民数記35章

きょうは民数記35章から学びます。

Ⅰ.レビ人の相続地(1-8)

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、その所有となる相続地の一部を、レビ人に住むための町々として与えさせなさい。彼らはその町々の回りの放牧地をレビ人に与えなければならない。町々は彼らが住むためであり、その放牧地は彼らの家畜や群れや、すべての獣のためである。あなたがたがレビ人に与える町々の放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトでなければならない。町の外側に、町を真中として東側に二千キュビト、南側に二千キュビト、西側に二千キュビト、北側に二千キュビトを測れ。これが彼らの町々の放牧地である。主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

まず1節から5節までをご覧ください。ここにはレビ人が受ける相続地について記されてあります。イスラエルの12部族には相続地が割り当てられましたが、レビ人にはありませんでした。それは18章20節に、主ご自身が彼らの相続地であるとあるからです。それで主はモーセを通して、レビ人が住むための町々、また、彼らの家畜の群れや、すべての獣のための放牧地つきの48の町を、イスラエルの所有地のうちからレビ人に与えるようにと命じられました。

彼らに与えられる町と放牧地は、町の城壁から外側に、回り一千キュビトです。1キュビトは約44センチなので、千キュビトは約450メートルになります。5節がどのような意味がよくわかりませんが、これが4節の言い換えと考えれば、以下のように、町自体の城壁の幅+その外側に一千キュビトということになります。               

次に6節から8節までをご覧ください。

「あなたがたが、レビ人に与える町々、すなわち、人を殺した者がそこにのがれるために与える六つの、のがれの町と、そのほかに、四十二の町を与えなければならない。あなたがたがレビ人に与える町は、全部で四十八の町で、放牧地つきである。あなたがたがイスラエル人の所有地のうちから与える町々は、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならない。おのおの自分の相続した相続地に応じて、自分の町々からレビ人に与えなければならない。」すから、東西南北それぞれ900メートルの正方形になります。ヨシュア記21章には、彼らがカナンの地を占領したとき、ここに記されてある通りにレビ人に放牧地つきの48の町が与えられたことがわかります。 」

4節と5節で示された放牧地の町を48レビ人に与えなければなりません。そのうちの6つは、人を殺した者が逃れるための、逃れの町です。のがれの町については11節以降で見ていきたいと思いますが、ここでは、それらの町々はイスラエルの所有地のうちから与えられるということと、大きい部族からは多く、小さい部族からは少なくしなければならないことあります。

ここで興味深いことは、レビ人の町はイスラエル十二部族全体に散らされるような形で置かれたということです。これはどういうことでしょうか。そのようにレビ人がイスラエル全体に散らされることによって、彼らが主に贖われた主の民であることを絶えず思い起こさせ、彼らのうちに主への恐れと敬虔を呼びさましたということです。このことからも、主が、イスラエル全体が祭司の国、つまり神ご自身の国であることを示しておられたのです。

Ⅱ.のがれの町(9-15)

最後に9節から15節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「イスラエル人に告げて、彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるとき、 あなたがたは町々を定めなさい。それをあなたがたのために、のがれの町とし、あやまって人を打ち殺した殺人者がそこにのがれることができるようにしなければならない。この町々は、あなたがたが復讐する者から、のがれる所で、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことのないためである。あなたがたが与える町々は、あなたがたのために六つの、のがれの町としなければならない。ヨルダンのこちら側に三つの町を与え、カナンの地に三つの町を与えて、あなたがたののがれの町としなければならない。これらの六つの町はイスラエル人、または彼らの間の在住異国人のための、のがれの場所としなければならない。すべてあやまって人を殺した者が、そこにのがれるためである。」

 のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。律法には、「人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。」(出21:12)とあります。しかし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こさせた場合、のがれる場所が用意されました(出21:13)。

この「復讐をする者」とは、19節以下の「血の復讐をする者」のことで、ヘブル語で「ゴーエール」という原語が用いられています。この語は、ルツ記で、「買戻しの権利のある親類」(ルツ3:9)と訳されてあるように、奴隷となった親類や、相続地の権利等を買い戻す権利、あるいは、その義務のある当事者に最も近い親類を指す語です。ここでは、殺された者の親類で、殺された者の血を贖う者(出21:23)、報復する義務のある者を指しています。彼らは、相手から事情を聞く前に手を下すことが大いにあり得たので、あやまって人を殺した者を守る必要があったのです。それで、ヨルダン川の東側と西側にそれぞれ三つずつ、北から南まで満遍なく広がった形で置かれました。

 Ⅲ.殺人者に対する規定(16-34)

 最後に16節から終わりまでを見ていきましょう。ここには、殺人者に対する規定が記されてあります。まず16節から21節までをご覧ください。

「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。その殺人者は必ず殺されなければならない。もし、人を殺せるほどの石の道具で人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。あるいは、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせたなら、その者は殺人者である。殺人者は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼と出会ったときに、彼を殺してもよい。もし、人が憎しみをもって人を突くか、あるいは悪意をもって人に物を投げつけて死なせるなら、あるいは、敵意をもって人を手で打って死なせるなら、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は殺人者である。その血の復讐をする者は、彼と出会ったときに、その殺人者を殺してもよい。」

不慮の事故であったのか、それとも故意の殺人であったのかは、手段と動機で計られます。「人がもし鉄の器具で人を打って死なせたら」、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりません。「人を殺せるほどの石の道具」の場合も同様です。また、人を殺せるほどの木製の器具で、人を打って死なせた」場合も同じです。それは故意による殺人で、その者は、必ず殺されなければなりませんでした。血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよいし、彼と出会ったときに、彼を殺しても構いませんでした。

次に動機です。「憎しみ」「悪意」「敵意」をもって死なせるなら、それは故意の殺人であって、その者は必ず殺されなければなりませんでした。その血の復讐をする者は、彼と出会った時に殺しても構いませんでした。たとえ逃れの町にのがれたとしても、そこから追い出して、血の復讐をする者に引き渡すことができたのです。

次に22節から29節までをご覧ください。

「もし敵意もなく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。もし、その殺人者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界から出て行き、血の復讐をする者が、そののがれの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺しても、彼には血を流した罪はない。その者は、大祭司が死ぬまでは、そののがれの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後には、その殺人者は、自分の所有地に帰ることができる。これらのことは、あなたがたが住みつくすべての所で、代々にわたり、あなたがたのさばきのおきてとなる。」

 ここでは、過失致死の場合の取り扱いについて語られています。すなわち、もし敵意なく人を突き、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでなければ、その人をどうするかということです。これは、たとえば、一緒に木こりの仕事をしていて、斧の頭が取れて同僚の頭にぶつかり、死んでしまった、といった場合です。その場合は、会衆が、殺人者とその血の復讐をする者の間に入って、それが故意によるものなのか、過失によるものなのかを前述の規定に従って判断し、もしそれが過失による殺人の場合であれば、彼をその復讐する者の手から救い出し、彼が逃げ込んだその逃れの町に返してやらなければなりません。彼は聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。これはどういうことかというと、確かにそれは意図的なものでなく、偶発的なものであったとしても、血を流したことに対しては贖いが求められたということです。大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものだったのです。

なぜ大祭司の死がその贖いのために十分だったのかというと、この大祭司は大いなる大祭司であられるイエス・キリストの型であったからです。すなわち、それはイエス・キリストの死を表していたからなのです。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができるようになったのです。従って、あやまって人を殺した場合は、聖なる油が注がれた大祭司の死まで、自分の家族から離れて、亡命の状態にとどまることが要求されたのです。

従って、もしあやまって人を殺した者が、自分が逃げ込んだのがれの町の境界の外に出て行ったために、血の復讐者が彼を見つけて殺しても、血の復讐者にはその罪は帰せられません。なぜなら、あやまって人を殺した者は、大祭司が死ぬまでのがれの町にとどまっていなければならなかったのに、勝手にそこから出てしまうことをしたからです。ただ大祭司の死後は、自分の町に帰ることができました。彼の罪が贖われたからです。

次に30節から34節までをご覧ください。

「もしだれかが人を殺したなら、証人の証言によってその殺人者を、殺さなければならない。しかし、ただひとりの証人の証言だけでは、死刑にするには十分でない。あなたがたは、死刑に当たる悪を行なった殺人者のいのちのために贖い金を受け取ってはならない。彼は必ず殺されなければならない。のがれの町に逃げ込んだ者のために、贖い金を受け取り、祭司が死ぬ前に、国に帰らせて住まわせてはならない。あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。あなたがたは、自分たちの住む土地、すなわち、わたし自身がそのうちに宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエル人の真中に宿るからである。」

殺人者を死刑に定めるには、証人の証言がなければなりませんでした。しかもその証言は複数でなければなりませんでした。ここには何人とは書いてありませんが、申命記17章6節には、「ふたりの証人または三人の証人の証言」とあります。どんな咎でも、どんな罪でも、ひとりの人の証言によっては罪に定めることはできませんでした。また、その証言は偽りの証言をしてもなりませんでした。

また死刑にあたる罪を行った殺人者の場合、殺人者のいのちのための贖い金を受け取って、彼を赦してはなりませんでした。それは必ず殺されなければならなかったのです。なぜなら、33節にあるように、血は土地を汚すからです。すなわち、血を流す罪、殺人が行われた時に、血は汚されたのです。その土地が贖われるには、その血を流した者の血が流され、贖われなければならなかったのです。イスラエルは、自分たちの住む土地、すなわち、主がそのうちに宿る土地を汚してはならなかったのです。主である神が、その真ん中に宿るからです。

このことは、私たちにも言えることです。ヘブル書9章22節には、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」とあるように、私たちの心の汚れは、イエス・キリストの血によってしかきよめられることはできません。イエス・キリスの血だけが、私たちをすべての悪からきよめてくださり、神がともに宿ることを実現させてくださったのです。

また、一度救われて主の御住まいとなった者が、その霊肉を罪で汚してはならず、もしあやまって罪を犯したならば、罪を言い表してきよめていただかなければならないのです。神は真実で、正しい方ですから、もし私たちが自分の罪を言い表すなら、すべての悪からきよめてくださるのです。

約束の地を前にして、神がモーセを通してこれらのことを語られたのは、彼らが受け継ぐ地を汚すことがでないように、そして、もしあやまって汚すようなことがあったら、このようにしてきよめられることを教えるためだったのです。

民数記34章

きょうは民数記34章から学びます。

Ⅰ.相続となる地カナンの境界線(1-15)

「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に命じて、彼らに言え。あなたがたがカナンの地にはいるとき、あなたがたの相続地となる国、カナンの地の境界は次のとおりである。」

1節と2節をご覧ください。主は、イスラエルが約束の地に入って行ってから彼らに与えられる相続地の境界が示されました。まず南側の境界が3節から5節までに記されてあります。

「あなたがたの南側は、エドムに接するツィンの荒野に始まる。南の境界線は、東のほうの塩の海の端に始まる。その境界線は、アクラビムの坂の南から回ってツィンのほうに進み、その終わりはカデシュ・バルネアの南である。またハツァル・アダルを出て、アツモンに進む。その境界線は、アツモンから回ってエジプト川に向かい、その終わりは海である。」

南側の境界は、エドムに接するツィンの荒野、すなわち、塩の海の端に始まります。そしてアクラビムの丘陵地帯の南側から回ってツィンの荒野の方に進み、その終わりはカデシュ・バネアの南です。それからエジプト川まで続き、地中海に達します。これが南の境界線です。

6節には西の境界線が記されてあります。それは地中海とその沿岸です。何もありませんので、これはよくわかります。

では北側の境界線はどうでしょうか。7節から9節にあります。

「あなたがたの北の境界線は、次のとおりにしなければならない。大海からホル山まで線を引き、 さらにホル山からレボ・ハマテまで線を引き、その境界線の終わりはツェダデである。ついでその境界線は、ジフロンに延び、その終わりはハツァル・エナンである。これがあなたがたの北の境界線である。」

ホル山やツェダデがどこなのかその位置が明確ではありません。ただハツァル・エナンの場所はある程度特定されているので知ることができますが、それは驚くことに今のレバノンの北、そしてシリヤのところにまで及んでいるのがわかります。イスラエルに約束された地は、かなりの領域にわたっていたことがわかります。

そして東の境界線については10節から12節までにあります。

「あなたがたの東の境界線としては、ハツァル・エナンからシェファムまで線を引け。その境界線は、シェファムからアインの東方のリブラに下り、さらに境界線は、そこから下ってキネレテの海の東の傾斜地に達し、さらにその境界線は、ヨルダンに下り、その終わりは塩の海である。以上が周囲の境界線によるあなたがたの地である。」

キネレテの海とはガリラヤのヘブル語です。ですから、これはガリラヤ湖のことです。そこからヨルダン川を下り、その終わりが塩の海までの領域です。ヨルダンの東側については既にガド族とルベン族、マナセの半部族が相続していたので、それを除く残りの9部族と半部族が受け継ぐべき地が示されているものと思われます。それは次の箇所にこう記されてあるからです。13節から15節までをご覧ください。

「モーセはイスラエル人に命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする土地である。主はこれを九部族と半部族に与えよと命じておられる。ルベン部族は、その父祖の家ごとに、ガド部族も、その父祖の家ごとに相続地を取っており、マナセの半部族も、受けているからである。 この二部族と半部族は、ヨルダンのエリコをのぞむ対岸、東の、日の出るほうに彼らの相続地を取っている。」

イスラエルに約束された相続地は、くじによって決められました。これは箴言16:33にあるように、そのすべての決定は主から来るとあるからです。彼らは自分たちによって決定するのではなく、その決定のすべてを主にゆだねたのです。

ここで創世記15章18節から21節までを開いてください。ここには神がアブラハムに与えると言われた土地が記されています。そして、何とここにはエジプト川からユーフラテス川までとあります。ユーフラテス川というのはアラビヤ半島へ注ぎ込むユーフラテス川の上流域のことです。それはこの相続地の北の境界線にありました。ですから、彼らはアブラハムに約束された地のほとんどを相続するようになったのです。

Ⅱ.土地分配の仕方(16-29)

