エレミヤ24章1~10節「二かごのいちじく」

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エレミヤ書24章に入ります。今日は、「二かごのいちじく」というタイトルでお話します。いちじくはイスラエルを代表する木で、その葉と実を含め、聖書によく登場します。エレミヤはある時、主の神殿の前で、このいちじくの幻を見せられるのです。それは、二かごに盛られたいちじくでした。主はその幻を通して、当時のユダの民に大切な真理を語ろうとされたのです。それは、主のみこころに従う者を、主は初なりのいちじくのようにするということです。反対に、主のみこころに従わない者は、腐って、非常に悪いいちじくのようにするということです。

Ⅰ.エレミヤが見た幻(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」」

それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エコンヤ(エホヤキン)と、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のことです。バビロン捕囚は、計3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年です。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。二回目はB.C.597年です。この時、エゼキエルもバビロンに捕え移されます。そして三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。この24章の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコンヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムに連れて行かれました。詳しいことはⅡ列王記24章に記されてありますが、かなり大がかりな捕囚だったようです。何といっても、この時ユダの王エコンヤ(エホヤキン)と、彼の母、彼の妻たち、その宦官たち、この国の主だった人々が、捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて行かれたというのは大きかったと思います。それでネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのゼデキヤをエホヤキンの代わりに王としたのです。そのゼデキヤはやがてネブカデネザルに反逆してクーデターを起こしますが失敗し、目をえぐり取られて殺されるという悲惨な結果を招くことになります。

ですから、この24章の出来事は、第二回目のバビロン捕囚直後の出来事なのです。その時、何がありましたか。主がエレミヤに一つの幻を示されました。それは、主の神殿の前に、二つのかごのいちじくが置かれてあったというものです。
  一つのかごにあったのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようでした。初なりのいちじくというのは、とっても美味しくて、貴重で、高価ないちじくという意味です。イスラエルでは、いちじくは年2回に分けて収穫されます。1回は6月頃で、もう1回は8~9月頃です。ここには初なりのいちじくとありますから、6月頃に収穫されるいちじくのことです。これは本当に良いいちじくで、美味しく、非常に高価で貴重なものでした。

もう一つのかごにあったのは、非常に悪いいちじくでした。悪いというのは腐っていてという意味です。もう腐っていてとても食べられるものではありませんでした。これは2回目に収穫されるいちじくのことではなく、収穫されないでそのままいちじくの木に残されていたものです。収穫されてないでそのままにしておくとどうなるかというと、完熟して地面に落ちてしまいます。いちじくは繊細で傷みやすい果物なので、そのままにしておくとあっという間に腐ってしまうのです。ここで言われている非常に悪いいちじくとは、そのようないちじくのことです。それは非常に悪いもので、もう食べられなくなっていました。非常に対照的ないちじくが、二つのかごに盛ってありました。エレミヤはそのような幻を見たのです。いったいこれは何を表していたのでしょうか。

Ⅱ.良いいちじく(4-7)

まず良いいちじくから見ていきましょう。4~7節をご覧ください。「4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」

主はこう言われました。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」(5)
  「カルデア人」とは「バビロン人」のことです。ですから、ユダの捕囚の民とはバビロン捕囚となった民のことを指しています。その民を良いいちじくのようにしよう、良いものであると見なそうというのです。つまり良いいちじくとは、バビロンへ捕え移された捕囚の民のことを表していたのです。これは不思議なことです。なぜなら、彼らはバビロンによって侵略され、みじめにも降伏して、捕虜となっていたからです。どう見たってみじめです。それなのに主は、そんな者を良いいちじくのように、初なりのいちじくのように見なそうと言われたのです。ちょっとピンときません。合点がいかないという方もおられるでしょう。いったいどうしてそれが良いいちじくなのか。逆じゃないですか。敵に敗れ、捕虜として連れて行かれ、奴隷として生きなければならないとしたら、それこそ腐ったいちじくのようなものです。かつては良かったかもしれません。しかし、今は地面に落ちて腐ってしまい、とても食べることなどできなくなった悪いいちじくのようです。イメージとしてはこっちの方がピッタリくると思います。でも、神はそうじゃないとおっしゃられました。バビロン捕囚として連れて行かれたユダの民こそ良いいちじくであると言われたのです。これは人間的な物の見方、考え方と全く逆です。

聖書を読んでいるとこういうことが往々にしてあります。たとえば、イエス様は山上の説教の冒頭でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)不思議なことばですね。心が豊かな者、心が満ちている者は幸いですというのならわかりやすいのですが、心の貧しい者は幸いですと言われたのです。それは勿論心の卑しい人とか心の狭い人のことではありません。神様の前に自分の霊的貧しさを知っている人、すなわち、自分の心の貧しさを正直に認め、心が砕かれた人のことを指しています。神様が忌み嫌われるリストが聖書の中にあるのですが、その一番最初に来るのが高ぶる者、すなわち、傲慢さや高慢さです。自分の傲慢さを認めることは勇気が必要です。しかし、それを認めてへりくだる者にこそ、神様は本当の幸いを与えてくださるということなのですが、このように説明されると「あっ、そういうことですね」とわかりやすいのですが、そうでないと「えっ」と首をかしげたくなります。このように聖書の中には、神様の驚くべき物の捉え方というか考え方、価値観が、いたるところに記されてあるのです。
  ここもそうです。敵の攻撃に敗れ、捕虜として、捕囚の民として連れて行かれたら不幸なはずなのに、神の目ではそういう人が幸いであって、良いいちじくのようだ、というのです。いったいどうしてそれが良いいちじくのようなのでしょうか。

第一に、それが神のみこころだったからです。5節にこうあります。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」
  確かに彼らは神に背き、悔い改めなかったので、バビロンに捕え移されるという懲らしめを受けることになりましたが、神のご計画はそれで終わりませんでした。そのことを通して彼らをもっと良いものにしようと考えておられたのです。そのことは、既に21:8-10で語られていたことでした。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。「10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──【主】のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
  ここで主は彼らの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。いのちの道とは、捕囚の民としてバビロンに行くことです。逆に死の道とは、エルサレムにとどまることでした。最後まで徹底抗戦してバビロンと戦い、エルサレムに留まることです。一見最後までとどまって戦った方がいのちの道のようですが、そうではなく、それは死の道を選択することでした。なぜなら、彼らがバビロンの捕虜として連れて行かれることが神のみこころだったからです。神のみこころに従うことがいのちの道です。逆に従わないことが死の道です。彼らが神のことばに従わなかったので神はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめようとされたのです。それが神のみこころだったのです。まさにヘブル12:11にある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」で言われていることです。」
  神のみこころは彼らを滅ぼすことではなく、彼らを良いものにすることだったのです。そのためには訓練が必要でした。それがバビロン捕囚だったのです。それは神からの訓練、神からの懲らしめだったのです。その懲らしめを通して神は彼らを良いものにしようとされたのです。それは彼らにとっては喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思えることでしたが、しかし後になると、これによって鍛えられた人たちに、義という平安の実を結ばせることになるのです。
  これが神のご計画でした。ですからバビロンによって捕囚の民として連れて行かれることは悲惨なようですが、実際はその逆で、そのことによって彼らは鍛えられ、もっと良いものにされたのです。初なりのいちじくのように。

第二のことは、彼らがバビロンに捕え移されても、それで終わりではなかったからです。主はやがて彼らを約束の地に帰らせ、その国を永遠に確立すると約束されました。6節にこうあります。「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。」(6)
  何とすばらしい約束でしょうか。ここで主は彼らを幸せにしようと彼らに目をかけると言われました。どういうことでしょうか。彼らを幸せにするために懲らしめを与えるということです。そうです。バビロン捕囚は、彼らに対する神の懲らしめだったのです。彼らを痛めつけるために懲らしめるのではありません。彼らを幸せにするために、彼らを良いものにするための懲らしめです。その幸せとは何というと、彼らをこの地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、飢えて、引き抜くことはないということです。すなわち、イスラエルは永遠に堅く立てられるということです。そのためにはこのバビロン捕囚が必要だったのです。これは、彼らがバビロンに連れて行かれてから70年後にそこから解放されるということを通して実現しますが、そればかりではなく、世の終わりにおいて全面的に成就することになります。事実、今でもこれが実現しています。世界中に散らされたユダヤ人が、約束の地に戻って来ているのです。1948年にはイスラエルが国として独立しました。そういう神様の深いご計画があったのです。

第三に、このバビロン捕囚という出来事を通して、神様は彼らに主こそ神であるということを知る心を与えるからです。彼らが心を尽くして主に立ち返るためです。7節にこうあります。「わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
  これもすばらしい約束です。私たちが主を知ることができるのは、主が、ご自身を知る心を与えくださるからです。そうでなければ、主を知ることはできません。というのは、この「知る」という語は単に頭で知るということ以上のことだからです。これはヘブル語で「ヤダー」という語であることは何度も言っていますが、これは深く知るという意味です。単に知識で知るという以上のことで、人格的に知るということです。それは主がそのような心を与えてくださって初めてできることです。そしてこの神を知ることこそ、永遠のいのちそのものなのです。

ヨハネ17:3をご覧ください。ここにはこうあります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
  皆さん、永遠のいのちとは何ですか。ここには、永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです、とあります。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠のいのちです。ですから、主を知る心をいただくということは、永遠のいのちをいただくということ、すなわち、救いをいただくということなのです。神との回復をいただくということ、神の子としていただくということです。失われていた神との関係を回復し、神との親しい交わりの中にいれていただくことなのです。

Ⅰヨハネ5:20にはこうあります。「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
  イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです。私たちはどうやってそれを知ることができたのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが来て、真実な方を知る理解力を与えてくださることによってです。自分の力で知ることはできません。自分の力で永遠のいのちを獲得することはできないのです。神がこの心を与えてくれない限り知ることはできません。逆に言うと、どんなに聖書がわからない人でも、神様がこの心を与えてくださるならだれでも知ることができます。だれでも救われるのです。だから、聖書の教える救いは神の恵みでしかないわけです。
  それを、自らの罪の結果バビロン捕囚という憂き目にあった彼らに与えられたのです。彼らにはそんな資格はありませんでした。自分の力では主を知ることなんて全くできなかったのに、バビロン捕囚という出来事を通して彼らにその心が与えられたのです。それは恵みではないでしょうか。

このように、絶望的に見えるバビロン捕囚は、かえって主に目をかけられ、信仰が立て直されるきっかけとなったのです。人の目には悪く見えても、捕囚という試練、懲らしめは主から見ると「良いいちじく」なのです。それはまさしくイザヤ書55:8~9で言われていることです。ご一緒に読みましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」

当時、大部分の人は、幸いなのはエルサレムに残った人たちであると思ったことでしょう。しかし、神の思いは異なっていました。神の思いは全く逆だったのです。神のみこころは、神のことばを信じて、バビロンの捕囚の民としてエルサレムからカルデア人の地、すなわちバビロンに捕え移されることだったのです。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。であれば、私たちがどう思うか、どう考えるかということではなく、神の思いは何なのかを知り、それに従うことこそ幸いな道であり、良いいちじくとなるということがわかります。

それは私たちにも言えることです。一見、悪いと思える出来事が良き導きのきっかけとなる場合があります。逆に、見せかけの平安や幸せが、悲劇につながることもあるのです。ですから、私たちは目先の結果に揺さぶられることなく、「すべてのことを働かせて益としてくださる主」に信頼し、主のみこころに歩まなければなりません。

Ⅲ.悪いいちじく(8-10)

最後に、悪いいちじくを見て終わりたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」」

ここには悪くて食べられない、悪いいちじくについて言及されています。それは南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤをはじめとする、エルサレムに残った人たちのことを指しています。ゼデキヤについては先ほども述べたように、エホンヤ(エホヤキン)がバビロンに連れて行かれた後、バビロンの王ネブカデネザルによって擁立された王です。彼が南ユダ最後の王となります。彼は本来バビロンのパペット、操り人形にすぎませんでしたが、後にバビロンに反旗を翻しクーデターを起こしました。しかしその結果、ネブカドネツァルに殺されることになります。目の前で息子が虐殺され、その目をえぐり取られたのです。ですから、彼が最後に見たものは、息子が虐殺されるというシーンでした。何とも惨めな死に方です。その前にバビロンに捕えられ、幽閉されたエコンヤ、エホヤキンとは大違いです。いったいなぜ彼はこんな惨めに死んで行ったのでしょうか。神のみこころに従わなかったからです。神のみこころは、彼らがバビロン捕囚として懲らしめを受けることだったのに、それをしなかったからです。

一方、その前にバビロンに連れて行かれたエコンヤはどうなったでしょうか。22:30では、彼は「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ、とのろいを宣告されたにもかかわらず、バビロンに移されてから37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から呼び出され、優しいことばをかけられ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされます。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも主の前で食事をすることが許されたのです。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されました(Ⅰ列王記25:27-30)。

  いったいこの差はどこから生じたのでしょうか。それは、神のみこころに従ったかどうかという一点です。エコンヤも決して敬虔な王ではありませんでした。でもバビロン捕囚に素直に従ったので、彼は後に良いいちじくに、良いものに変えられたのです。そして、このエコンヤの子孫にイエスの養父ヨセフが生まれることになります。エコンヤの息子たちは王位に就くことはありませんでしたが、でも彼らはバビロン捕囚によって殺されることなく、投獄されましたが最後は良い目に遭いました。一生奴隷のように扱われて、獣のように鎖につながれて惨めに檻の中で死んで行ったのではなく、そこから出されて再び王宮に住むことが許されたのです。大どんでん返しが起こったのです。なぜでしょうか。それは6節にあるように、主が彼を幸せにしようと、良いものにしようと目をかけてくださったからです。彼は悔しいけれども従いました。納得いかなかったけれども従いました。神の希望の約束があったから。その先が見えていたからです。

皆さん、神のみこころは物事が順調に行くこととは限りません。神のみこころは、目の前の困難に常に勝利し続けるということとは限りません。神のみこころは、時に敗北したかのように見えることもあり得るのです。でも神のみこころなら、それが勝利につながるという大どんでん返しが起こり得るのです。

ですから、結論はこれです。Ⅰペテロ5:5~7を開いてください。ご一緒に読みましょう。「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」

神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます。神のみこころはバビロンに捕虜として連れて行かれることなのに、そんなの嫌だと、自分たちの知恵と力で最後まで抵抗した人たちは腐って食べられない悪いいちじくになってしまいました。一方、へりくだる者には恵みを与えてくださいます。バビロン捕囚は、神が繰り返し警告しておられたことなのに、それを受け入れないで自分勝手に歩んだ結果がこれ。今さらジタバタしても無駄なこと。むしろ、このバビロン捕囚を招いてしまった自分たちの罪を嘆き、本当に神に申し訳ないことをしてしまった。この屈辱を、この悔しさを、この涙を、この苦しみを、この悲しみを、この痛みを甘んじて受けよう。これがへりくだる者の姿です。そして、このようにへりくだる者に、神は恵みを与えてくださいます。彼らを幸せにしようと彼らに目をかけてくださり、良いいちじくに、初なりの最高のいちじくにしてくださるのです。

ですから、私たちに求められていることは、神の力強い御手の下にへりくだることです。そうすれば、ちょうど良い時に神が高くしてくださいます。たとえあなたが承服できなくても、たとえあなたが納得できなくても、たとえ屈辱的な扱いを受けたとしても、たとえすべてを失うことがあったとしても、たとえどんな悲しみに落ちようと、主は良いものにしてくださるという約束を信じて、力強い神の御手の下にへりくだらなければならないのです。多くの場合、納得がいかないと神に従がおうとしません。すべてを失うのは嫌です。でもそれが神のみこころなら、たとえ納得できなくても、たとえ理解することができなくても、たとえ悔しくても、それでも従わなければならないのです。その向こうに希望があるからです。

皆さん、私たちの前には常に二者択一の選択が置かれています。いのちの道を選ぶか死の道を選ぶか、初なりの非常に良いいちじくになるかそれとも、腐って食べられない悪いいちじくになるのかです。バビロンに降伏することは大変屈辱的なことのようですが、それが神のみこころならやがて良いいちじくとなるのです。なぜなら、主があなたを幸せにしようとあなたに目をかけておられるからです。この力強い主の御手の下にへりくだり、主のみこころに従いましょう。あなたにも初なりの良いいちじくのように、良いものであると見なしていただこうではありませんか。

エレミヤ23章23~40節「真の預言者とにせ預言者を見分ける」

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今回は、前回に続いて、どうしたら真の預言者とにせ預言者とを見分けることができるか、というテーマです。真の預言者とにせ預言者とでは、どのような違いがあるのでしょうか。どうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。どちらも、自分は主から遣わされた預言者だと主張しています。どちらも主の御名によって預言しています。ですから、外見上それを見分けるのはなかなか困難です。いったいどうしたらそれを見分けることができるのでしょうか。これは、何も昔の話ではなく、極めて現代的なテーマでもあります。今日の箇所から、真の預言者の特徴を見ていきたいと思います。

Ⅰ.麦と藁(わら)のたとえ(23-29)

まず、23~24節をご覧ください。「23 わたしは近くにいれば、神なのか。─【主】のことば─遠くにいれば、神ではないのか。24 人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。─【主】のことば─天にも地にも、わたしは満ちているではないか。─【主】のことば。」

にせ預言者たちの特徴の一つは、物理的に近い偶像の存在は認めても、どこにでもおられる真の神の存在を認めることができなかったということです。ですから、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられると考えていたのです。最初の人アダムとエバは、神の命令に背いて罪を犯したとき、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そのとき神である主は、人に呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」神である主は彼らがどこにいるのかわからなかったのでしょうか。いいえ、彼らがどんなに身を隠しても、彼らがどこにいるのかをちゃんと知っていました。その上で「あなたはどこにいるのか」と尋ねられたのです。そこはあなたのいるところではない。あなたがいるところはここだと。どんなに隠れたところに身を隠しても、神の目からのがれることはできません。なぜなら、神はどこにでもおられるからです。神はあらゆるところにおられます。ダビデは、詩篇139篇でこう言っています。「7 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。8 たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも10 そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。」(詩篇139:7-10)
  たとえ天に上っても、主はそこにおられます。たとえよみに床をもうけても、そこにも主はおられます。たとえ海の果てに住んでも、主はそこにもおられます。主はどこにでもおられるのです。ですから、たとえ隠れ場に身を隠したとしても、神の目から隠れることはできません。神はすべてをお見通しなのです。それなのに彼らは、隠れたところに身を隠せば、神の目から逃れられるのではないかと考えていました。神は、近くにいても、遠くにいても神です。神は、天にも地にも満ちておられます。彼らはそれを認めることができませんでした。それがにせ預言者の特徴の一つです。彼らは神の存在を認めていませんでした。神を恐れていなかったのです。

次に、25~28節をご覧ください。「25 わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。26 いつまで、あの預言者たちの心に偽りの預言があるのか。心の偽りごとを語る預言者たちのうちに。27 彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように、彼らはそれぞれ自分たちの夢を述べ、わたしの民にわたしの名を忘れさせようと、企んでいるのか。28 夢を見た預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしのことばを受けた者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦は藁と何の関わりがあるだろうか。─【主】のことば─」

にせ預言者たちの特徴の第二のことは、自分たちの見た夢をあたかも神から与えられた啓示であるかのように語るということです。25節には、「わたしの名によって偽りを預言する預言者たちが、『私は夢を見た。夢を見た』と言うのを、わたしは聞いた。」とあります。ここで特徴的なのは、「私は夢を見た。夢を見た」と、夢を見たということばが繰り返されていることです。どうして彼らはこのように繰り返して言っていたのでしょうか。それを強調したかったからです。このように強調することによって、あたかもそれが本当であるかのように訴えるためです。
  確かに神は夢や幻を通しても語られることがあります。たとえば、創世記28章にはヤコブが夢を見たことが記されてあります。それは天から地に向かって一つのはしごがかけられていたという夢でした。そして、そのはしごの上を神の御使いが上り下りしていました。これは、ヨハネ1:51を見ると、天から地に向けて架け橋となられたイエス・キリストのことを示していました。このように、確かに神は夢を通しても語られることもありますが、だからと言って、夢を見たらそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。伝道者の書5:3には「仕事が多いと夢を見る」とあります。仕事が多いと夢を見るようになります。あれもしなければならない、これもしなければならないということが多くなると、神経が高ぶって寝つきが悪くなり、夢を見ることが多くなるというのです。でもそれがすべて神からの啓示なのかというとそうではありません。それなのに、にせ預言者たちは、あたかもそれが神から与えられた啓示であるかのように語っていたのです。するとどうなりますか。27節をご覧ください。ここには「彼らの先祖がバアルのゆえにわたしの名を忘れたように」とあるように、かえって神から離れてしまうことになるのです。主につながるどころか、主から離れさせてしまうことになるのです。信仰から離れてしまうことになります。コロサイ2:18には、「彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(新改訳第3版)とあります。「かしら」とはイエス・キリストのことです。彼らは夢や幻を見ることによって、かしらであるキリストに堅く結びつくことをしませんでした。かえって、キリストから離れてしまうことになってしまいました。

