ヤコブの手紙2章1~13節 「人をえこひいきしてはいけません」

きょうは、「人をえこひいきしてはいけません」というタイトルでお話します。ヤコブは1章で、国外に散っているユダヤ人クリスチャンに対して、さまざまな試練に会うとき、それをこの上もない喜びと思いなさいと勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。神はそのために真理のみことばによって、私たちを新しくお生みになりました。ですから、人間的には不可能であっても、神の御霊によって忍耐することができます。大切なのはその真理のみことばを聞くだけでなく、それを実行することです。そのみことばの実践の一つとして勧められていることが、人をえこひいきしてはいけないということです。

 

この「えこひいきする」ということばは、顔を持ち上げるという意味のことばから来ています。その人の社会的身分や財産、この世的な影響力を不当に重視することによって人を偏って見てしまうことです。聖書はこのような態度を一貫して非難しています。たとえば、レビ記19章15節には、「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。」とあります。ここでは単に強い者にへつらうだけでなく、弱い者におもねることも戒められています。おもねるとは、気に入られるようにふるまうという意味ですが、強い者にペコペコするだけでなく、弱い者に気に入られるようにふるまうこともよくないというのです。たとえ相手が強い者であっても、弱い者であっても、正しく接するようにと教えているのです。それは神が公義であられるからです。ですから、その神を信じて歩む者にも公平さが求められているわけです。人を差別してはいけない、偏見を抱いたり、えこひいきしてはいけないということです。いったいなぜ人をえこひいきしてはいけないのでしょうか。ヤコブはきょうの箇所でその三つの理由を述べています。

 

Ⅰ.栄光の主イエスを信じる信仰を持っているのですから(1-4)

 

第一の理由は、私たちは栄光の主イエスを信じる信仰を持っているからです。1節から4節までをご覧ください。1節にはこうあります。

「私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。」

 

ここでヤコブは主イエス・キリストのことを「栄光の主イエス・キリスト」と言っています。神の栄光は昔、神の幕屋に宿り(出エジプト40:34-38)、イエスがこの地上に生まれた時、その栄光は主イエスに宿りました(ヨハネ1:14)。そして今日、彼を信じるすべての人に神の御霊が注がれたことによって、彼を信じるすべてのクリスチャンにこの神の栄光が宿るようになりました(Ⅰコリント6:19-20)。クリスチャンとはそのような者なのです。神は、こんなに罪に汚れた者を赦してくださり、「インマヌエル」すなわち「神は私たちとともにおられる」という約束を実現してくださいました。私たちはこの主イエス・キリストを信じる信仰によって神の栄光を持つ者となったのです。であれば、もはや人の栄光とか、物質、あるいは富の栄光といったものは色あせてしまいます。もはやりっぱな服装であるとか、指輪の有無を含めてどんな指輪をしているか、お金持ちであるかどうかといったことはどうでもいいことであり、そういうことで人を差別してはいけないのです。

 

2節から4節までをご覧ください。

「あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、立派な服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

 

ここでヤコブは、えこひいきとはどういうことなのかを具体的な例を取り上げて説明しています。「あなたがたの会堂に」とあるのは、当時のクリスチャンも一緒に集まって礼拝していたことを表わしています。そこにはいろいろな人々がやって来るわけですが、たとえばそこに二種類の人がやって来たとします。お金持ちと貧乏人です。お金持ちは金の指輪をはめ、立派な服装をしています。当時は、指輪をたくさんはめていることが、その人のステータスになっていたようです。そのためある人は、中指を除いた全部の指に指輪をはめ、それでもあきたらずに中には一本の指に二つも三つも指輪をはめていた人もいたそうです。彼らは自分たちが富んでいるという印象を与えるために並々ならぬ努力をしていたのです。そのため、中には指輪を借りてきてはめている人もいました。そのようにすることによって、自分を少しでもよく見せようとしていたのです。

 

一方で、貧しい人もやって来ます。貧しい人は他に着る着物とてないので、みすぼらしい身なりをし、宝石などで飾ることもできません。そのような二種類の人がやって来た時、果たしてあなたはどのような態度をするのかというのです。

 

もしあなたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。でなければ、私の足元にすわりなさい」と言うとすれば、あなたは人を差別しているのであって、悪い考えで人をさばく者になっているのです。

 

この描写は、決して誇張されたものではありませんでした。というのは、初期の礼拝式文書の中に次のような教訓があったからです。

「もしりっぱな着物をきた男か女が入って来たなら、その人がその地区の人であろうと他の地区からやって来た人であろうと、兄弟であり長老であるあなたは、その人にへつらってはならない。もしあなたが神のことばを語り、あるいは聞き、あるいは読んでいるなら、その人たちに座席を与えようとしてみことばの奉仕を中止してはならない。ただ静かにしているがよい。というのは、兄弟たちが多分接待してくれるからである。もし彼らに座席がないなら、兄弟姉妹の中の愛に富んだ人が立って、彼らに座席を提供するであろう。もし自分の地区か他の地区の貧しい男か女が入って来て座席がなければ、長老であるあなたは、たとえあなたが土間に座らなければならないとしても、心からその人のために座席を作ってやるべきだ。人の尊敬を得るためではなく、神から見られるためである。」

 

こういう教訓があったのです。そしてここでは礼拝指導者が、富んでいる人が入ってきた時に礼拝を中止して、特別席を設けるように指図することがないように注意するようにということが暗に示されています。

 

初代教会には、こうした社会的な問題があったことは否めません。主人が自分の奴隷の隣に座ったり、主人が礼拝に到着したら、その礼拝で自分の奴隷が礼拝の指導をしていたり、礼典の司式者であるということがあったからです。そういうことがあれば非常に具合が悪いということは、容易に想像することができたからです。単に生きている道具にすぎないと思われていた奴隷と主人とのギャップは、今では想像することができないほど大きかったに違いありません。さらに圧倒的に貧しく、賤しい人々で満ちていた当時の教会の中に富んだ人が回心者として加えられることは、大きな誘惑であったに違いありません。

 

けれども、たとえ現実的にそのような問題があったとしても、教会は一切の社会的差別が取り除かれたただ一つの場所でした。なぜなら、教会は栄光の主イエス・キリストが臨在しておられるところであり、この方の前には格付けや身分や名声といった一切の差別がないからです。この方を信じて生きる者にとって、そうしたものは一切色あせてしまうからです。自分の罪と汚れの大きさをみるならさばかれても致し方ないような者が救われたのでありますから、そこにあるのはただ神の恵みだけなのです。この神の卓越した栄光の前には、人の功績や価値の差別といったものは何もないのです。

 

にもかかわらず「自分たちの間で差別を設ける」ならば、その人は栄光の主イエス・キリストを信じているというよりも、この世の富に足を取られているのであり、二心のある人なのです。そういう人は、その歩む道のすべてに安定を欠いているのです。そのような人に求められていることは、栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持つことであり、このキリストの目とキリストの心を持つことです。私たちはいつでも、人を栄光の主イエス・キリストを通して見て、判断し、受け入れるべきなのです。

 

Ⅱ.神の選びからくる兄弟愛の実践(5-7)

 

第二のことは、この世の貧しい人たちを神が選んでくださったということです。5節から7節までをご覧ください。

「よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

 

なぜ貧しい人を軽蔑してはいけないのでしょうか。それは、神がこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を相続する者とされたからです。

 

イエス様がナザレで最初の説教をした時、それは次のようなものでした。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)

イエスが遣わされたのは、貧しい人々に福音を伝えるためでした。イエスは絶えず貧しい人々に特別な伝言をもたらしてきたのです。

 

また、イエスの山上の説教の第一番目の祝福は何だったかというと、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)というものでした。イエス様の目は絶えず貧しい人たちに注がれていたのです。それは、富んでいる人はどうでもいいということではなく、貧しければ貧しいほど、信仰による豊かさを求めるからです。しかし、富んでいれば神よりももっと富を求めるようになります。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です 。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われましたが、それはそういう意味です。決して富んでいる人には救いが必要ないということではなく、富んでいる人が砕かれて、主の救いを求めることは難しいということです。

 

しかし一方で、それは神の計画であったともいえるのです。そのように神が弱い者たちや取るに足りない者たちを選んでくださることによって、有る者を無い者のようにしようされたのです。そのことをパウロはこう言っています。

