・マリアさんという歌手の方がおられます。レーナ・マリアさんは生まれつき両手がなく、片足も短いまま成長しないというたいへん重い障害をもって生まれてきました。唯一健康な片足を、まるで手のように器用に使いこなし、なんでも自分でやり遂げてしまう凄い方なんですが、その方は自分の人生についてこんな風に言っておられます。

 

「神様が、もし私の体を癒そうと思われるならば、私は癒されると信じています。しかし、私はそれを望んだことがありません。最初は、人と違って一杯の水を飲むのも本当に苦労しましたが、そういう努力をすることによって随分忍耐強い性格になりましたし、水泳の選手としてパラリンピックに出ることもできました。また日本に来て歌うこともできるようになりました。他にもいろいろと楽しい経験があるのです。『主は私の羊飼い、私には乏しいことはない』という御言葉を本当にその通りだなと思っています。私はこの体を不幸だと思ったことがないのです。いい人生だと思っています」

 

レーナさんをこのように言わしめるものとはいたい何でしょうか。レーナさんは重い身体障害を持っておられますが、自分の人生に与えられている神様の愛を知っているのです。だから、「いい人生だ」と言える。つまり、レーナさんがこのように言えるのは、神の愛の賜物であるイエスの光を持っておられるからなのです。

 

楽な人生がいい人生と限りません。辛くてもいい人生があるのです。それは生きている意味を感じられる人生ではないでしょうか。三浦綾子さんの『光あるうちに』という本の中に、読者からの同じような悩みを書いた二つの手紙が紹介されています。  「わたしは三十歳の主婦です。近頃、私は生きるとは何か、と疑問を持つようになりました。朝起きて食事の用意をし、主人を送り出し、子供を幼稚園に送っていきます。そのあとは、掃除、洗濯、買い物、そして夕食の準備。ある時、わたしは思いました。十年後も、二十年後も、わたしは同じ毎日を繰り返しているのではないか、と。繰り返すだけで老いていく人生。そう思っただけで、わたしは生きていることが、これで良いのかと考えずにはいられませんでした」  「ぼくは高校三年生です。受験勉強に追われています。たぶん来年の今頃は、二流か三流の大学にのそのそ通っていることでしょう。そして四年過ぎると、また二、三流の会社に通っているにちがいありません。一生平社員か、うまくいっても課長止まりで、定年になるわけです。ぼくと結婚する女性は、どうせ、人がアッと驚くような美人でもなし、才女でもなし、平凡な家庭、退屈な家庭を作るでしょう。そして、ぼくに似た凡々たる子が二人か三人生まれて、ぼくと同じコースをたどるに違いありません。ぼくが定年を迎えると、もう、僕を邪魔者扱いにする子どもたちだと思います。こう考えてくると、生きていることが何なのか、わからなくなるのです」

 

高校三年生でよく考えるなぁと思います。二人とも、自分の人生が大切に思えなくなってしまったというのです。その理由として、人生の平凡さをあげています。でも、三浦綾子さんは、ご自身の体験をもって、こんな風に答えておられます。

 

結核を患い、脊髄カリエスを患い、13年間療養しました。ギブスベットに寝たまま、食事を作ってもらい、便をとってもらい、洗濯をしてもらい、医療費はかかる、心配はかける、治る見込みはない。自分は廃品同様の人間だ、死んだ方がましだと、つくづく考えました。ところが、クリスチャンになって人のために祈るようになり、また一人一人の友に思いを馳せてベットで仰向けになったままたどたどしくハガキを書いて送るようになりました。祈ることや、ハガキを書くことなど何でもないことのように思われますが、今まで自分の事ばかり考えて、自分が情けない、死にたいとばかり思っていた自分が、少しでも人のことを考えるようになったとき、自分が別人のようになった気がします。

 

実際、それ以来、たくさんの人が三浦さんを慕って病室に来るようになりました。つまり、平凡な毎日だから生きている意味がないのではなくて、自分のことしか考えていないから自分の人生が大切に思えないのだということに気が付いたのです。