最後に、16節から29節までをご覧ください。

「主はモーセに告げて仰せられた。 「この地をあなたがたのための相続地とする者の名は次のとおり、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアである。あなたがたは、この地を相続地とするため、おのおのの部族から族長ひとりずつを取らなければならない。」

ここには、この地をどのように相続すべきかのもう一つの点が記されています。それは。相続地とする者が選ばれ、彼らを通して割り当てがなされていったということです。今でいうと遺言執行人のような役割を果たした人です。それが祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアでした。彼らの下にイスラエルのそれぞれの部族から族長をひとりずつ取り、割り当てられました。日本でもそうですが、遺産相続をめぐっては本当に多くの問題が起こります。そのことが原因で家族がいがみ合って、憎み合って、もう口も利かないというケースにも発展することも少なくありません。そういうことがないように、遺言執行人を定め、公正に遺産を相続するようにしていますが、ここでも祭司エリアザルとヌンの子ヨシュアという遺言執行人を立て、彼らを通してそれぞれの部族に相続したのです。

 さて、このようにして神が約束してくださった地の相続が行われたわけですが、ここで私たちが覚えておかなければならないことは、私たちにも神からの割り当て地が与えられているということです。それは想像を絶するような霊的遺産です。それは天の御国です。それが私たちに約束されているのです。であれば、ガド族やルベン族のように、ここは居心地がいいからここに留まっていようとしたり、この地上のものに執着し、神が約束してくださったものを手に入れることができないというようなことがないように注意すべきです。いつも与えられた約束の地を見て、そこを目指してただ前進していかなければなりません。もし目の前に石像や鋳造があれば、あるいは高き所があれば粉砕し、ただひたむきに約束の地を目指して進まなければならないのです。パウロはこう言いました。

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどとは考えていません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)

主はあなたを約束の地、天の御国に必ず導いてくださいます。そこに入って行くことができるのです。想像を超えたこの御国を、相続する者とさせていただく者として、ひたむきに前のものに向かって進み、目標目指して一心に走る者でありたいと思います。

ヘブル2章10~18節 「人となられたイエス・キリスト」

  きょうは、2章10節から18節のみことばから、「人となられたイエス・キリスト」というタイトルでお話したいと思います。前回は、特に2章9節のみことばから、御使いよりも、しばらくの間、低くなられたイエスについてお話しました。ユダヤ人は、御使いは人間よりも高い地位にあると理解していたので、イエスが人となられたということはその御使いよりも低くされたことを意味していました。いったいなぜ、キリストは、御使いよりも、低くされなければならなかったのでしょうか。それは私たちを罪から救うためでした。9節には、イエスは苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになられました、とあります。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものだったのです。イエスが人となられ、十字架で死んでくださったことによって、すべての人の罪が贖われたのです。ですから、このイエスを信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

そして、10節のところを見ると、それは万物の存在の目的であり、また原因である方として、ふさわしいことであったとあります。万物の存在の目的であり、また原因である方というのは父なる神のことです。それは父なる神にとってふさわしいことでした。なぜなら、神は万物の存在の目的であり、また原因でもあられるからです。すべてのものはこの方によって造られました。ですから、神は万物の存在の目的であり、原因であられる方なのです。すべてはこの神の栄光のために存在しているのです。それは人間も例外ではありません。私たち人間も神によって造られました。ですから、私たちは神の喜びと栄光のために生きているのです。このことがわからないと何をしても喜びがありません。いくら頑張って、真面目に生きたとしても、たとえすべての物を手に入れたとしても虚しいのです。心はいつもカラカラに渇いて平安がありません。

ですから、昔の聖人パスカルはこう言いました。「私の心には、本当の神以外には満たすことかのできない、真空がある。」また中世の偉大な神学者であり、哲学者であったアウグスティヌスもこう言いました。「神よ。私の心には、あなたの中で休むときまで揺れ動いています。」人はまことの神の出会い、神の救いを受け、神の栄光と喜びのために生きることがなければ虚しいのです。そのために神はご自分の御子を十字架につけてくださいました。その苦しみを通して、救いの道が開かれたのです。ですから、イエスが救いの創始者です。イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。私たちは、ただこのイエスを救い主と信じるだけで救われるのです。

では、この神の恵みによって、いったい何がもたらされたのでしょうか。きょうは、このことについて三つのポイントでお話します。 

 Ⅰ.兄弟と呼んでくださる(10-13) 

 第一に、そのことによって神の家族の一員に加えられました。11節から13節までをご覧ください。

「聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。」

 「聖とする方」とはイエスさまのことです。また、「聖とされる者たち」とは、私たちのことです。「すべて元は一つです」というのは、父なる神のことを示しています。ですから、これは、「聖めてくださるイエスも、聖められる私たち」も、皆一人の父である神を持っています。」という意味です。それで、主イエスは私たちを兄弟と呼ぶことを恥じとしないで、私たちとともに神を賛美しようというのです。これはものすごいことではないでしょうか。私たちがイエスを救い主と信じたことで、イエスさまが私たちのことを兄弟と呼んでくださるのです。また、それを恥じとなさいません。 

先日、ノーベル賞の発表があり、ノーベル医学生理学賞に山梨県韮崎市出身の大村智さんが選ばれました。大村さんは5人兄弟の2番目の子供さんですが、メディヤはその喜びを伝えるために、早速実家のある韮崎市に生き、お姉さんの山田敦子さんにインタビューしました。すると山田さんはその喜びをこう言いました。「昨夜は、自宅で夕飯の支度をしていたら、テレビを見ていた夫が『智さんがノーベル賞を受賞したよ』といったので『えー』と台所から飛んできて見入りました。智には、おめでとう、よくやったねと言いたいです。弟は、小学生のころは、やんちゃなところがあり、近所の友達と、けんかしていたこともありました。ただ、いつも思うのは、弟が、ひとりで、ここまできたのではなく、周りの人に恵まれたことが、最高に幸せだったのではないかと思います。これからも、皆さんに感謝しながらがんばってほしい。」大村さんがノーベル賞を受賞したことで、お姉さんはそのノーベル賞を受賞した大村さんのお姉さんと呼ばれるようになったのです。別にお姉さんが何かしたわけではありませんが、大村さんのお姉さんということで、その栄誉の一員に加えられたわけです。それは私たちも同じで、私たちは神の子イエス・キリストを信じたことでイエスさまを長男とするその兄弟に、ノーベル賞どころかこの天地万物を造られた神の御子の兄弟、神の家族の一員に加えられたのです。 

信じられません。全くおこがましい限りです。私たちはしばしば自分たちがイエスさまを信じていることさえ恥じたりすることがありますが、そんな私たちを、イエスさまは「兄弟」と呼んでくださるのです。そして、それを恥とはなさいません。何という恵みでしょうか。造り主と造られた者ではレベルが違います。また、救い主と救われる者とでは立場が違います。聖とする方と聖とされる者とでは全く質が違います。それなのに、主は私たちをご自身と同じ「兄弟」と呼んでくださるのです。それは恵みではないでしょうか。 

 Ⅱ.死の恐怖から解放してくださった(14-16) 

 第二のことは、そのようにイエスさまが人となって来られ、十字架にかかって死んでくださったことによって、死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったということです。14節と15節をご覧ください。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

 十字架の苦しみと復活によって、なんとすばらしい結果がもたらされたことでしょう。それによって死が滅ぼされました。人にはいろいろな恐れがありますが、その中でも最も恐ろしいのは死ではないでしょうか。死は人からすべてのものを奪ってしまいます。家族を奪い、友人を奪い、これまで積み上げてきた地位や名誉や財産のすべてを奪います。しかもそれは何の予告もなしに、ある日突然やってくるのです。だれもそれから逃れることはできません。私たちの人生にはいろいろな問題がありますが、この死の問題こそ究極の問題であり、最大の問題です。そして、この死の問題に明確な解決を持っていなければ、何のために生きているのか、その生の意味さえも見えてこないわけです。結局のところ、死んでしまえばすべてが終わりなのですから。泡となって消えてしまいます。ですから、いつも死に怯えていなければならないのです。 

 しかし、神はこの死の問題に解決を与えてくださいました。神の御子が私たちと同じように肉体を持った人となって来られることによって、その死によって、悪魔という死の力を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださったのです。ここにキリストが私たちと同じ肉体をもって生まれた理由があるのです。それは、キリストが十字架で死なれ、そして三日目によみがえることによって、悪魔が握っていた死の力を完全に打ち破るためだったのです。ですから、クリスチャンにとっては、死はもはやのろいではなく、天国への入り口になりました。クリスチャンといえども造られた者にすぎませんから、肉体の死を免れることはできませんが、その死の意味が全く変わりました。もはや罪の刑罰という意味での死は取り除かれ、天の御国で永遠に主とともに生きる時に変えられたのです。もはや死ぬことは少しもこわくはないのです。一般的には「死」ということばさえ忌み嫌われ、考えたくもないし、会話にもしたくないことですが、クリスチャンにとっては、むしろそれは天国でイエスにお会いできるという喜びの時となったのです。これはものすごいことではないでしょうか。

今年8月1日に全日本リバイバルミッションの滝元明先生が召天しました。85歳でした。その葬儀が8月14日に、凱旋式・リバイバル感謝聖会として新城市文化会館で行われましたが、その中で、1993年に行われた甲子園ミッションで滝元先生が語られたメッセージが上映されました。先生はそのメッセージの中で、こう言われました。「私は19歳で教会に行き2回目で信じました。洗礼の時に、伝道者になって世界中に行きたいと祈り、神様はその祈りを聞いてくださり、痔(じ)も癒やされました。他の宗教でも癒やしはあります。しかし、罪の赦しはキリスト教だけです。神様はあなたの家庭を祝福し、あなたを千代まで祝福すると言います」「イエス様を信じる者は永遠の命を与えられます。それまで死ぬことが怖かったですが、この言葉で怖くなくなりました。私の父も母もイエス様を信じて天国に帰りました。このキリストを信じましょう」すばらしいですね。死はもはや滅ぼされました。確かに肉体は滅んでも、そのたましいは主のもとにあげられ、そこで永遠に主とともに生きているのです。 

大沢バイブルチャーチの関根辰雄先生が、聖書学校を出て最初に赴任した足利の教会の隣に、お寺が管理している墓地がありました。そしてその墓地の中に、一際目立った大きなお墓があったそうです。それはその町の名士であったらしい人のお墓のようでしたが、その墓標にはこう辞世が記されてありました。辞世というのはこの世を去る時に読む詩のことですね。 

「行く先の知れぬ旅路や 衣替え」 

さあ、これから衣を着替えて新しい旅に出かけようというのに、どこに行くのかがわからないのです。行く先の知らない旅に出ることほど不安なことはありません。おそらくこの方は家族のために尽くし、社会のために貢献し、その人なりに生きられたのでしょう。でもその人生の終わりが来たとき、どこに行くのかがわからないとしたら、それこそ虚しいのではないでしょうか。関根先生はしばらくそこに立ち止ってじっと眺めていましたが、何とも寂しく、はかなさを感じたそうです。 

しかし、そのお墓のすぐ近くにもう一つの墓碑があったそうです。それはどうやらクリスチャンの墓のようで、そこにはこう記されてありました。 

「我らの国籍は天にあり」 

ハレルヤ!!!自分は死んで終わりではない。よみがえるのだ。私のたましいは、私を造られた主のもとに帰るのであって、消えて、無くなのではない。私の国籍は天にあるのだ。そのように告白して歩める人は、どんなに幸いなことでしょう。それは、死に完全に勝利した人の姿です。イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きるのです。死はもはやキリストにある者を縛ることはできません。キリストが死んで、三日目によみがえられたことによって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれていた人々を解放してくださったからです。あなたも天から恵みを頂いて、このような人生の最後を飾ってください。 

Ⅲ.あわれみ深い大祭司となるため(16-18) 

キリストはなぜ人となって来られたのでしょうか。第三に、それはあわれみ深い大祭司となられるためです。17節と18節をご覧ください。

「主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

 大祭司とは、民に代わって、神にとりなしをする人のことです。イエスは、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、すべての点で私たちと同じようになられました。それは私たちの罪のために、なだめがなされるためです。大祭司は、年に一度、至聖所と呼ばれる所に入って、契約の箱の贖いの蓋の上に、血をふりかけて、イスラエルの民の罪のなだめを行ないました。神が人の罪に対して怒っておられるからです。その怒りがなだめられるように、そこで動物のいけにえの血が振り注がれたのです。イエスがそのなだめの供え物となられました。御子イエスが私たちの罪のために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださったので、私たちに対する神の怒りは完全に取り除かれたのです。ですから、もう神は怒っておられません。あたなが自分の罪を悔い改め、神の御子を救い主と信じたことで、あなたは神の子とされたからです。もうあなたは神の怒りの対象ではなく、愛の対象へと変えられたのです。いったいなぜイエスが人となって生まれなければならなかったのでしょうか。このなだめがなされるためでした。そのためにイエスは、私たちと同じように、罪深い肉と同じ姿にならなければならなかったのです。 

ではキリストはどのような大祭司なのでしょうか。ここには、あわれみ深い、忠実な大祭司とあります。キリストは、あわれみ深い、忠実な大祭司となられるために、すべての点で私たちと同じようにならなければならなかったのです。それは、キリストが私たちと同じように肉体に弱さを持っておられたことを意味しています。私たちと同じように肉体の疲れや痛みを経験されました。また、心の苦しみ、叫び、悲しみも経験されました。イエスさまがベタニヤ村のマルタとマリヤの家に行ったとき、弟ラザロが死に、マリヤと人々が泣いているのをご覧になったとき、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、涙を流されたとあります(ヨハネ10:35)。イエスさまは、罪は犯されませんでしたが、すべての点で私たちと同じようになられたのです。 

ですから、私たちが受けている誘惑、または試練といったものを、イエスさまが知らないものは何一つありません。私たちが日々の生活の中で、「このことは、だれにもわかってもらえない。」という苦しみがあるでしょう。けれども、主はそのすべてを知っておられます。なぜなら、人となられたときに、その試みのすべてを経験されたからです。ですから、すべてのことを知っておられるイエスさまに、力をいただくため、大胆に神の恵みに御座に近づくことができるのです。 