いったい何が問題だったのでしょうか。神のことばをベースにしていなかったことです。だから、やたらと自分たちの見た夢を強調していたのです。夢そのものが悪いのではありません。私もよく夢を見ます。「いつでもゆ~めを♪いつでもゆ~めを♪」夢を見ることは別に悪いことではないのです。問題は見た夢がすべて神からの啓示であると断言することです。ですから、夢と神からの啓示というものは分けて考えなければなりません。夢を見たらそれがすべて神の啓示であるというのではなく、本当にそれが神からのものなのかどうかを、神のことばによって吟味しなければならないのです。そうでないと、夢とか、幻とか、神のことば以外で受けたものをすべて神の啓示にしてしまう誤りを犯してしまうことになります。夢を見た預言者は夢を語ればいいでしょう。でも、神のことばを受けた預言者は、神のことばを語ります。これが真の預言者とにせ預言者の違いです。

そのことが、麦と(わら)のたとえでわかりやすく表現されています。28節をご覧ください。ここに「麦は藁と何の関わりがあるだろうか。」とあります。どういうことでしょうか。麦は栄養のある部分です。藁は、脱穀する時に出てくる殻のことですね。そこには栄養はありません。神の言葉は麦であり、夢は殻でしかないということです。神のことばは力となり、栄養となり、それによって生きることができますが、夢はただの幻であり、中身がないということです。栄養もありません。従って、それによって生きることはできません。真の預言者とそのメッセージは麦ですが、にせ預言者とそのメッセージは藁です。にせ預言者のメッセージは、人に何の益ももたらさないのです。

同じことが、火と金槌のたえによって表現されています。29節をご覧ください。ここには「わたしのことばは火のようではないか─【主】のことば─。岩を砕く金槌のようではないか。」とあります。神のことばが火にたとえられています。どういう点で神のことばは火のようなのでしょうか。不純物を焼き尽くすという点においてです。私たちの心に隠された汚れを焼き尽くして清めます。

ここには、さらに神のことばが岩を砕く金槌のようだともあります。どういうことでしょうか。どんなに堅いものでも粉々に砕くことができるということです。皆さんはダイヤモンドを持っていますか。ダイヤモンドは鉱物の中でも一番堅いものだと言われていますが、でもこの金槌で叩いたらどうなるでしょうか。あまりお勧めしませんが、もし皆さんがダイヤモンドを持っているなら、試してみるといいと思います。粉々に砕けますから。神のことばは金槌のようで、どんな堅いものでも粉々に砕くことができるのです。あなたの心もそうです。あなたの心がどんなに頑なでも、神のことばはそれを砕くことができます。神は砕かれた心、砕かれた悔いた心を求めておられます。私たちの頑な心も砕いていただきましょう。

このように、真の預言者のメッセージは麦のようであり、また火のようであり、金槌のようです。それは真に人を生かします。それは力があり、人を励まし、人を満たします。でも、にせ預言者のメッセージは中身のない藁のようです。いかにも神のことばであるかのように見せかけますが、それはただ聞く人の耳に心地よいだけで、何の役にも立ちません。ただの空しい話にすぎないのです。

Ⅱ.神のことばを利用するにせ預言者(30-32) 

真の預言者と偽りの預言者をどうやったら見分けることができるでしょうか。もう一つのポイントは、にせ預言者は神のことばを利用して、あたかもそれが主から与えられたものであるかのように語るということです。30~32節をご覧ください。「30 それゆえ、見よ─【主】のことば─。わたしは、互いにわたしのことばを盗み合う預言者たちの敵となる。31 見よ。わたしは─【主】のことば─自分の舌を操って、これがみことばだ、と言う預言者たちの敵となる。32 見よ。わたしは偽りの夢を預言する者たちの敵となる─【主】のことば─。彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている。わたしは彼らを遣わさず、彼らに命じもしなかった。彼らは、この民にとって何の役にも立たない─【主】のことば。」

彼らは神のことばを利用して、いかにもそれが神のことばであるかのように語ります。32節には、「彼らは、偽りと自慢話をわたしの民に語って迷わせている」とあります。この「自慢話」と訳された言葉は、新共同訳で「気まぐれ」と訳されています。彼らは気まぐれで話をしていました。聖書が何を言っているかなど関係ありません。ただ自分が言いたいことを、聖書を利用して語るだけでした。その結果、民の心はカラカラに渇いてしまいました。アモス書8:1にこうあります。「見よ、その時代が来る。─【神】である主のことば─そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことの飢饉である。」(アモス8:1)
  皆さん、飢饉といってもいろいろな飢饉があります。でもこの飢饉は、パンに飢える飢饉ではありません。水に渇く飢饉でもありません。みことばを聞くことの飢饉です。神のみことばが語られないと、私たちの心がカラカラに渇いてしまうのです。皆さんも、そういう経験がおありでしょう。講壇からみことばが語られない。牧師の経験談とか自慢話など、気まぐれな話は語られても、肝心な神のみことばが語られないので渇いてしまったということが。そういう意味では、毎週講壇から語られる説教がどれほど重要であるかがわかるかと思います。私もあまり他の牧師の説教を聞くことがありませんが、聞いていて感動する時というのは、その牧師がよく準備して、神のことばを神のことばとして語っている時です。神様ってすごいなぁと改めて教えられ、主をほめたたえます。どんなに楽しいお話でも、どんなに含蓄のあることばでも、神のことばを利用して自分の言いたいことを語るような説教はあまり心が動かされません。皆さんはいかがでしょうか。

主なる神さまもそのようにおっしゃっておられます。30節と31節と32節には繰り返して、そのようなにせ預言者に対して「わたしは彼らの敵となる」と、主は語っておられます。神が敵となることが一番恐ろしいことです。でも、もし神のことばを盗んで自分たちの教えに勝手に利用するようなことがあるとしたら、あるいは、講壇から神のことばではなく、偽りのことばや自慢話といった気まぐれで語られるようなことがあるとしたら、神が敵となられます。

あなたは、どのようにして真の預言者とにせ預言者を見分けていますか。ある人たちは、夢で見た内容、たとえば死後の世界とか、天国と地獄のことなどを書物に現わし、あたかもそれが福音の真理であるかのように語っています。しかし、それをそのまま信じてはいけません。最終的な権威は、聖書にあるので、聖書に照らして吟味しなければならないのです。

Ⅲ.主の宣告とは何か(33-40)

次に、33~40節をご覧ください。「33 この民、あるいは預言者か祭司が、『【主】の宣告とは何か』とあなたに尋ねたら、あなたは彼らに言え。『あなたが、宣告とは何かと言うので、わたしはあなたがたを捨てる─【主】のことば。』34 預言者でも、祭司でも、民でも、【主】の宣告と言う者があれば、わたしはその者とその家を罰する。」35 あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。36 しかし、【主】の宣告ということを二度と述べてはならない。その宣告自体がそれを言う人自身のことばであり、あなたがたが、生ける神、万軍の【主】、私たちの神のことばを曲げることになるからだ。37 「あの預言者たちにこう言え。『【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか。38 もし、あなたがたが【主】の宣告と言うなら、それに対して、【主】はこう言われる。わたしはあなたがたに、【主】の宣告と言うなと言い送ったのに、あなたがたは【主】の宣告というこのことばを使っている。39 それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、40 永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」

33節の「あなたに」とはエレミヤのことです。ユダの民、あるいは預言者や祭司が、エレミヤに「主の宣告とは何か」と尋ねたら、エレミヤは彼らにこう言わなければなりませんでした。「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる─主のことば。」どういうことでしょうか。

この「宣告」ということばには※が付いていますが、下の欄外の説明を見ると、ヘブル語で「マサ」。「重荷」とも訳す、とあります。そして「あなたが、宣告とは何かというので、わたしはあなたを捨てる」にも※があって、下の説明には、七十人訳による別役「あなたがたが重荷だ。わたしはなたがたを・・・・」とあります。つまり、この「宣告」と訳された言葉は「重荷」という意味もあるわけです。神様はそれを用いて、もしこの民、あるいは預言者や祭司が「主の宣告とは何か」とあなたに尋ねたら、エレミヤよ、あなたこう言いなさい。「あなたがたが重荷だ」と。

これは語呂合わせというか、神様のダジャレです。神様はダジャレを使うので私も時々ダジャレを使いますが、こんなに高度なダジャレは使えません。謎かけみたいですね。「主の宣告とかけまして重荷とときます。そのこころは、マサにそれが「マサ」です」ちょっと意味不明でしょうか。神様のような謎かけはできないですね。あまりにも高度です。そうです、これは高度な語呂合わせ、ダジャレなんです。ご自分の伝えたいことを明確に伝えるなんて、マサに御業です。神のことばを利用しながら、主の宣告、マサは何かというのに対して、マサに、それが彼らのマサになっていくのです。重荷となっていくというのです。すごいですね。まさかあの有名な牧師が語っていたことが聖書に逸脱しているとは思わなかった・・・。まさかあのベストセラーに書いてあることが非聖書的だなんて思わなかった・・・。てっきり主の宣告だと思っていたのに、でも気付いてみたらそれが重荷となっていくのです。

マタイ11:28~30に、イエス様の有名なことばがあります。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
  すばらしい約束ですね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」主があなたを休ませてあげます。主は心優しくへりくだっているから、あなたがたも主のくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」「くびき」というのは、2頭の牛とか馬の首の後ろにかける横木のことですね。それは自由を束縛するものです。そのくびきを負って、主から学びなさいというのです。そうすれば、たましいに安らぎが来るからです。主のことばは私たちを束縛するどころか、私たちを自由にします。それは決して重荷とはならないのです。神のことばをベースにして働くなら、必ずあなたも休ませていただくことができます。リフレッシュして力を受けることができるのです。でも神のことばをベースにしなければ、自分の考えとか、自分の思いで突っ走ろうとすると、だんだん疲れて来て、もうその重荷に耐えることかできなくなってしまいます。にせ預言者たちの宣告がこれでした。彼らの宣告は神のことばをベースにしていなかったので、くびきをさらに重くしていたのです。

35節をご覧ください。「あなたがたは互いに「【主】はどう答えられたか。【主】はどう語られたか」と言うがよい。」
  これがこの箇所のまとめとなります。これが最も重要なことです。主は何と答えられたか。主は何と言われたかということです。その預言者が何と言おうと、その有名な牧師が何と言おうと、そのベストセラー本に何と書いてあろうと関係ありません。主はどう答えられたか、主は何と語られたかが重要です。それを聞かなければなりません。それを主のことば、聖書のことばによって検証しなければならないのです。鵜呑みにしてはいけないのです。

使徒の働き17章には、ベレヤの教会について紹介されています。ベレヤの人たちは非常に熱心にみことばを受け入れ、果たしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べました。新約聖書の半分以上を書いたパウロ先生のメッセージを鵜呑みにしないで、パウロ先生が語ったみことばが果たしてそのとおりであるかどうかと、毎日聖書を調べたのです。そんな彼らのことをパウロは良い人だと称賛しました。非常に熱心にみことばを聞いていたというだけでなく、その聞いたみことばが本当にそのとおりかどうか調べていたからです。吟味していたからです。

逆に、吟味しない人はわきまえのない人です。箴言14:15にはこうあります。「浅はかな者はどんなことばも信じるが、賢い人は自分の歩みを見極める。」浅はかな人は、何でも鵜呑みにします。いくら聖書を熱心に読んでも、いくらあちこちのセミナーに行っても、いろいろなメッセンジャーのことばを聞いても、聖書によって吟味しなければただのわきまえのない人になってしまいます。主は何と答えられたか、主は何と言われたかを、問わなければなりません。吟味しなければならないのです。

そのように問うなら、にせ預言者たちは沈黙せざるをえません。なぜなら、彼らの預言はにせものであることが明らかになるからです。それでも、彼らが「主の宣告」ということがあるとしたらどうなるでしょうか。39節と40節です。「それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたとあなたがたの先祖に与えたこの都を、あなたがたとともに、わたしの前から捨てて、永遠の恥辱、忘れられることのない永遠の侮辱をあなたがたに与える。』」
   「全く忘れる」というのは、彼らが行なったことを全く認めていないということです。イエス様が、終わりの時に偽預言者について、「わたしはあなたがたを全然知らない。」(マタイ7:23)と言われている箇所がありますが、彼らが主の名によって預言をして、悪霊を追い出しても、「全然知らない」と言われるのです。

主に反抗するなら、私たちは「主の重荷」となって、主に捨てられてしまうことになります。しかし、主に信頼するなら、逆に、主が私たちの重荷を担いでくださいます。先ほど引用したマタイ11:28にはこうありましたね。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
  また、詩篇55:22にはこうあります。「あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(新改訳第3版)
  また、詩篇68:19にはこうあります。「ほむべきかな主。日々私たちの重荷を担われる方。この神こそ私たちの救い。」
  皆さん、私たちは主の重荷となるのではなく、重荷を主に下ろさなければなりません。すべてを主にゆだねなければならないのです。あなたの重荷は何ですか。あなたの心配事は何でしょうか。それを主にゆだねなければなりません。あなたのすべての重荷を主にゆだねるなら、主はあなたのことを心配してくださいます。主があなたに真の休息を与えてくださいます。それは真の預言者のことば、神のことばを聞き、そこに生きることによってもたらされるものなのです。

エレミヤ23章9~22節「預言者たちについて」

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前回は、23章1~8節からお話しました。そこにはユダの民の回復の希望が語られていました。ユダの民はバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、神はそこに「残りの者」を残しておかれ、70年にわたる期間の後に元の場所に帰らせてくださるという預言です。勿論、これはバビロンからの帰還だけでなく世の終わりにおける回復の預言でもあます。世の終わりになると神は、世界中に散らされているユダヤ人を再び約束の地に帰らせてくださいます。それが現代にもつながっているということを思うと、聖書の預言は本当に凄いなぁと改めて感じさせられます。神様はご自分が語られたことを必ず成就してくださるのですから。

今日の箇所はその続きです。9節には、「預言者たちについて」とあります。この「預言者たち」とは、にせ預言者たちのことです。ここで神はにせ預言者たちに対するさばきを語られるのです。なぜにせ預言者について語られるのでしょうか。私たちは、その前のところでイスラエルの残りの者について学びましたが、彼らはバビロンへと散らされた人たちでした。なぜ彼らはバビロンに連れて行かれたのでしょうか。なぜなら、牧者たちがちゃんと牧場の群れを養っていなかったからです。彼らは神の牧場の群れを滅ぼし散らしていたのです。1節にあるとおりです。この「牧者たち」というのは、具体的には南ユダ王国の王たちのことでした。彼らは、牧場の群れを牧さなければならないのに滅ぼし散らしていました。いわばにせの牧者だったのです。ここではそれに対応して、牧者ではなく預言者のことが取り上げられているのです。にせ牧者ならぬ、にせ預言者です。彼らは神が語ってほしことではなく、民が聞きたいこと、民の耳さわりの良いことを語っていました。その結果、ユダはどうなってしまいましたか。南ユダは滅ぼされてしまうことになりました。ですから、この預言のことばをどう受け止めるかということは、とても重要なことなのです。それは国の将来を決めることになります。今日の箇所には、そのにせ預言者に対して、私たちはどのように対処したら良いかが教えられています。

Ⅰ.酔いどれのようになったエレミヤ(9-14)

まず、9~14節をご覧ください。9~10節をお読みします。「9 預言者たちについて──私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。【主】と、主の聖なることばのために。10 地が姦通する者で満ちているからだ。地はのろわれて喪に服し、荒野の牧場は乾ききる。彼らの走る道は悪で、その力は正しくないことに使われる。」

「私の心」とはエレミヤの心のことです。にせ預言者たちのことで彼の心はうち砕かれ、彼の骨は震えました。このにせ預言者たちの甘いことばにユダの民がすっかり魅了され、惑わされていたからです。その民がエレミヤを嫌い除け者にしていました。なぜなら、彼のことばが厳しかったからです。エレミヤが語ることばが真理のことばだったからです。彼のことばは民の心にグサッと突き刺さりました。神のことば、真理のことばは、人の心に突き刺さります。でも、にせ預言者たちのことばは心に突き刺さるどころか、それは実に耳さわりの良いことばでした。「あなたはそのままいいんですよ」「心配する必要なんてない」「あなたはありのままで愛されているんだから」と、包み込むようなというか、安心感を与えるようなことばを語っていたのです。そのにせ預言者たちのことばにマインドコントロールされたユダの民は、エレミヤが語ることばに耳を貸しませんでした。耳さわりの悪かったからです。そんなことばは聞きたくない。エレミヤはすっかり嫌われ、孤独を体験していたのです。そのエレミヤの嘆きがこれです。
 「私の心は、うちに砕かれ、私の骨はみな震える。私は酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになった。」
  エレミヤはすっかり打ちひしがれてしまいました。酔いどれのように、ぶどう酒に負けた男のようになりました。もう立っているのがやっとです。まともに歩くことができませんでした。酔っぱらってフラフラした状態になりました。これは文字通り酒に酔っていたということではなく、自分の力では歩けないほど弱りきっていたということです。「主と、主の聖なることば」のことを考えると、あまりにも逸脱したにせ偽預言者たちのことばに、立っていることができないほどのショックと憤りで満たされたのです。

その結果、南ユダはどうなったでしょうか。姦通する者で満ちるようになりました。主に背き、偶像を拝む者でいっぱいになったのです。また、地はのろわれて乾ききり、作物は実らなくなってしまいました。人々は悪に走り、その力は正しくないことに使われるようになりました。すなわち、不正な力により頼むようになったのです。

11~14節をご覧ください。「11「実に、預言者も祭司も汚れている。わたしの家の中にも、わたしは彼らの悪を見出した。──【主】のことば──12 それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──13 サマリアの預言者たちの中に、わたしはごまかしを見た。彼らはバアルによって預言し、わたしの民イスラエルを迷わせた。14 エルサレムの預言者たちの中に、わたしはおぞましいことを見た。彼らは姦通し、嘘をついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせない。彼らはみな、わたしにはソドムのようであり、その住民はゴモラのようだ。」」

「預言者」とか「祭司」とは、霊的リーダーたちのことです。彼らもすっかり汚れていました。「わたしの家」とは神の家のことです。つまり、エルサレムの神殿のことを指しています。その神の家である神殿の中にも悪が横行していました。教会も神の家と呼ばれています。世の終わりになると、その神の家である教会にも悪が横行すると言われています。Ⅱペテロ2章1節にこうあります。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」
  「御民の中には」とはイスラエルの中にもということですが、イスラエルの中ににせ預言者が出たように、教会にも偽教師が現れるようになります。神の教会の中にもにせ教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。何と自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くようになるというのです。異端というエホバの証人とかモルモン教をイメージするかもしれませんが、ここではそうした異端のことではなく、ここに「あなたがたの中にも」とあるように教会のことを指して言われているのです。教会の中にそうした偽教師が現れて、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになるのです。

その原因を作ったのが2種類のにせ預言者たちでした。それはサマリアの預言者たちとエルサレムの預言者たちです。「サマリアの預言者たち」とは、北王国イスラエルの預言者たちのことです。この時北王国はすでにアッシリアによって滅ぼされていました。彼らはバアルによって預言し、イスラエルの民を惑わしました。その結果、アッシリアによって滅ぼされてしまったのです。しかし、さらに悪いのがエルサレムの預言者たちでした。「エルサレムの預言者たち」とは、南ユダの預言者たちのことです。北王国の預言者たちはバアルの名によって預言しましたが、南ユダの預言者たちは主の御名によって預言していましたが、主が語っていないことを語っていたからです。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪から、だれも立ち返らせませんでした。 悪を行う者を糾弾するどころか、むしろ、それに加担しそれを助長するようなことをしたのです。