 

来る日も来る日も、食事の支度と洗濯、掃除の繰り返しであってもいいのです。問題はいかなる気持ちでそれを繰り返すかということであって、家族が楽しく食事ができ、清潔な服を着ることができ、整頓された部屋に憩い、しみじみと幸せだと思える家庭を作る。それがどんなに大切な仕事であるかと考えたら、自分のしていることが空しいとは思わないで、喜びをもって生きることができるはずだというのです。

 

こうして考えてみますと、イエス様の光に照らされるということは、明るくて楽しいことがたくさんあるという事とは限りません。どんなに自分が惨めに思えても、実は私は神様に愛されている者のだということを知ること、それが心にともし火を持つということなのです。どんなに小さな事しかできなくても、どんなに辛いことであっても、それが神様の与えてくださった私の仕事なのだということを知ること、それが命に輝きを持つと言うことなのであり、「光はやみの中に輝いている」ということの意味なのです。

 

三浦綾子さんは、結核の療養所で回心しイエス様を信じました。そして、ともに文学活動をしていた三浦光世さんと結婚し、同じ道を歩もうとしましたが、生活が苦しくなり、仕方なく二人で雑貨店を開きました。お客さんが多くなってきたとき、向かい側に同じように雑貨店が新しくできました。ところが、三浦さんのお店だけうまくいくので、ある日、光世さんが綾子さんにこう言いました。「あの家は学校に通う子どもたちもいて、いろいろとお金もかかるだろうに、商売がうまくいっていないようだから、私たちが少し助けてあげよう。」一体どういう意味かと綾子さんが尋ねると、光世さんは、「私たちの店の物を少し減らして、お客さんがその物がほしいと言ったら、あの店に行って買うように勧めてはどうだろう」と答えたそうです。

光世さんの言うとおりにすると、向かいの店も商売がうまくいくようになり、綾子さんたちは時間の余裕もできたので、そのおかげで彼女は、書き物を始めることができたのですが、ちょうど朝日新聞社が実施した「一千万円懸賞小説」の全国公募があったのでそれら応募すると、三浦綾子さんは入選を果たしたのです。その小説こそ「氷点」です。

 

イエス様は、この世の光として来てくださいました。暗やみが深ければ深いほど、その光は輝きをまします。そういえば、クリスマスが最も闇の長いこの冬至に定められたのは、イエス様こそ私たちの心の暗やみを照らしてくださる方であることを物語っているからです。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」あなたの心がどんな暗やみであっても、世の光として来られたイエス・キリストを心にお迎えするなら、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。光はやみの中に輝いている。すべての人に与えられた神さまからの愛の贈り物を、あなたも受け取ってください。それはイエス・キリストによって与えられている恵みなのです。

ルカの福音書1章26~38節 「どうしてそのようなことが・・」

先週は、イエス・キリストの誕生の前にザカリヤとエリサベツという老夫婦に、イスラエルの民の心を整えるヨハネという人が生まれたことをお話ししまた。高齢といってももう腰が曲がるほどの老夫婦に子供が生まれるなんて考えられないことですが、神は彼らの祈りを聞かれ、その御業を成し遂げてくださいました。

 

しかし、きょうの箇所にはもっと驚くべき内容が記されてあります。それは、処女がみごもるということです。それはいと高き方、神の子であって、その神の子が処女マリヤから生まれるというのです。処女降誕が信じられない人は、もうここから先が読めなくなってしまいます。そういう人がいて当たり前です。そんなことがあるはずがないからです。しかし、聖書はそれでも隠すことなく、信じられない人がいることも十分承知の上で、あえて処女マリヤが神の子キリストをみごもったとハッキリ告げるのです。そして、別に狂信的でもなく、極めて常識的な人間でありながら、これをこのまま信じている人も少なくありません。私たちもその一人です。きょうも使徒信条を告白して、「主は、聖霊によりて宿り・・」と大胆に告白しました。考えてみると、人には説明できず、絶対にありえないような大変なことを、私たちは信じているわけです。いったいイエスはどのように処女マリヤから生まれてきたのでしょうか。

