Ⅱ列王記7章

 

 今回は、Ⅱ列王記7章から学びます。

 Ⅰ.ツァラアトに冒された四人の人の決断(1-9)

まず、1~9をご覧ください。まず1~2節をお読みします。「1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」2 しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、神の人に答えて言った。「たとえ主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、エリシャは言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

1節のエリシャのことばは、6章33節でイスラエルの王ヨラムの使者のことば対して語ったことばです。ヨラムの使者はエリシャに、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか」と言いました。それは、サマリアが飢饉でハイパーインフレに陥っていたからです。6章25節には、飢饉のため、ろばの頭一つが銀80シェケル、約7万千円で、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シェケル、約4千5百円で売られていたとあります。また、6章29節には、子どもを煮て食べたという話がありますが、それほどの飢えで苦しんでいたのです。これは主からのわざわいであって、これ以上、何を期待することができるというのか。そんな偽りを言う者のことばなど信じられるかとエリシャに詰め寄ったのです。それに対してエリシャが言ったことはこうでした。

「主のことばを聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」  

明日の今ごろとは、数時間後にはということです。数時間後には上質の小麦粉1セア(約7.6㍑)が1シェケル(11.4g)で、大麦も2セア(約15㍑)が1シェケルで売られるようになるというのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1gが80円だとすると、 912円となります。今朝の聖書日課の箇所は創世記37章でしたが、ヨセフは銀20枚、つまり、20シェケルイシュマエル人に売られました。ですから、現代の価値に換算すると、1シェケルは1,000~2,000円くらいでしょうか。エリシャは、小麦7.6㍑が1000円くらいで売られるようになると言ったのです。大飢饉でかなりのインフレの中にあったサマリアにおいては考えられないほど安い価格です。

しかし、侍従で、王が頼みにしていた者が、エリシャにこう言いました。「たとい、主が天に窓を作られたとしても、そんなことがあるだろうか。」「王が頼みにしていた者」とは、親衛隊の隊長のことです。彼はエリシャに、絶対にそんなことはあり得ないと言ったのです。神にはそのような奇跡を行う力はないし、もしあったとしても、そうはされないだろう、というのです。そこで、エリシャは言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」

このことばを覚えておいてください。これが後に実現することになります。信仰がない人は、現実的にしか物事を見ることができません。神様なんているわけがないし、いたとしても、そんなことができるはずがないと考えるのです。それゆえ、目に見ていないものを自分のものにすることができません。

しかし、それが現実のものとなります。どのようにそれが実現したかについて、3節以降で展開されていきます。3~9節をご覧ください。「3 さて、ツァラアトに冒された四人の人が、町の門の入り口にいた。彼らは互いに言った。「われわれはどうして死ぬまでここに座っていなければならないのか。4 たとえ町に入ろうと言ったところで、町は食糧難だから、われわれはそこで死ななければならない。ここに座っていても死ぬだけだ。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼らがわれわれを生かしておいてくれるなら、われわれは生き延びられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。すると、なんと、そこにはだれもいなかった。6 これは、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイト人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲って来る」と言い、7 夕暮れに立って逃げ、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったからであった。8 ツァラアトに冒されたこの人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕に入って食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠した。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して隠した。9 彼らは互いに言った。「われわれのしていることは正しくない。今日は良い知らせの日なのに、われわれはためらっている。もし明け方まで待っていたら、罰を受けるだろう。さあ、行こう。行って王の家に知らせよう。」

ここにツァラアトに冒された4人の人が登場します。3節の町の門とは、サマリアの町の門のことです。彼らはサマリアの門の入り口にいました。というのは、ツァラアトに冒された人はイスラエルでは共同体から隔離されて生活していたからです。ですから彼らは町の門の入口にいて、そこで捨てられるゴミから自分の食料となるものを探して生きていたのです。 

彼らは互いに話し合っていました。ここに座っているだけならただ死ぬだけだし、かといって町に入ったところで、町は食糧難だから、そこで死んでしまうことになるだろう。だったら、いっそのことアラムの陣営に入り込んでみたらどうか。もし彼らが自分たちを生かしておいてくれるなら生き延びることができるし、もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。

こうして彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端までやって来ました。すると、そこはどうなっていましたか。そこにはだれもいませんでした。まさにもぬけの殻だったのです。何があったのでしょうか。6~7節をご覧ください。これは主がなさったことです。主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせたので、彼らが口々に「見よ。イスラエルの王が、ヒッタイトの王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲ってくる」と言って、自分たちの天幕や馬やろば、陣営をそのまま起き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのです。

それでツァラアトに冒されたこの人たちは、歓喜しながら、思う存分飲み食いしました。そしてそこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。また戻って来てはほかの天幕に入り、そこからも持ち出して秘密の場所に隠しました。あとで来て取り出せるようにするためです。

しかし、彼らはだんだん不安になってきました。こんなに良い知らせなのに、これを秘密にしていたら、いつか誰かが発見した時にばれて、なぜ秘密にしていたのかと、自分たちの責任を問われることになるだろう。だったらこの発見を伝えた方がいい。だから今すぐ、この良い知らせを王の家にも知らせようと思ったのです。

福音伝道もこれと同じですね。パウロは、Ⅰコリント9章16節で、「もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。」と言っています。伝道とは、食べ物のありかを見つけた乞食が、他の乞食に、そのありかを教えてあげるようなものです。良き知らせを伝える者の足は、何と美しいでしょうか(ローマ10:15)。

Ⅱ. 疑ったイスラエルの王ヨラム(10-15)

次に、10~15節をご覧ください。「10 彼らは町に入って門衛を呼び、彼らに告げた。「われわれがアラムの陣営に入ってみると、なんとそこにはだれの姿もなく、人の声もありませんでした。ただ、馬やろばがつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」11 そこで門衛たちは叫んで、門内の王の家に告げた。12 王は夜中に起きて家来たちに言った。「アラム人がわれわれに対して謀ったことをおまえたちに教えよう。彼らはわれわれが飢えているのを知っているので、陣営から出て行って野に隠れ、『イスラエル人が町から出たら生け捕りにし、それから町に押し入ろう』と考えているのだ。」13 すると、家来の一人が答えた。「それでは、だれかにこの町に残っている馬の中から五頭を取らせ、遣わして調べさせてみましょう。どうせ、この町に残っているイスラエルのすべての民衆も、すでに滅んだイスラエルのすべての民衆と同じ目にあうのですから。」14 彼らが二台分の戦車の馬を取ると、王は「行って確かめて来い」と命じて、アラムの軍勢を追わせた。15 彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行った。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てていった衣服や武具でいっぱいであった。使者たちは帰って来て、このことを王に報告した。」

ツァラアトに冒された4人の人たちは、急いで町に入って門衛を呼び、事の次第を告げました。それを聞いた門衛たちは驚き、早速その知らせを王の家にいた人たちに伝えました。それを聞いたヨラム王はどのように反応したでしょうか。12節にあるようよ、彼はそれを聞くと疑い、それはアラム人たちが自分たちをおびき寄せるための罠だと言いました。彼らは自分たちが飢えていることを知っているので、陣営から出て来て野に隠れ、自分たちが喜んでで町を出たとたん、攻撃をしかけてくる考えだと言ったのです。これがヨラムの判断でした。不信仰は、あるものを手に入れなくさせてしまいます。

すると、それを聞いた家来の一人があることを提案します。それは、サマリアに残っている馬の中から5頭を取らせ、遣わして調べさせてみたらどうかということでした。どうせこの町に残っている民衆も、すでに滅んだイスラエルの民衆と同じ目に遭うのだからです。すでに滅んだイスラエルの民衆とは、飢えで死んでいった人たちのことです。創造主訳聖書はこれをわかりやすく訳しています。「それではこういたしましょう。この町に残っている馬の中から五頭を使って、偵察にやらせましょう。そうすれば、事情は判明いたします。ここにいても、どうせ同じ運命をたどるのでございますから。」わかりやすいですね。こういう意味です。

ヨラム王はこの提案を受け入れ、「行って確かめて来い」と命じて、偵察隊を派遣しました。彼らはアラム人を追って、ヨルダン川まで行きました。ところが、なんと、道はいたるところ、アラム人が慌てて逃げるときに捨てて行った衣服や武具でいっぱいでした。サマリアからヨルダン川までの距離は、約40キロあります。その間、アラム人が残していった衣服や武具が散乱していたのです。

ヨラムが敵の策略だと疑ったのは、人間的には合理的なことです。しかし、信仰の視点からは、誤った判断だったと言えます。エリシャはヨラムに主の解放を預言していたのに、それを無視していたからです。サマリアの解放は、主の御手によってたなされたものであって、人間の知恵や力によるものではありませんでした。

イスラエルはエジプトを出た後、バアル・ツェフォンの前にあるピ・ハヒロテで、海辺に宿営していたとき、追って来たエジプト軍を前に大いに恐れて、主に向かって叫びました。その時、モーセが民に言ったことばがこれでした。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト14:13-14)

主が戦ってくださいます。ですから、私たちはそう信じて、主のなさる御業を、ただ黙っていなければなりません。

Ⅲ.主のことばのとおり(16-20)

最後に、16~20節をご覧ください。【16 そこで、民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られた。17 王は例の侍従、頼みにしていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたことばのとおりであった。18 かつて神の人が王に、「明日の今ごろ、サマリアの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる」と言ったときに、19 侍従は神の人に答えて、「たとえ主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」と言った。そこで、エリシャは「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」と言った。20 そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。」

この知らせが事実であることを知ったヨラム王は、サマリアの町の門を開きました。すると民は出て行ってアラムの陣営をかすめ奪ったので、主のことばのとおり、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られました。

ヨラムは、あの頼みにしていた侍従を門のところで整理に当たらせましたが、熱狂した人々がそこへ殺到したので、侍従は転倒し、踏みつけられ死にました。いったいなぜこのようなことが起こったのでしょうか。それは、エリシャが明日の今ごろ、サマリアの町は解放され、その門のところで、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになるという預言を、彼が信じなかったからです。彼は、たとい、主が天に窓を作るにしても、そんなことがあるだろうか」と言って、エリシャの権威をあざけりました。つまり、これは不信仰の代価であったということです。私たちには、信仰の目が与えられています。信仰によって見える世界があります。そして、その世界を実際に、自分のものとして楽しむことができます。その反対に不信仰であれば、あらゆる機会を自分で失ってしまうことになります。

主が語られたことは必ず実現します。これはその預言が実現したということです。エリシャは彼に言いました。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(19)その預言が成就したのです。私たちは信じない者にならないで、信じる者になりましょう。主が語られたことは必ず実現するからです。

Ⅱ列王記6章

 

 今回は、Ⅱ列王記6章から学びます。

 Ⅰ.浮かんだ斧の頭(1-7)

まず、1~7をご覧ください。「1 預言者の仲間たちがエリシャに、「ご覧のとおり、私たちがあなたと一緒に住んでいるこの場所は狭くなりましたので、2 ヨルダン川に行きましょう。そこから各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに私たちの住む場所を作りましょう」と言うと、エリシャは「行きなさい」と言った。3 すると一人が、「どうか、ぜひ、しもべたちと一緒に来てください」と言ったので、エリシャは「では、私も行こう」と言って、4 彼らと一緒に出かけた。彼らはヨルダン川に着くと、木を切り倒した。5 一人が梁にする木を切り倒しているとき、斧の頭が水の中に落ちてしまった。彼は叫んだ。「ああ、主よ、あれは借り物です。」6 神の人は言った。「どこに落ちたのか。」彼がその場所を示すと、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込み、斧の頭を浮かばせた。7 彼が「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして、それを取り上げた。」

エリシャの奇跡の物語が続きます。1節には、預言者の仲間たちがエリシャに、一緒に住んでいる場所が狭くなったので、ヨルダン川から各自一本ずつ梁にする木を切り出して、そこに住む場所を作りましょう、と提案しました。おそらくここはエリコだったと思われます。というのは、エリコには預言者の学校があったからです。エリコからヨルダン川まではすぐ近くです。約10㎞くらいです。ですから、預言者の仲間は、その宿舎が手狭(てぜま)になったので、ヨルダン川から木を切り出して宿舎を建てようと提案したわけです。

エリシャが「行きなさい」と言うとその中の一人が、自分たちと一緒に来てくださいと言ったので、エリシャは彼らと一緒に行くことにしました。彼らはヨルダン川に着いて木を切り倒し始めると、一人が使っていた斧の頭が水の中に落ちてしまいました。オ、ノー!です。小さな出来事ですが、当事者にとっては大変なことでした。なぜなら、それは借り物だったからです。

それでエリシャは「どこに落ちたのか」と言うと、彼がその場所を示したので、エリシャは一本の枝を切ってそこに投げ込みその斧の頭を浮かばせたのです。エリシャが「それを拾い上げなさい」と言ったので、その人は手を伸ばして取り上げました。

