申命記4章

きょうは、申命記4章から学びます。

 

1.おきてと定めとを守らなければならない(1-8)

 

まず、1節から8節までをご覧ください。

「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」

 

「申命記」というタイトルの意味は、第二の律法で、神が語られたことを繰り返して述べるということでした。なぜなら、それはとても重要な内容だからです。ここでモーセは、「聞きなさい」という言葉を何度も繰り返して語り、それを強調しています。1節には、「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」とあります。なぜでしょうか。なぜなら、そうすれば、彼らは生き、彼らの父祖の神、主が、彼らに与えようとしておられる地を所有することができるからです。その神の命じることばには、つけ加えてはならないし、また、減らしてはなりません。主が命じる命令を、守らなければなりません。

 

その命令を守らなかったことで起こった悲劇がここに取り上げられています。それはバアル・ペオルでの出来事です。これは民数記25章に記されてある内容ですが、イスラエルがモアブの草原に宿営していたとき、バラムの陰謀によってモアブの娘たちがそこに送り込まれると、この娘たちとみだらなことをしただけでなく、彼女たちの神々であったバアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りがイスラエルに対して燃やされ、それに関わった多くの者たちが殺されたのです。この神罰で死んだ者は二万四千人であったとあります(民数記25:9)。いったい何が問題だったのでしょうか。彼らが主の命令に従わなかったことです。主の命令に背いて、偶像を拝んでしまいました。それで主は彼らを根絶やしにされたのです。しかし、それはあの時だけのことではありません。その主はきょうも生きておられるのです。彼らは、これから入って行って、所有しようとしているその地で、主の命令を守り行わなければなりません。そのことで、その地の住民に、彼らの知恵と悟りを示し、これらすべてのおきてを聞く彼らが、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うようになるためです。

 

このようなイスラエルの偉大さは、神の二つの特質にかかっていることでした。一つは、彼らが呼ばわるとき、主は、いつも近くにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 

これはほんとうに偉大なことではないでしょうか。私たちの主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くにおられる方です。主イエスはこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)主がともにおられるということほど大きな祝福はありません。主が共におられるならば、私たちは何も恐れることがないからです。なぜなら、主は全能者であって、すべての問題に勝利してくださる方だからです。

また、このような正しいおきてと定めが与えられていることも大きな祝福です。情報過多の時代にあって多くの情報が錯そうする中で人々は何を信じたらいいかわからずに迷っています。そのような中にあって、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言って導いてくださる方がおられるということは、本当に感謝なことなのです。

 

2.十分に気をつけなさい(9-40)

 

次に9節から40節までを見ていきたいと思います。まず、14節までをご覧ください。

「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。」

 

モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。それは二枚の石の板に書き記された十のことば、十戒のことです。それを一生の間心から離れないようにするばかりでなく、それらを、自分たちの子どもや孫たちに知らせるようにと言われました。それは彼らが所有しようとしている地で、それらを行うためです。

 

 次に15節から24節までをご覧ください。

「あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。」(20-24)

 

ここに繰り返して「気をつけなさい」と言われています。何を、気をつけなければならないのでしょうか。偶像崇拝です。イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても根本的な問題は何かというと、偶像礼拝なのです。偶像とは何でしょうか。神以外のものを神とすることです。人はそれを肩地にするのですが、それが偶像です。自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて、満足できるものがほしい、と願うのです。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れなければなりません。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取らなければならないのです。神を主としていくことが、私たちの務めであるからです。それゆえ、十戒の第一の戒めは何かというと、「あなたには、わたしのほかに、ほかの偶像があってはならない。」ということでした。自分のために、偶像を造ってはならないし、それらを拝んではなりません。私たちに求められていることは、神を神としていくことであり、自分の思い、自分のイメージではなく、神の命令に聞き従うことなのです。

 

 次にモーセは、偶像を造ったり、拝んだりするようなことがあった場合どうなるかについて語っています。25節から31節までです。

「あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。」

 

どういうことでしょうか。偶像を拝むようなことがあれば、主は彼らを国々の民の中に散らされます。その土地から追いやられるのです。異邦の民の中で、異邦人と同じように生きなければならないのです。しかし、あわれみ深い主は、そこから主に立ち返るようにしてくださいます。主は決して彼らを捨てず、彼らを滅ぼさず、彼らの先祖たちに誓った契約を忘れないのです。なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。30節には「後の日」とありますが、これは終わりの時のことです。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。神は、ご自分の立てた契約のゆえに、彼らがこの地に戻ることができるようにしてくださいます。

 

この預言のとおり、1948年5月に、全世界に離散していたユダヤ人がここに戻り、イスラエル共和国を樹立しました。二千年もの間離散としていた民が再び集まって国を再建するということは考えられません。しかし、神はそれを行ってくださいました。神はご自分の語られたことを必ず成就してくださる方であることを知ることができます。この「終わりの日」とは、まさに現代のことを指しているのです。

 

次に32節から40節までをご覧ください。

「さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」  どういうことでしょうか。モーセはここで、神がイスラエルをいかに愛しておられるのかを語っています。イスラエルはこれまで、主の偉大なみわざをずっと見てきました。それはたとえば、火の中から語られる神の声であったり、エジプトにおいて彼らのためになされた力強いみわざであったりです。いったいなぜ主は彼らのこのような偉大なみわざを見せられたのでしょうか。それは35節にあるように、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。彼らがこのことを心に留めることによって、彼らが入っていく約束の地において、彼らが長く生き続けるためだったのです。

 