 

Ⅰ.どうしてそのようなことが・・(26-37)

 

まず、まず26節から35節までをご覧ください。その六か月目にとは、ザカリヤとエリサベツがみごもって六か月目にということです。御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。その名はマリヤといい、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけでした。いいなずけとは、結婚の約束をした人という意味です。当時のユダヤの社会では結婚しているとみなされていましたが、まだ一緒に住んでいない状態のことを指していました。ですから、創造主訳聖書では、「すでに結婚していたが、また婚姻の時まで間があって、同棲はしていなかった。」と訳しているのです。そのマリヤのところに御使いガブリエルがやって来て、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と告げました。おめでとうって、何がおめでとうなのかと彼女がひどくとまどっていると、御使いは続けてこう言いました。

「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

マリヤは驚いてこう言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

 

ところで、これに似た質問を、先週見たザカリヤもしました。1章18節です。

「そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私はもう年寄りですし、妻も年をとっています。」

これはザカリヤがヨハネの誕生を告げられたとき、自分たち夫婦がもう年寄りなので子供を産むことは不可能だと言いたかったのです。ですから、子供が生まれるとしたら、何らかのしるしでも見せて下さるのですか、と尋ねたのです。ある人はこのザカリヤの質問は「疑い」の質問だったと説明しています。

 

しかし、マリヤの質問は違います。マリヤの質問は、「疑い」ではなく「驚き」の質問でした。そしてまだ男の人を知らないのに、どのようにしてそんなことが起こるのかと尋ねたのです。ですから、口語訳では、「どうして、そんなことがあり得ましょう」と訳しているのです。考えられません。考えられないことがどのようにして起こるのか、というニュアンスなのです。

 

確かにマリヤは敬虔なユダヤの女性です。それでも、御使いに、「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と言われたとき、手放しで喜べるような気持ちにはなれなかったでしょう。むしろ恐れを感じたのではないでしょうか。というのは、彼女はヨセフと結婚することが決まっていましたが、まだ正式に結婚したわけではなかったので、性的関係を持ったことがなかったからです。そのような者がどうして男の子を産むことなどできるでしょう。また、その生まれてくる男の子は聖なる方、いと高き神の子と言うではありませんか。こんな卑しい自分がどうやって、いと高き神の御子の母になるというのでしょう。考えられません。また、たとえそうなったとしても、いったいそれをどのようにヨセフに説明できるというのでしょう。彼女は一瞬にしていろいろなことを考えたことと思います。

 

これに対して、神の答えはこうでした。35節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「御使いは答えて言った。聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

 

その答えは、「聖霊があなたの上に臨み」でした。それは通常の方法によってではなく、聖霊によって、聖霊なる神の御業によるというのです。聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方が彼女をおおうことによってなされるのです。処女が身ごもるなど聞いたこともないし、全く考えられないことですが、神にとって不可能なことは一つもありません。神は、私たちには考えられないこともおできになるのです。処女が身ごもることもそうです。何もないところからおことば一つですべてのものを創造された主は、処女の胎にいのちを宿すこともおできになるのです。であれば、永遠で無限の神が時間と空間に制限されている人間になることなんて考えられないことですが、神にとってはできないことではないのです。大切なことは、それをどのように説明するかということではなく、神がそのような方法をとってくださったという事実をそのまま受け入れて信じることです。それが信仰なのです。そのために神が取られた方法が処女降誕だったのです。

 