「兄弟たち、あなた方の召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有る者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(Ⅰコリント1:26-28)

 

これは本当に不思議なことです。神はこの世の知恵ある者や力ある者ではなく、普通の人、いや無に等しいような者を選ばれたのです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神はこんなにたくさん普通の人を造られたのだから、普通の人を愛しているに違いない。」と言いましたが、本当にごく普通の人を、いや無に等しい者をあえて選んでくださいました。それは、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者にするためです。

 

それなのに、こうした貧しい人たちをないがしろにするようなことがあるとしたら、それは全く神のみこころにかなったことではないと言えます。むしろ、あなたがたをしいたげるのは、そのように富んだ人たちなのです。イエス様のたとえ話の中に、七を七十倍するまで赦しなさいという教えがありました。1万タラントの借金を免除してもらったしもべが、自分に百デナリの借りのある人に対して首を絞め、「借金を返せ」と言い、その借金を返すまで、彼を牢屋にぶち込みました。(マタイ18:23-35)。当時はそういうことが実際にありました。そして、そのようなことをするのはこうした富んだ人たちなのに、どうしてあなたはそのような人たちにへつらい、貧しい人たちを軽蔑するようなことをするのか、とヤコブは言うのです。

 

Ⅲ.最高の律法(8-13)

 

ですから、第三のことは、そのように人をえこひいきすることは神の律法にかなっていないということです。8節から13節までをご覧ください。まず8節と9節をお読みします。

「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは実を犯しており、律方によって違反者として責められます。」

 

どういうことでしょうか。ヤコブはここで、旧約聖書の中から一つの神の律法を引用して、さらに話を勧めています。その律法とは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という律法です。これはレビ記19章18節のみことばですが、イエス様はこれを最高の律法と言われました。なぜなら、律法のすべては、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という戒めと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という戒めの二つの戒めに要約することができるからです。神を愛することと、隣人を愛するという二つのことが、律法の中心なのです。これが最高の律法です。それなのに、もし人をえこひいきするということがあれば、この律法に違反することになります。そうであれば、罪を犯していることになり、律法の違反者として責められることになるのです。なぜなら、律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、すべての戒めを破ったことになるからです。10節と11節をご覧ください。ここには、「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない』と言われた方は、『殺してはならない』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」とあります。

 

私たちは、どちらかというと、不品行とか殺人、嘘、不正といった罪は大きな罪のように感じますが、人をえこひいきすることはそんなに悪いことではないかのように思っています。しかし、神様の目ではどれも同じ罪であり、特に、この人をえこひいきすることは律法の中でも最高の律法に違反することなので、当然、罪に定められることになるのです。

 

最後に12節と13節をご覧ください。「自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」

 

どういうことでしょうか。貧しい人をさばいて、軽蔑するような態度は、後に、同じようにあわれみがないさばきによって、さばかれるようになるということです。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」(マタイ7:1)と言われました。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも図られるからです。」(マタイ7:2)それと同じように、もし私たちが人をあわれむなら、やがてあわれみを受けることになります。しかし、これほどのあわれみを受けていながらあわれみを示すことがなければ、その人に対するさばきは、あわれみのないさばきとなって自分に返ってくるのです。

 

タスカーという聖書注解者はこう言っています。「義とされた罪人によって地上に示されるあわれみこそ、彼にとって、いつの日か最後の審判のとげがすでに抜き去られていることを知る、その確信の確かな土台である。」

 

このように、神のあわれみを受けた者として、人をえこひいきするのではなく、だれに対しても優しく、親切にしなければなりません。イエスは、ご自身が私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことを願っておられます(ヨハネ13:34)。神がえこひいきも偏愛もされないのなら、私たちも神と同じ高い水準の愛をもって人を愛するべきです。人を軽蔑することは、神のかたちに似せて造られた人を虐待し、神が愛されそのためにキリストが十字架で死なれた人を傷つけることになるのです。さまざまな形の人種差別や偏見は、何千年もの間、人類の疫病として存在してきましたが、このままではいけないのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙3章28節で、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」と言っていますが、私たちはキリスト・イエスにあって一つとされたのですから、そうした偏見や差別を捨て、一つとなることを求めていかなければなりません。

 

先週、アメリカのトランプ大統領がイスラム教国の七か国からの渡航者を一時的に入国禁止にする大統領令に署名して世界中が大混乱しましたが、皆さんはこれをどのように受け止められたでしょうか。これは、テロリストをアメリカ国内に入国させいないようにするための措置ですが、すべてのイスラム教徒が過激派なわけではありませんし、イスラム教徒をそのような目で見ることは間違っています。また、難民をはじめすべての人を受け入れるようにと命じている聖書の教えにも反しています。そうした偏見や差別を捨てて、キリストが私たちを受け入れてくださったように、私たちも互いに愛し合い、受け入れ合わなければならないのです。

 

しかし、それはトランプ大統領だけの問題ではありません。それは、私たちの問題でもあるのです。アメリカではこれまで多くの難民や移民を受け入れてきた結果こうした問題と取り組まなければならない事情がありますが、日本ではそもそもこうした難民を受け入れて来なかったという事実があるのです。昨年、日本に難民申請があったのは7,586件ですが、難民認定者として認められたのはわずか27人にすぎませんでした。一昨年はわずか11人、その前の年は6人です。あまりにも少なすぎます。このような状況で、どうやってトランプ大統領を批判することができるでしょうか。私たちももっと真剣に考えなければなりません。隣人を愛することや、こうした人たちへの偏見を捨てて、受け入れることを・・。

 

1月26日に放送された「奇跡体験!アンビリバボー」は、1968年のメキシコ五輪・男子200メートルで銀メダルを獲得したオーストラリア人・ピーター・ノーマンにスポットをあてた番組でした。  このメキシコ五輪が開催された1968年は、アメリカ黒人が公民権の適用と人種差別の解消を求める抗議運動が継続し、ベトナム戦争の反対運動が起こっていた時代でした。

男子200メートルでは、2人のアメリカ黒人選手が金と銅メダルを獲得。そしてオーストラリア白人選手のピーター・ノーマンが銀メダリストとして表彰台に上がりました。すると、金メダリストのトミー・スミスと銅メダリストのジョン・カーロスが、アメリカの国歌が流れ星条旗が掲揚される間、壇上で頭を下げ、黒手袋をはめた拳を突き上げたのです。これはブラックパワーサリュートといって、黒人差別に抗議する行為ですが、これが波紋を呼び、トミーとジョンは、長い間アメリカスポーツ界から追放。黒手袋をはめた拳を突き上げませんでしたが、ピーター・ノーマンも、抗議運動に同調したということで批判され、地元のオーストラリアからも除け者扱いされ、4年後の1972年に開催されるミュンヘン五輪にあたってピーターは、予選会で3位の好成績を残したにもかかわらず代表にも選ばれませんでした。その後彼は、競技生活を引退し、引退後は体育の教師や肉屋などの職を転々としました。

結局ピーターは2006年、心臓発作でこの世を去りましたが、最後まで国から受けるべき謝罪は何一つとして受けないまま亡くなってしまったのです。ピーターの葬儀ではアメリカからトミーとジョンがやって来て棺を担ぎました。オーストラリアでは無視された存在になっていても、彼らは決してピーターのことを忘れず、2人はピーターの棺に付添ったのでした。

そして、2012年、オーストラリア政府は、ピーターに対し、「何度も予選を勝っていたにもかかわらず、1972年のミュンヘンオリンピックに代表として送らなかった国の過ちと、ピーターの人種間の平等を推し進めた力強い役割への認識に時間がかかった」と謝罪したのです。ピーター・ノーマンは、たった1人の人間でもどれほど世の中を変えることができるかを示した手本になったのです。

 

現代ではブラックパワーサリュート事件は存在しないかもしれませんが、しかし、私たちの心の中にはまだ人をえこひいきする壁が残っているのではないでしょうか。私たちはついつい人を見てしまう弱さがありますが、どんな人でも神に愛され、イエス・キリストにあって一つにされた者として、人をえこひいきすることなく、だれに対しても親切にし、心の優しい人になることを求めていきたいと思います。