斧の頭を取り戻したその人は、どれほど安堵したことでしょうか。この人が預言者の仲間たちであったことに注目してください。すなわち、預言者学校の生徒たちです。バアル礼拝がはびこっていた当時のイスラエルにあって、彼らは真の神に仕えていました。それがどれほど容易なことではなかったことは想像できます。しかし、そうした中にあって彼らは、この奇跡によって主が生きておられることを体験的に学んだのです。私たちの神は、どんな小さなことにも目を留めてくださり、その必要に応えてくださるお方なのです。

Ⅱ.目をくらまされたアラムの軍勢(8-23)

次に、8~23節をご覧ください。14節までお読みします。「8 さて、アラムの王がイスラエルと戦っていたとき、彼は家来たちと相談して言った。「これこれの場所に陣を敷こう。」9 そのとき、神の人はイスラエルの王のもとに人を遣わして言った。「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」10 イスラエルの王は、神の人が告げたその場所に人を遣わした。神の人が警告すると、王はそこを警戒した。このようなことは一度や二度ではなかった。11 このことで、アラムの王の心は激しく動揺した。彼は家来たちを呼んで言った。「われわれのうちのだれがイスラエルの王と通じているのか、おまえたちは私に告げないのか。」12 すると家来の一人が言った。「いいえ、わが主、王よ。イスラエルにいる預言者エリシャが、あなたが寝室の中で語られることばまでもイスラエルの王に告げているのです。」13 王は言った。「行って、彼がどこにいるかを突き止めよ。人を遣わして、彼を捕まえよう。」そのうちに、「今、彼はドタンにいる」という知らせが王にもたらされた。14 そこで、王は馬と戦車と大軍をそこに送った。彼らは夜のうちに来て、その町を包囲した。」

アラムの王とは、ベン・ハダド2世です。そのアラムの王がイスラエルと戦っていました。このイスラエルの王とはヨラム王です。5章では、アラムとイスラエルの関係は平和で、アラムの将軍ナアマンがツァラアトに冒された時、アラムの王ベン・ハダドがイスラエルの王ヨラムに宛てて手紙を書き送ったほどです。しかし、ここでは両国が対立し戦っています。アラムとイスラエルの間には、戦争の時と平和の時が交互に訪れていたのです。この時は戦争の時でした。

その時、アラムの王が家来たちと相談して、「これこれの場所に陣を敷こう」と言うと、神の人エリシャはイスラエルの王のもとに人を遣わして、「あの場所を通らないように注意しなさい。あそこにはアラム人が下って来ますから。」と警告していました。それは一度や二度ではありません。何度も、です。いわゆる筒抜けの状態だったのです。それでアラムの王は激しく動揺して、自分たちのうちにだれかイスラエルの王と通じている者がいるのではないかと疑いました。

すると一人の家来が、イスラエルにいる預言者エリシャの存在を告げます。彼がアラムの王が寝室で語っていることばまでもイスラエルの王に告げていると。すごいですね、寝室というのは最もプライベートな領域です。そこで語られることはそこにいる人しか知らないことです。そのことまで知っているということは、何でも知っているということです。そうです、イスラエルの神、主は何でもご存知であられる方です。寝室で語っていることでさえ知っておられるお方なのです。

そこでアラムの王は、エリシャの居場所を突き止めて彼を捕らえようとしました。そして彼がドタンにいるという知らせを受けたとき、そこに馬と戦車と大軍を送り、夜のうちに来て、その町を包囲しました。

15~23節をご覧ください。「15 神の人の召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若者がエリシャに、「ああ、ご主人様。どうしたらよいのでしょう」と言った。16 すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。17 そして、エリシャは祈って主に願った。「どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。18 アラム人がエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうか、この民を打って目をくらませてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って目をくらまされた。19 エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってあげよう。」こうして、彼らをサマリアへ連れて行った。20 彼らがサマリアに着くと、エリシャは言った。「主よ、この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開き、彼らが見ると、なんと、自分たちはサマリアの真ん中に来ていた。21 イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ち殺しましょうか。私が打ち殺しましょうか。わが父よ。」22 エリシャは言った。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」23 そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それ以来、アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入しなかった。」

エリシャの召使いが、朝早く起きて外に出ると、なんと、馬と戦車と軍勢がその町を包囲していました。それで慌ててエリシャにそのことを告げると、エリシャはこう言いました。「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」

すばらしいですね。これは真実です。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのです。それを信仰によってしっかりと見なければなりません。今、エリシャのところで仕えている若者は、アラムの大軍しか目に見えていません。この大軍と自分たちを比べて、もうだめだ、と思ったのです。けれども、エリシャが祈ったように、私たちがしなければいけないのは、自分と敵を比べるのではなく、神と敵を比べることです。自分たちの味方の軍勢が、敵の軍勢よりも圧倒的に優勢であることを知ることです。このことによって、私たちの目に見える生活の中でも影響が与えられ、勝利することができるのです。

それで、エリシャは主がその若者の目を開いて、見えるようにしてくださいと祈ると、彼の目が開かれました。彼が見ると、なんと、火の戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていました。私たちの神は万軍の主です。エリシャを護衛するために、主の軍勢が町を取り巻いていたのです。

私たちもまた、霊の目が開かれるように祈るべきです。苦難の日には主の軍勢が私たちを取り囲み、敵の攻撃から守ってくださることをしっかりと見なければならないのです。

パウロは、エペソ人への手紙1章17~19節でこう祈っています。「17どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」

パウロはここで、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますようにと祈っています。そのためには、心の目がはっきり見えるようにならなければなりません。でからパウロは、主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださるようにと祈ったのです。

そればかりではありません。アラムの軍勢がエリシャに向かって下って来たとき、エリシャは主に祈って言いました。彼らを打って目をくらましてくださいと。すると主はエリシャのことばの通り、彼らを打って目をくらませたので、彼らをイスラエルの首都であるサマリアへ連れて行きました。

サマリアに着くと、エリシャが彼らの目を開いて見えるようにしてくださいと祈ると、主が彼らの目を開けてくれたので、彼らは見えるようになりました。そして、なんと、彼らは自分たちがサマリアの真ん中にいることを知りました。

イスラエルの王ヨラムは彼らを見て、エリシャに「私が殺しましょうか。私が殺しましょうか。わが父よ。」と言いました。これまでヨラムはエリシャの存在を毛嫌いしていたのに、ここでは「わが父よ」と呼びかけています。これまでの経緯を見て、ヨラムはエリシャに敬意を表するようになったのでしょう。

それに対してエリシャは何と言いましたか。22節です。「打ち殺してはなりません。あなたは、捕虜にした者を自分の剣と弓で打ち殺しますか。彼らにパンと水を与え、食べたり飲んだりさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」

なんとエリシャは全く逆のことを言いました。打ち殺すどころか、彼らにパンと水を与えて、彼らの主君のもとに送り返しなさいというのです。捕虜の扱いとしては前代未聞です。そこでヨラムは大宴会を催しました。彼らのために盛大なもてなしをして、彼らが食べたり飲んだりした後、彼らを家に帰したのです。するとどういうことになったでしょうか?するとそれ以来、アラムは二度とイスラエルの地に侵入しませんでした。

多くの犠牲を払っても達成できなかった平和を、主は平和的に行われたのです。イエス様は「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5:9)と言われました。神は平和の神です。私たちは争いではなく平和をつくる者でなければなりません。そこに平和の神が臨在してくださるからです。

Ⅲ.サマリアに起こった大飢饉(24-33)

最後に、24~33節をご覧ください。「24 この後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲した。25 サマリアには大飢饉が起こっていて、また彼らが包囲していたので、ろばの頭一つが銀八十シェケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀五シェケルで売られるようになった。26 イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んだ。「わが主、王よ。お救いください。」27 王は言った。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」28 それから王は彼女に尋ねた。「いったい、どうしたというのか。」彼女は答えた。「この女が私に『あなたの子どもをよこしなさい。私たちは今日、それを食べて、明日は私の子どもを食べましょう』と言ったのです。29 それで私たちは、私の子どもを煮て食べました。その翌日、私は彼女に『さあ、あなたの子どもをよこしなさい。私たちはそれを食べましょう』と言ったのですが、彼女は自分の子どもを隠してしまったのです。」30 王はこの女の言うことを聞くと、自分の衣を引き裂いた。彼は城壁の上を通っていたので、民が見ると、なんと、王は衣の下に粗布を着ていた。31 彼は言った。「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」

32 エリシャは自分の家に座っていて、長老たちも彼と一緒に座っていた。王は一人の者を自分のもとから遣わした。しかし、その使者がエリシャのところに着く前に、エリシャは長老たちに言った。「あの人殺しが、私の首をはねに人を遣わしたのを知っていますか。気をつけなさい。使者が来たら戸を閉め、戸を押しても入れないようにしなさい。そのうしろに、彼の主君の足音がするではありませんか。」33 彼がまだ彼らと話しているうちに、使者が彼のところに下って来て言った。「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」」

その後、アラムの王ベン・ハダドは全軍を召集し、サマリアに上って来て、これを包囲しました。ちょっと待ってくださいよ。23節には、アラムの略奪隊は二度とイスラエルに侵入しなかったとあるのに、24節にはそのアラムの王ベン・ハダドが全軍を召集してサマリアに上って来て、これを包囲したとあります。これはどういうことでしょうか。

この23節と24節の間には、どれくらいの期間があったのかはわかりませんが、おそらく何年もの時間が経過していたのでしょう。その間に彼らは、超自然的に盲目とされ、最後は盛大なもてなしを受けて本国に戻されたことを、すっかり忘れてしまったのです。感謝の記憶が薄れることは、危険なことですね。

そして、私たちにもそのようなことがよくあります。神様はイエス・キリストを通して一方的な恵みによって私たちを救ってくださったのに、その恵みを忘れて、自分勝手に行動し、神の愛から離れてしまうことがあるのです。詩篇103篇2節には、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の欲してくださったことを何一つわすれるな。」とあります。主が良くしてくださったことを忘れないで、いつも主に感謝と賛美をささげなければなりません。

さて、アラムの王ベン・ハダドがサマリアに上って来てこれを包囲したとき、サマリアはどうなったでしょうか。25節を見ると、サマリアには大飢饉が起こっていました。この飢饉は自然環境によってもたらされたものではありません。これはアラムがサマリアを包囲したことによってもたらされたものです。つまり、アラムがとった戦法は包囲戦で、いわゆる兵糧攻めにしたということです。その結果、サマリアに大飢饉が起こったのです。

それは想像を絶するほどひどいものでした。ろばの頭一つが銀80シェケルで売られ、鳩の糞一カブの4分の1が銀5シェケルで売られるようになっていました。ろばの頭は、不浄の動物の頭なので、平時であれば食べる人などいません。それが80シェケルで売られていたのです。1シェケルは、現代の価値に換算すると、仮に銀1g80円だとすると912円となります。ですから、ろばの頭が72,960円ということになります。普通はたべないろばの頭が72960円もするのです。鳩の糞とは、通常は家畜の餌になるものでしたが、その一カブの4分の1が4,500円もしたのです。かなりのハイパーインフレです。

そんな時、イスラエルの王が城壁の上を通りかかると、一人の女が彼に叫んで言いました。「わが主、王よ。お救いください。」

すると彼はこう言いました。27節です。「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。打ち場の物をもってか。それとも、踏み場の物をもってか。」つまり、自分は王であっても、何もあげるものはないよと言うことです。それほど飢饉がひどい状態であったということです。どれほどひどい状態であったかは、この女の訴えを聞くとわかります。ヨラムが彼女に「どうしたのか」と尋ねると、彼女は答えました。知り合いの女の提案で、今日は自分の子どもを煮て食べ、明日は彼女の子どもを煮て食べることになっていましたが、彼女の番になったとき、彼女はその子を隠してしまったというのです。こんな悲惨なことが起こるほどに、サマリアの町の飢饉は激しかったのです。

それを聞くと王は、衣の下に荒布を来ていましたが、「今日、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」と言いました。荒布は、悔い改めを表現するために着用するものですが、彼は主に立ち返るどころかそれをエリシャのせいにして、イスラエルの罪を指摘するエリシャに腹を立て、彼を殺そうとしたのです。彼は、主がなされた数々の奇跡を目撃しながら、悔い改めようとしませんでした。今回の試練は、主がイスラエルの民を悔い改めるために与えたものです。私たちも、試練に会ったとき、神が何を語っておられるのか、そこから神の御声を汲み取らなければなりません。

エリシャはそのことを知っていました。彼は自分の家に座っていて、長老たちと一緒にいました。そして、長老たちに、イスラエルの王ヨラムが自分の首をはねに人を遣わしたことを告げ、使者が来ても、だれも中に入れないように、戸を閉めておくようにと言いました。案の定、エリシャが話していると、イスラエルの王の使いがやって来ました。その使いはエリシャのところに来ると、「見よ、これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」と言いました。どういうことでしょうか。