私たちが日々の生活の中でいろいろな苦しみに遭い、その重圧に押しつぶされてしまいそうになるとき、自分だけが苦しい目に遭っているわけではないということを知ることは大切なことです。自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと、耐えがたさを感じるでしょう。しかし、それが自分だけでなく、イエスさまも同じように試みを受けて苦しまれたということがわかるとき、心に励ましを受けます。なぜなら、この方は私たちと同じようになられたので、同じような試みにある人を助けることができるからです。 

昨日スーパーキッズがあって、2階でお母さんたちのバイブルスタディーがありましたが、その中に先天性の脳の病気を抱えたお子さんを持つお母さんが参加されました。この方の赤ちゃんは3歳になりますが、生まれてからほとんど成長できず、立つことも、話すこともできないでいましたが、1か月前に気管支炎にかかり病院に入院してから体調が悪化し、眠ろうとするとパニックになるので眠ることもできず、もうどうしたらいいかわからないで苦しんでおられました。自ら命を断とうとさえ思ったほどです。ところがそこに、同じような苦しみを経験された人がいて、涙ながらにそのこと話してくれると、その方はこれまで抱えていた肩の荷が降ろされたというか、とても慰められたかのようでした。それは「私だけじゃないんだ」「みんな同じような苦しみを通っているんだ」ということがわかったからです。

このように、自分だけじゃないということがわかるとき、心に大きな慰めを受けるのです。イエスさまは私たちと同じようになられたので、私たちの弱さを十分理解することがおできになるのです。 

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができないような試練に遭われることはなさいません。試練とともに脱出の道を備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13) 

私たちは、自分だけが特別に苦しい目に遭っていると思うと耐えがたさを感じるかもしれません。しかし、私たちの大祭司であられるイエスさまも、私たちと同じ苦しみを体験されたのです。その方がいま、私たちの大祭司として、天でとりなしていてくださいます。ただ天にいて、下界を「どれどれ」と眺めているのではありません。すべての点で私たちと同じようになられ、同じ試みに遭われ、同じ苦しみをなめられたそのお方が、今、天において私たち一人一人のために、その名を挙げてとりなしの祈りをしてくださっているのです。なんと驚くべき恵みでしょうか。もし御使いを助けるのであれば、わざわざ肉体を取られることはなかったでしょう。しかし主は御使いを助けるためではなく、アブラハムの子孫、これは私たちクリスチャンのことですが、私たちを助けるために来られたので、私たちと同じようになられたのです。それは私たちが経験するすべての苦しみを理解することができ、またそのように試みられている人たちを助けるためです。 

人間の大祭司なら落ち度もあり、失敗もあるでしょう。しかし、神の大祭司はあわれみ深い方です。また忠実なお方です。忠実ということは、本当に信頼できるということです。このようなお方が私たちのすぐそばにいて、私たちを助けてくださることを思うと、本当に励まされるのではないでしょうか。私たちにどのような問題があっても、この方はどんな問題でも、すべての問題に解決を与えることができる方なのです。こんなすばらしい救い主がほかにいるでしょうか。 

 ですから、使徒の働き4章12節にはこうあるのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 あなたが助けを求める方はこの方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。この御名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。あなたは、この方に信頼していますか。この方を信じて救われていますか。もしまだでしたら、今日信じていただきたいと思います。信じて救われ、死の恐怖から解放されてください。そして、どのような苦しみからも救い出し、助けることができるキリストの力を体験してください。もう既に信じている方は、どうかこの確信にしっかりと留まってください。押し流されませんように。この方から目を離さないで、この方に信頼して歩み続けてください。そうであれば、どのような問題があっても勝利ある歩みをしていくことができるからです。キリストが人となってこの世に来てくださったのは、あなたを十分理解し、あなたを助け、あなたを救うためだったのです。

民数記33章

きょうは民数記33章から学びます。

Ⅰ.イスラエル人の旅程(1-49)

 1. 出エジプト(1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。

「モーセとアロンの指導のもとに、その軍団ごとに、エジプトの地から出て来たイスラエル人の旅程は次のとおりである。モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。エジプトは、彼らの間で主が打ち殺されたすべての初子を埋葬していた。主は彼らの神々にさばきを下された。」

ここには、イスラエルがエジプトを出てから今の時点、すなわちヨルダン川のエリコの向かいにあるモアブの草原までどのように導かれてきたかの旅程が記されてあります。まず4節までのところには、彼らがエジプトを出た時のことがまとめられています。まずイスラエルはモーセとアロンの指導のもとに、軍団ごとにエジプトから出発しました。それは1年後にシナイの荒野で整備されたような整えられたものではありませんでしたが、ある程度の秩序を保っていたことがわかります。そうでないと約60万人の男子と、女子、こどもを加えて200万人を超える人たちと、多くの家畜を引き連れて一夜のうちに旅立つことは困難だったからです。ここで強調されていることは、彼らは「全エジプトが見ている前を臆することなく出て行った。」ということです。それは主が力強い御手によって連れ出されたからです(出エジプト13:9,14,16)。

2. 第一段階~エジプトからシナイの荒野まで~(5-15)

次に、5節から15節までをご覧ください。ここにはエジプトを出てからシナイ山までの旅程が記されてあります。ここではまず8節の「ピ・ハヒロテから旅立って海の真ん中を通って荒野に向かい」ということばが強調されています。これは出エジプト記14章にある出来事ですが、イスラエルがエジプトを出た後、背後からエジプト軍が追ってきましたが、目の前間は紅海で全く逃げ場を失うという絶対絶命のピンチの中で、主が奇跡的なみわざによって海の真ん中に乾いた道を作られ、それを通って救われましたことが書かれてあります。

それから9節の、「エリムには12の泉と、70本のなつめやしの木があり、そこに宿営した」ということも強調されています。そこではどんなことがあったでしょうか。これは出エジプト15章にある出来事ですが、彼らは荒野の旅の中で水がなく苦しんでいたときマラという所に来て水を見つけましたが、その水は苦くて飲むことができませんでした。それでモーセが主に叫ぶと、主が1本の木を示されたのでそれを水の中に投げ入れました。するとそれは甘くなり、飲むことができるようになりました。それで彼らはエリムに到着することができました。それは、彼らが主の命令に聞き従うなら主は彼らをいやし、なつめやしの木のように潤してくださることを教えるためのものでした。

そして、14節の「レフィデム」に宿営したことについて、それぞれ簡単な出来事が記録されています。そこでも彼らは、飲み水がなく大変苦しみました。しかし、モーセがホレブの岩の上に立ち岩を打つと、そこから水が流れ出ました。彼らは主を信じることができず主と争ったため、そこはマラ(争う)と名付けられましたが、大切なことはどんな時でも主の御声に従うことであるということを学びました。そして、レフィデムではもう一つの大切な出来事がありました。それはアマレクとの戦いです。ヨシュアが戦い、モーセが祈りの手を上げて祈ったことで、彼らは勝利することができました。

3. 第二段階~シナイの荒野からリマテまで~(16-18)

次に16節から18節までをご覧ください。ここにはシナイの荒野からリマテまでの旅程が記されてあります。ここから民数記に記録されてある内容です。彼らはシナイの荒野で律法が与えられ、幕屋が与えられ、また大掛かりな人口調査が行われ、軍隊が編成されて、神の民として整えられてシナイの荒野からカナンの地に向かって出発しました。それはエジプトを出た第二年目の第二の月の二十日のことでした(民数記10:11)。

キブロテ・ハタアワでは、イスラエルの民が食べ物のことでつぶやいたので、うずらが与えられましたが、主は彼らの欲望に対して怒りを燃やし、激しい疫病で民を打たれたので、欲望にかられた民はそこで死に絶えました。ここで印象的なみことばは民数記11:23の「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今にわかる。」というみことばです。主の御手が短いことはありません。主はどんなことでもおできになる方です。私たちに求められていることは、この主にただ従ことなのです。

ハツェロテでは、ミリヤムとアロンがモーセに逆らったのでミリヤムは神に打たれてらい病になりました。

そして18節にはリテマに宿営したとありますが、このリテマとはどこにあるのかがよくわかりません。そして、ハツェロテの後で、この荒野の旅程で最も悲劇的な事件が起こりましたが、そのことについてここには全く記録されていないのが不思議です。それはカデシュ・バルネアでの出来事でした。約束の地まで間もなくというところにやって来たとき、イスラエルはその地を偵察すべく12人のスパイを送るのですが、そのうちの10人は否定的な情報をもたらし、そのことを信じたイスラエルの民は嘆き悲しみました。彼らは主のみことばに従いませんでした。主は「上って行って、そこを占領せよ。」と言われたのに、彼らは民のことばを信じておびえてしまったのです。それでイスラエルはその後38年間も荒野をさまよってしまうことになりました。ただヌンの子ヨシュアとカレブだけが主に従い通したので、後に約束の地に入ることができましたが、その他の20歳以上の男子はみな荒野で死に絶えてしまいました。あの最大の事件がここに出ていないのです。なぜでしょうか。民数記12:16には、「ハツェロテから旅立ち、パランの荒野に宿営した」とあり、13:26には、「パランの荒野のカデシュ」とあることから、この二つの荒野の近くにあったのがこのリテマではないかと考えられているからです。つまり、このリテマこそがカデシュ・バルネアではないかと考えられているのです。

  1. 第三段階~リテマからホル山~(19-40)

次に、19節から40節までをご覧ください。ここにはそのリテマからホル山までの旅程が記されてあります。これがいつの出来事なのかははっきりしていませんが、おそらくカデシュ・パルネアでの出来事の後の38年に及ぶ旅程ではないかと思われます。エジプトを出てから40年目の第五の月の一日に、アロンはこのホル山で死にました。それはメリバの水の事件(民数記20:11)で、モーセとアロンは主に従わなかったからです。それで彼らは約束の地に入ることができませんでした。

  1. 第四段階~ホル山からモアブの草原まで~(41-49)

イスラエルの旅程の最後はホル山からモアブの草原までの道のりです。41節から49節までをご覧ください。彼らはホル山からエドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った(民数記21:4)ので、まず南に下り、エツヨン・ゲベルまで南下して、次いでエドムを避けながらプノンまで北上したものと思われます。そしてやっとの思いで今、約束の地に入る手前まで来たのです。

 

それにしても、いったいなぜここで40年間の荒野の旅路を書き記す必要があったのでしょうか。これは主の命令であったとありますから、そこには何らかの主の意図があったものと思われます。おそらくそれは、それが力強い主の御手によって導かれたことを示すねらいがあったのでしょう。それは「旅立って、宿営した」という言葉が何回も繰り返されていることからもわかります。彼らは雲の柱と火の柱によって導かれました。彼らはその時は、雲しか見えなかったかもしれません。夜は火の柱しか見えません。けれども、振りかえれば、主が行なわれた道を辿ることができたのです。アメリカのカルバリーチャペル牧師チャック・スミスはこう言っています。

「イエス・キリストの愛の御手に自分の永遠の運命を信仰によってお任せしたら、神が働かれているのを確かに見ることができるでしょう。そしてあなたの人生の出来事や状況を、麗しいモザイクに形づくられているのを知ります。それは、あなたの周りにいる人々にご自分の御子を明らかにするためです。あなたが生まれた時以来、この方の御手があなたの上にあります。」

私たちも今はわからないことがありますが、確かに主は雲の柱と火の柱をもって私たちを導いておられるのです。主の御手がいつも私たちの上に置かれているのを見て、信仰をもってそれにすべてをゆだねつつ、信仰の旅路を歩ませていただきたいと思います。

Ⅱ.カナンの地に入るとき(50-56)

 最後に50節から56節までをご覧ください。

「エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて彼らに言え。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときには、その地の住民をことごとくあなたがたの前から追い払い、彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造をすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならない。あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住みなさい。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである。あなたがたは、氏族ごとに、くじを引いて、その地を相続地としなさい。大きい部族には、その相続地を多くし、小さい部族には、その相続地を少なくしなければならない。くじが当たったその場所が、その部族のものとなる。あなたがたは、自分の父祖の部族ごとに相続地を受けなければならない。もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。」

ここには、カナンの地に入る時に守るべき事柄が語られています。それは、その地の住民をことごとく彼らの前から追い払うようにということです。彼らの石像をすべて粉砕し、彼らの鋳造もすべて粉砕し、彼らの高き所をみな、こぼたなければならないのです。なぜでしょうか?それは主の土地であって、彼らが所有するように、主が彼らに与えてくださったものだからです。すなわち、それは主の聖なるところだからです。そこには他の神々があってはならないのです。だから、それらを徹底的に粉砕しなければなりませんでした。そうでないと、その偶像が彼ら自身を悩ますようになります。事実、ヨシュアの死後、彼らはその地の住民を追い払わなかった結果、彼らは偶像礼拝に引きずり込まれる結果となりました(士師2:11,12)。敵に苦しめられ、神にさばきつかさが与えられますが、やがてまた偶像に引かれていくことを繰り返すようになったのです。それは特に士師の時代に著しいですが、イスラエルが偶像と全く縁を切ることができなかったことはその歴史が証明しています。

私たちの住むこの日本にもこうした異教的な風習がたくさんありますが、主に贖われたものとして、聖なる者として、そうしたものに心が奪われることがないように、それらを取り除いていくことが求められています。このくらいはいいだろうと妥協せず、汚れから離れ、何が良いことで、神に受け入れられるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えましょう。(ローマ12:2Ⅱコリント6:14-18)。

ヘブル2章1~9節 「こんなにすばらしい救い」

 きょうは、2章1~9節のみことばから、「こんなにすばらしい救い」というタイトルでお話します。こんなにすばらしい救いです。どんなにすばらしい救いでしょう。ご一緒に見ていきましょう。まず1節をご覧ください。 

 Ⅰ.押し流されないように(1) 