ヤコブの手紙1章13~18節 「誘惑に打ち勝つ」

きょうは、「誘惑に打ち勝つ」というタイトルでお話しします。この手紙は、主イエスの異父兄弟であるヤコブから、国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれて手紙です。ヤコブは彼らに、「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさい。」と勧めました。なぜなら、信仰がためされると忍耐が生じるということを知っているからです。そして、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となるからです。ですから、試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて義と認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです。 きょうのところでヤコブは、こうした試練に打ち勝つことから、私たちの内側から起こる誘惑の問題を取り上げ、その誘惑にどのようにしたら打ち勝つことができるのかを語っています。

Ⅰ.どのように誘惑されるのかを知る(13-16)

第一のことは、どのように誘惑されるのかを理解することです。すなわち、人は自分の欲に引かれて誘惑されて、罪を犯すのだということを知ることです。13節から16節までをご覧ください。

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。」

ここでヤコブは、試練から誘惑の問題に話題を変えています。なぜでしょうか。それは、外側からの困難がしばしば、内側からの葛藤を引き起こすからです。苦しみがあると内なる人が弱まり、罪を犯しやすくなります。そして罪を犯すと、平安と喜びが失われ、さらに堕落していくことになります。同じ試練でも、試練に耐えるなら、その人は成長を遂げた完全な人になりますが、試練に負けて罪を犯すと、神の平安を失ってしまうことになります。ですから、人はどのように誘惑され、罪を犯すのかをきちんと理解しておくことはとても重要なことなのです。

ヤコブはここで、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言っています。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもないからです。確かに神は人が試練に会うことを許されますが、その試練を誘惑にしてしまうのは、ほかでも私たち自身なのです。たとえば、学生にとって試験はある意味で試練だと思います。卒業試験や国家試験、進学試験、就職試験などさまざまな試験があり、それに合格しないと前に進んでいくことができないわけです。たとえ結果がどうであっても、そのように取り組んだ経験は自分にとって大きな財産となるでしょう。しかし、そんなにすばらしい機会でも、カンニングをしたり、他の悪い方法で成し遂げようとすれば、折角の貴重な機会も台無しになってしまいます。神は試練を与えることを許されますが、それを誘惑にしてしまうのは自分自身なのです。

最初の人アダムとエバも、神から与えられた試練の機会を誘惑にしてしまいました。神はアダムをエデンの園に置かれ、園の中央の木の実についてはそれを食べてはならないし、それに触れてもならないと仰せられました。それにもかかわらずアダムとエバは、悪魔の誘惑に負けて罪を犯し、取ってはならないと命じられた木から取って食べてしまいました。すると神はアダムに呼びかけて言われました。「あなたはどこにいるのか。」アダムは答えて言いました。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」何ということでしょう。人は本来神と交わり、神の栄光のために造られたのに、その神から隠れて、木と木の間に隠れてしまったのです。そこで神は言われました。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか。」 さあ、それに対してアダムは何と答えたでしょうか。彼はこのように言いました。

「あなたが私のそばにおいたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(創世記3:12)

どうですか、皆さん、アダムは何と言っているんですか。アダムは、自分が園の中央にある木の実を取って食べたのは、あなたが私のそばに置いた女のせいだと、エバのせいにしたのです。エバを自分のそばに置いた神様、あなたが悪いんです、と言ったのです。それで神が、エバに「いったい何ということをしたのか」言うと、女は答えて言いました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12)こういうのを何と言うんですか。責任転嫁、罪のなすり合いと言います。私たちもよく「どうしてあなたはこんなことをしたのですか」と責められると、無意識のうちに、「だってあの人がこんなことを言ったからです」とすぐに人のせいにするのは、今に始ったことじゃないのです。最初に人間が造られた時から、自分の罪を他人のせいにしようとする本能があったのです。

神は、アダムが自分の意志で神に従うことができるようにとエデンの園に善悪を知る木を置かれたのです。アダムがその置かれた目的をよく理解し、その試練を乗り越えたのであれば、彼は神と交わることができ、大きな喜びに浸ることができたはずです。しかし、彼はそれを自分の満足のために用いることによって罪を犯してしまいました。アダムが罪を犯したのは神のせいではなく、自分の問題でした。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれをも誘惑なさることもないからです。それゆえ私たちは神によって誘惑されたと言ってはならないのです。

それでは、人はどのように誘惑されるのでしょうか。14節と15節をご覧ください。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とあります。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。そして、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。何ですか、「はらむ」とは?「はらむ」とは、胎内に子を宿すこと、妊娠することです。それを「子をはらむ」と言います。ここでヤコブは、人が罪を犯すまでのことを、母親が妊娠して赤ちゃんを産むことにたとえています。つまり、赤ちゃんがお母さんのお腹の中に宿り、胎内で成長してやがてオギャーと産声を上げるように、罪もある日突然パッとふって沸くかのように生まれるのではなく、まず欲望が心の中に宿り、それが妊娠することによって罪を生じるようになるというのです。その罪に生きることによって死を生み出すことになるのです。つまり、聖書で言うところの罪は、単に一つの行為として見るのではなく、誘惑の根源に「欲望」があり、その欲望を助長させることによって行動が生まれ、その結果出てくるのが「罪」であるというのです。ですから、罪は目に見える特定の行動となった時に始まるのではなく、欲望が心の中に宿ることによって、それがやがて罪という行為となって表れてくるというのです。ちょうど赤ちゃんが産まれる前にお腹に宿っているようにです。その赤ちゃんのいのちは、実際に生まれる約十カ月前に始まっているのです。

 

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(マタイ5:21-22)

また、こうも言われました。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5-27-28)

人を殺すとか、姦淫するという行為は、実際にそのような行為となって表れるずっと前から、心の中で兄弟に向かって腹を立て、「ばか者」と言った瞬間に、情欲を抱いて女を見た瞬間に始まっているというのです。

ですから、人が罪を犯すのは、神のせいではなく、自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。ここには、「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」とあります。それはちょうど魚釣りのようです。私はあまり釣りをしないのでわかりませんが、魚はそれぞれ好みが違うそうです。同じ餌を付けたらどんな魚でもかかるかというとそうではなく、この魚にはこの餌をと、それぞれ好みが違うのです。たとえば、まぐろはいかが好物のようで、今年のマグロ漁はその好物のいがが少なくてあまり取れなかったそうです。しかし、それぞれの好みに合わせて餌を付けてやりますと、それまで安全な岩陰に隠れていた魚がおびき寄せられることになるのです。それは人間も同じで、人それぞれ好みがあって欲が違いますが、それぞれの欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

本来、欲望そのものは神が与えてくださった良いものですが、本来良いものであるはずの欲望がゆがめられて乱用される時、いろいろな問題が起こってくるのです。たとえば、アブラハム・マズローという学者は、人間には五段階の欲望があると言っています。それは生きていく上で必要な基本的な欲望であり、危険やリスクから逃れたいという安全の欲求、仲間や味方が欲しいという帰属の欲求、さらには、人から認められたい、尊敬されたいという心理的欲求、そして、もっと自分の可能性や能力を発揮したいという自己実現の欲求などです。そして、これらのものは必ずしも悪いものではありません。たとえば、お腹が空いたら食べるとか、のどが渇いたら飲む、メッセージを聞いていると眠くなるといったことは、人が生きていく上で必要なものであり、基本的なものとして神が与えてくださったものです。しかし、このように必要なものでも、必要以上に求めすぎると、逆に健康を損なったり、怠惰になったりするという問題が生じます。また、だれかにつながっていたいという思いも悪くはありませんが、それを必要以上に求めますと、いろいろな問題が起こってくるのです。要するに、本来良いものであるはずの欲望が罪によってゆがめられ必要以上に求めることによって、誘惑されるのです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むのです。これが罪のメカニズムです。

 

いいえ、私は大丈夫です、私はあまり食欲がありませんから。しかし、必要以上にだれかにつながっていたという思いが強かったり、人から認められたいとか、尊敬されたいという思いが強い場合もあります。ここには、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されます。」とあります。人それぞれ欲望のタイプが違うのです。それぞれ欲求に違いがありますが、共通して言えることは、人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるということです。そして、その欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むということです。すべての罪はその人の心の中の欲望から始まるのであって、神によって誘惑されることは絶対にありません。ですから、だまされないようにしなければなりません。自分が罪を犯してしまったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけないのです。