ヨラム王は、エリシャから今回の事は主からの裁きであると聞いていたのでしょう。だから、主が解決してくださるのを待つようにと助言されていたのです。けれどもヨラムは待ちきれなくなり、悔い改めるよりも自分で問題を解決しようとしたのです。エリシャを殺せば、彼が語った呪いの言葉が効力を失うと思ったのです。

ヨラムはどこまでも身勝手な人間でした。自分の身に起こるわざわいを自分以外の者は環境のせいにして、その本質を見ることができませんでした。その本質とは神との関係です。神との関係が崩れることで、私たちの人生にさまざまな問題が起こりますが、その最大の解決は悔い改めて神との関係を回復することなのです。それ無しには何も解決することはありません。それ無しに人間的に動いても、それはかえって逆の結果をもたらすことになります。静まって神を待ち望み、神の御前に悔い改めて神にすべてをゆだねること、それが、私たちが苦難の時に生きる道なのです。

エレミヤ15章15~21節「堅固な青銅の城壁とする」

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きょうは、エレミヤ書15章後半の個所から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節の御言葉から取りました。
  「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」

  前回のところでエレミヤは、自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔しました。10節でしたね。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を生んだので、私は全地にとって争いの相手、口論する者となっている。」それは彼が、エルサレムが滅びるという極めて悲惨な預言をユダの民に語らなければならなかったからです。そしてそれを聞いた民が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。

それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。必ず主は彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。

しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。再び彼は神に不平をもらすのです。それが今日の箇所です。そして、それに対する神の答えがこれだったのです。「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」

 Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」

これは、エレミヤの祈りです。これは実に正直でストレートな祈りです。自分の思いの丈をぶつけています。言葉で飾るようなことをしていません。
  15節で彼は、「私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。」「私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。」と言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えているのです。

16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したということです。そしたらそれが楽しみとなり、心の喜びとなりました。リビングバイブルでは、「有頂天となった」と訳していますが、そういう意味です。これは、飛んだり、跳ねたりして喜ぶ様を表しています。御言葉を食べたら、そのあまりの美味しさに小躍りするくらいうれしくなったというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。それは、患難や苦難が無くなるということではありません。神の御言葉を食べて喜んでも、患難や苦難があなたを襲うことがあります。人々から誤解されたり、バカにされたり、憎まれたり、(さげす)まれたりすることがあります。でも違うのは、そのような中にあっても、神の御言葉があなたを支えてくれるということです。エレミヤは神の御言葉によって支えられていました。彼が神の御言葉を食べていなかったら、簡単に潰れていたでしょう。

それは私たちにも言えることです。御言葉を食べて、御言葉を味わい、御言葉を楽しみ、御言葉を心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!神様を信じたって何の役にも立ちません。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは神の御言葉です。イエスのことばを聞いてそれを食べ、それを楽しみ、それを喜び、それに従う人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることがないのです。

それでも、エレミヤは傷ついていました。神の御言葉食べてそれを楽しんでいても、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言ってしまいます。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」

どういうことでしょうか。エレミヤはここで神様に向かって、「あなたは偽り者だ!」と言っているのです。なぜ私がこんな目に遭わなければならないのですか。私はいつまで続まなければならないのですか。私の打ち傷は治らず、癒されません。そんなのおかしいじゃないですか。あなたは約束してくださいました。あなたはいのちの水の泉だと。だから私はあなたに信頼したのです。それなのに、あなたに頼ってもあなたは答えてくれません。それは欺く小川の流れのようです。当てにならない水にすぎません。そう言っているのです。これは本来言ってはいけないことばです。神様に不平不満をもらしているのですから。
  この「小川」というのは、「ワディ」と呼ばれる川のことですが、この川は雨の季節は水が流れていることはあっても、乾燥した季節は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういう水のことです。あるようでない。あるように見せかけても実際にはありません。エレミヤは神様をこの当てにならない小川にたとえたのです。あると思ったのにない。神様は欺く小川の流れだと。全く役に立たない。祈っても答えてくれない。期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきです」なんて言えません。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼になっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いを正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信じていいんですかと。

私たちにもこのようなことがあります。落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることがあります。でも、エレミヤのようにそれを正直に神に訴えることができません。ちゃんと祈らなければならないと思っているからです。それで美辞麗句を並べて、心にもないことを言ってしまうのです。
  「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛め苦しんでいますが、あなたはもっとひどい苦しみを受けられました。あなたは十字架で「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。ですから、私もあなたの御言葉に従ってあの人を赦します。あの人を愛します。あの人のために祈ります。どうか、あなたのお力を与えてください。アーメン」
  すばらしい祈りです。でも本音は違うでしょ。本当は憎いのです。赦せないのです。ムカついています。それなのに、きれいな言葉で祈らなければならないと思っています。クリスチャンだから。一応。
  でも神様は、あなたの心の思いを全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はなのです。あなたの正直な気持ちをエレミヤのように神様に訴えていいのです。なかなか祈れないという人の問題はここにあります。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。だから祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。仮面を被ったもう一人の自分が祈っているかのような、そんな感覚さえ抱いてしまいます。しかし、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりをする必要はありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に祈っていいのです。

詩篇を見るとそういう祈りがたくさん出てきます。詩篇109篇などはそうです。その中でダビデは敵に仕返ししてくだいというだけでなく、敵がことごとくのろわれるようにしてくださいとまで祈っています。「敵を愛しなさい」と言われたイエス様の教えを知っている私たちにとっては戸惑いを感じますが、それでいいのです。自分の心の思いを正直に主に申し上げることが大切なのです。

私は、1993年に初めて韓国に行きました。当時ホーリネス教会では世界で一番大きいと言われていた教会がソウルにあって、その教会が主催した牧師のセミナーに参加したのです。教会の信徒さんが「ぜひ先生も行って恵まれて来てください。その費用は私たちが献げますから。先生が恵まれることで私たちも恵まれますから」と、背中を押してくれたのです。それは光林教会という教会でした。今でも覚えています。礼拝が始まると同時に礼拝堂の窓のカーテンが自動的に閉まるのです。すると講壇の前にいたオーケストラが賛美歌を奏でました。「来る朝ごとに」でした。荘厳な雰囲気の中で荘厳な曲が奏でられ、体が震えました。あたかも天国にいるかのような光景でした。
  私たちは、その教会が所有している祈祷院に宿泊したのですが、そこには毎晩のように多くの信徒が祈るために来ていました。何を祈っているのかわかりませんが「チュよ、チュよ」と犬の遠吠えのような大きな声が聞こえてきました。私も隣の部屋で祈っていましたが声が気になってなかなか祈れませんでした。
  そこで担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈るんですよと。韓国人はそういう国民性なのかと驚いて、もっと大きな声で祈りましたが、ナイーブな私にはやはりうるさくて祈れませんでした。でも韓国の兄姉は違うんですね。もっと大きな声で祈ります。他の人は関係ありません。全く視野に入ってこないのです。ただ主を見上げて、「チュよ、チュよ」と叫ぶのです。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。
  当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会もそうでした。私は徹夜祈祷会にも行きましたが、11月の末のとても寒い時ですよ。教会を出たところで多くの人たちがあちこちでひざまずいて祈っているのです。中では礼拝形式で祈祷会が持たれていましたが、集会の終わると多くの兄姉が講壇になだれ込み、「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っていました。それはもう祈りじゃないです。叫びです。主に向かって心を注いで叫んでいるという感じでした。飢えた魚がえさを求めるように。周りの人がどう思うかなんて関係ありません。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。

それでいいんです。というのは、このエレミヤのつぶやきや疑いに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんなことを祈るなんてひどいヤツダとか、私を疑うなんてとんでもないことだとか、お前のような者はもうわたしのことばを語る資格などないとか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを受け入れてくださいました。19節からのところで、その祈りに対して主が応答していることからもわかります。正直に言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それが祈りです。それがエレミヤの祈りでした。祈りとはまさにコミュニケーション、対話です。それがこの中に見られるということです。

私たちは神様とこのようなコミュニケーションを取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈ります、という通り一辺倒の祈りではなかったでしょうか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わってはいなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあるかもしれません。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいのです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもってとりなしてくださいますから。ローマ8章26節にこうあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
  感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエスが、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
  ですから、決して神様に対して自分の気持ちを隠す必要はありません。仮面を被らなくてもいい。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢することができません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」これでいいんです。

でも、これで終わってはいけません。ここが重要なポイントです。これを神に訴えるとはどういうことかということです。これを神に訴えるとは、だから助けてください!ということなのです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにということではなく、神様に助けを求め、神様がその力を与えてくださるように願うことなのです。神様はあなたの本音を知っておられますから。正直な気持ちを知っておられますから。それをまず神様にぶつけない限り何も始まりません。それを正直に訴えたうえで神に助けを求める。そこに主が働いてくださいます。それを隠したまま、ただことば巧みに自分を霊的、信仰的な者であるかのように見せかけると、そこに「偽善」が生じることになります。そうじゃなくて、そんなあなたのやるせない思い、正直な思いをありのままに神様に訴えて、その上で神様にきよめていただく、助けていただく、それが神様が望んでおられることなのです。

Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)

次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。19節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」

エレミヤのつぶやき、疑いに対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神様を疑ったからではありません。神様に本音で訴えたからではないのです。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであると失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていました。エレミヤは、そんなことならいっそのこと民といっしょになって不信仰でもいい、その方がよっぽど楽だと思っていました。
  そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは神を疑うほどまで落ち込んでいました。それは預言者としては失格でした。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていたのです。これはエレミヤの生涯における最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないでください。まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。そして、もし、彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはなりません。「彼ら」とはユダの民のことです。エレミヤは神の預言者として神に立てられた器ですから彼らに流されたり、彼らの影響を受けるべきではない。預言者としての使命を果たしなさいということです。

Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)

最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えてくださいました。20~21節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」

エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに繰り返して語られました。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。

これと同じことを、パウロはこう表現しています。Ⅱコリント4章7~9節です。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
  この「宝」とはイエス・キリストのこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「土の器」の「の」を取ると、ただの「土器」です。皆さん、私たちはただの「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。

皆さん、私たちの人生にはポッカリと穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
  それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然ポッカリ穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇することがある。突然病気になったり、事故に遭ってしまった、会社が倒産した、会社は大丈夫だけれども、自分が失業した、愛する人を突然亡くした、というようなことがあります。
  そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明けて、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

マルコの福音書16章1~8節「石は転がしてあった」

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 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
  私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。

これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。

彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気が付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。

しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちはどこで何を話し合っていたのでしょうか。彼女たちは墓に向かう途中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。

ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に話し合うんじゃないですかね。「どうする、行っても無駄だ。墓の入り口には大きな石があるし、自分たちの力ではどうやっても動かせない。しかもそこにはローマ兵たちがいる。どう考えても無理だ!その前に香料なんて買ったってただのお金の無駄遣いだ」と。

これが一般的な男性が考えることです。でも女性は違います。女性は心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずすぐにそれを行動に移すのです。そんなことを言うのは女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、私は女性を差別しているのではありません。それが女性の素晴らしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。できるだけ早くイエスに会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えるでしょう。その極めつけが十字架でした。イエス様は十字架の上で敵を救うために取りなしの祈りをされたのです。このような愛はこの世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあります。そのことに気付かないと大切なものを失ってしまうことがあるのです。

注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。だれが転がしてくれるかと言ったのです。皆さん、だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。そうです、イエス・キリストです。イエス・キリストが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。その状況とか方法とかを考えてしまうあまり、足がすくんで何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」と問わないで「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知っていただきたいのです。この女性たちのように。彼女たちはイエスの墓に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエス・キリストです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられるのです。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。

榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。

そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。

招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。

席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。

T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。

T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。

榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。

それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。

帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。

榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。

それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。

「先生、息子を、よろしくお願いします」。

頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。

「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」

ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」

ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。

それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。

でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

Ⅱ列王記5章

 

 今回は、Ⅱ列王記5章から学びます。

 Ⅰ.ナーマンの癒し(1-14)

まず、1~14節までをご覧ください。7節までをお読みします。「1 アラムの王の軍の長ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。それは、主が以前に、彼を通してアラムに勝利を与えられたからであった。この人は勇士であったが、ツァラアトに冒されていた。2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から一人の若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていた。3 彼女は女主人に言った。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」4 そこで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王に宛てて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは、銀十タラントと金六千シェケルと晴れ着十着を持って出かけた。6 彼はイスラエルの王宛ての次のような手紙を持って行った。「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の衣を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを治せと言う。しかし、考えてみよ。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」」

アラム(シリア)の王ナアマンの話です。ナアマンはアラムの王の将軍で、その主君から重んじられていました。それは彼が勇士であって、以前彼を通してアラムに勝利をもたらしていたからです。ここには、その勝利は「主が以前、彼を通して」与えられたものであったと記されてあります。主が彼を選び、彼とともにあったので、彼は勝利を得ることができたのです。それは主が彼を選び、彼の癒しも計画しておられたからです。