「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この2章は、「ですから」ということばで始まっています。「ですから」というのは、1章で語られた内容を受けてということです。1章ではどんなことが語られたでしょうか。1章では、神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られた、とありました。神は、お語りになられる方です。そのようにしてご自身を現してくださいました。ではどのようにお語りになられたのでしょうか。神は、むかし預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には、御子によって、語ってくださいました。御子は、神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れです。ですから、御子を見た者は父を見たのです。神がどのような方であるかは、御子を見ればわかります。御子は万物の相続者であり、創造者であられます。そしてその力あるみことばによって今も万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い方の右の座に着かれました。この方は王の王、主の主であられるのです。他の何ものにも比べることができないほど偉大な神なのです。では神の御使いはどうでしょうか。御使いは霊的な存在で超自然的なことができますが、それらはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために、これは私たちクリスチャンのことですが、遣わされたものにすぎません。しかし、御子は、その御使いに拝まれる対象なのです。全く比べものになりません。「ですから」です。「ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。」 

この手紙の受取人はヘブル人でしたね。ヘブル人というのはユダヤ人のことです。ヘブル人、ユダヤ人、イスラエル人はほとんど同じ意味です。ユダヤ人というのはユダヤ教を信じていますが、そのユダヤ教から回心してクリスチャンになった人たちです。彼らはユダヤ人でしたがキリストの福音を聞いて、イエスこそ約束のメシヤとして信じました。ところが、彼らがイエスを信じているということでユダヤ人たちから迫害を受けると、自分たちが信じているイエスさまから離れ、ユダヤ教に逆戻りする人たちがいたのです。折角、過去の古いしきたりから解放されたというのに、再びそこに逆戻りしたのです。それは船が潮の流れに流された状態と同じです。とても危険なのです。 

2013年9月、イタリアの豪華客船コスタ・コンコルディア(Costa Concordia)が座礁して沈没、多くの尊い命が奪われる事故が起こったことは記憶に新しいかと思います。あの事故はどうして起こったのかというと、船がコースを外れて運航し浅瀬に乗り上げてしまったことが原因でした。。船長が乗客を喜ばせようとして無理に陸地に近づこうとしてコースを外れ、岩礁にぶつかつてしまったのです。まさにこの手紙の受取人もそのような危険がありました。それでパウロはそういうことがないように、聞いたことをしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければならない、と警告したのです。彼らは確かに聞いてはいましたが、実際には聞いていませんでした。それはただ頭だけのことであって、心に結び付けられていなかったのです。キリストのことばを表面的に聞いていても、それが心の深い部分に留まっていませんでした。

イエスさまは、「だから、聞き方に注意しなさい。」と言われました。「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」(ルカ8:18)

みことばを聞いても、聞いていないことがよくあります。みことばを聞いても、「ああそれは知っている」とか、「ああそれは何回も聞いた」いうレベルにとどまったり、心に結びつけるところまでいかないことがあるのです。でも不思議なことに、みことばは何回聞いてもその時その時に教えられることが違います。ですから、聞いたみことばを自分にあてはめ、植え付けるようにして聞く事が大切です。表面的に「分かった」というところにとどまらないで、本当にイエスさまと深い部分において触れ合っていくことが大切ではないでしょうか。 

Ⅱ.こんなにすばらしい救い(2-4) 

次に、2~4節までをご覧ください。

「もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。」 

「御使いたちを通して語られたみことば」とは、モーセの律法、旧約聖書のことです。モーセの律法は、神から御使いたちに与えられ、それがモーセに伝えられました。そのみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順に対して当然の処罰がもたらされたのであれば、御子によって与えられたこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうして処罰をのがれることができるでしょうか、できませんよ、というのです。「違反」とは、「これこれをしてはいけない」というルールを破ることです。また、「不従順」とは、「これこれのことをしなければならない」という決まりをやらないことです。この御使いを通して語られた律法でさえ、それに違反したり、それに不従順であれば、当然の処罰を受けたのです。であれば、ましてや神の御子によって伝えられた救いをないがしろにすれば、神の処罰を免れることは当然のことです。なぜなら、これはすばらしい救いだからです。 

聖書は、私たちが救われるために神が用意してくださったものを「福音」と呼んでいます。それは「良い知らせ」という意味ですが、イエス・キリストに関することです。神の御子イエス・キリストが、私たちの救いのために何をしてくださったのかということであります。神は、初め私たちを罪から救うためにご自身の律法を与えてくださいました。それはさきほど申し上げたように、これをすれば救われるとか、これをしなければ救われないというものですが、残念ながらこの律法の基準を満たすことができる人はひとりもいませんでした。むしろ、律法を守ろうとすればするほど、自分がいかに罪深い者であるのかを知るのでした。そうです、神の律法が与えられた目的は私たちを救うことではなく、私たちに罪の意識を植え付けることだったのです。すべての人が罪人であるということを明らかにすることでした。ではいったいだれが私たちを救ってくれるのでしょうか。イエス・キリストです。神は、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされた神の義、救いの道を用意してくださいました。それがイエス・キリストです。このキリストを信じる者は、だれでも神の前に義と認められるということ、すなわち救われるということ、それが福音です。では、イエス・キリストとはどのような方でしょうか。この方はどのようにして私たちを救ってくださったのでしょうか。 

キリストは神の御子であられます。この方は、天地万物を造られた創造主です。それなのに、私たちをその罪から救うために天から下って来られました。そして、私たちのすべての違反、不従順、罪を背負って、身代わりに十字架で死んでくださいました。罪の支払う報酬は死であるとあるように、本来なら私たちが死ななければならなかったのに、キリストが身代わりに死んでくださったのです。そして、三日目によみがえられました。それは私たちが義と認められるためです。もし死んだままであったらキリストは私たちと同じ人間だということであり、私たちを救うことはできないからです。しかし、キリストはよみがえられました。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。これが福音です。 

どうですか、ほんとうにすばらしい救いではないでしょうか。この神がしてくださったことを受け入れるだけでいいのです。そうすれば、あなたも救われます。あなたの努力や行いによるのではありません。難行苦行をしなければならないというのではないのです。ただこの神の救いのみわざを信じて受け入れるだけでいいのです。自分の努力によっては全く救われるはずのない者が救われるのであれば、これは恵み以外の何ものでもありません。だからここには、「こんなにすばらしい救い」と言われているのです。こんなにすばらしい救いはどこにもありません。それなのに、これを無視することがあるとしたら、あるいは、これをないがしろにして過去の生活に、律法主義に逆戻りするようなことがあるとしたら、どうやって神の処罰を逃れることができるでしょう。そこには永遠の滅びしか残っていないのです。 

これは尾山令仁先生が書かれた本にあったお話ですが、先生が1958年に石川県の金沢市にある北陸学院というミッション・スクールの夏期学校に講師として行ったとき、ある教会の夕拝で説教されました。その中にこのような経験をされたご婦人がいました。それはその時よりもさらに15年ほども前のことですが、その方は、ある冬の日、玄関で赤ん坊が泣く声で目が覚めました。その朝は大雪で、軒近くまで雪が積もっており、その玄関の軒先に赤ん坊が置かれていました。すぐに玄関をあけ、その赤ん坊を抱いた時、その赤ん坊がだれの子であるかはすぐに見当がつきました。ちょっと前に近所の奥さんが赤ん坊を置いて家出をしたと聞いていたので、おそらくその人の子供だろうと思いました。きっと育てることができなかったので、ここに置いて行ったのだろうと思い、であれば、自分が育てなければならないと、この時決心しました。しかし、自分が産んだ子供ではありませんから、お乳が出ないわけです。そこで、人工栄養で育てるしかないと粉ミルクを買おうとしましたが、それが結構お金がかかり、ちょっとした内職程度ではミルク代をかせぐことができないわけです。そこでやむなく男たちに交じって道路工事の仕事をすることにしました。

ところが、ある日のこと、仕事をしていると、人がやって来て、その子がトラックにはねられた、と知らせに来てくれました。取るものも取りあえず病院に飛んでいくと、幸いにして一命を取り止めることができました。しかし、だんだんよくなってくると、欲が出るもので、その子のからだのいたるところにできた傷を何とか直してやりたいと思うようになりました。その子が女の子であれば、なおさらのことです。病院のお医者さんに相談すると、「それは難しいですよ」ということでしたが、とうとう意を決して、自分の皮膚を取って、その子に移植しました。無事手術も終わり、日ましによくなり、そのうちにその女の子の傷跡はすっかりなくなってしまいました。しかし、母親のおなかには、大きな傷跡が残ってしまったのです。そして、その子が中学生になり、ミッション・スクールの北陸学院の生徒になったころ、母親と一緒に風呂屋へ行くことを嫌がるようになったのです。母親には、その理由がすぐにわかりました。一緒に風呂屋へ行くと、小さな子供たちが母親の近くに来て、「あのおばちゃんおなかの所おかしいよ」と言っては、じろじろと眺めるものですから、中学生になったその子にとってはとても恥ずかしく、耐えられない苦痛だったのです。

そこで、ある日のこと、その母親は、その子にこう言いました。「今日は、あなたにお話ししたいことがあります。そこにお座んなさい。」すると母親は、自分の醜いおなかのことを話す前に、その子が自分のおなかを痛めて産んだ子ではないことを話しました。さすがに拾った子供だとは言えなかったので、ある人からもらったのだと言いました。そして、「このことはほかの人から聞くよりも私から話しておいた方がいいと思ったから、私から話したの。あなたはどう思う。」と言うと、彼女は少しも動じることなく、「産みの親は産みの親、育ての親は育ての親と言うでしょ。別にどうってことないわ」というので、「それじゃ、あなたにこのこともお話しておくわ」と、自分の醜いおなかのわけを話しました。するとそれをじっと聞いていた娘さんは、「お母さん、ごめんなさい、私はお母さんのおなかのことが恥ずかしくて、一緒にお風呂に行かなかったの。」と言って、その場に泣き崩れてしまいました。そのことがあってから、この娘さんは、学校で聖書の時間や礼拝の時に聞いたイエスさまのことがよくわかるようになりました。イエスさまが自分のために身代わりとして十字架にかかってくださり、私を罪から救ってくださったということがよくわかり、周りにいる人たちにこの福音をよく伝えたそうです。 

私たちが救われた福音とは、実にこのようなものです。いや、これ以上のものです。この娘さんは母親の身代わりによって癒されたのです。それなのに、その母親の愛の行為を恥ずかしいと思ったりすることがあれば、それはほんとうに悲しいことではないでしょうか。同じように、神が私たちを愛してくださったその大きな愛によって私たちが罪から救われたのに、その救いをないがしろにするとしたら、すなわち、その救いの道から離れたり、以前の生活に逆戻りするようなことがあるとしたら、神はどれほど悲しまれることでしょう。この福音こそ、私たちを罪から救い出し、新しく生まれ変わらせることができるのです。ですから、この福音に、あなたが聞いたこの福音の真理に堅く立ち、ますますしっかりと心に留めて、この世の流れに押し流されないようにしなければなりません。それが生まれ変わったクリスチャンの生き方なのです。 

Ⅲ.すべての人のために死なれたイエス(5-9) 

ところで、いったいなぜ神は私たちのためにこんなにすばらしい救いを与えてくださったのでしょうか。それは、神は私たちを愛しておられるからです。5節から9節までをご覧ください。

「神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

 どういうことでしょうか。5節にある「後の世」とは千年王国のことです。神は、この後の世を御使いたちに従わせることをなさらず、私たち人間の手にゆだねられました。神の御子イエス・キリストを信じる者を、キリストとともに共同相続人として、千年王国を支配する者としてくださったのです。何ゆえに神は、このような特権を与えてくださったのでしょうか。この手紙の著者は、ダビデが語ったことばを引用して、驚きをもってこう語っています。6節、

「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。」

「これ」というのは人間のことです。人間が何者だというので、神はこんなちっぽけな人間に目を留めておられるのでしょうか。それは人を特別な存在としてお造りになられたからです。創世記1章26節、27節を見ると、神が人を造られたとき、神のかたちに、神に似せて造られたとあります。神のかたちに造られたということは、神の霊を持つものとして造られたということです。神は人を霊を持ち、神と交わりを持つ者として造られました。そのように造られたものは人間だけです。この世界には多くの被造物が存在していますが、神に似せて造られたのは人間だけなのです。いや、神が造られた被造物のすべては人間が生きていくために造られたのです。そういう意味で、人は特別な存在なのです。ですから神は、その造られたすべてのものを人間が支配するようにしたのです。つまり、人間にはこの世を支配するという特権がゆだねられたのです。 

それなのに、8節にあるように、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていません。実際にこの世を支配しているのは人間ではなく悪魔です。悪魔とか天使という言葉を聞くとどこかおとぎ話のような感じがするかもしれませんが、悪魔は実際に存在しているのです。存在しているだけでなく、実際にこの世を支配しているのです。そして、私たちにいろいろと戦いを挑み、悪い影響を及ぼしているのです。Ⅰヨハネ5章19節には、「私たちは神からのものであり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。」とあります。この世全体は悪い者の支配下にあるのです。悪霊崇拝やオカルト(魔術)といったものから、クリスチャンの成長を妨げてしまうようなさまざまな思考パターン、習慣、罪深い行動、怒り、怒り、憎しみ、極度の落ち込みなど、いろいろな形で表われています。私たちはそうしたものに捕われながらなかなか克服することができず、絶望的な日々を送っているのではないでしょうか。それは悪魔がこの世を支配しているからです。悪魔は惑わす霊であり、偽りの父です。その結果、全世界が悪い者の支配下にあるのです。 

 エペソ2章1、2節には、次のようにあります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順らの子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」この「不従順らの子らの中に働いている霊」とは悪霊のことです。悪魔、悪霊は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順らの子らの中で働いているのです。私たちはキリストを信じるまでこの悪魔の支配の中で生きていました。本来であれば人間がすべてのものを支配するはずだったのに、最初の人アダムが罪を犯したことで、罪の奴隷となりました。そしてこの悪魔の支配下の中で生きることになってしまったのです。その結果、何とも不自由な生き方を余儀なくされてしまいました。パウロはそんな自分の姿をこのように嘆いてこう言っています。

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょう。」(ローマ7:24)

罪に捕われた自分の姿を、このように告白せざるを得なかったのです。それは私たちも同じです。私たちもこうしたさまざまなものに捕われながら、本当に不自由な生き方をしているのではないでしょうか 

いったいだれが、この死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。パウロは続くローマ人への手紙7章25 節からのところでこう言っています。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。というのは、キリスト・イエスにある者が罪に定められることはないからです。キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」神はどのようにして私たちをこの罪から解放してくださったのでしょうか。イエス・キリストによってです。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それが9節にあることです。ご一緒に読んでみたいと思います。

「ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」

「御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエス」とは、イエスが人となってこの世に来られたことを意味しています。キリストは神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、神ご自身であられたのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。そればかりか、キリストは自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それが御使いよりも、しばらくの間、低くされたということです。 

 でも、神が人になるなんて信じられません。そんなことあり得ないからです。当時のユダヤ人もそのように考えていました。遠い地平線を見ると天と地が一つに重なってみえても実際にはどこまでも重なることがないように、神と人間が重なることはありません。どこまでいっても神は神であり人間は人間です。神が人になったり、人が神になったりするなんてあり得ない、と考えていたのです。けれども神は、そうした人間の考えを超えて働いてくださいました。どこまでも交わることのないはずの神が、人となってくださったのです。しかも、十字架にかかって死んでくださいました。なぜでしょうか。9節の最後のところにこうあります。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」 

それはすべての人のためでした。ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人も、また私たち日本人も、すべての人です。すべての人種、すべての民族のためです。それはあなたも例外ではありません。キリストはあなたのために十字架で死んでくださいました。それはあなたの罪を贖い、本来あなたに与えられていた支配権をサタンから奪い取り、やがてキリストとの共同相続人となって、後の世を支配するようになるためです。最初の人アダムは罪を犯したので、神から与えられたこの祝福を失ってしまいましたが、最後のアダム(キリスト)はその失った支配権をサタンから奪い取るために、人類の代表として死を味わわれたのです。キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。キリストを受け入れるまで私たちは罪の奴隷でしたが、キリストが十字架で死なれたことによって、私たちに対する罪の力は破られたのであります。ですから、悪魔は私たちに対して、いささかの力も持っていないのです。あなたはキリストにあって自由とされたのです。ガラテヤ5章1節にこうあります。 

「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」 

もうあなたを縛るものはありません。敵である悪魔は完全に打ち破られました。キリストが十字架であなたの罪の身代わりとなって死んでくださったので、あなたに対する罪の力は破られたのです。あなたは救い主イエスを信じたことで神の子としての特権を受けたのです。あの最初の人に与えられた支配権を回復したのです。やがてもたらされる千年王国でそれは明らかにされるでしょう。あなたはキリストとともに千年間王となって御国を治めるようになるのです。 

ですから、あなたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなければなりません。ということは、私たちはその自由を失って、またと奴隷のくびきを負うこともあり得るということです。それは、この1節でパウロが警告していることでもあります。ですから、聞いたことを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。あなたは、こんなにすばらしい救いを受けたのですから・・・。キリストは、あなたを救うために天から下って来られ、十字架で死んでくださいました。ここに私たちの唯一の希望があるのです。

民数記32章

きょうは民数記32章から学びます。まず1節から5節までをご覧ください。

Ⅰ.ルベン族とガド族の願い(1-15)

「ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

26章から、イスラエルが約束の地に入るための備えが語られていますが、そのような時、「ルベン族とガド族」から、モーセと祭司エリアザルに一つの願いが出されました。それは、ヨルダンの東側にあったヤゼルの地とギルアデの地を見るとその場所は家畜に適した場所だったので、その地を自分たちに与えてほしいということでした。そして、自分たちがヨルダン川を渡ることがないようにしてほしいというのです。なぜなら、彼らは非常に多くの家畜を持っていたからです。ミデヤン人たちからの戦利品としての家畜も加わり、たいへん多くなっていました。「ヤゼルの地とギルアデの地」は、彼らがエモリ人シホンを打ち破った時に占領したところです。モアブの地であるアルノン川からヤボク川までがヤゼル、ヤボク川からガリラヤ湖の南端へ走っているヤムルク川までがギルアデの地です。

それに対してモーセは何と答えたでしょうか。6節から15節までをご覧ください。

「モーセはガド族とルベン族に答えた。「あなたがたの兄弟たちは戦いに行くのに、あなたがたは、ここにとどまろうとするのか。どうしてあなたがたは、イスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えた地へ渡らせないようにするのか。私がカデシュ・バルネアからその地を調べるためにあなたがたの父たちを遣わしたときにも、彼らはこのようにふるまった。彼らはエシュコルの谷まで上って行き、その地を見て、主が彼らに与えられた地にはいって行かないようにイスラエル人の意気をくじいた。その日、主の怒りが燃え上がり、誓って言われた。『エジプトから上って来た者たちで二十歳以上の者はだれも、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った地を見ることはできない。彼らはわたしに従い通さなかった。ただ、ケナズ人エフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアは別である。彼らは主に従い通したからである。』主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行なったその世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを四十年の間、荒野にさまよわされた。そして今、あなたがた罪人の子らは、あなたがたの父たちに代わって立ち上がり、イスラエルに対する主の燃える怒りをさらに増し加えようとしている。あなたがたが、もしそむいて主に従わなければ、主はまたこの民をこの荒野に見捨てられる。そしてあなたがたはこの民すべてに滅びをもたらすことになる。」

モーセは怒って言いました。彼らの兄弟たちは戦いに行くというのに、彼らはそこにとどまろうとするのか。どうしてそのようにイスラエル人の意気をくじいて、主が彼らに与えられた地へ渡らせないようにするのか。それはかつてイスラエルがカデシュ・バルネアからその地をさぐらせるために遣わしたときにふるまったことと同じではないか。神が、上って行って、そこを占領せよ、と仰せられたのに、彼らは従わなかったので、主の怒りを招くこととなり、四十年間荒野をさまようことになってしまいました。それと同じことだというのです。そして、もし主のみことばに背いて主に従わなければ、主はまたこの民を見捨てられると言いました。それは全く自己中心的な願いであると言ったのです。

主がヨルダン川東岸の民を追い出されたのは、そこにイスラエルが定住するためではありませんでした。それは彼らがイスラエルに敵対し、戦いを挑んできたからに過ぎません。また主が彼らの家畜を増やされたのもそこに住むためではなく、彼らが約束の地で生活するためでした。彼らが住むところはあくまでもヨルダン川を渡ったカナン人の地なのに、たまたま住むのに良さそうだからという理由で、これらのものを自分のものにしようとするのはよくありません。   これは、私たちクリスチャンにもよくあることです。私たちはよく、 「私たちの願いがかないますなら」 と言って、自分の願い、自分の思いを満たすことを神の教会に求めてしまうことがありますが、それは間違っています。教会は自分の願いをかなえるところではなく、神の願い、神のみこころを行うために集められた所です。それなのに、自分の都合だけを考えて満足を得ようとするのは、このルベン族やガド族が抱いていた思いと同じことです。今の状態のままでいたい、これから前進しなくてもいい、このままの状態で留まっていたいと願うのは、ここでルベン族とガド族が言っていることと同じことなのです。私たちはもう一度考えなければなりません。自分が救われたのは何のためか、何のために教会に集められたのか・・・を。それは自分の願いをかなえるためではなく、神のみこころを行うためなのです。

Ⅱ.ルベン族とガド族の誓い(16-32)

それに対して、彼らは何と言ったでしょうか。16節から19節までをご覧ください。

「彼らはモーセに近づいて言った。「私たちはここに家畜のために羊の囲い場を作り、子どもたちのために町々を建てます。しかし、私たちは、イスラエル人をその場所に導き入れるまで、武装して彼らの先頭に立って急ぎます。私たちの子どもたちは、この地の住民の前で城壁のある町々に住みます。私たちは、イスラエル人がおのおのその相続地を受け継ぐまで、私たちの家に帰りません。私たちは、ヨルダンを越えた向こうでは、彼らとともに相続地を持ちはしません。私たちの相続地は、ヨルダンのこちらの側、東のほうになっているからです。」

それを聞いた彼らは、自分たちはイスラエルが約束の地に入るまで、武装して、先頭に立って戦うと言いました。イスラエル人がおのおのその相続地を受けるまで、自分たちの家には帰らないと明言したのです。これは一見、主のみこころに従って、自分の分を果たしているかのように思えますが、しかし、根本的にはやはり自分の願いを通しているにすぎません。結局、ヨルダン川東岸を自分の土地にするということには変わりがないからです。自分たちを完全に明け渡していないのです。こうするから、こうしてくださいという、条件付きの従順です。それは主が求めておられることではありません。主が求めておられることは無条件で従うことです。その後のことは主が最善に導いてくださると信じて主にゆだねることなのです。

時々、私たちも、主のみこころに自分自身を明け渡すこのではなく、このように条件を付けて、少し距離を取りながら、自分の願いをかなえられようとしていることはないでしょうか?そして、付け足しのように、お手伝いをして、自分も主に仕えているかのように振る舞っていることはないでしょうか。心の深いところにある動機を聖霊によって探っていただく必要があります。そして、純粋に主に従う者でありたいと思います。

それでモーセはどうしたでしょうか。20節から32節までをご覧ください。

「モーセは彼らに言った。「もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたのうちの武装した者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。しかし、もしそのようにしないなら、今や、あなたがたは主に対して罪を犯したのだ。あなたがたの罪の罰があることを思い知りなさい。あなたがたの子どもたちのために町々を建て、その羊のために囲い場を作りなさい。あなたがたの口から出たことは実行しなければならない。」ガド族とルベン族はモーセに答えて言った。「あなたのしもべどもは、あなたの命じるとおりにします。私たちの子どもたちや妻たち、家畜とすべての獣は、そこのギルアデの町々にとどまります。 しかし、あなたのしもべたち、いくさのために武装した者はみな、あなたが命じられたとおり、渡って行って、主の前に戦います。」 そこで、モーセは彼らについて、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、イスラエル人の部族の諸氏族のかしらたちに命令を下した。モーセは彼らに言った。「もし、ガド族とルベン族の戦いのために武装した者がみな、あなたがたとともにヨルダンを渡り、主の前に戦い、その地があなたがたの前に征服されたなら、あなたがたはギルアデの地を所有地として彼らに与えなさい。もし彼らが武装し、あなたがたとともに渡って行かなければ、彼らはカナンの地であなたがたの間に所有地を得なければならない。」ガド族とルベン族は答えて言った。「主があなたのしもべたちについて言われたとおりに、私たちはいたします。私たちは武装して主の前にカナンの地に渡って行きます。それで私たちの相続の所有地はヨルダンのこちら側にありますように。」

それでモーセは、もし彼らが主の前に戦いの武装をし、ヨルダン川を渡って、その敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服された後に帰るのであればいいと、それを許しました。その結果どうなったでしょうか。32節から42節までをご覧ください。

 

Ⅲ.新しい名を付けたガド族とルベン族 (33-42)

「そこでモーセは、ガド族と、ルベン族と、ヨセフの子マナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土とを与えた。そこでガド族は、ディボン、アタロテ、アロエル、アテロテ・ショファン、ヤゼル、ヨグボハ、ベテ・ニムラ、ベテ・ハランを城壁のある町々として、または羊の囲い場として建て直した。また、ルベン族は、ヘシュボン、エルアレ、キルヤタイム、ネボ、バアル・メオン・・ある名は改められる。・・またシブマを建て直した。彼らは、建て直した町々に新しい名をつけた。マナセの子マキルの子らはギルアデに行ってそこを攻め取り、そこにいたエモリ人を追い出した。それでモーセは、ギルアデをマナセの子マキルに与えたので、彼はそこに住みついた。マナセの子ヤイルは行って、彼らの村々を攻め取り、それらをハボテ・ヤイルと名づけた。ノバフは行って、ケナテとそれに属する村落を攻め取り、自分の名にちなんで、それをノバフと名づけた。」  ここにヨセフの子マナセの半部族も加わっていることがわかります。モーセは、ガド族とルベン族とマナセの半部族とに、エモリ人の王シホンの王国と、バシャンの王オグの王国、すなわちその町々のある国と、周辺の地の町々のある領土を与えました。彼らは自分たちのために町を建て、その建て直した町々に新しい名をつけましたが、それはすべて自分たちの名前にちなんでつけました。神ではなく自分の名前です。ここに彼らの本心が表れているのではないでしょうか。主のみこころを求めず、自分のことで満足しているならば、結局それは自分自身を求めていることなのです。

そうした自分中心の信仰には、やがて必ず主の正しいさばきがあることを覚えておかなければなりません。彼らはモーセに約束したように、確かにヨルダン川を渡って、他の部族とともに戦いました。そして、ヨルダン川の東側を自分たちの所有としました。しかし、その後歴史はどうなったでしょうか。イスラエルがカナンを占領して後、ダビデの時代に統一王国となりますが、その後、国は二分され、ついに外国によって滅ぼされることになります。その時最初に滅ぼされたのはガド族とルベン族でした。彼らはアッシリヤ帝国によって最初の捕囚の民となりました。そして、主イエスの時代には、そこはデカポリスという異邦人の地になっていました。マルコの福音書5章には、イエスさまがゲラサ人の地に行ったとき、そこで汚れた霊につかれた人から霊を追い出し、それを豚に乗り移させたという記事がありますが、それがこのデカポリス地方、ゲラサ人の地、ガダラ人の地だったのです。この「ガダラ人の地」とはガド族の人々の土地という意味で、そこは悪霊がたくさんいました。そこはユダヤ人が豚を飼うほど異教化していたのです。

ですから、私たちの信仰生活においても、自分の満足を求めるだけで神のみこころに歩もうとしなければ、このガド族やルベン族が歩んだのと同じ道を歩むことになることを覚え、ますます主のみこころに歩んでいきたいと思います。

創世記18章

 聖書には、アブラハムは「神の友」と呼ばれています。(ヤコブ2:23,イザヤ41:8)それは、彼のある一つの行動を通してそう呼ばれるようになったというよりも、彼の生涯がまさにそのような歩みだったからです。しかし、このところには、彼がそのような光栄ある名が与えられるにふさわしい人物であったことがよく表されています。 

 1.旅人をもてなしたアブラハム(1-8) 