 それは私たちも同じです。主は私たちの人生においても数々のみわざを成してくださいました。それはいったい何のためなのかというと、これからの歩みにおいて、主こそ神であることを知り、その神に信頼して生きるためです。それなのに、私たちは神のみわざを心に留めることをしないので、すぐに忘れてしまうので、人間的になってしまいます。神が与えてくださった地で私たちが長く生き続けるためには、私たちは主の偉大さを思い起こし、信仰によって生きなければならないのです。

 

3.これがイスラエル人の前に置かれたみことば(41-49) 「それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。」

 

それからモーセは、ヨルダン川の東側に三つの町を取り分けました。

 

のがれの町とは、あやまって人を殺した者がそこに逃れることができるようにと定められた町です。この町々は、彼らが復讐する者からのがれるところで、殺人者が、さばきのために会衆の前に立つ前に、死ぬことがないようにと定められた町々です。

こののがれの町は何を表していたのかというと、キリストの贖いでした。彼らは聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければなりませんでした。血を流したことに対しては贖いが求められたからです。そして、大祭司の死は、その在任中に殺された被害者の血を贖うに十分なものでした。この大祭司こそイエス・キリストを示すものでした。イエス・キリストは大いなる大祭司として、永遠の御霊によって、全く汚れのないご自分を神にささげ、その死によって世の罪のためのなだめの供え物となられました。ちょうど大祭司の死によって、あやまって人を殺した者の罪の贖いがなされ、自分の所有の地に帰ることができたように、私たちの大祭司イエス・キリストの死によって、彼のもとに逃れて来たものたちが、罪によって失われた嗣業を受けるに足る者とされ、キリストが約束された永遠の住まいに帰ることができたのです。

 

こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかが語られました。これがモーセをとおしてイスラエル人の前に置かれたみおしえです。このように、主との生きた交わりは、その場の雰囲気や自分の思いや感情とは全く関係なく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけなのです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていたことだったのです。

申命記3章

きょうは、申命記3章から学びます。

 

1.バシャンの王オグを攻め取る(1-11)

 

「私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。」

ヘシュボンの王シホンに勝利しその地を聖絶したイスラエルはさらに北上し、バシャンへの道を上って行きました。バシャンの地は、ガリラヤ湖の北東地域、つまりゴラン高原のことです。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで戦うために出て来たので、そこで一戦を交えます。

そのとき、主はモーセに仰せられました。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」

こうして主は、バシャンの王オグとそのすべての民をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残しませんでした。そのとき、イスラエルは彼の町々をことごとく攻め取り、彼らが取らなかった町は一つもありませんでした。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国でした。イスラエルは、ヘシュボンの王シホンにしたように、これらすべての町々、男、女および子どもを聖絶したのです。こうして、彼らは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取ったのです。  ここに、バシャンの王オグがどれほど巨人であったかが記録されています。まず「バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。」とあります。「レファイム」とは「巨人」という意味です。彼がどれほど巨人であったかは、彼の寝台を見ればわかります。この「寝台」がベッドのことなのか、棺を指しているのかはっきりわかりませんが、いずれにせよ、彼の寝台は鉄製で、そのサイズは長さ9キュビト、幅4キュビトでした。1キュビトは約44cmですから、長さは約4m、幅は約1.7mとなります。そんなに大きなベッドに寝ていました。それほど大きかったのです。そんな大きな相手を倒すことができたのです。どうしてでしょうか。主が共におられたからです。敵がどれほど大きなものでも、私たちの主は全能なる方です。主にとって不可能なことは一つもありません。主が「恐れてはならない」、「その地を渡している」、「戦え」と言われるなら、そのみことばに従わなければなりません。そうすれば、必ず主が敵を打ち破ってくださいます。

 

2.この地の分割(12-22)

 

「この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。マキルには私はギルアデを与えた。 ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」 私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

 

モーセは占領した地、すなわち、ヨルダン川の東側の地を、ルベン人とガド人、そしてマナセの半部族とに与えました。それは、彼らがモーセにその地を割り当ててほしいと願い出たからです(民数記32章)。その地は家畜に適した地だったので、家畜を多く所有していた彼らは、何とかその地を自分たちの所有の地として与えてほしかったのです。しかし、それは神のみこころではありませんでした。神のみこころは、ヨルダンの西側のカナンの地を占領することでした。そのようにしてその地にとどまることは神のみこころではないだけでなく、そうした彼らの行為はイスラエル人の意気をくじくもので、かつて彼らがカデシュ・バルネアで失敗を繰り返すことでした。

そこでモーセは、彼らがイスラエル人の先に立って渡って行き、主が与えようとしておられる地を占領し、その地を所有するようになったら、モーセが与えたその地を所有することができると言いました。

 

これはどういうことなのでしょうか。神は決して強要されることはしないということです。彼らが行きたくないというのなら、行かなくても構わないのです。信仰生活において神を知ることや、神に仕えること、聖書を学ぶこと、教会で奉仕すること、そういった霊的なことにおいてそれ以上求めなければ、それ以上はお求めにならないのです。あなたがもっと先へ行きたい、もっと深く知りたい、もっと主に仕えたいと願わない限り、神はあなたを強要して先へ向かわせるようなことはしないのです。あなたが望まない限りは一歩もあなたを強制的に前へ進ませることはなさらないのです。逆に言うなら、望みさえすれば、いくらでもあなたを先へ進ませてくださるということです。もっと豊かな土地へ、もっと祝福の人生へと進ませてくださるのです。マタイの福音書7章7節に、「求めなさい。そうすれば、与えられます。」とあるように、求めなければ、与えられることはないのです。そこで止まってしまのです。ただ兄弟姉妹が戦っているのを見て、傍観していてはなりません。サポートすべき時はサポートし、それは祈りをし、物質的な援助をもって、最前線で戦っている人たちをサポートしなければなりません。それが神の望まれていることなのです。