しかし、そんなナアマンですが、「ツァラ―ト」に冒されていました。「ツァラ―ト」は重い皮膚病で、イスラエルではツァラートの患者は隔離されなければなりませんでしたが、アラムではそうではありませんでした。彼はこのことでどれほど心を痛めていたことでしょうか。人々に認められて、何一つ不自由ない生活を送っていたにもかかわらず、自分ではどうすることもできない弱さや痛みを抱えていたのです。私たちも同じです。表面的には有能で一生懸命働いていて、何一つ不自由のない生活をしているようでも、こうした弱さを抱えながら生きています。

ところで、彼の家に一人の若い娘がいて、彼の妻に仕えていました。彼女は、かつてアラムが略奪に出たとき、イスラエルの地から連れて来られた娘です。その娘はある日、女主人にエリシャのことを伝えました。3節です。「もし、ご主人様がサマリアにいる預言者のところに行かれたら、きっと、その方がご主人様のツァラアトを治してくださるでしょう。」

彼女には、エリシャを通してこのツァラートが癒されるという信仰がありました。この信仰が、ナアマンの癒しにつながっていくことになります。このような若い娘でも、主によって大きく用いられる器になることができるのです。

そのことがナアマンの耳に入ると彼は主君のところへ行き、この娘から聞いたことを伝えました。するとアラムの王は有能な将軍を病で失うことは一大損失と考えたのか、ナアマンがイスラエルに行くことを許可しただけでなく、イスラエルの王に宛てて手紙を書き送りました。それは6節にあるように、「この手紙があなたに届きましたら、家臣のナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを治してくださいますように。」という内容のものでした。この時のアラムの王はベン・ハダド2世(B.C860-841)ですが、この時点ではイスラエルの王ヨラムと良好な関係を維持していました。それでナアマンは、銀10タラント、金6千シェケル、晴れ着10着を持って出かけて行きました。銀10タラントとは340㎏です。金6千シェケルは68.4㎏です。相当な重さ、相当な額の贈り物です。これを150㎞も離れたサマリアまで運ぶのは大変なことだったと思います。ナアマンはツァラートの癒しのためにそれ相応の贈り物を用意して、イスラエルに敬意を払おうとしたのです。それほど癒されたかったということです。

それに対して、イスラエルの王ヨラムはどのように対応したでしょうか。7節です。イスラエルの王は、自分がナアマンを癒さなければならないと勘違いしたのか、これは再びイスラエルを攻めてくる言いがかりではないかと疑いました。彼は、ナアマンの妻の女奴隷のイスラエル人の少女と違って、預言者エリシャのことが思い浮かびませんでした。神の働きを受け入れようとしない人は、ヨラムのように神の働きを見ることができません。取るに足りない娘が発した信仰の言葉が、二つの王国の運命を大きく揺さぶることになります。私たちの主は、小さき者の信仰を大いに祝福してくださる方なのです。

次に、8~14節までをご覧ください。「8 神の人エリシャは、イスラエルの王が衣を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人を遣わして言った。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」9 こうして、ナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入り口に立った。10 エリシャは、彼に使者を遣わして言った。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」11 しかしナアマンは激怒して去り、そして言った。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で身を洗って、私がきよくなれないというのか。」こうして、彼は憤って帰途についた。13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に七回身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」

エリシャは、ヨラム王が動揺して衣を引き裂いたと聞いて、王のもとに人を遣わして言いました。「あなたはどうして衣を引き裂いたりなさるのですか。その男を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」

エリシャは、自分が責任を持って癒すので、彼はイスラエルに預言者がいることを知るようになるだろうと言いました。

それでナアマンは馬と戦車でやって来て、エリシャの家の入口に立ちました。するとエリシャは彼に使いをやってこう言わせました。「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」

何ということでしょう。はるばるアラムからやって来たというのに、しかもそれ相応の贈り物まで持って来たというのに、自分に会おうともしないというのは。あまにも失礼だ。しかも、その治療法はとんでもない。ヨルダン川へ行って七回身を洗うというのは。

これを聞いたナアマンは激怒し、そこを去りました。彼が激怒したのは、エリシャ自身が出て来てきよめの儀式をしてくれると思ったのにそうではなかったこと、そしてそれがあまりも失簡単すぎると思ったからです。彼は英雄だったので、英雄にふさわしい治療を期待していました。それなのに、ヨルダン川に行って7回身を洗えというのですから。だったら故郷のアマナやパルパルの川の方がましじゃないか。プライドの高かったナアマンには、信仰による単純な癒しを受け入れることができなかったのです。

それは私たちの救いにも言えることです。神様が同様の単純な方法で赦しを与えようとすると、ナアマンのような反応をする人々がいます。イエス・キリストを信じるだけで救われるというのは重みが足りないと感じるのです。でもナアマンがツァラートを癒していただくために必要だったことは、彼がへりくだって神のあわれみを受け入れることです。神のことばを受け入れて、ただ信じるならば救われるのです。

今週の礼拝は受難週のメッセージで、ルカ23章からお話しましたが、あの一人の犯罪人が救われたのはどうしてでしょうか。彼がへりくだってイエス様に「あなたが御国にお着きになる時には、どうか私を思い出してください。」と言ったからです。彼は十字架に磔にされていましたから、彼には何もすることかできませんでした。彼に出来ることは、救ってくださいと神に懇願することしかなかったのです。するとイエスは感動をもってこう言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)

彼に出来ることはただ、イエスが救うことができる方であると信じ、そのイエスにすがることだけだったのです。その結果、彼は救われました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と、イエスから救いの約束を得ることが出来たのです。

ナアマンは憤って帰途につくと、彼のしもべたちが近づいて来て、彼に言いました。「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」このしもべは冷静でした。ヨルダン川に行って7回洗うということは何でもないことです。しもべは知っていました。主君ナアマンのことを。そして、もっと難しいことをエリシャが命じたら、あなたはそれをやろうとしたでしょう、と言ったのです。簡単なことができずに、難しいことだったらやろうとする。それが私たち人間の持っている性質です。簡単なことでは救われないと思っているのです。救われるためにはもっとハードなことをしなければならないと。ナアマンはそういうことを期待していました。でもエリシャが言ったことは実にシンプルなことでした。ヨルダン川に行って7回身を洗うだけです。

ナアマンはよい家来を持ったものです。彼はそのことばを聞くと反省し、家来たちの助言を聞き入れます。彼は下って行き、神の人エリシャが言ったとおり、ヨルダン川に7回身を浸しました。これが信仰です。信仰とは、主が言われているとおりに信じて聞き従うことです。すると彼はどうなりましたか。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなりました。主は彼を癒しただけでなく、彼の皮膚を幼子のようにすべすべした肌に作り変えたのです。それはヨルダン川の水に癒す力があったからではありません。それは、ナアマンが預言者を通して語られた主のことばを信じたからです。彼は信仰によっていやされたのです。この「7回」という数字は、それを物語っています。聖書の中で「7」は完全数、または神のことを表わしています。彼が神のことばを受け入れて7回浸ったことで、彼は癒しの恵みを受けることができたのです。そうです、神のことばに力があります。その神のことばを受け入れ、それに従う人は何と幸いでしょうか。

Ⅱ.ナアマンの感謝(15-19)

次に、15~19節をご覧ください。「15 ナアマンはその一行の者すべてを連れて神の人のところに引き返して来て、彼の前に立って言った。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」16 神の人は言った。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」ナアマンは、受け取らせようとしてしきりに勧めたが、神の人は断った。17 そこでナアマンは言った。「それなら、どうか二頭のらばに載せるだけの土をしもべに与えてください。しもべはこれからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげ物やいけにえを献げません。18 どうか、主が次のことについてしもべをお赦しくださいますように。私の主君がリンモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために私の手を頼みにします。それで私もリンモンの神殿でひれ伏します。私がリンモンの神殿でひれ伏すとき、どうか、主がこのことについてしもべをお赦しくださいますように。」19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」そこでナアマンは彼から離れ、かなりの道のりを進んで行った。」

癒されたナアマンは、感謝に溢れてエリシャのもとに引き返してきました。これは決して短い距離ではありません。ヨルダン川からエリシャがいたサマリアまでは約40㎞もありました。それほど彼は感謝に満ち溢れていたということです。その距離をもろともせずに引き返してきたのですから。エリシャのもとに引き返して来たナアマンは彼の前に立つとこう言いました。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

これはナアマンの信仰告白です。この奇跡は、神の視点からは、このナアマンの信仰を引き出すためのものだったのです。アラムの将軍ナアマンといったら異邦人です。その異邦人でもイスラエルの神に従うなら救われるということを示していたのです。

ルカ4章27節には、「また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」とあります。イスラエルにはツァラアトに冒されて人が多くいましたが、きよめられたのはそのイスラエル人ではなく、異邦人であったナアマンだけでした。なぜ?イスラエルには信仰がなかったからです。ナアマンにはありました。イスラエルの民はバアル礼拝に走っていましたが、ナアマンはイスラエルの神、主への信仰を告白しました。なんとい皮肉でしょうか。これは何を意味しているのかというと、たとえ異邦人であっても、ヤハウェを信じる者はみな救われるということです。信仰によって、神の救いの中に加えられるのです。それは日本人である私たちも同じです。日本人であっても、イスラエルの主ヤハウェを信じるなら救われるのです。主は新約時代だけでなく、旧約時代からすでにご自分のわざを示しておられたのです。

ナアマンは感謝のしるしに贈り物を差し出しましたが、エリシャはそれを拒否しました。なぜでしょうか。エリシャはこのように言っています。「私が仕えている主は生きておられます。私は決して受け取りません。」エリシャは、それが神の働きであって、神の働きはこの世のそれと違い仕事の報酬であるかのようにお金を受け取ってはいけないことを知っていたからです。それは神の働き人が報酬を得てはならないということではありません。聖書には、「「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」、また「働き手が報酬を受けることは当然である」」(Ⅰテモテ5:18)と言われているように、ある意味それは当然のことなのです。しかしそれを当然であるかのように受けることは神の働き人としてふさわしいものではありません。それでエリシャは、ナアマンが受け取らせようとしてしきりに勧めましたが断ったのです。

そこでナアマンは一つのことをエリシャに願いました。それは二頭のらばに乗せられるだけの土を与えてほしいということでした。これは祭壇を築くための土です。彼はヤハウェへの祭壇を築くためにイスラエルの土でないとだめだと思っていたのです。すべてのものは信仰によってきよめられるから(ローマ14:23)です。別にシリアの土を用いても構わなかったのですが、彼はイスラエルの土にこだわっていました。イスラエルの神、主だけにいけにえをささげるために。

しかし、そのように言いながら彼は、突拍子のないようなことをエリシャに告げています。それは18節にあるように、彼の主君がリモンの神殿に入って、そこでひれ伏すために自分の手を必要としますが、自分がリモンの神殿でひれ伏すとき、それを赦してほしいということです。「リモン」とは、雨と雷を司る偶像です。そのリモンの神殿に入るとき、それは自分の職務としてやっていることだけなので、礼拝するわけではないから、身をかがめることを赦してほしいというのです。

するとエリシャは何と言いましたか。エリシャはこう言いました。「安心して行きなさい。」どういうことでしょうか。旧約聖書を見る限り、たとえそれが礼拝するわけではないとしても、偶像にひれ伏してもいいという箇所はどこにもありません。むしろ神は聖なる方であって、その聖なる方にならって分離することを命じておられます。偶像礼拝に陥らないように。それなのに、ここでエリシャはたとえそれが職務の一つであるとは言え、「安心して行きなさい。」とナアマンがリンモンの神殿でひれ伏すことを許しているかのように受け取れます。これはどういうことでしょうか。どの訳を見ても同じです。どの聖書も「安心して行きなさい。」「Go in peace」と訳しています。

バイブルナビには、このように解説しています。

「ナアマンはどうして異教の偶像の前で身をかがめる行為を許されたのだろうか。ナアマンは、リンモン神を礼拝する許可ではなく、王が身をかがめるとき、立ち座りの介助をする義務を果たす許可を求めたのである。別名ハダドとしても知られるダマスコの神リンモンは、雨と雷の神として信じられていた。同時代のほとんどの人間と異なり、ナアマンは神の御力に対し鋭い意識を持っていることを示した。神を国が拝む偶像の一つに加えるのではなく、彼は唯一神がおられると認めた。ナアマンは、他の神々を礼拝しようとしなかった。この一点においてのみ許しを求めたナアマンの行為は、多くの偶像を拝み続けていたイスラエル人とは対照的である。」

確かに、ここでエリシャが許したのは、ナアマンがアラムの王ハダドが立ったり座ったりするのを介助する許可を与えたということでしょう。しかし、たとえ彼の主人のこととは言え、それを手助けすること自体受け入れられないことです。