 まず1節から8節までをご覧ください。ある日、主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れてくださいました。彼は日の暑いころ、天幕の入り口にすわっていました。近東では、日中の暑さはものすごく、卵が焼けるほど暑いと言われています。そのような時に人々のたいていは家の中で休み、外で働くことはしません。アブラハムも天幕の入り口にすわり、休んでいました。そこに三人の人がやってきたのです。暑さのためただボーとしていたアブラハムは、何も考えることもなく地面に目をやったのでしょう。そして目を上げたとき、そこに三人の人が彼に向かって立っていました。そのときアブラハムはどのような行動を取ったでしょうか?2節には、「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」とあります。ここにアブラハムの信仰が生活の中に深く浸透していたことを見ることができます。旅人をもてなすことは神が命じておられることであり、神の民の義務でした(ヘブル13:2)。この当時は、今日のように旅館やホテルがあったわけではなく、こうした旅人をもてなすことが神の民の義務として、最高の徳であったわけです。まあホテルや旅館があるなしにかかわらず、こうやって人々をもてなすこと自体しもべのようになることですから、今日においてもとても大切な徳であると言えます。しかも素性のわからない人をもてなしたわけですから、それはただ信仰によってのみできたと言えるでしょう。3節の「ご主人」ということばは、下の欄外を見ると「主よ」となっていて、この時アブラハムがこの客を主なる神であるとわかっていたかのような印象がありますが、実際にはこの言葉は、「主人」とか「主」など、一般の客に対して使う丁寧な呼び方なので、必ずしも彼が神として認識していたわけではないことがわかります。ですから、アブラハムがここで三人の旅人をもてなしたのは、普通の旅人に対してごく自然にした行為だったのです。そして彼は、自分のもっている最上のものをもって、彼らをもてなしました。 

 2.主に不可能なことがあろうか(9-15) 

 次に9節から15節までをご覧ください。するとその旅人はアブラハムに尋ねました。「あなたの妻サラはどこにいるか」と。「天幕にいます」と告げると、その中のひとりが、こう言いました。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのとこに戻ってきますが、そのとき、サラには、男の子ができている」と。

サラはそれを天幕のうしろの方で聞いていましたが、それを聞いていて、心の中で笑いました。なぜなら、彼女には普通の女にあることが止まっていたからです。もう子供を産めるような体ではなかったのです。だから、そんなことあり得ないと思ったのです。

すると主が、「サラはなぜ「私はほんとうに子を産めるだろうか。こんな年をとっているのに」と言って笑うのか」と告げました。主にとって不可能なことはありません。そして、主は続けてこう言われました。「わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」 するとサラは恐ろしくなったのか、「いいえ、笑いませんでした」と言って打ち消しました。 

 この13,14節の「主」は太字の主になっています。これは父なる神「ヤーウェー」のことです。ヘブル語では「יהוה (YHWH)」と書きますが、ユダヤ人たちは、神の御名を発音することを恐れ、「יהוה (YHWH)」という御名が出て来ると、それを「アドナイ」と読み替えました。アドナイとは、「我が主」という意味です。新改訳聖書で太字の「主」と、普通の「主」を使い分けています。太字の「主」はこのエホバなる主のことであり、太字でない「主」が出て来た場合は「יהוה (YHWH)」ではなく、普通名詞の「主」です。新約聖書に出てくる主はほとんどがイエスのことです。しかし旧約聖書からの引用箇所にある主はやはりエホバのことを指し示しています。エホバはイエスの父にあたります。そして、イエスは神の子です。ですから、両者とも「主」なのです。それはイエスが言われた、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)のことばからもわかります。ですから、これは人の子として生まれる前に、人として現れてくださったイエスご自身だったのです。 

その主イエスにとって不可能なことは一つもありません。これまでアブラハムに与えられた約束が実現していなかったのはそれが全く不可能なことだったからではなく、彼らの信仰の訓練のためだったのです。神には神の時があって、その時が満ちるとき、それが実現するのです。神にとって不可能なことは一つもないのです。神は人間には不可能に見えることでも可能にすることができる全能の神なのです。あなたはこのことを信じていますか。これが私たちの信仰です。ここで全能の主が人の姿をとって来られたというのも、このことを教えるためだったに違いありません。 

 3.とりなしの祈り手アブラハム(16-33) 

 最後に、16節から終わりまでを見ていきましょう。主はアブラハムにみこころを示し、これからソドムに対してなそうとしておられることを明らかにされました。それはソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いため、彼らを滅ぼすということでした。するとアブラハムはどうしたでしょうか?23節からのところです。彼は驚き、かつ心配し、とりなしの祈りをしました。とりなしとは、その人に代わって祈ることです。ソドムとゴモラの滅びをわがことのように嘆き、神の怒りからソドムとゴモラを救おうとしたのです。なぜアブラハムはこんなに必死にとりなしたのでしょうか。それは、そこに甥のロトがいたからです。 

 アブラハムはどのようにとりなしたでしょうか。彼は大胆に祈りました。23節を見ると、「アブラハムは近づいて申し上げた」とあります。罪に汚れた人間が、聖く、正しい神に近づくなど考えられないことです。しかし、神とともに歩み、神の友と呼ばれたアブラハムは、大胆にも神に近づき、率直の自分の思いを打ち明けたのです。 

 第二に、彼は熱心に、忍耐強く祈りました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか」と、もしそこに50人の正しい人がいたら、もしそこに50人に5人足りない45人がいたらと、最後には10人がいたら・・・と、忍耐強く祈っています。イエスは「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」ことを教えるために、あるしつこいやもめのたとえを話されました。(ルカ18章)神様が望んでおられるのは、私たちがあきらめないで、失望しないでいのることです。そうした祈りを聞いて、最後にはそれをかなえてくださるのです。 

 第三に、彼は謙遜に祈りました。27節を見ると、「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」とあります。また、30,32節を見ると、「主よ。どうかお怒りにならないでください」と言っています。彼は謙遜に、かつ大胆に、熱心に祈ったのです。 

 神様は大きな知恵と恵みをもってこの歴史を支配し導いておられます。その神の歴史の中に、私たちは祈りによって携わることができる恵みを与えてくださいました。それがとりなしの祈りです。ヘブル7:25には、「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしておられるのです」とあります。とりなしはその人に対する愛から生まれるものです。Ⅰテモテ2:1には、「すべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい」とあります。とりなしは、神のみこころなのです。私たちもこの国が滅びることがないように、アブラハムのように神の前にとりなす者でありたいと願わされます。

民数記31章

きょうは民数記31章から学びます。

Ⅰ.主の復讐(1-24)

「主はモーセに告げて仰せられた。「ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いよ。その後あなたは、あなたの民に加えられる。」そこでモーセは民に告げて言った。「あなたがたのうち、男たちは、いくさのために武装しなさい。ミデヤン人を襲って、ミデヤン人に主の復讐をするためである。イスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送らなければならない。」それで、イスラエルの分団から部族ごとに千人が割り当てられ、一万二千人がいくさのために武装された。モーセは部族ごとに千人ずつをいくさに送った。祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送った。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺した。彼らはその殺した者たちのほかに、ミデヤンの王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバの五人のミデヤンの王たちを殺した。彼らはベオルの子バラムを剣で殺した。イスラエル人はミデヤン人の女、子どもをとりこにし、またその獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼いた。そして人も獣も、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、捕虜や分捕ったもの、略奪したものを携えて、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに来た。モーセと祭司エルアザルおよびすべての会衆の上に立つ者たちは出て行って宿営の外で彼らを迎えた。モーセは軍勢の指揮官たち、すなわち戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒った。モーセは彼らに言った。「あなたがたは、女たちをみな、生かしておいたのか。ああ、この女たちはバラムの事件のおり、ペオルの事件に関連してイスラエル人をそそのかして、主に対する不実を行なわせた。それで神罰が主の会衆の上に下ったのだ。31:17 今、子どものうち男の子をみな殺せ。男と寝て、男を知っている女もみな殺せ。男と寝ることを知らない若い娘たちはみな、あなたがたのために生かしておけ。祭司エルアザルは戦いに行った軍人たちに言った。「主がモーセに命じられたおしえのおきては次のとおりである。金、銀、青銅、鉄、すず、鉛、すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。あなたがたは七日目に自分の衣服を洗うなら、きよくなる。その後、宿営にはいることができる。」

この31章は、26章から続く約束の地に入る備えが語られています。1節から3節までのところを見ると、主はモーに、ミデヤン人にイスラエル人の仇を報いるようにと命じておられます。その後彼は彼らの民に加えられます。つまり、この出来事の後でモーセは死に、彼らの民に加えられるということです。いわば、これがモーセの最後の務めであったわけです。これから約束の地に入ろうとしていたイスラエルに、いったいなぜこのようなことが命じられたのでしょうか。

その背景には25章の出来事がかかわっています。25章1節には、イスラエルがシティムにとどまっていた時、モアブの女たちとみだらなことをしたことが記録されています。これは偽りの預言者バラムの助言によってモアブの王バラクがモアブの女たちをイスラエルの宿営に送り、彼らと不品行を行わせ、偶像礼拝の罪を犯させました。そのためイスラエルに神罰が下り、イスラエル人二万四千人が死にました。この時のモアブの女たちこそ、モアブにいたミデヤンの女たちです。このことは主を大いに怒らせたので、主ご自身が、ミデヤン人を襲って復讐すると言われたわけです。ですからこれは個人的な恨みではなく、神ご自身の復讐だったのです。

4節をご覧ください。このために主はイスラエルのすべての部族から、一部族ごとに千人ずつをいくさに送るようにと命じられました。そして祭司エルアザルの子ピネハスを、聖具と吹き鳴らすラッパをその手に持たせて、彼らとともにいくさに送りました。それはこの戦いが軍事的な戦いではなく主ご自身の戦い、主の聖なる戦いであったからです。彼らは主がモーセに命じられたとおりに、ミデヤン人と戦って、その男子をすべて殺しました。またその他に、ミデヤンの五人の王たち、エビ、レケム、ツル、フル、レバを殺しました。そして、この事件の張本人であったバラムをも剣で殺しました。また、ミデヤン人の女、子どもをとりこにし、その獣や、家畜や、その財産をことごとく奪い取り、彼らの住んでいた町々や陣営を全部火で焼き払いました。そして、略奪したものや分捕ったものをすべて取り、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原の宿営にいるモーセと祭司エルアザルとイスラエル人の会衆のところに帰って来たのです。

するとどうでしょう。宿営の外で彼らを出迎えたモーセは、戦いの任務から帰って来た千人の長や百人の長たちに対して怒ったとあります。なぜでしょうか?女たちを生かしておいたからです。通常の戦いであれば、捕虜として捕えた女や子供は生かしておきますが、今回の事件はその女によってもたらされたものでした。そうしたイスラエルにつまずきを与えたものをそのままにしておいてはいけない、それらを徹底的に取り除くことを求められていたのです。

主イエスは山上の説教の中でこのように言われました。「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」(マタイ5:29-30)

信仰のつまずきとなるものがあれば、それを取り除かなければなりません。それなのに、彼らはその女たちを生かしておきました。それでモーセは怒ったのです。それで、男の子はもちろんのこと、男と寝て、男を知っている女もみな殺すようにと命じました。ただ男と寝ることを知らない若い娘たちだけを生かしておかなければなりませんでした。そしてその罪のきよめの期間は七日間です。ミデヤン人を殺した人たち、あるいは、捕虜でもだれでも、人を殺した者、あるいは、その死体に触れた者は、三日目と七日目に身をきよめなければなりませんでした。火に耐えるものは火できよめ、耐えられないものは水によってきよめました。

2.分捕り物の分配(25-47)

「主はモーセに次のように言われた。 「あなたと、祭司エルアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、人と家畜で捕虜として分捕ったものの数を調べ、その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。いくさに出た戦士たちからは、人や牛やろばや羊を、それぞれ五百に対して一つ、主のためにみつぎとして徴収せよ。彼らが受ける分のうちからこれを取って、主への奉納物として祭司エルアザルに渡さなければならない。イスラエル人が受ける分のうちから、人や牛やろばや羊、これらすべての家畜を、それぞれ五十に対して一つ、取り出しておき、それらを主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えなければならない。」そこでモーセと祭司エルアザルは、主がモーセに命じられたとおりに行なった。従軍した民が奪った戦利品以外の分捕りものは、羊六十七万五千頭、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人間は男と寝ることを知らない女がみなで三万二千人であった。この半分がいくさに出た人々への分け前で、羊の数は三十三万七千五百頭。その羊のうちから主へのみつぎは六百七十五頭。牛は三万六千頭で、そのうちから主へのみつぎは七十二頭。ろばは三万五百頭で、そのうちから主へのみつぎは六十一頭。 人間は一万六千人で、そのうちから主へのみつぎは三十二人であった。モーセは、主がモーセに命じられたとおりに、そのみつぎ、すなわち、主への奉納物を祭司エルアザルに渡した。モーセがいくさに出た者たちに折半して与えた残り、すなわち、イスラエル人のものである半分、つまり会衆のものである半分は、羊三十三万七千五百頭、牛三万六千頭、ろば三万五百頭、人間は一万六千人であった。モーセは、このイスラエル人のものである半分から、人間も家畜も、それぞれ五十ごとに一つを取り出し、それらを主がモーセに命じられたとおりに、主の幕屋の任務を果たすレビ人に与えた。」

 すべてのきよめをした後で、捕虜として分捕ったものは、いくさに出た兵士たちと、イスラエルの全会衆との間で二分されました。そして、そのように二分されたもののうち、いくさに出た戦士たちからは、五百に対して一つを主のためのみつぎ物として徴収し、それを祭司エルアザルに渡さなければなりませんでした。また、イスラエルの民からは五十に対して一つを、主のためのみつぎ物、すなわち、主への奉納物として徴収し、レビ人に与えなければなりませんでした。それは農耕による収穫物だけでなく、戦いで略奪した物もすべて、祭司とレビ人が受けるためです。レビ人の取り分が祭司の取り分よりも多いのは、それだけ人数が多かったからでしょう。主はこのようにして神に仕える者たちも、ちゃんとそれを受けられるように配慮しておられたのです。一般には忘れられがちな彼らのことが、こうしてきちんと覚えられていたのです。

 さて、彼らが略奪した物を見てみましょう。ものすごい量の戦利品です。羊が70万頭近く、他の家畜も万単位です。そして女の子たちも約3人もいます。主の怒りとその復讐が、いかに大きかったかを物語っています。そして、これらを軍人と会衆との間で二分されました。