Ⅱ.神の賜物を見つめる(17)

次に17節をご覧ください。

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」

13節のところでヤコブは、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。」と言いました。なぜなら、神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑されることもないからです。そしてここに、もう一つの理由が書かれてあります。それは、すべての良い贈り物、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るからです。

神の賜物は、贈る動機において不純なものはなく、贈り物そのものも完全です。たとえそれが試練であっても、それはクリスチャンの成長のためであり、クリスチャンの益のためなのです。ですから、神は良い方であり、良い物を賜ってくださいます。その確信を投げ捨ててはなりません。その良い賜物の中でも特に最高の賜物は、ご自身の御子です。神は御子イエス・キリストを私たちに与えてくださいました。このような神が私たちを悪に誘惑するというようなことがありましょうか。ありません。神は私たちに最善のものを与えてくださる方なのです。このことを忘れると、私たちはいとも簡単に誘惑に負けてしまうことになるのです。

ダビデ王はそのことを忘れたために罪を犯してしまいました。ダビデがバテ・シェバと姦淫した後に、預言者ナタンが来てこう言いました。

「イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしはあなたに油を注いで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに私、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたのふところにもっと多くのものを増し加えたであろう。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。」(Ⅱサムエル12:7-9)

ここでナタンがダビデに言っていることは、主はあなたにほんとうに多くの良いものを与えてくださったではありませんか。それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすんで罪を犯したのかということです。それはダビデが神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるのかを忘れていたからです。だから誘惑に負けてしまったのです。

私たちも、神から与えられている賜物がどんなにすばらしいものであるかを見失ってしまうと、簡単に誘惑に負け罪を犯すことになってしまいます。そういうことがないように、神はどんなにすばらしい方であるか、神はあなたのために何をしてくださったのか、神があなたに与えられてくださった賜物がどんなに完全で、すばらしいものであるかを、しっかり見なければなりません。

ヘブル人の手紙の著者はこう言っています。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)イエス様から目を離してしまうと、誘惑に陥ってしまいます。しかし、イエス様から目を離さないでいたら、どんな試練にあっても勝利することができます。

アブラハムはどうでしたか。彼は神の召命に従い、自分の生まれ故郷を出て神が示してくださった約束の地に出て行きました。75歳にもなった彼が新しい地に出て行くことは並大抵のことではなかったでしょう。けれども、アブラハムは神のことばを受けた時、すぐに従って出て行きました。それは、神によってもたらされる望みがどれほどすばらしいものであるかを見ていたからです。すなわち、天の故郷にあこがれていたからです。

しかし、彼らが約束の地に入ると、そこで一つの問題が起こりました。それはききんです。それで彼はどうしたかというと、神の約束よりも急に現実的になり、このままではだめだからエジプトに下って行くことにしました。エジプトに行けば何とかなるだろうと思ったからです。しかし、このままいけば自分は殺されるかもしれないと思った彼は、自分の妻を妹だと偽ってパロに差し出したのです。しかし、神が介入してくださり、それがアブラハムの妹ではなく妻であるということをパロに示してくださったので、アブラハムが罪を犯さないで済んだだけでなく、多くの所有物とともにエジプトを出ることができました。それにしても、そんなに信仰に熱心だったアブラハムが、どうして急にそんな愚かなことをしたのでしょうか。それは、神から目を離し、状況を見てしまったからです。

私たちもイエスから目を離した瞬間、私たちの中に迷いが生じ、自分の欲に引かれて、誘惑されてしまうことになります。そのようなことがないように、いつも神に目を留めておかなければなりません。神がどのような方であり、そのために神がどんなにすばらしい賜物を与えてくださったのかをよく考えることです。

「神は、あなたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることのできる方です。」(Ⅱコリント9:8)

あなたは、どうでしょうか。神の恵みに目を留めていらっしゃるでしょうか。神は移り変わりや、移り行く影がない方であり、あなたに最高の贈り物、完全な賜物を与えてくださったことを認めて、感謝しているでしょうか。

Ⅲ. 御霊によって歩む(18)

最後に18節をご覧ください。誘惑に勝利できると主張してきたヤコブは、そのために誘惑がどのようにしてもたらされるのかを見極め、神が与えてくださる賜物がどれほど完全なものであるのかを見つめるようにと勧めてきましたが、ここではもう一つのことを勧めています。それは、神の御霊によて歩むということです。

「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば、被造物の初穂にするためです。」

神のみこころは、私たちが救われることです。神はそれを真理のみことばによって成し遂げてくださいました。真理のみことばによって私たちをお生みになりましたとはそのことです。私たちは、「血によってではなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13)それは、私たちを被造物の初穂とするためです。どういうことでしょうか。

初穂とは、穀物の収穫の初物のことです。古代社会では、それは神にささげられるものでした。それは神への感謝に満ちた供え物でした。それは神のものだからです。私たちが真理のことばによって新しく生まれたのであれば、私たちは神のものなのです。神のものであるということは、神に属している者であるということであって、神が働いてくださるということです。神が働いてくださるのであれば、どんな誘惑にあってもそれに打ち勝つことができます。私たちは生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、新しく生まれ変わるなら、それが可能になるのです。

スイスの避暑地に来ていた一人の婦人が、ある日散歩に出かけると、山腹に羊の囲いがあるのを見つけました。中をのぞいてみると、そこには羊飼いがいて、彼の周りには羊が群がっていました。しかし、たった一匹だけ離れた場所に横たわり、苦しんでいる羊がいました。よく見るとその羊は足が折れていたのです。婦人はこの羊をかわいそうに思い、羊飼いにどうしたのかと尋ねました。すると驚いたことに羊飼いの返事はこうでした。

「私がその足を折ったのですよ。」

それを聞いた婦人の顔には悲しみの色が浮かびました。「私の群れの羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんですよ。私の声に絶対に従いません。私が群れを導こうとしてもついて来ないのです。そして危ないがけや目がくらむような深いへりに迷い込むのです。そういうわけで私はこいつの足を折ることにしたのです。それは、こいつだけならまだしも、ほかの羊をも惑わすからです。でも大丈夫でしょう。こいつは完全な変化を遂げてほかの羊の模範になりますから。最初の日、私がえさを持っていくと、こいつは私にかみつきましたが、しばらく間引き離しておき、数日たって、またこいつのところへ行ってみると、今度はえさを食べるばかりでなく、私の手をなめ、服従のしぐさを見せました。折られた足ももうすぐすっかりよくなるでしょう。この羊が回復したら、どんな羊もこいつほど私になつく羊はいないでしょう。仲間を惑わす代わりに、こいつは言うことを聞かないやつの模範となり、案内役となって、他の羊を私が行こうとする道に従わせるでしょう。要するに、この始末に負えない羊の生活に、完全な変化がくるということです。

それは私たちも同じです。主は私たちの羊飼いです。私たちは主の民、その牧場の羊なのです。生まれつきのままでは誘惑に打ち勝つことはできませんが、真理のみことばによって新しく生まれ、完全な変化が与えられたので、この神の力によって誘惑に打ち勝つことができるようになったのです。生まれたままの姿、自分の肉によっては本当に無力で、肉の欲求に負けてしまうような愚かな者ですが、イエス・キリストにある、いのちの御霊によって、罪と死に追いやろうとする誘惑に勝利させていただこうではありませんか。

ヤコブの手紙1章5~11節 「知恵を求める」

きょうは、ヤコブの手紙1章5節から15節のところから、「知恵を求める」というタイトルでお話しします。このヤコブとはイエスさまの異父兄弟のヤコブです。彼は迫害で国外に散っていたユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書きました。どのように励ましたのかというと、前回の箇所で学んだように、さまざまな試練に会うときには、それをこの上もない喜びと思いなさい、と勧めることによってです。だれも試練を喜ぶ人はいません。それは普通の感情で言えば辛く悲しいものなのです。それなのになぜヤコブは試練を喜ぶように、しかも、この上もない喜びと思いなさいと言ったのでしょうか。それは、試練には目的があったからです。その一つは、試練がためされると忍耐が生じるということです。苦労は買ってでもしろ、と言われますが、なぜなぜ買ってまで苦労をするのかというと、この忍耐が養われるからです。しかし、試練によって信仰がためされている人は苦労を買う必要がありません。すでに与えられているからです。忍耐は試練によって養われるのです。もう一つの目的は、信仰によって生じた忍耐を働かせることによって、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた完全な人になるということでした。つまり、試練を通して信仰が成熟する、大人のクリスチャンになるということです。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と言ったのです。