その結果、どうなったでしょうか。12節です。「それゆえ、彼らの道は、暗闇の中の滑りやすい場所のようになり、彼らは押しやられて、そこに倒れる。わたしが彼らにわざわいをもたらし、刑罰の年をもたらすからだ。──【主】のことば──」
  それゆえ、彼らは暗闇の滑りやすい道のように、そこで転び、倒れてしまうことになります。これがこの後で起こるバビロン捕囚のことです。B.C.586年に起こります。南ユダ王国、エルサレムもバビロンによって完全に滅ぼされてしまうことになるのです。

どのような分野でも指導者には大きな責任が伴います。一握りの権力者たちの誤った判断が、国を戦争と破滅に導き、社長の甘い経営判断が、企業を倒産に追い込みます。また、医者の誤った判断が、患者の命を危険にさらします。同じように、預言者や祭司といった霊的指導者の誤った指導が、国全体に混乱と破滅をもたらすことになるのです。 

ところで、ここに、「主のことば」ということばが何回も繰り返して使われているのにお気づきになられたでしょうか。実にこの23章だけで17回も使われています。1節、2節、4節、5節、7節、11節、12節、そして23節、24節に2回も使われています。そして28節、29節、30節、31節、32節に2回、33節です。なぜこんなにも繰り返して使われているのでしょうか。それは、そこに主の御名で語る者が大勢いたからです。神の御名を利用して語る偽預言者が大勢いたので、真の預言者であるエレミヤは、そうじゃない、これが主のことばであると強調しているのです。たとえそれが耳さわりの悪いことばであっても、これが主のことばだ!と。そして主のことばに従うなら祝福があり、そうでなければのろいがもたらされることになります。主のことばに従わないなら、そこはソドムとゴモラのようになってしまいます。これが主のことばです。エレミヤはそれを強調しているのです。私たちはとかく耳さわりの良いことばには心を開きますが、そうでないことば、たとえば、警告とか忠告といったことばには心を閉ざしてしまう傾向があります。しかし、この主のことばをしっかりと聞かなければなりません。そうでないとかつての北王国や南ユダ王国のようになってしまいます。

Ⅱ.預言を吟味する (15-17)

次に、15~17節をご覧ください。 「15 それゆえ、万軍の【主】は、預言者たちについてこう言われる。「見よ。わたしは彼らに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからだ。」16 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたに預言する預言者たちのことばを聞くな。彼らはあなたがたを空しいものにしようとしている。彼らは【主】の御口からではなく、自分の心の幻を語っている。17 彼らは、わたしを侮る者に向かって、『【主】はあなたがたに平安があると告げられた』としきりに言い、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、『あなたがたにはわざわいが来ない』と言っている。」」

それゆえ、万軍の主はにせ預言者たちに、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませます。これは神のさばきです。「苦よもぎ」は麻酔薬としても使われますが、基本的に精神攪乱をもたらす毒草です。それは「毒の水」同様、死に至らしめるものなのです。つまり、彼らが神のみことばを捨て自分勝手に歩んだ結果、死に至る苦しい思いをするようになるということです。なぜなら、不敬虔がエルサレムの預言者たちから出て、全土に広がったからです。それだけ預言者が語ることばの影響は大きいということです。

16節には、そうした偽預言者たちのことばを聞くなと言われています。なぜなら、彼らはあなたがたを空しいものにしようとしているからです。口語訳と新共同訳聖書では、これを「あなたがたに、むなしい望みをいだかせ、」と訳しています。それは空しい望み、空しい希望です。希望があるかのようでも、そこには実体がありません。ただの気休めのことばにすぎないのです。たとえば、彼らは神を侮る者に対してさえ「主はあなたがたに平安があると告げられた」としきりに言っていました。また、頑なな心のままに歩むすべての者に向かって、「あなたがたにはわざわいが来ない」とか言っていました。神を侮る者に平安があるでしょうか。頑なな心のままに歩む者にわざわいは来ないのでしょうか。いいえ、主はそんなことをおっしゃっておられません。それは主の御口から出たことではなく、単に自分の心の幻を語っているにすぎませんでした。どうして彼らはこのようなことを語ったのでしょうか。聞こえがいいからです。聞く人に喜んでもらえるからです。聞く人が嫌がることは避けようとします。でも真の預言者は聞く人が喜ぶかどうかよりも、その人が主にある真の幸福を得るために滅びから救い出すメッセージを語るのです。でも、偽りの預言者たちはそうではありません。彼らは主の御口から出たことではなく、自分の心の幻を語るのです。自分の心に浮かんだことやアイディアですね。そういうことを語るのです。

皆さんは聞いたことがありますか。「預言カフェ」というのを。よくマスコミでも取り上げられています。この預言カフェに行くと預言してもらえるのです。私たちから見たらただの占いにすぎませんが、それが正当なプロテスタントの教会のブランチでやっているので、しかもそこには牧師もいるので、神からの導きを受けることができると、みんな安心して出かけて行くのです。あなたは今、どうしたらいいか判断に迷っていませんか。だったら個人預言をしてやりますから予約してください。費用は一切かかりません。但し、席上献金があります。預言をしてもらって感謝したいなら、感謝のいけにえとして献金してくださいというのです。

いったいそれが神からのことばであるかどうかをどうやって判断することができるのでしょうか。それは聖書によってです。それが主の御口によって語られたことばであるかどうかは、神のことばである聖書によって吟味されなければなりません。それが聖書のことばと一致していなければ、それは単なるひとりごとか、その人の心に宿ったただの思い付きにすぎません。いずれにせよ、それが本当に神から出たものなのかどうかは、聖書に照らし合わせて吟味しなければならないのです。それが私たちクリスチャンに与えられた役割であり、責任です。鵜呑みにしてはいけません。

こうした預言には、大きく分けて三つの要素があります。それは神から来たものなのか、それとも人から来たものか、あるいは、自分の思いでしゃべっているのに、あたかもそれが神からきたかのように錯覚して大胆に語っているかの三つです。Ⅰヨハネ4章1節にこう勧められています。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。」
  霊だからと言ってすべて信じてはいけません。その霊が神からのものであるかどうかを吟味しなければなりません。にせ預言者がたくさん世に出て来ているからです。
  また、Ⅰテサロニケ5章20~21節にもこうあります。「預言を軽んじてはいけません。ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。」
  皆さん、預言を軽んじてはいけません。預言とは、神のことばを預かることです。ですから、とても重いことです。ただし、すべてを吟味しなければなりません。すべてを吟味して、良いものを見分けて、本当に良いものをしっかり保たなければなりません。堅く守らなければならないのです。ちゃんと検証するように、ちゃんと吟味するようにということです。もしそれが本当に神からきているものであるならば、必ず神のことばと一致しているはずです。神のことばである聖書は聖霊によって書かれてあるので、それが神の霊、聖霊から来ているならば、必ず聖書の裏付けがあるからです。それは聖書のここに書いてあるから神から来た預言だと証明することができるのです。でも聖書に書いていなければ、あるいは、聖書に書いてあることに反しているならば、それは神からきたものだということはできません。それは偽りの預言です。

いずれにせよ、それがどこからきているのかをしっかり吟味しなければなりません。そしてその際の基準になるのが神のことばです。もしそれが神から出たことであるならば、絶対に聖書に反することはありません。聖書に矛盾するようなことは聖霊は絶対にしないからです。みことばと聖霊は切っても切り離せない関係があります。だからパウロはこう言ったのです。「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)
  キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。実に聖霊に満たされるとはみことばに満たされることです。みことばに満たされたら聖霊に満たされます。そうすれば知恵を尽くして互いに教え、戒め、詩と賛美の歌をもって、感謝をもって心から神に向かって歌うことができます。あなたは空しい希望を抱かせられることはありません。空しいものに振り回されることはないのです。

Ⅲ.主との親しい交わりに加わる(18-22)

ですから、第三のことは、主との交わりを大切にしましょう、ということです。18~22節をご覧ください。「18 しかし、だれが、【主】との親しい交わりに加わり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。19 見よ。【主】のつむじ風が憤りとなって出て行く。荒れ狂う暴風が悪者の頭上で荒れ狂う。20 【主】の怒りは、その心の御思いを行って成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを明らかに悟る。21 「わたしはこのような預言者たちを遣わさなかったのに、彼らは走り続ける。わたしは彼らに語らなかったのに、彼らは預言している。22 わたしとの親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、わたしの民にわたしのことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから立ち返らせたであろうに。」

18節に、「だれが、主との親しい交わりに加わり」とありますが、新改訳第3版、並びに口語訳、新共同訳では「主の会議」と訳しています。「だれが、主との会議に連なり、主のことばを見聞きしたか」ということです。にせ預言者たちの問題はここにありました。この主との親しい交わりに加わっていなかったことです。そこで、主のことばを見聞きしませんでした。
  皆さん、天でも会議があるのを知っていましたか。それは王である神が玉座に着いて、その左右に天の万軍が集まっている会議です。たとえば、Ⅰ列王記22:19~23にその様子が描かれています。そこにはイスラエルの王アハブが約四百人の預言者を集めて、ラモテ・ギルアデに上って行くべきかどうかを尋ねるのですが、イスラエルの預言者たちは皆アハブ王の顔色を見て彼が喜ぶことしか告げなかったので、おかしいと思った南ユダの王ヨシャファテは、「ここには、われわれのみこころを求めることのできる主の預言者が、ほかにいないのですか」と言うと、ミカヤという預言者が連れて来られました。でもアハブ王は彼があまりすぎではありませんでした。というのは、彼はアハブについて良いことは預言しないで、いつも悪いことばかり預言していたからです。いわゆる、目の上のたんこぶみたいな存在だったわけです。でも、まあそう言わないでミカヤの言うことも聞いてみましょうと、彼の見た幻を聞くと、彼はこの天上での会議で見聞きしたことを告げるのです。それは、悪霊が偽預言者を用いてアハブを惑わすというものでした。この時預言者ミカヤは天上で行われていたこの会議に参加していたので、そこで主が語られることを見聞きしたのです。
  でも、エレミヤの時代の預言者たちはこの会議に参加していなかったので、主のことばを見聞きしていませんでした。だから、彼らは主が語っておられることがどういうことなのかを知らなかったのです。

22節をご覧ください。もしこの主との親しい交わりに加わっていたなら、彼らは、主の民に主のことばを聞かせ、民をその悪い生き方から、その悪しき行いから、立ち返らせることができたでしょう。でも、そうでなかったので、彼らは預言者としての役割を果たすことができませんでした。

皆さん、これが最も大切なことです。もし私たちも主との親しい交わりに加わっていなかったら、主のことばではなく自分のことば、自分の心の幻を語ってしまうことになります。イエス様は朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられました(マルコ1:35)。なぜでしょうか。この会議に加わるためです。父なる神と親しい交わりを持つためです。
  詩篇143篇8節にはこうあります。「朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。」
  この詩篇の作者は、「私はあなたに信頼して祈っていますから」と言っています。彼は、神と交わり、神に期待して祈っていたのです。また、「行くべき道を示してください」と言っています。自分の道、自分の思いではなく、神に信頼し、神の道が示されることを求めて祈りました。このような人に神のみこころが示されないわけがありません。神との親しい交わりに加わり、その中で神のことばを聞き、神に信頼して祈るなら、確かに神はご自身のみこころを示してくださるのです。

すべてのクリスチャンに、福音を伝えるという責任が与えられています。そのために最も重要なことは何かというと、どのように福音を伝えるかということではなく、この主との親しい交わりに加わるということです。そこでみことばに耳を傾け、御霊の声を聞くことを学ぶことです。どんなに不評を買っても、神のことばを真っ直ぐに伝えなければなりません。

 パウロは、若き伝道者テモテにこう書き送りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。」(Ⅱテモテ4:2-5)
  世の終わりが近くなると、人々は健全な教えに耳を傾けなくなったり、自分に都合がいいようなことばを聞こうと、自分の好みにしたがって教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くようになります。けれどもそれに屈してはいけません。みことばを宣べ伝えなければなりません。時が良くても悪くてもしっかりやりなさいと、パウロはテモテに命じたのです。そのためには、私たちがいつも主の会議に連なること、主との親しい交わりに加わり、主との親しい交わりの中で、主のことばを聞かなければなりません。

最近、アメリカのカリフォルニア沿岸のモントレーという浜に、ペリカンの天国があったという話を読みました。漁師たちは網にかかった小さな魚をその浜に捨てていたので、それがペリカンのえさになり、大量のペリカンが集まっていたのです。そこにいたペリカンたちは、何の苦労もなくえさが食べられるので、魚を捕まえる方法を徐々に忘れていきました。しかし、いつからか漁師たちが捨てた小さな魚が商業用に利用されるようになると、えさにしていた魚がなくなってしまいました。しかし、ペリカンたちは相変わらず、捨てられた魚を求めて浜をさまよいました。時間が経つと、ペリカンは1羽、2羽と死に始めました。そこで漁師たちはペリカンたちを助けるために、別の場所にいる自らえさを探すことができるペリカンを連れて来て、放しました。新しくやってきたペリカンは、海に放たれると上手にえさを取り始めました。この姿を見たモントレーのペリカンも必死に飛び回って、えさを取り始めたのです。

このペリカンの話は、誰かが投げてくれたえさに慣れてしまい、自らたましいの糧を求めようとしない、今日の私たちの姿を物語っています。キリスト教は、みことばの宗教、聖書の宗教であるともいえます。モントレーのペリカンのように、1週間に1度投げてもらえるみことばを食べることに満足していないか、自分自身を振り返ってみなければなりません。

キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。(コロサイ3:16)主との親しい交わりに加わる、これが真の預言かにせ預言かを吟味するために必要なことであり、真理のみことばをまっすぐに解き明かすために必要な鍵なのです。

Ⅱ列王記14章

 今日は、Ⅱ列王記14章から学びます。

 Ⅰ.ユダの王ヨアシュの子アマツヤ(1-14)

まず、1~7節をご覧ください。「1 イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となった。2 彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はエホアダンといい、エルサレム出身であった。3 彼は【主】の目にかなうことを行った。ただし、彼の父祖ダビデのようではなく、すべて父ヨアシュが行ったとおりに行った。4 すなわち、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。5 王国が彼の手によって強くなると、彼は、自分の父である王を討った家来たちを打ち殺した。6 しかし、その殺害者の子どもたちは殺さなかった。モーセの律法の書に記されているところに基づいてのことであった。【主】はその中でこう命じておられた。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。7 アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討って、セラを取り、その場所をヨクテエルと呼んだ。今日もそうである。」

舞台は再び北イスラエルから南ユダに移ります。イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの第二年に、ユダの王ヨアシュの子アマツヤが王となりました。ここには、イスラエルの王エホアハズの子のヨアシュと、ユダの王ヨアシュの子アマツヤと、ヨアシュという同名の王が北と南の王の名前に出てくるので混乱しないように注意が必要です。ここでは、南ユダの王ヨアシュの子のアマツヤのことが記録されています。彼は25歳で王となり、29年間南ユダを治めました。彼は父のヨアシュ同様主の目にかなうことを行いましたが、彼の父祖ダビデのようではありませんでした。どのようにダビデのようではなかったのかというと、高き所を取り除かなかったという点においてです。この「高き所」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼は心を尽くして主を愛し主に仕えていましたが、高き所を取り除かなかったので、その結果、民は主を礼拝しながらも、依然として偶像礼拝を続けていたのです。

彼は王になってからその影響力が強くなると、自分の父であるヨアシュ王を討った家来たちを打ち殺しましたが、その子どもたちは殺しませんでした。通常なら、このような場合その子どもたちまで殺害するのが一般的ですが、彼はそのようにしませんでした。なぜなら、モーセの律法の書にこう記してあったからです。「父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。」
  アマツヤは、この神のことばに従ったのです。たとえそれが一般的な習慣であったとしても、あくまでも主の前に正しく生きようとしていたのです。私たちも、あくまでも主のことばに基づいて、主の前に正しく生きることを選び取らなければなりません。

7節をご覧ください。アマツヤは塩の谷で一万人のエドム人を討ってセラを取り、その場所を「ヨクテエル」と呼びました。この時アマツヤは大勝利を収めましたが、Ⅱ歴代誌25:14を見ると、残念ながら、この時アマツヤはエドム人を討ち破って帰って来る時セイルの者たちの神々を持ち帰り、これを自分の神々として立て、その前に伏拝、これに香をたいたとあります。アマツヤはなぜこんなことをしたのでしょうか。エドムに勝利したことが、その大きな要因の一つでした。成功している時こそ主への信頼と謙遜を学ぶ必要があるのに、彼は高ぶってしまったのです。

次に、8~14節をご覧ください。「8 そのときアマツヤは、エフーの子エホアハズの子、イスラエルの王ヨアシュに使者を送って言った。「さあ、直接、対決しようではないか。」9 イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤに人を遣わして言った。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。10 あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」11 しかし、アマツヤが聞き入れなかったので、イスラエルの王ヨアシュは攻め上った。彼とユダの王アマツヤは、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決した。12 ユダはイスラエルに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰った。13 イスラエルの王ヨアシュは、アハズヤの子ヨアシュの子、ユダの王アマツヤをベテ・シェメシュで捕らえ、エルサレムにやって来た。そして、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊した。14 彼は、【主】の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、すべての器、および人質を取って、サマリアに帰った。」

今度は、北イスラエルの王ヨアシュが登場します。エドムに勝利したユダの王アマツヤは、父ヨアシュがそうであったように高ぶっていました。彼は北イスラエルの王ヨアシュに使いを送り、「さあ、直接、対決しようではないか。」と言いました。彼は、こともあろうに、北イスラエルに戦いを挑んだのです。なぜ彼はこんなことをしたのでしょうか。13章を見るとわかりますが、当時北王国は、アラムのハザエルに苦しめられていました(Ⅱ列王13:22)。ですから、エドムに勝利したアマツヤは、今だったら北イスラエルに容易に勝てると思ったのです。

それに対してヨアシュは何と応答しましたか。彼は、こう言いました。9~10節をご覧ください。「レバノンのあざみが、レバノンの杉に人を遣わして、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった。あなたはエドムを打ち破って、心が高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、あえてわざわいを引き起こし、あなたもユダもともに倒れようとするのか。」と言いました。

「あざみ」も「杉」も、レバノンでは有名です。この「あざみ」はアマツヤのことを、「レバノンの杉」はヨアシュを象徴しています。つまり、あざみであるアマツヤがレバノンの杉であるヨアシュに、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と身分不相応な要求をしたら、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじってしまいました。あざみはそれほど弱い存在にすぎないということです。それなのに、あざみは高ぶって戦いを挑もうとしているのはおかしいというのです。そんなことは止めて家にとどまった方がいい。なぜ、そんなことをして、あえてわざわいを引き起こし、ユダとともに倒れようとするのか。ここでヨアシュは、アマツヤに戦いを思いとどまるように勧告したのです。

しかし、アマツヤはそれを聞き入れませんでした。それでイスラエルの王ヨアシュは攻め上り、ユダのベテ・シェメシュで直接、対決することになりました。その結果、ユダの王アマツヤはイスラエルの王ヨアシュに打ち負かされ、それぞれ自分の天幕に逃げ帰りました。ヨアシュはアマツヤをベテ・シェメシュで捕らえエルサレムにやって来ると、エルサレムの城壁をエフライムの門から隅の門まで、四百キュビトにわたって打ち壊しました。そればかりではなく、主の宮と王宮の宝物倉にあったすべての金と銀、および人質を奪い取りました。

いったい何が問題だったのでしょうか。アマツヤが高ぶったことです。彼の高慢が、南ユダを破滅に導きました。北イスラエルの王ヨアシュは、ユダの王アマツヤにちゃんと警告していました。誇ってもよいが、自分の家にとどまっているようにと。なぜ、あえてわざわいを引き起こすようなことをするのか。そんなことをすれば、あなたとともにユダもともに倒れてしまうことになると。それが実現したのです。

しかし、Ⅱ歴代誌25:20を見ると、この時アマツヤがヨアシュの忠告を受け入れなかったのは、神から出たことであった、と言われています。彼らがエドムの神々を求めたので、彼らを敵の手に渡すためです。つまり、アマツヤが敗北した最も大きな理由は、彼らが神に背いて偶像を求めことだったのです。神との関係が正しくなかったことが、その最大の原因だったのです。目に見える出来事の根底には、見には見えない霊的な要因があるということです。その根本的な要素が「神との関係」です。神との関係が正されることこそ、私たちの現実の生活が祝福される秘訣なのです。