フレデリック・ファーラー(1831-1903年、聖公会の司祭)はこう述べています。

「エリシャの助言を誤解してはならない。彼は、異教の教えの影響が残っているこの新改宗者に、無制限の自由を約束したわけではない。ナアマンが置かれていた状況は、どんなイスラエル人の状況とも異なる。彼は改宗して1日しか経ってない。それも「生煮え」の改宗者に過ぎない。ナアマンのように、一貫して偶像礼拝に関わって来た人に、多くを要求することはできない。それまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するようにナアマンに迫ることは、余りにも唐突過ぎる。それは、無分別な無益な要求であり、彼に不可能な自己犠牲を迫るものである。最善の方法は、彼がリモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることである。それでも、リンモンの神殿で偶像を礼拝してはならないという原則だけは、不変である。」

ここでフレデリック・ファーラーが言っていることは、ナアマンの信仰は情報不足もあってまだ未熟なものであったということです。そのナアマンにそれまで慣れ親しんできた習慣や伝統のすべてを放棄するように迫ることは余りにも唐突過ぎることであり、無分別な要求であるということです。彼にとって必要なことは、リンモン礼拝の不毛さを自ら体験できるように導いてやることであり、やがてナアマン自身が、いかに行動すべきかを判断する必要があったということです。そういう点ではナアマンが置かれていた状況を考えると、これはギリギリの許可だったのではないかと思われます。

しかし、ここで注目していただきたいことは、このエリシャのことばです。彼はここで「安心して行きなさい。」と言っていますが、これはナアマンのこの行為を許可したとかしないということではなく、ただ「神があなたと共にあるように」と言ったのです。いわゆる、「シャローム」と言ったのです。それはあなたが判断することです。確かに神の原則は変わりません。リンモンの神殿で礼拝してはならないという原則だけは、不変です。その原則を踏まえた上で、彼がどう判断するのか、それはあなたが決めることであって、重要なのは、神があなたとともにおられるということ。神の平安とともに行くように、ということです。つまり、エリシャは彼の判断にゆだねたのです。たとえ、今そうであっても、イスラエルの神、主がどのような方であるかを知るようになれば、自ずとどうすれば良いかはわかって来るでしょう。偶像を礼拝してはならないという原則だけは変わらないが、何よりも重要なことは神とともにあること、神の平安をもって出て行くことです。そう言いたかったのではないでしょうか。

これはきわめて現実的で知恵に満ちた答えでした。この日本という異教社会に住む私たちもナアマンのような問題を抱えることがありますが、同じような問題で悩んでいる人に対してどのような助言をすべきかを、神様から知恵をいただきながら聖書の原則に立ってしっかりと対応していきたいと思います。

Ⅲ.ゲハジの貪欲(20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 そのとき、神の人エリシャに仕える若者ゲハジはこう考えた。「何としたことか。私の主人は、あのアラム人ナアマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼の後を追いかけて、絶対に何かをもらって来よう。」21 ゲハジはナアマンの後を追いかけて行った。ナアマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて彼を迎え、「何か変わったことでも」と尋ねた。22 そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」23 するとナアマンは、「ぜひ、二タラントを取ってください」と言ってしきりに勧め、二つの袋に入れた銀二タラントと、晴れ着二着を自分の二人の若者に渡した。そこで彼らはそれを背負ってゲハジの先に立って進んだ。24 ゲハジは丘に着くと、それを二人の者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせたので、彼らは去って行った。25 彼が家に入って主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲハジ。おまえはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行っていません。」26 エリシャは彼に言った。「あの人がおまえを迎えに戦車から降りたとき、私の心はおまえと一緒に歩んでいたではないか。今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。27 ナアマンのツァラアトは、いつまでもおまえとおまえの子孫にまといつく。」ゲハジはツァラアトに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行った。」

すると、エリシャに仕えていたゲハジは考えました。エリシャはナアマンが持って来た物を何も受け取ろうとしなかった。では、自分が行って、何かをもらって来よう。そしてナアマンの後を追いかけて行き彼に追い着くと、「何か変わったことでも」と尋ねるナアマンに、彼は嘘を言いました。22節です。「変わったことはありませんが、私の主人は私を送り出してこう言っています。『たった今、エフライムの山地から、預言者の仲間の二人の若者が私のところにやって来たので、どうか、銀一タラントと晴れ着二着を彼らに与えてやってください。』」ゲハジは自分の主人エリシャの名を使って、嘘をついたのです。

するとナアマンは、銀1タラントと晴れ着2着という要求に対して、銀2タラントと晴着2着を与えました。ゲハジが求めた額は、ナアマンが用意していたものに比べると控え目ですが、それでも大金です。これを手に入れたら、一生楽に暮らしていけます。結局ナアマンは、その倍の額と晴着2着をゲハジに与え、財宝を運ぶ2人の若者まで提供しました。

ゲハジは家に帰って来ると、それを二人の若者から受け取って家の中にしまい込み、彼らを帰らせました。そして、彼が家の中に入りエリシャの前に立つと、エリシャは彼にどこに行っていたのかと尋ねました。彼は「しもべはどこにも行っていません。」と嘘をつきました。二回目の嘘です。これは嘘の上塗りです。人は一度嘘つくとその嘘を隠すために他の嘘もついてしまうことになります。けれども、エリシャは知っていました。彼がどこに行って来たのかを。エリシャはこう言いました。

「今は金を受け、衣服を受け、オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。」

「オリーブ油やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷」は、ゲハジが手に入れた銀で買おうと思っていたものです。その結果、彼に神のさばきが下りました。ナアマンのツァラートが、いつまでもゲハジと彼の子孫にまといつくことになる、と告げられたのです。そしてそのことばの通り、ゲハジはツァラートに冒され、雪のようになって、エリシャの前から去って行きました。

ここでは、エリシャとゲハジが対比されています。エリシャは、神の器として神の恵みを分かち合い、人から見返りを受けるのではなく、ただ主に仕えるしもべであったのに対して、ゲハジは神の栄光を、自分の欲望のために奪い取ろうとしました。このように、神のしもべにも2種類のタイプの人がいます。あなたはどちらのタイプのしもべですか。私たちは神のことばへの信頼と従順によって、エリシャのように神の恵みを分かち合うしもべでありたいと思います。

ルカの福音書23章32~43節「三本の十字架」

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今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最後の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たります。そこから数えて三日目の、週の初めの日、すなわち日曜日の朝に、イエス様は復活されます。ですから、来週の礼拝は、イエス様が復活されたことを記念してイースター礼拝を行いたいと思いますが、今日はその前に、イエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。

Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)

まず、32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」

32節の「ほかにも」とは、イエスのほかにもということです。イエス様の他にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行きました。彼らがどんなことをしたのかはここにはありませんが、並行箇所のマタイ27章38節を見ると「二人の強盗が」とあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したのです。

彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。「どくろ」はギリシャ語では「クラニオン」、ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語では「カルバリ」と言います。英語の「カルバリー」は、このラテン語から来ています。それは響きがいいですが「どくろ」という意味です。「がいこつ」ですね。それは死を象徴しているものです。
私は福島で最初の教会を開拓しましたが、その教会の名前は、「北信カルバリー教会」です。なぜそのような名前にしたのかというと、私たちを遣わしたアメリカの教会がカリフォルニア州のガーデナという町にありますが、その教会がカルバリーチャーチという名前だったからです。カルバリーチャペルとは違います。アメリカンバプテストという団体に所属している教会ですが、その教会の牧師は本当にすばらしい牧師で、霊的にも優れていましたが、人格的にもすばらしい人で、何よりも世界宣教、特に日本の宣教に重荷を持っていましたので、その教会の名前から取りたかったのです。それでその地域の名前にカルバリーという名を付けたのです。でも意味は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのかというと、諸説ありますが、その丘の形がどくろの形をしていたからではないかと考えられています。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエス様を十字架につけました。イエス様だけではありません。イエスといっしょに引かれて行った二人の犯罪人も十字架につけられました。一人はイエス様の右に、もう一人はイエス様の左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
これはイエス様が十字架上で発せられたことばです。イエス様は十字架の上で7つのことばを発しましたが、これはその最初のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」つまり、十字架につけられたイエス様は開口一番とりなしの祈りをされたのです。イエス様がこれまで弟子たちに教えて来られたことを自ら実践されました。たとえば、ルカ6章27~28節には「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とありますが、これを実践されたわけです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエス様はこれらのことを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。

この時イエス様はボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエス様だと判別することができないほどでした。にもかかわらず、イエス様はこう祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」

この「彼ら」とは誰でしょうか。それは直接的にはイエス様を十字架につけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。しかしそれだけではなく、直接手をかけなくても、彼らに死刑を執行させたポンテオ・ピラトもそうです。さらには、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ教の当局者たちもそうでしょう。また、そうした宗教家たちに先導されてイエス様を「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が何をしているのかわからない人たち、キリストを十字架につけても何とも思わない人たちのためにイエス様はこのようなとりなしの祈りをされたのです。

このときイエス様は瀕死の状態でした。その声は虫の息のようでした。ことばを発するのが奇跡に近いような状態だったのです。そういう状態だったのにイエス様はご自分のことではなく、そんな「彼ら」のために祈られました。皆さん、自分の手のひらに釘を押し付けたことがありますか。私は遊びでやってみたことがありますが、釘の先をちょっとでも押し付けると「痛っ!」となります。それを両手両足に打ちつけられていたのですから、相当の痛みが走ったことでしょう。すべての神経がそこに集中したはずです。もう他の人のことなど考えられなかったでしょう。余裕で何かことばを発するなんてできない状態でした。しかしイエス様は自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られたのです。それはイエス様ご自身がそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエス様は激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも一人でも救おうと願っておられたからです。

このことばは、古今東西多くの人たちの心を捉えてきました。まさに心を奪われてイエス様を信じた人たちがたくさんいます。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。聞いたことがありますか。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。
「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」
これは文語訳ですが、このことばが彼の心を捉えました。そして彼は救われたのです。そして世界中を伝道して回る伝道者になりました。アメリカと日本の架け橋となって、赦しのメッセージを伝えて行くことになったのです。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。

私たちはもう一度自分の信仰の原点を考えなければなりません。自分はどこから救われて来たのかを。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエス様のとりなしによって救われたのです。これが私たちの救いの原点なのです。私たちもイエスを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人たちとちっとも変わりません。それなのにイエス様はそんな私たちのために祈られました。本来ならこの私が十字架につけられておかしくなかったのに、そんな私たちのためにイエス様がとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエス様がこの祈りをささげてくださられなかったら私たちは救われませんでした。

35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
「言った」というよりも「言ってしまった」という方がいいかもしれません。思わず言ってしまったということです。英語で表現するなら「ウップス!」です。聞いたことがありますか、「ウップス!」思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは本当です。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったかのように見えたとか、他人を救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本音が出てしまいました。「あれは他人を救った」と。そうです、イエス様は他人を救ったのです。イエス様の敵であった彼らでさえも、それを認めざるを得ませんでした。彼らは知っていました。イエス様が神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。

皆さん、イエス様は自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。自分を救うことなんてお茶の子さいさいでした。たとえば、イエス様が十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエス様を捕らえに来ましたが、その時イエス様が彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエス様が「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の屈強なローマ兵が一度に倒れたのです。また、イエス様が風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うとどうなりましたか。すぐに凪になりました。風や波すらイエス様の言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエス様の権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエス様にかなうわけがありません。イエス様は自分を救うことなんて何でもないことだったのです。十字架の上から下りることができました。でもあえてそうされなかったのです。なぜなら、そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエス様はそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしなかったのです。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことをされるならさっさとここから下りて天の父のもとに帰って行こうと。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するがゆえに。釘がイエス様を十字架に留めたのではありません。私たちに対する愛が、イエス様を十字架に留めたのです。そのことをもう一度覚えたいと思います。

36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエス様をあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエス様の近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒は、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためのものではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったのであわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエス様はそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエス様の愛でした。つまり、イエス様は十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山の十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。

イエス様はかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて身代わりとなる、それ以上に大きな愛はありません。なぜなら、人が犠牲にすることができる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエス様はまさにその「ご自分のいのち」を私たちの身代わりとなって捨てて下さいました。しかもそれは神の御子のいのちです。罪の汚れが一点たりともない神の子のいのちです。私たちは多かれ少なかれ罪を持っていますから十字架で罰せられても致し方ありませんが、神の御子は違います。紙の御子イエスはそのような罪を何一つ犯したことがなく、重罪どころか軽犯罪すら犯したことがありませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反したことがありませんでした。イエスは全く罪のない完全な方なのに、十字架で死なれました。なぜでしょうか?それはあなたを救うためです。私を救うためです。私たちの罪の身代わりとなるために十字架で死んでくださったのです。これこそ「愛」です。これより大きな「愛」はありません。だから神様は私たちのことを間違いなく愛して下さっているということがわかるのです。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。

朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、彼はさらに訊ねました。「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、言いました。「あんたは、一人の男があなたのためにいのちを捨てたのに、『彼があなたを愛していたか』って聞くの?」。
私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、イエス様があなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。

Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)

次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」

並行箇所のマタイ27章44節を見ると、最初イエス様と一緒に十字架につけられた二人の強盗は、二人ともイエス様をののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエス様をののしり、もう一人はイエス様を信じ、イエス様をののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人の強盗が変えられたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。いったい何が変わったのでしょうか。犯罪者の一人は、イエス様をののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエス様に「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と懇願しました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。

これまでも35節と37節に「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。ここでも一人の犯罪人はそのようにののしっています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していたことは何でしょうか。それは、今置かれている目の前の苦しみから救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよくあるのではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆このようにヤケクソになります。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではなく、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから下してみろ」ではなく、逆に「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってくださいと。もっとあなたの御傍近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです。そうと言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもなおあなたを知りたいのです。もっとあなたに近づきたいのです、そう言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいみことばですね。この苦しみを通してイエス様の苦しみに少しでも預かることができるならそれこそ本望だと。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエス様の似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦難を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。そのような祈りになっているでしょうか。それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。それも大切な心の叫びです。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わらないということです。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけですから。しかし、仮にイエス様がこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗は自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の解放を経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいと願うのは自然なことです。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたいのです。もっとあなたを深く知りたい。そう願うことなのです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。

私たちもそうありたいですね。苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えらなくなりますが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えたいと思います。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)

最後に、この犯罪人の願いに対するイエス様の応答を見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」

これは、イエス様が十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、その瞬間にパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、天の楽園のことを指しています。それが天国です。黙示録を見ると、実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、天国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエス様を信じた今日、その瞬間、イエス様は彼をパラダイスに伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束をいただいたのです。

皆さんはどうですか。この約束のことばをいただいているでしょうか。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」いや、わたしはまだ聖書を全部読んでいないから無理ですとか、もっときよめられないと無理ですと思っていませんか。でも、そうではありません。あなたが救われるためには、ただイエス様を信じるだけでいいのです。この強盗を見てください。この状態でいったい何ができるというのでしょう。何もできません。彼ができたことはただイエス様のあわれみにすがり、あなたが御国に入れられるときには、わたしを思い出してくださいと祈ることだけでした。そう祈っただけで救われたのです。パラダイス、それは神がいるところ、イエス様がともにおられるところです。そこにいることができるのです。あなたがただイエス様の十字架の御業を信じるなら、あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。なぜなら、イエス様があなたの救いのために必要なすべてのことを十字架で成し遂げてくださったからです。あなたがどのような人であるかとか、あなたに何ができるかといったことは全く関係ありません。あなたがただ神の前に頭を垂れ、へりくだって自分の罪を悔い改め、神の救いを受け入れるなら、あなたも今日、イエス様とともにパラダイスにいるのです。しかし、神の側ではそのために最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。

イエス様はこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。「まことに」ということばは、原文では「アーメン」です。イエス様はご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「まことに」「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が自らの罪を認めてご自身に救いを求めたことです。もう自分では何もできないという絶望的な状態にありながらも、イエス様を信じて救われたいと真実に願い求めた姿が、イエス様を感動させたのです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認めてイエス様の救いを受け入れるのかのどちらかです。イエス様を信じて、イエス様がおられる天の御国、パラダイスに入れさせていただきましょう。イエス様は、私たちを「まことに」「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。

Ⅱ列王記4章

 

 今回は、Ⅱ列王記4章から学びます。

 Ⅰ.空の器の満たし(1-7)

まず、1~7節までをご覧ください。「1 預言者の仲間の妻の一人がエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れていました。ところが、債権者が来て、私の二人の子どもを自分の奴隷にしようとしています。」2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」彼女は答えた。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」3 すると、彼は言った。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。4 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」5 そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めた。そして、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れた。6 器がどれもいっぱいになったので、彼女は子どもの一人に言った。「もっと器を持って来なさい。」その子どもが彼女に、「もう器はありません」と言うと、油は止まった。7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」

ここからエリシャの預言活動が続きます。これらを読んで行くと気づくことは、エリヤに願ったとおり、エリヤの霊の二倍の分け前がエリシャに与えられていることです。エリヤの霊の二倍の分け前とは、エリヤが持っていた霊の二倍ということではなく、エリヤに働いていた同じ霊をエリヤ以上にという意味です。ですから、ここにはエリヤが行なった奇蹟と似たような出来事がいくつか出てきますが、エリヤとは異なる、対照的な奇蹟も見ることになります。

1節をご覧ください。預言者の仲間の妻の一人が、やもめとなりました。彼女の夫は借金を残して死んだため、債権者がやって来て彼女の二人の子どもを奴隷にしようとしていました。そこで彼女はそれをエリシャに訴えました。当時は、福祉制度がなく、母子家庭に対する生活保護もなく、やもめはひどく貧しい状況に陥りました。そして当時は、借金を払わない代わりに、このように奴隷になることが習慣としてあったのです。

それで、エリシャは彼女に言いました。「何をしてあげようか。私に話しなさい。あなたには、家の中に何があるのか。」

すると彼女は言いました。「はしためには、家の中に何もありません。ただ、油の壺一つしかありません。」

「油」とは、オリーブ油のことです。この油は粉に混ぜてパンを焼いたり、燈火用に使ったりするものですが、その油を入れる壺が一つしかありませんでした。家の中に油の壺が一つしかないというのは、極貧の家庭であったことを表しています。

するとエリシャはこう言いました。3~4節です。「外に行って、近所の皆から、器を借りて来なさい。空の器を。それも、一つや二つではいけません。 家に入ったら、あなたと子どもたちの背後の戸を閉めなさい。そしてすべての器に油を注ぎ入れなさい。いっぱいになったものは、わきに置きなさい。」

どういうことでしょうか。外に行って空の器を借りて来て、そのすべての器に油を注ぐようにというのです。いったい何のためにこんなことをしなければならないのでしょうか。そんなことをしていったい何になるというのでしょう。だれもがそう思うでしょう。しかし、彼女には主のことば、エリシャのことばに従うことが求められていました。彼女が集める器の数が、そのまま彼女の信仰の量なのです。家の戸を閉めるというのは、この奇跡が公にではなく私的空間で行われたとを示しています。ここがエリヤの時と違う点です。エリヤの場合は公になされましたが、エリシャの場合は個人的なレベルでなされました。

そこで、彼女は彼のもとから去って行き、彼女と子どもたちが入った背後の戸を閉めると、子どもたちが次々と自分のところに持って来る器に油を注ぎ入れました。そして、器がどれもいっぱいになったので、彼女が子どもの一人に「もっと器を持って来なさい。」と言いましたが、子供が「もう器はありません」と言うと、油がピタッと止まりました。これを霊的にも言えることです。主は私たちに生ける水である神の御霊を注いでくださると約束されましたが、渇いた心を持って主の御許に行くなら満たされますが、そうでないとピタッと止まります。満たされません。私たちの器に神の聖霊を満たしていただくためには、「もっと、もっと満たしてください」と、渇いた心をもって主の御前に進み出なければなりません。良い意味で霊的に貪欲になる必要があるのです。

彼女がエリシャに知らせに行くと、彼は「行ってその油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子供は暮らしていけます。」と言いました。この一家は負債から解放されただけでなく、将来の糧まで得ることができました。このようにエリシャの奇跡はエリヤのそれと異なり、個人的なレベルで具体的な必要を抱えている貧しい人たちに対してなされたのです。イエスさまの成された奇跡に非常に似ています。

Ⅱ.シュネムの女(8-17)

次に8~17節をご覧ください。「8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになった。9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机と椅子と燭台を置きましょう。あの方が私たちのところに来られるたびに、そこを使っていただけますから。」

ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋に入って横になった。12 彼は若者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」ゲハジが呼ぶと、彼女はゲハジの前に立った。13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『本当に、あなたはこのように、私たちのことで一生懸命骨折ってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか』と。」彼女はそれにこう答えた。「私は私の民の間で、幸せに暮らしております。」14 エリシャが「では、彼女のために何をしたらよいだろうか」と言うと、ゲハジは言った。「彼女には子がなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入り口のところに立った。16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」すると彼女は言った。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」17 しかし、この女は身ごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころに男の子を産んだ。」

先程は、貧しいやもめの女で、ふたりの子どもを持っていましたが、ここではそれとは対照的に、裕福で夫はいますが、子どものいない女です。

ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこに一人の裕福な女がいて、彼を食事に引き留めました。「シュネム」は新改訳2017の地図には載っておりませんが第三版には載っていて、イズレエルの北10㎞に位置しています。おそらくエリシャは、サマリヤ、イズレエルのエリアを巡回していたのでしょう。それ以来、エリシャはそこを通りかかるたびに、そこに寄って食事をするようになりました。その婦人は霊的に感受性が豊かな人だったのか、ある時夫にこんな提案をしました。それは10節にあるように、エリシャのために屋上に壁のある小さな部屋を作り、彼のために寝台と机と椅子と燭台を置き、エリシャがそこに来るたびに使ってもらいましょうということでした。主に対する彼女の献身が、主のしもべに対する親切となって表れたのです。

ある日、エリシャがやって来て、その屋上の部屋に入って横になると、エリシャは若者ゲハジに、シュネムの女を呼んで来るように言いました。彼はそのシュネムの女の親切に報いたいと思ったのです。エリシャがゲハジを通して彼女に、「あなたのために何をしたらよいか。王か軍の長に、何か話してほしいことでもあるか」と尋ねると、彼女は「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」と答えました。何もありませんということです。どうせなら、折角の機会なんだから、「じゃ、これをしてもらえますか」と言えばいいのにと私なら思いますが、彼女はすべてが神の恵みと受け止め、もう十分に与えられておりますと答えました。謙虚ですね。彼女はどこまで謙虚で美しい心を持っていました。

そこでエリシャは彼女にではなくゲハジに尋ねると、ゲハジは、彼女には子どもがないことを伝えます。それに、彼女の夫も年をとっていました。彼女は主に祝福されて、何の不自由もないように見えましたが、実は、心の奥底では痛みを抱えていたのです。不妊であったという痛みです。ここからわかることは、人は一見不自由でないように見えても、何らかの欠乏や葛藤を抱えているということです。もしかすると、いくら神の人であるとはいえ、この悩みを彼に言っても無駄だと思ったのかもしれません。

そこでエリシャがゲハジを通して彼女を呼ぶと、彼女は入り口の所に立ちました。するとエリシャは彼女にこう言いました。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになる。」

すると彼女は言いました。「いいえ、ご主人様。神の人よ、このはしために偽りを言わないでください。」あまりにも調子のいいことを言わないでくださいということです。しかし、翌年のちょうどそのころ、彼女はエリシャの言葉どおりに男の子を生みました。

子を産まない胎が命を産み出しました。神には不可能なことはありません。この誕生は私たちが経験する霊的誕生のひな型でもあります。また、私たちが想像もつかないほどの神の大いなる御業です。人にはできなくても、神にはどんなことでもできるのです。

ところが、その子供が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき事件が起こります。18~28節をご覧ください。「18 その子が大きくなって、ある日、刈り入れをする者たちと一緒にいる、父のところに出て行ったとき、19 父親に、「頭が、頭が」と言った。父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じた。20 若者はその子を抱き、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親の膝の上に休んでいたが、ついに死んでしまった。21 彼女は屋上に上がって、神の人の寝台にその子を寝かせ、戸を閉めて出て行った。22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうか、若者一人と、雌ろば一頭を私のために出してください。私は急いで神の人のところに行って、すぐに戻って来ますから。」23 すると彼は、「どうして、今日あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言ったが、彼女は「かまいません」と答えた。24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」25 こうして彼女は出かけて、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに言った。「見なさい。あのシュネムの女があそこに来ている。26 さあ、走って行って彼女を迎え、言いなさい。『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか』と。」彼女はそれにこう答えた。「無事です。」27 それから彼女は山の上にいる神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠し、まだ私に知らせておられないのだ。」28 彼女は言った。「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」」

急に頭に痛みを覚え「頭が、頭が」と言いました。父親は若者に「急いでこの子を母親のところに抱いて行ってくれ」と命じると、若者はその子を抱き、母親のところに連れて行きました。そして、母親の膝の上に休んでいましたが、ついに死んでしまいました。死因が何であったかはわかりません。ある学者は日射病ではないかと考えています。

すると彼女は屋上に上がって、神の人エリシャの寝台にその子を寝かせると、戸を閉めて出て行きました。どういうことでしょうか。彼女はまだ諦めていなかったということです。エリシャなら癒すことができると思ったのです。それで若者一人と雌ろば一頭を用意してもらうように夫に呼びかけました。すると夫は、「どうして、今日あの人のところに行かなければならないのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに」と言いました。夫は無理だと思ったのでしょう。彼はエリシャのことを宗教的行事程度にしか見ていなかったのです。すると彼女は「それでもかまいません」と言って、出かけて行きました。長々と説明して、時間を無駄にしたくなかったからです。