 

またモーセは、ヨシュアに対しても、彼を励ますことを忘れませんでした。モーセは彼に、主がこれらふたりの王になさったすべてのことを、これからわたって行くすべての国々にも同じようにされると宣言し、彼らを恐れてはならない、と命じました。

 

3.モーセの祈り(23-29)

 

「私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。」

 

 そのときモーセは主に懇願して言いました。モーセがヨルダン川を渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地を見させてください、と。モーセはなぜこのようなことを懇願したのでしょうか。それは彼もぜひとも見たかったからでしょう。そこでイスラエルを励まし、彼らがしっかりと神にとどまるように導きたかったのだと思います。

 

 しかし主の答えはノーでした。主はモーセに怒り、彼の願いを聞き入れてくださいませんでした。なぜでしょうか。神の命令に従わなかったからです。岩を一度だけ打つように命じられていたのに、イスラエルの民に対する怒りと憤りを抑えることができず、二度も打ってしまいました。モーセは偉大な指導者でしたが、彼にも弱さがありました。彼は自分の感情に従ってブチ切れてしまったのです。それで彼も約束の地に入ることはできないと告げられたのです。

 

そして主はモーセに言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

 

どういうことでしょうか。ここに二つの霊的真理が教えられています。一つは、イスラエルの民を約束の地に導いたのはモーセではなくヨシュアであったということです。ヨシュアという名前は「主は救い」です。ギリシャではイエスです。つまり、イスラエルを約束の地に導くことができるのは律法ではなく、イエス・キリストであるということです。モーセは律法を表していましたが、イスラエルを約束の地に導くことができたのは律法ではなく神の救い、イエス・キリストでした。確かに律法にも大切な役割がありました。それは神の下へと導く養育係りであるということです。律法を守ろうとすればするほど守れない自分に気付き、神の救いを求めるようになります。まさに律法はそのために与えられたものであって、律法そのものが人を救うことはできないのです。

 

もう一つのことは、確かにモーセは約束の地に入ることはできませんでしたが、そんなモーセに神様はビジョンを与えてくださったことです。モーセが主に、あの良い地を見させてくださいと懇願すると、主は怒って、それを聞き入れてくださいませんでした。しかし、主は彼をピスガの頂に立たせて、こう言われました。「目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。」

このことはモーセにとってどれほど大きな慰めであったことでしょう。そのことによって彼はその地がどういうところかを知ることができました。また、自分が導いてきたイスラエルがそこに入って行くこともイメージすることができたでしょう。それまでは、その地に入って行くことができないという主のことばにただがっかりして、ただ後悔していただけでした。自分のミスによることだけど、自分が蒔いた種だから仕方ないけど、本当に残念だ。しかし、神はそのモーセをあわれみ、励まし、このビジョンを与えてくだせさったのです。それでモーセは励ましを受けることができました。

 

私たちも自分の失敗に悩み、落ち込むことがあります。どうしてあの時あんなことをしてしまったのだろう、神のみことばに従っていればこんなことにはならなかった、自分が思い描いた人生ではなかった、やりたいこと、願っていたことができなかった、自分のプランがすべて水泡に帰してしまった、目の前の扉がすべて閉ざされてしまったと、落ち込むことがあります。しかし、あなたがピスガの頂に登り、そこで主と交わり、主からビジョンを見せていただくなら、あなたも励ましと、慰めと、希望を持つことができるのです。

 

箴言29章18節には、「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」とあります。

幻がなければ、私たちはほしいままにふるまってしまいます。つまり、滅びてしまうことになります。自分の罪を悲しみ、落ち込んでいるとき、その救いを見て、その方から幻が与えられることによって、あなたは勇気を持つことができるのです。励ましを受けることができます。それがピスガの頂での体験です。神は過去のことで悩み、苦しみ、落ち込んでいるあなたにみことばを与え、ビジョンを示し、喜びと平安と希望を与えてくださるのです。ヨルダン川を渡ることはできませんでしたが、それよりももっとすばらしいかの地へと導いてくださるのです。

 

 ところで、モーセは約束の地に入ることができませんでしたが、彼は天国に入ることができたのでしょうか。マタイの福音書17章を見ると、イエスがペテロとヨハネとヤコブの3人の弟子を連れて非常に高い山に行ったとき、そこで御姿が変わったという出来事がありました。御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。これは神としてのキリストの姿です。キリストが本来どのような方であられるのかを、この時彼らに示されたのです。そして、この時モーセとエリヤが現れて何やらイエスと話し合っていたとあります。それはまさに天国の光景でした。ですから、モーセは天国に入れられていたのです。彼の肉体はヨルダン川の手前で滅びましたが、彼の霊は天の御国に入れられたのです。モーセが見たビジョンは、まさにこの天国のビジョンだったのです。

 

 それと同じように、私たちもこの地上はいろいろな失敗があり、神のみこころを損ねて、約束の地に入れないことがあり、そのことで非常に落ち込むことがあるのですが、神はあなたをピスガの頂に立たせ、このビジョンを示されるとき、あなたは慰めと励ましと希望を持つことができるのです。もう過去に縛られることはありません。神はあなたを招いてピスガの頂に立たせてくださいます。そこで喜び、平安、希望が与えられます。あなたはやがてその地に入れられるからです。

 