Ⅱ.アマツヤの業績(15-22)

次に、15~22節をご覧ください。「15 ヨアシュが行ったその他の事柄、その功績、ユダの王アマツヤと戦った戦績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。16 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。彼の子ヤロブアムが代わって王となった。17 ユダの王ヨアシュの子アマツヤは、イスラエルの王エホアハズの子ヨアシュの死後、なお十五年生きた。18 アマツヤについてのその他の事柄、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。19 エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。20 彼らは彼を馬に乗せて運んだ。彼はエルサレムで先祖とともに、ダビデの町に葬られた。21 ユダの民はみな、当時十六歳であったアザルヤを立てて、その父アマツヤの代わりに王とした。22 彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

ここには、北王国イスラエルのヨアシュ王の死に関することが記録されてあります。彼の死については13:13で既に言及されていたので、これが二度目の言及となります。彼は先祖とともに眠りにつき、イスラエルの王たちとともにサマリアに葬られました。そして、彼の子ヤロブアムが変わって王になりました。これはヤロブアム2世のことです。

一方、ユダの王アマツヤはどうなったかというと、彼はヨアシュとの戦いに敗れ北王国イスラエルの捕虜となっていましたが、北イスラエルの王ヨアシュが死んだ時に解放され、南ユダへの帰還が許されました。そしてヨアシュの死後、なお15年生きながらえましたが、彼の最期は実にあわれなものでした。19節にこうあります。「エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した。」

アマツヤは、エルサレムの城壁が壊され財宝が奪い取られた後、国民の信頼を失ってしまいました。そして、父と同じように謀反によって殺されてしまいます。彼はラキシュに逃れましたが、人々はラキシュまで彼を追って来て、彼を殺しました。主よりも偶像に頼ることを選んだアマツヤは、愚かな人生を歩んだのです。

彼の後に南王国の王となったのがアザルヤです。アザルヤはウジヤとも呼ばれます。ウジヤの方が有名ですね。彼は父アザルヤが捕虜としてイスラエルに連れて行かれた年に16歳で王になりました。そして、アマツヤが死んだ年に単独の王となりました。彼についての特徴的な言及が22節にあります。「彼は、アマツヤが先祖とともに眠った後、エイラトを築き直し、それをユダに復帰させた。」

「エイラト」とは、紅海に隣接している町で、ソロモンの時に貿易港として用いられていた町です。その「エイラト」が、アザルヤ(ウジヤ)によってユダに復帰したのです。

アマツヤという悪王の後に、アザルヤ(ウジヤ)という善王が登場するのは不思議なことです。ここに神の恵みとあわれみを思わずにはいられません。神は、アブラハムと結んだ契約のゆえに、また、ダビデと結んだ契約のゆえに、南ユダを守られたのです。イスラエルの神、主は、実に契約を守られる忠実な方なのです。

Ⅲ.北王国ヨアシュの子ヤロブアム(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。「23 ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリアで四十一年間、王であった。24 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れなかった。25 彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。26 イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、【主】がご覧になったからである。そこには、奴隷も自由な者もいなくなり、イスラエルを助ける者もいなかった。27 【主】はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとは言っておられなかった。それで、ヨアシュの子ヤロブアムによって彼らを救われたのである。28 ヤロブアムについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、彼が戦いであげた功績、すなわち、かつてユダのものであったダマスコとハマテをイスラエルに取り戻したこと、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。29 ヤロブアムは、彼の先祖たち、イスラエルの王たちとともに眠り、その子ゼカリヤが代わって王となった。」

イスラエルの王ヨアシュの死後、彼の子でヤロブアムが王となり、サマリアで41年間治めました。彼は北イスラエルの初代の王と同名ですが、彼とは何の関係もありません。しかし、彼は初代の王ヤロブアムと同じように主の目に悪であることを行い、ヤロブアムのすべての罪から離れませんでした。

「彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、【主】が、そのしもべ、ガテ・ヘフェル出身の預言者、アミタイの子ヨナを通して語られたことばのとおりであった。」(26)

彼はレボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復しました。「レボ・ハマテ」とは、ガリラヤ湖の北東240キロの地点にあり、「アラバの海」とは死海のことですから、相当広い範囲を回復したことになります。

ここで重要なのは、これが預言者ヨナによって預言されていたことであったという点です。ヨナ書にはこの預言の記録がありません。でも大切なのは、ヨナが活動していた時期がこのヤロブアム2世の治世と重なるという点です。これがわかると、ヨナ書を読む時の時代背景がわかります。ヨナの奉仕によってアッシリアの首都ニネべの人たちは悔い改めましたが、それからわずか50~60年後に、このアッシリアが北イスラエルを滅ぼし、捕囚の民として連れて行くのです。これは本当に驚くべきことです。

26節には、なぜヤロブアム2世が登場したのかその理由が記されてあります。それは、イスラエルの苦しみが非常に激しいのを、主がご覧になられたからです。だれもイスラエルを助ける者がいませんでした。この時イスラエルはアラムの王ハザエルの侵攻によって苦しんでいました。その苦しみが頂点に達したとき、主はヤロブアム2世を送り、彼らを助けようとされたのです。主はイスラエルの名を天の下から消し去ろうとはしなかったのです。イスラエルがどんなに主に背き、主の目に悪であることを行っても、彼らを消し去ることを望まれていなかったのです。それは、ローマ書11章にて、イスラエルに対する神の賜物と召命は変わることがない、と書かれてあるとおりです。それで、主はまずヨアシュを送りイスラエルを助け、次にヤロブアム2世を送って彼らを救おうとされたのです。イスラエルもユダも最終的には滅ぼされてしまいますが、それが彼らの最後ではありません。聖書には、さらにそこからの回復が約束されています。これもまた主の憐れみによるものです。

本当に主は憐れみ深い方です。それは私たちに対しても同じです。主は私たちを救おうと今も憐れんでおられます。私たちが罪を犯したから終わりなのではなく、そこから回復できるように私たちのために救い主イエス・キリストを送ってくださいました。私たちが悔い改めて神の救いを受け入れるなら、私たちが私たちにも回復の希望があるのです。

「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」(詩篇50:15)

私たちも神の憐れみに拠りすがりましょう。苦難の日に主を呼び求めましょう。そうすれば、主は私たちを助け出してくださいます。私たちの救いは、この神の憐れみと神の救いの約束の確かさに基礎を置いているのです。

エレミヤ23章1~8節「夜の来ない朝はない」

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エレミヤ書23章に入ります。きょうは「朝のこない夜はない」というタイトルでお話します。これは小説家の吉川英治(1892~1962)が語ったことばです。「朝のこない夜はない」、今日の箇所は、まさにこのことばに集約されるような内容です。
  私たちはこれまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、そのほとんどがさばきのメッセージでした。そんな中でも例外的に希望のメッセージが語られたことがあります。それは3章16~18節の終わりの日の回復の預言です。そして今日の箇所にもその終わりの日のメッセージが語られます。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいでしょう。預言者エレミヤはここでさばきのメッセージを語るだけでなく、神にある希望を語り、ご自身の民を励ますのです。朝のこない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くことはありません。いずれ必ず回復するのです。

Ⅰ.主の群れの残りの者(1-4)

まず、1~4節をご覧ください。「1 「わざわいだ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らしている牧者たち──【主】のことば。」2 それゆえ、イスラエルの神、【主】は、私の民を牧する牧者たちについてこう言われる。「あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いを罰する──【主】のことば──。3 しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。4 わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──【主】のことば。」

1節に「わたしの牧場の群れ」とあります。「わたしの牧場の群れ」とは、南ユダ王国の国民のことを指しています。その国民を養うのが「牧者たち」です。「牧者」というと教会の牧師のことを連想する方も多いのではないかと思いますが、もともとは指導者全般を表す言葉でした。文脈によってそれが王たちであったり、預言者や祭司たちといった霊的指導者であったりするわけですが、ここでは南ユダの王たち、特に、22章で取り上げた南ユダ王国の最後の4人の王たちのことを指しています。それはエホアハズ、エホヤキム、エコンヤ(エホヤキン)、そしてゼデキヤです。彼らは主の羊の群れを守り養なわないで、追い散らしていました。牧者が羊を養わなかったらどうなるでしょう。羊はやせ衰えて死んでしまいます。南ユダはそのような状態だったのです。

しかし、私たちの牧者であられる主イエスはその逆で、追い散らした群れの残りの者を集めてくださる方です。3節と4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。 「3しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んで増える。4わたしは彼らの上に牧者たちを立てて、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おびえることなく、失われることもない──主のことば。」

ここに「しかしわたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての地から集め、元の牧者に帰らせる。」とあります。これが3章16~18節でも語られていた希望のメッセージです。主は、ご自身の残りの者を、追い散らしたすべての地から集め、元の牧者に帰らせてくださいます。これは「残りの民」という思想です。英語では「remnant」(レムナント)と言います。これはエレミヤ書全体で19回使われています。これはどんなに罪深い社会にあっても、主は必ず残りの者を残しておられるという思想です。どんなに神に背き、神から離れ、腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を残しておられるのです。

使徒の働き18章には、パウロがコリントで伝道した時の様子が記録されていますが、それは激しい迫害が伴いました。果たしてイエス様を信じる人がこの町にいるだろうかという不安と恐れの中にいたとき、主はある夜、幻によってパウロに語られました。
  「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)
  恐れないで語り続けなさいということは、この時パウロには恐れがあったということです。彼は何を恐れていたのでしょうか。勿論、反対者たちからの迫害があったでしょう。ここには、あなたを襲って危害を加える者はいないとあります。しかし、彼が一番恐れていたのは、このコリントの町には主を信じる敬虔な人がだれもいないのではないかということでした。語っても、語っても、何の反応もないことがあります。パウロはそれを恐れたのです。でも、その時主が幻のうちに彼に現れて言われました。
  「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるので、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」
  それで彼は1年半そこに腰を据えて彼らの間でみことばを教え続けたところ、幾人かの人たちが信仰に入りました。これが「レムナント」、「残りの民」です。神はどんなにご自身に背いているような腐敗した社会であっても、神の言葉に聞き従おうとする残りの者を必ず残しておられるのです。

実際、このあとバビロンがやって来て南ユダは滅ぼされてしまいます。住民は皆、バビロンへと引き連れて行かれていくわけですが、神様はその中にもわずかながらこの残りの者を残しておられました。70年間のバビロン捕囚の帰還が終わった時、そのわずかな残りの者が再びエルサレムに帰って来て、もう一度エルサレムを再建し始めるのです。それが3節で語られていることです。エレミヤがこの預言を語った時はまだバビロンに捕えられ移されていませんでした。しかし、それは必ず起こるし避けられないことでした。でもその70年後に主はその中の残りの者を再び集め、元の牧場に帰らせると約束してくださったのです。そこで彼らは多くの子を生んで増えるようになると。
  皆さん、朝の来ない夜はありません。苦しい状況はいつまでも続くものではないのです。いずれ必ず回復します。人間の力が尽きても、神にある希望がなくなることはありません。むしろ、万策尽きたところから、神の御業が始まると言ってもいいくらいです。

実際、70年のバビロン捕囚後にエルサレムに戻ったのは約5万人でした。バビロンに捕らえ移されたのが約200万人ですから、それは本当にわずかな人たちでした。彼らはこの神のことばを信じていたのでエルサレムに帰り、神の都を再建しました。でも大抵の人たちは帰らないでバビロンに残りました。今さらエルサレムに帰ったってしょうがない。ここには家族もいれば、仕事もある。確かに生活は楽ではないが、何とかそれなりに生きて行くことが出来る。エルサレムに帰るよりもここにとどまっていた方がずっと良い。そう思っていたのです。それが普通の考えかもしれません。でも、残りの者たちはそうではありませんでした。彼らはバビロンに築き上げたすべてのものを捨てて、神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めてエルサレムに帰って来たのです。

それは私たちも同じです。私たちは約束の地を受け継ぐようにと神によって選ばれた残りの者です。そんな残りの者に求められていることは、アブラハムが神から召しを受けたとき、どこに行くのかもわからなくても信仰によって出て行ったように、神の約束を信じて、目に見える祝福ではなく、目に見えない永続する神の祝福を求めて出て行くことです。 

Ⅱ.主は私たちの義 (5-6)

次に、5~6節をご覧ください。しかし、祝福の預言はそこで終わっていません。さらにその先のことが語られます。「5 見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この地に公正と義を行う。6 彼の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『【主】は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である。」

「見よ、その時代が来る。」とは、エレミヤ書のキーワードの一つです。「その日」とか「その時代」とは、世の終わりの時を指し示しています。そのとき、主はダビデに一つの正しい若枝を起こします。これは、ダビデ王家に正しい王を起こすという約束です。これまでの王たちは、ダビデ王家の血筋を持ちながらも正しくありませんでした。彼らは公正と正義を行わないで、自分のやりたい放題、好き勝手に振る舞っていました。

しかし、世の終わりに来られる真の王は、この地に公正と正義をもたらされます。その時ユダは救われ、イスラエルは安らかに住むようになります。その方は何と呼ばれますか。その方は「主は私たちの義」と呼ばれます。ダビデの家系からやがて来られるお方、主こそ私たちの義と呼ばれるのです。

ここが大切なポイントです。私たちが義なのではありません。義なるお方は主イエス・キリストです。イザヤ64章6節にこうあります。「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎は風のように私たちを吹き上げます。」
  私たちはみな、汚れた者のようです。私たちの義、私たちの義、私たちの行いはみな、不潔な衣のようなのです。神様の目にはそのようでしかありません。でも、私たちの主はそうではありません。主は私たちの義です。
  ローマ3章10~12節にはこうあります。「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
  義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となりました。でも、主が私たちの義となってくださるのです。

Ⅱコリント5章21節を開いてください。ここにこうあります。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」
  アーメン!神は、罪を知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。これが良い知らせです。グッド・ニュースです。私たちの義は神の目には不潔な着物でしかありませんが、神はそんな私たちをイエス・キリストにあって義としてくださいました。だからローマ8章1節にこのように約束されているのです。 「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」
  アーメン!すばらしいですね。私たちの罪が罪のない方、イエス・キリストに転嫁されたので、私たちの罪は贖われて罪のない者とされました。罪が贖われるために必要なのは罪のない方の代価ですが、この地上にはそんな人など一人もいませんから絶望しかありませんが、しかしキリストは違います。イエス・キリストは人となられた神であり、全く罪のない方ですから罪を贖うことができるのです。私たちの罪を贖うことができるのは、ただ一人、人となられた神、イエス・キリストだけです。イエス・キリストだけがあなたの罪を贖うことができます。だから、聖書はこう言っているのです。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
  私たちは、このイエス・キリストによって神の義とされました。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。今、私たちは神の目には義と認められました。私たちがどんなに汚れていても、このイエス・キリストによって聖なる聖なる聖なる神の御前に立つことができるのです。主イエス・キリストが罪を贖ってくださったから。主は私たちの義であられる方なのです。

ところでこの預言は、最終的には終末におけるイエス・キリストの再臨によって成就するものです。勿論、今から二千年前にキリストは救い主として来られるということも含みますが、その完全な成就は、私たちもまだ経験していない世の終わりに起こるキリストの再臨によって成就します。キリストは今から二千年前に私たちを罪から救うためにこの世に来られましたが、世の終わりには、この世をさばくために来られます。そして、腐敗していた南ユダを裁くために神がご介入されたように、腐敗したこの世界を裁くためにご介入されるのです。具体的には、王の王、主の主と呼ばれるキリストが来られて、神の国をこの地上に樹立してくださいます。それが千年王国と呼ばれているものです。主は再びこの世に来られるとき、すべての悪を一掃され、悪によって壊滅状態になってしまった地球をあの天地創造の時のように再創造されるのです。この地球全体があのエデンの園のように回復するのです。そして私たちはキリストとともにこの地球を千年間治めるようになるのです。復活のからだをもって。これが私たちの真の希望です。やがてその時がやって来ます。今はイエス様を信じて罪が贖われ、神に義と認められましたが、この世にあっては患難があります。不条理なこと、理不尽なことがあって、悩みは尽きないわけですが、やがてダビデの王家から出る一つの正しい若枝によって、すべてが正しくさばかれる時がやって来ます。それが私たちの真の希望です。私たちはここに希望を置かなければなりません。そして、この地上での様々な問題をただしく裁かれる主にゆだね、主が私たちの義となってくださったことを感謝し、この主にすべてをお委ねしたいと思うのです。

Ⅲ.ここに希望を置いて(7-8)

ですから、第三のことは、ここに希望を置きましょうということです。7節と8節をご覧ください。「23:7 それゆえ、見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた【主】は生きておられる』と言うことはなく、23:8 『イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた【主】は、生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」」

ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。そのとき、どんなことが起こるのでしょうか。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、「イスラエルの家の末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられる」と言って、自分たちの土地に住むようになります。どういうことでしょうか。

これは、16章14~15節で語られたことと同じ内容です。出エジプトの出来事は、エレミヤの時代から遡ること900年も前の出来事ですが、それはイスラエルがエジプトの支配から解放されたすばらしい主の御業でした。それはイスラエルの歴史においては偉大な神の救いの御業を語る象徴的な出来事で、イスラエルはこの出来事を忘れることがないように過越の祭りを祝うことによってそれを子孫に語り伝えてきました。それは、イスラエルの歴史における最大の出来事と言っても良いでしょう、その出エジプトの出来事が、そのときには、もはや人々は、主は生きておられるということはないというのです。なぜなら、もっとすばらしい主の御業が行われるからです。それが第二の出エジプトと言われるバビロン捕囚からの解放です。この「北の地」はそのバビロンのことを指しています。北海道のことではありません。そのバビロンからの解放の御業があまりにもすばらしいので、そのとき、もはや人々は、イスラエルの子らをエジプトの地から上らせた主は生きておられる」ということはなく、イスラエルの末裔を、北の地や、彼らが散らされていたすべての地から上らせた主は、生きておられると言って、自分たちの土地に住むようになるというのです。

ですから、これはバビロンから帰還するという希望の約束が語られているのです。バビロンから帰還するということはそれほど偉大な出来事なのだと。彼らがバビロンに捕え移されたのは永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わらないのです。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえも色あせてしまうほどのすばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトとも呼ばれているのです。

しかし、新約時代に生きる私たちにとっては、それすら大したことではありません。なぜなら、もっと素晴らしい解放の御業を知っているからです。それは、イエス・キリストによる罪からの救いです。イエスは十字架で死なれ、三日目によみがえられたことによって、罪の中に捕えられていた私たちをそこから解放してくださいました。これこそ本当の意味での第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、このバビロンからの解放も大したことではありません。それはただのひな型にすぎないのです。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事、それが指し示していた出来事だったのです。これ以上の救いの御業はありません。

でもそれは遠い昔の話であって今の私には全然関係ない話だと思っていませんか。そうではありません。聖書の神は、昨日も今日もいつまでも変わることがありません。出エジプトの時代にイスラエルをエジプトから解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださいます。バビロンから解放してくださった神は、今も同じ御業を行ってくださるのです。そして、罪から解放してくださった主は、今もあなたを縛るあらゆる問題から解放することができるのです。

ちょっと前にさくらチャーチのバイブルカフェに、突然、若い一人の男性が来られました。さくらにある自動車教習所で合宿のために来ているということでした。彼はカナダに留学していて、カナダでクリスチャンになりましたが、聖書の学び会に参加したくして、いろいろネットで調べて自転車で来られたのでした。 聖書の学びの終わりに、良かったらどのようにして救われたのか証してもらえませんかというと、彼は喜んで証してくれました。
  彼は、カナダで経営学を学んでいるのですが、あるとき、そこで日本料理レストランを経営している人に出会い、そのやり方がユニークだったので話を聞きに行ったところ、月曜日の夜に聖書の学び会があるので来てみないかと誘われて行くようになりました。すると、そこに集まっている人たちの輝きが違うんですね。みんな輝いていたのです。これまで二十数年生きて来て、こんな人たちに出会ったのは初めてだと言っておられました。
  それからしばらしくして、イエス様を救い主として信じないかと言われ、さすがにそこまでは思ったのですが、彼には一つの悩みがあって、それは大麻を止められないということでした。カナダでは合法ですが日本では違法なのでやめなければならないと思いつつなかなかやめられないで苦しんでいたのです。ある晩、彼は初めてお祈りしてそうです。もしイエス様が生きておられるなら、大麻を止めることができるようにしてくださいと。そしたら、どこかの野良猫があの集会の場所に行くのを見て、その猫について行ったら、伝道者らしい人が彼のために祈ってくれたそうです。大麻を止めることができるようにと。そしたら、その瞬間から大麻から完全に解放されたのです。あれから半年経ちますが、一度も大麻に手を出したことはなく、心には神の平安が満ち溢れているということでした。そして、もっともっと聖書を学びたいと思うようになったというのです。