そんなのおかしいと思う方もいるでしょう。でもこのようなことを私たちも経験しているのではないでしょうか。たとえば、今度の日曜日にさくらチャペルでKさんがバプテスマを受けられますが、人が新しく生まれることはその一つです。新しく生まれるとは心を入れ替えることとは違い、神のいのちである聖霊を受け入れ、神の子どもとして新しく生まれることです。それはどんなにその人が頑張って努力してもできることではありません。それはただ神の聖霊によらなければできないのです。イエスが、、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)と言われたとおりです。それは御霊なる神の働きでしかないのです。それは、神を信じた人が主と同じ姿に変えられていくことも同じです。それは御霊なる主の働きによるのです。そのような神の働きを、私たちも経験しているのです。

であれば、神が、処女マリヤの胎に神の子を宿すことも考えられないことではないのです。ただそれが神の取られた方法であったということであって、私たちはその事実を受け入れなければならないのです。

 

Ⅱ.あなたのおことばどおりに(38)

 

それに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。38節をご覧ください。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

こうした神の救いのご計画が実現した背景には、聖なる神の働きがあっただけでなく、人間の側の信仰による応答がありました。この主の使いのことばに対して、マリヤはどのように応答したでしょうか。

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

彼女は主のことばに対して、まず、自分が主のはしためにすぎないと認め、どうぞ、あなたのおことばどおりになるようにと、すべてを主にゆだねました。「はしため」とは奴隷のことです。奴隷とは、主人の意志に従う者のことです。それは簡単なことのようでなかなかできることではありません。自分を捨てることができないからこそ、私たちはいつも心の中で葛藤するのではないでしょうか。しかし、彼女は自分が主のはしためにすぎないと言って、しもべに徹しました。ただ主のみこころが成し遂げられることを求め、主にすべてをゆだねたのです。

 

皆さん、どうですか、このマリヤの姿をご覧になってみて・・。このように言うことは彼女にとって大変だったはずです。なぜなら、もし彼女が妊娠したとしたら、ヨセフとの関係はだめになってしまうでしょう。彼女がいくら、「いや、これはね、聖霊が臨んでなされたことなのよ」と言っても、ヨセフには通じなかったでしょう。事実、マタイの福音書を見ると、ヨセフがそのことを知ったとき、彼は彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」とあります。彼は受け入れられなかったのです。しかし、その後で主の使いが夢に現れて、それが聖霊によることであるとわかり、彼女を妻として迎えることができたのです。

 

それはヨセフだけの問題ではありません。律法ではこのような姦淫を行う者を石打にするようにと定められていました。そのことをたとえ近所の人たちに説明しても、とうてい理解してもらえなかったはずです。よって彼女が妊娠したということがわかれば、彼女は人々の面前で死刑にされてもおかしくなかったのです。ですから、マリヤがこのように主のことばを受け入れたというのは、命がけのことだったことがわかります。にもかかわらずマリヤは、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と言って、主にすべてをゆだねました。どうして彼女はそのように従うことができたのでしょうか。

 

それはみことばへの信仰があったからです。このことから教えられることは、本当の献身とは自分の思いから出たことではなく、神の御言葉への応答としてそれに従うことであるということです。つまり、マリヤは、神の恵みに対してジャストミートしたのです。神から投げかけられた恵みに対して、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」とジャストミートしました。聖書にはそう書いてあるけども現実的には難しいとか、私はそう思わないとか、私には私の考えがあるのといって、自分の思いを通そうとするのではなく、「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とジャストミートしました。時々私たちは神のみことばよりも自分の思いが強すぎてボールの下をたたいてみたり、上をこすったりすることがあります。ひどい時には空振りすることもあります。しかし、大切なのはジャストミートすることです。神が言われることをそのとおりに受け入れること、それがジャストミートです。そのような人はマリヤのように主の恵みをいただくようになるのです。

 

Ⅲ.主によって語られたことを信じきった人(39-55)

 

最後に、そのように主のことばを信じきった人がどんなに幸いなのかを見て終わりたいと思います。45節をご覧ください。ここに、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」とあります。

 