 

きょうのところには、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と勧められています。これは前回のところで語られた試練を喜ぶということと無関係ではありません。つまり、さまざまな試練にあうとき、それをこの上もない喜びと思うためには知恵が必要であるということです。知恵とは何でしょうか。知恵とは、与えられた情報や知識を自分の生活の中に具体的に適応する能力のことです。しかし、この知恵とは人間的な知恵のことではなく、神からの知恵のことです。というのは、ここでヤコブは「知恵に欠けた人がいるなら、神に願いなさい」と言っているからです。なぜ知恵なのでしょうか。試練の中において、問題解決のための力や恵み、救出を願わないで、どうして知恵を求めるようにと言っているのでしょうか。それは、成熟したキリスト者となるために、神が成長の機会として試練を与えておられることを理解し、それに適切に応答するためには知恵が必要だからです。

たとえば、先日私が乗っている車が故障しました。車屋さんで見てもらったどうもオルタネーターという発電機が古くなったのが原因で、それを交換すれば問題ないということでした。しかし、この前はセルモーターが故障して交換して、今回はオルタネーターが壊れたということは、他にも悪い箇所が出てくることが考えられるので、そちらの方が心配だということでした。そういえば、夏になるとオーバーヒートの赤いランプがつくんですよと言うと、それはエンジンが確実にやられているということでしょうね。となると、交換してもどのくらい乗られるかわかりません、と言われました。オルタネーターだけの問題ならそれを交換するだけで済みますが、交換してもまた別の箇所に問題が生じるとしたら修理代がもったいなくなります。私としてはできるだけ部品を交換して乗りたいと思っているので、「でもお金がないから部品を交換してもらえますか。乗れるだけ乗りますから。」と言おうかと思いましたが、もうちょっと様子を見てからにしようと、「もうちょっと待ってもらえますか。家内と相談してからご返事したいと思います。どうせこれから年末年始に入るので整備もできないと思いますし。」と言って帰宅してみると、つばの週にはエンジンから焼いているようなにおいがして、今にも車が爆発でもしそうな大きな音がでたので、「ああ、これは無理だ」とはっきりしたので、交換することにしました。

私たちの日々の生活の中にはこういうことがたくさんあります。いったいどうしたらいいかと悩むことが多いのです。車の部品を交換した方がいいのか、買い替えた方がいいのか、やるべきなのか、それともやめるべきことは何か、行くべきなのか、留まるべきか、話すべきか、黙っているべきか・・・本当に悩みます。そのような時に必要なのがこの知恵なのです。人は例外なくさまざまな試練に会います。ちょうど車のエンジンがかからないように仕事でもエンジンがかからない時があります。人間関係でもさまざまなトラブルが起こります。車のブレーキがきかないように自分自身のブレーキがきかないことがあります。感情のコントロールをすることが難しい時があるのです。また予期しない事が突如として起こったりします。そのような時、自分の知識や経験ではどうしたらいいかわからないことがあるのです。そのような時に必要なのが、この神の知恵なのです。きょうは、この知恵を求めることについて三つのことをお話ししたいと思います。

 

Ⅰ.神に願いなさい(5)

 

まず第一に、神に願いなさいということです。5節をご覧ください。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」

今までは自分の知恵や知識、経験で大丈夫だったかもしれませんが、しかし、それがきかなくなったとき、どうしたらいいかわからないとき、いったいどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブは、「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。」と言っています。なぜなら、その知恵は上から来るからです。ローマ16章27節には、神は知恵に満ちた方だとあります。

「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

神はこの天と地を造られた創造者です。その知恵と力をもってすべてのものを造られました。そして、神は今も知恵と力をもって万物を保持しておられます。神の知恵は私たちの知恵よりも優れていて、私たちが思う以上、考える以上の最善の道を持っておられます。私たちが試練に会い、どうしたらいいかわからず、八方塞がりになったとき、神に知恵を与えてくださるように願わなければなりませな。そうすれば、与えてくださいます。

Ⅰコリント10章13節には、「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」とあります。神は耐えられないような試練に会わせるようなことはなさいません。神は耐えることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださるのです。

1980年にアメリカの化学メーカー3M社から、糊付き付箋紙ポトスイット(Post-it) が販売されましたが、それがどのようにして発明されたかご存知ですか。それは失敗作から生まれた偶然の産物だったと言われています。この研究所に勤めていた研究員のスペンサーさんは、強力な接着剤を開発しようと研究していたのですがなかなかうまくいかず、失敗ばかりを繰り返していました。その研究の中でよくくっ付くけれどもすぐに剥がれてしまう奇妙な接着剤ができたのです。何かに使えそうだけれども何に使えるかがわからない、しかも、本来の目的であった強力な接着剤を作れないでいたのでとても苦しい状態でした。それから5年くらいした後、いつものように教会に行って聖歌隊として讃美歌のページをめくると、目印にしていたしおりがサッと落ちました。その瞬間彼の頭に「これだ!!」とひらめきました。よくくっつくがすぐに剥がれるものが役に立つものがここにあったと付箋紙を思い出したのです。今ではどこの家でも、どのオフィスでも使われて重宝していますが、このような失敗から新しい発見が生まれたのです。

それは試練も同じです。試練そのものは辛く悲しいように思われますが、そこから教えられることがたくさんあります。神は試練とともに脱出の道を備えておられるのです。ですから、試練に会ってもあきらめないで、その試練の目的は何か、神はそこから何を教えようとしているのかを求めなければなりません。そのためには知恵を求めることが大事なのです。

ヤコブはここで、「その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい」と言っています。神はだれにでも惜しげなく、とがめることなく与えてくださる方です。あの人は特別で、自分はそうではないとか、神はあの人の祈りは聞かれるが、私の祈りは聞いてくださらないということはありません。だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださいます。なぜなら、神は私たちに神の御子を与えてくださったからです。ローマ8章32節にはこうあります。

「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

ありません。最愛のひとり子を与えてくださったのであれば、どうして御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないわけがあるでしょう。子どもが魚をくださいというのに、ちょっと格好が似ているからと、魚の代わりに蛇を与えるような親がいるでしょうか。卵をくださいというのに、さそりを与えるような親がいるでしょうか。してみると、私たちは悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っています。であれば、なおのこと、天の父が、求める者たちに、どうして聖霊を、知恵を与えてくださらないことがあるでしょうか。ないです。求めるなら、与えられるのです。ですから、どうぞ神に求めてください。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)すばらしい約束ですね。求めるなら受けるのです。ですから、キリストの名によって父なる神に求めてください。そうすれば受けるのです。

皆さんはどうでしょうか。今どのような試練の中にあるでしょうか。どのような苦しみがあるでしょう。どうしたらいいかわからない、八方塞がりの状態ですか。そうであればどうぞ祈ってください。どうしたらいいのか、何が神のみこころなのか、祈ってください。そうすれば、きっと与えられます。自分でも思いもつかなかったような知恵が与えられます。それは意外とシンプルなことかもしれません。気付いていないことかもしれない。でも神はそんな気づきを与えてくださるでしょう。

Ⅱ.信じて願いなさい(6-8)

次に6節から8節までをご覧ください。

「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」

もし、知恵に欠けた人がいて、その人が神に願うなら、神はその知恵を与えてくださいます。しかし、そこには一つの条件があります。それは、少しも疑わずに、信じて願うということです。「信じます、お願いします」と言っておきながら、心の中で、「でも無理だよな、どう考えてもできるわけがない」と思っているとしたらそれは半信半疑ということであり、主から何かをいただけると思ってはなりません。信じるとは疑わないことです。そこには疑う余地がありません。

ヘブル11章6節をご覧ください。そこには、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるということを、信じなければなりません。」とあります。ここで神に近づく者に求められていることは何でしょうか。それは、神がおられるということと、神を求める者には報いてくださるということを信じることです。そうでなければ神に近づくことはできません。ですから、神に近づく者には、信仰が求められているのです。