ハレルヤ!すばらしいですね。イスラエルをエジプトから救い出された主は、イスラエルをバビロンからも救いだされました。そしてその同じ主は、あなたを罪の中から救い出してくださいます。それは遠い昔の話ではなく、今も行われている神様のすばらしい御業です。イスラエルをエジプトから、あるいはバビロンから解放してくださった神は、あなたを縛るあらゆる問題からも解放することができるのです。もしあなたが神に叫ぶなら、神はあなたの叫びに耳を傾けてくださり、第二のモーセと言われるイエス・キリストをあなたのために解放者として立てあなたを解放してくださいます。そして、約束の地へと導き入れてくださいます。そしてそこで、私たちをそこへ上らせた主は生きておられると言って主をほめたたえ、その土地に住むようになるのです。それはイスラエルという約束の地よりもはるかにすばらしい、乳と蜜の流れる本当に素晴らしい神の国です。その神の国へと導かれて行くのです。

皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることができます。あなたはこの希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。それは、あの出エジプトよりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちです。そして、やがてキリストが再臨するとき、私たちの体はよみがえり、主とお会いすることになるという希望です。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのはこの希望です。神はその希望をあなたに与えてくださいます。

希望がないのではありません。希望は確かにあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いのです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられた状態にあるかもしれませんが、イエス・キリストを信じるなら、イエス・キリストがあなたをすべての罪の縄目から解放してくださいます。それは悲劇で終わりません。それは希望で終わるのです。その罪からの解放を経験するとき、あなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。

ですから、私たちはここに希望を置きたいですね。出エジプトの時に働かれた神はバビロンからの解放の時にも働かれた神であり、イエス・キリストによってすべての罪から解放してくださったお方です。これからも救ってくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

エレミヤ22章20~30節「ともしびは消されなかった」

前回は、エレミヤ書22章前半から「人生の目的を知る」というテーマでお話しました。きょうは、22章後半から「ともしびは消されなかった」というタイトルでお話します。

Ⅰ.若い頃からのあなたの生き方(20-23)

まず、20~23節をご覧ください。
「20 「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。あなたの恋人たちがみな、砕かれたからだ。21 あなたが平穏であったときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。22 あなたの牧者たちはみな風に追い立てられ、あなたの恋人たちは捕らわれの身となって行く。そのとき、あなたは自分のすべての悪のゆえに、恥を見、辱めを受ける。23 レバノンの中に住み、杉の木の中に巣ごもりする女よ。あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」」

20節の「あなたの恋人たち」とは、南ユダと同盟関係にあった近隣諸国のことです。南ユダは主なる神とパートナーにならないで、近隣諸国とパートナーになりました。この世とつり合わぬくびきを負ったのです。その結果どうなりましたか?その結果、その恋人たちはみな、粉々に砕かれてしまうことになりました。ここでは、それを、「レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。」と命じられています。「レバノン」とは、エルサレムから見て北方にある高い山々のことです。「バシャン」は、ガリラヤ湖の北東にある高原地帯です。そして「アバリム」とは、ヨルダン川の東にある山々です。そうした地域に行って叫ぶようにというのです。つまり、あらゆる所に行って叫べというのです。あなたの恋人たちがみな砕かれたということを。これは、具体的には、バビロンによって滅ぼされることを示しています。そうした近隣諸国はバビロンによって滅ぼされ、捕囚の民として連れて行かれることになります。22節の「あなたの牧者たち」とは、国の指導者たちのことです。彼らもまた捕囚の民として連れて行かれることになります。

23節にある「レバノンの中に住み、杉の木の中に巣ごもりをする女よ」とは、エルサレムの住民のことを指しています。彼らがバビロンに捕囚の民として引き連れて行かれるようになったのは、21節にあるように、彼らが平穏であったときに、主が彼らに語り掛けたのに、彼らが「私は聞かない」と言って主のことばを退けたからです。聞く耳を持ちませんでした。そして、主なる神以外の偶像や近隣諸国に頼り、それらを自らの恋人としたからです。これが若いころからの彼らの生き方でした。つまり、彼らは若い時からずっと不信仰であったということです。あなたはどうでしょうか。

私たちもうまくいっている時、平穏な時、繁栄している時、順風満帆なとき、何不自由のない生活をしている時は、そのようになりがちになります。神様があなたに語りかけても、「私は聞かない」と言って主のことばを退けようとするのです。そういう時、神様は何をなさいますか。あえて試練を与えるようなことをなさいます。試練が与えられて初めて目が覚めるようになるからです。ようやく神様に目が向くようになります。そして、神の声に耳を傾けるようになるのです。ですから、詩篇の作者はこう言ったのです。
  「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:71)
  苦しみはできたら避けて通りたいものです。苦しみが与えられてうれしい人など誰もいません。それなのになぜ神は試練や苦しみを与えられるのでしょうか?それは、そうした試練や苦しみを通して私たちが自らの限界を悟り、神に向くようになるからです。その時、はじめて神のことばがただ頭だけでなく体験として知るようになります。神を知るとはそういうことなのです。

平穏な時でも神はあなたに語りかけてくださいました。何も語っていなかったのではありません。何度も語っておられました。それなのに、あなたは聞きませんでした。「私は聞かない」と言って。だから聞こえなかったのです。仕事が順調だったからです。特に問題がなかったからです。万事うまくいっていると思っていました。でも、試練に直面してようやく気付かされました。自分は神のことばを全然聞いていなかったということを。それでようやく神の声に耳を傾けるようになったのです。初めて神のことばをもっと知りたいと思うようになりました。試練に直面して初めて、神のことばが今までとは違って心に迫るようになったのです。何度も何度も読んだはずなのに、なぜかみことばが心に響くようになりました。平穏な時には気付かなかったのに、試練に直面して初めて理解できるようになりました。まさに、苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。それによってあなたのおきてを学ぶようになるからです。 

それなのに、彼らは神の声を聞きませんでした。その結果、彼らはどうなりましたか。23節に「あなたに陣痛が、産婦のような激痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」とあります。彼らは大きな苦悩を経験するようになります。それは産婦に激痛が襲うような苦しみでした。バビロン軍がやって来て彼らを滅ぼすことになります。そして、捕囚の民として連れて行かれるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に試練や困難が襲うとき、あなたは何に信頼していますか。目に見えない神に信頼していますか、それとも、この時のイスラエルのように近隣諸国と同盟を結んで安全を確保しようとしますか。現実の問題を抱えた時こそ、本当の意味で信仰が試される時でもあります。イスラエルは近隣諸国と同盟を結んで安全を確保しようとしました。彼らは神ではなく恋人たちに信頼したのです。それが彼らの生き方でした。その結果、彼らの恋人たちはみな打ち砕かれ、捕らわれの身となって連れて行かれることになってしまいました。

平穏な時から、あなたの人生が順風満帆の時から、あなたの人生が繁栄している時から、神の声に聞き従うべきです。何かがあったからではなく、何もない平穏な時こそ主のことばに聞き従う時です。また、こうした危機に直面したとき、それはあなたの信仰を発揮する良い機会であると信じて、その試練の中ですべてを働かせて益としてくださる神を見上げなければならないのです。

Ⅱ.右手の指輪を抜き取られた王(24-27)

次に、24~27節をご覧ください。「24 「わたしは生きている──【主】のことば──。ユダの王、エホヤキムの子エコンヤは、わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、25 あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、26 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。27 彼らが帰りたいと心から望むこの地に、彼らは決して帰らない。」」

ユダの王エホヤキムの子「エコンヤ」に対するさばきの宣告です。エコンヤは、別名「エホヤキン」と言います。彼は、B.C.598年に18歳で南ユダの王に即位しました。しかし、その在位期間はわずか3か月と10日でした。なぜなら、神が彼を王位から退けたからです。それは、彼が神を退けたからです。彼の父親はエホヤキムという王でしたが、エホヤキムは、エレミヤの預言が記された巻物を切り裂いて火で焼き、神のことばを冒涜しました(36:23,32)。その結果、より厳しいさばきを受けることになってしまいました。その息子がこのエコンヤ(エホヤキン)です。彼は父を反面教師にすべきでした。それなのに彼はしませんでした。父エホヤキム同様、主のことばをないがしろにしたのです。また、彼は青年時代、エレミヤが語る神のことばも聞いていたはずなのに、そこから学ぼうとしませんでした。バビロンの王ネブカデネザルの脅威が迫る中、主に信頼すればよかったのに、逆に主の目の前に悪を行いました。それで彼はわずか3か月で王位から退けられてしまうことになったのです。

そのことがここではこう言われています。24~26節です。「わたしの右手の指輪の印ではあるが、わたしは必ずあなたを指から抜き取り、あなたのいのちを狙う者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカドネツァルの手、カルデア人の手に渡し、あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたが生まれたところではない、ほかの地に放り出し、そこであなたがたは死ぬことになる。」
  「右手の指輪の印」とは、王の権威のシンボルです。それは公式文書に法的な効果を持たせるために用いられる非常に大切なものでした。いわゆる実印のようなものです。エコンヤ(エホヤキン)は神の指輪の印のように尊く権威ある存在でした。しかし、神はご自分の指輪の印であるエコンヤ(エホヤキン)を抜き取り、バビロンの王ネブカデネザルの手に渡すと言われたのです。このことがなぜ重要なのかというと、エコンヤがバビロンに捕虜として連れて行かれそこで死ぬということは、ダビデ王家が絶たれてしまうということを意味していたからです。実はその後にゼデキヤが王として立てられますが、ゼデキヤはエコンヤの叔父にあたりますが、ダビデの血筋ではありませんでした。ですから、神の右手の指輪の印であるエコンヤが引き抜かれるということは、彼だけの問題ではなく、ユダ王国全体、強いて言うなら、それはダビデ王家が絶たれてしまうということですから、ダビテの子孫として生まれるはずのメシヤ、救い主がやって来るという神の救いのご計画全体に関わる問題だったのです。それが絶たれてしまうのです。

「私は聞かない」と神の御声に聞き従わないで、この世の声に従って生きる人は、神の恵みが閉ざされることになるということを覚えておかなければなりません。決して栄えることはありません。この世の王には、究極的な望みがないからです。私たちの王はただ一人、それはイエス・キリストだけです。私たちはこの方のことばを聞かなければならないのです。確かに私たちは生まれる環境を選ぶことはできませんが、生まれた後で自分に与えられた環境の中で学ぶことはできます。そういう自由が与えられているのです。神はどんな人にも、この方を知る機会を与えておられます。残念ながらここに出てくるエコンヤは、そのような機会が与えられていたにも関わらずその機会を生かすことができませんでした。私たちはこのエコンヤのようにならないように注意しなければなりません。機会を十分に生かして用いなければならないのです。

Ⅲ.ともしびは消されなかった(28-30)

最後に、28~30節をご覧ください。「28 この人エコンヤは、蔑まれて砕かれる像なのか。だれにも顧みられない器なのか。なぜ、彼とその子孫は投げ捨てられ、見も知らぬ地に投げやられるのか。29 地よ、地よ、地よ、【主】のことばを聞け。30 「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」」

エコンヤ(エホヤキン)は、神から与えられた機会を用いようとせず、父エホヤキムの失敗から学ばなかった結果、バビロンに連れて行かれ、その地に放り出されて死ぬことになります。30節にはそのことについてこう言われています。「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」

エコンヤ(エホヤキン)は、「子を残さず、一生栄えない男」と記録されることになります。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいなくなるということです。Ⅰ歴代誌3章17~18節を見ると、彼には7人の息子がいたことがわかりますが、その7人とも彼の後を継ぐことはありませんでした。なぜなら、神が彼を退けたからです。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着く者はいませんでした。ということは、この時点でダビデ王家が滅亡してしまうことになります。350年近く続いたダビデ王家の血筋は、ダビデの後にソロモンが、そしてその後はソロモンの子どもたちによってずっと引き継がれてきましたが、このエコンヤ(エホヤキン)を最後に絶たれてしまうことになるのです。

サタンはどれほど喜んだことでしょう。というのは、サタンは知っていましたから。ダビデの王家からやがてメシヤが生まれるということを。Ⅱサムエル記7章11~16節に、そのことがはっきりと語られています。ダビデが主の家を建てようと考えていた時、主は預言者ナタンを通してこのように言われました。
  「7:11 それは、わたしが、わが民イスラエルの上にさばきつかさを任命して以来のことである。こうして、わたしはあなたにすべての敵からの安息を与えたのである。【主】はあなたに告げる。【主】があなたのために一つの家を造る、と。7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。7:14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が不義を行ったときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。7:15 しかしわたしの恵みは、わたしが、あなたの前から取り除いたサウルからそれを取り去ったように、彼から取り去られることはない。7:16 あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。』」

12節の「彼の王国」とは、メシヤによって支配される王国、神の国のことです。これはダビデの子と呼ばれるメシヤによって確立される王国のことです。これは、ダビデの子孫から生まれるメシヤによって神の国がもたらされるという預言です。彼は主のために一つの家を建て、主はその王国の王座をとこしえまでも堅く立てると約束されました。しかし、エコンヤによってダビデの王座が絶たれてしまったらこの預言は頓挫してしまうことになります。彼の子孫のうち一人もダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいなくなるのです。つまり、神の救いのご計画が頓挫してしまうのです。サタンにしてみればヤッター!!!ですよね。救い主の到来を阻むことが出来たのですから。大喜びです。でも、神様はそこで終わっていません。大どんでん返しをされるのです。ともしびは消されなかったのです。それは、イエス・キリストの系図を見るとわかるのです。

  イエス・キリストの系図はマタイ1章とルカ3章に記されてありますが、そこにはいくつかの違いが見られます。たとえば、マタイは「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)とあるように、アブラハムからイエス・キリストに至るまでの系図を記しているのに対して、ルカは「イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で、さかのぼると、」(ルカ3:23)と、イエス・キリストからアダムまでさかのぼった系図を記しています。また、マタイはヨセフの家系を辿って記録しているのに対して、ルカはマリヤの家系を辿って記録しています。こういう違いが見られます。でも、どちらにも共通しているのは、イエス・キリストはアブラハムの子、ダビデの子であるということです。救い主はダビデの身から出ているという点です。

しかし、そのダビデからイエスまでの系図が全く違うのです。マタイは、 「ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、ソロモンがレハブアムを生み」(マタイ1:6-7)と、いわゆる南ユダの王国の王の家系を記しているのに対して、ルカは南ユダの王たちの家系を全く記していません。つまり、マタイはイエスの系図にソロモンからエコンヤのライン(マタイ1:6-12)を載せているのに対して、ルカはイエスの系図にナタンからネリを載せているということです。(ルカ3:27-31)。いったいこれはどういうことでしょうか。別にこれを書いたルカがこの流れを知らなかったということではありません。この系図はⅠ歴代誌3章5~16節にもありますから、彼はこの事実をちゃんと知っていたはずです。それなのに彼はイエスの系図に南ユダの王たちの家系を載せなかったのです。なぜなら、ダビデ王家の家系はこのエコンヤで途切れてしまったからです。確かにエコンヤの後にも子どもたち生まれましたが、彼らが王位に着くことはありませんでした。

ですから、マタイでさえ1章16節でこう記しているのです。 「ヤコブがマリヤの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリヤからお生まれになった。」
  マタイはヨセフの家系を辿っているのに、「キリストと呼ばれるイエスは、このヨセフからお生まれになった」ではなく、「このマリヤからお生まれになった」と記しているのです。イエスはヨセフではなくマリヤから生まれました。なぜこのヨセフからお生まれになったと書かなかったのでしょうか。それは、実際にはヨセフとイエスは血のつながりがなかったからということもありますが、ダビデ王家はエコンヤで途絶えていたので、その子孫であるヨセフをダビデの子としては描くことができなかったからなのです。

では、救い主がダビデの子孫から出てくるという神様の救いのご計画は頓挫してしまったのでしょうか。そうではありません。神は別の方法を通してダビデの子として生まれるメシヤ、救い主を誕生させてくださいました。それがルカ3章に見られるイエスの系図なのです。ルカ3章23節には「ヨセフはエリの子で、さかのぼると」とありますが、実際にはヨセフはエリの子ではありません。エリの子はマリヤです。これはマリヤの系図です。当時、ユダヤ人は女性の系図を使わなかったので、マリヤの夫であるヨセフの系図になっているだけです。そのマリヤの系図をたどっていくと、31節にダビデが出てきますが、その子は「ナタン」となっています。「メレア、メンナ、マタタ、ナタン、ダビデ」(ルカ3:31)です。ルカは逆からたどっているので、ダビデがナタンの子どものように見えますが、実際は「ナタン」がダビデの子どもです。この「ナタン」はダビデとバテ・シェバの間に生まれた三番目の息子でした(四番目がソロモン)。でも実際にダビデの後を継いだのはソロモン王でした。そして、そのソロモンの息子たちが南ユダの王として代々ダビデ王家を継承していったのです。でもダビデには別の子どもがいました。それがナタンです。そのナタンの子孫がマリヤなのです。イエスはこのマリヤから生まれました。つまり、エコンヤが神を退けたので、彼は一生栄えない男になってしまいました。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者は出ませんでしたが、神は別のラインから同じダビデの血筋であるナタンのラインによって救い主をこの世に送ってくださったのです。それがマリヤの系図が示していることなのです。すごいですね!これは驚くべき神の救いのご計画です。

一度はエコンヤのせいで人類は呪いを宣告されましたが、神はご自身の救いの計画をそれで頓挫させることをせず、人知をはるかに超えた方法でダビデの血筋をキープしながらこのナタンの家系からイエスが生まれるという大どんでん返しをなさったのです!!!これはサタンも思いもつかないような方法でした。そんな方法があったのかとびっくりするような方法でした。人間の思いをはるかに超えたとんでもない方法で神はご自身の救いの御業を成し遂げてくださったのです。これこそまさに神業です。確かにイエスはダビデの子として生まれた救い主であるということを、サタンも否定できなかったでしょう。

Ⅱ歴代誌21章7節にこうあります。「しかし、【主】はダビデと結ばれた契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼすことを望まれなかった。主はダビデとその子孫に常にともしびを与えると約束されたからである。」主は与えると約束されたともしびを消されなかったのです。主はどこまでも真実な方、約束を守られる方です。私たちは真実でなくても、神様は常に真実な方で、契約を守られるお方なのです。

神は、この驚くべき方法をあなたのためにもしてくださいました。あなたのために御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  イエス・キリストはあなたのために天から下って来てくださったのです。それはあなたが滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。確かに、聖書には「木にかけられた者はみな、呪われている」(ガラテヤ3:13)とありますが、しかし、神はその呪いを祝福に変えてくださいました。その死からよみがえられることによって。木にかけられた者は呪われた者ですが、キリストはその死からよみがえることによって、その死に打ち勝つことによって、その呪いを祝福に変えてくださったのです。ですから、あなたがキリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)どんなに闇が深くても、闇は光に打ち勝ことはできません。光は闇の中に輝いているのです。

もしかすると、あなたはもうダメだ!と思っているかもしれません。エコンヤのように、自分は人生に失敗したと。もうダメだ!呪われていると思っていると、そう思っているかもしれない。お先真っ暗だ。もうどうにもならない。だってあんなことをしたんだから。こんなことをしたんだから。もう希望はない。そう思っているかもしれません。でも神はこのエコンヤの呪いを驚くべき方法によって祝福に変えてくださったように、敗北にしか思えない十字架と復活という方法によって救いの御業を成し遂げてくださいました。ですから、キリストにあるならどんな呪いでも祝福に変えられるのです。