そして、このピスガの頂はどこにでもあります。神が落ち込んでいるあなたに声をかけてくださるところ、それがピスガの頂なのです。そこであなたは神の声を聞くとこができるのです。落ち込んでいる心に語りかけてくださいます。そのときあなたは本当の励ましを体験することができるのです。神はあなたにも「ここに来なさい、ここに上りなさい」と招いておられます。それは、ある人にとっては静かな人気のない所かもしれません。ある人は自分の部屋に、ひとりだけになっている時かもしれません。ある人は車の中かもしれません。ある人はトイレの中かもしれません。いずれにせよ、静かなところで神様と1対1になって、神の声を聞くところ、それがあなたにとってのピスガの頂です。神様があなたに何かを必ず示してくださいます。これから先どういう展開になるのかを。そしてあなたは励まされるはずです。ですから、あなたもピスガの頂に登り、そこで神の声を聞いてください。神が与えてくださる約束の地を見てください。そこで神と語らい、神からの励ましを受けて、神のビジョンに向かって一歩を踏み出していただきたいと思います。

申命記2章

きょうは、申命記2章から学びます。まず1節から8節までをご覧ください。 

Ⅰ.エサウの子孫に戦いをしかけてはならない(1-8) 

「それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。主は私にこう仰せられた。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。」 

カデシュ・バルネアでの出来事によって約束の地に入れないと宣告されたイスラエルの民は、再び荒野を放浪することになりました。セイル山の回りというのは死海とアカバ湾の間の地域のことです。彼らはそこをグルグルと38年間も回っていたのです。その時主は彼らに、「北のほうに向かって行け。」と仰せになられました。そこはエサウの子孫エドム人が住んでいた所ですが、彼らに争いをしかけてはならない、と命じられたのです。なぜでしょうか。それは、主がエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからです。エサウはイスラエルの先祖アブラハムの子イサクの双子の兄弟で、彼らにとっては親戚にあたる民族です。神はヤコブを選ばれ、彼をイスラエルと改名して、彼から12の部族が誕生しました。それがイスラエルの起源です。けれども、エサウにも彼が所有する地を与えておられたのです。使徒17章26節に、「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全地に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とありますが、それはイスラエル民族だけではなく、すべての民族に対しても同じようにしてくださったのです。このことは神が愛しておられるのはご自分が選ばれ、ご自分の民とされたイスラエルだけではないということです。神はイスラエルに約束の地を与えてくださいましたが、エサウにも、他の民族にも同じように与えておられるのです。 

6節をご覧ください。食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければなりませんでした。これはどういうことでしょうか。これまではどうであったかというと、食物は神が天からマナを降らせて養い、水は岩から流して与えてくださいました。しかし、これからは自分で食べ物も飲み物も得なければなりません。なぜなら、神は彼らに乳と蜜の流れる地へ導いてくださるからです。乳とは家畜の乳のことであり、家畜を飼うに適した地という意味です。また、蜜とは蜂蜜のことではなくくだものの蜜のことです。すなわち、そこは農耕にも適した地であるという意味です。神はそのようなすばらしい地を与えてくださるのですから、これからは自分で買って食べなければなりません。いつまでもマナが降るわけではありません。いつまでも岩から水が流れるわけではありません。神は必要な時には必ず与えてくださいますが、それはいつまでもそこに甘んじていてはならないのです。約束の地に導かれたなら、それが止むのです。ヨシュア5章11節と12節を見ると、彼らがカナンの地に入り、そこで過ぎ越しのいけにえをささげた翌日から、マナが降るのがやんだので、彼らはカナンの地で収穫したものを食べました。このように神はどのような状態でも、私たちを祝福して守ってくださるのです。それが7節で言われていることです。「あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」これはイスラエルがエドムを通る時も同じで、主は彼らが事欠くことがないと励ましてくださいました。主はなんとすばらしい方でしょうか。彼らが荒野を旅する時でも、彼らが一度も飢えることがないように、すべての必要を満たし続けてくださったのです。

それはイスラエルに対してだけではありません。私たちに対しても同じです。クリスチャンになって何年、何十年と辛いこと、苦しいことはありましたが、振り返ってみると、一度も事欠くようなことはありませんでした。主はすべての必要を満たし続けてくださいました。あれがない、これがないと言ったことはありましたが、それでもすべてを備えてくださいました。私たちの主はそのようにあわれみ深く、忠実な方なのです。 

Ⅱ.モアブに敵対してはならない(9-15) 

次に9節から15節までをご覧ください。

「主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。」 

ここでは、「モアブに敵対してはならない」と言われています。なぜでしょうか。モアブはアブラハムの甥ロトが先祖だからです。ロトはソドムとゴモラを選び取りそこに住んでいましたが、あまりにも激しい堕落のゆえに神によって滅ぼされてしまいました。けれども、アブラハムの必死のとりなしによってロトとその家族は救出されたのですが、ロトの妻は後ろを振り返ってはならないと言われたにもかかわらず振り返ってしまったので、塩の柱になってしまいました。残されたロトの二人の娘はどうやって子孫を残すでしょうと考えた末、父親のロトと関係を持つことによって子供をもうけました。そのようにして生まれたのがモアブとアモンです。ですからモアブもイスラエルの親戚にあたる民族なので、彼らに敵対してはならないし、彼らに争いをしかけてはならないと言われているのです。 

ところで、そのモアブ人の住んでいたところにはかつてエミム人が住んでいましたが、このエミム人は強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かったのですが、彼らはそんなエミム人を追い払い、自分たちの領土にしていたのです。 

それはあのエサウの子孫が住んでいたセイルの地も同じです。そこにはかつてホリ人が住んでいましたが、彼らはこのホリ人を追い払い、根絶やしにして、そこを占領し住んでいたのです。 

何が言いいたいのかというと、エドム人やモアブ人は、そこに背が高いレファイムがいても、自分たちの手で勇敢に戦い、その地を攻め取ったということです。その一方でイスラエルはどうだったかというと、彼らは約束の地を前にして、そうした巨人たちがいるのを見て恐れおののき、戦おうとしませんでした。その結果、約束の地へ入ることができませんでした。 