イエスさまはこう言われました。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:22)

ただ信じるのでなく、疑わずに信じることが大切です。そうすれば、山も動きます。私たちの人生にはいろいろな山があります。この問題はどうしても動かないと思える山があります。しかし、心の中で信じて疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになると主は言われました。

皆さん、私たちの祈りが聞かれるには、心の中で疑わずに信じることが重要です。「主よ、信じます。」これだけです。「主よ、信じます。でも、これは考えられないことです。」とか、「主よ、信じます。しかし、あまり期待はしていません。」というのでは、主も答えようがありません。どっちなの?信じているの、信じていないの、はっきりしてちょうだいと言われそうです。信じますと言った後で、「しかし」とか「もし」ということばがつくと、すぐに疑いが生じてきます。さっきまで信じていたのに、すぐに疑いが始まるのです。そういう人は何に似ているでしょうか。そういう人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。波は何に左右されるかというと、風ですね。風が吹くと揺れ動きます。強風になると大波になります。

私たちの心はどうでしょうか。私たちの心は何に左右されるでしょうか。状況です。状況が安定していると私たちの心も落ち着いていますが、状況が悪くなったとたんに、私たちの心も揺さぶられます。問題が大きくなればなるほど、私たちの心も大きく揺れるのです。私たちは目に見えることによって右往左往してしまうのです。しかし、信仰は見えるものではなく、見えないものに目を留めます。なぜなら、「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)だからどんなに状況が悪くても信仰によって歩むなら、心が安定するのです。しかし、信じていても「でも」とか「もし」という疑いがあると、不安定な心になってしまいます。それは二心のある人で、そのような人の歩みは、当然不安定なものとなります。

あるとき、イエスさまのもとに、悪霊につかれた息子を連れて父親が助けを求めてやって来ました。この息子に霊がとりつくと、所かまわず彼を押し倒し、あわを吹いたり、歯ぎしりしたりするので、どうしたらいいかわからず弟子たちのところに連れて来たのですが、弟子たちにはこの霊を追い出すことができませんでした。すると、イエスは彼らの不信仰を嘆かれ、「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねると、父親は、「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も日の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言うと、イエスさまはこう言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)するとこの父親はすぐに、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言って、息子から悪霊を追い出していただきました。

私たちもすぐに疑って、「もしおできになるなら」と言ってしまう者ですが、「信じます。不信仰な私を助けてください。」と言って、少しも疑わないで信じる者でありたいと思います。油断すると人はすぐに不信仰に陥ってしまいます。それが人の性(さが)というか、生まれつきの性質なのです。状況が悪くなればなるほど、疑いしか出てきません。しかし、そのような時こそ信仰を働かせ、信じて願い求める者でありたいと思います。

Ⅲ.神に望みを置いて(9-11)

最後に9節から11節までを見て終わりたいと思います。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」

ここには、貧しい境遇にある人は、自分の高い身分を誇るように、また、逆に、富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持つようにと勧められています。これはどういうことでしょうか。

この手紙は迫害によって国外に散っていたユダヤ人クリスチャンに宛てて書かれました。彼らは迫害や試練によって家や財産を失い、貧しくなっていました。それは経済的な貧しさだけでなく、社会的にも身分が低くされることも含まれていました。しかし、そのような貧しさの中にいても、自分の価値を低くみる必要はありません。なぜなら、そのような人たちは、神によって高い身分にされているのですからです。すなわち、人の価値は家柄や社会的な地位や物質的な豊かさによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされる霊的資源によって決まるのです。イエス様を信じて神の国に入れられているのであれば、神の子としての特権が与えられているのですから、最高の身分が与えられているということであって、それを誇ればいいのです。逆に、どんなに富んでいたとしても、この特権を受けていなければ永遠に失われた者なのであって、それは最も悲しいことであり、哀れです。なぜなら、富んでいる人は、草の花ようにすぐに過ぎ去ってしまうからです。太陽が熱風を伴って上ってくると、草を枯らしてしまうのです。すると、その鼻は落ち、美しい姿は滅びてしまいます。そのことを、イザヤはこう言っています。

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:6-8)

皆さん、人は草です。その栄光は野の花のようなんです。すぐにしぼんでしまいます。すぐに枯れてしまう。どんなにきれいに咲き誇っていたとしても、やがて滅びてしまいます。それほどはかないものなのです。そんなはかないものでどんなに誇ったところで、それがいったい何になるというのでしょうか。やがてすぐに消え去ってしまいます。しかし、主のことばはとこしえに堅く立ちます。そこに目を留めることができなければ、人生はほんとうに空しいものなのです。

パウロはテモテにこのように書き送りました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならないと実に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

これが神の知恵です。このような正しい価値観は、神の知恵によらなければ持つことはできません。神様を信じるまでは物質的な豊かさこそ人生の豊かさであるかのように思い込んでいましたが、イエス・キリストを通して永遠のいのちがあることを知った時、人生の豊かさはそうした物やお金の豊かさにあるのではなく、ただ神に信頼し、神に望みを置くことによってもたらされる霊的資産いかんによってはかられるものであることがわかりました。それは神の知恵によるのです。ですから、この神の知恵を持つということが私たちの人生にとってどれほど重要であるかがおわかりかと思います。

この手紙の受取人であったユダヤ人クリスチャンたちは、試練によって貧しい境遇になったかもしれない。しかし、低くされるということは謙遜にされるということであり、謙遜にされることによって、人の価値が何なのかがはっきりわかるようになりました。ですから、試練は感謝なのです。試練に会うときは、それをこの上もない喜びだと思いなさいと言われているのです。そのためには、神の知恵が必要です。神の知恵によって、そのことにハッと気づかされるのですから・・。

 

あなたは何に信頼を置いていますか。あなたが信頼を置いているものは、本当に頼りになるものでしょうか。私たちが信頼しなければならないのは神ご自身です。見えるものは一時的ですが、見えないものは永遠に続くからです。ここに望みを置いて歩んでまいりましょう。そのために、神の知恵が与えられるように、少しも疑わずに、信じて願い求めましょう。

ヤコブの手紙1章1~4節 「さまざまな試練に会うときは」

あけましておめでとうございます。新しい年をどのような思いで始められたでしょうか。この新しい年も主のみこころに歩めるように、みことばから共に学んでいきたいと思います。きょうからヤコブの手紙に入ります。それでは早速見ていきましょう。

 

Ⅰ.この上もない喜びと思いなさい(1-2)

 

まず、1節と2節をご覧ください。

「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

この手紙を書いたのは、ヤコブです。ここには、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とあります。聖書には「ヤコブ」という名前の人が四人出てきます。一人はゼベダイの子ヤコブです。彼はイエスの弟子で、ヨハネの兄弟でしたが、サマリヤの人たちがイエスさまを受け入れないと、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」(ルカ9:54)と言ったことから、「ボアネルゲ」(雷の子)というあだ名が付けられました。このヤコブではありません。他にイエスの弟子でアルパヨの子ヤコブ(ルカ6:15)という人がいますが、彼でもあません。もう一人、イエスの弟子でユダという人がいますが、彼をイスカリオテ・ユダと区別するために「ヤコブの子ユダ」(ルカ6:16)と紹介していますが、このヤコブでもありません。ということは、このヤコブというのは、イエスの実の兄弟ヤコブのことです。兄弟といっても、イエスさまは聖霊によって処女マリヤから生まれましたが、このヤコブはマリヤが結婚してヨセフとの間に生まれた子どもでしたので、異父兄弟ということになります。彼は初めイエスさまを信じていませんでした(ヨハネ7:5)が、イエスさまが復活されてから彼に直接現われてくださったことで、イエスさまを信じ、キリストの弟子となりました。そして教会の指導者の一人として重んじられるようになり、使徒の働き15章に出てくる第一回エルサレム会議では、異邦人も割礼を受けなければ救われないのか、という議題において、最終的な決定を下しました。ガラテヤ書2章9節でパウロは、「柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネ」と言っているように、彼はエルサレム教会の柱として重んじられていたことがわかります。

 