これが良い知らせです。悪い知らせとは、神と神のことばを退ける者には呪いがあるということです。そこには未来はありません。あるのは呪いだけ。さばきだけ。破滅だけです。そこには何の希望もありません。しかし、ここに良い知らせがあります。イエス・キリストを信じる者は滅びることなく、永遠のいのちを持つということです。ここに希望があるのです。あなたがどんなに呪われたような人生を送って来ても、あなたがイエスを救い主として信じるなら、あなたの呪いは希望に変えられるのです。私たちが真に頼れる王は、真の王であられるイエス・キリストだけです。ここに出てきた王たちは1人として頼りにはなりません。私たちはこの方、私たちの救い主イエス・キリストだけを王としなければならないのです。

あなたの王は誰ですか?あなた自身ですか、それともあなた以外の別の人でしょうか。あるいはそれは人ではなく財産であったり物かもしれません。そういうものを頼りにしても何の役にも立ちません。そのようなものがあなたの心の王座に置くなら、あなたは失望することになります。それはあなたが一番よく知っていることです。それがあなたの若い時からの生き方だったからです。何でも自分の思うように、好きなようにと生きてきた結果、そこにはただ呪いがあるだけでした。神と神のことばを退けるものに希望を置いたらあなたは必ず失望することになります。でも、王の王であられるイエス、主の主であられるイエス、ダビデの子と呼ばれるイエス・キリストに全幅の信頼を置くなら、その方にあなたを任せるなら、あなたは守られます。まことの王の国民として永遠の祝福を受けることになるのです。神はあなたの期待を裏切ることはなさいません。あなたは神から永遠の祝福を受けることになるのです。まことの王であられるイエスをあなたの心の王座に迎えてください。

エレミヤ22章1~19節「人生の目的を知る」

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エレミヤ書22章に入ります。今日は22章前半から、「人生の目的を知る」というテーマでお話します。自分は何のために生きているのか、何のために存在しているのかということです。多くの人が、自分がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、なぜこの世に存在しているのかがわからず、自問自答しながら生きています。クリスチャンになることの素晴らしさの一つは、この目的を知っていることです。皆さんは何のために生きていますか。今日は、そのことをご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.私たちの人生の目的(1-9)

まず、1~9節をご覧ください。5節までをお読みします。「22:1 【主】はこう言われる。「ユダの王の家に下り、そこでこのことばを語れ。22:2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、【主】のことばを聞け。22:3 【主】はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また、咎なき者の血をここで流してはならない。22:4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。22:5 しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが──【主】のことば──この家は必ず廃墟となる。』」」

主からエレミヤに主のことばがありました。それは、ユダの王の家に下り、そこで主のことばを語れということでした。「ユダの王の家」とは、王たちの住まいであった王宮のことです。エルサレムにあった神の宮、神殿から、自分たちの住まいであった王宮に下れということです。そこで主のことばを語るように。ダビデの王座に着くユダの王とその家来たちに、です。

その内容は、3節にあるように「公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ」ということでした。「公義」とは、神の律法にかなった行為のこと、つまり、神の律法に従って社会的弱者と呼ばれる人たちを踏みにじることがないように、正しいさばきを行うように。そして、そうした社会的弱者と言われる人たちをあわれみ、決して虐げることないように、いやむしろ、そのように虐げる者の手から救い出すようにということでした。
  また、「正義」とは、神様との正しい関係のことを言います。平たくいうと、神のことばに対して忠実に生きるようにということです。この公義と正義は、神にとって最も重要なことでした。

それなのに、ダビデの王座に着く王たちは、本来すべきことをしないで、私腹を肥やしていました。この王たちは誰のことを指しているのかはっきりわかりません。お手元に「南ユダ王国の年代表」を用意しましたが、南ユダの王たちの中の最後の4人の王たちのいずれかの王です。すなわち、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの中の誰かです。いや、誰というよりも、この4人の王たちに代表されるすべてのユダの王たちと言ってもいいでしょう。彼らは王として自分が成すべきことをしていませんでした。彼らはダビテの王座に着いていましたが、ダビデの心を持っていなかったのです。ダビデの心とはどんな心ですか。使徒13章22節にはこうあります。「そしてサウルを退けた後、神は彼らのために王としてダビデを立て、彼について証しして言われました。『わたしは、エッサイの子ダビデを見出した。彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる。』」
  ここには、「彼はわたしの心にかなった者で、わたしが望むことをすべて成し遂げる」とあります。「彼は」とは「ダビデ」のことです。彼は主の心にかなった者で、主が望むことをすべて成し遂げました。これがダビデの心です。それは、神が望むことをすべて成し遂げる心です。しかし、彼らは王という立場にありながらも、その使命とか責任を果たしていませんでした。社会的弱者と呼ばれる人たちを虐げる者の手から救い出すところか、寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、咎なき者の血を流したりしていました。

もし、あなたがたが主の心にかなった者であるなら、彼らはそのまま王座にいることができ、家来や民たちもこの町に住み続けることができますが、そうでなければ、ユダの王も国も必ず亡びることになります。

これは、クリスチャンにも言えることです。Ⅰペテロ2章9 節にはこうあります。「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」
  ここには、すべてのクリスチャンは王である祭司と言われています。イエス・キリストを信じたことでクリスチャンは神の子どもとされました。聖なる国民、神の所有の民とされたのです。神の民です。それは何のためですか。それは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の栄誉を宣べ伝えるためです。それなのに、その使命を果たしていないとしたら、それはここで糾弾されているダビデの王座に着くユダの王たちと何ら変わらないことになります。毎週日曜日教会に集い、神を賛美し、みことばに感動して、神をほめたたえることはすばらしいことです。神の家族としての教会の交わりに加えられ、時には美味しい食事を囲んで満足すこともすばらしい恵みです。でも、ただそれだけならば、この王たちと何ら変わらないのです。その使命を果たしていないからです。私たちは自分が救われた目的を知り、そこに生きる者でなければなりません。

カトリックの神学者で、晩年を知的障害者とともに過ごしたヘンリー・ナーウェンは、このように言っています。
  「自分が神に「選ばれている」ということをいつも喜ぶのです。神に、「選んでくださってありがとう。」と言い、選ばれたことを思い起こさせてくれる人にも、「ありがとう。」と言うのです。  感謝をすることによって、自分が意味もなく、偶然、この世に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むのです。」

とても含蓄のあることばではないでしょうか。自分が意味もなく偶然に生まれてきたのではなく、神に選ばれて生まれてきたのだということを心に刻むために、神に「選んでくださったありがとう」と言う。大切なことです。あなたはどうですか。あなたは神によって選ばれていることを感謝し、喜んでいるでしょうか。そういう人は、自分に与えられた特権や立場を感謝し、自分に与えられている使命に生きようと願いますが、そうでなければ、ただの自己満足で終わってしまいます。私たちが王である祭司、聖なる国民、神の民として選ばれたのは、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせるためです。私たちにはそのような使命が与えられているのです。その使命をしっかり押さえている人こそ、自分がどこから来て、どこへ行くのか、何のために生きているのかということを正しく理解し、それに向かって生き生きと生きることができるのです。

6~9節をご覧ください。「22:6 まことに、ユダの王の家について、【主】はこう言われる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂だが、必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む人もいない町々にする。22:7 わたしはあなたを攻めるために、それぞれ武具を持つ破壊者たちを取り分ける。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒して火に投げ入れる。22:8 多くの国々の者がこの都のそばを過ぎ、彼らが互いに、『何のために、【主】はこの大きな都をこのようにしたのだろうか』と言えば、22:9 人々は、『彼らが、自分の神、【主】の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ』と言う。」」

「ギルアデ、レバノンの頂」とは、エルサレムのことです。ギルアデ、レバノンは森林地帯でした。ユダの王たちは、その森林地帯にある高級建材を輸入して王宮を建てていました。ですから、王宮のことを「レバノンの森」と呼んだのです。そこにはまさにレバノン杉という当時の最高建材がふんだんに使われていました。しかし、その王宮が敵の攻撃によって火で焼かれてしまうことになります。神の都エルサレムが、住む人のいない廃墟のようになってしまうのです。
  さらに8節と9節を見ると、そのエルサレムが崩壊するのを見た異邦人が、どうしてエルサレムはこんなことになってしまったのかと言う時、それは「彼らが、自分の神、主の契約を捨ててほかの神々を拝み、仕えたからだ。」と、人々が噂するようにまでなるというのです。
  これが文字通りB.C.586年に起こります。バビロン捕囚という出来事です。バビロンの王ネブカデネザルがやって来てエルサレムは火で焼かれ、町の中心にあった神殿も完全に滅ぼされてしまうことになります。いったいなぜこのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らが神に背き、神の民として自分たちに与えられた使命を見失ってしまったからです。

伝道者の書1章5~8節にこうあります。「日は昇り、また沈む。風も吹いては、同じことを繰り返す。川の流れはやがて海に行き着くが、めぐりめぐってまた元に帰り、再び海に向かって流れ出す。すべては退屈な繰り返しにすぎない。」(TEV)
  皆さん、人生の目的を見失うと、このようになってしまいます。人生がただの退屈な繰り返しになってしまうのです。

ですから、私たちは私たちに与えられている役割、自分が存在している理由を知ることが重要です。そうすれば、私たちは、その役割を果たすために、そこに向かって進むことができます。そうです、私たちは神に選ばれた者、神の民として、私たちを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方のすばらしい御業をほめたたえ、神の栄光を現わす者となるのです。

Ⅱ.彼に信頼する者は失望させられることはない(10-12)

次に、10~12節をご覧ください。「22:10 死んだ者のために泣くな。その者のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼が再び帰って、故郷を見ることがないからだ。22:11 父ヨシヤに代わって王となった、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、【主】はまことにこう言われる。「彼はこの場所から出て行って、二度とここには帰らない。22:12 彼は引いて行かれた場所で死に、再びこの地を見ることはない。」」

何のことを言っているのか、ちょっと読んだだけではピンときません。ここに「死んだ者」とありますが、これは誰のことを指して言われているのかというと、南ユダ王国の第16代の王であるヨシヤ王のことです。彼は宗教改革を行うなど、善王としてよく知られています。彼は民の大きな期待を集めていました。しかし、B.C.609年にエジプトの王パロ・ネコとの戦いで死してしまいました。彼は8歳で王になると、16歳で献身し、20歳で国内にあったありとあらゆる偶像礼拝の施設を取り除きました。南ユダ王国にリバイバルをもたらしたのです。ですから、そのヨシヤ王が死んだ時、民はヨシヤ王の死を悼み悲しんだのです。

でもここには、そのヨシヤ王のために泣くな、と言われています。その者のために嘆くなと。どうしてですか?もっと他に嘆き悲しまなければならない人がいるからです。それは、ヨシヤ王の息子の「シャルム」です。
  「シャルム」とは、ヨシヤ王の子「エホアハズ」のことです。エホアハズの幼名がシャルムです。彼はその後改名して「エホアハズ」となります。意味は「ヤーウェーは捉えてくださる」、「主は捉えてくださる」です。エホアハズ王はヨシヤ王の息子で、第17代の南ユダの王でしたが、その在位期間はたったの3か月でした。たった3か月しか王座にいることができなかったのです。彼はエジプトに連れて行かれ、そこで死ぬことになります。10節に「去って行く者のために、大いに泣け。」とありますが、これがこのエホアハズ王のことです。彼のために嘆けというのです。なぜでしょうか?なぜなら、彼が再びエルサレムに帰って来ることはないからです。そして次に王になるのが「エホヤキム」です。ここには「エホアハズ」とか「エホヤキム」とか「エホヤキン」とか、「きん」さん、「ぎん」さん、みたいな名前がたくさん出てくるので、皆さんどうぞ混乱しないでください。エホアハズの後がエホヤキムです。実はエホヤキムはエホアハズの2歳上の兄でしたが、最初に王になったのは弟のエホアハズの方でした。なぜなら、南ユダの民が兄のエホヤキムではなく、弟のエホアハズに希望を託したからです。エホアハズこそエジプトから自分たちを解放してくれるに違いない、そう思ったのです。しかし、そのエホアハズはどうなりましたか?彼も神のことばに聞き従わなかったので、結局のところ、王位から退けられエジプトに連行され、そこで死ぬことになります。南ユダ王国の歴史の中で初めて、自分の国ではない他の国で死ぬという不名誉な死に方をするわけです。民にとって希望の星だったエホアハズがエジプトに幽閉されて惨めな死に方をするわけです。このエホアハズのために嘆き悲しむように。主はそう言われたのです。どういうことでしょうか。あなたの希望が打ち砕かれたので嘆き悲しみなさいということです。

あなたはどこに希望を置いているでしょうか。エホアハズですか。でもエホアハズに希望を置くなら失望することになります。必ず裏切られることになります。この人なら何とかしてくれるに違いない、あの人なら大丈夫だろう。気を付けなければなりません。そのような人があなたを救うことはできないからです。あなたを救うことができるのは、あなたの救い主イエス・キリストだけです。この方に希望を置かなければなりません。聖書にこうあるからです。「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)

あなたはどこに希望を置いていますか。あなたが希望を置かなければならないのは、あなたの救い主イエス・キリストです。なぜなら、彼に信頼する者は、決して失望させられることはないからです。どんなことがあってもびくともすることはありません。

Ⅲ.主にあって死ぬ者は幸いである(13-19)

次に13~19節をご覧ください。「22:13 「わざわいだ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者たち。隣人をただで働かせて報酬も払わず、22:14 『私は自分のために、広い家、ゆったりとした高殿を建てよう』と言い、それに窓を取り付けて、杉の板でおおい、朱を塗る者は。22:15 あなたは杉の木で競って、王になろうとするのか。あなたの父は食べたり飲んだりし、公正と義を行ったではないか。そのとき、彼は幸福であった。22:16 虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護し、彼は、そのとき幸福であった。それが、わたしを知っていることではないのか。──【主】のことば──22:17 しかし、あなたの目と心は、自分の利得に、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことにだけ向けられている。」22:18 それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、【主】はこう言われる。「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」

そんなエホアハズの次にユダの王になったのが、先程申し上げた兄のエホヤキムという人です。18節に彼の名前が出て来ます。エホヤキムは、エホアハズの2歳年上の兄でした。意味は「主は起こされる」です。彼はまさに弟亡き後に主が起こされたかのように王位に就きました。

彼は25歳で即位し、11年間南ユダを治めました。しかし、残念ながら彼も弟同様、悪い王に成り下がってしまいます。というのは、当時、南ユダ王国はエジプトの属国だったので、エジプトの王パロ・ネコの操り人形にすぎなかったからです。すべてエジプトの言いなりでした。ですから、エジプトの異教的な習慣を積極的に取り入れたので、霊的には真っ暗な状態だったのです。

そればかりか、エジプトの王パロ・ネコが重税を課したので、彼は民に重税を課さなければなりませんでした。さらにそれに輪をかけるかのように、自分の王宮を建てるために労働者に正当な報酬を支払わないで強制労働させました。もう贅沢三昧です。15節と16節には、父ヨシヤ王と比較されていますが父のヨシヤ王は正しい政治を行い、虐げられた人、貧しい人の訴えを擁護して王として幸福な生活を送りましたが、息子のエホヤキムはそうではありません。17節にあるように、彼の目と心は、自分の利益のことばかり、さらには、咎なき者の血を流すこと、虐げと暴虐を行うことだけに向けられていました。

それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう言われるのです。18節と19節をご覧ください。 「「だれも、『ああ、悲しい、私の兄弟よ。ああ、悲しい、私の姉妹よ』と言って彼を悼まず、だれも、『ああ、悲しい、主よ。ああ、悲しい、陛下よ』と言って彼を悼まない。22:19 彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められる。」」

誰も彼の死を悼み悲しむ人はいません。葬式もなければ、国葬も行われないのです。彼はエルサレムの門の外へ引きずられ、投げ捨てられて、ろばが埋められるように埋められるのです。野ざらしにされたのです。

なんと寂しいことでしょう。でもこの預言の通りになります。ここでエレミヤが預言したとおり、エホヤキムはネブカデネザル王によって送られたカルデア人の部隊、モアブ人の部隊、アンモン人の部隊によって殺されることになります。どういうことかというと、人は生きてきたようにしか死ぬことができないということです。あなたがどのように生きたかによって、その死に方も決まります。

ある母親が次のような実話を語っています。
  息子が6歳の時でした。教会の礼拝で「世の終わりのラッパ」という讃美歌が歌われました。  「その時我が名も、呼ばれなば必ずあらん。」という歌詞の歌です。
  家に帰ると息子が歌詞の意味を知りたいと尋ねてきました。そこで私はこう説明しました。  「学校で、先生が生徒たちの名前を呼んで出席を取るでしょう?それと同じように、天国に行ったら神様も私たちの名前を呼ばれるの。神さまが「パパ・ロジャースさん」。と呼んだら、パパは「はい、ここにいます。」って答えて、「ママ・ロジャースさん。」って読んだら、ママも「はい。ここにいます。」って答えるの。神様が「デニス・ロジャースくん。」って読んだら、あなたも「はい。ここにいます。」とお返事するのよ。」
  そんな出来事があってしばらく後に、息子は重い病気にかかってしまいました。様態はどんどん悪くなり、ついに意識もなくなり、何の反応もしなくなりました。そんな状態のある日、突然、息子がはっきりした声で「はい。ここにいます。」と叫んだのです。そして、そのまま息を引き取りました。医師が息子の死亡を確認したときに、私は、ふと、息子が神さまに名前を呼ばれて天に召されたことを悟ったのでした。

黙示録14章13節に、「主にあって死ぬ死者は幸いである」とあります。主にあって死ぬ者は何と幸いでしょうか。私たちも、永遠に価値あるものを求めましょう。私たちはそのために生かされているのですから。あなたが今ここに存在しているのは、あなたを愛し、あなたのためにご自身の命を捨ててくださった神の御子イエス・キリストのすばらしい御業を宣べ伝え、その御心に生きるためなのです。その人生の目的を知り、イエス・キリストにあって目標を目指して走ってまいりましょう。

Ⅱ列王記13章

 私たちは前回、12章でユダのヨアシュ王の生涯について学びました。けれども、今回再び場面が北イスラエル王国に移ります。

 Ⅰ.イスラエルの王エホアハズ(1-13)

まず、1~7節をご覧ください。「13:1 ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王であった。13:2 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。13:3 そのため、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられた。13:4 しかし、エホアハズが【主】に願ったので、【主】はこれを聞き入れられた。アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になったからである。13:5 【主】がイスラエルに一人の救う者を与えられたので、彼らはアラムの支配を脱した。こうしてイスラエル人は以前のように、自分たちの天幕に住むようになった。13:6 それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままであった。13:7 また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリアでイスラエルの王となり、十七年間、王として治めました。彼はどのようにイスラエルを治めたでしょうか。2節には、「彼は主の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それから離れなかった。」とあります。彼は、ネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けました。

ネバテの子ヤロブアムの罪とは、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えるという罪です。金の子牛は、ヤロブアムは北王国イスラエルの初代王でしたが、人々の心が「自分から離れないために」金の子牛をベテルとダンに置きました。そして、「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」と言ったのです(1列王記12:26~参照)。エホアハズは、そのヤロブアムの罪から離れませんでした。あのヤロブアムの罪が、ここでも悪影響を与えています。

そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダドの手に絶えず渡しておられました。でもエホアハズが主に願うと、主はこれを聞き入れました。これはすごいあわれみですね。ヤロブアムの道を歩む者が、主に願ったら主はそれを聞き入れられたのですから。その理由は、アラムの王の虐げによって、イスラエルが虐げられているのをご覧になり、見るに耐えなかったからです。

私たちは前回、南ユダのヨアシュ王が晩年に高慢になって、自分の信仰の父である祭司エホヤダの子ゼカリヤを殺すという蛮行を行ったことを学びました。幼い時から霊的な環境で育てられ神殿修復まで成し遂げた彼が、最終的に高ぶってアシェラ像を拝むようになり、それを警告したゼカリヤを殺したのです。それとは対照的に、ここにはどんなに悪人であっても、主は悔い改め、ご自分の名を呼ぶ者に、助けの御手を控えるような方ではないと言われています。

5節の「一人の救う者」とは、おそらくアッシリヤの王アダッド・ニナリ3世のことでしょう。彼がアラムを攻撃してきたので、アラムは自国防衛に専念せざるをえなくなり、イスラエルの支配を放棄しなければならなくなったのです。こうしてイスラエルは自分たちの天幕に住むようになったのです。つまり、平穏を取り戻すことができたのです。主があわれみのゆえに悪王エホアハズの願いを聞き入れられたからです。このタイミングも凄いですね。主はこのようにアッシリヤという国を用いて、エホアハズの祈りに応えてくださったのです。