これはどういうことでしょうか。神の民であるクリスチャンの中には、目の前にこうした巨人たちがいると尻込みして戦おうとしない人たちが多いということです。ちょっとでも辛いこと、苦しいこと、試練などがあると、「ああ、私はもうだめだ。」「私はなんてかわいそうな人間なんだろう」と悲観的になったり、自己憐憫に陥ってしまい、戦いを避けようとする傾向があります。でもモアブ人やエドム人はどうだったかというと、彼らは異教徒であったにもかかわらず勇敢に戦って、自分たちの手でその地を占領しました。これは全く逆ではないでしょうか。私たちには全能者である神がともにおられるのです。私は、私を強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです、とあるのに、実際はできません、だめだと言って、戦おうとしないのです。ノンクリスチャンには神がいないので、自分でやるしかありません。自分を鼓舞して、自分の力を信じて、だめもとでチャレンジします。私たちはダメもとどころか、真の力の源であられる主イエスがともにおられるのです。それがみこころだったら、主が必ず与えてくださるはずです。主が真の解決者なのです。私たちこそ主の力を信じて、すべてを主にゆだねて、開拓して、パイノニアの精神で、切り開いていく者でなければなりません。Ⅰコリント10章13節にはこうあります。

「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

 何が脱出の道ですか。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」ですから、イエスが道です。イエスが脱出の道です。私たちにはその道が与えられているのです。ですから、主が命じられることならば、恐れないで、チャレンジしていかなければなりません。 

「ゼレデ川」とは死海の南端に水が入っていく、モアブとエドムの国境にもなっている渓谷です。これからゼレデ川を渡ってモアブの地に入ります。カデシュ・バルネアからゼレデ川を渡るまでの期間は38年でした。エジプトを出たのはさらに1年数か月前のことでしたから、エジプトを出てから実に四十年かかりました。40年というのは一世代のことですから、この間にエジプトを出たときに二十歳以上であった人たちはみな荒野で死に絶えてしまいました。 

Ⅲ.アモン人に敵対してはならない(16-23) 

次に16節から23節までをご覧ください。

「戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、主は私に告げて仰せられた。「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・」 

 ここには、ロトと彼のもう一人の娘との間に生まれたアモンの子孫のことについて、彼らに敵対してはならないと言われています。それは彼らがロトの子孫であり、彼らの親戚にあたる人たちだからです。アモン人もまたザムズミズ人という巨人、レファイムを打ち破り、その地を占領していました。それは強大な民であって数も多く、アナク人のように背が高かったが、主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいたのです。それはエサウの子孫やモアブの子孫たちと同じです。ちなみに、ここに「カフトル」から出てきた民のことが言及されていますが、これは地中海に浮かぶクレテ島のことです。これはペリシテ人のことです。彼らはクレテから始まる、地中海沿岸地域に住みつき、イスラエルの地ではガザ地区辺りに住んでいた民族でありますが、彼らはガザ近郊の村々に住んでいたアピム人を、根絶やしにして、代わりに住みついていました。 

ここでおもしろいことは、11節や12節でモアブやエサウの子孫たちがその地を占領した時の経緯と違い、ここには「主が」という言葉があることです。「主がこれを根絶やしにされたのです・・・」(21)、「主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。」これはどういうことでしょうか。これは、モアブやエサウの子孫たちが占領した時にも、主が働いておられたということです。主が働いておられたので、彼らもその地の住人を追い払うことができたのです。ノンクリスチャンの背後にも主が働いておられるのです。ノンクリスチャンは自分の手腕によって成功したかのように考えているかもしれませんが、そうではなく、その背後に主が働いておられ、主がその人に能力を与え成功に導いてくださったのです。ローマ1章21節を見ると、「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」とありますが、このことを認めず、神に感謝しないと、彼らの思いは暗くなってしまいます。このことをしなかったエドムも、モアブも、アモンも、今日は存在していません。彼らは神を神としてあがめなかったので滅びてしまったのです。それは今日も言えることで、ノンクリスチャンの背後にも神が働いておられるということを認め、神に感謝しなければ、その人もまた滅ぼされてしまうことになってしまいます。 

Ⅳ.ヘシュボンの王シホンと戦いを交えよ(24-37) 

最後に24節から37節までを見ておわります。

「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。」 

これまで主は三度も「争うな」と命じておられましたが、ここでは「戦え」と命じておられます。アルノン川が、モアブの北の国境線になっており、そこを越えるとエモリ人シホンの国になります。それでモーセは、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言いました。「あなたの国を通らせてください・・・」しかし、ヘシュボンの王は、どうしても通らせようとしなかったので、イスラエルは彼らと戦いを交え、その民のすべての民を滅ぼしました。 

ここには、興味深いいくつかのことが記されてあります。その一つは、主はモーセに戦いを交えよと言われたのに、モーセはまず和平を申し込んだことです。これは決してモーセが神の命令に逆らったということではありません。それは正しいことでした。神は正義に基づいて事を行われます。ですから、相手がこちらの要求に従う時には、わざわざ戦いを交える必要はないのです。和平ができれば、それに越したことはありません。だから、そのようなステップを踏みながら接していくことはとても重要なことなのです。しかし、主は相手がどのような態度を取るかということを前もって知っておられました。相手がかたくなになって、強気になって、戦いを挑んでくることを知っておられたので、戦いを交えよと言われたのであって、できるだけ平和的な解決を求めることは神の民にとってふさわしいことなのです。 