彼女は雌ろばに鞍を置くと、若者に命じて言いました。「手綱を引いて進みなさい。私が命じなければ、手綱を緩めてはいけません。」(24)シュネムからエリシャがいたカルメル山までは、片道約30㎞です。彼女はそこまで手綱を緩めることなく、急いで行きました。ここに彼女の必死さがよく表れています。「どうして、今日あの人のところに行くのか」とのん気に構えていた夫とは雲泥の差です。

エリシャは遠くから彼女を見つけると、若者ゲハジに、彼女と夫、そして子とでもの安否を尋ねるようにと言いました。「あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか」彼女は「無事です」と答えていますが、実際は無事ではありません。どうしてこのように答えたのかというと、やはり時間を無駄にしたくなかったからです。彼女が夫に「かまいません」と答えたように、ここでも「無事です」と答えたのです。それだけ時間がなかったということ、それだけ切羽詰まっていたということです。

それから彼女はカルメル山の上にいたエリシャのところに来ると、彼の足にすがりつきました。ゲハジは彼女を追い払おうとしましたが、エリシャは「そのままにしておきなさい」と言いました。彼女が深い悲しみに襲われていると思ったからです。ただし、その悲しみがどのようなものであるかは、まだ知らされていませんでした。

彼女はその問題について告げる前に、「私がご主人様に子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」(28)と言いました。エリシャはそのことばを聞いて、息子に何らかの危機的状況にあることを悟りました。なぜなら、それは子が与えられて死ぬぐらいなら、初めから与えなかったほうが良かったのではないかという意味のことだったからです。それでエリシャはすぐに彼女の家に向かいます。

ここでの主役はシュネムの女、あの母親です。彼女は信仰の人でした。その信仰は、神の人エリシャに会うまで沈黙を守るという形で表現されています。彼女は、自分が直面している問題を、神の視点から解決しようとしたのです。私たちにこのような信仰があるでしょうか。

次に、29~37節をご覧ください。「29 そこでエリシャはゲハジに言った。「腰に帯を締め、手に私の杖を持って行きなさい。たとえだれかに会っても、あいさつしてはならない。たとえだれかがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の頭の上に置きなさい。」30 その子の母親は言った。「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」エリシャは立ち上がり、彼女の後について行った。31 ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかった。そこで引き返してエリシャに会い、「子どもは目を覚ましませんでした」と報告した。32 エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んで横たわっていた。33 エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈った。34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口をその子の口の上に、自分の目をその子の目の上に、自分の両手をその子の両手の上に重ねて、その子の上に身をかがめた。すると、その子のからだが温かくなってきた。35 それからエリシャは降りて、部屋の中をあちらこちらと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けた。36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい」と言った。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこでエリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい」と言った。37 彼女は入って来て彼の足もとにひれ伏し、地にひれ伏した。そして、子どもを抱き上げて出て行った。」

最初エリシャは、ゲハジに自分の杖を持たせてシュネムに派遣しようしました。杖は権威の象徴です。しかし、その子の母親が、「主は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」と言いました。それはエリシャに対する絶対的な信頼を表しています。それでエリシャは立ち上がり、彼女の後について行きました。

ゲハジは二人より先に行って、その杖を子どもの頭の上に置きましたが、子どもは目を覚ましませんでした。ゲハジはそこを引き返してエリシャに会うと、そのことを伝えます。そして、エリシャが家に着くと、その子は寝台の上に死んでいました。

エリシャは中に入り、戸を閉めて、二人だけになって主に祈りました。祈りに集中するためです。これもイエス様に似ていますね。それから、子どもの体の上に身を伏せて祈り続けると、子どもの体が温かくなってきました。それからエリシャは下に降りたり、部屋をあちこちと歩き回り、また寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開けました。この「七」という数字は完全数ですが、これが主なる神の奇跡であることを表しています。

エリシャは母親を呼ぶと、その子を母親に返しました。彼女はエリシャ足元にひれ伏し、地にひれ伏しました。そして、子どもを抱き抱えて出て行きました。「彼の足元にひれ伏し」とは、エリシャへの感謝を示しています。また、地にひれ伏しとは、主に感謝と礼拝をささげたということです。この奇跡はシュネムの女の信仰に対する神からの答えだったのです。イエスさまの言葉を借りるなら、「あなたの信仰が、救ったのです」(マルコ10:52)でしょう。彼女は、エリシャが聖なる神の人であることを認めて、この人の祈りによっていやされるという信仰を持っていました。だから、引き下がらず、ゲハジのあいさつや、ゲハジが持っていった杖では直らないと言い張ったのです。このように、いやしや奇蹟には、双方の信仰が要求されることが多いです。いやすことができる方と、いやされると信じる信仰です。私たちはどれだけ主に信頼して祈っているでしょうか。主は癒す力を持っておられます。大切なのは、私たちが主は癒すことができると信じて祈ることなのです。

Ⅲ.毒を取り除いたエリシャ(38-44)

最後に38~44節をご覧ください。まず、41節までをお読みします。「38 エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こった。預言者の仲間たちが彼の前に座っていたので、彼は若者に命じた。「大きな釜を火にかけ、預言者の仲間たちのために煮物を作りなさい。」39 彼らの一人が食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生の瓜を前掛けにいっぱい取って帰って来た。そして、彼はそれを煮物の釜の中に刻んで入れた。彼らはそれが何であるかを知らなかった。40 彼らは皆に食べさせようとして、これをよそった。皆はその煮物を口にするやいなや、こう叫んだ。「神の人よ、釜の中に毒が入っています。」彼らは食べることができなかった。41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれを釜に投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」そのときにはもう、釜の中には悪い物はなくなっていた。」

エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地に飢饉が起こりました。そこには預言者の仲間たちがいたので、エリシャはその仲間たちに食事を提供しようと思って、若者ゲハジに命じました。煮物を作るようにと。預言者の仲間の一人が、野草を見つけ、その実をたくさん持ち帰ったので、彼はそれを刻んで釜の中に入れました。しかし、それは毒のある実でした。皆はその煮物を口にするやいなや、「神の人よ、釜の中に毒が入っています」と叫びました。するとエリシャは麦粉を持って来させ、それを釜の中に入れました。すると釜の中には悪い物はなくなっていました。

この奇跡は、エリシャの働きを象徴するものでした。イスラエルの民は主に背きバアル礼拝に走ったので、霊的ききんを経験しました。バアル礼拝は、霊的死をもたらす「毒」でした。エリシャはその「毒」を取り除き、イスラエルの民に真の霊的糧をもたらそうと献身的に主に仕えたのです。私たちが食する霊的糧の中に毒が入っているようならば、聖霊によってそれを取り除いていただきましょう。

42~44節をご覧ください。「42 ある人がバアル・シャリシャから、初穂のパンである大麦のパン二十個と、新穀一袋を、神の人のところに持って来た。神の人は「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられるでしょうか」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう言われる。『彼らは食べて残すだろう。』」44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残した。主のことばのとおりであった。」

預言者の仲間たち百人に、大麦のパン二十個と一袋の新穀によって、満腹になるほど食事を与える、という奇蹟です。彼の召使は、「これだけで、どうやって百人もの人にわけられるでしょうか」と言いました。するとエリシャは「この人たちに与えて食べさせなさい。」と言いました。主がこう言われるからです。「彼らは食べて残すだろう。」そこで召使いが彼らに配ると、彼らは食べて残しました。主が言われた通りでした。

このことからどんなことが学べるでしょうか。これに似た奇跡をイエス様も行いました。しかし、イエス様の場合はもっと大きな規模で行われました。五つのパンと二匹の魚によって男だけで五千人の空腹を満たされたのです。すなわち、私たちが信頼すべきお方は、イエス・キリストの父なる神だけであるということです。バアルの神は豊穣の神でしたが、バアルは彼らの必要を満たすことができませんでした。彼らの必要を満たすことができるのは真の神だけです。私たちは、私たちの必要を満たしてくださるイエス・キリストの父なる神だけに信頼しましょう。

エレミヤ15章1~14節「苦難の時に生きる道」

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きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。苦難の時、どこに生きる道を見出すことができるかということです。結論から申し上げますと、それは神様ご自身であるということです。11節をご覧ください。「主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
  主こそ、わざわいの時、苦難の時の生きる道です。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。

いのちの水の泉である主を捨て壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章1節では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。14章12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りました。きょうのところは、その主の答えです。1節には「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」とあります。どういうことでしょうか。

モーセは律法の代表者です。また、サムエルは預言者の代表者です。この二人に共通していることは、彼らがとりなしの名手であったということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして彼らを救ってきました。でも、そのモーセやサムエルがとりなしても、主はその祈りを聞かないというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な信仰者がとりなしても、主がさばきを思い直されることはないというのです。モーセとサムエルの時代もイスラエルの民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。というのは、神に背いても素直にみことばを受け入れ悔い改めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。しかしこのエレミヤの時代はそうではありませんでした。手がつけられないほど反抗的だったのです。エレミヤが神のことばを語っても受け入れるどころかあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのにそんなエレミヤを目の上のたんこぶのように邪魔者扱いしました。そして、ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。

2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」

主は彼らを四種類のもので罰すると言われました。すなわち、「死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』 」
  主は、剣で死ぬか、飢饉で死ぬか、疫病で死ぬか、それでも生き残った者は捕囚として連れて行かれることになると言われました。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになるからです。

しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望なんかないと思われるかもしれませんが、よく見ると、主は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということがわかります。一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。というのは、主が本当に彼らを滅ぼそうとしておられたのであれば、こんな回りくどいことはしないからです。あのソドムとゴモラを滅ぼした時のように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら痛みを与えて罰するのは、彼らを滅ぼすことが目的ではなく、彼らを救うことが目的だったからなのです。いわばこれらの罰は彼らが主に立ち返るための道具だったのです。主はこのような厳しい対処をしながらも、決して彼らを見捨てたり、見放したりはなさいません。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも救うことを目的とした試練だったのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みに満ち溢れていたすばらしい時だったかを思い出し、主に立ち返るためだったのです。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。

それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
  これがエレミヤに与えられていた使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜くのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げることが目的だったのです。建設的な目的でなされたのです。

4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。

主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは地のすべての民がユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるためでした。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
  しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。マナセはこのエレミヤの時代から遡ること100年前の人物です。彼のことについては歴代誌第二33章1~9節にありますが、南ユダ史上最悪の王でした。彼は主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて主の目に悪であることを行ったり、天の万象を拝んでこれに仕えたりしました。また、自分の子どもたちに火の中をくぐらせたり、卜占(ぼくせん)とかまじない、呪術、霊媒、口寄せ等をし、主の怒りを引き起こしていたのです。こうしたマナセの行いが、それから100年後のエレミヤの時代に大きな影響を及ぼしたのです。こうしてみると、マナセの行ったことがその後の子孫にどれほど大きな弊害をもたらしたかがわかります。私たちの今のあり方が、後に大きな影響を及ぼすことになるということです。

Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)

次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」

  エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告が続きます。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれもあわれまないということです。完全に見捨てられることになります。

7節の「熊手」とは脱穀の時に用いられる道具ですが、この熊手でもみ殻を救い上げ空中に飛ばすと軽いもみ殻だけが飛んでいきますが、そのようにユダの民を追い散らすというのです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵入して来て、妻子たちを奪って行くことになります。

8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうという意味です。
  9節には、「七人の子を産んだ女は打ちしおれ」とあります。これは、息子を戦争に送り出した母親の嘆きです。「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまうことになります。それほどの悲劇なのです。

彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡したのはバビロンが強かったからではなく、イスラエルが罪を犯したからでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分と神との関係はどうなのかを吟味しなければならないのです。苦難の時に生きる唯一の道は、この神との関係を回復することです。なぜなら、神はそのような者をあわれんで慰めてくださるからです。これが苦難の時の唯一の道です。

Ⅲ.神の慰め(10-14)

ですから第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」

この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことを悲しんで嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこない方がよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。

続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われていました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語ったので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。

「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されていたのです。あまりにも理不尽です。

それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しみました。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうことがあるのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを全部奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。

11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」

アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われました。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これで十分です。これ以上の慰めがあるでしょうか。
  アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
  そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方です。私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。

そして神は、エレミヤに励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。

皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださいました。

エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。

あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

エレミヤ14章10~22節「神のジレンマ」

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エレミヤ書14章10~22節をご覧ください。きょうは、「神のジレンマ」というタイトルでお話します。「ジレンマ」とは、互いに反対の関係にある2つの事柄の間で板挟みになる状態のことを言います。神はそのような状態にありました。17節に「あなたは彼らに、このことばを言え。「私の目には、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒しがたい。ひどい打ち傷。」主は癒しがたいイスラエルの民の傷を見て、涙を流しておられたのです。ただ彼らをさばきたいのではなく救いたいからです。なのに救えない。そのジレンマです。

Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」

14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。

何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
  非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。

そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。

皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。

ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
  皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。

毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。

その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。そうすれば、主は赦してくださいます。そこからもう一度やり直すことができるのです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。

私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。

Ⅱ.偽りの預言者(13-18)

次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」

  ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。

  それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」

どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)

15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
  実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。

エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。

この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。

イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
  エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。

エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。

それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。

最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
  クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
  「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
  まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
  このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
  一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
  もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
  もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。

皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
  ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。

エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。

Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)

ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」

エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。

ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
  第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
  第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。

八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

Ⅱ列王記3章

 今回は、Ⅱ列王記3章から学びます。

 Ⅰ.イスラエルの王ヨラムとユダの王ヨシャファテの失敗(1-12)

まず、1~12節までをご覧ください。3節までをお読みします。「1 アハブの子ヨラムは、ユダの王ヨシャファテの第十八年に、サマリアでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。2 彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかった。彼は、父が作ったバアルの石の柱を取り除いた。3 しかし彼は、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪に執着し、それから離れることがなかった。」

ユダの王ヨシャファテの第18年に、北イスラエルの王アハブの子ヨラムが王になりました。ヨラムはアハブの2番目の息子です。1章に長男のアハズヤのことが記録されてありました。彼は屋上の部屋の欄干から落ちて重体に陥り、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てましたが、結局エリヤの預言の通り死にました。その後を継いだのが弟のヨラムです。彼は北イスラエルを12年間治めました。そのヨラムについての言及がここに記されてあります。

2節によると、彼は主の目に悪であることを行ったが、彼の父母ほどではなかったとあります。彼の父母はアハブとイゼベルで、北イスラエル王国史上最悪の王でした。イスラエルにバアル礼拝を導入したからです。ヨラムはそれほど悪くはありませんでした。でも主の目に悪であることを行いました。彼は父アハブが導入したバアル信仰を排除しましたが、北イスラエル王国の初代の王であったヤロブアムの罪から離れなかったからです。つまり、バアル礼拝を排除しましたが、金の子牛を神とする信仰は捨てなかったということです。彼は父母の最期を見て、自分なりに考えるところがあったのでしょう。それで外面的にはバアル像を取り除き、体裁を整えましたが、自分の内側にある偶像を取り去りませんでした。でも大切なのは体裁を整えることではなく内側が変えられることです。なぜなら、神との関係は外側からではなく内側から築き上げられるものだからです。それは聖霊の働きによってのみ可能なことなのです。そして、イエス・キリストを信じる時、その変化が起こります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」(Ⅱコリント5:17)とある通りです。イエス・キリストを信じ、ご聖霊の働きによって、日々私たちの心を変えていただきましょう。

次に、4~8節までをご覧ください。「4 さて、モアブの王メシャは羊を飼っていて、子羊十万匹と、雄羊十万匹分の羊毛をイスラエルの王に貢ぎ物として納めていた。5 しかしアハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に背いた。6 そこで、ヨラム王はその日にサマリアを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。7 そして、ユダの王ヨシャファテに人を遣わして言った。「モアブの王が私に背きました。私と一緒にモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」8 そして言った。「どの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。」

アハブの子ヨラムの時代に、モアブの王がイスラエルに背きました。アハブ王の時代に北王国イスラエルの隷属国家となったモアブは、毎年、いやいやながら貢物を収めていましたが、アハブ王が死ぬと、ここぞとばかり、イスラエルに背いたのです。アハブの後継者となったアハズヤはモアブに対して何の手も打ちませんでしたが、その弟のヨラムは、モアブ制圧するために直ちにイスラエル軍を動員しました。

ヨラムはその際にユダの王ヨシャファテに人を遣わして、一緒にモアブとの戦いに行ってくれるように要請しました。するとヨシァファテは何と答えましたか。7節です。彼はこう言いました。「行きましょう。私とあなたは一つ、私の民とあなたの民は一つ、私の馬とあなたの馬は一つです。」(7)

彼は調子に乗るタイプの人間でした。頼まれると何も考えずに「あいよ」と受け入れてしまう人間だったのです。これが初めてではありません。これは2回目です。最初はⅠ列王記22章4節にありますが、彼はイスラエル王アハブに協力してアラムとの戦いに参戦した際、殺されかけたことがありました。ヨシャファテはここで再び同じ失敗を繰り返しているのです。人は一度失敗しても懲りないで、同じ失敗を繰り返してしまうということです。わかっちゃいるけどついつい調子に乗ってしまうのです。しかし神は、そんな彼の愚かな失敗を用いてさえ奇跡を行い、ご自身の栄光を現わされます。それがこの後で見るエリシャの奇跡です。神は人の失敗さえも用いてご自身の栄光を現わすことがおできになる方なのです。このようにして見ると、パウロがローマ11章33節で語ったことばが心に響いてきますね。

「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。」

神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょうか。神はすべてのことを働かせて益としてくださいます。私たちも失敗や過ちを繰り返すような愚かな者ですが、神の知恵と知識の富の深さに信頼し、神にすべてをゆだねたいと思います。

その神の御業がどのようなものだったかを見ていきましょう。ヨシァファテが「どの道を上って行きましょうか。」と言うと、ヨラムは「エドムの荒野の道を」と答えました。死海の北側からモアブに入ることもできますが、ヨラムは南側のルートであるエドムの荒野を通る道を選びました。

9~12節までをご覧ください。「9 こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、後について来る動物たちのための水がなくなった。10 イスラエルの王は、「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」と言った。11 ヨシャファテは言った。「ここには、主のみこころを求めることができる主の預言者はいないのですか。」すると、イスラエルの王の家来の一人が答えた。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」12 ヨシャファテが、「主のことばは彼とともにあります」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王は彼のところに下って行った。」

こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王と一緒に出かけて行きましたが、七日間も回り道をしたので、水がなくなってしまいました。乾燥地帯では、これは非常に危険なことです。するとイスラエルの王(ヨラム)は、主につぶやき嘆いて言いました。「ああ、主がこの三人の王を呼び集めたのは、モアブの手に渡すためだったのだ」

おもしろいですね、彼は自分の考えによって計画を立てて動いて来たはずなのに、困難に遭遇するとそれを神のせいにしています。それは不信者の特徴です。

そんなイスラエルの王ヨラムと違い、ユダの王ヨシァファテには信仰が残っていました。彼もまた主のみこころを求めることなく行軍を開始しましたが、それでも困難に遭遇した時に、主に助けを求めました。彼は「ここには、主のみこころを求めることができる預言者はいないのですか」(11)と言っています。

するとイスラエルの王の家来の一人が、シャファテの子でエリシャという人がいること、そして彼はあの預言者エリヤの手に水を注いだ人物だと言うと、「主のことばは彼とともにあります」と言って、イスラエルの王と、ヨシャファテと、エドムの王の3人はエリシャのところへ下って行きました。「エリヤの手に水を注いだ」というのは、エリヤに仕えた者という意味です。どうしてここにエリシャがいたのかはわかりません。当時は、預言者や占い師たちが軍隊に同行するのが一般的でしたので、それでエリシャも彼らに同行していたものと思われます。「主のことばは彼とともにある」とは、彼が真の預言者であるという意味です。通常は、預言者が王の前に出てくるものですが、ここでは王たちが彼のもとに下って行きました。それだけエリシャの権威が高く評価されていたということです。

ここに一つの対比が見られます。すなわち、主に拠り頼む者とそうでない者人です。ヨラムとヨシャファテは困難に遭遇した時右往左往しましたが、エリシャは全く動じませんでした。常に主のみこころを求めながら生きる人は、風に揺らぐ葦のようではなく、どんな強風でも動じない大木のように生きることができるのです。

Ⅱ.エリシャの預言(13-19)

次に13~19節をご覧ください。「13 エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」すると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ。」14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。15 しかし今、竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、16 彼は次のように言った。「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」

すると、エリシャはイスラエルの王に言いました。「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」と。

あなたの父母の預言者たちとは、バアルの預言者たちのことです。つまり、私はあなたと何の関係もないのだから、何か尋ねたければバアルの預言者たちの所へ行って助けを求めればいい、という意味です。

するとイスラエルの王はとんでもないことを言います。自分たちをモアブの手に渡すために呼び集めたのは主であると。主がそんなひどいことをするはずがないじゃないですか。それは身から出た錆、全部自分たちの考えに従って行動した結果です。それなのに、こんなことになったのは主のせいだと責任をなすりつけるのはひどい話です。

それでエリシャは、イスラエルの王に関わることを避けたかったのですが、ヨシャファテ王の顔を立てるために、すなわち、ヨシァファテ王への敬意のゆえに、この問題に介入しようと言いました。どのように介入するのでしょうか。

彼は、琴を弾く者を連れて来るようにと言います。そしてその琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、主の手がエリシャに下り、こう言いました。「16主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』17 主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』18 これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。19 あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」」

どういうことでしょうか。涸れた谷に超自然的に水が溜まるということです。風を見なくても、大雨を見なくても、この涸れた谷には水が溢れるようになるので、兵士たちも家畜も、動物もこれを飲むようになります。新改訳第3版では、「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』」と訳しています。新共同訳聖書もそうです。英語のNKJVもそうです。谷が涸れているのですからみぞを掘る必要などありませんが、神の御業をより印象付けるためにその涸れた谷にみぞを掘るようにと言うのです。主がその涸れた谷を水で溢れさせてくださるからです。人には水を創り出すことはできませんが、神が与えてくださる水を受け取るためのみぞを掘ることはできます。同じように、私たちは主が私たちの器を水で溢れさせてくださるために整えなければなりません。

しかし、これが主のなさりたい最終的なゴールなのではありません。これは主の目には小さなことです。主の成さりたい最終ゴールは、モアブを彼らの手に渡されることです。それが本当に成されることを示すために、主はこの涸れた谷を水で満たされる奇跡を見せてくださったのです。20節を見ると、エリシャが言ったように、エドムの方から水が流れて来て、その地は水で満たされました。

Ⅲ.モアブの敗北 (20-27)

最後に、20~27節をご覧ください。「20 朝になって、ささげ物を献げるころ、なんと、水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた。21 モアブ人はみな、王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着けることができる者はすべて呼び集められ、国境の守備に就いた。22 翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブ人は、向こう側の水が血のように赤いのを見て、23 こう言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」24 彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブ人を討った。モアブ人はイスラエルの前から逃げた。イスラエルは攻め入って、モアブ人を討った。25 さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、その町も石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。26 モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たせなかった。27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げた。このことのゆえに、イスラエル人に対する激しい怒りが起こった。そこでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。」

朝になると、水がエドムの方から流れて来て、その地が水で満たされました。主の奇跡が起こったのです。モアブ人たちはみな、イスラエルの王、ユダの王、エドムの王たちが自分たちを攻めに上って来たことを聞くと、可能な限りの兵士を動員して、エドムとモアブの国境地帯に軍を配備しました。翌朝、彼らが早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていましたが、モアブ人たちは向こう側の水が血のように赤いのを見て、それはきっと王たちが切り合って、同士討ちをしたに違いないと思い、分捕りに行こうと言いました。すなわち、戦死した兵士たちから武器を略奪すべきだと判断して、戦いの準備のないまま敵陣に突入したのです。その結果、イスラエルは立ってモアブ人を討ったので、モアブ人はイスラエルの前から逃げ去りました。イスラエルは攻め入ってモアブを討ったので、イスラエルの大勝利に終わりました。さらにイスラエルは町々を破壊し、すべての良い畑にだれもが石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒しました。モアブの王は、戦いが自分たちに不利になっていくのを見て、兵士700人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしましたが、果たせませんでした。

それでモアブの王はどうしたたかというと、自分に代わって王となる長男を取り、その子を城壁の上で全焼のささげ物として献げました。全く忌まわしいことです。モアブの王は最後の抵抗を試みて精鋭部隊をエドムに送り込もうとしましたが、失敗しました。けれども、イスラエル人を撤退させるのに、結果的に効果的な方法を取りました。それは自分の息子を、モアブの神ケモシュにささげることです。そうすることで、イスラエルに対する激しい怒りが起こることになるからです。人間の生贄は、当時、異教の中ではごく普通に行なわれていましたが、それがイスラエルが原因であるとなると、そこには激しい怒りが引き起こされることになります。結局、イスラエル人は、そこから撤退し、自分の国へ帰って行くことになりました。その怒りがいわば抵抗勢力となったのです。また、それが城壁の上で行なわれたことで、イスラエル人がそれを見て嫌悪感を持ったこともその理由です。

しかし、そうした忌まわしい嫌悪感を抱くような偶像礼拝を見せられながら、イスラエルはその後、そうした偶像礼拝にどっぷりと浸かるようになります。このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。そうした状況に陥ることがないように、主のみこころは何か、何が良いことで正しいことなのかを知り、主のみこころに歩ませていだきましょう。