それにもかかわらず、彼らは、イスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪から離れず、なおそれを行い続け、アシェラ像もサマリアに立ったままでした。何ということでしょう。せっかく主がイスラエルに良くしてくださったというのに、そこから離れようとしないとは。私たちは、主のあわれみがあるときにその中に逃げ込むようにしなければなりません。そうでないと、本当に滅ぼされてしまうことになります。

それが7節にあることです。「また、アラムの王が彼らを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしたので、エホアハズには騎兵五十、戦車十、歩兵一万の軍隊しか残されていなかった。」

「脱穀のときのちりのよう」とは、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、二度と戻ってくることがない様のことです。まさに、脱穀のときのちりのように、過ぎ去っていくことになります。

次に、8~13節をご覧ください。「13:8 エホアハズについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、その功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:9 エホアハズは先祖とともに眠りにつき、人々は彼をサマリアに葬った。彼の子ヨアシュが代わって王となった。13:10 ユダの王ヨアシュの第三十七年に、エホアハズの子ヨアシュがサマリアでイスラエルの王となり、十六年間、王であった。13:11 彼は【主】の目に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けた。13:12 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、ユダの王アマツヤと戦ったその功績、それは『イスラエルの王の歴代誌』に確かに記されている。13:13 ヨアシュは先祖とともに眠りにつき、ヤロブアムがその王座に就いた。ヨアシュはイスラエルの王たちとともにサマリアに葬られた。」

エホアハズの死後、彼に代わって王となったのは、彼の子のヨアシュでした。ヨアシュという同じ名前の王が南ユダにもいるので混同しないように注意してください。12章で見てきたのはその南ユダ王国のヨアシュでしたが、このヨアシュは北イスラエル王国のエホアハズの子のヨアシュです。彼は、その南ユダの王ヨアシュの第三十七年に北イスラエルの王となり、16年間、王として治めました。

彼は主の目の前に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行い続けました。ヨアシュもまた、父エホアハズと同じように、ネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れようとしませんでした。何という悲劇でしょうか。

12節には、このヨアシュの業績がまとめられています。これは、王たちの業績をまとめる際に使用する定型句ですが、ヨアシュの場合普通とちょっと違います。彼の治世はまだ続くのに、ここに早々と「まとめ」が記されている点です。なぜこのような書き方となったのか。それは彼の陰がうすくなったからです。13節の「ヤロブアム」とは彼の息子のヤロブアムⅡのことですが、彼はその息子のヤロブアムⅡと共同統治を開始すると、その存在価値が大幅に下がったのです。さらに、偶像礼拝の罪に留まり続けたヨアシュは、すでに死んだのも同然だったからです。

人生の岐路に立たされたとき、信仰の道を選ぶか、自分勝手な道を選ぶかで、その人の運命が変わってきます。先に行けば行くほど、両者の差は大きくなっていきます。前者の終着点は永遠のいのちですが、後者のそれは永遠の滅びです。私たちを救いに導いてくれるのは、ただ神の恵みだけです。この神の恵みに信頼して、信仰にしっかり留まり続けましょう。

Ⅱ.ヨアシュの不信仰(14-19)

次に、14~19節をご覧ください。「13:14 エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫んだ。13:15 エリシャが王に「弓と矢を持って来なさい」と言ったので、王は弓と矢をエリシャのところに持って来た。13:16 エリシャはイスラエルの王に「弓に手をかけなさい」と言ったので、王は手をかけた。すると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて、13:17 「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「【主】の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」13:18 それからエリシャは、「矢を取りなさい」と言ったので、イスラエルの王は取った。そしてエリシャは王に「それで地面を打ちなさい」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。13:19 神の人は彼に激怒して言った。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」」

ここに、エリシャが再び登場します。エリシャが死の病をわずらっていたとき、イスラエルの王のヨアシュは、エリシャのところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父、わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました。どういうことでしょうか。彼は、ネバテの子ヤロブアムの道から離れず、それを行い続けましたが、同時に、イスラエルの神にも信頼を置いていたので、イスラエルの神、主の預言者であったエリシャを尊敬していたということです。「イスラエルの戦車と騎兵たち」という呼びかけは、イスラエルを防衛する力は、エリシャの神にあると表明したものです。ヨアシュは、預言者エリシャが死ぬことは、イスラエルにとって大きな損失であることを知っていたのです。

すると、エリシャはヨアシュに「弓と矢を持って来るように」と言いました。それでヨアシュが弓と矢をエリシャのところに持って来ると、エリシャが「弓に手をかけなさい」と言ったので、王が手をかけると、エリシャは自分の手を王の手の上に置いて「東側の窓を開けなさい」と言いました。ヨアシュがそのようにすると、エリシャはさらに「矢を射なさい」と言いました。ヨアシュが矢を射ると、エリシャはこう言いました。

「主の勝利の矢、アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを討ち、これを絶ち滅ぼす。」

そうです、その矢は、主による勝利を象徴していました。エリシャが自分の手をヨアシュの手の上に置いたのは、勝利は預言者を通して主から来るということを示していました。

それからエリシャは「もっと多くの矢を取りなさい」と言ったので、ヨアシュは矢を取りました。するとエリシャは「それで地面を打ちなさい」と言ったので、ヨアシュ王がそれで3回止めてしまいました。彼は、手に持っているすべての矢を射るべきだったのに、3回で止めてしまいました。

するとエリシャはヨアシュ王に激怒してこう言いました。「あなたは五回も六回も打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを討って、絶ち滅ぼすことになっただろう。しかし、今は三回だけアラムを討つことになる。」どういうことですか。

エリシャが激怒した理由は、ヨアシュが不信仰であったからです。シリヤに対して徹底的な打撃を加えることができたのに、ヨアシュはそのことばに完全に応答しませんでした。矢を三回打ったところで「もうこれで十分だ」と思ったのか「シリヤには勝つことができない」と思ったのかわかりませんが、彼はそれ以上打つのを止めてしまったのです。その態度に対してエリシャは怒ったのです。ただ怒ったのではありません。激怒しました。

私たちも同じように、神の約束に対して、自分の思惑や不安などによって、思いとどまるときがあります。主が門戸を開いて導いておられるのに、その道を前進するのではなく現状にとどまろうとすることがあります。主が開かれた扉は、徹底的に前進していかなければなりません。そして、主が用意されたすべてのものを受け取る必要があります。信仰生活における勝利は、主への従順の度合いにかかっているのです。

Ⅲ.エリシャの死(20-25)

最後に、20~25節をご覧ください。「13:20 こうして、エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。13:21 人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。13:22 アラムの王ハザエルはヨアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えた。13:23 しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさらなかった。13:24 アラムの王ハザエルは死んで、その子ベン・ハダドが代わって王となった。13:25 ヨアハズの子ヨアシュは、父ヨアハズの手から奪い取られた町々を、ハザエルの子ベン・ハダドの手から取り返した。ヨアシュは三度彼を撃ち破り、イスラエルの町々を取り返した。」

こうして、エリシャは死んで葬られました。彼の預言活動は、アハブの治世(B.C.853年に終わる)からヨアシュの治世(B.C.786年に終わる)まで、50年以上に渡って行われました。

その頃、モアブの略奪隊が、年が改まるたびにイスラエルに侵入していましたが、ある時、ひとりの人が死んだので、人々はその人を墓に葬ろうとしたとき、そこにそのモアブの略奪隊がやって来たので、彼らはその墓に遺体を投げ入れ、慌ててそこから立ち去りました。

すると、その人がエリシャの骨に触れるやいなや、その人は生き返り、自分の足で立ち上がったのです。すごいですね。エリシャは死んでからも用いられました。死体になっているときでさえ、死人を生き返らせるという奇蹟を行なったのです。まあ、エリシャがというよりは主なる神がなさったわけですが。問題は、どうしてこの出来事がここに記されてあるのかということです。

おそらくこの奇跡は、ヨアシュを励ますために神様が行われたのでしょう。ヨアシュはエリシャが叱られてハッとして悔い改めたはずです。そのヨアシュに対して、人を生き返らせることができる主に信頼するなら、アラムとの戦いにおいても絶対に勝利することができると伝えたかったのでと思います。

アラムの王ハザエルはエホアハズの生きている間、絶えずイスラエルに圧迫を加えました。しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨てることはなさいませんでした。

アラムの王ハザエルは、エホアハズが生きている間中、イスラエルを虐げましたが、彼らを滅ぼし尽くすことはありませんでした。なぜでしょうか。ここには、「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約のゆえに、彼らを恵み、あわれみ、顧みて、」とあります。主は、ご自分が結ばれた契約のゆえに、ご自分の名のゆえに、イスラエルに良くして下さったのです。これを聖書では「神のあわれみ」と言います。

私たちは、何か良いことが起これば、自分たちの今までのことを正当化する傾向があります。しかし、多くの場合、神がご自分の名のゆえにあわれんでおられるのです。例えば、ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、夫ウリヤを殺す罪を犯しましたが、彼はその後バテ・シェバと離縁することなく、むしろ彼女をいたわり、その子ソロモンをもうけました。このソロモンがダビデの王座を受け継ぐことになりました。それはただ神のあわれみによるものです。それは決して神の導きによるものではありませんでした。しかし、ダビデが自分の罪を悔い改め、砕かれた、悔いた心を持った時、神はダビデをあわれみ、バテ・シェバを妻とし続けることができるようにされ、そこから出てくる世継ぎの子ソロモンが王座を受け継ぐことができるようにされたのです。

自分が神の恵みによって今の自分がいるのだ、神のあわれみによって滅ぼされずに、生されているのだ、と知ることは非常に重要です。私たちの神は契約を忠実にお守りになられる方です。私たちの救いの確かさは、この変わることのない神の愛に基づいているのです。

アラムの王ハザエルが死に、その子ベン・ハダドが変わって王となりましたが、エホアハズの子ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが攻め取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダドから取り返しました。ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り戻したのです。これは17節でエリシャが語った預言の通りです。神のことばは一つも滅びることなく、すべてが成就するのです。

エレミヤ21章1~10節「いのちの道か死の道か」

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きょうは、エレミヤ書21章から「いのちの道か死の道か」というタイトルでお話します。
  私たちの人生は、選択の連続です。選択といってもwashingの「洗濯」ではありません。Choiceの「選択」のことです。確かに、人間の力では選択しようがないこともあります。たとえば、誰の下に生まれてくるかとか、そのようなことは選択のしようがありません。それは人間の領域をはるかに超えた出来事です。しかし、私たちが今いる場所とか環境は、そうした選択を積み重ねてきた結果であるということも事実です。瞬間、瞬間、どの道を選ぶかによって、私たちの人生の結末が決まります。
  先ほど読んでいただいたエレミヤ21章8節で、主はイスラエルの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。私たちの前には常にいのちの道と死の道が置かれているのです。祝福の道と呪いの道が置かれています。そのどちらかを選ぶかによって結果が決まるのです。

Ⅰ.ゼデキヤ王の懇願(1-2)

まず、1~2節をご覧ください。「1 【主】からエレミヤにあったことば。ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

主からエレミヤに主のことばがありました。これがどのような状況にあった時かを考えてみましょう。この時エレミヤは絶望のどん底にいました。前回のメッセージで見たように、一度は絶望の中にあったエレミヤは、11節にあるように、しかし、主は私とともにおられるということに気付いたとき、落胆する者から賛美する者へと変えられました。

しかしその後、彼は再び絶望の淵に落とされます。この部分は、前回触れませんでした。それが14~18節にある内容です。「14 「私の生まれた日は、のろわれよ。母が私を産んだその日は、祝福されるな。15 のろわれよ。私の父に、『男の子が生まれた』と知らせて、大いに喜ばせた人は。16 その人は、【主】があわれみもなく打ち倒す町々のようになれ。朝には彼に悲鳴を聞かせ、真昼には、ときの声を聞かせよ。17 彼は、私が胎内にいるときに私を殺さず、母を私の墓とせず、その胎を、永久に身ごもったままにしなかったからだ。18 なぜ、私は労苦と悲しみにあうために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか。」」

14節でエレミヤは、自分が生まれて来た日をのろっています。「男の子が生まれた」という知らせは、一般的に大きな喜びでした。後継ぎが出来るということですから。それが祭司の家庭であれば、なおさらの事です。しかし、ここではそんな知らせを告げた者は呪われよと言われています。エレミヤはそれほど落ち込んでいたのです。天国から地獄に突き落とされたかのようです。落胆を克服し賛美に満ち溢れるようになったエレミヤの状況とあまりにも違う姿に、聖書学者の中には、この部分はエレミヤが語ったものではなく別の人が語ったことばではないかとか、別の状況で語られたことばがここに挿入されたのではないかと考える人もいるほどですが、そうではありません。絶望を克服したエレミヤが再び絶望の淵に陥ったのです。どういうことですか。つまり、祝福はいつまでも続かないということです。神様の恵みを心から喜びその幸いに浸ったかと思った次の瞬間、どん底に突き落とされるようなことがあるのです。

エレミヤは偉大な預言者ですが、そんなエレミヤでさえこんなに落ち込んだのです。どんなに偉大な人でも落ち込むことがあります。偉大な牧師であろうと、偉大な信仰者であろうと、だれでも落ち込むことがあるのです。エレミヤはまさにそのような絶望のどん底にいたわけです。そのような時、主はエレミヤに語ってくださいました。どん底にあった者に、主はなおも語り続けてくださったのです。ここに深い神様の慰めを感じますね。

神様がいのちを与えてくださったのに、私は生まれてこなければよかったと聞いたら、神様はどんな気持ちになられたでしょう。あなたの息子があなたにそう言ったらどうですか。あなたの娘があなたにそう言ったらどうでしょう。それほど悲しいことはありません。いたたまれない思いになるのではないでしょうか。エレミヤはそれを神に対して言ったのです。造り主に対して「あなたは私をお造りにならなかった方が良かった」と。「どうして私を産んだのですか」「どうして私にいのちを与えたんですか」と。当然、神様は悲しまれたはずです。その心は痛んだでしょう。人間よりも深い痛みを味わられたはずです。それでも主はエレミヤに語ってくださったのです。これはどういうことかというと、どん底にいたエレミヤを神様は用いられたということです。普通ならもう終わりです。役に立ちません。神の預言者としては失格です。もう別の人と交代となるところですが、でも神様はそうされませんでした。なおもみことばを語ってくださいました。

これは私たちにも言えることです。神が私たちを召されたからには、決して私たちを使い捨てにはなさいません。私たちがどんな状態になろうと、一度召された者には最後まで責任を取ってくださいます。ローマ11章28節にはこうあります。「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」神の賜物と召命は、変わることはありません。これはミニストリーことだけに言えることではありません。クリスチャンとして召された者も同じです。私たちもエレミヤのように落ち込むことがあります。もうまるで信仰がどこかへ行ってしまったかのような状態になることがある。でも神様はあなたを見捨てるようなことはなさいません。一度召された者は、神が最後まで責任を取ってくださるからです。ピリピ1章6節をご覧ください。ここには「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」とあります。すばらしいですね。私たちの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの来る日までにそれを完成させてくださいます。最後までちゃんと面倒みてくださる。ちゃんと支えてくださるのです。ちゃんと引き上げてくださいます。最後の最後まで完成できるように導いてくださるのです。

だから、エレミヤ書を見るといつも慰められます。私も落ち込むことがあるし、投げ出したくなることもあります。え、牧師でもあるんですかと驚く方もおられるかもしれませんが、私でもあるんです。いつもにこにこして何の問題もなさそうな私が、いつも偉そうに振る舞っている私が、落ち込むことなんて考えられないと思うような私でも、落ち込むことがあるんです。たまに。それはエレミヤだけじゃない、私だけじゃない、だれでも同じように絶望のどん底に陥ることがあります。どんなに偉大な聖徒でも、どんなに立派な牧師でも、どんなに信仰歴が長いクリスチャンでも、落ち込むことがあるのです。
  でもそのような時に主がみことばを語ってくださいます。どんなに絶望のどん底にいてもみことばの光が差し込んで来て、みことばが私たちの道の光となり、足のともしびとなって、私たちを引き上げてくださいます。もう一度立ち上がりなさい。わたしの語るみことばを聞きなさい。そしてこれを語りなさいと。主は決してあきらめません。私たちはあきらめてしまいたいという時でも、主は決してあきらめないのです。そしてご自身のみことばを与えて奮い立たせてくださいます。立ち上がらせてくださいます。

では、エレミヤにあった主のことばとは、どのようなものだったでしょうか。その後のところをご覧ください。「ゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わして、2 「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」と言ったときのことである。」

ゼデキヤ王とは、南ユダ王国最後の王です。350年ほど続いた南ユダ王国がついに滅んでしまうことになります。バビロンによって。その時の最後の王がこのゼデキヤです。そのゼデキヤ王が、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言いました。「どうか、私たちのために【主】に尋ねてください。バビロンの王ネブカドネツァルが私たちを攻めています。【主】がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き揚げさせてくださるかもしれませんから」
  ネブカドネツァルとは、ネブカデネザルのことです。ゼデキヤ王はエレミヤに、バビロンの王ネブカデネザルが自分たちを攻めているので、主がかつて、奇しいみわざを行われたように、彼を自分たちのところから引き上げさせてくれるように祈ってほしいと懇願したのです。

どういうことでしょうか。神様の預言のことばが成就したということです。覚えていらっしゃいますか。神に背き続けるユダの民にエレミヤが滅びのメッセージを語ったとき、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか、彼を殺そうとしました。それでひどく落ち込んでいたエレミヤに、主は慰めのことばを語るんですね。それが15章11節のみことばでした。
 「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
 このことばが今ここに成就したのです。ついにその時がやって来ました。敵が彼にとりなしを頼むようになる時が。ゼデキヤがエレミヤにとりなしを頼んだのです。主が語られたことばは必ず実現します。時間はかかるかもしれませんが必ず成就するのです。これはそのことを物語っているのです。すごいですね。神が語られたことは必ず実現します。私たちはここに希望を置きたいですね。

ところで、ここでゼデキヤは「主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行われたように、私たちにも行い、彼を私たちのところから引き上げさせてほしい」と言っています。この「奇しいみわざ」という言葉は複数形で書かれてありますが、この時彼の脳裏にはある一つの出来事があったのは確かです。それは彼の時代から遡ること100年ほど前にあったあの出来事です。この時と全く同じ状況になったことがありました。アッシリヤの王セナケリブ率いる敵の軍隊を、神が滅ぼされたという出来事です。当時南ユダはヒゼキヤという王が治めていましたが、そのヒゼキヤの下にアッシリヤの将軍ラブ・シャケがやって来てエルサレムを包囲したのです。絶体絶命のピンチでしたが、ヒゼキヤ王は預言者イザヤのもとに人を遣わしてとりなしの祈りを要請したのです。するとその夜主の使いが出て来て、アッシリヤの陣営で185,000人を打ち殺したのです。まさに神業です。それでアッシリヤの王セナケリブは陣をたたんで去って行ったのです。そういう出来事があったのです。ですからゼデキヤはあの時のように神が奇してみわざを行ってバビロンの王ネブカデネザルから救ってくれるように主にとりなしてほしいと言ったのです。

確かに、状況は非常に似ています。片やアッシリヤによって、片やバビロンによって包囲されたわけですから。でも違うのは、この時ゼデキヤはただ窮地から救ってくれるように願ったのに対して、ヒゼキヤの場合はそれだけではなかったということです。ヒゼキヤは主ご自身を求めました。彼は衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入り、主に祈りました。彼はただこの窮地から救ってくれるようにというだけでなく、救ってくださる神ご自身を求めたのです。

皆さん、神の助けを求めて祈ることはすばらしいことですが、しかし、もっと重要なことは、そのことを通して神ご自身を求めることです。ゼデキヤは神の助けを求めるだけで神ご自身を求めませんでした。問題の解決を求めても問題を解決してくださる方を求めなかったのです。癒しを求めても癒してくださる方を求めませんでした。自分が欲しいものを求めても与えてくださる方を求めなかったのです。それが叶えられると、「ありがとうございます。もう十分です。あとは自分でやりますから大丈夫です。また必要なときにお願いします。さようなら。」と言って立ち去って行く人のようです。神の奇跡を求めましたが、神との関係を求めませんでした。もう神様しかいない、それで神に助けを求めようとしたのは良かったのですが、彼が求めたのはただそれだけだったのです。使えるものは使っておこうと、まるで神様を駒のように考えていたのです。