それほど重んじられていた人物であるならよほど偉い人だったのではないかと思われますが、彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と紹介しています。彼はイエスの異父兄弟でしたから、自分を「神の子イエス・キリストの実の兄弟であったヤコブより」と紹介することもできました。あるいは、「エルサレム教会の初代牧師です」ということもできたはずです。それなのに彼は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」と言ったのです。なぜでしょうか。それは彼がキリストに対して正しい理解を持っていたからです。確かに彼は主イエスの実の兄弟だったかもしれない。約30年の間同じ家で生活し、一番近くで人間イエスをつぶさに見て来たかもしれません。しかし、このイエスがどのような方であるのかをはっきり知ったのは、イエスさまが復活して彼に直接現われてくださったことによってでした。それまでは信じられなかった。イエスがどのような方であるのかを全く理解していませんでした。イエスさまが直接彼に現れてくださったことによって、イエスが初めてわかった。そして、復活されたイエスは神であるということ、それは父なる神と等しいお方であるということです。

 

イエスさまは、「わたしと父とは一つです。」(ヨハネ10:30)と言われました。また、「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14:9)と言われました。でも、それがどういうことなのかがさっぱりわからず、この人は気が狂っていると思っていたのに、イエスが復活されたことでこれまでイエスさまが語っておられたことが自分の中で全部つながったのです。そして、この方はまことに神であったということがわかったのです。この方は神と等しい方であり、この方こそ救い主であるということがわかったのです。そして、この方がどのような方であるかがわかったとき、彼は確かにイエスさまとは異父兄弟であり、エルサレム教会の柱として重んじられていた者ですが、そんな自分の立場とか、環境などといったことは何の関係もない、ただのしもべにすぎないということを自覚することができたのです。この「しもべ」という言葉は、ギリシャ語で「デューロス」という言葉ですが、それは奴隷、しかも最も低い奴隷のことを意味しています。彼は、キリストがすべての人を救う救い主であると理解したことで、自分はその方に仕えるしもべにすぎないと思ったのです。

 

このヤコブが、国外に散っている十二の部族に書き送っています。この国外に散っている十二部族とは、ユダヤ人クリスチャンたちのことを指しています。初代教会の時代、神のことばが、ますます広がって行き、エルサレムで、弟子たちの数が非常に増えて行くと、多くのユダヤ教の祭司までもが次々に信仰に入りました。これはまずいとユダヤ教の指導者たちがいろいろと議論をふっかけてくるのですが、弟子たちは知恵と御霊によって語っていたので、また、それに伴う数々の不思議なわざやしるしも行ったので、全く太刀打ちすることができませんでした。そのような中で最初の殉教者が出ました。それがステパノです。ユダヤ教の指導者たちは民衆をそそのかし、彼がモーセと神を汚すことを聞いたと言わせて、石打ちにしたのです。それでエルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされました(使徒8:2)。散らされた人たちはみな、みことばを宣べながら、巡り歩きました(使徒8:4)。このようにしてユダヤ人クリスチャンたちは国外へと散らされて行ったのです。そして、彼らは行く先々でも激しい迫害に会い、苦難を余儀なくされました。それはこれまで学んできたヘブル人への手紙でも見たとおりです。そこでヤコブは、迫害によって国外に散っているユダヤ人クリスチャンを励ますためにこの手紙を書き送ることにしたのです。この手紙はペテロの手紙、ヨハネの手紙、ユダの手紙と合わせて「公同書簡」と呼ばれていますが、その時代の人々ばかりでなく、今の時代に生きている私たちクリスチャンたちに対する励ましでもあるのです。

 

その国外に散っている十二の部族に宛てて、ヤコブは何と言って励ましているでしょうか。2節をご覧ください。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

「私の兄弟たち」という言葉は、「愛する兄弟たち」「兄弟たち」という言葉と合わせ、ヤコブが好んで使っている言葉です。この手紙の中に19回も使われています。恐らく彼は、このように言うことで、主にある兄弟として、自分も同じ立場にあるということを伝えたかったのではないかと思います。私たちも自分と同じ立場にある人から言われると、「ああ、私だけじゃないんだ」「自分と同じようにみんな辛い経験をしているんだ」という気持ちになって慰められることがあります。しかし、彼はそのように呼びかけて彼らに同情を示すだけでなく、彼らが前に向かってしっかりと進んで行くことができるように、具体的な励ましも語っています。

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」

 

ここでヤコブは、「もしさまざまな試練にあうときは」と言わないで、「さまざまな試練に会うときは」と言っています。それは、クリスチャンは必ず試練に会うということを前提に、そのようなときはどうしたら良いのかを述べているのです。信仰を持ったら苦難に会わないということはありません。問題が全く起こらないということはないのです。それは、非常に聞こえはいいですが現実的ではありません。聖書が教えていることは、「試練に会うときは」です。しかもその試練というのは一つや二つの試練ではなく、「さまざまな試練」と言われています。仕事や勉強がうまくいくこともあれば、うまくいかない時もあります。人間関係はどうでしょうか。平和な時もあれば、誤解されたり、裏切られたり、争ったりすることもあります。健康でもそうです。体調が良くて快適に過ごせる時もあれば、病気やガンにかかったりすることもある。また交通事故に会ったり、階段から落ちてケガをすることもあります。愛する人と死別するということもあります。長く生きれば生きるほどいろいろな苦難や問題に会うのです。これが、私たちが生きているという現実なのではないでしょうか。キリストも「あなたがたは、世にあっては患難があります。」(ヨハネ16:33)と言われました。パウロも「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いました。

私たちはこうして新年最初の日を迎えていますが、本当にすがすがしい気分になります。すべてが新しい。今年こそ日記を書くぞと思いますが、三日も過ぎればすっかり忘れます。新鮮な思いを脅かすような試練が襲ってくるのです。

 

それでは、こうしたさまざまな試練に会うとき、私たちはどうしたらいいのでしょうか。ここでヤコブはこのように言っています。「それをこの上もない喜びと思いなさい。」何か書き間違ったのではないかと思うような内容です。試練に会うとき、私たちは辛く、悲しく思います。心が折れて落胆します。人生が終わってしまったのではないかと思う人もいます。ある人は、神がいるならどうしてこんな辛い目、苦しい目に遭わせるのか。神は私を愛していないのか、私がどうなっても構わないというのかと思う人もいるかもしれません。試練は、それほど辛く悲しく思われるものなのです。それなのにヤコブはここで「それをこの上もない喜びと思いなさい」と言いました。いったいどうしてでしょうか。

 

Ⅱ.信仰がためされると忍耐が生じる(3)

 

3節をご覧ください。「信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」どういうことでしょうか。これは、クリスチャンがこうしたさまざまな試練に会うのには目的があるということです。その目的とは何かというと、信仰がためされると忍耐が生じるということです。

 

ある若い牧師が年配の牧師に言いました。「先生。忍耐が身に着くように、私のために祈ってください。」

するとその年配の牧師が彼のためにこう祈りました。「神さま。どうかこの人に病気を与えてください。人間関係の問題も。あ、そうです、それだけでなく経済的にも困難を与えてください。貧しさを通ることができますように。ありとあらゆる苦しみを与えてください・・・。」

すると、その若い牧師が言いました。「先生、そうじゃなくて、私が祈ってほしいのは忍耐が身に着くようにということです。」

するとその年配の牧師が言いました。「忍耐は試練を通して身に着くものなんだよ。」

何とも含蓄のある言葉ではないでしょうか。長く生きた人の経験からにじみでてくる知恵です。忍耐は試練を通して養われ、その忍耐を完全に働かせることによって、何一つかけたところのない、成長を遂げた、完全な人になることができるのです。

 

皆さん、大人と子どもの違いは何ですか。それは忍耐できるか、できないかということです。子どもは忍耐することができませんが、大人はできます。こうして毎週忍耐して私の話を聞いてくれていますが、大人だなぁと思います。その忍耐をいったいどうやって身につけることができるのでしょうか。試練です。信仰がためされることによってです。

 

忍耐という時にすぐに思いつくのは、旧約聖書に出てくるヨブです。このヤコブ5章10節、11節には、「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によってかたった預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられるということです。」とあります。ヨブは忍耐の人でした。彼がどのように忍耐したのか、その結末はどうだったのかをよく見るようにと言っています。ヨブはどのように忍耐したのでしょうか。

 

