きょうから申命記の学びに入ります。まず1節から8節までをご覧ください。
Ⅰ.向きを変えて、出発せよ(1-8)
「これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。」
「申命記」というタイトルは、日本語では「命令」を、「申した」、「記録」となっていますが、これは、これは中国の漢訳聖書から取られたものです。その意味は「繰り返して述べる」であります。ですから、これは神のことばが繰り返し、繰り返し、述べられている書であると言えます。この「申命記」という書名の元々の名前は、「エーレハデバリーム」と言います。ヘブル語です。直訳すると、「これはことばである」です。何のことばであるのかというと、もちろん、神のことばです。ですから、「これは神のことばである」というのが原語のタイトルなのです。ヘブル語をギリシャ語に訳した「七十人訳聖書」、「セプチュアギンタ」と言いますが、この七十人訳聖書では何というタイトルがつけられているかというと、「Deutonomion」です。実は英語の聖書では申命記を「Deuteronomy」と言いますが、これはこのギリシャ語訳からとられたものです。その意味は「第二の律法」です。第一の律法は何かというと創世記から申命記までの五つの書のことですが、そこで語られたことを繰り返して述べられています。ですから、申命記は第二の律法と言えるのです。なぜ繰り返して述べられているのでしょうか。それは、私たちは忘れやすいものだからです。創世記からずっと語られてきたことを振り返ることによって神がどのような方であるのか、イスラエルがどのように失敗したのかを学び、そこから教訓を学ぼうとしているのです。過去の歴史を学ぶということはそのような益を受けることができるのです。そして、それを今の自分の生活に適用することができます。ちなみに、イエスさはこの申命記から最も多く引用されました。いわば、これはイエスさまの愛読書であったと言っても過言ではありません。申命記はそれほど重要な書なのです。
ホレブというのは十戒が与えられたシナイ山のことです。そこからカデシュ・バルネア、すなわち、約束の地に入るための入口となる町までの道のりはたった11日でした。それなのに彼らは、そこにやって来るまで40年もかかってしまいました。なぜでしょうか。信じなかったからです。エジプトを出て荒野に導かれてからの彼らの旅路は困難の連絡でしたが、主はそのたびに彼らをあわれみ、みわざを現わしてくださったのに、信じませんでした。そして、カデシュ・バルネアでの出来事を通して、約束の地に入れないということが決定的になってしまったのです。40年というのは一世代を指します。すなわち、エジプトを出た最初の世代のうち二十歳以上の者はだれも入ることができなかったのです。
この時モーセはどんな気持ちだったでしょうか。なぜあの時従うことができなかったのだろう、なぜあんなことをしてしまったのか、なぜこんなことも・・・と後悔していたことでしょう。私たちも天国を前にして、モーセと同じような心境になるかもしれません。あのときちゃんと信じていればよかった。あの時牧師が語っていることを額面通り信じて受け入れていればよかったと、後悔するようになるかもしれません。そういうことがないように、私たちはこのイスラエルの失敗から学ぶべきです。これまでのことは仕方ないにしても、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進むべきです。これからの残された生涯を、それがどれだけあるかは別として、後悔しないように、神のみことばに従って生きていきたいと思うのです。
では次に5節から8節までをご覧ください。「ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」
イスラエルは第一年の第三の月の第一日(出19:1-3)から第二年の第二の月の第二十日(民数記10:11)まで約1年間、ホレブの山にとどまっていました。そこで主はイスラエルに、「向きを変えて、出発せよ。」と命じられました。なぜなら、主はその広大な地を彼らの手に渡しているからです。だから、彼らは行って、その地を所有しなければなりませんでした。「渡している」という言葉はヘブル語では完了形になっています。これはアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた時から、もう既にイスラエルのものとなっているものです。しかし、いくらそれがイスラエルのものであっても、彼らがそこにとどまっているのなら、それを所有することはできません。それを自分たちのものにするためには、そこに出て行って、実際にその地を所有しなければならなかったのです。向きを変えて、出発しなければなりません。向きを変えるとは、悔い改めるということです。方向転換をしなければなりません。不信仰だったこれまでの生き方を悔い改め、神が仰せになられることは何でもしますという方向に転換しなければなりません。そこには想像を絶するほどの祝福が待ち構えているからです。
Ⅱ.リーダーたちの任命(9-18)