  私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。私のところには毎日のようにとりなしの祈りの要請が届きますが、中にはとりなしを要請するだけで教会に一度も来ないという人もおられます。それはゼデキヤと同じす。ただ問題が解決することだけを求めて、神ご自身を求めていないのです。苦しい時の神頼み、それでいいです。でも神様はそれだけで終わってほしくないのです。神様が願っていることは、そのことを通してあなたが神ご自身を求めること、神との関係を持つことなのです。

Ⅱ.イスラエルと戦われる神(3-7)

それに対して、神はどのように答えたでしょうか。3~7節までをご覧ください。「3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。4 『イスラエルの神、【主】はこう言われる。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲むバビロンの王とカルデア人に向かって戦っているが、見よ、わたしはあなたがたが手にしている武具の向きを変え、それを集めてこの都のただ中に向ける。5 わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。6 この都に住むものは、人も家畜もわたしは打つ。彼らは激しい疫病で死ぬ。7 その後で─【主】のことば─わたしはユダの王ゼデキヤとその家来、また、その民と、この都で疫病や剣や飢饉から逃れて生き残った者たちを、バビロンの王ネブカドネツァルの手、敵の手、いのちを狙う者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で討ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれみをかけない。』」

イスラエルの神、主は、エレミヤを通してゼデキヤに何と言いましたか。「あなたがた」とはユダの民のことです。彼らはバビロンの王と戦っているようだけれども、実際はそうではありませんでした。実際は神ご自身と戦っていたのです。5節にはそのことがはっきり言われています。「わたし自身が、伸ばされた手と力強い腕をもって、怒り、憤り、大いなる激怒をもって、あなたがたと戦う。」と。どういうことですか。敵はバビロンだと思っていたら、そうではなくて、神ご自身が彼らと戦っておられたのです。

エルサレムに住む者は、人も家畜も神によって打たれることになります。神が彼らに疫病を送られるからです。それは神が送られるものです。もしその疫病を逃れることがあっても、最終的にバビロンの王ネブカデネザルの手によって殺されることになります。それも神がユダの民をさばくために用いられる道具にすぎません。ゼデキヤにとって、あるいは南ユダの人たちにとって脅威となっているのは実はバビロンではなく、神ご自身だったのです。神ご自身が彼らと戦われるのです。5節には「伸ばされた手と力強い腕をもって」という表現がありますが、これはあの出エジプトの時の、神の偉大なるみわざを表現することばです。それと同じ力をもって今、ゼデキヤ王を頭とする南ユダの人々を神ご自身が打ち滅ぼすというのです。

これは驚くべきことです。今まで彼らは自分たちこそ神の民であり、神に祝福されている者だという自負心がありました。ところが、敵はそうした異教の国々ではありませんでした。敵は何と神ご自身であり、神ご自身が彼らと戦われるというのです。神が疫病を送り、神がバビロンを用いて、彼らの背信の罪を、悔い改めない頑なな心を打ち砕かれるのです。勿論、これは破壊が目的なのではありません。完全に滅ぼし尽くすことが目的なのではありません。彼らを矯正するために、そういう目的のために行われるものです。でも彼らはそんなことは絶対ないと高をくくっていました。だって自分たちは神によって選ばれた特別な神の民だから。そんなことは起きない。神のさばきなんてあり得ないと思い込んでいたのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。イエス・キリストを信じて救われたのだから、神に裁かれるはずなどないと。皆さん、どうですか。イエス様を信じたら神にさばかれることはないのでしょうか。ありません。ヨハネ5章24節にこのようにあります。
  「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
  すばらしい約束ですね。これはイエスさまご自身のことばです。イエスさまのことばを聞いて、イエスさまを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。イエス様を信じたその瞬間に、死からいのちに移っているのです。あなたのすべての罪が赦されたからです。ですから、イエス・キリストを信じる者は永遠のさばきから救われているのです。
  ではここで言われているさばきとは何でしょうか。これは永遠のさばきのことではなく、矯正を目的とした懲らしめのことです。いわゆる訓練のことです。へブル12章7節に、この訓練のことが言われています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」いくら言ってもわからない民に対して、父親がその子をスパンク棒を持って懲らしめるように、神は自身の民を訓練されるのです。これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせるためです。そのスパンク棒こそアッシリヤであり、バビロンなのです。でもそれは訓練を目的としたものであって滅ぼすことが目的ではないのです。

ヤコブ4章4節をご覧ください。ここには、「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」とあります。ここには世を愛することは神に敵対することだと言われています。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)でも、どんなに神が私たちの味方でも、もし私たちが神に背いてこの世を愛するなら、神に敵対する者となってしまいます。そして神はあなたにもバビロンを遣わすことがあるのです。

だから思い違いをしてはいけません。バビロンが敵なのではなく、神があなたの敵となってあなたと戦われるのです。あの人が敵なのではありません。この人が敵なのでもない。もしあなたがゼデキヤのように世を愛するなら、神はあなたに敵対するということを覚えていただきたいと思います。バビロンであろうと、何であろうと、神はあなたを永遠の滅びから救い出すために、あえてすべてを奪うことがあるのです。

Ⅲ.いのちの道か死の道か(8-10)

ですから第三のことは、いのちの道を選びましょう、ということです。エレミヤは、ゼデキヤ王のとりなしの祈りの要請に対して、このように言いました。8~10節をご覧ください。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ─【主】のことば─。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」

主は彼らの前にいのちの道と死の道を置きます。だから、そのどちらかを選ばなければなりません。いのちの道とは、彼らを取り囲んでいるバビロンに降伏して、捕囚の民としてバビロンに引き連れて行かれることです。どうしてそれがいのちの道なのか不思議に思う方もおられるかと思いますが、そうすれば、捕囚の民として生き延びることができるからです。今となってはそれしか生きる道が残されていないからです。一方、死の道とは何か。それは、この都にとどまることです。この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬことになります。これが死の道です。
  中にはエルサレムに残って最後の最後まで徹底抗戦すべきだと主張する人たちもいました。バビロンに投降したらそれこそ終わりだと。そうすれば、家も仕事も家族も何もかも失ってしまうことになるし、同胞からは裏切り者だと指をさされてしまうことになる。だからバビロンには降伏しないでここに踏みとどまった方がいい。最後まで戦い抜いて、自分たちの力で頑張ろうと。しかし、そういう人たちはどうなりましたか。皆、滅んでしまいました。
  バビロンに投降することがいのちの道であり、バビロンに行くことが祝福でした。なぜなら、それが神のことばに従うことだからです。神のことばに従うなら、それが祝福となります。神は捕囚の地でイスラエルの民を再訓練し、彼らに希望を与えようとしておられたのです。たとえそれが狭い門ら入る道であったとしても、それがいのちに至る道なのです。でも広い門から入って行こうとする人が多いのです。それは入りやすく歩きやすいからです。だから、どちらかというと選びやすいのは死の道であり、選びにくいのがいのちの道です。でも私たちは広い門からではなく、狭い門ら入らなければなりません。イエス様も言われました。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13-14)滅びの道ではなくいのちの道を、のろいではなく祝福を選ばなければなりません。あなたはどちらの道を選びますか。

旧約聖書に登場するダニエルと3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、いのちの道を選びました。彼らはまさにこの時代に生きた人たちですが、この神のことばに従って素直に降伏しバビロンに捕え移されました。彼らは王族と貴族の出身でしたから、その地位や名誉を失いました。でもバビロンに連れて行かれ、そこで不遇な人生を送ったでしょうか。確かに激しい迫害に遭いました。ライオンの穴の中に投げ込まれることもありました。異教の地で信仰者として暮らすことは大変な苦労もありました。でも彼らは神が言う通りバビロンに降伏し、いのちの道を選んだ結果、神のいのちと祝福に与りました。

バビロンに降伏することがのろいなのではありません。バビロンに行くことが死なのではないのです。逆です。バビロンに降伏し、バビロンに行くことがいのちの道であり、祝福です。それは神のことばに従うことだからです。神のことばに従うことが祝福であり、いのちです。人間的な観点では死の道のように見えても、神のことばに従うなら、その先に待っているのはいのちであり祝福なのです。私たちの前には常にいのちか死か、祝福かのろいかの二者択一が求められています。すべての人にこの二者択一という神のあわれみ、神の救いのチャンスが提供されています。私たちは死ではなくいのちを、のろいではなく祝福を選択しなければなりません。その選択の基準が神のことばです。どちらかというと私たちは死の道を選びがちです。その道は広く、そこから入って行く人が多いのです。しかし、狭い門から入らなければなりません。いのちに至る門は狭く、その道は細いからです。狭い門から入りましょう。私たちの前にはいのち道と死の道が置かれていますが、私たちはいのちの道を選択しましょう。その道を選ぶ者こそ、人生の勝利者になれるのです。

Ⅱ列王記12章

 今回は、Ⅱ列王記12章から学びます。

 Ⅰ.高き所を取り除かなかったヨアシュ(1-3)

まず、1~3節をご覧ください。「12:1 ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王であった。彼の母の名はツィブヤといい、ベエル・シェバ出身であった。12:2 ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間、いつも【主】の目にかなうことを行った。12:3 ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた。」

ヨアシュは、エフーが北王国で治めていた第七年目に南王国の王となり、エルサレムで40年間治めました。彼の父はアハズヤで、母はツィブヤです。彼女はベエル・シェバの出身でした。

ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えていた間は、いつも主の目にかなうことを行いましたが、彼は、エホヤダの養育から離れてからは変わってしまいます。しかし、エホヤダが教えていた間でも問題がありました。それは、高き所は取り除かなかったということです。「高き所」とは偶像礼拝が行われていた場所です。それは必ずしも彼らが偶像礼拝を行っていたということではありません。彼らはヤハウェーなる神を礼拝していましたが、その高き所で礼拝していたのです。それは明らかにモーセの律法に違反することでした。というのは、申命記12章2~7節、13~14節には、全焼のささげ物を自分勝手な場所で献げないように気をつけなさいとあるからです。彼らは全部族のうちから選ばれる一つの場所、すなわち、エルサレムの神殿で献げものをしなければならなかったのに、この高き所でいけにえをささげることが習慣になっていました。そしてそれを変えられずにいたのです。おそらく、彼は高き所が存在することをさほど問題視していなかったのでしょう。伝統的に、南王国の王たちは高き所を軽く扱ってきたので、ヨアシュも同じような対応をしたのだと思います。

このようなことは、私たちクリスチャンにも見られることです。昔からのしきたりや習慣、言い伝えといったものを取り入れたまま、それをなかなか変えられずにいる場合があります。それらが心の深くに入り込んでいるので、それを変えることが難しいです。けれども、本当に神の方法で礼拝をささげたいと思うなら、それを変えなければなりません。パウロはローマ12章1~2節でこう言っています。

「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

この世と調子を合わせてはいけません。神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられることなのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。

Ⅱ.神殿の修復(4-16)

次に、4~16節をご覧ください。「12:4 ヨアシュは祭司たちに言った。「【主】の宮に献げられる、聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金や、自発的に【主】の宮に献げられる金のすべては、12:5 祭司たちが、それぞれ自分の担当する者から受け取りなさい。神殿のどこかが破損していれば、その破損の修繕にそれを充てなければならない。」12:6 しかし、ヨアシュ王の第二十三年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しなかった。12:7 ヨアシュ王は、祭司エホヤダと祭司たちを呼んで、彼らに言った。「なぜ、神殿の破損を修理しないのか。もう、あなたがたは、自分の担当する者たちから金を受け取ってはならない。神殿の破損にそれを充てなければならないからだ。」12:8 祭司たちは、民から金を受け取らないことと、神殿の破損の修理に責任を持たないことに同意した。12:9 祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。12:10 箱の中に金が多くなるのを確認すると、王の書記と大祭司は上って来て、それを袋に入れ、【主】の宮に納められている金を計算した。12:11 こうして、勘定された金は、【主】の宮で工事をしている監督者たちの手に渡された。彼らは、それを【主】の宮を造る木工と建築する者たち、12:12 石工、石切り工に支払い、また、【主】の宮の破損修理のための木材や切り石を買うために支払った。つまり、金は神殿修理のための出費のすべてに充てられた。12:13 ただし、【主】の宮のための銀の皿、芯取りばさみ、鉢、ラッパなど、いかなる金の用具、銀の用具も、【主】の宮に納められる金で作られることはなかった。12:14 その金は、工事する者たちに渡され、彼らはそれと引き替えに【主】の宮を修理したからである。12:15 また、工事する者に支払うように金を渡した人々が精算を求められることはなかった。彼らが忠実に働いていたからである。12:16 代償のささげ物の金と、罪のきよめのささげ物の金は、【主】の宮に納められず、祭司たちのものとなった。」

ヨアシュ王の最大の貢献は、神殿を修復したことです。これは列王記に出てくる最初の修復です。ヨアシュ王は、そのために主の宮に献げられるお金を充てようとしました。聖別された金のすべて、すなわち、それぞれに割り当てを課せられた金とは、登録されたすべての人が献げる献金のことです。出エジプト記30章11~16節には、それは半シェケルと定められていました。また、自発的に主の宮に献げられる金とは、レビ記27章が規定する特別な誓願を立てた者たちの献げた金のことです。当初、ヨアシュはそのお金で神殿の修復工事をしようと考えていました。それを担ったのは祭司たちです。

ところが、ヨアシュ王の23年になっても、祭司たちは神殿の破損を修理しませんでした。つまり、これらの金では、祭司やレビ人の生活を賄い、神殿での礼拝を維持するだけで精一杯で、神殿の破損か所を修理する余剰金は出なかったのです。それでヨアシュは新しい計画を立て、このプロジェクトから祭司たちを除外しました。

7節に着目してください。ヨアシュは、祭司エホヤダと祭司たちを呼んでそのことを告げました。祭司エホヤダは、彼の霊的な親でもあります。そのエホヤダに命じるほど彼は王として、また霊の人として成長していたことがわかります。彼は7歳で王となり、これはその23年目のことですから、この時彼は30歳だったことがわかります。彼はエホヤダの養育から離れ、霊的な事柄においても識別力を働かせるほど成熟していたのです。

その新しい計画が9節に記されてあります。「祭司エホヤダは、一つの箱を取り、そのふたに穴を開け、それを祭壇のわき、【主】の宮の入り口の右側に置いた。こうして、入り口を守る祭司たちは、【主】の宮に納められる金をみな、そこに入れた。」

要するに、エホヤダは、献金箱を設けることによって宮の修繕のための特別献金枠を設けました。その結果どうなったでしょうか。そうしたら、人々からどんどん金を入れたので、箱がいっぱいになりました。それで、箱の中に金が多くなると、王の書記官と大祭司は上って来て、それを箱から取り出して袋に入れ、主の宮に納められているかを計算しました。

こうして勘定された金は、主の宮で工事をしている監督者たちの手に渡されました。監督者たちはその金を、宮で働く木工や建築師たち、石工や石切り工たちに賃金として支払いました。 ただし、主の宮に納められる金で、主の宮のために銀の皿、心切りばさみ、鉢、ラッパなど、すべての金の器、銀の器を作ることはありませんでした。また、工事する者に支払うように金を渡した人々と、残高を勘定することもしませんでした。彼らが忠実に働いていたからです。すばらしいですね。忠実な者たちが働いていたので、公の会計報告をしなくても安心だったのです。エペソ6章7節には、「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」とあるように、何事も主に仕えるように心を込めて、忠実に仕えるよう心掛けたいと思います。

Ⅲ.ヨアシュの死(17-21)

最後に、17~21節をご覧ください。「12:17 そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取った。さらに、ハザエルはエルサレムを目指して攻め上った。12:18 ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。12:19 ヨアシュについてのその他の事柄、彼が行ったすべてのこと、それは『ユダの王の歴代誌』に確かに記されている。12:20 ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。12:21 彼の家来シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデが彼を討ったので、彼は死んだ。人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。彼の子アマツヤが代わって王となった。」

そのとき、アラムの王ハザエルが上って来てガテを攻め、これを取りました。ハザエルはさらにエルサレムを目指して攻め上って来ました。このハザエルについては、8章で見たように、主君ベン・ハダデを殺して王となりました。それはエリシャが預言した通りでした。その時エリシャは、彼が残虐な仕打ちをイスラエルに対して行なうことを預言しましたが、果たしてそれが今、実現することになります。彼はイスラエルを攻め、さらにユダにまで攻めて来ました。ガテは、イスラエル南部の沿岸地域にある町で、ペリシテ人の町として有名なところでした。ハザエルはそこを攻め、今度はエルサレムを目指して攻め上って来たのです。

それに対してヨアシュはどのように対応したでしょうか。18節をご覧ください。「ユダの王ヨアシュは、自分の先祖であるユダの王ヨシャファテ、ヨラム、アハズヤが聖別して献げたすべての物、および自分自身が聖別して献げた物、【主】の宮と王宮の宝物倉にあるすべての金を取って、アラムの王ハザエルに送った。するとハザエルはエルサレムから去って行った。」

なんとヨアシュは、自分たちの神である主(ヤハウェ)に敵からの救いを祈り求めるのではなく、主の宮にある金をかすめ奪い、それをハザエルに贈り、和平を求めました。霊的堕落です。エルサレムの財宝を手に入れたハザエルは、そのまま去って行きました。

2歴代誌24章には、ヨアシュがどのように堕落したかその経緯が書かれています。祭司エホヤダが死ぬと、ヨアシュはユダの高官たちの影響を受け、アシェラ像とその他の偶像を礼拝するようになりました。それで主は彼と高官たちに預言者たちを送りましたが、ヨアシュと高官たちはそれを無視しました。最後に、祭司エホヤダの子ゼカリヤが立ち上がり、偶像礼拝の罪を糾弾しますが、ヨアシュはそのゼカリヤを石打にして殺すのです。

いったいなぜヨアシュは、このように堕落してしまったのでしょうか?幼い頃から非常に霊的な環境の中に育てられ、大人になってからも霊的な改革を行なっていたのに、どうしてこんなにも堕落してしまったのでしょうか?一言でいえば、「高ぶり」が大きな原因の一つでした。これはヨアシュだけでなく、他のユダの王たちも言えることですが、最初のころは、主に対して熱心だったけれども、主が国を繁栄させ力を増し加えてくださるにしたがって、主ではなく自分を誇るようになり、自分の力でこの国が成り立っているのだと考えるようになったのです。北王国イスラエルでは完全に主から離れているという問題がありましたが、南ユダでは、その霊的な力が逆に仇となって、主の前におけるへりくだりを忘れてしまうという問題があったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちも自分が信仰に歩んでいると思うあまり、いつの間にか高慢になり、神さまの恵みに拠り頼み、必死にあわれみを請う謙虚さを失ってしまう危険があります。私たちはいつも、自分が主のみを自分の分け前としているのか、それとも、主に関する霊的環境に満足して、それに依存してしまっているかを吟味してみる必要があります。主を愛する牧者がいること、互いに愛する兄弟がいること、健全な教会形成なされていること、立派な会堂が与えられていることといった霊的な環境ではなく、ただ主のみを自分の分け前とし、日々、その新しいあわれみにすがっているかが問われているのです。

そんなヨアシュの最後はどうだったでしょうか。20節をご覧ください。「ヨアシュの家来たちは立ち上がって謀反を起こし、シラに下って行くヨアシュをベテ・ミロで打ち殺した。」

彼は彼の家来たちの謀反によって殺されてしまいます。手を下したのは、シムアテの子ヨザバデとショメルの子エホザバデです。この謀反自体は悪です。しかし、それを招いたのはヨアシュ本人でした。正義に支配された王のところに謀反は起こりません。みなが平和に暮らすことができるからです。支配者や指導者が道をそれますと、必ずこのような混乱が生じることになるのです。

21節には、「人々は彼をダビデの町に先祖とともに葬った。」とありますが、彼は王たちの墓には葬られませんでした。2歴代誌24章25節には、「人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった。」とあります。なぜなら、彼は神のさばきを受けて死んだからです。

何ということでしょう。彼は神殿の修復工事に情熱を燃やすほど信仰的な王でしたが、最後は、神殿の財宝を敵に与えても痛みを感じない王になっていました。人生の最後を信仰者として生きるのはなんと難しいことでしょうか。日々、クリスチャンとしての自分の立ち位置を確認しながら歩まなければなりません。