彼は神の祝福によってあらゆる面で豊かさを受けた人でした。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。七人の息子と三人の娘がおり、羊は七千頭、らくだは三千頭、牛五百くびき、ろば五百頭を所有し、非常に多くのしもべを持っていました。それで彼は東の人々の中で一番の大富豪でした。ところがある日、サタンが神のところにやって来て、こう言いました。「神さま。ヨブはあなたを信じているように見えますけどあればうわべだけです。彼があなたを信じているのはあなたが彼を祝福しておられるからで、もし試練に会ったらたちまちあなたを信じなくなるでしょう。だすから、どうぞ彼の財産を打ってください。そうしたら、彼はあなたをのろうに違いありません。」

「いや、ヨブはそのような人ではない。彼は心からわたしを信じている。だから、わたしを呪うようなことは絶対にない。」

「だったら神様、私に試させてください。」

「では、彼のすべての無持ち物をおまえの手に任せよう」ということで、サタンはまず彼の財産を奪います。しかし、サタンは財産だけでは足りないと、今度は子どもたちも奪っていきます。ヨブは当然嘆き、悲しみ、着物を引き裂きながらも、神の前にひれ伏して、こう言いました。

「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21)

ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼしませんでした。するとサタンは、今度は悪性の腫物でヨブの全身を打ちます。足の裏から頭のてっぺんまで、悪性の腫物ができて、もう体中かゆくて、かゆくてしょうがなく、土器のかけらで自分の身をかくほどで、体中が傷だらけになってしまいました。それを見た彼の妻はこう言いました。

「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)

ひどい妻ですね。こういう時こそ助けてほしいのに、神をのろって死になさいなんて、とんでもないことを言います。それでなくともさまざまな試練で苦しいのに、こうした妻のことばはどれほど彼を打ちのめしたかと思うのですが、それでも彼はこういうのです。

「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けたのだから、わざわいをも受けなければならない。」(ヨブ2:10)

そう言って、彼はそのようになっても、罪を犯すようなことをしませんでした。

すると、今度は友達がその様子を見て最初は同情的だったのですが、だんだんヨブにこんなに試練が襲いかかるのは、ヨブに何か問題があるからた、と言います。だれでも考えることですが、このような考え方はもっと自分を苦しめることになります。

しかし、それでもヨブは忍耐して神に従うと、最後に神ご自身が来られて彼に語りました。するとヨブは主に答えて言いました。

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」(ヨブ42:5-6)

ヨブは自分がなぜこうなったのかわかりませんでした。最後まで分からなかった。なぜわからなかったのかというと、今まではうわさでしか神のことを聞いていなかったからです。しかし、今は違います。今はこの目で神を見ました。この耳で神のことばを聞きました。ヨブは、様々な試練を通して忍耐を学び、神がどれほど慈しみ深い方であるのかを体験を通して知ったのでした。

すると神は、ヨブを祝福しました。主はヨブの祈りを受け入れられ、彼の所有物も二倍に増やされました。主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福してくださったのです。

聖書は、このヨブの結末を見て、主が彼にしたことがどういうことだったのかを見なさいというのです。耐え忍んだ人は幸いなのです。

 

それは私たちの人生も同じです。いろいろな問題が起こります。さまざまな試練に会います。聖書には、イエスさまを信じたら試練がなくなるとは書いてありません。もし試練に会うならではなく、会うと言っているのです。いろいろなことが起こってきます。でも、神がヨブにした結末を見て、忍耐するようにと励ましているのです。試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その忍耐を完全に働かせることによって、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になることができるからです。このことからもわかるように、神が私たちに試練を与えるのは、私たちを苦しめるためではありません。私たちがそれを通って忍耐を身に着け、完全な者となること、つまり、私たちの信仰の成長のためなのです。試練に会うことで私たちは自分の弱さを知ります。それまでは、自分は何でもできると思っています。しかし、試練に会うことで、自分にはどうすることもできないことがたくさんあるということを知るのです。その時私たちは何に信頼したら一番幸せなのかを学ぶことができます。そして神に信頼し始めるのです。問題の解決のために祈り始めます。そして、神からの解決を得ようと神のことばである聖書を開き始めるのです。もっと神に近づこうとします。そうすることで神は、私たちを霊的に強くしてくださるのです。

 

Ⅲ.完全な者となります(4)

 

最後に、その試練の結果を見て終わりたいと思います。4節をご覧ください。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

試練の目的は信仰が試される時、その信仰が本物であるかどうかを証明することでした。信仰が本物だから救われるのではありません。救われるのはイエス・キリストを信じる信仰によってです。あなたがイエスさまを自分の罪からの救い主、人生の主として信じたのであれば、あなたは救われるのです。だんだん救われるのではありません。信じたその瞬間に救われます。死んだらすぐに天国行きです。そこで神の国を相続するのです。この事実は変わりません。もしあなたがイエスを信じたのであれば、あなたはもう救われているのです。そして、だれも父の手からあなたを奪い去る者はありません。神はその保証として御霊を与えてくださいました。エペソ1章14節にそのように約束されてあります。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」ですから、神の御霊、聖霊を受けているなら、必ず御国を受け継ぐのです。そして救われている者は、この神の聖霊によってどんな試練に会っても耐え忍ぶことができるのです。なぜなら、忍耐は御霊の実であるからです。忍耐は生まれながらの人にはありません。でもキリストを信じるなら、忍耐する力が生まれてきます。私たちは弱く、自分の力では忍耐することができませんが、私たちの内側におられる聖霊の力によって忍耐する力を与えてくださるのです。

 

その忍耐を完全に働かせるなら、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者になることができます。ここにある「完全な者」とは全く罪のない人になるということではありません。完璧な人になるということでもありません。ここで言われている完全な者になるというのは、成熟した者という意味です。言い換えるならば、それは大人のクリスチャンになるということです。皆さん、私たちはどうしたら成熟した大人のクリスチャンになれるのでしょうか。信仰がためされることによって生じた忍耐を完全に働かせることによってです。そうすれば、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた完全な人になるのです。

 

それはちょうどスポーツマンのようです。スポーツマンは練習量が多いと「嫌だな」と思うものですが、コーチの言うことを信じて忍耐しながら練習に励むことによって、以前の自分よりもはるかに強くなっていることがわかると、勝利を得る厳しい道に自分がしだいにふさわしい者になっていくと確信できるのでうれしくなります。それはクリスチャンも同じです。クリスチャンも信仰がためされることによって忍耐が生じ、その忍耐を完全に働かせることによって、自分が救いにふさわしい者であることがわかり、自分の信仰が強められていることを実感できるので喜びに溢れます。サタンは人を最悪に落とすために誘惑しますが、神は人から最善を引き出すために試練を与えるのです。ですから、ペテロが言っているように、信仰の試練は、火を通して精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの表れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかるのです。

 

イエスさまは、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10~12)と言われました。

ヤコブの教えは、イエスさまが教えられたことがベースになっています。イエス様は、義のために迫害されている者は幸いだ、と教えられました。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。そのことによって、その人が天の御国の民にふさわしい人であることがわかります。だから、喜びなさいと言われたのです。いや、喜び踊りなさいと言われました。

皆さんは喜んでいますか。喜び踊っていますか。皆さんが試練に会うとき、皆さんは天の御国が与えられていることを知ることができます。神の子とされ、神の国の相続人とされていることをはっきりと知ることができるのです。すばらしいことではありませんか。だから、さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思わなければなりません。

 

パウロは、ローマ書の中でこう言っています。

「そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」(ローマ5:3-5)

 

すばらしい約束ですね。患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出します。試練の目的は信仰をためすだけでなく、私たちの信仰の成長のためでもあるということ、大人のクリスチャンにするためでもあるのです。

 

ですから、私たちもどんな試練に会っても、主に信頼して前進していきましょう。この新しい一年の歩みの中でもさまざまな試練に会うでしょう。そのとき私たちはどうすべきでしようか。それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、私たちは知っているからです。その忍耐を完全に働かせましょう。そうすれば、何一つ欠けたところがない、成長を遂げた、完全な者となることができます。この一年が信仰の成長を遂げる年となりますように。さまざまな試練に会う時、それをこの上もない喜びと思うことができますように。主イエスの御名によって祈ります。