次に9節から18節までをご覧ください。「私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。」 「あの時」とは、どの時のことでしょうか。これは出エジプト記18章に記されてあるイテロが助言した時のことでしょう。エジプトを出てまだ二か月も経っていませんでしたが、モーセはひとりで大勢の民を治め、さばくことに疲れ果てていました。いったいどうやってその大勢のイスラエルの民を約束の地まで導くことができるでしょう。それでモーセはイスラエルの民に率直に言うのです。「私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。」モーセにとってイスラエルの民のもめごとは重荷でした。不従順な民はリーダーの重荷となるのです。牧師がその能力と賜物を発揮できないのは牧師の弱さにもありますが、実はこうした重荷が原因である場合が多いのです。一人一人が主に従っていれば、もめごとなんて起こりません。起こったとしても互いに赦し合い、愛し合って、解決できるはずです。それなのにもめごとになってしまうのは、主に従っていないからです。すべては主との関係で決まるのです。一人一人がしっかりと主につながり、主のみこころに歩んでいれば、そこには愛と一致が生まれ、麗しい調和、ハーモニーが奏でられるのです。そうすれば牧師の荷は軽くなり、その力をもっと発揮することができるようになるでしょう。それがないと指導者は疲れ果て、倒れてしまいます。結局、モーセも共倒れになってしまいました。モーセほど偉大な指導者はいないと思いますが、そのモーセでも300万人もの人たちをさばくことはできなかったのです。そうしたもめごとで完全に足が引っ張られたのです。
それで、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出すようにと言いました。すると、彼らは、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言ったので、モーセは、彼らの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らの上に置きました。その結果、モーセは荷を軽くして、前進していくことができたのです。
これは教会においても言えることです。教会も牧師一人ではすべての重荷を負うことはできません。そんなことをしたら倒れてしまいます。どんなに能力があっても、どんなに若くてエネルギーがあっても、それは不可能なことなのです。最初のうちはできるかもしれませんが、10人、20人と人数が増えてくるに従い、一人ではできなくなるのです。だから、リーダーが立てられ、重荷を負い合って、それぞれの荷を軽くしなければならないのです。
また、出エジプト記18章19-20節には、こうあります。「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」(出18:19-20)
いったいなぜ、かしらが立てられなければならなかったのでしょうか。それはモーセが民に代わって神の前にいるためです。神の前にいて、神から彼らが歩むべき道を聞き、それを民に示すためです。これが、モーセのしなければならなかった最優先のことだったのです。それなのに、もし彼がさまざまな重荷で疲れ果ててしまったら、彼が本来しなければならないことができなくなってしまいます。それはイスラエル全体にとっても大きな損失です。なぜなら、それこそ彼らが前進していくために最も重要なことだったからです。このように指導者が神の前に出て神からのおきてを授かり、神とじっくりと交わるためには、指導者の荷を軽くしなければならなかったのです。
ところで、ここではどのような人がリーダーが立てられているでしょうか。ここには、「知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。」とあります。どういう意味でしょうか。リーダーは人々の中から出されなければならないということです。日曜日だけ礼拝に来ていればいいのかというとそうではありません。リーダーはいつも人々の中にいる人でなければならないのです。人々とともに考え、分かち合い、祈り、行動を共にしてこそ、その痛みを理解することができるからです。主イエスは「わたしは良い羊飼いです。」と言われましたが、まさにリーダーは小羊飼いです。羊とともにいて、彼らの世話をすることが求められています。だから、その中から選ばれなければならなかったのです。
Ⅲ.イスラエルの不信仰の結果(19-46)
そして、次にモーセはカデシュ・バルネアでの出来事について語ります。19節から40節までをご覧ください。まず19節から26節までをお読みします。「私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。」
これは、イスラエルがカデシュ・バルネアでの出来事です。これは荒野を行くイスラエルにとって最大、かつ最悪な出来事でした。なぜなら、このことによってイスラエルの民は荒野で死に絶えてしまうことになるからです。その出来事というのは、これから占領しようとしていた土地へ偵察隊を遣わしその地がどのような所であるかを探らせようというものでした。それで各部族から一人ずつ12人を選び出し遣わしたのです。
ところで、ここにはこのことがどのようにして行われたのかが記録されています。主は「上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」と命じられたのに、イスラエルの民はモーセのところにやって来て、その地に人を遣わして、その地を探らせようと言ったのです。すなわち、これは主から出たことではなく、イスラエルの民たちから出たことだったのです。なぜ彼らはこのようなことを言ったのでしようか。不安があったからです。恐れがあったからです。自分たちがこれから入っていく地がどういうところかわからないのに行って滅ぼされてしまったら大変なので、そういうことがないように、事前に調べさせようというのです。