もう一つのことは、こうしたヘシュボンの王シホンの態度は、主がそのようにしておられたということです。20節を見ると、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである、とあります。ヘシュボンの王シホンの心をかたくなにしたのは主ご自身でありました。なぜでしょうか。それは、主が彼をイスラエルに渡すためです。彼らがかたくなになり、強気になり、イスラエルと戦うことによって、主がイスラエルに勝利を与え、彼らをその手に渡すためでした。

これはエジプトの王パロも同じでした。かつてイスラエルがエジプトを出るときに、モーセがパロのところに行って、「民を出て行かせてください」と願い出ても、パロは心を強情にして出て行かせませんでした。それでどうしたかというと、主がエジプトと戦われました。神が勝利を表されるために、あえて相手の心をかたくなにすることがあるのです。 

これは私たちにも言えることです。これまで仲良くしていた人が急に手のひらをかえしたかのような行動をとる場合があります。あんなに丁寧に接していたのに、あんなにやさしく、親切にして、仲良かったのに、急に対立したり、対抗してくるようなことがあって、ショックになることがあるのです。いったいなんでそうなるのかどんなに考えてもわからないことがあるのです。

それを解決する鍵がここにあります。それは、主がそのことを許されたということです。すべてのことは神の御の中にあります。神が主権をもってコントロールしておられるのであって、私たちがわからないこともあるのです。私たちにとって必要なのは、その神の主権を認めることなのです。「あっ、これも神がゆるしておられることなんだ」「このことにもきっと何らかの神のご計画があるに違いない」と認めると、平安が与えられます。神は御座におられ、すべてをすべ治めておられます。シホンの王の心がかたくなになったのも主がゆるされたことであって、それで戦いを交えることがあったとしても、主が勝利を与えてくださり、主に栄光が帰されるということです。ですから、たとえ理解できなくてもすべてを主にゆだねて祈らなければなりません。

あの創世記に出て来たヨセフもそうでした。なぜそのようなことになったのかさっぱりわかりませんでしたが、主はそのような悪さえも善に変えてくださいました。それはヨセフがそこに主の御手があることを覚え、すべてを主にゆだねたからです。

それは私たちにも言えることです。私たちの人生にもなぜそのようなことが起こるのかさっぱりわからないことがありますが、その背後で主が働いておられ、主がそのように導いておられるのです。ということは、そのことさえも主の栄光のために用いられるということです。そのことがわかると安心します。私たちに必要なのは、そのような中でもただ主を待ち望むことなのです。 

それから34節に「聖絶」ということばが出てきます。それは主のためにすべてを滅ぼすことです。いったいなぜこのようなことが命じられているのでしょうか。そんなことをしたらかわいそうだ、そんなことを命じる神はおかしいと、このことでつまずく人もいますので、このことを正しく理解することは大切なことです。 

これは霊的には、聖霊によって肉の性質を徹底的に殺すことを意味しています。ローマ8章13節には、「もし肉に従って生きるのなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すのなら、あなたがたは生きるのです。」とあります。どうしたら生きるのでしょうか。御霊によって、からだの行いを殺すことによってです。そこには妥協は一切許されません。肉が働く機会を許さないように、徹底的に取り除かなければならないのです。ここでひとりの生存者も残さないように聖絶するようにと命じられているのは、そのためだったのです。私たちも信仰の戦いにおいて、こうした肉の働きに対しては聖絶することが求められているのです。こうしてエモリ人の地を占領しました。イスラエルは主が命じられたとおりに、エサウの子孫であるエドム人の地やロトの子孫であったモアブ人の地とアモン人の地には近寄りませんでしたが、エモリ人とは戦いを交えて勝利し、その地を聖絶したのです。

申命記1章

 きょうから申命記の学びに入ります。まず1節から8節までをご覧ください。 

 Ⅰ.向きを変えて、出発せよ(1-8) 

「これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。」 

 「申命記」というタイトルは、日本語では「命令」を、「申した」、「記録」となっていますが、これは、これは中国の漢訳聖書から取られたものです。その意味は「繰り返して述べる」であります。ですから、これは神のことばが繰り返し、繰り返し、述べられている書であると言えます。この「申命記」という書名の元々の名前は、「エーレハデバリーム」と言います。ヘブル語です。直訳すると、「これはことばである」です。何のことばであるのかというと、もちろん、神のことばです。ですから、「これは神のことばである」というのが原語のタイトルなのです。ヘブル語をギリシャ語に訳した「七十人訳聖書」、「セプチュアギンタ」と言いますが、この七十人訳聖書では何というタイトルがつけられているかというと、「Deutonomion」です。実は英語の聖書では申命記を「Deuteronomy」と言いますが、これはこのギリシャ語訳からとられたものです。その意味は「第二の律法」です。第一の律法は何かというと創世記から申命記までの五つの書のことですが、そこで語られたことを繰り返して述べられています。ですから、申命記は第二の律法と言えるのです。なぜ繰り返して述べられているのでしょうか。それは、私たちは忘れやすいものだからです。創世記からずっと語られてきたことを振り返ることによって神がどのような方であるのか、イスラエルがどのように失敗したのかを学び、そこから教訓を学ぼうとしているのです。過去の歴史を学ぶということはそのような益を受けることができるのです。そして、それを今の自分の生活に適用することができます。ちなみに、イエスさはこの申命記から最も多く引用されました。いわば、これはイエスさまの愛読書であったと言っても過言ではありません。申命記はそれほど重要な書なのです。