 3.指揮官たちのささげ物(48-54)

それでは最後に48節から終わりまでのところをご覧ください。

「すると、軍団の指揮官たち、すなわち千人の長、百人の長たちがモーセのもとに進み出て、モーセに言った。「しもべどもは、部下の戦士たちの人員点呼をしました。私たちのうちひとりも欠けておりません。それで、私たちは、おのおのが手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主へのささげ物として持って来て、主の前での私たち自身の贖いとしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金を受け取った。それはあらゆる種類の細工を施した物であった。千人の長や百人の長たちが、主に供えた奉納物の金は全部で、一万六千七百五十シェケルであった。従軍した人たちは、戦利品をめいめい自分のものとした。モーセと祭司エルアザルは、千人の長や百人の長たちから金を受け取り、それを会見の天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念とした。」  すると、軍団の指揮官たちはモーセのもとに進み出て、自分たちが手に入れた金の飾り物などを持って来て、それを主の前で自分たち自身の贖いとしたいと言いました。どういうことでしょうか?彼らはミデヤンという大敵に対して、わずか1万2千人の兵で戦い、しかもイスラエルの側にはただの一人の犠牲者も出なかったことを、心から主に感謝しているのです。それは主の特別な助けと守りがなければあり得ないことでした。それはまさに主の戦いだったのです。そのことを実際に体験して、自分たちが得た戦利品は自分たちのものではなく主のものであると、自分たちの贖いの代価として、その一部を主にささげたのです。

モーセと祭司エルアザルは、彼らからのささげ物を喜んで受け取ったことでしょう。それらの金は装飾品だったので、あらゆる種類の細工が施されていました。その重さは全部で一万六千七百五十シェケルでした。1シェケルが11.4gですから、その総数は百八十キログラムであったことがわかります。それは莫大な量でした。それほど彼らは圧倒的な主の力を体験したのです。モーセと祭司エリアザルはそれを天幕に持って行き、主の前に、イスラエル人のための記念としました。この驚くべきすばらしい主の助けと救いを記念するものとして、これらの金を会見の天幕の主の前に納めたのです。

あなたは、彼らのように、主の圧倒的な救いと助けを経験しているでしょうか。自分たちの側には全く犠牲者が出ず、これだけの戦利品を手に入れることができたのは、ただ神の驚くべき御業です。私たちの信じている神はこのようなお方なのです。そして、私たちはいつか主がこの地上に再臨されるそのとき、このことを目の当たりにするでしょう。そのことがコロサイ人への手紙2章13節から15節までのところに記されてあります。

「それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」

その時、神は初めに人を造られた時に与えられたものを、そして罪によって失われたものを奪還してくださいます。そして、それらを捕虜として凱旋の行列に加えてくださるのです。これが私たちの信じている神であり、やがて世の終わりに行われることです。その勝利の凱旋の中に、私たちも含まれているのです。このすばらしい神の救いと力ある御業を覚え、私たちも神に感謝して、喜びと真心をもって主に自分自身をささげていく者でありたいと思います。

ヘブル1章4~14節 「御使いにまさるキリスト」

 きょうは、ヘブル人への手紙1章4節から14節のみとばから、「御使いよりもまさるキリスト」というタイトルでお話します。前回はこの手紙の冒頭のところで、神は語られる方であるということを学びました。神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分の分け、また、いろいろな方法によって語られましたが、この終わりの時には御子によって語られました。御子であられるイエス・キリストを見れば、父なる神がどのような方であるかがわかります。キリストを見た者は父を見たのです。なぜなら、御子は神の栄光の輝きだからです。神は、御子によってすべてのものを現してくださいました。ではその御子とはどのような方しょうか。前回はそれを御子の七つの特質をあげてお話しました。きょうのところではそのことを御使いと比較して語られます。御使いと比較することによって、キリストがどれほどすぐれた方であるのかを際立たせようとしているのです。 

   Ⅰ.御使いにまさるキリスト(4) 

 まず4節をご覧ください。「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。」 

    御使いとは天使のことです。皆さん、天使は実在しているのでしょうか?天使というと、一般に真っ白い服を着た人に羽がついた人やキューピットに羽がついたイメージがあって、どこかおとぎ話や空想話のようにとらえられがちですが、これは確かに実在しているものです。それは神によって造られた被造物の一つで、決しておとぎ話とは違うのです。コロサイ人への手紙を見ると、キリストは目に見えるもの、見えないもの、王座も主権も権威も、すべて造られたとありますが、その目に見えない被造物の一つが天使なのです。聖書には旧約聖書に108回、新約聖書に165回言及されています。確かに、御使いは実在しているのです。 

 それにしても、なぜここで御使いのことが取り上げられているのでしょうか。それは、この手紙の受取人がユダヤ人クリスチャンであったからです。ユダヤ人は御使いを重んじていました。ユダヤ人は律法をとても大切にしていましたが、それはこの御使いを通して与えられたと信じていたのです。たとえば、パウロはガラテヤ人への手紙3章19節でこのように言っています。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られる時まで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。」彼は、律法は御使いたちを通して仲介者の手で定められたものだと考えていました。また、ステパノも使徒の働き7章53節で、「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことがありません。」と言って、律法が御使いたちによって定められたものであると信じていました。それが、ユダヤ人が信じていたことなのです。ですから、ユダヤ人は、御使いを特別な位置に置いていたのです。そのため、中には御使いは神と自分たちの仲介者だと思う人たちもいました。 

 実際に、御使いは人間よりも優れているので、超自然的なことができます。たとえば、使徒の働き12章を見ると、ペテロがヘロデ王によって捕えられ、牢に閉じ込められていたことが記録されていますが、その牢から解放されたのは御使いたちの働きによるものでした。ペテロは牢獄で二本の鎖につながれ、ふたりの兵士の間に寝ており、戸口には番兵たちが監視していたので、もうどうやっても逃げることなどできない状態でしたが、その夜、主の使いが現れて、牢を光で照らすと、ペテロの脇腹をたたいたのです。すると、鎖が彼の手から落ちました。そして主の使いの後について第一の衛所、第二の衛所と行くと、門がひとりでに開いて外に出ることができ、助け出されました。勿論、それは聖徒たちの祈りに対する紙の答えではありますが、そのために用いられたのはこの御使いたちでした。御使いは、そのような超自然的なことができる存在なのです。 

 するとどういうことが言えるでしょうか。こうした御使いをあたかも神でもあるかのように思い、礼拝の対象としてしまうという危険性があるということです。これは私たち日本人にもいえることです。何か崇高なもの、常識を超えた不思議な存在、自分にご利益をもたらすような対象があると、すぐに手を合わせてしまう傾向があるのです。実際に、コロサイの教会には御使いを礼拝する者たちがいました。さらに、神の御子イエス・キリストも神の御子ではなくこうした御使いの一人であると教える異端も出てきました。今でもそのような異端がいます。たとえば、エホバの証人と言われるグループはその一つです。彼らはキリストを神の御子ではなく、天使長ミカエルだと主張しているのです。それはキリストを被造物の存在にまで引き下げることであり、当時のコロサイの教会にいた異端者たちと同じような過ちを犯していることになります。

 そこで、この手紙の著者はキリストがどのような方であるかを明らかにするためにキリストを御使いと比較し、キリストがどれほど偉大な方であるかを語るのです。 

 Ⅱ.神の御子キリスト(5~13) 

 ではキリストはどれほど偉大な方なのでしょうか。まず5節をご覧ください。ここには、「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。 

 これは詩篇2篇(7節)からの引用です。キリストが御使いよりもすぐれている一つの理由は、キリストが神の御子であられるということです。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」どの御使いに対しても神がこのように言われたことはありません。ただキリストに対してのみ、「あなたは、わたしの子」と呼びました。このように呼ばれる方はただ一人、神の御子イエス・キリストだけなのです。 

 ところで、この「きょう、わたしがあなたを生んだ」ということばは誤解される危険性があることばです。やっぱりキリストは神によって造られたものではないかと思われるからです。こういう箇所をみると、エホバの証人の方は「ほら見ろ。やっぱりキリストは神によって造られた存在じゃないか」と反論してきます。しかし、この「生んだ」ということばは造られたという意味ではなく、むしろその逆で、「第一のものになられた」ということです。つまり、キリストは万物の創造者であり、支配者であるということを表しているのです。万物の創造者であり支配者であるということは、被造物であるどころか、それは造り主なる神であるということでもあります。

パウロはこのことをコロサイ書1章15~18節でこう言っています。「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。」

 

御子は見えない神のかたちであり、神ご自身です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られました。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。このように、御子が万物の創造者であるということは、この方が造り主なる神であるということです。この世界を創造された方こそ神だからです。それじゃ、「生まれた」とはどういうことなのでしょうか。それは第一のものになられたという意味です。すべてのものが、この方によって支配されているということなのです。キリストはそれを死から復活することで証明されました。

 5節をご覧ください。「またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」とあります。これはⅡサムエル記7章14節のみことばの引用ですが、このみことばによってもキリストは神の御子であることが強調されています。これはダビデが神の家を建てたいと願っていたとき、神が預言者ナタンを通して彼に語られたことばですが、Ⅱサムエルには「その王座をとこしえまでも堅く建てる。」とあるように、これはこの世の王国のことではなく神の国のことを指して語られていました。それゆえ、この子とはソロモンのことではなくその子孫であるイエス・キリストのことだったのです。神はこのダビデの子孫から生まれるキリストを「わたしの子」と呼びました。このことからもわかるように、キリストは神の御子なのです。

 神は、かつてどの御使いに対してこのように言われたでしょう。このように呼んだ御使いは他にはいません。ただ神の御子イエス・キリストだけがこのように言われたのです。ということは、キリストは御使いとは比べものにならないほど偉大な方であるということです。

 次に、6節をご覧ください。ここには、「さらに、長子をこの世界にお送りになられるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」とあります。これは詩篇97篇(7節)からの引用ですが、長子をこの世界にお送りになるとき、神は、「神の御使いはみな、彼を拝め。」と言われました。つまり、キリストは礼拝の対象であるということです。神の御使いはそうではありません。神の御使いは、彼を拝まなければなりません。御子と御使いがどれほど違うかは、このことばからもはっきりわかります。

 それでは御使いは何のために存在しているのでしょうか。7節にはこうあります。「また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」どういうことでしょうか。これは詩篇104篇(4節)からの引用ですが、御使いは風のように、また炎のように、仕える存在にすぎないということです。御使いは神の目的を実行するために、神に仕える存在なのです。

 しかし、御子は違います。8節と9節をご覧ください。ここで、御子については、こう言われています。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」これは詩篇45篇6~7節の引用ですが、おもしろいことに、ここで神は御子を「神よ」と呼びかけています。9節にも、「それゆえ、神よ。あなたの神は、・・・・」と、「神」と「あなたの神」の二人の神が出ているのです。これはどういうことかというと、イエス・キリストが神であることです。それをもっとも明瞭に表したのがこの箇所なのです。

 聖書はまことの神は唯一であると教えています。その神がキリストを神と呼んでおられるのです。つまり、聖書はその唯一なる神は、父と子と聖霊という三つの神であるというのです。これを神学用語で「三位一体」と言います。三つにして一つであるという意味です。これが、聖書が教えている神なのであって、これ以外の神はありません。キリストは神ではないというとしたら、それは聖書で言っている神ではないことになるのです。

そのことは、ヨハネの福音書1章1節から3節までを見てもわかります。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」「ことば」とは神の御子イエス・キリストのことです。そのことばは神とともにおられたひとり子の紙であるとはっきり言われています。

 また、パウロもこう言っています。テトス2章13節、「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。」

 かつてパウロはクリスチャンを迫害する者でした。神は唯一であって、それ以外に神がいるはずがない。そういうことを言う奴がいるなら、そういう奴をひっ捕まえて懲らしめてやらなければならないと躍起になっていました。そしてダマスコという町に向かっていたとき、そこで復活の主イエスと出会いました。「主よ、あなたはどなたですか。」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と言われたのです。まさに目からうろこでした。これまで迫害していたイエスが神の子、キリスト、救い主であるとは・・。それで彼はイエスを救い主として信じて受け入れ、今度はキリストこそ救い主であると宣言するようになりました。このテトスのみことばは、その宣言の一つです。パウロはキリストこそ私たちの救い主であり、大いなる神であると告白したのです。

 ですから、その御座は代々限りなく続きます。また、その御国の杖はまっすぐです。杖がまっすぐであるということは、正義を行うということです。そのさばきは公平で、公正です。この世の中には不公平なことがあまりにも横行していますが、キリストの杖は真っ直ぐなのです。キリストは義なる神であって、この義を愛し、不正を憎まれるのです。それゆえに、神は、神である御子に、あふれるばかりの喜びの油を注がれました。この油とは勿論、聖霊の油のことです。キリストは神の聖霊を無現に注がれた方なのです

 ところで、皆さんはイエス・キリストという名前の意味をご存知ですか。「イエス」とはヘブル語で「ヨシュア」で、意味は「神は救い(神は救う)」です。そして、「キリスト」はヘブル語で「メシヤ」で、意味は油注がれた人という意味です。旧約聖書で油注がれた人は三人いました。王と祭司と預言者です。ですから、他国に支配されていたイスラエルでは「油注がれた人」とは自分たちを その状態から解放する救い主を意味していました。ですから、イエス・キリストという名前は救い主イエスという意味で、イエスをそう呼ぶだけで 一種の信仰宣言となっているのです。イエスこそキリスト、救い主、神の油を無限に注がれた方なのです。