マリヤは、御使いが彼女から去って行くと、山地にあるユダの町へと急いで行きました。そして、ザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつをすると、エリサベツは聖霊に満たされて大声で言いました。

「あなたは御名の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。・・・主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

 

ところで、この時いったいなぜマリヤがエリサベツの所へ行ったのかはわかりません。36節には、「あなたの親類エリサベツ」とあるので、彼女が親類であったことは確かですが、それ以上の理由はわかりません。おそらく、御使いの超自然的な受胎告知を聞いたとき、その中に、「親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。」という言葉を聞いて、エリサベツなら自分の身に起こったことを唯一理解してくれると思ったのでしょう。そして、彼女がエリサベツの家へ行くと、さすがエリサベツはマリヤの身に起こったことを理解できただけでなく、彼女が、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人の幸いを告げたのです。やはり高齢でありながら主が願いを聞き、こどもを授けてくださった主の奇跡を経験していたので、マリヤの言うことをも受け入れることができたのでしょう。マリヤにとってもどれほど慰められたかわかりません。

 

そして、それを聞いたマリヤの口から、主への賛美が溢れました。46節から55節までをご覧ください。

「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

「喜びたたえる」とは、大喜びするという意味です。皆さんは大喜びしていますか。神は、自分の心を明け渡し、主のみことばに生きる人に、大きな喜びを与えてくださいます。クリスマス、それはすばらしい喜びの知らせですが、そのすばらしい喜びの知らせは、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人にもたらされるものなのです。

 

マリヤはそのことをこの賛美の中で次のように言っています。54節と55節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に、語られたとおりです。」

 

この言葉はとても意義深いものです。聖書の神は、約束の神です。アブラハムへの約束を忘れないで、アブラハムに語られた約束を果たしてくださいました。神はどれほど多くの約束を私たちに与えておられるでしょうか。その約束は、創世記の始めからたくさん記されてありますが、特にアブラハムからのものが重要です。なぜなら、神はアブラハムを選び、ご自分の民とし、彼の子孫から救い主を送ると約束されたからです。創世記12章1,2節には、次のようにあります。

「あなたは、あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」

神はアブラハムから出るものを祝福すると約束されましたが、その約束は、たとえ神の民イスラエルが神から離れ、神のさばきによってバビロンに捕囚になるという状況でも変わりませんでした。エレミヤ書35章5~6節にはこうあります。

「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、「主は私たちの正義」と呼ばれよう。」

これはイスラエルがバビロンの捕囚の民として連行された時に告げられました。そしてそのことばのとおり、そのダビデの子孫を通して、救い主を送ってくださったのです。それがイエス・キリストです。

 

何ということでしょう。このような神が他にいるでしょうか。いません。このように語られたことを成し遂げられる真実な神は他にはいません。私たちは不真実でも、神はいつも真実なのです。神は約束されたことを最後まで果たしてくださる。

 

ですから、私たちはこの約束の神を信じなければなりません。神があの堕落したイスラエルでさえ、なお捨てず、回復なさろうとされるのは、神が約束の神だからなのです。

 

しばしば、私たちは自分の思うようにならないといらいらしてみたり、人間関係がちょっとでもこじれたりすると、神から捨てられたのではないかと思ったり、罪を犯した場合や何か失敗したりすると、自分は呪われているのではないかとさえ思いがちですが、神は私たちを最後までお捨てにはならず、その約束を必ず実現してくださるのです。ですから、私たちは、この約束の神を信じなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)

このみことばにしっかりと信仰の基礎を置き、主によって語られた約束は必ず実現すると信じきろうではありません。

 

今から二千年前、神の御子イエス・キリストはマリヤのお腹に宿りました。それは人間の理解をはるかに超えた神の御業であり、尊い神の約束によるものでした。その神の御業は、今も私たちのうちに行われます。私たちもマリヤのように神のことばを信仰によって受け入れ、神によって語られたことは必ず実現すると信じきるなら、あなたにも神の恵みが豊かに臨むのです。