 ホレブというのは十戒が与えられたシナイ山のことです。そこからカデシュ・バルネア、すなわち、約束の地に入るための入口となる町までの道のりはたった11日でした。それなのに彼らは、そこにやって来るまで40年もかかってしまいました。なぜでしょうか。信じなかったからです。エジプトを出て荒野に導かれてからの彼らの旅路は困難の連絡でしたが、主はそのたびに彼らをあわれみ、みわざを現わしてくださったのに、信じませんでした。そして、カデシュ・バルネアでの出来事を通して、約束の地に入れないということが決定的になってしまったのです。40年というのは一世代を指します。すなわち、エジプトを出た最初の世代のうち二十歳以上の者はだれも入ることができなかったのです。 

 この時モーセはどんな気持ちだったでしょうか。なぜあの時従うことができなかったのだろう、なぜあんなことをしてしまったのか、なぜこんなことも・・・と後悔していたことでしょう。私たちも天国を前にして、モーセと同じような心境になるかもしれません。あのときちゃんと信じていればよかった。あの時牧師が語っていることを額面通り信じて受け入れていればよかったと、後悔するようになるかもしれません。そういうことがないように、私たちはこのイスラエルの失敗から学ぶべきです。これまでのことは仕方ないにしても、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むべきです。これからの残された生涯を、それがどれだけあるかは別として、後悔しないように、神のみことばに従って生きていきたいと思うのです。 

 では次に5節から8節までをご覧ください。「ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」 

 イスラエルは第一年の第三の月の第一日(出19:1-3)から第二年の第二の月の第二十日(民数記10:11)まで約1年間、ホレブの山にとどまっていました。そこで主はイスラエルに、「向きを変えて、出発せよ。」と命じられました。なぜなら、主はその広大な地を彼らの手に渡しているからです。だから、彼らは行って、その地を所有しなければなりませんでした。「渡している」という言葉はヘブル語では完了形になっています。これはアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた時から、もう既にイスラエルのものとなっているものです。しかし、いくらそれがイスラエルのものであっても、彼らがそこにとどまっているのなら、それを所有することはできません。それを自分たちのものにするためには、そこに出て行って、実際にその地を所有しなければならなかったのです。向きを変えて、出発しなければなりません。向きを変えるとは、悔い改めるということです。方向転換をしなければなりません。不信仰だったこれまでの生き方を悔い改め、神が仰せになられることは何でもしますという方向に転換しなければなりません。そこには想像を絶するほどの祝福が待ち構えているからです。 

  Ⅱ.リーダーたちの任命(9-18) 

 次に9節から18節までをご覧ください。「私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。」  「あの時」とは、どの時のことでしょうか。これは出エジプト記18章に記されてあるイテロが助言した時のことでしょう。エジプトを出てまだ二か月も経っていませんでしたが、モーセはひとりで大勢の民を治め、さばくことに疲れ果てていました。いったいどうやってその大勢のイスラエルの民を約束の地まで導くことができるでしょう。それでモーセはイスラエルの民に率直に言うのです。「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。」モーセにとってイスラエルの民のもめごとは重荷でした。不従順な民はリーダーの重荷となるのです。牧師がその能力と賜物を発揮できないのは牧師の弱さにもありますが、実はこうした重荷が原因である場合が多いのです。一人一人が主に従っていれば、もめごとなんて起こりません。起こったとしても互いに赦し合い、愛し合って、解決できるはずです。それなのにもめごとになってしまうのは、主に従っていないからです。すべては主との関係で決まるのです。一人一人がしっかりと主につながり、主のみこころに歩んでいれば、そこには愛と一致が生まれ、麗しい調和、ハーモニーが奏でられるのです。そうすれば牧師の荷は軽くなり、その力をもっと発揮することができるようになるでしょう。それがないと指導者は疲れ果て、倒れてしまいます。結局、モーセも共倒れになってしまいました。モーセほど偉大な指導者はいないと思いますが、そのモーセでも300万人もの人たちをさばくことはできなかったのです。そうしたもめごとで完全に足が引っ張られたのです。 

 それで、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出すようにと言いました。すると、彼らは、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言ったので、モーセは、彼らの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らの上に置きました。その結果、モーセは荷を軽くして、前進していくことができたのです。 

 これは教会においても言えることです。教会も牧師一人ではすべての重荷を負うことはできません。そんなことをしたら倒れてしまいます。どんなに能力があっても、どんなに若くてエネルギーがあっても、それは不可能なことなのです。最初のうちはできるかもしれませんが、10人、20人と人数が増えてくるに従い、一人ではできなくなるのです。だから、リーダーが立てられ、重荷を負い合って、それぞれの荷を軽くしなければならないのです。

 また、出エジプト記18章19-20節には、こうあります。「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」(出18:19-20)

 いったいなぜ、かしらが立てられなければならなかったのでしょうか。それはモーセが民に代わって神の前にいるためです。神の前にいて、神から彼らが歩むべき道を聞き、それを民に示すためです。これが、モーセのしなければならなかった最優先のことだったのです。それなのに、もし彼がさまざまな重荷で疲れ果ててしまったら、彼が本来しなければならないことができなくなってしまいます。それはイスラエル全体にとっても大きな損失です。なぜなら、それこそ彼らが前進していくために最も重要なことだったからです。このように指導者が神の前に出て神からのおきてを授かり、神とじっくりと交わるためには、指導者の荷を軽くしなければならなかったのです。 

 ところで、ここではどのような人がリーダーが立てられているでしょうか。ここには、「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。」とあります。どういう意味でしょうか。リーダーは人々の中から出されなければならないということです。日曜日だけ礼拝に来ていればいいのかというとそうではありません。リーダーはいつも人々の中にいる人でなければならないのです。人々とともに考え、分かち合い、祈り、行動を共にしてこそ、その痛みを理解することができるからです。主イエスは「わたしは良い羊飼いです。」と言われましたが、まさにリーダーは小羊飼いです。羊とともにいて、彼らの世話をすることが求められています。だから、その中から選ばれなければならなかったのです。 