 そして、10節から12節までを見ても、キリストの卓越性が示されています。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 造られたものはやがて必ず滅んでいきます。それがエントロピーの法則です。進化していくのではなく、退化していくのです。滅んでいきます。それがこの自然の法則なのです。キリストは天地万物の創造主であり、すべてのものはこの方によって造られましたが、その造られた物はやがて滅んでいくのです。私たちはこのことをよく理解していなければなりません。なぜなら、私たちの心は、いつもこの世の物に執着する傾向があるからです。だから持っていないと不安になるのです。でも持ち物はすべて失われていきます。それは滅んでいくものなのです。私たちの肉体でさえいつまでも続くものではありません。それは必ず滅びるものなのです。それは大切なものですが、絶対的なものではないのです。そうした物に捕われていると、ちょっとしたことで平安を失ってしまうことになります。だから、こうした物に執着するのではなく、いつまでも続くものに信頼しなければなりません。いつまでも続くものとは何でしょうか。それが神です。いつまでも続くものは信仰と希望と愛です。その中でも一番大いなるものは愛です、とⅠコリント13章に記されてありますが、神こそいつまでも変わることなく続く方なのです。神は、いつまでもながらえます。すべてのものは着物のように古びますが、しかし、神はいつまでも変わることなく、その年は尽きることがありません。

ヘブル13章8節を開いてください。ご一緒に読みたいと思います。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです。この方こそ、私たちが信頼するに値する方です。このような方に信頼して歩めるということは何と幸いなことでしょう。今の世の中を見ると、目まぐるしく変化する時代です。タイプライターなんて使っている人などだれもいません。ワープロも一昔前の話です。今はパソコンの時代であって、スマホの時代です。スマホの時代なんて言っても、私には何のことかよくわかりませんが・・・。よくわからないで言っています。スマホとかタブレットとか何のことだかよくわかりません。考えるだけでも疲れます。でも今はこういう時代なのです。この先今度はどんなものが登場するかわかりません。科学技術は日々進歩し、私たちの住むこの社会は目まぐるしく変化していますが、だからといって、それが必ずしも幸福をもたらすかというとそうでもありません。本当に人間らしい生き方というのは別のところにあるのではないでしょうか。それはいつまでも変わることのない神、イエス・キリストに信頼して生きるということの中にあるのです。なぜなら、イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じだからです。

 Ⅲ.神の御座に着かれたキリスト(13~14)

ですから、結論は13節と14節になります。「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。」

 これは詩篇110篇からの引用ですが、キリストが御使いたちよりもはるかにすぐれているということは、彼が神の右の座に着かれたということからもわかります。神の右の座に着くというのは、神の権威の座に着くということです。すなわち、キリストは神ご自身であられるということなのです。キリストは私たちの罪を贖うためにこの世に来られました。そして、私たちの罪を赦すために身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして、三日目によみがえり、その救いの御業を成し遂げてくださいました。キリストは死んだだけでなく、よみがえられたのです。それによって、この方こそまことの救い主であることを示されたのです。そして、その罪の贖いを成し遂げられて、天に昇り、神の右の座に着かれました。イエス・キリストは主の主、王の王であって、すべてを支配しておられる全能の神なのです。

 神は、かつてどの御使いに向かって、このように言われたでしょうか。このように言われた御使いはいません。御使いは、ただ仕える霊であって、救いの相続者となる人々、これは私たちのことですが、私たちに仕えるために遣わされている存在なのです。しかし、キリストは違います。キリストは神の御子であって、御使いからも、すべての人からも礼拝を受けるにふさわしい方なのです。

 このように、イエスが神の御子であられ、いかに偉大な方であるかを知ることができたかと思います。私たちは、イエス・キリスト以外のすばらしいものを見てそれがなんとなくすぐれていると思い、このイエスから目を離してしまうことがありますが、そこからは何の助けも、何の慰めも、何の解決も得ることはできません。あなたに真の喜びと希望を与えることができるのは、この天地万物を創造された造り主、それらすべてを支配しておられるまことの神イエス・キリストだけなのです。この方はいつまでもながらえられる方で、決して滅びることがありません。この方はその全能の御手をもって、きのうもきょうも、いつまでも変わることなく、今もあなたのいのちをも守っていてくださいます。この方に目を留めなければなりません。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)このイエスに信仰の始まりがあり、その過程があり、その完成があります。ですから、このイエスをあおぎ見続けていけばよいのです。真の望みはこのイエスを仰ぎ見ることから生まれます。このイエスを見たら、私たちの中から恐れや不安が消えます。霊的貧弱さ、未熟さから解放されます。イエスをすみずみまでじっくりと見続けるなら、あなたの中にある不平不満、憎しみ、ねたみ、敵意、復讐心、うらみ、つらみ、心の闇から解放されるのです。

クリスチャンとなったあの有名なウェスタン歌手、ベバリ・シェアは、「キリストには変えられません」という賛美歌を書きました。

「キリストにはかえられません。いかに美しいものも このお方で心の満たされてある今は 世の楽しみよ去れ 世のほまれよ行け キリストにはかえられません。世の何ものも」

 彼は、彼の心がキリストで満たされたとき、世の何ものも 彼の心を奪うものはないと告白したのです。そうです。ほんものの心で満たされた心はただ喜びはずむだけなのです。

 あるアフリカの青年が、クリスチャンになりました。その青年がある集会でこんな証をしました。「みなさん、私の心はキリストさまでいっぱいでゴムマリのようです。どんなに私を人がたたきつけても、私は強くたたきつけられればたたきつけられるほど、高く喜んではね上がるだけです。もし悪魔が思い切り私をたたきつけたら、私は高く高く天に上って、もう再び地上に帰らないだけです。」これがキリストによって心が満たされた人の思いではないでしょうか。もう何も思い悩む必要はありません。どんな困難も、苦しみも、病も、このキリストにある神の愛からあなたを引き離すことはできないからです。キリストを見るなら、あなたの心はこのような喜びに満たされるのです。

 ですから、どうぞ、心を開いて、キリストを迎え入れてください。キリストこそ、心底からあなたの心をゴムマリのようにふくらんだ、満たされた心にしてくださいます。健康で力強い心にしてくださるのです。なぜなら、キリストにこそ、あなたの心を満足させるすべてのものがかくされているからです。キリストは、造られた御使いとは違って、造り主であり、神の力が満ちています。キリストはいつまでも変わることなく、あなたを守ってくださいます。キリストにこそ、罪の赦しがあり、死からの解放があります。キリストにこそまことのいのち、永遠のいのちがあるのです。この方はまことの神だからです。どうか、この方から目を離さないでください。キリストのことば、その生涯、そしてその十字架と復活をよく見て、味わってください。この方はあなたの人生にも、大きな助けを与えることができるのです。

民数記30章

きょうは民数記30章から学びます。

Ⅰ.自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない(1-2)

「モーセはイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げて言った。「これは主が命じられたことである。人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。」

これは、モーセがイスラエル人の諸部族のかしらたちに告げたことばです。モーセは28章と29章においてイスラエルが約束の地に入ってからささげるいけにえの規定について語りましたが、ここでも同様に、イスラエルが約束の地に入ってからどのように生きるべきなのかについて語っています。ここでは主への誓願と、物断ちの誓願について教えられています。主への誓願についてはナジル人の誓願ということで、これまでレビ記や民数記で学んできました。それは、主のために「この期間、これこれのことをします」と誓願をして行うことですが、物断ちとは、逆に、主のために「この期間、これこれのことをしません」と誓うことです。誓願とは積極的に何かをすることであるのに対して、物断ちは積極的に何かをしないことです。

こうした誓願や物断ちは、主がとても尊ばれることでした。主のためにこれをするとか、これをしないといった意志や決意を主が喜ばれたからです。しかし、そのように誓ったならば、それを果たさなければなりません。すべて自分の口から出たことは、そのとおりに実行しなければならなかったのです。誓ったのにそれを果たさないということがあれば、それは主が喜ばれることではありません。それゆえ、主に誓ったことは取り消すことができなかったのです。新約聖書には、「誓ってはならない」と戒められていますが、それは、無責任になってはいけないということです。誓願、決意、志はとても尊いものですが、そのように誓ったならば、それを果たさなければならないのです。果たさせない誓いはするなというのが、主が戒めておられたことなのです。

Ⅱ.誓願の責任(3-16)

 それでは、この誓願について主はどのように教えておられるでしょうか。3節から16節までをご覧ください。

 

「もし女がまだ婚約していないおとめで、父の家にいて主に誓願をし、あるいは物断ちをする場合、その父が彼女の誓願、あるいは、物断ちを聞いて、その父が彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて、有効としなければならない。もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に禁じるのであるから、主は彼女を赦される。もし彼女が、自分の誓願、あるいは、物断ちをするのに無思慮に言ったことが、まだその身にかかっているうちにとつぐ場合、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効でなければならない。もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。そして主は彼女を赦される。やもめや離婚された女の誓願で、物断ちをするものはすべて有効としなければならない。もし女が夫の家で誓願をし、あるいは、誓って物断ちをする場合、夫がそれを聞いて、彼女に何も言わず、しかも彼女に禁じないならば、彼女の誓願はすべて有効となる。彼女の物断ちもすべて有効としなければならない。もし夫が、そのことを聞いた日にそれらを破棄してしまうなら、その誓願も、物断ちも、彼女の口から出たすべてのことは無効としなければならない。彼女の夫がそれを破棄したので、主は彼女を赦される。すべての誓願も、身を戒めるための物断ちの誓いもみな、彼女の夫がそれを有効にすることができ、彼女の夫がそれを破棄することができる。身を戒めるとは、断食のことです。もし夫が日々、その妻に全く何も言わなければ、夫は彼女のすべての誓願、あるいは、すべての物断ちを有効にする。彼がそれを聞いた日に彼女に何も言わなかったので、彼はそれを有効にしたのである。もし夫がそれを聞いて後、それを破棄してしまうなら、夫が彼女の咎を負う。」以上は主がモーセに命じられたおきてであって、夫とその妻、父と父の家にいるまだ婚約していないその娘との間に関するものである。」

ここで教えられている規定によると、男性が女性の立てた誓願の責任を負うということです。まず、若い未婚の娘の誓願は父親が破棄することができました。また、妻の誓願は夫が破棄することができました。父親や夫が何も言わなかった時だけ、その誓願が有効になったのです。ただし父親や夫が娘または妻の誓願を無効にすることができたのは、それを聞いた最初の日、すなわち、誓願を立てた最初の日に限られていました。9節にはやもめや離婚された女の誓願について語られていますが、それはすべて有効としなければなりませんでした。どんな神への誓いも守られなければならなかったのです。

いったいこのことは私たちに何を教えているのでしょうか。ここで、この誓願を立てている人に注目したいと思います。すなわち、ここで誓願を立てている人はみな女性であるということです。この30章では、誓願の中でも女性の人が立てる誓願について語られているのです。つまりイスラエル全体は最小単位である夫婦、家族から始まり、それが氏族、部族、そしてイスラエルの家全体へと広がっているということです。イスラエルは、それぞれの部族が共同体を形成しており、それぞれが一つになって物事を管理していかなければいけません。その最小単位が夫婦であり、家族だったのです。その夫婦や家族がどうあるべきなのか、そのことが教えられているのでするそれが民全体へと広がっていくからです。

それはイスラエル民族に限らずすべての組織に言えることではないでしょうか。たとえば、Ⅰテモテ3章4,5節には教会の監督の資格について語られていますが、その一つとしてあげられていることは自分の家庭をよく治めている人であるということです。「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもたちも従わせている人です。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。」

教会のことについて教えられているのになぜ自分の家庭のことが出てくるのか。それは家庭が教会の最小単位だからです。それが地域教会、さらには神の国全体へと広がっていくのです。だから、家庭がどのように治められるかはとても重要なことなのです。この国全体の建て上げを考えても、実はそれぞれの家族がどうあるべきなのかがその鍵を握っていると言えるでしょう。

では家族はどうあるべきなのでしょうか。ここにはその秩序が教えられています。すなわち、家族のリーダーは父親であり、夫婦のリーダーは夫であり、その権威に従わなければならないということです。それは父親が必ずしも正しいとか、絶対であるという意味ではありません。また、夫が必ずしも優しく親切であるということではないのです。それは神が立てた秩序であって、その秩序に従って歩むことによって、家族全体が神の祝福の中で平和に過ごすことができるようになるということです。家の中で、もしある人が一つのことを決意して、他の人が別のことを決意して、その両方を同時に行なうことができないものであれば、どちらかを破棄しなければいけません。そこで、今読んだような定めがあるのです。娘が誓願を立て、父親が、それが家全体にとって良くないことであると判断したのならば、その誓願を禁じなければいけません。けれども、娘が誓願を立てていたことを聞いたその日に、それを禁じなければ、その誓願は有効としなければらないのです。

それは神の家族である教会にも言えることです。神は家族としての教会に指導者を立ててくださいました。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師です。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全に大人になって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです(エペソ4:10-13)。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがないためです。ですから、教会にこうした指導者が与えられていることは本当に感謝なことなのです。もしこうした指導者がいなかったらどうでしょうか。神の教会がまとまることはないでしょう。各自、自分が思うことを主張するようになり、やりたいことをするので決してまとまることはありません。ですから、無牧の教会は悲惨なのです。牧者がいないのですから、どこに行ったらいいか、何をしたらいいか、わかりません。各自が自分の思った通りに行動します。それは楽でいいようですが不幸なことです。食べ物に預かることができず、やがて死を迎えることになることでしょう。だから神の家族である教会には年齢や性別、育った環境、置かれている状況など多種多様な人たちが集まっていますが、そうした中にあってこうした秩序を重んじ、それに従って一致して行動することが求められているのです。

それは、女だから口を出すな、ということはありません。黙っていればいいのね、黙っていれば・・ということでもないのです。女性であっても志を立てることはすばらしいことです。しかし、それが家族全体にとってどうなのかをよく吟味するためによく祈らなければなりません。そして教会の指導者たちの意見を聞き、その指導に従わなければならないのです。

また、男は、怒ったり言い争ったりせず、聖い手をあげて祈らなければなりません。そうすれば、妻や子どもに対してどうあるべきかが見えてくるでしょう。つまり、自分が家の主だかと言って傲慢にふるまうのではなく、自分の妻や娘の意見をよく聞いて、判断しなければならないということです。自分の妻が今何を考え、何を行なっているのかを見て、聞いて、彼女の意志を尊重しなければならないのです。ペテロは、「夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐものとして尊敬しなさい。」(Ⅰペテロ3:7)と勧めていますが、このことをわきまえて、妻とともに生活することが求められているのです。つまりキリストが夫婦の関係に求めた愛と服従の関係が、神の家族である教会の中でも、さらにありとあらゆる関係の中に求められているのです。