これは人間的にみたら一見慎重で、賢い態度のように見えるかもしれませんが、これが間違っていたことは明白です。なぜなら、しゅは「上れ。占領せよ。」と命じておられたからです。ですから、彼らがそのように言ったのは、それは彼らが主が語られたことを信じることができなかったから、すなわち、彼らが不信仰だったからなのです。
このようなことは、私たちの中にもあるのではないでしょうか。物事を慎重に考えることは大切なことです。しかし、それよりも大切なことは、主が何と言っておられるのかを知り、それに従うことです。そうでないなら、それは慎重なのではなく、不信仰以外の何ものでもないからです。
さて、偵察に行った人たちは帰って来てどんな報告をしたでしょうか。26節から33節までをご覧ください。「しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。彼らは主の命令に逆らいました。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」
12人のうちヨシュアとカレ部以外の10人たちは、否定的な報告をしました。確かにその地は乳と蜜の流れるすばらしい地だが、上って行くことはできない。そこにはエモリ人やアナク人といった大男がいるので、入って行こうものなら根絶やしにされてしまう。と言ったのです。その報告を聞いたイスラエルの民はどうなったでしょうか。彼らは大声をあげて叫び、民は、その夜、泣き明かしました(民数記14:1)。彼らは自分たちが見た通りのことを語ったのは良かったのですが、それがどういうことなのかを正しく理解していませんでした。それで、間違った結論を出してしまいました。モーセはそのことを28節で、「私たちの心をくじいた」と言っています。そのような否定的な報告は、それを聞いたイスラエルの人々の心をくじくのです。それがつぶやきの一番おそろしいことです。あなたが不平不満を言い、あなたが恐れていると、回りの人をくじけさせます。あなたの不平不満があなただけでとどまっているのではなく、他の人にも伝染するのです。よく、自分の弱さはさらけだすべきだということを聞くことがありますが、それは間違っています。自分の弱さをさらけ出せばいいというのではなく、そこに働いておられる主の力を信じて、主の恵みを証しなければなりません。パウロはエペソ4章29節で、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを離し、聞く人に恵みを与えなさい。」と言っています。悪いことばとは不信仰のことばです。そのようなことばは人の心をくじきますが、良いことば、信仰から出たことばは人の徳を養います。そのようなことばを語らなければならないのです。
そのようなイスラエルの不信仰の結果、どのような結果がもたらされたでしょうか。34節から40節までをご覧ください。「主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」
主はイスラエルの不平を聞いて怒られ、ヨシュアとカレブ以外、モーセを始めとして、「この悪い時代のこれらの物のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者はひとりもいない」(35節)と断言されたのです。主はこれまでもずっと反逆してきたイスラエルを赦してこられましたが、このことが決定的な原因となって、イスラエルの第一世代の人たちは、主が与えると言われた約束の地に入ることができませんでした。
「すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。たしかに主は命じられました。しかし、語られたときに彼らは聞き従いませんでした。それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。」(41-46)
すると彼らはどのような態度を取ったでしょうか。彼らは主に対して罪を犯したと言って、主が命じられたことを行おうと、上って行こうとしました。しかし、それが信仰から出たことではなかったことは明らかです。なぜなら、その後で主は「上ってはならない。」と命じているのに、それでも上ろうとしたからです。彼らの行動はあくまでも自分たちの思いに基づいたものだったのです。こういうのを何というのでしょうか。あまのじゃくとか、すれ違いとでもいうでしょうか。「上って行け」と言われると「いやです」と答え、「上って行くな」と言われると、「いや、上っていく」というのです。不信仰な人はいつもこのような行動をします。
その結果はどうだったでしょうか。彼らは出てきたエモリ人たちの迎え撃ちに会い、セイル山まで追い散らされてしまいました。それは悲惨なものでした。そして、みことばに従わず、自分勝手なことをしておきながら、失敗して嘆き訴えても、主は聞いてくださいませんでした。彼らに求められていたことは自分の罪を悔い改めて、ただ神のみこころに従うことだったのです。自己中心的に解決しようとするのではなく、神のみこころに歩むこと、それが求められていたのです。今からでも遅くはありません。私たちもこのイスラエルと同じような失敗を繰り返す者ですが、このところから学び、同じ失敗を繰り返さないように、すなわち、自分自身がどうであれ、主のみこころは何かを悟り、それに従う者でなければなりません。聞いたみことばを信仰によって心に結び付けていきたいと思います。これが繰り返して神が語っておられることなのです。