 Ⅲ.イスラエルの不信仰の結果(19-46)  

 そして、次にモーセはカデシュ・バルネアでの出来事について語ります。19節から40節までをご覧ください。まず19節から26節までをお読みします。「私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。」

 これは、イスラエルがカデシュ・バルネアでの出来事です。これは荒野を行くイスラエルにとって最大、かつ最悪な出来事でした。なぜなら、このことによってイスラエルの民は荒野で死に絶えてしまうことになるからです。その出来事というのは、これから占領しようとしていた土地へ偵察隊を遣わしその地がどのような所であるかを探らせようというものでした。それで各部族から一人ずつ12人を選び出し遣わしたのです。 

 ところで、ここにはこのことがどのようにして行われたのかが記録されています。主は「上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と命じられたのに、イスラエルの民はモーセのところにやって来て、その地に人を遣わして、その地を探らせようと言ったのです。すなわち、これは主から出たことではなく、イスラエルの民たちから出たことだったのです。なぜ彼らはこのようなことを言ったのでしようか。不安があったからです。恐れがあったからです。自分たちがこれから入っていく地がどういうところかわからないのに行って滅ぼされてしまったら大変なので、そういうことがないように、事前に調べさせようというのです。

 これは人間的にみたら一見慎重で、賢い態度のように見えるかもしれませんが、これが間違っていたことは明白です。なぜなら、しゅは「上れ。占領せよ。」と命じておられたからです。ですから、彼らがそのように言ったのは、それは彼らが主が語られたことを信じることができなかったから、すなわち、彼らが不信仰だったからなのです。 

 このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。物事を慎重に考えることは大切なことです。しかし、それよりも大切なことは、主が何と言っておられるのかを知り、それに従うことです。そうでないなら、それは慎重なのではなく、不信仰以外の何ものでもないからです。 

 さて、偵察に行った人たちは帰って来てどんな報告をしたでしょうか。26節から33節までをご覧ください。「しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。彼らは主の命令に逆らいました。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」 

 12人のうちヨシュアとカレ部以外の10人たちは、否定的な報告をしました。確かにその地は乳と蜜の流れるすばらしい地だが、上って行くことはできない。そこにはエモリ人やアナク人といった大男がいるので、入って行こうものなら根絶やしにされてしまう。と言ったのです。その報告を聞いたイスラエルの民はどうなったでしょうか。彼らは大声をあげて叫び、民は、その夜、泣き明かしました(民数記14:1)。彼らは自分たちが見た通りのことを語ったのは良かったのですが、それがどういうことなのかを正しく理解していませんでした。それで、間違った結論を出してしまいました。モーセはそのことを28節で、「私たちの心をくじいた」と言っています。そのような否定的な報告は、それを聞いたイスラエルの人々の心をくじくのです。それがつぶやきの一番おそろしいことです。あなたが不平不満を言い、あなたが恐れていると、回りの人をくじけさせます。あなたの不平不満があなただけでとどまっているのではなく、他の人にも伝染するのです。よく、自分の弱さはさらけだすべきだということを聞くことがありますが、それは間違っています。自分の弱さをさらけ出せばいいというのではなく、そこに働いておられる主の力を信じて、主の恵みを証しなければなりません。パウロはエペソ4章29節で、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを離し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っています。悪いことばとは不信仰のことばです。そのようなことばは人の心をくじきますが、良いことば、信仰から出たことばは人の徳を養います。そのようなことばを語らなければならないのです。

 

そのようなイスラエルの不信仰の結果、どのような結果がもたらされたでしょうか。34節から40節までをご覧ください。「主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」 

 主はイスラエルの不平を聞いて怒られ、ヨシュアとカレブ以外、モーセを始めとして、「この悪い時代のこれらの物のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者はひとりもいない」(35節)と断言されたのです。主はこれまでもずっと反逆してきたイスラエルを赦してこられましたが、このことが決定的な原因となって、イスラエルの第一世代の人たちは、主が与えると言われた約束の地に入ることができませんでした。 

「すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。たしかに主は命じられました。しかし、語られたときに彼らは聞き従いませんでした。それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。」(41-46)

 すると彼らはどのような態度を取ったでしょうか。彼らは主に対して罪を犯したと言って、主が命じられたことを行おうと、上って行こうとしました。しかし、それが信仰から出たことではなかったことは明らかです。なぜなら、その後で主は「上ってはならない。」と命じているのに、それでも上ろうとしたからです。彼らの行動はあくまでも自分たちの思いに基づいたものだったのです。こういうのを何というのでしょうか。あまのじゃくとか、すれ違いとでもいうでしょうか。「上って行け」と言われると「いやです」と答え、「上って行くな」と言われると、「いや、上っていく」というのです。不信仰な人はいつもこのような行動をします。 

 その結果はどうだったでしょうか。彼らは出てきたエモリ人たちの迎え撃ちに会い、セイル山まで追い散らされてしまいました。それは悲惨なものでした。そして、みことばに従わず、自分勝手なことをしておきながら、失敗して嘆き訴えても、主は聞いてくださいませんでした。彼らに求められていたことは自分の罪を悔い改めて、ただ神のみこころに従うことだったのです。自己中心的に解決しようとするのではなく、神のみこころに歩むこと、それが求められていたのです。今からでも遅くはありません。私たちもこのイスラエルと同じような失敗を繰り返す者ですが、このところから学び、同じ失敗を繰り返さないように、すなわち、自分自身がどうであれ、主のみこころは何かを悟り、それに従う者でなければなりません。聞いたみことばを信仰によって心に結び付けていきたいと思います。これが繰り返して神が語っておられることなのです。